「私、浮気するから。」
結婚が決まった時、婚約者の拓也に言われた言葉がこれだった。こんなことを結婚前に言われて、それでも別れないなんて、きっと周りからはバカだと思われるだろう。でも私はどうしても結婚したかった。そのせいでたくさん辛い目にもあったけれど、後悔はしていない。
私、現在45歳のシングルマザー。初めての結婚は26歳の時だった。でも結婚して2年経っても妊娠せず、検査を受けたところ、私の方に問題があることが判明した。治療しても妊娠の確率は10%から20%と診断されたのだ。
子供好きだった夫はひどく落ち込み、その診断から半年後、離婚を切り出された。子供が持てないかもしれないという現実を受け止めきれずにいた私にとって、離婚の言葉は完全に突き落とされるような絶望だった。わずかな可能性にかけて治療もしたいと必死に訴えたけれど、義両親までが「離婚しろ」「あの子を不幸にする気か」と言ってきて、私は泣く泣く離婚を受け入れた。
それから1年。まだ傷も癒えないままだった私に声をかけてきたのが、会社の先輩の拓也だった。営業部でトップ3に入る優秀なイケメンで、当然のように女子社員にモテていた。私にとってはまるで別世界の人間だった。しかも私は「自分は男性と付き合ってはいけない」という強い思いを抱えていたから、彼に特別な興味を持つことなんてなかった。
でも、そんな私の態度が逆に拓也の興味を引いたらしい。女性の扱いに慣れた彼からのアプローチに、いつしか私は心を許してしまい、数ヶ月後には付き合うことになっていた。
しかし、拓也にとって私は「その他大勢の一人」に過ぎなかった。私と付き合っている間も、彼には複数の女性の影があった。「この人といても不毛だ」と別れを決意した時、私は妊娠していることに気づいたのだ。
あの時の驚きと喜びといったらなかった。何度も嘘じゃないか、夢じゃないかと疑った。病院で検査結果が出ているのに、わざわざ市販の検査薬を買ってきてもう一度確かめたほどだ。私は母になれるんだ。そう思うと涙が止まらなかった。
しかし、少し落ち着いてくると、今度は別の不安が襲ってきた。この命を絶つことなどありえない。でも、どうやって一人でこの子を育てていけばいいのだろう。シングルマザー支援の制度はいろいろあるだろう。それでも、「自分に本当に育てられるのか」という不安が押し寄せてきて、眠れなくなってしまった。
拓也に相談しようか。でも、彼なら絶対に「子供はいらない」とか「別れる」とか言うに決まっている。相談できる友達もいなかった私は、迷いに迷った末、兄に連絡した。兄は結婚3年目で、私の両親と同居しながら夫婦二人の生活を楽しんでいた。
私の話を聞いた兄は、妊娠したことをとても喜んでくれた。「何かあったら俺たちがサポートするから、産みなよ」と言ってくれたのだ。
兄の言葉に勇気をもらい、私は拓也に打ち明けることを決心した。彼が私の部屋に来た時、ついに勇気を振り絞って伝えたのだ。
「拓也さん、私、子供ができました」
すると彼はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「それって、女か?」
「ま、まだ分からないけど……。17週くらいになったら分かるって」
「あ、そう。まあ、男が良かったけど。女でもいいか。向こうでも取ればいいんだもんな」
拓也はわけのわからないことを呟いたかと思うと、唐突に聞いてきた。
「で、俺と結婚したいの?」
「そりゃ、もちろん。子供には父親がいた方が絶対にいいし……」
ドキドキしながらそう答えると、彼は一言「分かった。結婚しよう」と言った。
「え、いいの?」
驚く私に、拓也は言った。
「結婚してやるけど、俺、浮気するから」
あまりの言葉に呆然としていると、彼は追い打ちをかけるように続けた。
「それが嫌なら結婚はなし。認知もしないから」
冷酷な目を向けてそう言い放つと、拓也は私が何も言えないうちに、そのまま出て行ってしまった。
パニックになりながら、私は必死に考えた。拓也は私を愛していない。いや、最初から愛してなんかいなかった。彼にとって私は都合のいい女でしかない。この先、彼が女遊びをやめることなんて絶対にないだろう。
でも、子供には父親が必要だ。シングルマザーとしてやっていく自信もない。いろんな思いが頭の中を駆け巡り、なかなか考えはまとまらなかった。
でも、こうも思った。この子は奇跡の子だ。私にはこの子を誰よりも幸せにしてあげたい。拓也のことはもう愛していない。それでも、この子には父親がいた方がいいに決まっている。今後何が起こるか分からないけれど、この結婚にかけてみよう。
私はそう決心し、34歳で拓也と再婚した。
拓也が宣言した通り、彼の浮気は途切れることがなかった。覚悟はしていたものの、娘のルリが生まれても全く生活を変えない拓也に、時には不満を漏らしてしまうこともあった。
すると、彼は必ず切れて怒鳴った。
「お前みたいな価値のない女と結婚してやってんだろうが。黙って子育てしてろ!」
時には暴力に発展することもあった。
同居していた義両親、特に義母からの嫁いびりもすごかった。女遊びばかりしていて結婚を真剣に考えていない息子に子供ができたと聞いて、最初のうち義母はこの結婚を喜んでいた。しかし、お嬢様でもなければ美人でもない私がだんだん鼻につくようになったらしい。料理が下手だの、掃除が手抜きだの、私がするあらゆることをけなすようになった。
そして私が女の子を出産すると、義母のいびりは最高潮に達した。挙句の果てには実家にまで押しかけてきて、「女を産むなんて騙されたわ」「あんた、もう子供産めないんでしょ? 出ていきなさいよ」と怒鳴られたのだ。
「お義母さん、そんな……。女の子でもいいって、前は……」
「そりゃね、ルリが美人だったら、金持ちの男に向こう入りしてもらうって手もあったからね。でも、まさかこんな不細工な子を産むなんて」
信じられない言葉に、私は隣にいた拓也の顔を見た。すると彼はヘラヘラしながら言った。
「俺に似てねえもんな。超不細工だし。全然、俺に似てないじゃないか。こんなのいらねえわ。お前、浮気してたんじゃねえの?」
「そんなわけないでしょ! DNA鑑定してもいいわ!」
私が叫ぶと、拓也はさらに続けた。
「離婚はいつでも大歓迎。慰謝料と養育費は、そんな不細工を産んだお前の方に責任があるってことでチャラな」
あまりの身勝手さに、頭の血管が切れるかと思った。ルリを幸せにするために、この人と結婚したのに。子供には父親が必要だと思ったから。それなのに、この人は自分の子供を「いらない」と言い放ったのだ。
混乱した頭でいろいろ考えているうちに、ふと疑問が湧いてきた。こんな父親や祖父母がいて、本当にルリは幸せなのだろうか。確かに、たった一人で子育てすることは不安だ。拓也にすがりついてしまった自分もいた。でも、シングルマザーで頑張っている女性はたくさんいるじゃないか。兄だって、兄嫁だって助けてくれると言ってくれているじゃないか。
「……あんた、根性が足りないよ」
自分にそう言い聞かせて、私は離婚しようと決心した。
離婚に向けて調べていくうち、私は一つ知った。私がルリを引き取って裁判を起こせば、拓也には養育費を払う義務があること。もし払わない場合は、給料を差し押さえることができること。
それを拓也にメールで伝えると、彼は義両親と話し合ったようで、数時間後に一転して「離婚はしない」と返信してきた。会社に知られるのが嫌なのだろう。
その後日、義母から電話がかかってきた。
「よく考えてみたら、あんたは無料の世話係でしょ。離婚させるよりずっとお得だわ。うちの跡取りはルリの浮気相手に産んでもらえばいいしね」
そう言って高笑いされたのだ。
こんな家族に義理を立てる必要はない。私はそう強く決心し、離婚に向けて、夫や義家族の私に対するモラハラ行為を少しずつ記録に取り始めた。
そしてかなりの記録が溜まり、そろそろ弁護士に相談しようかと思っていた矢先のこと。結婚3年目にして、突然拓也が亡くなったのだ。
浮気相手と行為をしている最中に、心臓発作を起こして。
本当に恥ずかしい亡くなり方だった。知らせを受けた時、義両親は「なんてことだ」と嘆き悲しんだが、私は思わず笑みがこぼれてしまった。
葬儀の日、私は参列を許されなかった。いや、参列どころか、弔問客の前で、義母から罵倒されたのだ。
「何がおかしい!」
義母が金切り声をあげた。
「全部お前のせいだ!」
「は? なんで私のせいなんですか」
「お前が出来損ないだから、浮気したんだろうが!」
「浮気は彼の嗜好で、私のせいじゃありませんよ。私との結婚前から、何人もの女性と浮気してたんですから」
「うるさい! あんたがちゃんと健康管理してないから、心臓発作なんか起こしたのよ!」
「健康管理も何も、ほとんど家に帰ってきてなかったんですけど」
私は自分でも驚くくらい強くなっていた。自分と娘を守るためなら、徹底的に戦ってやる。
こんなやり取りがあったせいもあって、私は葬儀にも通夜にも告別式にも参列を許されなかった。義両親は葬儀の間中、親族に私の悪口を言いまくっていたそうだ。でも、婚約者が浮気相手との行為中に亡くなったことが知れ渡ると、白い目を向けられるのは私ではなく義両親の方だったらしい。
葬儀の間、家で一人で休んでいると、兄からメールが来た。
「相談したいことがある。葬儀が終わったら連絡くれないか?」
兄は私が拓也や義両親からどんな仕打ちを受けているか知っており、彼らを嫌っていたので葬儀には参列していない。私はすぐに兄に電話をかけた。
兄は私が参列を拒否されたことに憤慨し、私とルリのために、ある提案をしてくれたのだ。
葬儀から数日後、私は実家を片付け、実家に帰る準備を始めた。さらに、義実家と縁を切るために、戸籍から抜ける手続きを取った。
そんなことを知らない義母は、葬儀に参列した人たちへのお礼回りや、仏壇の掃除などをしろと命令してきた。
「お母さん、葬式に出なかった人間が、お礼に伺うなんてありえません。義実家が笑い物にされますよ」
私はそう言って断った。もちろん、葬儀費用の支払いも無視した。
そして葬儀から49日が終わった次の日、私は誰にも告げず、ルリを連れて実家に帰った。
すると翌日、義母が激怒して電話をかけてきた。
「あんた、今どこにいるの?」
「実家です。もう荷物も運び込んでいるので、そちらには帰りません」
「何バカなこと言ってるの! あんたはこれから私たちの世話をするのよ!」
義母が最近足腰を悪くしているのは知っていた。でも、あれだけのことをしておいて、私に面倒を見させようなんて。よくそんなことが言えるものだ。
「もう手続きを取って、お義父さんたちとは赤の他人になりました。あなたたちが今後どうなろうと、関係ありません」
すると義母は金切り声をあげた。
「関係なくないわよ! あの子の遺産はどうなるのよ!」
「遺産ですか? もちろん、拓也との夫婦生活で築いた財産は、全てこちらでいただきます。これは法律で決まっていることですので、異議があるなら裁判でも何でもどうぞ」
そこまで言うと、義母は電話をガチャ切りされた。ようやく一矢報いられたと思わず笑みがこぼれた。
しかし、それから半年ほど経った頃。誰からか吹き込まれたらしく、義母は再度電話をかけてきた。
「あんたね、いい気になるんじゃないわよ。ルリは私たちの世話をする義務があるんだからね」
「ありませんよ」
「決まってるのよ、法律で! ルリと私たちは血の繋がりがあるんだから、私たちの面倒を見なきゃいけないの。さっさとルリを返しなさい!」
義母は自信満々だった。だが、彼女は私の次の一言で凍りついた。
「義務はありません。ルリはもうあなたたちと戸籍上の関係はないんです」
「はぁ?」
「実はルリは、兄夫婦の特別養子になっていたんです」
特別養子というのは、元の親や親族との関係を完全になくし、新しい両親の子供となること。兄嫁には私と同じ病気があり、子供を持てなかったため、ルリを特別養子にしたいと懇願されたのだ。審判期間約半年を経て、つい最近ルリは兄夫婦の子供となった。
「大切なルリを手放すのは、本当に辛かったです。でも、このままでは将来あなた方がルリを縛りつけて不幸にするのは目に見えています。だから兄夫婦の強い希望を受け入れたんです」
そこまで言うと、義母は「あんたは、あんたって女は!」と絶叫した。そりゃそうだろう。義両親には子供は拓也しかいなかったから、年を取って体が衰え始めた自分たちの世話をしてくれる人が、身近に一人もいなくなってしまったのだ。
「もう邪魔な私たちはいませんから、これからは心置きなくお父さんと楽しい老後をお過ごしくださいね」
私はそう言って電話を切った。
私は自分の決断を後悔していない。ルリには、兄夫婦と養子縁組をする前に、拓也からの遺産を分割してあげられた。当時3歳だったルリは、もう11歳。兄を父、兄嫁を母として、すくすく育っている。私は時々実家に帰っては、ルリのおばさんとして接している。それで十分、幸せだ。
