診察室の扉がノックされた瞬間、受付の慌てた声が聞こえた。「先生、記者の方が…」。黑のジャケットを着た若い男が、ボイスレコーダーを持って立っていた。名刺には週刊都市ジャーナルとある。彼はまっすぐに俺を見て言った。「夜の工場にいた青年のことです。先生、昨日お会いしましたね」。あの夜の光景が蘇る。薄暗い工場で、傷ついた少年の手当てをする若い男。その手際は完璧で、まるで戦場を知る医者のようだった。「…

診察室の扉がノックされた瞬間、受付の慌てた声が聞こえた。「先生、記者の方が…」。黑のジャケットを着た若い男が、ボイスレコーダーを持って立っていた。名刺には週刊都市ジャーナルとある。彼はまっすぐに俺を見て言った。「夜の工場にいた青年のことです。先生、昨日お会いしましたね」。あの夜の光景が蘇る。薄暗い工場で、傷ついた少年の手当てをする若い男。その手際は完璧で、まるで戦場を知る医者のようだった。「...

診察室の扉をノックする音がして、受付の声が聞こえたのは午後一番のことだった。少し慌てた様子の声だった。診察室に入ってきたのは、真っ黒なジャケットを着た若い男だった。手にはボイスレコーダー。名刺には「週刊都市ジャーナル 岸本」とある。

「突然で申し訳ありません。先生にお聞きしたいことがあるんですが」

「この診療所に来る患者さんは、ほとんどがこの町の人たちだよ。何の用だい」

この小さな町で記者と名乗る人物に会うのは、実に何年ぶりだろうか。俺は無意識に背筋を伸ばした。

岸本は意味ありげに間を置いてから切り出した。

「夜の工場にいた青年のことです。先生、昨日お会いしましたね。怪我人の応急処置をしている男の人がいたという噂を聞いて、ここに辿り着いたんです」

あの夜の光景が鮮明に蘇った。薄暗い工場の片隅で、傷ついた少年を前に手当てをしていた若い男。動きは手馴染みで、血の止め方も、消毒の仕方も、包帯の巻き方も、すべてが完璧だった。

「君は医者か」

「違いますよ。ただ助けたいだけです」

その言葉とともに立ち去ろうとした姿。何故だか胸の奥が、イライラと揺れる。あいつに何か、秘密があるような気がした。

「先生、言いにくいんですが、あの青年、夜の廃工場で度々誰かの手当てをしているらしいんです。自分で調べた限り、確認できたのはそれくら いでして。名前も住所も、何をしている人物なのかも不明です。何かご存じないですか? 」

「知らないな。たまたま通りがかって、怪我をしている少年がいたから手当てをした。それだけだよ」

「あんな応急処置ができる人間というのは、よほどの訓練を受けていないとできないと聞きました。先生の手際を見た人物が、不思議がっていましたよ。医者のような動きだった、と」

「さあね。医師免許を持っているかどうかは、関係ない」

岸本は軽く頭を下げると、診療所を出て行った。部屋の時計は午後四時を回っていた。

あの日、俺は裏口の渡り廊下に立っていた。境内と診療所の間で煙草に火を点けると、静かな空気の中で車のエンジンの音が遠くで聞こえた。

あの青年のことを考えずには いられなかった。夜の工場のあかりの中。あの細くすました身のこなし。あの手。どこかで見たような、いや、触れたことのあるような遠くて確かな感覚。あれは一体何だったんだ。

数日後、いつものように夜の診察を終えた後、何かが引っかかって 俺は重い腰を上げた。古びた自転車に跨り、夜の道を走った。本当にあの廃工場かどうか確かめるために。

かつて地域の雇用を支えていた古い工場。昭和の終わりには、この町で一番多くの人が働く場所だった。しかし、時代の流れとともに状況は変わり、閉鎖。今ではもう草に埋もれた廃墟だ。

あの日、自転車を降りて、薄暗い街灯の灯りの中を歩いて行った。湿った草の匂いと、たまにアロマみたいな真っ黒い影。心地良いとは言えないが、何故か懐かしい。

中に入ると、思った通りそこには誰かがいた。壁の影に隠れるようにして立っていたのは、あの日の青年だった。

「君だね」

声をかけると、青年はゆっくりと振り返った。明かりの中でその顔が見える。精悍な顔つきだが、どこか疲れの影を感じさせた。

「また会いましたね、先生」

「知っているのか、俺のことを」

「噂になっていますよ。この辺で腕の良い医者がいるって」

「君のことは何も知らない。名前を聞いてもいいか? 」

青年はしばらく黙っていた。見つめたまま、何かを見定めるような視線。すると彼は、ふっと息をついて言った。

「…海堂という名前で呼ばれています。詳しい話はできませんが」

「海堂、ね。……君、ただ者じゃないな。あの包帯の巻き方、傷の洗浄の仕方。普通の人間の技術じゃなかった。医者だとしたら、免許があるのか? 」

「その質問には答えることができません。でも、危険な人間じゃないです。あの子たちを助けているだけです」

「誰のために?

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「知りたいですか? 」

「……話してみろよ」

突然、何よりも知りたいことがある。あの日、工場で見たお前の動き。あれはただの手当てじゃなかった。あれは、処刑だ。初めて見たけど、多分そんなレベルの仕業だった。たとえば戦場、ああいう時、自分なら本当にどうするだろうか。

その日はそれ以上話を聞くことができなかった。海堂は俺に背を向けると、「またいつか、必ず」と言い残して闇に消えていった。

診療所に戻ると、受付の早苗さんが心配そうな顔をしていた。

「先生、大丈夫ですか? 最近、夜になるとよく出かけられていますけど」

「ちょっと夜の散歩だよ。心配ない」

「そうですか。先生の顔色が最近曇ってるように見えますので」

早苗さんはそれ以上何も言わなかった。

その夜、何がきっかけで思い出したのか。記憶の扉が、ふと音を立てて開いた。

目を閉じれば、昔の映像がフラッシュバックする。それは、アフリカの内戦地域だった。無国籍地域の診療所。小さな診療所で、俺は何をしていたか。いや、俺は、かつての自分が何をしていたのか。海堂が持っていたあの医療キット。手に馴染んだ感触。あの頃、戦場で使っていた道具の記憶。

はっとして、俺は自室の棚を漁り始めた。古い段ボール箱。奥に仕舞い込んだままだった書類や記録。俺はとあるピリオドの報告書に手を伸ばした。

「これは…」

そこには、かつて俺が担当していた人物の写真があった。まだ少年と表現できるような年齢の男の子。医師団の一員だった黒人の男が写した写真だ。

「まさか…」

俺は何度も写真と見比べた。髪の色、目つき。全くの別人だ。しかし、残像が交錯する。

数日後、俺は海堂をつけていた。夜の工場を歩く彼の後を、離れ離れにならないように距離を取って見つけた。

海堂は、ある古い従業員用の施錠されたドアの前で足を止めた。そして、ポケットから鍵を取り出すと、開けて中へ入っていく。

「何だ、あの鍵」

高価な鍵。場所は、かつての保管室だったところ。エレベーターの裏手、廃棄物が山積みにされたエリアの奥、あの鍵穴。

中に入ると、そこは一つの診療スペースだった。怪し気な医療器具 や、包帯、薬瓶。何より、ディーゼル発電機。ここは緊急用の施設。近年のものではない。何十年も前から、あの場所についていた設備とは思えないほど新しい。

「見つけたのか」

声をかけられて、俺は跳び上がった。

「海堂」

「先生。まさか、ここまで来ているとは思いませんでしたよ」

「俺を欺したな。あの写真も、紙切れも、全部でっち上げだな」

「……何を言っているんですか? 」

「アフリカの診療所だ。十年前、俺はお前を診ていた。名前を変えただけだろう。海堂」

海堂の表情は変わらない。

「先生。十年前のあなたは、何をしていましたか?

聞かれて、何も答えられなかった。

「俺は、戦場で医者をしていました。でも、それは偽りの自分でした。その頃の記憶があるなら、先生には話しておきたいことがあります。俺が何者なのか、なぜこの町で医者をしているのか」

「話せ」

海堂はゆっくりと話し始めた。

「十年前、小さな診療所で、俺は一人の男に助けられました。その男は日本人の医者でした。名前を名乗らず、診てくれた患者にはいつも優しくて、包帯を巻く手はあまりにも自然で、そしてその医者は、誰かから隠れるようにしていました。でも、それが何かは分からなかった。俺のことは、名前だけ名乗って」

「……あの医者は、何かやっていたのか? 」

「ええ。あなたは俺に内緒で医薬品を患者に使っていました。でも、それだけではなくて、注射薬ではなくて、白い粉。水に溶かして輸血しているふりをした り、投与量を偽装した記録を作ったり」

「それは、何の薬だ? 」

「あんたは何だと思います? 」

海堂の目は、遠くを見ているようだった。

「偽造記録とすり替え。麻薬の横流しっていうやつか?

「もっとヒドイもんだ」。

海堂は、大きく息を吸って言った。

「核物質の不正取引です。先生、あなたは病院で使う放射線治療の素材だと思っていたようですが、実際は兵器に転用できる物質だった。あの診療所に届いていたものは全部」

「……誰からそんな話を聞いた」

「全部、ここに記録があります」

海堂が一枚のフロッピーを取り出した。

「これは、俺が先生から盗み出したもののコピーじゃない。元々、先生が作ったものだ」

俺の頭の中がグルグルと回った。

「そんなはずはない。俺は何も盗んでいない」

「正確に言うと、あなたの昔の相棒から。あなたは記憶を失う前、あの男と二人で組織の研究施設に出入りしてた。何でも、その相棒は、あなたを障害者にする薬を実験していたらしい。そして、あなたはその頃の記憶を失った」

海堂は、俺を見つめたまま続けた。

「ということは、やはり、本当なんだな。俺がかつて、お前の父親を…」

「俺の父親は何も知らなかった。ただ、真実を暴こうとした医者だった。それを守るために、俺は基地に残った。お前のことを守るために」

その時、初めて彼の顔が壊れた。

「人殺しの息子だと思った。幼い頃から、父の仕事を知っていたら、あるいは同じ道を選んでいたかもしれません。けど、あなたは教えてくれた。どんな過去があっても、何のために生まれてきたかが大事なんだって」

海堂が一歩、前に出た。

「先生。あなたを憎んでいたこともありました。でも今は、どうすれば許してもらえるかを考えてばかりだ。先生。あなたは、あの日、俺が言った『助けたいから』の意味が、今ようやく分かりますか? 」

分かって いる。

「お前のことは、医者として診る。患者としてじゃない。俺自身の過去として」

「……ありがとうございます。でも、俺は、医者にはなれませんでした」

「医者じゃない。医者は、患者を治すだけだ。お前は、医者になる前の人間を治そうとしている」

すると海堂は、優しく微笑んだ。

「あなたと同じことを言うんだな」

「何が? 」

「おふくろも、あなたと同じことを昔言ってた」

次の瞬間、海堂はくるりと背を向けた。

「また、夜の工場に来てください。話したいことがたくさんあります。あなたが知らない、真実の話を」

「待て、海堂」

「本当は、俺の名前じゃないんです。本当は、俺の名前……」

そこで、俺は気づいた。

「お前、海堂っていう名前、嘘だったんだな? 」

「ええ。でも、あなたにだけは本当の名前を教えようと思ってた。本当の俺の名前……あなたがつけてくれた」

その言葉に、記憶の迷路が一気にほどけた。

「拓海……そうか、拓海。お前、生きてたんだな」

「あなたに会うまで、本当に名前がなかったんです。拓海はずっとあなたに呼んでほしかった、待ってた名前です」

「拓海、なぜ…」

「先生が間違ったことをしたからです」

「……何をした?

「先生が自分を責めていることを、この町が教えてくれたからです」

その夜、俺は昔の自分と決別した。そして、拓海という青年の物語が、俺の書斎の机の上にそっと置かれた一枚の日誌から始まることを知った。

朝日が真っ白なカーテンの向こうから顔を出した頃、診療所の扉を誰かがノックした。受付も始まっていない時間だ。

ドアを開けると、そこに立っていたのは海堂、いや、拓海だった。手には簡易的な医療バック。

「先生。

「ああ。始めるか

そう言うと、拓海は少し照れくさそうに笑った。

「先生。今日からここに置いてもらえますか? 」

「……本気か? 」

「ええ。あなたの息子として、医者になるために足りないものを学びたいんです」

俺は、何年も忘れていた笑顔になっていた。

「やっと、医者をやる気になったか」

「あなたと同じ医者に、やっとなれた気がします」

「よし。じゃあ、着替えを済ませたら朝の準備だ。患者さんが来る前にやることがたくさんある」

「はい!

拓海が医師になる旅、俺の中の固く閉じた扉が、もう一度開かれた瞬間だった。

南の夜を覆う静けさの中、診療所の明かりが今日も静かに灯っている。その光の中で、かつての戦場で出会った少年と過ごす、二度目の始まりの朝だった。