午前四時の港で、女の子を抱きしめた母親が泣き叫んでいた。「誰か、助けてください!…

午前四時の港で、女の子を抱きしめた母親が泣き叫んでいた。「誰か、助けてください!...

母さんは今日も同じ台詞を口にした。朝の食卓で、湯気の立つ味噌汁を前に、何げなく言う。「誠治、いい人いないのかい。いつまでも独りでいないでさ」俺は箸を止め、苦笑いを返す。「母さん、それは毎朝聞いてるよ」そう、俺は松尾誠治、四十一歳の漁師だ。港町で生まれ育ち、父から受け継いだ小さな船で、今日も海に出ている。女っ気のない人生を歩んできたせいで、結婚はおろか、まともに付き合った相手すらいたことはない。父は三年前に病気で亡くなった。漁師だった父は、いつも俺にこう言っていた。「誠治、早くいい女を見つけて、孫の顔を見せろよ」その言葉が叶わぬまま、父は逝ってしまった。今は七十二歳になる母と二人暮らしだ。母は年のせいか足腰が弱ってきているのに、それでも毎日早起きして弁当を作ってくれる。感謝しているが、それが同時に申し訳なくもある。だからこそ、父の望みを叶えたかった。三十代半ばまでは、真剣に結婚相手を探していた。だが、漁師の仕事に理解を示し、この不便な港町で暮らすことを受け入れてくれる女性など、現れるはずもなかった。同級生のほとんどは都会へ出て新生活を送っている。俺は取り残された格好だ。このまま母と二人、静かに老いていくんだろうなと、諦めにも似た気持ちで過ごしていた。そんなある日、漁師仲間の光男が、網を畳みながら不思議そうな顔で言った。「なあ誠治、あの謎の親子の噂、知ってるか?」「謎の親子?」「ああ、最近この町に引っ越してきたらしいんだ。三十歳くらいの母親と、五、六歳の女の子。親子水入らずで暮らしてるらしいんだが、何せ二人ともボロボロの服着てるんだと。何か訳ありの雰囲気ぷんぷんらしいぞ」俺は網を畳む手を止めて首をかしげた。「この港町にか?」この町は確かに不便だ。スーパーもコンビニも少ない。病院も小さな診療所が一軒あるだけだ。働く場所も限られていて、まともな企業に就職するなら隣町まで出なければならない。子育てをするには正直、不向きな場所だった。そんな場所に、若い母親が一人でやってくる。何か特別な事情があるに違いない。「離婚してこちらに来たとか、何かそういう話じゃないのか?」光男が小声で言う。「知らねえけど、あまり関わらない方がいいって話だぜ。何せ訳ありだって噂だからな」俺は軽くうなずいたが、心の中では他人事とは思えなかった。俺には近所付き合いもなければ、気にかけてくれる親戚もいない。若い母娘がこの町で肩を寄せ合って暮らしているのかと思うと、放っておけない気持ちになる。特に、父を亡くしてからは、母子家庭の苦労が身に沁みてわかる。父を失った後の母と、俺。そして、いまこの町にいる親子。境遇こそ違えど、何か他人とは思えなかった。あれから三週間が過ぎた。噂の親子を一度も見かけることはなかったが、噂はどんどん大きくなっていった。どうやら女の子は一度も外に出ておらず、母親も買い物に行く姿は見かけるものの、人と話す様子はないらしい。賢明な噂話は、いつの間にか憶測を生み、尾ひれがついて広がっていた。「離婚して夫から逃げてきたんだって」「あの子、昨日も窓から外を眺めてたよ。何だか哀れだな」「やっぱり他に人が住んでたんだな。まさか実在するとは思わなかった」噂話を聞くたびに、俺は心を痛めていた。あの親子は、何かに怯えているのだろうか。それとも、この町に来ることを余儀なくされただけなのだろうか。だが、所詮は他人事。深く関わろうとは思わなかった。いや、思うことができなかった。今の俺には、そんな余裕すらなかったのだ。あれから、さらに数週間が経った。季節が変わり、潮風が冷たさを増してきたころ。俺はいつもより三十分ほど早く、漁に出る準備をしていた。午前四時の港は、まだ薄暗く、波の音だけが響いている。船のエンジンをかける準備をしていると、不意に女の子の声が聞こえた。「お母ちゃん、大丈夫?」ハッとして声のした方を見ると、そこには一人の女性が女の子を抱きかかえていた。年は三十歳くらいだろうか。セーター姿の痩せた母親が、娘を抱きしめながら、泣き叫んでいる。「誰か、助けてください! 娘が息をしていない! お願い、誰か!」母親の声に釣られて、彼女の腕の中でぐったりする女の子に視線が向く。女の子は青ざめた顔で、ぐったりとしていて、目を閉じている。呼吸をしているようにはとても見えなかった。俺は状況を察するよりも早く、二人に向かって走り出していた。「ちょっと待ってろ! 今行く!」「お願い、助けて! 娘が、娘が!」「すぐに病院へ運びます! 俺の船に乗ってください! この町には大きな病院がないんだ。隣町まで看病が必要だ!」母親は何が起こったのか理解できないといった様子で、泣き濡れた顔を上げた。俺は構わず、母親から娘を受け取ろうとした。すると、母親は恐怖で震える腕で娘を離すまいと、強く抱きしめた。「で、でも、あなたは一体?」「とにかく急いで! この子を助けるんだったら、俺を信じてついてきてください!」俺の剣幕に圧され、母親はようやくコクリと何度もうなずいた。俺は母親から少女を受け取り、素早く船へと向かった。船に乗せ、エンジンを始動する。凍えるような海風が頬を打つ中、俺はいつもの何倍ものスピードで隣町を目指した。時折、後ろを振り返ると、放心状態の母親が必死に娘を抱きしめていた。「大丈夫ですからね。すぐに着きますから」母親は無言のまま、何度も何度もうなずいた。波が高い、船が大きく揺れる。だが、それどころではなかった。早く、一秒でも早く。あの小さな命を救わなくては。十一分後、隣町の港が見えてきた。事前に連絡しておいたので、岸には救急車が待機していた。「母さん、こっちだ!」運転手の俺の号令で、待機していた救急隊員が駆け寄ってくる。俺は少女を抱きかかえたまま、走った。「娘さんが、息をしていないらしいんです!」「わかりました。私たちに任せてください!」救急隊員が少女を担架に乗せ、救急車へと乗せる。母親の肩を抱きながら、俺は必死に言った。「大丈夫ですからね。心配しなくて大丈夫ですから」「は、はい……」「お母さんも救急車に乗ってください。付き添ってあげてください」だが、母親は首を横に振った。「でも、お金が、私、財布を家に……」「そんな場合はいいんですよ! とにかく早く、お母さんも乗ってください!」救急隊員に急かされ、母親は泣きながら少女にしがみついたまま、救急車に乗り込んだ。俺はサイレンの音が遠ざかっていくのを、呆然と見送ることしかできなかった。あの少女の顔を思い出す。確か、青ざめた顔のまま、微かに動いていたように見えた。まだ、生きているかもしれない。俺は慌ててスマートフォンを取り出し、港で待つ光男に電話をかけた。「光男、悪い。今、隣町で船舶免許で知り合った病院の医者に連絡を入れた。どうやら娘さんは一命を取り留めたらしい。一晩入院して、明日の朝には退院できるそうだ。良かった。本当に良かった。お前、本当に良いことをしたな」光男の安堵したような声が聞こえ、俺もどっと力が抜けた。翌朝、俺は光男の車で病院へと向かった。病室の前で、待っていたのは憔悴しきった母親だった。娘は一命を取り留め、今はぐっすり寝ているという。母親は俺の顔を見るなり、深く頭を下げた。「この度は、本当にありがとうございました。あのまま何もなければ、娘は死んでしまうところでした。お礼を言う言葉も見つかりません」「最後まで言ったのに。気にしないでください。娘さんが無事で本当に良かった」俺がそう言うと、母親はうつむきながら、ポツリと語り始めた。「実は、夫と別れて、この町に逃げてきたんです。縁もゆかりもない場所で、一からやり直したくて。でも、どこで誰に何を言われるかわからないので、娘を外で遊ばせることもできずにいました。あの子は本当は、外で思いっきり遊びたいはずなのに。いつも黙って我慢していて。私、親として何もしてやれなくて」母親は涙を拭いながら、娘の眠る部屋を見つめた。「私、あなたにお会いして、やっと誰かに相談できるんだって思えました。こんな弱い私でごめんなさい。でも、どうか、これからも娘のことを見守っていただけませんか? あなたは、あの日、助けてくれた恩人です。それなのに、私、まだ何も返せていないのに、図々しいのは分かっています。でも、もし許していただけるなら、時々でいいんです。名前を呼んで、ただ見守ってくれるだけでいいんです」俺はその言葉を聞いて、胸が締め付けられる思いだった。この女性は、よほど孤独なのだろう。娘も母も、誰にも頼れず、ずっと二人きりで頑張ってきたのだ。俺は、四十数年生きてきたが、この人たちの苦労を思うと、自分がいかに恵まれていたかを思い知らされた。「わかりました。何かあれば、いつでも頼ってください。俺も、力になれることがあれば」俺がそう言うと、母親は涙で濡れた顔を上げ、初めてほほえんだ。そのかすかな笑顔は、病室の淡い光の中でひときわ輝いて見えた。あれから一週間後、退院した親子と俺は、連れ立ってあの港に立っていた。娘は、すっかり元気を取り戻し、俺の手を引いてはしゃいでいる。「おじちゃん、見て見て! あっちに魚が跳ねてるよ! すごいね!」「そうだな。あれはボラっていうんだ。冬になるとこの辺にいっぱい来るんだぞ」「へえ、すごい! おじちゃん、海のこと何でも知ってるんだ!」娘の屈託のない笑顔に、俺は思わず目を細める。隣に立っていた母親が、小さな声で言った。「ありがとう。あれから、よく眠れるようになりました。あなたに会うまでは、毎晩悪夢を見ていたんです。あの日、あなたが助けてくれなかったら、今ごろどうなっていたか」俺は海を見つめながら、ゆっくりと言った。「俺で良ければ、力になります。これからも、よろしくお願いします」そう言うと、母親は何度もうなずき、そしてまた、静かに笑った。その日、俺は初めて、誰かの「家族」になれるかもしれないと思った。そして、母に初めて、「好きな人ができた」と話したのは、その夜のことだった。

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