ダメ元で聞くんですけど、極道っていうか、そういうのに強い人ってお知り合いにはいないですよね。
俺が驚いて聞き返すと、女将さんがカラカラと笑った。
「そうですよね。いるわけないですよね」
彼女の明るい声からは、もうダメだ、諦めよう、というニュアンスが感じられた。
俺の名前は背ノ上記録。七十歳で働き盛りの世代だが、隠居を楽しむほどの蓄えはできたし、これからはもっと自分を大切にした生き方をしようと思い、第一線を退いて添い遂げた元ヤザだ。
元ヤザとは言っても、俺の席はまだ竜神会系流門組にある。組長の座を譲って、親組織の竜神会の顧問に就任したのだ。
俺は幼い頃からとんでもない悪戯で、十五で不良と呼ばれるどころか、六歳で自動相談所へ収容された経歴を持つ。その後も少年別所や少年院に入って更正指導を受けた。
俺は別館二回、年勝三回行った。ちょっと前に保護観察中にやらかしたから、また年勝行きだと思う。
俺らの世界では、更生施設への収容回数で偉くなれる傾向があった。施設内では「穏やかにしてください。すみませんでした。反省しています。二度としません」と言っていれば、短期間で出られた。ただ、それを繰り返せばすぐ舞い戻ることになり、長期収容も免れない。それでも年勝に行った記録は「すげえ」と武勇伝に変わり、レジェンドのように扱われるのだ。
ただし刑務所となると話は別で、少年院に入所できない年齢になると、ぴたりと悪いことをしなくなった。
その頃には両親からは泣きっ面として扱われており、俺は幼い頃に住んでいた土地から離れていた。そりゃそうだ。物心ついた時から無銭飲食やら万引きやら恐喝やらで、お袋はどれだけ警察とか学校とか店とかに謝罪に行ったことだろう。十歳を迎える前には親も呆れ果てて、俺を見捨てたくらいだ。
保護司が家を訪れ家庭環境を変えようと試みたこともあったが、両親も度重なる俺の所為で心身共に疲弊していた。だから両親とは離れて、俺は竜門組のおさんに拾われた。保護司が流門組のおさんに引き渡したという、ぶっ飛んだ話だ。
おさんは俺を孫同然に可愛がってくれて、養子として迎えてくれた。俺に極道の色気を叩き込んでくれ、自分の娘と俺を結婚させたのだ。その時俺は十八歳、おさんの娘は二十四歳。息子の近事が生まれ、おさんが隠居したため、俺が組長となった。
俺の率いる流門組は、とにかく世間に馴染むことを意識した。人がカッコいいと称賛される時代は遠の昔に終わっていた。今ではヤクザを名乗ることは許されず、仮の姿を予言といい、ひっそりと活動せざるを得ない。俺は会社を立ち上げ、とある業界で仮の姿を現し、密かにヤクザとしてしのぎを削っていた。
そして定年を迎えた時に、息子に組長、いや、代表取締役社長の座を譲ったのだ。
俺は幼い頃育った町に十年ぶりに帰ってきた。とはいえ、ヤクザをしていた頃の俺自身が恥ずかしく思えて、車で通るだけで終わりにしていたのだ。両親は俺が原因で夫婦揃って海に飛び込んでしまった。息子として手放した先がヤクザだったことがショックだったと聞かされた。両親が飛び込んでから五十年近くも経過したから、もういいだろうと、十年前に俺の使者の親戚筋からその話を聞かされた。俺はその弔いをするために寺に行ったっきりだった。
今回は何のしがらみもなく、ただのんびりと歩いてみたいと思った。小学校にすら満足に通っていない俺だが、小さい頃はこの町が宇宙くらい広く思えていたのだ。
古い大衆食堂が見える。俺が覚えている街並みは六十年前くらいのもので、木造平屋が多かったあの頃とは打って変わって、マンションやらの集合住宅が増えていた。そんな中に、時代にそぐわない古い大衆食堂。丸福という看板は、昭和レトロというよりも文化遺産と位置づけてもいいようなものだった。
懐かしいな。まだあったのか。
この店は俺が初めて無銭飲食をした店だ。ここの婆さんに初めて頬を叩かれ、尻を引っ叩かれた記憶しかなかったが、あの婆さんは生きていれば何歳くらいになるのだろうか。暖簾が出ているから営業はしているのだろう。罪滅ぼしに定食でも食べに行くか。
模様入りの板ガラスが入った引き戸を開けようとした時、なんだか騒がしいことに気がついた。俺は息を潜めてそのやり取りを見る。
「おい、金は用意できてんだろうな。もう待てねえぞ」
「ふざけんな。とっとと帰れ、この野郎。このガキが」
「結構頭はしっかりしてるんだろ。大事な息子を兵隊なんかに取られてたまるか。被告民と言われても、絶対に出しはしないからな」
「はあ? 何言ってるんだ」
「この通り。あなたたちに金を払ったら、うちの食堂は廃業するしかないんですよ」
「土地だけでもいいんだ。この食堂を潰したら、マンションが建てられるからな。金さえ払えば、この店の営業を続けられるように、俺たちが優しく見守ってやるって言ってるんだ」
「そんな金はないって言ってるし、ヤクザの助けなんていらないわよ」
若い女将さんが言い返したところで、軒先で立っていた俺とガラス越しに目が合った。
「お客さんが来たから、今日のところは帰っておくれ」
女将さんは、二人のヤクザを追い返した。
「じゃあな、おばさん、明日また回収に来るからな。おっ、おじさん、この店、今に食中毒出すぞ。駅前のファミレスの方が旨くて安くてボリュームがあるぜ」
帰り際に俺に声をかけて、二人は帰っていった。
「なんか大変そうな奴らに絡まれていましたね」
「みっともないところをお見せしてすみません。何でも、この辺りのヤクザらしくって。お客さん、ご注文は何になさいますか? ……またあの連中が来たら、今度こそ承知しないからね」
二人のヤクザが店を去ってから、たっぷりの時間が経過した頃、突然婆さんが絵の長い竹を竹槍のように構えて、鋭く突き出した。
「ほら、お母さん。お客さんが来たから、仕事ですよ」
女将さんは婆さんを台所へ追いやりながら、俺に愛想笑いを振りまいた。
「すみません。この母、認知症が進んでおりまして」
なんとなく見覚えがある。そうだ。この婆さんは、俺が幼い頃、店のものを食べ散らかした時、容赦なく𠮟ってくれたババアだ。
「クロケット定食ってありますか?」
壁に貼られたメニュー表には「コロッケ定食」と書かれてあるが、俺は「クロケット定食」と伝えた。
「あら、お客さん、うちの名物をご存知なの?」
「ええ、幼い頃に食べた思い出の味ですよ」
「昔ながらのお客さんは、コロッケ定食じゃなくって、クロケット定食って呼んでくれるんですよ。ほら、お母さん、お得意料理のご注文ですよ。キーボーが来たのかい?」
婆さんが台所から出てきて、俺の顔をまじまじと見つめた。
「おお、キーボーじゃないか。大きくなったなあ」
「はい、お久しぶりです。おばさん」
「もう、キーボーったら、ちゃんとご飯を食べてるのかい? やせちゃって」
婆さんは俺の頬をつまむと、昔と変わらない調子で言った。その目は、まだ確かに俺を見つめていた。
「美味いもんを食べさせてやるからな。ちょっと待ってなさい」
婆さんは台所に引っ込んでいった。女将さんが困ったように微笑む。
「おばあちゃん、キーボーって呼ぶのが好きみたいで。お客さん、あの子と知り合いなんですか?」
「ええ、昔、この店でよく食べさせてもらってたんです。子供の頃に」
「そうだったんですか。それはそれは」
何年か経って、俺は再びこの店を訪れた。今度はわざわざこの店を目指して、だ。暖簾をくぐると、女将さんがいた。
「いらっしゃいませ。あら、あなたは確か、前にクロケット定食を頼んだ方ですね」
「覚えていてくれたんですか」
「ええ、おじいちゃんのことも覚えてますよ。うちの母が、あれからしばらくキーボーの話をよくしてましたから」
「おばさん、元気ですか?」
女将さんは一瞬、目を伏せた。
「実は、去年亡くなりました。九十二歳でした」
そうか。やっぱりそうか。あの時、最後にちゃんとした会話ができたのは、運が良かったのかもしれない。
「すみません、急に」
「いえ、うちの母も、最後にキーボーに会えて喜んでました。あなたが大きくなった顔を見せてくれたって」
俺は黙って席に座った。
「今日は何にしますか?」
「クロケット定食で」
「はい、かしこまりました。父の形見だと思って、この店、ずっと続けていくつもりなんです」
「そうですか。また来ます」
「お待ちしてます」
クロケット定食が出てくるまで、俺は店内を見渡した。あの頃と何も変わらない。カウンターも、テーブルも、壁のメニューも。ただ、店主が婆さんから娘さんに代わっただけだ。
出てきたクロケット定食は、あの日、婆さんが作ってくれたものと、まるで同じ味だった。衣はサクサクで、中はホクホクのじゃがいも。ソースがたっぷりとかかっている。
「美味い」
俺は久しぶりに、心からそう思えた。
しばらくすると、またあの連中が来た。今度は三人で、店の前にたむろしている。
「おい、オーナー。金はまだかよ」
女将さんは悲壮な顔で、カウンターを握りしめた。
「だから、うちにそんな金はないって言ってるでしょ。何度言ったらわかるんですか」
「そう言わずにさ、この店、もう終わりにしなって。次の場所で、新しい人生始めればいいじゃん」
「この店は、私には大切な場所なんです。売るつもりはありません」
「なら、力ずくでも手段は選ばないぜ」
男の一人が、女将さんの襟元を掴みかかった。
「おい、やめろ」
俺は立ち上がって、三人の前に立った。ヤクザの男たちが、にらみつけてくる。
「なんだ、じじい。何の用だ」
「手を離せ」
「ふん、痛い目みたいか?」
男が手を振り上げた。俺はそっとため息をついた。
「お前ら、どこの組のもんだ」
「あ? 竜神会系流門組だ。分かったら、とっとと引っ込んでな」
「流門組? ふうん」
俺は、懐から小さな名刺のようなものを取り出して、男たちに見せた。
「俺の目に、お前たちは誰かの組の活動を装った、偽の連中に見えるんだがな」
男たちの顔色が変わった。
「な、なんだ、その札は……?」
「組長、いや、元組長の名刺だよ。もし組で話をするなら、いつでも受けてやる。ただし、ここでお前たちがしたように、金額と条件次第では、公平に話を取り持ってやってもいいがな」
「……へ、へへ、冗談ですよ。おじいちゃん」
「そうか。なら、さっさと消えろ。二度と、この店に来るんじゃねえぞ。もし何かしたくなったら、その名刺を持って、流門組の本部を訪ねろ。力になってやるからな」
「は、はい!」
男たちは足音を立てて逃げていった。
女将さんが、呆気にとられた顔で俺を見つめている。
「あの、あなたは、一体……」
「俺は、この店の昔の常連だよ。婆さん……お母さんには、本当に世話になった。その恩返しが、少しはできたかな」
「ありがとうございます。あの、よかったら、コーヒーでも飲んでいってください。サービスしますから」
「ああ、そうさせてもらうかな」
俺は、カウンターに腰掛けて、熱いコーヒーをすする。女将さんは、それでもまだ何か言いたそうだった。
「さっきの、本当にヤクザだったんですか?」
「まあ、な。今は年寄りの昔話みたいなもんだよ」
「でも、あの連中、随分と怖そうでしたけど」
「連中は、見かけだけだよ。本当に怖いのは、組の連中じゃなくて、ああして人を脅して金を巻き上げる連中の方だ。だが、もう二度とここには来ないだろうさ」
「そうですか。ほっとしました。実は、私、一人でこの店をやっていくのは不安で。母が生きてた頃は、ここで何があっても大丈夫だって思えたんですけど。でも、こうしてあなたに助けてもらって、もうちょっと頑張ってみようって気になりました」
「その気持ちがあれば、大丈夫だよ。この店は、長く続くよ」
「ありがとうございます。おじいちゃんは、本当は何をしていらっしゃる方なんですか?」
「ただの、年老いた料理人の友達だよ。そろそろ、おいとましよう」
俺は代金をカウンターに置くと、立ち上がった。
「クロケット定食、とても美味しかったです」
「また、いつでもいらしてください。ずっと、この味を守っていきますから」
「ああ、そうするよ」
暖簾をくぐって、外に出る。夕日が街をオレンジ色に染めていた。俺は、何年かぶりに、自分がこの町に帰ってきたことを感じた。俺を拾ってくれた人、俺に仕事を教えてくれた人、俺のために尽くしてくれた人。みんな、もういない。だが、あの食堂が続く限り、俺の過去も、あの頃の思い出も、決して消えはしないんだな。
俺は自分の車に乗り込み、エンジンをかけた。そして、もう一度だけ、後部窓からこの店を見た。春、亀の看板。その名前が、やけに愛おしく感じられた。
発車する前に、俺はふと昔のことを思い出していた。あの頃、ここで入れてもらえなかったら、俺は今頃どうしていただろう。きっと、刑務所で一生を終えるか、刺されて死んでいたかもしれない。そう思うと、婆さんに拾ってもらえたことは、奇跡みたいなことだったのだ。
エンジンをかけて、俺はハンドルを握った。思い出は、いつでも自分を強くしてくれる。そう思えた。
