「それ、見たことがない鞄だな。送った鞄、使ってないのか?」
急にトールが割り込んできた。険しい表情になった父を見ながら、彼は続ける。
「嫁に似合わないから捨てたんです。こいつには、一流デザイナーである俺の嫁にふさわしいものを持たせたいので」
一方的に言い放つと、トールは家の奥へ入っていった。私はまともに父の顔を見ることができず、玄関先で立ち尽くす。
「ちょっと外で話そうか」
父が私の手を引いて外へ出た。そこで父は小声で私に告げる。
「俺があいつを始末する。構わないよな」
「お願い、助けて」
私にはそれしか答えられなかった。
もう限界だった。トールの価値観を一方的に押し付けられた上、父から送られた大事な鞄まで失ってしまった。一生我慢を続けるくらいなら、何もかも壊して終わりにしたい。ここで父の力を借りれば、私が集めた証拠と合わせて、トールをどん底まで叩き落とせるだろう。この地獄から抜け出せるなら、私は何でもしようと覚悟を決めた。
私の名前は酒井エリカ。二年前、二十六歳の時に夫のトールと結婚した。デザイナーになるという夢は叶わず、今は専業主婦に落ち着いている。ただ、同じ志を持っていた彼が夢を叶えられたのだから、それで十分だと思っていた。
そんな私にも、一つだけ不安がある。最近のトールの様子がおかしいのだ。帰宅はかなり遅いし、家では一言も話さない。深夜に電話がかかってきて、彼が家を飛び出したこともあった。
「仕事、忙しいの?」
「お前には関係ない」
「女が男の仕事に口出しをするな」
心配して声をかけただけで怒鳴られる始末。妻として自分にできることは何だろうかと、私は頭を悩ませていた。思い返せば、トールは何かに集中すると周りが見えなくなるところがあった。だから今回もそうなのかもしれない。
実際、以前にも何度か同じような経験をしてきた。特によく覚えているのは、出会ったばかりの頃のことだ。
高校卒業後に入った服飾専門学校で、私はトールと初めて会った。
トールは少し怖い人だった。見た目もそうだが、近寄りがたい雰囲気があった。けれど話してみるとかなり面白い。とても優しくて、困った時にはすぐに手を貸してくれた。デザインの才能もあり、誰もが憧れる。トールはそういう人だった。
「これ、どう思う? 昨日の夜、思いついたんだ」
楽しそうに話しかけてくる。急にデザイン画を見せられるのも日常茶飯事。彼が周囲の人に意見を聞くのは、いつもの光景だった。
「もう少しすっきりしている方が良くない?」
「やっぱりな。俺もそう思ったんだ」
「他の人の話も聞いて、手を加えてみるか」
トールは次々と教室内の人にデザインの感想を尋ねていった。素直に人の意見に耳を傾けられるところも、彼の長所だった。お互いに切磋琢磨して成長したいと私は思っていた。
そんなある日のこと、トールが学校を欠席したことがあった。心配だが、図々しく連絡するのも気が引ける。どうしようかと迷っていたら、同級生のユウキが声をかけてきた。
「彼なら大丈夫だと思うよ」
「え、どうしてそう思うの?」
「集中するとそれしか見えなくなるって、高校では有名だったから」
後で聞いた話だと、ユウキはトールとは高校の同級生だったらしい。ただ仲がいいわけではなく、同じ高校の同じ学年だっただけだとか。
「彼は学校の人気者で有名だったけど、俺は地味だったから。向こうはこの学校に入るまで、同級生だって知らなかったかも」
「そうなの?」
「ああ。でも彼はいいやつだよ。本当に」
フォローするように言うユウキ。彼はトールに負けず劣らず才能があり、ライバルのような関係だった。こんな風に相手を持ち上げるのは少し不思議だなと、その時は思った。
さて、話題のトールが再び学校に姿を現したのは、数日後のことだ。彼は平然としていて、いつもの調子で話しかけてくる。
「ちょっと聞きたいんだけど。あ、その前に聞いてもいい?」
「お、何?」
首をかしげるトール。私が心配していたことなど、全く気にしていないようだ。
「二十三日、休んだでしょ? 心配してたんだけど」
「ああ、あれ。ちょっとデザインに集中しててさ。悪い、悪い」
軽い言い方に少し腹が立ったけれど、どこか憎めない。周りはすぐに慣れたようだが、私はなかなか馴染めなかった。才能がある人は普通の人とは違う。そんな言葉を実感した出来事だった。
実際、デザイナーになれたのは同級生の中ではトールを含めた数人だけだ。私もデザイナーの道を目指したけれど、すぐに断念。有名なアパレルブランドの販売員に就職した。
「デザイナーの道は諦めるのか?」
「そうね。私にはデザイナーの才能がなかったみたい。実家が洋服の仕立て屋だから、目指していたんだけど」
初めてトールに実家のことを話す。すると彼は妙に食いついてきた。
「お父さん、テーラーなのか?」
「ええ、まあ」
「すごいな。先輩みたいなものだろ。一度会ってみたいよ。いいだろ」
迫ってくるトールに気圧されながらも、私は頷いた。実家に来たトールは興味津々。仕事をする父にあれこれと質問していった。
「すごいですね。尊敬します」
「君も春からはデザイナーなんだろう。有名なメーカーの、確か若者に人気のカジュアルブランドだっけ」
「はい。でも有名というほどでは。こうして店を構えているあなたには及びませんよ」
楽しそうな声が聞こえてくる。意外と相性がいいのかもしれない。そんな風に思い、自然と笑みがこぼれた。
「今日はありがとうございました。もっと勉強したいので、また来てもいいですか?」
「ああ、いつでも構わないよ」
「ありがとうございます。それじゃあまた」
トールは満足そうに帰っていく。彼を見送った後、父が仕事をしながら私に聞いてきた。
「彼と付き合っているのか、エリカ」
「え? 付き合う? 何言ってるの、お父さん」
私が思いもよらない父の言葉に戸惑った。トールを恋愛対象として見たことはない。どちらかといえば、憧れの対象だった。
「違うのか?」
「ち、違うわよ。彼はデザインのセンスもあるし、憧れてるというか、そんな感じよ」
「憧れも行為には変わりないだろう。私には、そんな風に見えたぞ」
父に言われて、トールのことを意識するようになってしまう。最初は互いに仕事の愚痴をこぼすために会っていたけれど、次第に彼に会うこと自体が目的になっていく。どちらからともなく「付き合おうか」と言い、私たちは交際するようになった。
結婚したのは、交際を始めてから数年が経った後だ。私はすぐにでも結婚したかったが、トールは違った。
「悪いけど、仕事になれるまでは待ってくれないか?」
「いいけど、やっぱり大変なの?」
「まだ新人だし。結婚してダメになったとか言われたら嫌だろ」
どうやら私を気遣ってくれているらしい。トールの優しさを感じた。
「分かった。トールが落ち着くまで待ってるね。ただ、一つだけ約束して」
「何だ?」
「プロポーズは、ちゃんとした言葉でしてよね」
トールからプロポーズされた日、浮かれている私に彼はこう言った。
「結婚したら、お前、仕事やめるよな」
「え、でも最初は大変だから、仕事は続けた方が……」
「俺の嫁が働くなんて恥ずかしいだろ。それに、俺の給料だけでやっていけるから」
半ば強引に有無を言わせない言い方だった。でも、それだけ私と一緒にいたいと思ってくれているのだと、素直に受け取ることにした。
「うん、分かった。やめるよ」
そう答えざるを得なかった。トールは満足そうに笑った。
結婚してから、私たちは新居を借りた。二人で生活するなら、それなりの広さがある部屋に引っ越す必要がある。買わないといけないものもあるし、何かとお金がかかると思っていた。
ある日の夕食の時だった。私はスーパーで買ったコロッケをお皿に並べていた。トールがそれを見て、目を細める。
「何だ、これ」
「コロッケよ。スーパーの総菜コーナーで安かったから」
「材料のコロッケ。お前、本気で言ってるのか?」
私を睨みつけるトール。
「え? ああ。うん。コロッケ、嫌いだった?」
「違う。そうじゃなくて。なんでスーパーの総菜なんだよ」
「だって、安かったから……」
「それは貧乏人が買うものだろう。知らないのか? 俺の嫁がそんなものを食べるなんて、恥ずかしくて外を歩けないわ」
トールは立ち上がると、皿ごとコロッケをゴミ箱に捨てた。
「今度から、ちゃんとしたものを作れ」
「で、でも、私も仕事してるし、時間がなくて……」
「仕事? お前は専業主婦だろう。だったら時間はあるはずだ。料理をするのが仕事だと思え」
何も言い返せなかった。確かに、仕事をやめてから時間はある。でも、夫婦二人分のやりくりは思ったより大変だ。節約のつもりでやったことが、全て否定された気がした。
これが、トールの本当の姿なのだろうか。結婚する前は、こんなじゃなかった。優しくて、気遣いのできる人だった。でも、結婚してから徐々に、私への当たりが強くなっていった。今日だって、鞄を捨てられた。
その晩、トールが寝静まった後、こっそりと実家に電話をかけた。
「もしもし、お父さん? エリカよ。急にごめん」
「エリカ、どうした? 何かあったのか?」
「ううん、別に。ただ、話したいことがあって。今度、家に帰ってもいい?」
沈黙が流れた。父は何かを察したようだった。
「ああ、いつでも来い。待ってるから」
「ありがとう。おやすみなさい」
電話を切ってから、私はトールの鞄を思い出す。父が私にって丹精込めて作ってくれた革鞄。もう二度と使えない。あれを捨てたとき、トールは何も感じなかったのだろうか。デザイナーの自分には、妻の実家の仕事なんて価値がないとでも思ったのだろうか。
涙が止まらなかった。この涙は、失った鞄の悔しさだけではない。私自身の時間を無駄にしてきた悔しさだった。こうなる前に気づくべきだった。トールは、最初からずっと、こんな人だったのかもしれない。
