私は席次表から目が離せませんでした。夫の名前の隣に私の名前がない。いや、それだけじゃない。私の名前はその席次表のどこを探しても存在しなかったのです。受付のスタッフが私の異変に気づいて戻ってきました。申し訳ございません、ただいま確認しておりますので、少々お待ちください。
その時です。背後から冷たい声が聞こえてきました。あら、お母さん。来てたんですか。振り返ると、今日の主役である息子の婚約者、ちなさんが立っていました。おしゃれなドレスに身を包み、しかしその目は笑っていませんでした。だって、席次表にお母さんの名前を書くのを忘れてたんです。あ、忘れたというか、最初から書くつもりがなかったんですけど。私の心臓が一瞬止まりました。え、どういうこと? 私、新郎の母よ。それなのに席次表に名前がないってどういうこと?
あー、だってお母さん、どうせ目立ちたいわけじゃないでしょ? それに、お母さんってば席に座ったところで話す人もいないし、むしろ気まずいだけじゃないですか。ちなさんの言葉に周りにいた参列者からひそひそという声が聞こえます。私は恥ずかしさと悔しさで頬が熱くなりました。ちょっと、ちな。それは言いすぎだ。そこにいた夫が怒りを込めて一歩前に出ました。しかし、ちなさんは全く動じません。あら、お父さん。だって事実じゃないですか。お母さん、看護師やってて話すネタもないでしょ。患者さんの愚痴しか。
私の足がふらつきました。41年間。41年間、私はこの日のために働いてきました。息子のために、家族のために、誰かのために。そのすべてを否定された気がしました。
母さん! その時、息子の優太が走ってきました。ちな、何やってるんだよ。母さんにそんなことしちゃダメだって言っただろ。優太はちなさんの腕を掴みました。優太、あんたは黙ってて。これは私とお母さんの問題なんだから。ちなさんは優太の手を振り払います。でも、優太も負けていませんでした。ダメだよ、ちな。母さんは今日の主役の一人なんだ。そう言って私の方を向きました。母さん、ごめん。母さん、ちょっとこっち来てくれる? 優太が私の手を引きます。
案内されたのは会場の隅にある小さなテーブルでした。母さん、ここで大人しくしててくれる? お願いだから。今日だけは俺に任せてほしい。優太の目は真剣でした。しかし、その言葉に私は違和感を覚えました。そして、彼は言ったのです。あと、今日のスピーチだけど、母さんはなしでお願い。え? 私は何も言えませんでした。打ち合わせの時に言ったでしょ、プロの司会者に任せるって。母さんの話は長いし、場が白けるからさ。すみません、お願いします。
私はただ、その場に立ち尽くすことしかできませんでした。私が育てた息子。私が必死で働いたお金で大学に行かせた息子。その息子に、私はいらないと言われました。どうして? 私の何がいけないの? 私はみんなのために頑張ってきたのに。その夜、ホテルの部屋で夫が私を強く抱きしめました。道、我慢しなくていいんだよ。もうここまでにしよう。明日、結婚式をキャンセルして家に帰ろう。いや、そんなことできないよ。だって、息子の晴れの舞台なんだよ。私、ずっと楽しみにしてたんだから。私は首を振りました。優太の晴れ姿、見たいんだ。どんなことを言われても、私は母親だから。
夫は深く息を吐き、私の手を握りました。わかった。でも、約束してくれ。何かされたら、すぐに言うんだぞ。うん。ありがとう。
そして結婚式当日。私は夫と共に会場へ向かいました。車の中で夫は何度も私に確認します。道、本当に大丈夫か? 無理はするなよ。うん、大丈夫よ。あなたがいるから。私は夫の手を握り返しました。会場に到着すると、華やかな装飾が私たちを出迎えます。知っている人は誰もいません。これだけ人がいるのに、私は一人ぼっちだと思いました。受付に近づくと、スタッフの女性が微笑みました。おはようございます。お名前を伺ってもよろしいでしょうか? 私は秋沢です。秋沢様、恐れ入りますが、ご新郎様の…。ええ、母です。私は精一杯の笑顔を作りました。
スタッフの女性が席次表を確認します。しかし、彼女の手が止まりました。あの、申し訳ございません。少々お待ちいただけますか。彼女は困惑した顔で奥へと引っ込んでいきました。いやな予感がしました。数分後、彼女が戻ってきましたが、その顔は強張っていました。あの、秋沢様。大変申し訳ございませんが、本日は、その、参列の必要はないかと…。どういうことですか? 私は声を震わせました。それが、何と言いますか、ご新郎様のご指示で、お母様は… 。それ以上言う前に、後ろからよく通る声が聞こえました。
あら、来たんじゃない。振り返ると、ちなさんの両親らしき人が立っていました。あなた、来ない方がいいって言われてなかった? あなた、何をおっしゃって…。これが招待状よ。私の名前が消えている。彼女が掲げたのは、私たちには送られてこなかった招待状でした。この招待状だって、わざわざ新郎の母親の分だけ作らなかったのよ。だって、あなた、私たち家族の中で唯一の部外者だから。許せないわね。あなたが優太くんに必要なお金を出したからって、あの子がここまで育ててもらったわけじゃないからね。
私は激しい眩暈を感じました。支えようとして、私の体が揺れました。それに気づいて、夫が慌てて私の腕を支えます。もう十分だ! あなたたちのせいで私たちの結婚式が台無しだ! 夫が怒鳴りました。道、帰ろう。こんな場所、最初から来るべきじゃなかったんだ。私たちが帰ったら、優太は悲しむわ。悲しむ? あの息子に何の情けがあるっていうんだ! 夫は珍しく声を荒げました。あの息子は、俺たちを外した席次表を持ってきて、母親の名前を消して、自分の妻を選んだんだぞ! いいか、道。こんな場所には1秒もいる必要はない。俺が言うんだ。帰るぞ。
夫は私の手を強く引きました。でも、私の足は動きません。このまま帰ったら、本当に終わってしまう。私はそれだけは絶対に嫌でした。お願い、道夫。最後までいさせて。私…。私は夫の腕を掴みました。夫は怒りと悲しみの混ざった目で私を見つめます。道。そんな時でした。
お父さん、お母さん。よく来てくれましたね。息子の優太が式の準備も済ませたのか、緊張した面持ちで近づいてきました。優太…。ちなの様子、変だと思って。ちょっと、お父さん、お母さんにひどいこと言うかもしれないんだ。でも、俺が止めるから。本当にごめん。優太は深々と頭を下げました。戻ろう。式が始まるから。優太に手を引かれ、私たちは式場の中へ入っていきます。
チャペルの中は厳かな雰囲気に包まれていました。空席がいくつも見えます。どうやら、新郎側の親族は私たちだけのようです。案の定、私の席はなく、代わりに後ろの席に座ることになりました。式が始まりました。パイプオルガンの音が響き、あのちなさんがバージンロードを歩いてきます。確かに綺麗な花嫁でした。将来のことは考えたくないけれど、あの笑顔の裏で何を考えているのか。
祝福の拍手の中、私と夫は手を握り合っていました。夫に握られた手の力が伝わってきます。そして、披露宴。私の席は一番隅の端っこ。名札すらありませんでした。料理が運ばれ、スピーチが始まります。ちなさんのご友人らしき人が、楽しそうに二人の馴れ初めを話します。私の知らない息子の話。仲人挨拶が終わり、乾杯の発声も終わり、会話が始まりました。すると、ちなさんがマイクを持って立ち上がりました。
えー、それでは、ここで皆様にご報告がございます。ちなさんは嬉しそうに微笑みました。この度、私たち夫婦は、新しい命を授かりました。会場からどよめきが起こり、祝福の拍手が起こります。妊娠。私は驚きのあまり、グラスを持つ手を止めてしまいました。ちなさんが、どんだけ幸せそうな顔で、私の方をチラリと見たのです。
お父さん、お母さん。この席で言うのもなんですが、奥様、いや、お義母さん。こちらを向いてくださいましたか? 私は顔を上げました。この席、私の席を、どう思います? 誰も気づいていないようですね。この席、私の名前じゃなくて、嫁の名前しか書いてないんです。ちなさんは白い歯を見せて笑いました。だって、あなた、もう必要ないでしょ? あなたが息子のお金を管理しなくなって、あなたの存在意義が消えたんです。だから、その分、これからは私が幸せになりますから。そう言って、ちなさんは私の前の料理を、そっとウェイトレスに下げさせました。どうぞ、おかあさま。席を外してください。あなたの居場所はここにはないので。
静寂が会場を支配しました。周りの注目が私に集まります。その視線が、痛い。死にたいぐらいでした。しかし、私は震える脚を必死に押さえ、立ち上がりました。道夫。帰りましょう。今度は私から言いました。え? 道? 立って。荷物をまとめて帰るわよ。私は夫に微笑みました。それから、ちなさんの方を向き、お祝いの席で悪いんだけど、あなたは自分のお母さんに同じことをされると思いなさい。そう言い残して、私は席を立ちました。
え、ちょっと待ってください! 私の後ろでちなさんが叫ぶ声が聞こえます。待ってよ! 今、話をしてるんでしょ! でも、私は止まりませんでした。会場の出口に向かって歩きます。道! 夫が慌てて追いかけてきます。道、待って! 私はいいんだよ。別に。あいつが言ったことが、全てだから。
会場を出て、エレベーターに乗り込みました。夫がドアの横のボタンを押します。道、ごめんな。こんなことになるなんて。私は首を振りました。いいのよ。むしろ、たくさん気づかせてもらったから。エレン。何が? 私は、何にも悩んでなかったんだなってことよ。あの子は、息子じゃなかったんだ。私が一人息子を育てるって言って、ここまでやってきたのに。私は、いい母親じゃなかったんだ。
道。夫が私の手を握りました。お前は十分やったよ。あの子がダメなんだ。児童虐待と一緒だよ。与えすぎたからダメなんだ。俺も息子の育て方、間違えたのかもしれない。私は笑いました。あなたは悪くないわ。あの子のせいよ。あの子が、ちなって子を選んだから。
エレベーターを出て、ホテルのロビーに向かいます。外は少し肌寒い日でした。すると、後ろから早足で走ってくる音が聞こえました。まって! 振り返ると、息子の優太が立っていました。母さん、ごめん! ごめん! 優太は私の前で土下座しました。母さん、俺が悪かった! 母さんを悲しませるようなことをして! でも…! 優太は顔を上げ、涙で濡れた目で言いました。でも、ちなには子供ができたんだ。やめてほしいんだ。あいつ、妊娠してるんだ。もう、俺、どうしたらいいかわからないんだ。私は息子の姿に深い悲しみを覚えました。しかし、その涙を払拭する気にはなれませんでした。
優太。あなたはね、もう大人でしょ。自分の選んだ道、後悔しないようにしなさい。私はそう言うのが精一杯でした。母さん! 行かないで! 優太が叫びます。道が、夫が私の前に立ちはだかりました。息子よ、もういい。お前はお前の道を行け。母親は、お前が守ってやらなくてもいいんだ。お前が妻を守れ。それができなきゃ、結婚なんかするんじゃねえ! 夫の怒声が響きました。そして、今度こそ、私たちは歩き出しました。
振り返らない。私は決めました。あの日の夜、自宅のソファーで夫がお茶を淹れてくれました。道、熱いお茶だぞ。どうぞ。ありがとう。私はカップを手に取り、香りを楽しみました。道。何だい? 私、看護師を辞めようと思う。え? 理由を聞いてもいいか? 私は微笑みました。もう、十分だろ? 私、これまで色々決めてきたつもりだったけど、実はいいように使われてただけだったみたい。仕事は楽しかった。誇りもある。でも、疲れた。もう、誰かのために生きるのはやめにする。今度は、あんたと二人で、俺のための人生を歩みたいの。自分のために生きるってやつだ。道…。夫の目から涙がこぼれました。ああ。そうだな。二人で、自分の人生を歩もう。そして、私たちは翌朝、区役所へ行き、私の姓を旧姓に戻す手続きをしました。
それから1ヶ月後、ちなさんから一通の手紙が届きました。そこには、住所もなければ、署名もありませんでした。ただ、一筆だけ。だって、あなた、私たちの家族じゃないもん。と書かれていました。道。夫が手紙を読んで、何も言わずにゴミ箱に捨てました。何だった? 何でもないさ。今日から、俺の妻が一番だからな。そう言って、夫は照れくさそうに笑いました。
私はあの日のことを思い出すたびに、こう思うのです。あの結婚式は、私にとっては終わりの日だった。でも、始まりの日でもあったんだなって。ふと、机の上に置かれた夫の眼鏡が目に入ります。その隣で、たくさんの思い出と共に、私は新しい人生を歩み始めています。もう二度と、あの時のような涙は流さない。今度は、私自身のために笑うと決めたのです。
