田村と呼ばれた若者は、俺の顔をじろりと見上げると、にやりと嫌な笑みを浮かべた。
「あんた、見ない顔だし新人か。最近中途が何人か入ったって聞いたから、その一人だろ。じゃあ、とりあえずコーヒー買ってこいよ。先輩へのご挨拶ってことで」
俺がわけが分からず棒立ちになっていると、田村は手をひらひらと振った。さっさと行けという意味らしい。
「俺の父親は人事部長だぜ。俺の機嫌を損ねたら、あんたどうなっちゃうのかな。その年でまた就職活動なんてするはめになったら嫌でしょ」
俺と一緒にいた女性社員の伊藤が、眉を吊り上げて田村を叱りつける。
「ちょっと、あなた何てことを。美吉さん、行く必要ないですよ」
俺は伊藤ににこりと笑いかけ、首を振った。
「いや、大丈夫だよ。受付からここまで来る間に、色々と場所を覚えたから。分かりました、では私が買ってきますね」
俺がそう言うと、田村は「物分かりいいじゃん」と、にんまりと笑う。見下していられるのも、今のうちだとも知らずに。
俺は41歳の会社員、美吉だ。今の会社には高校卒業から務め続けている。10年前に海外の支社への移動が決まり、先月日本に帰ってきたばかりだ。本社への復帰命令が出たからである。海外支社への移動が決まった時は、結婚したばかりで子供が生まれたばかりの頃だった。何より日本を離れてやっていけるかどうか不安で、どうにかなりそうだった。以前から語学の勉強はしていたものの、ペラペラと話せるレベルではなかったから、なおさらだ。しかし、多くを学ぶ機会を与えてくれた社長には、今では感謝している。時々、年末などに日本へ帰ってきてはいたが、ようやく本格的に日本で暮らせると決まり、妻も子供も大喜びだった。その笑顔を見ていると、俺も気を引き締めて頑張らないとなと、自然と気合いが湧いたものだ。
本社への出社を控えたある日、俺は事前に社長やお世話になる方々へ挨拶をしようと本社を訪れていた。社長は俺の申し出を快く了承してくれていた。しかし、そこで問題が起こる。
「すみません、美吉さん。電話で確認したのですが、社長は前のスケジュールが押しているようで、まだ戻ってこれないんです」
約束の時間に受付へ行くと、伊藤と名乗った受付の女性社員が申し訳なさそうに頭を下げた。
「もう少しで戻ってらっしゃるかと思いますので、その間でよろしければ、社内を案内いたしますが」
伊藤の申し出に、俺は目を丸くする。え、でも、場を離れさせるわけには——と俺が思っていると、伊藤は微笑んだ。
「社長から申し付けられました。美吉さんは久しぶりの本社だから、今のうちに色々と案内してあげてほしいと」
なるほど。それもそうだなと、俺は納得する。何せ10年も離れていたのだ。今いる受付でさえ、俺の記憶とはだいぶ印象が違う。改装されたエリアがあったり、オフィスの場所が変わっていたりと、俺がいない間に随分と変化があったようだ。ここは彼女の申し出を受け入れるのがいいだろうと思った。
「そう言ってくださるなら、お願いします」
もう一人いた受付担当の女性にも頭を下げ、こうして俺は伊藤についていくことになった。
やはり、久しぶりの本社の中は俺の記憶とはかなり違う。なんというか、基本的に広々としていて解放的だ。おしゃれな雰囲気と言えば分かりやすいだろうか。それだけ会社が成長したという証だろう。10年も離れていたとはいえ、自分もその成長に関われたのだと思うと、とても誇らしい気持ちになる。以前は無機質で湿っぽかった壁や廊下には、観葉植物などの緑があり、大きな窓に沿って所々にフリースペースまである。休憩も作業もできる場所のことだ。
あれは休憩中の社員かな。少し離れた場所のフリースペースの一角で、ある男性社員が椅子にどっかりと座ってスマホをいじっている。彼のすぐそばにいる後輩らしき若い男性に、何か怒りながら喋っているようだ。そんな彼らをちらっと見ながら、他の社員たちは避けるようにして通り過ぎていく。
俺の視線の先に気づいた伊藤が、眉を潜めた。
「また何か問題なのかな」
俺が尋ねると同時に、怒られていた若い男性が泣きそうな顔で、俺のすぐ横を通り過ぎていった。何かミスをして怒られてしまったのだろうか。そんな心配をしている俺の隣で、伊藤は声を潜めて説明してくれた。
「あの怒っていた人は、3ヶ月ほど前に入った営業部の社員で、ちょっと問題が多い印象なんです。有名人ですよ、悪い意味で」
伊藤の説明によると、怒鳴っていた彼は田村と言うらしい。この会社の人事部長の息子で、コネ入社してきたんだとか。きっかけはともかく、真面目に仕事をしていれば問題はないのだが、親の権威を傘に着て好き放題をして、周囲を困らせてばかりなんだそうだ。仕事はサボるわ、担当の仕事や自分のミスを他人になすりつけるわ。聞いている限り、悪いところばかりが浮かんでくる。伊藤自身も、仕事中なのに言い寄られて迷惑した経験があるそうだ。
「いくら父親が人事部長でも、実際の彼の上司は営業部長だろ。営業部長が何も言わないのは考えにくいけどな」
俺の質問に、伊藤は首を振った。
「父親の人事部長が圧力をかけて、周りを黙らせているなんて噂もあるくらいですし。営業部長は、なんというか、お人好しな方なので」
なるほどな。俺が感想を抱いていると、伊藤が言葉を続ける。
「これも他の営業部の人から聞いただけですけど、営業部長はもちろん田村さんをどうにかしようとしていたそうです。だけど、彼の起こすトラブルや人事部長の圧力に挟まれて、ついには体調を崩してしまったらしく」
伊藤の話が本当なら、田村という男は相当な悪質だ。そもそも社長はコネ入社自体を好ましくないと思っている人物だ。それでも入社させたのだから、きっと社長は人事部長を信頼していたのだろう。俺は社長に対する裏切りにも等しい行為に、腹立たしさを感じていた。
「おい。おっさんたち、さっきから俺の方をチラチラ見てたっしょ。丸分かりだっつうの」
俺が心の中で田村に腹を立てていると、唐突に声をかけられた。振り返ると、すぐそばに話題の人物、田村が立っている。
「俺、田村営業部の期待の星っすわ」
およそ会社勤めをしている人間とは思えない言葉遣いに、俺は静かにため息をついた。ましてや、俺とは初対面だ。確かに俺の方が年上だろうが、いきなり「おっさん」呼ばわりとは。変な奴に絡まれてしまった。しかも、俺をパシリに使おうというのか。対面の俺に対する言動と言い、伊藤から聞いた話に信憑性が増す。先ほど泣きそうな顔で去っていった若い男性も、田村に叱られていたのかもしれないと、嫌でも想像が膨らんでしまう。
俺が不服そうな表情をしているのを見て、田村はまた手をひらひらと振った。
「聞いてんのかよ、おっさん。まあいいや。で、コーヒーは? ついでに俺のデスクの書類も取ってきてくんね? あ、でもお前、どこにデスクがあるか分かんないか。仕方ねえなあ、案内してやるよ」
田村はそう言うと、ずかずかと歩き出した。俺は伊藤と顔を見合わせた。彼女もまた、呆れたような、困ったような表情をしている。
「美吉さん、大丈夫ですか? 私からも言っておきますけど、ああいう人間は相手にしないのが一番ですよ」
「ああ、ありがとう。でも、まあ、初日から波風は立てられないしな。適当にかわしておくよ」
俺がそう言うと、伊藤は心配そうな顔をしながらも、うなずいてくれた。
「分かりました。あまり無理はしないでくださいね。あと、もし何かあったら、すぐに私か総務の人を呼んでください。あの人、手を出してきたりはしないと思いますが、言葉の暴力は平気でしてきますから」
「気をつけるよ。ありがとう、伊藤さん」
俺は伊藤に礼を言うと、田村の後を追った。田村は既に少し離れた場所で、こちらを振り返って苛立った様子で腕を組んでいる。
「遅いんだよ。さっさと来いよ」
「悪いね。足が遅くて」
俺は努めて平静を装い、田村に並んだ。田村は俺を一瞥すると、鼻で笑った。
「まったく、最近の中途入社ってのは使い物にならない奴ばっかりだよな。まあ、お前もその分際を弁えて働けよ?」
「はいはい。肝に銘じておくよ」
田村は新入社員でもないのに、明らかに横柄な態度を崩さない。会社の廊下を歩きながら、これがもし、本当に権力を笠にした行動ならば、早晩どこかで大失敗をするだろう。しかし、その失敗が自分ではなく、回りの人間に降りかかるのが厄介なのだ。俺は田村の背中を見つめながら、この職場でうまくやっていけるかどうか、少し不安になった。
田村に連れられて辿り着いたのは、営業部のフロアだった。田村は自分のデスクにどかりと座ると、こちらを指さした。
「俺のデスクの書類、取ってこいよ。棚の上に置いてあるやつ」
「分かったよ。どれだ?」
俺は田村のデスク周りを見渡した。書類は見当たらない。棚の上を探してみると、確かに無造作に置かれた分厚い封筒があった。
「これか?」
「ああ、それだ。それと、ついでにこれをコピーしてきてくれよ。10部な」
田村はポケットから丸まった書類を取り出すと、机の上に放り投げた。それを手に取り、軽く伸ばす。ところどころ折れ目がついていて、文字が読みにくくなっている。
「……これ、コピーする前に、ちょっとアイロンかけたほうがいいんじゃないか?」
「細けえことは気にすんなよ。俺の言う通りにやればいいんだよ。お前、上司の命令に従わないのか?」
「……分かったよ。やればいいんだろ」
俺は丸まった書類を持って、コピー機のある場所へ向かおうとした。しかし、その時だった。
「おい、ちょっと待ちなよ」
田村の声に振り返ると、彼は携帯を片手に、にやにやとしながら俺を見ていた。
「お前、さっき受付の女と仲良さそうに喋ってたけど、どういう関係?」
「……伊藤さんか。今日初めて会ったけど、何か?」
「ふうん。随分と馴れ馴れしいじゃねえか。まあ、いいや。あの女、結構いい目をしてるんだよな。俺がちょっと声かけたら、あの態度だもんな。まあ、仕事中にちょっと話しかけただけなんだけどよ。事務所の連中も、あれで俺にちょっかいかけるなってのがおかしいんだよな」
田村はそう言うと、くくくと笑った。どうやら、伊藤が田村のセクハラに困っている一人だという噂は本当らしい。俺は内心、この男をこのまま放置していいものかと考えた。しかし、こちらが手を出しては負けだ。ぐっとこらえて、コピー機に向かおうとした。
「そうだ。俺、コーヒーはブラックでいいから。淹れたてな。あ、ついでに差し入れも頼める? 下の自販機で買ってきてよ。金なら後で払うから」
「……ああ。分かった」
「本当、仕事できるんだか分かったもんじゃねえな。まあ、俺に気に入られたら、人事部長の息子として、いいようにしてやってもいいぜ?」
田村はそう言って、気味の悪い笑みを浮かべた。俺は何も答えず、背を向けた。手に持った書類が、悔しさで少し震えていた。
コピー機の前で、俺は深く息を吐いた。田村の言動は、まさに伊藤の説明通りだった。仕事はやらず、他人に押し付けるだけ。しかも、自分の機嫌を損ねたらどうなると、脅してくる。この手の人間がどれだけ多くの人を困らせてきたのか、想像に難くない。それでも、こちらが会社を辞めるわけにはいかない。家族を養っているのだから。
俺は丸まった書類を何とか真っ直ぐに伸ばし、コピーを取り始めた。10部のコピーが終わって、書類をまとめていると、後ろから話し声が聞こえてきた。
「……また、あれかよ。田村のパシリをさせられてるぜ」
「あの人、新人が入るたびにこうだもんな。可哀想に」
「そもそも、親の七光りで入ってきた分際でよくやるよ。いつか痛い目を見るぜ、ああいうのは」
声の主にチラッと目を向けると、課の先輩らしき男性社員が、こちらを気の毒そうに見ながら、同僚と話していた。俺は視線に気づくと、彼らは慌てて口を閉じ、そそくさと仕事に戻っていった。どうやら田村のことは、誰もが問題視しているが、注意をできる者は誰もいない。そんな空気がひしひしと伝わってくる。
コピーを取り終え、田村のデスクへ戻る。田村は相変わらずスマホを弄っていた。
「あー、終わった? ほっとけそこら辺に。んで、コーヒーは?」
「悪い、コーヒーは売り切れだった。また今度でいいか?」
「あ? おいおい、何言ってんだよ。そんなんで仕事務まるのかよ。まあいいや。次、何頼もうかな。そうだな、これからお前、外回りについてくるか? 荷物持ちくらいはできるだろ」
「悪いけど、外回りは遠慮するよ。これから総務に提出する書類をまとめなきゃいけないんだ」
「あ? 何言って……お前、上司の命令に従わないのか? 折角先輩がかわいがってやってるのに、あ?」
田村は立ち上がると、一歩、二歩と詰め寄ってきた。俺の胸倉を掴もうとする。しかし、俺はぴくりとも動かなかった。慌てふためく若造とは訳が違う。10年海外の支社で揉まれてきた男の前では、その程度の威嚇は何の効果も持たないのだ。
「田村さん。一度しか言いません。手を出したら、どちらが不利か、よく考えてください」
俺は低い声でそう言った。田村は一瞬、面食らった顔をしたが、すぐにまた負けじと噛みついてきた。
「て、てめえ、何調子に乗ってやがるんだ! このやろう!」
田村が再び掴みかかろうとした、その時だった。
「田村くん」
と、厳しい声が響いた。見ると、スーツ姿の初老の男が、いつの間にかこちらに立っていた。田村はその声を聞くなり、さっと青ざめて、あわてて距離を取った。
「しゃ、社長……」
社長? 俺は初老の男を見た。社長は俺の顔をじっと見て、ふっと笑みを浮かべた。
「美吉さん、お久しぶりですね。待たせてしまったようで、申し訳ない。挨拶のついでに、こちらの騒動を聞いてね」
「いえ、こちらこそ申し訳ありません。ちょうど、お会いする前に業務を覚えようかと思っていたところですので」
俺がそう言うと、社長は小さくうなずき、隣の青ざめた田村に視線を移した。田村は今にも泣き出しそうな顔で、わなわなと震えている。
「田村くん。君には以前も言ったはずだ。君は来たばかりだ。この会社の風土を理解することから始めなさい。そして、美吉さんは今の私が海外から招聘した、期待の社員だ。君がいい加減なことをするのは、私の顔を潰すことになる。分かっているな?」
「は、はい! すみませんでした!」
田村は深々と頭を下げた。さっきまでの威勢はどこへやら、何度も何度も平謝りしている。社長はそれを見ると、また俺の方に向き直った。
「挨拶は改めて、また正式な場でさせてください。今日はどうも、ありがとうございました。じゃあ美吉さん、また明日からよろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いします」
社長が立ち去ると、田村はまだ青い顔のまま、俺を睨みつけた。しかし、もう何も言い返すことができないようだった。舌打ちを一つ残して、そそくさと自分のデスクへ戻っていく。その後ろ姿を見ながら、俺はそっと溜め息をついた。
昼休憩になり、社員食堂で一人で昼食を取っていると、向かいに伊藤が現れた。心配そうな顔だ。
「美吉さん、さっきは大丈夫でしたか? 田村さんに何か言われたって噂を聞いたんですけど」
「ああ、大したことじゃないよ。社長がたまたま通りかかってな。逆に、一言そらしてもらえたよ。ちょっと驚いたけどね」
伊藤は、嬉しそうに微笑んだ。
「そうでしたか。……でも、社長も言ってましたけど、美吉さんは海外で色々とやってこられたんでしょう? ああいう奴に負けないでくださいね」
「ありがとう。でも、もうしばらくは静かにしてると思うよ。あれだけ社長に睨まれたら、さすがの威勢も収まるだろ」
伊藤はくすっと笑って、席を立った。窓の外を見ると、春の陽射しが眩しい。これからどう転ぶかは分からないが、まあ、何とかなるだろう。俺は箸を進めながら、新しく始まる日本での生活に、ほんの少しだけ期待を寄せていた。
