電話の向こうの声は、よく知っている弟のものではなく、その婚約者だった。彼女はまるで天気の話でもするように、けれど確かな拒絶の響きを纏って、そう言ったのだ。
「お兄様は結婚式に絶対に来ないでください。」
俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。受話器を握る手に力が入る。ゆやの幸せを願っていたのは、この数年、ずっと変わらない俺の気持ちだった。それなのに、その結婚の中心にいるはずの女性が、よりによって俺に欠席を要求してくる。
「あなたは中卒で、建築現場で働いている。私の父は銀行の役員です。そんな相手が、式に来て情けなく思われるのは嫌なんです。恥ずかしいんですよ。」
その言葉は、電話越しでもはっきりと聞こえた。俺は呆然と立ち尽くし、何も言い返せなかった。
「お願いですから、これ以上邪魔しないでください。結婚式をあげさせてもらえないかもしれません。」
受話器を置いた後も、しばらく体が動かなかった。ゆやのためを思えば、彼女の要求を呑むしかない。そう自分に言い聞かせた。いや、呑まざるを得なかった。
ところが、俺が欠席したことで、結婚式は想像もできない大きな事態に巻き込まれていくことになる。
俺の名前は工藤英太。小さな社宅で一人暮らしをしている。休日の朝、まだ布団の中でまどろんでいた時、スマホの着信音が部屋に響いた。ディスプレイには「ゆや」の文字。弟からの電話だ。
「もしもし、兄さん。今日、休みだよね?」
「うん。まだ寝てた。」
寝ぼけた頭で体を起こし、洗面台に向かいながら声を聞いていた。顔を洗い、タオルで拭いていると、ゆやの声がふいに弾んだ。
「俺さ、結婚しようと思ってる相手がいるんだ。今度、兄さんに紹介したいんだ。」
突然のことに驚いて、目が一気に覚めた。思わず鏡の中の自分を見つめる。驚きと同時に、成長した弟への喜びが込み上げてきた。俺とゆやは、小さい頃から二人で助け合いながら生きてきた。母は俺たちが幼い頃に離婚し、女手一つで働いて俺たちを養ってくれていた。だから、父の顔はほとんど記憶に残っていない。
仕事で遅くなる母の代わりに、小学生だった俺は、まだ保育園に通っていたゆやの世話をよくした。母が急にいなくなったあの日から、特にそうだった。
「お兄ちゃん、ごめんね。また仕事に行ってくるから。夕ご飯はこれをチンして、ゆやと二人で食べてね。」
「わかった。じゃあ、お布団だけ出しといてあげる。ゆやはご飯の途中で眠くなっちゃうから。」
「わかった。エイタ、ありがとう。」
そうして親子三人で仲良く暮らしていたのに、ある日、母が突然、祖父母の家へ行くと言い出した。そして、そのまま俺たちを祖父母に預けたきり、二度と戻らなかった。幼いゆやは母がいないことが心細くて、夜になるたびに泣いていた。そんな時は、絵本を読んだり、手を繋いで寝たりして、気を紛らわせながら過ごした。
「お母さん、今日帰ってくる?」
そう訊かれるのが、いつも辛かった。俺は「知らない」と答えるようになっていた。それがいつからだったのかは、もう覚えていない。祖父母は母のしたことに怒りを感じながらも、俺たち兄弟を大切に、愛情深く育ててくれた。毎日決まった時間に温かいご飯が用意されているだけで、俺は本当に嬉しかったのを今でも覚えている。
もう母は帰ってこないのだと諦め始めた頃、心の中で一つの覚悟が生まれた。弟を守るのは、俺しかいない。そう思うようになったのだ。ゆやが小学校に上がり、近所のいじめっ子がちょっかいを出してきた時は、祖母がいつも使っていたほうきを思いっきり振り回して追い返した。
「こいつの兄ちゃん、やべえ。逃げろ!」
あいつらが慌てて逃げていく背中を見ながら、俺は強くなりたいと強く願った。俺が空手を習いたいと言い出したのも、弟を守らなければという思いからだった。だが、田舎には俺が通えるような空手教室はなかった。その代わりと言っては何だが、祖父は休みの日に俺を釣りに連れて行ってくれた。
海を前にすると、自分がとてもちっぽけな存在に感じられた。ゆっくりと釣り糸を垂らしていると、いつもせわしなく動いていた心が、静かに落ち着いていくような気がした。俺は釣りが好きになり、ゆやを祖母に任せて、一人で釣りに出かけるようになった。毎週通うようになり、祖父の釣り仲間だった日野さんとも友達になってくれた。日野さんは、もしも父親がいたら、こんな感じだったのかもしれないと密かに思わせてくれる、穏やかな大人だった。
「エイタは、将来なりたいものとか、職業とかあるのか?」
釣りをしながら、日野さんは中学生の俺にそう訊いた。
「うーん。俺は普通のサラリーマンになって、弟とじいちゃんとばあちゃんがもっと楽に暮らせるように、お金を稼ぎたいかな。」
「なら大丈夫だ。お前はこの海みたいに大きな心を持っているからな。頑張りなさい。」
その時言ってくれた言葉に、俺はその後何度も助けられた。高校生になってからも、お金を稼げるサラリーマンになれるようにと、必死に勉強した。しかし、そんなある日、祖母が倒れた。祖母が入院したのと同時に、今度は祖父が倒れ、祖父はそのまま帰らぬ人となった。葬儀は役所の人に事情を話し、なんとか小さな規模で執り行うことができた。
祖母が来られないことを知ったゆやの提案で、俺たちは祖父が寂しくないようにと、二人で釣り場まで日野さんを探しに行った。祖父が亡くなったことを伝えると、急だったにも関わらず日野さんは準備をして、翌日の葬儀に参列してくれた。
「エイタ、ごめんね。おばあちゃん、すぐ元気になるからね。」
祖父の葬儀にも参加できなかった祖母は、病院で元気がなかった。俺はそんな祖母に言った。
「病院でゆっくり治してください。家のことは大丈夫です。ゆやも来年には中学生になるし。」
「そうだね。じゃあ、必要なことはエイタに伝えておかなくちゃね。」
そう言って祖母は、入院している間に家のことやお金の管理の仕方など、細かいことを詳しく教えてくれた。回復に向かっていると思った矢先、祖母の容体は急変し、息を引き取った。あっけないほど静かに、祖母は逝ってしまった。
祖母の葬儀を終えた後、俺は生活のために高校を中退し、建築現場で働き始めた。母方の祖父母は他に頼れる身寄りもなく、ゆやと二人、残された小さな家で暮らしていくしかなかった。
「僕もアルバイトするよ。」
中学生になったばかりのゆやが、真剣な顔で言ってきた。
「中学生はアルバイトできないよ。勉強してな。」
「新聞配達ならできるって調べた。」
「大丈夫。ちゃんと稼いでるから、心配すんな。」
ゆやは何度も家計を助けようと申し出てくれた。その度に俺は首を横に振った。ゆやには勉強していい学校に入って、将来仕事に困らないように大学にも行って欲しい。そのためなら、どれだけ働いても苦じゃなかった。それを聞いて、ゆやはようやく勉強に打ち込むようになった。そして、名門高校に入学し、順調に大学へと進んだ。今では一流企業で働いている。兄として、本当に誇らしかった。
「今度の兄さんの休みに合わせて、兄さんの社宅へ連れて行ってもいいかな?」
電話でのゆやの声は、これまでにないほど弾んでいた。俺は思わず笑みがこぼれた。
「ここでいいのか? わかった。片付けて待っとくよ。楽しみにしてる。」
次の休みの日、俺は少し緊張しながらゆやの婚約者である小島まゆと対面した。初めまして、と挨拶をする彼女は、品の良い服装に、きちんとセットされた髪。一目見て、いわゆるお嬢様なのだと分かった。
「どうぞ、中へ上がってください。」
狭い玄関で靴を脱ぎながら、彼女は部屋の中を見渡した。
「えっと、ここに住んでいらっしゃるんですか?」
「そうだよ。ここが兄さんの社宅。」
ゆやが答えると、彼女は少し戸惑ったような表情を浮かべた。男世帯の部屋に上がるのは慣れていないのだろうと、俺は気にも留めずに話しかけた。
「ええ、狭苦しくてすみません。建築現場で働いていて、ほとんど帰って寝るだけだから、狭くても大丈夫なんですが。まさかゆやが彼女を連れてくることになるとはね。」
「あゆとは、取引先の紹介で知り合ったんだ。もうすぐ婚約する予定なんだ。」
俺はゆやが頼もしく見えて、彼女との婚約を素直に喜んだ。彼女はおとなしい性格なのか、あまり自分から話さず、居心地が悪そうに愛想笑いをするばかりだった。きっと上品なお嬢さんなのだろう、と俺は思った。話していると、ゆやのスマホが鳴った。
「ごめん。仕事の電話。」
そう言って部屋を出ていったゆやの後ろ姿を見ていると、ふいに彼女が口を開いた。
「お兄様、建築現場で働いているとおっしゃっていましたけれど、大学はどこを出ていらっしゃるんですか?」
「いや、俺は祖母が亡くなってから、ゆやの親代わりみたいなもので。高校を中退して働き始めたんです。」
「それじゃあ、中卒ってことですか?」
「はい。元々ゆやと違って勉強も好きじゃなかったですし、その延長で同じ仕事を続けてます。」
彼女は、落胆した様子を隠さずに、小さくため息をついた。
「ゆやさんのお兄様が中卒だなんて、聞いていませんでしたわ。」
俺は学歴を諦めたことを、今でも後悔していない。だが、中卒では社会が認めてくれないというのを、これまで痛いほど経験してきた。ここへ来て、弟に迷惑をかけてしまうかもしれないという不安が、ふと頭をよぎった。
「私、ゆやさんは優秀な方だから、お兄様も立派な職業についていらっしゃると勝手に思い込んでいました。でも、違うようですね。立派な職業、今からそれを取り戻せというのは無理な話ですし。とりあえず、私たちの幸せを邪魔しないでくださいね。」
「そんなつもりはありません。ゆやには幸せになってもらいたいと思っています。」
そう言うと、彼女は口元を少し上げ、また愛想笑いをした。顔が引きつっているのが分かった。そこへゆやが戻ってくると、彼女はまた静かになった。ゆやは、さっきの彼女の顔を知っているのだろうか。そう疑問に思ったが、ゆやにどう伝えたらいいのか分からなかった。言えるはずもなかった。
「兄さん、今日は休みの日なのに付き合ってくれてありがとう。紹介できてよかったよ。」
屈託のないゆやの笑顔を見て、俺はその言葉を胸の奥にしまい込んだ。それからしばらくして、正式に婚約が決まったと連絡があった。結婚式一週間前のことだ。知らない番号からの着信に出ると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「もしもし。先日はどうも。小島まゆです。覚えていらっしゃいますか?」
その話し方だけで、あの日の彼女を思い出し、少し嫌な気分が蘇った。もちろん覚えている。何かあったのか、と訊くと、彼女はこう言った。
「今日はちょっと、お兄様にお願いがあってお電話しましたの。」
「俺に? お願いっていうのは、もしかして結婚式に何かサプライズするとか? 俺にできることなら、何でもどうぞ。」
お願いだと聞いて気をよくした俺は、冗談混じりに言った。だが、彼女の次の言葉で、その気持ちは一瞬にして凍りついた。
「ええ、その結婚式なんですが、お兄様は欠席していただけないかしら?」
「え? ゆやの唯一の親族なのに、結婚式に行かないなんて考えられないでしょ。」
「ご存知ないかもしれませんが、私のお父様は銀行の役員なんです。父には、家柄とか、そういうものを重視されているので。親戚やご両親がいない相手との式は反対されているの。だから今回は、役者を何人か雇って出席させようと思っているんです。」
「役者って? 偽物の家族や親戚を演じてもらえるサービスがあるんです。頼めば来てくれるらしいので、今回はそうしようと思ってます。」
「それで、ゆやは納得しているんですか?」
「納得も何も、結婚式は私のためのものですから。協力して、と話すつもりです。なのでお兄様は、仕事が入ったとかなんとか適当に言って欠席してほしい。いえ、欠席してください。」
「そんなの、ゆやだって反対するはずです。俺だってお祝いしてあげたい。」
「そうでもしないと、結婚式はあげさせてもらえないかもしれません。父に結婚を許してもらうのだって大変だったんです。お願いですから、これ以上邪魔しないでください。」
「これから旦那になる相手の実の兄を、邪魔だと言うんですか?」
しばらく沈黙した後、電話の向こうから小さなため息が聞こえた。
「どうして学歴も仕事も胸を張れないのに、堂々と式に来ようとするのか理解できません。正直、来られると恥ずかしいんですよ。」
それだけ言い捨てて、電話は切れた。俺は呆然としてしまった。だがすぐに、自分が初めて恥ずかしいと思った。確かに世間一般から言えば、中卒の俺は大した人間ではない。しかも、俺のせいでゆやが結婚を許してもらうのも大変だったようだ。ゆやに恥をかかせてはいけない。それだけは絶対に避けたかった。
その後、胃が痛くなるような思いをしながら、俺は弟に電話をかけた。
「兄さん? そっちからかけてくるなんて珍しいね。どうしたの?」
「それが、今度の結婚式なんだけど。どうしても抜けられない仕事が入ってしまって。本当に申し訳ないんだが、欠席させてもらうよ。」
「え? どうして? この日は前から来られるように調整してくれてただろう。」
そうだ。現場の責任者である俺は滅多に休めないが、その日は無理を言って調整してもらった。職場のみんなが「是非その日は行ってきて、弟さんにおめでとうと伝えて」と協力してくれたことを思い出し、込み上げてくるものがあった。
「無理なんだ。俺が責任者だから、抜けることができない。」
「そっか。本当に残念だけど、仕方ないね。でも、もし間に合うようだったら、途中からでも来てよ。俺は兄さんに来てほしいんだ。」
「わかった。早く終わったら、必ず駆けつける。改めて、おめでとう。ゆや。」
「うん。ありがとう。必ずだよ。」
電話を切ってからしばらく、ゆやの真っ直ぐな言葉を思い出し、涙が止まらなかった。こんな兄でも来てほしいと思ってくれていることが、何よりの救いだった。俺は、まゆに潰された自尊心を少しだけ取り戻せた気がした。
結婚式当日、俺は特に行くところもなく、家の中で悶々とするのが嫌で、久しぶりに釣りに出かけた。働くようになってからはほとんど行っていなかったが、昔から行っていた釣り場には、何となく足が向いた。ここなら職場の人間に会うこともない。釣り糸を垂らし、懐かしい気持ちと同時に、やはり涙が溢れてきた。誰もいないのをいいことに、俺はしばらく好きなように泣いた。悔しさや寂しさ、ゆやに不義理をした気持ちを、全部海に流してしまいたかった。
ひとしきり泣いて、ふと気配を感じて振り向くと、見覚えのある人物が釣り道具を持ったまま佇んでいた。
「あ、日野さん。」
俺は慌てて袖で涙を拭い、もう一度彼を見た。日野さんは懐かしい笑顔を浮かべていた。
「ここへ来るのも久しぶりだな。そんな捨て犬みたいな顔して、どうした?」
「捨て犬って、ひどいな。」
俺は泣いているところを見られた恥ずかしさもあり、笑い泣きしながら、結婚式へ行けなかった一部始終を日野さんに話した。日野さんなら、何でもないことのように俺の心を落ち着かせてくれる。そんな気がしていたからだった。
「それはひどい話だ。エイタは誰にも引けを取らない、立派な人間だよ。これは俺が一番よく分かっている。もう泣かないでよ。」
「でも、俺が顔を出したら、ゆやの幸せの邪魔になってしまう。」
「おい、エイタ。こんなところで泣いてる場合か。でも、俺が顔を出したら、ゆやの幸せの邪魔になってしまう。一生に一度の結婚式に、兄貴が来てくれない。弟がそれで本当に幸せになれるのか? それは違うだろう。ゆやにとって、お前がその程度の存在なわけがないだろう。ゆやは言ってくれていただろう。遅れてもいいから来てほしいと。行くべきだよ。ほら、行きなさい。」
「日野さん。分かった。行くよ。」
誰でもない、弟のために。俺は急いで帰宅し、礼服に着替えた。日野さんの言葉の一つ一つが、俺の背中を押してくれていた。結婚式の会場にタクシーで到着すると、まだ控室に二人が待機していた。
「兄さん、間に合ったんだね。よかった。」
ゆやが喜ぶ横で、まゆは急に不機嫌な顔になった。
「ちょっと困る。」
「どうして兄さんが来て困るんだ?」
「来れないって言ってたから、席を埋めるための人を呼んでるのだから、困るのよ。」
きっと偽物の親戚ってやつなのだろう。入場の時間も迫り、まゆはいつもよりイライラして、焦っているように見えた。俺は、やっぱり今日はゆやをお祝いしたかったんだ、とまゆに向かって言った。すると、まゆはとうとう怒り出した。
「お兄さん、約束が違うわよね。どうして言うこと聞いてくれないの? もう時間もないのに。」
「だから、俺はゆやの兄で。」
「兄だから何? 兄弟愛ってやつ? 本当、うんざり。新郎の兄があんたみたいな中卒の人間だなんて、誰かに知られたらどうしてくれるの?」
まゆはゆやが見ているのにも関わらず、怒鳴った。その瞬間、控室のドアがバタンと乱暴に開き、まゆの父親が慌てた様子で入ってきた。
「まゆ、工藤さんというのはどの人だ?」
「ちょっと、何? どうしたっていうの? お父様。」
「今、うちの銀行の大口の取引先から、解約したいと突然連絡が来たらしくてな。銀行はもうパニック状態なんだよ。内容を聞いたところ、まゆが工藤さんに対する失礼な態度を改めない限り、取引は中止すると言っているらしいんだ。」
品定めをするように、まゆがきっと俺を睨む。
「お兄さん、何かしたの? SNSを使って評判を下げるようなことしたんじゃないの?」
「俺は何も知らない。何のことか分かりません。俺の名前がどうして出てくるのか、全く検討がつきませんでした。」
まゆはまだ何か言いかけたが、ゆやがその言葉を遮った。
「まゆ、約束が違うって。まさか兄さんが急に来れなくなったのって、まゆが来ないように仕組んだからなのか?」
「仕組んだなんて、人聞きの悪い。私はただ、言い訳を考えてるだけだわ。」
「俺は、恥ずかしい存在だと彼女に言われて、来ない決心をしたんだが。間違いに気づいて、急いで来たんだ。」
「ちょっと。」
「まゆ、兄さんに恥ずかしい存在だと言ったの?」
「そ、それは、その。だって。」
まゆは言い訳をしようとしたが、言葉が続かなかった。そんな彼女に、ゆやが強い口調で告げた。
「俺は兄さんに大学まで出してもらえたんだ。感謝してもしきれないっていうのに。兄さん、ごめん。本当にごめんなさい。」
「ゆや、いいんだ。頭を上げてくれ。」
ゆやは頭を上げると、睨むようにまゆを見た。
「まゆ、この結婚はなかったことにさせてくれ。お父さん、それでいいですよね。」
「それで許してもらえるのならば、私はそれで構わない。」
「ちょ、ちょっと待って。」
まゆは何か言おうとしたが、まゆの父親は足早に控室を出ていった。きっと銀行の対応に行くのだろう。こうして結婚式は、新郎新婦の入場もないまま、解散となった。
ゆやの話によると、まゆは銀行の信用を失ったとして首になり、父親も処分を受けて他へ転籍。離婚に至るらしい。まゆは離れたくないとゆやのところへ泣きついてきて、全て話したのだという。しかし、ゆやはまゆに全く未練がなかった。俺にしていたことを聞いて、彼女の本性が分かったことが大きかったようだ。彼女は同僚からもよく思われていなかったみたいで、大口の取引先からの連絡をきっかけに、他にもあることないこと悪い噂が立って、もう戻れる見込みはなくなったみたいだ。
「そうか。でも、結婚する前に本性が分かってよかった、って思うことにしよう。」
「うん。そうだね。それにしても、大口の取引先って気にならない?」
「うーん。確かに。俺のことを知っている大口って、誰なんだろうな。」
建築現場で働く俺に、銀行を揺るがすほどの知り合いはいない。だが、ゆやは大口の取引先に当たりをつけて調べたところ、調べた中の一つの会社の会長の名前に見覚えがあったと言う。
「じいちゃんのお葬式に来てくれた日野さん。下の名前、知ってる?」
「日野さん? 確か、じいちゃんが。」
「じいちゃんは日野さんのことを“まさ”と呼んでいた。時には“まさやん”って。」
「そうだ。まささんだと思う。」
「ビンゴ。兄さん、結婚式のこと、日野さんに話した?」
「ああ、したけど。」
ゆやがニヤニヤ笑って、日野さんのことを教えてくれた。なんと日野さんは、銀行の取引先である大手企業の会長だったのだ。
次の休み、俺はまた釣りに出かけていった。急ぐ心とは裏腹に足はついてこなくて、転びそうになりながらも、いつもの釣り場にたどり着いた。
「日野さん。」
「おお。結婚式は無事に行けたか?」
いつもの場所で、日野さんはにかりと笑って見せた。
「日野さん。ぐちったせいで迷惑かけて、ごめんなさい。」
「何言ってんだ。俺はお前の釣り仲間だろ。お前が思うように、俺もゆやのことは大事に思ってる。仲間を助けるのは当たり前だ。気にすんな。それに、釣りをする時は何も考えるな。」
俺は頷いて、日野さんの隣に座り、釣り糸を垂らした。
そんなことがあったのも遠い昔のように、俺は忙しく働き、いつもの日常に戻っていた。いや、戻ったのとは少し違う。俺の身の周りには、確かな変化が起こっていた。
「工藤さん、これ作りすぎちゃって。よかったら食べてください。」
コンビニのおにぎりとお茶という味気ない昼食が、近頃華やかになった。最近入った事務の女の子が、何かと理由をつけてお弁当を作ってきてくれるようになったからだ。彼女は日野さんの孫娘で、昔、日野さんに連れられて釣りをしに来た女の子がいたことを、彼女に言われてぼんやりと思い出した。
「私の初恋の人で、ずっと忘れられなかったんだよ。今思い出すなんて、ひどい。」
そう言ってむくれていたが、次の瞬間には笑ってくれる。彼女のそんな明るさを好きになり、今では大切な存在になった。ゆやから久しぶりに電話がかかってきたのは、彼女ができたとメールで報告した夜だった。
「兄さんの彼女、今度紹介してよね。俺もその時、彼女連れてくから。」
どうやらゆやにも、新しい彼女ができたらしい。祖父が教えてくれた釣りは、幼い頃、俺の心を落ち着けてくれた。そして今では、大切な人とのつながりになった。今日の天気は晴れ。天気予報によれば、しばらくは好天の日々が続くらしい。今週末のデートは、釣りに誘ってみるつもりだ。



