「契約を続けたかったら土下座しろよ。あと卸値も半額な。そうしたら契約してやるよ」
大口取引先の社長の息子、菅野三彦が、にやにやと笑いながら言い放った。場所は店舗のバックヤード。ジュエリーショップの中だ。
「お前なんか、そのへんの虫けらみたいなもんだろ。人差し指と親指で、簡単に潰せるんだよ」
僕は手に持っていた書類をぎゅっと握りしめた。腹が立たないと言えば嘘になる。だが、僕にはこの店との契約を簡単に手放すわけにはいかない事情があった。
「申し訳ありませんが、それは受け入れられません」
僕は言った。なるべく平静を装って。
「そうかよ。じゃあ、契約解除ってことで」
三彦は吐き捨てるように言って、振り返りもせずに立ち去った。残された僕は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
いや、待て。今、何て言った?
僕の名前は大阪修二。ここらで小さなアクセサリー工房を経営し、自らも職人として作品を作っている。独立してからまだ数年。ようやく軌道に乗りかけた矢先のことだった。このジュエリーショップとの取引は、僕にとって初めての大口取引先だった。それが、この数ヶ月後に、こうして話し合いの場で再び向き合うことになるとは、その時はまだ思ってもいなかった。
数ヶ月前のことを思い出す。あの日、僕はこの店の本社にある社長室に呼ばれた。三彦の痛烈な一言が忘れられない。
「何だよ、契約して欲しくて父さんに泣きついたのか?情けねえな」
三彦は相変わらずの暴言を吐いた。しかし、今日の僕はいつもと違う。彼の言葉に怒りを見せることもなく、僕は社長の隣でにっこりと微笑んだのだった。
「社長、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
僕がそう言って頭を下げると、疲れた顔をした社長が重い口を開いた。
「……大阪君。うちの息子がすまなかったね」
「いえ、お気になさらず」
隣で三彦がふんと鼻を鳴らす。こいつは相変わらずだな、と思った。だが、この再会のために、僕は長い年月をかけて準備してきたのだ。
——
今から振り返ると、僕がこの道を選んだのは中学生の頃までさかのぼる。父さんと母さんは、僕が幼い頃に交通事故で亡くなった。その後、僕を引き取ってくれたのは父方の叔父夫婦だった。父の妹にあたる人が母さんで、その旦那さんが父さん。ふたりには子供がいなかったこともあり、僕を実の子のように可愛がってくれた。数年後に弟が生まれたが、ふたりの愛情が僕に向けられなくなることはなかった。
父さんは弁護士をしていて、家庭は裕福だった。不自由のない生活だったと思う。だが、中学の最終学年を迎えた頃、ふと思うようになった。
「このまま父さんと母さんに甘えていては駄目だ」
きっかけは弟の頭の良さだった。僕も勉強はできる方だったが、弟は桁違いだった。きっと弟は父さんのように弁護士になって、きちんとした道に進むのだろう。
「それなら僕は、父さんと母さんに何ができるだろう」
そう考えた時、手先を使う細かい作業が得意だった僕は、アクセサリー職人という仕事に興味を持った。図書室やインターネットで調べていくうちに、これは自分に向いている仕事だと思えた。
中学卒業を間近に控えたある日、僕は父さんと母さんに自分の決意を伝えた。
「卒業したら、アクセサリー職人になりたいんだ」
ふたりは驚いていた。当然だろう。だけど、担任の先生とも相談し、本当にたくさん考えてたどり着いた答えだということは必死に伝えた。
「もし、弟や私たちに遠慮してそんなことを考えているのなら、父さんは反対だ」
普段は穏やかな父さんが珍しく強い口調で言った。
「違うんだ。本当に自分の将来を本気で考えて考えて、たどり着いた答えなんだ。本気でアクセサリー職人を目指したい。だから、ふたりには応援してほしい」
そう言って、自分の考えを全部話した。どんな仕事なのか、どうして自分に向いていると思うのか。一生懸命に伝えた。しばらく沈黙があった後、父さんと母さんは顔を見合わせて、ふっと笑った。
「分かったよ。修二が本気で言うなら、俺たちも本気で応援しよう」
「ありがとう。頑張るよ」
そう言ってから、父さんが付け足した。
「そういえば、俺の知り合いにジュエリー工場を経営している友人がいるんだが。確か、そこの工場は職人の育成にも力を入れているらしい。話を聞いてみるか?」
「本当か!ありがとう、父さん」
こうして僕は卒業後、父さんの紹介でそのジュエリー工場に就職したのだった。
——
工場には大勢の職人がいた。未経験で飛び込んだ僕は、気合いはあったものの、心の中ではおじけづいていた。だが、そんな心配は初日で吹き飛んだ。
「おう、新入りか。緊張すんなよ」
「分からないことがあったら何でも聞けよ」
社長をはじめ、先輩たちはみんな気さくに接してくれて、何でも丁寧に教えてくれた。僕は分からないことやうまくできないことを積極的に相談するようにした。そうして技術を少しずつ身につけていった。数年が経ち、自分一人でやっていくだけの力がついたと分かってはいた。だが、いざ独立するかと思うと、なかなかその一歩を踏み出すことができなかった。
そんな時、社長が声をかけてくれた。
「裕二(そう呼ばれていた)、お前もそろそろオリジナルの作品を作ってみたらどうだ?」
「オリジナルですか?」
「ああ。俺も応援するからよ。やるなら、とことんやってみろ」
その言葉に背中を押された僕は、独立に向けて本格的に動き出した。オリジナルのデザインをいくつも制作し、数年の準備期間を経て、ようやく自分自身の工房を立ち上げることができたのだった。
——
だが、現実は甘くない。最初のうちは、作品を作っては販売経路を広げるためにあちこち回り、小人数の従業員と手売りでアクセサリーを売っていく。なかなか経営を軌道に乗せるのは難しかった。売上は伸び悩み、焦りが募る日々。そんな時、チャンスが巡ってきた。
独立する際に資金の相談をしていた銀行の担当者が、大手ジュエリーショップの社長を紹介してくれたのだ。そのジュエリーショップは、地元では有名な高級店だった。
「うちの各店舗に、君の作品を並べてみないか?」
社長のその一言に、僕は感激した。初めての大口取引先の誕生だ。社長は僕の作品を気に入ってくれた上、地元の各店舗で取り扱ってみたいと提案してくれた。ようやく実店舗で作品を販売できることになったのだ。
ところが。ショップの担当者として現れたのが、あの三彦だったのだ。
初めて挨拶に行った時、もう分かっていた。こいつは僕のことを気に入っていない、と。
「この度は、弊社の作品を置いてくださるということで、本当にありがとうございます」
店舗の高級感に圧倒されながら、興奮を隠さずにお礼を伝えた。すると三彦は、首をかしげて一瞥すると、捨て台詞を吐いた。
「作品?ああ、あれね。聞いてますよ。銀行の紹介かなんかでお眼がねにかなったんでしょ」
その胡乱な言い方に、周囲のスタッフの間に緊張が走った。三彦はこの店の社長の息子で、確か僕と同じ年だと聞いていた。だから同じ業界の仲間として、もっとフランクに話ができるかと思っていたのだ。いや、もう少し考えて挨拶すべきだったと反省した。
「失礼いたしました。ご社の品を汚さないよう、努力いたします。どうぞよろしくお願いいたします」
気を取り直して、丁寧に挨拶をし直した。作品には自信がある。ここまで来られたのだ。この高級感にも負けないはずだ。大衆の目に触れれば、きっと気に入ってもらえるだろう。
「どうも」
だが、三彦はそっけなく返事をしただけで、立ち去り際にわざと聞こえるように言った。
「全く、あんなちっぽけな会社なんか、相手にする必要ないのにね」
またもや気まずい雰囲気が漂った。僕は聞いていないふりをして、他のスタッフにお礼を言い、店舗を後にした。
——
それからが大変だった。
「このデザイン、うちの店の雰囲気に合わないんですけど」
「もっとこう、ブランド力を意識してくれませんかね。うちの店が安っぽく見えるじゃないですか」
毎回毎回、三彦は難癖をつけてきた。作品を納品しても、まともには検品してくれない。取引としては成立しているのに、メールの返信は遅れるわ、契約の更新時期になると急に連絡が来なくなったりするわ。事務のスタッフや店長さんたちは僕の作品を気に入ってくれているのが救いだった。彼らは三彦の態度の悪さとは別に、真摯に作品と向き合ってくれた。
「大阪さんの作品、すごくいいですよね。お客様にも評判で」
そう言ってくれる店員さんもいた。ありがたいことだと思った。だが、上の立場の三彦は、僕のことをずっと見下したままだった。
そして、冒頭のあの台詞に繋がる。取引を継続するために契約書を見せられ、サインを求められた。その時、三彦が言った。
「あ、そうだ。契約を続けたかったら土下座してよ。あと、卸値をもう半額にしてもらえる? 俺もさ、色々、上の連中からお前の作品のこと、あれこれ言われててさ。安く買い叩けば、何とか帳尻を合わせられるかなって思って」
「土下座と、卸値の半額……。それは、いくら何でも」
「無理なら、もう取引しないよ?」
笑顔で言われると、余計に腹が立った。だけど、今店を放り出したら、これまで築いてきたものが全部無駄になる。
「……いいえ、その条件ではお受けできません。契約解除でお願いします」
言ってしまった。ああ、これで終わった。そう思った。
「は?今何て言った?」
「申し訳ありませんが、その条件では、当方の工房の存続が難しいので」
「はっ、分かったよ。言ってろ」
三彦はそう言って、気分良さそうに立ち去った。どうやら本当に僕を困らせて追い詰めることが、楽しくて仕方がないらしい。それで良い。もうあの男の顔を見ずに済む。
——
そして、数ヶ月後の再会が、あの社長室だった。
「ご無沙汰しております。お元気でしたか?」
社長は疲れた顔をしていた。無理もない。あの日、三彦があれだけ好き放題やっていたのだ。社長も息子の手綱を握れず、気を揉んでいたのかもしれない。
「大阪君。君の実力は、前々から聞いているよ。わが子が、すまないことをしたね」
「いえ。ただ、取引先にいきなり土下座を強要する人間とは、さすがに仕事ができないと判断したまでです。翁のことですが、我々の工房の技術はどこに出しても恥ずかしいものじゃない。むしろ、こちらとしても前向きな条件での再契約を考えていました」
「再契約?」
「ええ。もし、提示された条件を再考していただけるなら、と思いまして」
そう言うと、社長は何かを悟ったように笑った。
「よく言った。泣き寝入りするようでは、うちの取引先としてはやっていけないぞ。大阪君、君は十分、立派な職人だ。わしの方こそ、若いのに、ようやく分かっている人間が担当で安心した」
「ありがとうございます。それで、改めて契約の件なのですが、こちらを」
僕が書類を差し出すと、社長はそれを受け取り、じっくりと目を通した。そして、新たな契約書にサインをした。
「これからも、よろしく頼むよ」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。あ、そうだ。お父様に、前によくしてもらったお礼を、と思いまして。粗品ではございますが、どうぞ」
僕が差し出した箱には、若い頃から世話になっている工場の職人を休ませるために、珍しい茶葉のセットが入っていた。社長は目を丸くしたが、すぐに柔らかい笑顔を見せた。
「どうされました?」
「いや、君は、本当に仕事ができる男だと思ってね」
今度はどういう意味だろう、と首をかしげたが、社長は何も言わなかった。代わりに、机の引き出しから古い写真立てを取り出した。
「君に、これを」
「これは……?」
写真には、若かりし頃の社長と、そして父さんの姿があった。
「君の父上には、昔、本当に世話になったんだ。息子が君の工房を紹介してくれると言った時、驚いたよ。まさか、あの大阪兄弟の息子さんだったとはね。運命というのかな」
「父と父が……」
「すまない、この胸の内に留めておこうと思っていたんだが、君にも会えたし、久しぶりに昔話を聞かないか?」
ひょんなことから、父の若かりし頃の話を聞くことになった。社長は、兄の工房で働いていた父が、いかに真面目で腕が良く、慕われていたかを話してくれた。両親のことは本当に幼い頃に亡くなったので、何も覚えていない。だけど、その両親が私の知らないところで生きていて、大切な人たちと過ごしていたことを知った。
「父さんは、本当はここの工房で働くことは?」
「いや、独立だ。兄とは違う道を進むと決めた時は、みんな止めたさ。でも、逃げもせずに立派に仕事をしていた。君は、その息子だ。誇りに思うといい」
「ありがとうございます。なんだか、急に両親に会いたくなってしまいました」
「長く生きていると、良いこともあるものだね。さぁ、今日はこの辺にしておこう。娘も待っている」
「娘?」
「ああ、娘の律子だ。店の手伝いに来ているんだが」
その時、ちょうど廊下から軽やかな足音が聞こえた。
「お父様、そろそろお時間では?……って、あれ? あなたは、この前の」
「律子さん」
そこに立っていたのは、店のスタッフとして一番最初に僕の作品を気に入ってくれて、いつも色々とフォローしてくれていた律子さんだった。彼女は三彦の妹で、だからあの日、僕の作品が可哀想だというような目をしていたんだ。驚いたが、どうやら僕が思っていた以上に、運命の歯車はもう大きく動き出していたようだった。
「まさか、こんな形でお会いするとは」
「こちらこそ。大阪さん、父の話、長くなかったでしょう?もう、お父様は自分が若い頃の武勇伝を話し出すと止まらないから」
「律子、お前、大阪君のことを知っていたのか?」
「ううん、お店で何度かお見かけしたことがあるだけだよ。とても素敵な作品を作る方だなって、ずっと思ってたんだ」
そう言って、律子さんは僕を見上げて微笑んだ。何だか体の力が抜けて、思わず、はあ、とため息をつきそうになった。
「お、お二人はお知り合いだったのか?」
「ええ、まあ。律子さんにはいつもお世話になってます」
「あら、私の方こそ。今日は契約が成立したんでしょう?それじゃあ、これからもよろしくね」
手を差し出されて、咄嗟に握り返した。それから我に返って、付け加えた。
「改めて、よろしく。ただいま、と言えばいいのかな。菅野商事として、改めてお世話になります」
「ええ、よろしく。須藤画伯」
須藤修二として、職人として、ようやくこの場所に立てた気がした。心の中で、ふと思った。
これからも俺は、俺のできることをやる。
地に足をつけて、支えてくれる人を守っていけるように。ようやく、ここから始めることができたのだ。
