病院のロビーで、義母からの電話に出た瞬間、私は耳を疑った。「あんたみたいな息子の寄生中の子供なんて、迎えに行くもんですか?」旅行先で、私は夫の母に、たった一度だけ幼稚園のお迎えを頼んだだけだった。それなのに、電話の向こうの義母の声は、どこか勝ち誇っているようにさえ聞こえた。「でも、マリンがかわいそうです。お願いします、今日だけでも」「知らないわよ。私はこれから友達とご飯に行くんだから」。そう…

病院のロビーで、義母からの電話に出た瞬間、私は耳を疑った。「あんたみたいな息子の寄生中の子供なんて、迎えに行くもんですか?」旅行先で、私は夫の母に、たった一度だけ幼稚園のお迎えを頼んだだけだった。それなのに、電話の向こうの義母の声は、どこか勝ち誇っているようにさえ聞こえた。「でも、マリンがかわいそうです。お願いします、今日だけでも」「知らないわよ。私はこれから友達とご飯に行くんだから」。そう...

「あんたみたいな息子の寄生中の子供なんて、迎えに行くもんですか?」

幼稚園のお迎えをお願いしていた義母から、思いもよらない返答が返ってきたのは、旅行先のホテルのロビーだった。携帯電話の向こうで、義母の声はいつもの嫌味な調子とは違って、どこか勝ち誇っているようにさえ聞こえた。結婚してからずっと、私に暴言を浴びせ続けてきた義母。それでも義父の介護状態になった姿を見捨てられず、毎日実家に通って世話を続ける私に、義母は決して感謝の言葉ひとつかけてはくれなかった。

「でも、よ彦が急な仕事でどうしても迎えに行けないみたいで。マリンがかわいそうです。お願いします、今日だけでも」

「知らないわよ。私はこれから友達とご飯に行くんだから。あんたたちでどうにかしなさいよ」

そう言い放って、一方的に通話を切られた。私は何度も折り返し電話をかけたが、まったく繋がらない。旅先の見知らぬ土地で、私は途方に暮れるしかなかった。マリンはまだ5歳になったばかり。毎日幼稚園を楽しみにしている娘が、お迎えが来なくて心細い思いをしているかと思うと、胸が締め付けられる思いだった。

私の名前は愛。35歳で専業主婦をしている。夫のよ彦とは7年前に出会った。仕事の同僚からの紹介だった。それまで同年代か年下としか付き合ったことがなかった私にとって、年上らしくリードしてくれるよ彦はとても新鮮に映った。穏やかに話してくれるし、何より大人の余裕というのだろうか、がっついた感じを受けなかったのが良かった。1年ほど付き合って、自然と結婚したいと思うようになり、よ彦も同じ気持ちだったようでプロポーズしてくれた。半年後には結婚式を終え、気づけば自然妊娠。結婚2年目には娘のマリンが生まれた。

妊娠を機に仕事をやめ、専業主婦となった私の日々は、家事と育児に追われるあっという間の月日だった。気づけばマリンも5歳になり、少しずつできることも増えて、手のかからなくなってきていた。賃貸のアパートではあるが、家族3人、慎ましくも楽しい暮らしを送っている。そんな中で、ひとつだけ困ったことがある。それは義母のゆり子の存在だ。

夫のよ彦は優しいし、義父の常夫も温厚な性格で申し分ない。だが、義母の性格がとにかくきつい。思ったことは何でも言うのはもちろん、嫁だからと言って実家に行けば、当然のように雑用を押し付けられる。また、アパートに突然やってきては、「あそこが片付いていない」だの「そんな料理じゃよ彦の健康が心配だ」と、いちいちケチをつけてくる。「まったく、こんな嫁が来るなんて思ってもみなかったわ」と、行く度に暴言を聞かされていた。

夫も義父も、そんな義母に注意をしてくれるのだが、まったく効果がない。鬱陶しそうな顔をするばかりで、結局何も変わらない。義父がいつも私の味方になってくれるのが気に入らないのか、そのことについて義母が言い合っているのが聞こえてくることも、しばしばあった。そんな義母に私は辟易していたが、夫と義父が味方になってくれたので、何とか受け流すことができていた。

しかし、義母は孫であるマリンのことも、よく思っていないようだった。それも大した理由ではなくて、義実家に遊びに行くたびに、義父がマリンを可愛がっていることが気に入らないように感じられた。まったく、いい年して何を妬いているんだか。素直になれば、義父だって義母に優しくしてくるはずなのに。自業自得とはまさにこのことだ。それでも義母はマリンからしてみれば、おばあちゃんだ。娘も何かと話しかけてはいるのだが、そっけない態度を取られて、悲しそうな顔をすることもあった。その度に義父はマリンを慰め、さらに義母は機嫌が悪くなるという悪循環だった。

次第に、私たちの足は義実家から遠ざかっていった。

義母との心の距離が離れつつあった、ある日のこと。いつものように家を片付けていると、電話が鳴った。受話器を取ると、電話の向こうから聞こえてきたのは、まさかの義母の声だった。

あっちから電話をしてくるなんて珍しい。というか、何だか慌てた声を出している。どうしたんだろう。いつもなら開口一番に嫌味を言ってくる義母が、今日は最初に私の名前を呼んでくる。言いようのない違和感を覚える。

しかし、次の義母の言葉を聞いて、私も冷静ではいられなくなった。

「お、お父さんがね、お父さんが階段から落ちちゃった」

「え、どういうことですか?」

聞けば、義父が家の階段で足を滑らせて、そのまま転がっていってしまったというのだ。

「どうしよう。愛さん、どうしたらいい? 頭から血も出てて」

電話口の義母は、明らかにいつもとは違う。普段の凶暴さが嘘のように、弱々しい声で繰り返す。義父がただならぬ状況であることを、その声が示唆していた。

「頭から血って、それはまずいじゃないですか。救急車は? 呼んだんですか?」

「だって、どうしていいか分からなくて。お父さんが血を流して倒れてるのを見たら、頭が真っ白になっちゃって」

義母は取り乱しているようで、話が通じない。どうしよう、どうしたらいい、そればかりを繰り返している。拉致があかないので、私は電話を無理やり切り、急いで119番にかけた。幸い、義実家の住所は頭に入っていた。分かる限りの状況を伝えて、住所を伝える。そして、すぐによ彦に電話をかけた。よ彦の職場は義実家から遠くない。私が向かうより早く着いて、タオルで止血の応急処置はできるはず。

電話を受けたよ彦もかなり驚いていたが、すぐに冷静になり、実家に向かってくれた。

「うちからじゃ間に合わないわね。救急車でどこかに搬送されるのが先だわ。どこの病院に運ばれてるかは分からないけど、よ彦から連絡があったら、すぐに動けるように準備だけ進めるわ」

30分後、よ彦から電話がかかってきた。

「もしもし。今、救急車で県立中央病院に向かってる」

電話の向こうでは、緊急サイレンの音がけたたましく聞こえてくる。

「県立中央病院なら、ここからタクシーで40分くらいだわ。お父さんはどうなの?」

「分からない。パトミはそんなにたくさん血が出てなかったけど、意識がないんだ」

「意識がない……!」

「亡くなったりしないよね」

「大丈夫よ。絶対に大丈夫だから」

そうは言ったものの、私の声も震えていた。いつも優しくしてくれる義父の急な事故。私も落ち着かなくなってくる。どうか命を取り留めてほしい。そんな気持ちで、私は病院へと向かうためにタクシーを拾った。

幸い、マリンは幼稚園に行っている。私は事情を話して、延長保育に切り替えてもらう予定にしている。「マリンがこのことを知ったら、きっと泣いちゃうわね」と、頭の片隅で思いながら。

病院について、よ彦から聞いている救急外来の受付へと向かう。そこで、受付のベンチに座っているよ彦を見つけた。

「よ彦!」

「ああ、来たか」

「お父さんは?」

「今、手術の準備をしているところみたいだ」

「手術?」

よ彦によれば、病院についても、義父は意識が戻らなかったらしい。転げ落ちたこともあって、頭のCT検査をしたところ、頭の中で出血を起こしているという。

「頭の中で出血が広がれば、行き場を失った血液が脳を圧迫して、命取りになるらしい」

淡々と説明するよ彦だが、冷静でいられるはずがない。手術をしても助かるかどうかは分からない。助かっても、障害が残ることも多いらしい。

「どうなるかは分からないけど、まずは手術を無事に終えてほしい」

そう言って、よ彦が顔を伏せる。私は彼の隣に座り、そっと手を握った。すると、触れた手のひらはとても冷たくて、よ彦がどれほど怖がっているかが、手に取るように分かった。

病院内の重い空気。消毒液の匂い。点滅する手術中のランプ。私たちは何も言えずに、ただ廊下のベンチで時が過ぎるのを待つしかなかった。

そういえば、と私は周囲を見回した。義母の姿が見えない。病院に着いてから、一度も会っていない。

「ねぇ、お義母さんは?」

「それが、連絡しても出ないんだ。家にいると思うんだけど」

事故に遭ったとき、義母は酷く取り乱していた。もしかしたら、パニックになって自宅にこもったまま、動けないのかもしれない。

「私から電話してみる」

スマートフォンを取り出し、義母の番号をタップする。しかし、何度呼び出しても出る気配がない。午前中の何回もの着信履歴はあっても、すべてこちらの一方的なものだった。

「ダメだ。全然出ない」

「そうか……。きっと大丈夫だよ。お袋だって、ああ見えて結構しっかりしてるから」

よ彦の言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。

それから、手術が始まって約3時間が経った。まだ何の連絡もない。先生が時々、廊下を早足で歩いていく。「県立中央病院、救急外来のご家族の方」「はい」と呼ばれて、飛び上がるほど驚いたこともあった。

その夜、私たちは病院のロビーで夜を明かすことになった。ソファでも何でもない、硬いイスに並んで座りながら、よ彦は何度もため息をついていた。

「明日、マリンに会いに行けるか?」

「うん、朝、迎えに行くわ。……マリンの前では、泣いちゃダメよ」

「分かってる。分かってるけど……」

よ彦は、両手で顔を覆ってしまった。義父は家族の誰よりも、マリンをかわいがっていた。そして、よ彦のことも。息子のことを心配するあまり、口うるさくなることもあったけれど、いつも真剣に息子と孫のことを考えてくれていた。

「ありがとな」

突然、よ彦が小さな声で言った。

「ん? 何が?」

「ずっと。ずっとお前に任せっきりで。実家のことも、母のことも。お前ばっかり、嫌な思いをさせてるよ」

「そんなことないよ」

「俺、お父さんが倒れる前は、お前が母に嫌味を言われてるのを、ちゃんと止めてやれてなかった。お前が毎日実家に通って、父の世話をしてるのを知りながら、何もできないままだった」

よ彦の声が震えている。私は首を横に振った。

「いいのよ。私、お義父さんは大好きだもん。あんなに優しくしてくれる人、そういないよ。お義母さんのことは、確かに、色々と思うことはあるけど……でも、お義父さんのおかげで、私たち家族は何とかやってこられたんだと思う」

よ彦は何も言わなかった。ただ、私の手を握り返してくれた。

そのとき、手術室のランプが消え、扉が開かれた。先生が疲れ果てた顔で出てくると、よ彦が弾かれたように立ち上がった。

「先生! 父は……」

「お待たせしました。手術は無事に終わりました。出血していた箇所も全て止血しました。ただ……」

「ただって何ですか?」

「意識は、まだ戻りません。とにかく、このまま24時間が山です。私たちも最善を尽くします」

先生はそう言うと、頭を下げてまた中へと戻っていった。よ彦は、ずるずると壁に寄りかかり、その場に座り込んだ。

「お父さん……」

私はよ彦の隣に座り、また手を握った。「24時間が山」。それだけが、頭の中で繰り返される。

そこに、突然、病院の入口の方から、騒がしい声が聞こえてきた。

「お父さん! お父さんは!? 」

振り返ると、そこには見知った女性の姿があった。よ彦の妹で、現在は県外で暮らしている結花だった。結花はパジャマの上にカーディガンを羽織った、慌てた様子で病院内を走り回っている。

「結花、こっちだ!」

よ彦が手を挙げると、結花が駆け寄ってきた。

「兄さん、お父さんは?」

「今、手術が終わったところだ。命は取り留めた」

「よかった〜!」

結花は安堵のあまり、その場にしゃがみ込んでしまった。「お母さんから連絡があって。すごく慌てた声で、お父さんが倒れたってしか聞こえなくて、すぐに新幹線に飛び乗ったの。どういうこと?」

よ彦が、事故の次第をかいつまんで説明する。階段から転落し、頭部を強打。脳内出血で、救急搬送されたこと。 手術は成功したものの、意識が戻るかどうかは分からないこと。

「病院に着いたときは、お袋もいなかったんだ。連絡もつかない」

「お母さん、家にいないと思うよ。だって、寺の嫁の家に、今、いるはずだから。……え? そういえば、お母さん、一人で心配しているかもしれないから、連絡しなきゃ」

結花がスマートフォンを取り出し、電話をかける。しかし、やはり出ないようだった。

「お母さん、どこに行ったんだろ」

「分からない。落ち着いたら、また帰ってくるだろう。結花、今日はここに泊まるんだろう? 近くにホテルを取るか?」

「ううん、いい。病院のソファで大丈夫。お父さんの顔、見たいから」

その日、病院にはよ彦と結花、そして私が残ることになった。私はマリンの迎えのために、一度家に帰ることにした。

「よ彦、マリンは私がちゃんと迎えに行くから。このことは大丈夫」

「ああ、頼む」

私は病院を出て、アパートへと帰るタクシーに乗った。「24時間が山」という言葉を反芻しながら。何とか、生きてほしい。ただそれだけを祈りながら、夜の街を走る道を眺めていた。

翌朝、私は早めに義実家へと向かった。マリンを迎えに行く前に、様子を見ておきたかったからだ。玄関のチャイムを鳴らすと、いつも以上に重い音が響く。と同時に、中からがちゃりと鍵の開く音がした。

「はい、もしもし……。え? ああ、愛さん」

出てきたのは義母だった。しかし、私は目を疑った。制服姿の警察官が、義母の後ろに立っていた。

「あの、警察官が何か……」

その言葉に、義母は何かを透明化するように私を見た。

「あんた、知らないで来たんじゃないの?」

「? 何を?」

「警察から連絡があってね、お父さんが事故に遭ったって。救急車で病院に運ばれたって。で、あんたたちが病院にいるって。……それで案内してもらえるかと思って、うちに来てもらったのよ」

警察官が一歩前に出て、私と義母の顔を順に見やった。

「こちらがお義父さまの奥様でありますね。もしよろしければ、このまま病院までご一緒しましょうか?」

どうやら義母は、恥をかきたくないために、わざわざ警察官を交えて自己流に装ったようだ。私と目を合わせることを避けている。それで今、警察官を呼び出したのか。結局、義母は家で待っていられなくなって、私に付き添いを頼むために形だけ警察に来てもらったのだろう。

「分かりました。病院までご一緒します。私のタクシーで、乗り合わせでいいですか?」

「ええ、構いません。……警察官の方、お付き添いいただいてありがとうございました。もう大丈夫ですので」

警察官が敬礼をして、車に乗り込んでいく。私は義母を乗せて、病院へと向かうタクシーに乗り込んだ。椅子に座っても、義母は一言も話さない。前を向いたまま、無理やり何かをこらえているようだった。

病院に着き、救命病棟へと急ぐ。よ彦と結花が、イスに座っていた。よ彦が声をかける。

「ああ、お母さん。来たんだ」

「お父さんは?」

「まだ、意識は戻らない。先生が朝から診てくれてる」

義母は、病室の扉の前まで行くと、ガラス越しに中にいる義父の姿を見つめた。点滴やモニターに繋がれた義父の姿は、いつもよりずっと小さく見えた。義母は、しばらくの間、一言も話さなかった。

「……そう」

それだけ言うと、私は隣に立っていた。

「お義父さんは、きっと大丈夫ですよ」

義母は何も答えなかった。でも、その目は潤んでいるように見えた。

それから、内通書で1日が過ぎた。医師が言っていた「24時間が山」を、無事に超えた。意識こそ戻らないものの、容体は安定していた。マリンも、幼稚園が終わると病院に見舞いに来てくれた。

「おじいちゃん、ねぇ、ねぇ、マリンが来たよ。早く起きてよ〜」

マリンが手を握ると、こちらのことなんかお構いなしに、義母がかわいがっていたのも、今では懐かしい。

「マリン、病院はね、くしゃみをしたらダメって決まりなんだよ。おじいちゃんは今、眠っているんだから、静かにしてね」

私がそう言うと、マリンは素直に「はーい」と小声で言って、ベッドの脇にあるイスにちょこんと座った。

義母は、病室の入り口に立ったまま、何を言うでもなく、家族のやり取りをじっと見守っていた。

そして、2日後の朝のことだった。

病室にスマホのアラームが響く。時間は朝の6時。今日は日曜日で、よ彦がマリンを連れて病院に泊まり込むことになっていたのだ。私が洗面所で顔を洗っていると、病室からよ彦の叫ぶ声が聞こえてきた。

「お父さん! お父さん、分かりますか!?」

「!?」

タオルを放り出して病室へ駆け込むと、ベッドの上の義父が薄っすらと目を開けていた。

「お父さん!」

私も名前を呼ぶと、義父はゆっくりと視線をこちらに向けた。

「……よかった。よかった」

涙がこぼれて止まらなかった。気がつくと、よ彦も結花も泣いていた。家族みんなが、義父の回復を喜んでいた。

「お父さん、しゃべれる? 気分はどう?」

そう言うと、義父は力なく微笑んだ。

「……あれ? なんで俺、家の階段で転んだんだっけ」

「お父さん、思い出すんなら、あなたのおでこ、血が出てたんだよ」

義母が言った。

「ゆり子……。迷惑かけたな」

「何言ってるの。体を心配するのが、嫁ってものよ」

「いや、嫁は婚家のものですよ。……冗談だよ」

義父が笑う。すると、義母も少しだけ笑った。これまでは、死んだような顔をしていた義母が初めて笑った瞬間だった。

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