おい、くみ子、ビール。
ある日、二十歳になった連れ子の星野が成人式から帰ってくるなり、着ていたスーツを床に投げ捨ててソファーでくつろぎ出し、大声で私に命令したのだ。夫の剛も今日は星野の成人を祝うつもりなのか、ソファーの前のテーブルについていた。
ビールを持っていくと、二人は笑いながら私を馬鹿にし出した。
「全く、言われなくてもすぐ持ってこいよ。本当に使えないやつだぜ。あれで母親してんだからお笑いだよな」
「まだうちの会社の掃除のおばちゃんの方が役に立つわ。こんなんじゃすぐに首だけどね」
私は夫の完全なる本音を聞いた瞬間、今まで心の奥に秘めていたことを実行に移す決意を固め、一度実家に戻った。
それなら首でいいです。今までお世話になりました。これ、退職届です。
二人の前に戻ると、私は記入済みの離婚届を突きつけた。
「ふん。こっちは別に構わんぞ。星野も成人したんだし、お前はもう用済みだ」
二人は離婚しても痛くも痒くもないらしい。
三十分後、インターホンが鳴った。
「あら、お迎えが来ました。それでは、さようなら」
「え、お迎えって、ど、どうしてあなたがここに私を迎えに…」
玄関に現れた男を見て、夫は信じられないものを見たように絶句してしまうのだった。
私の名前は美子。幼い頃に両親が離婚し、私は母に女手一つで育てられた。今思い返してもあの頃に楽しい記憶はほとんどなくて、決して裕福な家庭ではなかったし、母は朝から晩までパートを掛け持ちして働いていたから、親子の時間なんてなかった。
学校でも片親だったことを理由にからかわれ、いつも辛く寂しい日々を送る毎日。それでも母が無理して働いていたのは分かっていたし、そんな母を困らせないように、家では明るく振る舞うことにしていた。
母もそれを察していたのか、誕生日には大きなケーキを買ってきてくれたりして、少しでも私が寂しくないようにと努めてくれていた。そんな母を見るたびに、私たちを捨てた父を恨む気持ちが日に日に強くなっていたのを覚えている。
高校を卒業すると、友達がみんな進学する中、これ以上母の負担をかけずに家計を助けるため、私だけ進学を諦めて就職する道を選んだ。毎日必死になって働いて、三十代になってようやく生活が落ち着いた頃、そろそろ母を安心させる意味もあって、お見合いパーティーに参加してみることにした。
そこで知り合ったのが、現在の夫である剛だった。剛は大手企業の会社員で、将来は役員を約束されていると豪語する、なかなかのエリート意識の持ち主だった。
剛には、前の結婚との間にできた連れ子である小学生の星野と、義母がいた。剛は、結婚したら二人の世話をしてほしいと私に頼んできたのだ。
母には「余計な苦労を背負うのではないか」と反対されたが、高卒から必死で働いてお金を稼ぐ苦労を知っていた私にとって、仕事に自信が満ち溢れている剛に魅力を感じていた。
そして半ば強引に母の反対を押し切り結婚した私は、剛と義母の世話をしながら暮らすことになったのである。
結婚から数年が経ち、剛との間に子供ができないまま四十代を迎えた私だが、連れ子である星野に対して何かと手を焼く機会が増えてきた。
高校生になり、だんだんと非行に走るようになったのである。勉強もせずに遅くまでゲームセンターやカラオケで遊ぶ毎日。
それだけならまだしも、遊ぶお金欲しさに私の財布から勝手にお金を抜き取ったり、あろうことか私物のバッグや洋服を無断でネットのフリマアプリに出品までする始末。
当然私は注意した。
「いくら家族のものでも、勝手に売り払うなんていけないことよ」
そう叱るのだが、返ってきた返事はひどいものだった。
「はあ。母親でもないくせに、家族ぶるなよ。クソババア」
星野は暴言を吐くと、全く聞く耳を持たないのだった。
私はいつまで経っても星野から母親扱いされていなかったのである。初めて会った日から今日まで「お母さん」と呼ばれたことはなく、いつも「くみ子」と呼び捨てにされている。
結婚当初からの私の悩みの種で、小学生の頃はまだ良かったのだが、今では完全に見下されているようにしか思えない。
しかし夫の剛や義母はそのことに関していつも無関心であり、お金を抜き取られたことを伝えても、二人が星野を注意することなく、私が一人で悩んでいる状況なのだった。
そんなある日、私にさらなる悩みが増えてしまう。
「そろそろお袋も年だろ。昼間はお前も仕事に行っているから、お袋一人が心配になってきたんだ」
寝室で二人で寝ている時、急に剛がそんなことを言い出したのだ。
確かに最近、義母が廊下で転んだりすることも増えたと聞いていた。
「ああ。だからお前には仕事をやめて、お袋の介護をしてほしい」
「え、待ってください。急に無理です。あそこは私がずっとお世話になっている職場で…」
「仕事とお袋とどっちが大切なんだ?」
剛は自分のことは棚に上げて全く話を聞いてくれず、結局、高卒からずっとお世話になっている職場を辞める流れになってしまった。
その後、なんとか剛を説得して「給食」という形を取り、私は義母の介護に徹することになった。
しかし義母は、介護をされていることを利用して、ほんの些細なことでもすぐ私に任せるようになってしまう。これまで義母と分業していた家事は全て私一人がすることになり、それだけではなく、何度もお茶の準備をさせられたり、わざわざ家に置いていないお茶菓子を指定して買いに行かせたりと、まるで使用人のような扱いだった。
「言いたいことは分かるけど、もう少し自分で動いてほしいな」
そう、それとなく伝えたのだが、あろうことか、
「口応えするな。まったく、何て役立たずな使用人なんだろうね」
と言われる始末。夫の剛や星野の前でもそんな扱いを受け、私がたまらなくなって二人に視線を送っても、
「介護はお前の仕事だろう」
と言って、全く協力してはくれなかった。
振り返ってみれば、星野がこれまで私のことを母親扱いしてこなかったのと同じで、義母からも嫁扱いされていた実感はなかった。これまでも、少しでも家事の手順が違ったり不十分だったりすると、凄い剣幕で怒られていた。
家事を分担していたのは、しぶしぶ共働きだったからであり、それが亡くなった今、思い切り私をこき使えると思っているのだろう。
星野の子育てについても「あんたがしっかりしてないからよ」と言うばかりで、全ての責任を押し付けられていた。
これからずっとこんな生活を送らなければいけないのかと思うと、どうにかなりそうだった。
しかし、相談できる友達も近くにはいないし、母に迷惑をかけたくはないと思っていた私は、虐げられながらも一人で耐え忍んでいくしかなかった。
そんな地獄のような生活が数年続いたある日、なんと義母が突然急病で亡くなってしまったのである。
義母の死は悲しいものだったが、心の奥では、あの虐めから解放されるという安堵もあったのは事実。
しかし私の苦労はまだ終わることはなかった。
実の母親が亡くなったというのに、悲しそうな素振りを一切見せることがない夫の剛。両親が離婚しているとはいえ、肉親をなくしたのだから、もう少し何か感情があってもいいものだろう。それなのに剛は、まるで何事もなかったかのように普通に仕事へ行き、食事をし、テレビを見て笑っている。
「お袋の葬式、ちゃんと出たのか」
私が聞くと、
「出るわけないだろ。あの女に育てられた覚えはない」
と、冷たく言い放った。
「でも、あなたのお母さんでしょ」
「あの女は、俺と父さんを捨てて出て行ったんだ。今さら何を言っても遅いんだよ」
剛の言葉には、一切の迷いがなかった。その時、初めて義母の育て方を知った気がした。義母は、剛のことを「お前のことは死んでも許さない」と言い放っていたのを、私は何度か見たことがあった。
もしかしたら、義母が亡くなって、少しはこの家の空気も変わるかもしれない。そう思った時期もあった。
しかし、それは全くの見込み違いだった。義母が亡くなったことで、剛の私への当たりは、むしろ一層激しくなった。
「おい、くみ子。茶ぁまだか」
今まで以上に傲慢になり、身の回りの世話を焼かせるようになったのである。
星野も相変わらずだ。私の制止も聞かず、今日も朝まで遊んで帰ってきて、玄関で酔い潰れて寝ている。
「ねえ、ちょっと。いつまでソファーで寝てるつもり? 学校は?」
「今日は午後からだし。それに、くみ子には関係ないでしょ」
星野は、私が何か言うたびにそうやってやり過ごす。剛も剛で、星野が家にお金を入れなくても注意もしなければ、どういう生活をしているのかと問い詰めることもない。ただでさえ、義母の介護で仕事を辞めた私の家計は火の車だというのに。
私は、毎日気が休まらない日々を送っていた。これまで必死に働いてきた自負はある。しかし、二度の離婚で傷ついた母は、私の心の支えであり、そして、守らなければならない存在でもあった。
「母さん、最近、体の調子はどう?」
実家に電話をすると、母は元気な声で「大丈夫よ」と答えてくれた。長年苦労をかけた母には、迷惑をかけたくない。この家を選んだのも、私なのに。
私は母を説得して、家に泊まりで来てもらうことにした。少しでも母に楽をしてもらいたかったからだ。
しかし、その母が突然倒れて、そのまま帰らぬ人となった。
あまりにも突然のことで、私は悲しむことすらできず、ただ立ち尽くすしかなかった。何も手につかず、ぼんやりと時間だけが過ぎていく。
亡くなった母の部屋を整理していると、一通の封筒が出てきた。
「美子へ」
そう書かれた母の字を見た瞬間、私は涙が溢れ出て止まらなかった。母は、私のために何通も手紙を書いてくれていたのだ。そこには、いつも私の幸せだけを願う言葉が綴られていた。
私は、誰よりも私のことを大切に思ってくれていた母を、亡くして初めてその大切さに気づいた。
母のお葬式の日、剛は「仕方なく」と言いながら参列してくれた。星野も、スマホをいじりながら無表情で立っている。二人とも、涙の一つも見せなかった。
私は二人の態度に怒りを覚えると同時に、とてつもない虚しさを感じていた。この人たちのために、私は一体何をしてきたのだろう。母にも辛い思いをさせてしまった。
お葬式が終わった後、私は実家のリビングで一人、母の残してくれた手紙を何度も読み返した。
「美子、あなたは何も悪くない。いつか必ず、幸せになれる日が来るから。あなたの好きなように生きなさい。母は、あなたの幸せを誰よりも願っています」
私は母の手紙を胸に抱きしめ、静かに涙を流した。
その日を境に、私は変わる決意をした。このまま何も変わらない日常に、甘んじているわけにはいかない。
私は、久しぶりにプロのキャリアを生かした職を探すことにした。まずは、ハローワークに行って、自分の経験を活かせる仕事を探そう。高卒で入った会社で、事務職として長年働いてきた経験は、決して無駄にはならないはずだ。
そして、私は家計のやりくりをするため、フェアトレードの商品を扱うネットショップを始めることにした。
「ねえ、くみ子。このネットショップ、どうなの? うちの家計大丈夫なの?」
星野が、不機嫌そうな顔で聞いてきた。
「うるさいな。大丈夫に決まってるでしょ。それより、あなた、ちゃんと働きなさいよ。パソコン使えるんだから」
私は初めて、自分のために動き出した。すると、意外なことに、星野も剛も、私の新しい挑戦を面白がり始めたのだ。
「美子さんも大人になったね。何だか嬉しいよ」
剛は、歯の浮くようなセリフを吐きながら、私の肩を抱こうとする。
「ちょっと、やめてよ。今、忙しいんだから」
私は剛の手を振り払い、パソコンの画面に向き直った。
この日を機に、私の人生は大きく動き出した。
それから数ヶ月後、私は離婚届を突きつける日を想像しながら、日々を過ごしていた。ついに、この日が来たのだ。
私は、星野の成人式の日を待っていた。
「ねえ、剛。私、離婚したいの」
ソファーでビールを飲んでいる剛と星野の前に立って、私は新しく書いた離婚届を突きつけた。
「は? 何を馬鹿なことを言ってるんだ。今の今まで、何を言われても黙って従ってきたくせに、今更何を言い出すんだ」
「今までありがとうございました。では、ごきげんよう」
私は、玄関に向かって歩き出した。
「ちょっと待て! くみ子! ふざけるなよ!」
剛の怒鳴り声が聞こえるが、私は振り返らず、ドアの外に出た。
するとそこには、待っていたかのように一台の車が止まっていて、運転席には、見慣れた顔の男が座っていた。
「お待たせしました。社長」
「ええ、ありがとう。もう行きましょう」
私は後部座席に乗り込み、車を走らせた。バックミラーに、家から飛び出してくる剛と星野の姿が映ったが、私はもう何も感じなかった。
私は、母との約束を果たした。いつか必ず幸せになってみせると心に決めた。そして、私は新たな人生のスタートを切ったのだ。
