「ひろみ、お前とは今日で離婚する。今すぐ荷物をまとめて娘と出て行ってくれ」
海外出張から帰ってきたばかりの夫・荒野が、荷物もそのままに離婚届を突きつけてきた。いきなりの宣告に、私と娘の結菜は言葉を失った。夫であり父親であるはずの男の、高圧的な態度に呆れを通り越して、逆に冷静になっていく自分がいた。
「何をボーッと突っ立ってるんだ?もうお前らを養ってやるつもりはない。ここは俺の家なんだ。赤の他人は邪魔だから、ここからさっさと消えてくれ」
私と結菜は顔を見合わせた。お互いに、目で合図を送り合う。あの時の私たちは、不思議と取り乱していなかった。
「こうや、さっきから何を言ってるの?ここがあなたの家だって、誰が決めたの?出ていくのは、あなただからね」
「はあ?お前こそ言ってることがおかしいだろ。この家は俺の父さんが所有してるんだぞ。だから後継ぎの俺のものであるに決まってんだろ。お前らに住む資格なんてないんだよ。今まで俺の稼ぎで食わせてやったんだから当然だ。まあ、お前らには稼ぎもないから、今から路頭に迷っても俺には何の責任もないからな。せいぜい頑張れよ」
夫は私たちを指差し、大声を出して笑い始めた。娘にまで容赦ない暴言を吐いている。でも、それも今日で終わりだ。私たちは、全てを知っている。今から1枚ずつ、化けの皮を剥がしてあげよう。
私たちを裏切ったこと、一生後悔させてやるからね。
持っていたスマホを一旦置いて、私は深呼吸をする。直後、先に結菜が口を開いた。
「この家がおじいちゃんの所有物だってことは、もう知ってるよ。だからって、勝手に自分のものになるっていうのは、違うんじゃない?」
「な、お前まで何を訳の分からないことを言ってるんだ?大人の事情に口を挟むんじゃない」
「私が普段から言って聞かせてたの。この家は、お父さんが私たちのために提供してくれてるってね」
娘はお父さんの仕事について、よく知っている。義父は小規模ではあるが、不動産会社を経営している。先ほど結菜が言った通り、今私たちが住んでいるこの家も、義父の所有物だ。決して夫のものではないのに。
「自分の父親のくせに、実の娘にそんな非情なことを言えるなんて、情けないわね。じゃあ、これを見ても同じことが言える?」
私は持っていた書類を夫に差し出した。
「なんだ、これ?所有権移転?新しい所有者は……山田ひろみ?なんだ、これは?」
夫はその書類をバッと奪い取り、まじまじと見つめたかと思えば、真っ赤な顔をして破り捨ててしまった。
結菜はそれを、冷ややかな目で見ている。
「お前、俺を騙そうとして、こんな偽物を作ったのか!」
「こうや、腹が立つのは分かるけど、少し落ち着いたら?確かにそれはコピーだけど、原本は私が保管してるから。つまり、これはれっきとした本物よ。大体ね、大事な書類を偽造したら、私が捕まるでしょ」
「ほら、これがお父さんが捺印した証拠だって、あるでしょ」
「だから、それも偽物だろう。父さんの印鑑を盗んだんだ。そうに決まってる」
頑固でプライドの高い夫のことだ。一つ返事で認めてくれるなんて、これっぽっちも期待していない。実の息子である自分を差し置いて、嫁に家を譲るなんてことをするはずがない、と思っているのだろう。
だが、義父にしてみれば、夫はすっかり眼中の外だ。私と結菜には、その理由が十分に分かっている。
「そういうわけだから、こうや、あなたが荷物をまとめて出ていってね。ああ、でも、これ無駄になっちゃったわ。あなたが自分から用意してくれるなんて、思わなかったから」
そう言いながら、私は用意していたもう1枚の書類を取り出し、夫の前でヒラヒラさせた。
「離婚届?」
「なんで、お前がそんな準備してるんだよ。嫁の分際で、俺を捨てるってのか?とにかく、そんな勝手なことは絶対許さないからな」
まさか私から、痛烈なブーメランが帰ってくるとは思ってなかったのか。夫は急に不機嫌になった。自分のことを棚に上げるのは、夫の悪い癖だ。今までみたいに私を脅迫すれば、折れてくれるとでも思ったのだろう。
「あら、その発言、おかしいわね。自分が今、私たちに言ったこと、忘れたの?『離婚したい』って切り出してきたのは、そっちじゃない。なのに、なんでそんなに怒ってるの?むしろ、あなたにとって好都合でしょう」
「うるせえ。俺はお前たちを一生懸命働いて養ってきただろう。だから、お前から離婚を求める権利なんかない」
「それがあるのよ、荒野。さっきから、自分は何も悪くないって言ってるけど、あなた自身に、夫であり、父親である自覚がないでしょ。その証拠に、浮気してるんだから。私も結菜も、全部知ってるわよ」
「浮気」という言葉が私の口から出てきて、夫は目を泳がせた。しかし、すぐに必死な逃げを打ってきた。
「はあ?これが浮気?またバカなこと言いやがって。お前こそ、俺が今までどこに行ってたのか忘れたのか?大きなプロジェクトを開拓するために、わざわざ海外進出してきたんだぞ。仕事が忙しいだけじゃなくて、言語も生活様式も全く違う中で、慣れるのが大変だったんだよ。そんなことしてる暇なんか、どこにもないんだよ」
「違うんだったら、なんでそんなに慌てる必要があるのよ。まあ、浮気してるってのは確定事項だけどね」
「お前はさっきから何を根拠にそんなこと言ってるんだ?嫁なんだから、黙って俺を信用しとけばいいんだよ。証拠もないくせに、適当なことばっかり言いやがって。まあ、どうせそんなものは見つかるはずないけどな。だって、俺は本当に浮気なんか……」
ここで黙って私と夫のやり取りを見ていた結菜が、スパッと口を挟んできた。
「父さんの浮気相手って、レイカさんって名前でしょ」
「な、なんで名前を知ってるんだ?」
小声で呟いた後、夫は口を押さえた。これじゃあ、自分で浮気を認めたも当然だ。
「そんなに急いで隠しても、もう遅いよ。ほら、これ、誰のアカウントでしょうか?」
そう言いながら、結菜はスマホを操作した。夫は画面を見ながら、顔面蒼白になった。
「さあ、誰だろうね。お父さんの浮気相手であるレイカさんのSNSだけど、写真がいっぱいあるけど、どう見てもお父さんだよね。お母さんと違って、随分と若くて派手な人じゃん。それに、こんなに密着してて、どう見ても恋人同士じゃない」
「な、なんだ、これは?俺に似てる人だろ?こんな女、俺は知らないからな」
「知らばっくれても無駄だよ。写真の場所って、お父さんが出張で行ってた場所じゃん。レイカさんの投稿には、ご丁寧に地名まで書いてあるからね」
そう言うと、夫は黙ってしまった。
「こうや、あなたがさっきから大汗をかいてることで、嘘をついてることはバレバレなのよ。結菜がレイカさんのことを知ってることに、驚いてるんでしょう。レイカさんとは、このSNSで結菜が連絡を取ってたの」
「お父さん、すっかり忘れてると思うけど、私は小さい頃からダンスが好きだった。でも、その頃から、私のことには興味なかったよね。コンテストで私が入賞しても、何も言ってくれなかった」
この時の結菜は、人生で一番嬉しそうにしていた。それなのに、夫は褒めるどころか「ダンスなんか将来の役には立たない」って、突っぱねたのだ。結菜がすごくがっかりしていたのも、気づかなかった。
それ以来、結菜は夫とコミュニケーションを取ろうとしなくなった。夫はそれから益々家に寄りつかなくなったけど、結菜は中学生になってからもダンスを続けていた。上達しすぎて、学校じゃ飽き足らず、もっといろんな人に見てもらいたくなったらしい。それで、私が中学生の大会に出場した記念にってスマホを買ってあげたの。そこから、ダンスをSNSに投稿するようになったのよ。
結菜は保育園の時からダンスが好きだった。先生に「他の子よりも覚えが早くて、感情が伝わる」と褒められたのがきっかけだったようだ。本格的なスタジオでダンスを踊りたいと、自分から言ってきたぐらいだ。学校との両立は大変だったけど、好きなことを見つけて一生懸命やる結菜が可愛くて、応援することにした。
小学生になっても結菜はダンスで活躍し、地元のテレビ局でも取材されるレベルになった。夫はテレビを見ないから知らなかっただろうけど、結菜は今、動画サイトでも人気が出てる。結菜はまだ中学生だから、私がスマホを管理してるし、顔は隠してるけど、これが結菜のフォロワーたちよ。
そう言って、私は結菜のフォロワーの一覧を見せた。ゆっくりとスクロールしていくと、そこにはレイカさんの名前もあったのだ。夫はそれを見ると、やっと状況を理解したのか、その場で固まってしまう。
結菜の動画には、コメントやメッセージがたくさん寄せられた。私と話し合いながら返事はしてたけどね。そんなある日、レイカさんから、じきじきにメッセージが来たの。
「このSNSには、コミュニティがいくつかあってね。私には応援してるアイドルがいるんだけど、そのダンスもコピーして踊ってたの。そしたら、レイカさんもそのアイドルのファンだったみたいで、私のパフォーマンスを絶賛してくれたんだよね。そこから盛り上がって、頻繁に絡むようになったの。レイカさんのページを見た時は、まさかと思ったわ。見覚えのある男の人と、よくデートしてるな、って」
「お母さんと一緒に確認したら、間違いなくレイカさんと一緒にいるのはお父さんだって気づいたのよ」
まさか娘にまで浮気を知られているなんて、思わなかったのだろう。夫はブルブルと震え始めた。
「私、あえてレイカさんにメッセージを送ってみたの。『写真の男性は、彼氏さんですか?』って。そしたら、とんでもない返事が来たのよ。『結婚約束している彼氏で』って」
「つまり、お父さんは独身だと偽って、レイカさんに近づいてたのよね」
結菜の表情が、怒りに満ちていく。自分の親がこんなクズ親父だなんて、普通だったら悔しくて泣いてしまうだろう。だが、結菜は必死に堪えている。今まで無視され続けたこと、最悪の形で裏切られたことは許せない。せめて、ここで全て認めてほしい。
中学生である実の娘に、こんなことまでされたら、さすがに折れざるを得ないだろう。しかし、夫には娘の必死さは伝わらなかった。
「ああ、バレちまってたのか。そりゃ仕方ないな。そうだよ、俺はレイカと浮気してたよ。でもな、それはお前らのせいだ。俺は何も悪くない」
「ダンスが有名になったかどうか、知らないけどよ。所詮はガキの遊びの延長だろう。平凡な主婦であるお前の子供なんだから。せいぜい今がピークだろうな。どうせ勉強もしてないんだろう。まともな高校にも行けないし。将来は絶望的だな。それを応援してるひろみも終わってる」
「大体な、レイカは社長令嬢だぜ。何もできない専業主婦より、社長令嬢の方が、エリートの俺にはふさわしいんだ。俺がさっき離婚したいって言ったのは、それが理由だ。レイカと再婚して、人生をやり直すんだ」
信じられない。私が専業主婦であることを見下すだけでなく、娘の好きなこと、頑張ってることを、ここまで侮辱するのか。こんな奴に、親の資格なんてない。
出会ってすぐは、優しくてリードをしてくれる人だった。社会的な立場があることは知ってたし、多少仕事が忙しくても、結婚当初は至って普通に過ごしてきた。それが変わったのは、結婚して半年が経ち、結菜が誕生した時だった。仕事が忙しいことを理由に結菜の世話を手伝わないどころか、「泣き声がうるさい」「女のくせに偉そうだ」などと暴言を吐くようになった。
「さっきから私のことを馬鹿にしてるけど、なんで私が専業主婦をしてるか、分かる?あなたが望んだからでしょ。『俺は家事が一切できないから、ひろみに家を守ってほしい』って。もしかして、忘れちゃった?」
「それにしての、私のことだけじゃなくて、結菜のことまで侮辱して。絶対に許さないから。ご希望通り、離婚してあげるわ。その代わり、浮気した代償はきっちり請求するからね」
「バカ言ってんじゃねえ。そんな金、俺が払うか。つーか、この家は誰が何と言おうと俺のものだ。父さんを上手く言いくるめたつもりだろうが、俺は絶対認めねえから」
捨て台詞を吐きながら、必死で逆切れする夫。私も少し言い過ぎたかな、とため息をついた。この先、何を言おうと、彼は自分を曲げるつもりはないらしい。
「お父さんはこう言ってるけど、どう思う?おじいちゃん、おばあちゃん」
その声に、夫はビクッとして結菜の方を向いた。スマホをパッと結菜から奪い取ると、見る見るうちに顔面が蒼白になった。
実は、先ほど夫が帰宅する前から、私と結菜はスピーカー状態で義両親と通話をしていた。そして、夫が帰ってきてからは、その状態のままスマホを置きっぱなしにしていたのだ。つまり、今までの私たち3人の会話は、全て筒抜けだったというわけだ。
「なんだよ。母さんも父さんも聞いてるなら、一言言ってくれよ」
「何言ってるのよ。通話してるのが分かってたら、こうやは猫を被るでしょ。結菜が2人にメッセージをお願いしてくれてたのよ。『お父さんに存在がバレたらまずいから、途中で口を挟まないで』ってね」
夫は大量の汗を流して、言い訳を探しているようだ。そこに、義父の怒号が聞こえてきた。
「こうや、わしはもう黙って聞いておれ。お前がここまで最低な男だったとはな。一生懸命頑張ってくれたひろみさんを、今までいびり倒してたことは聞いてるぞ。結菜ちゃんのことまで侮辱して。しかも、浮気してただと。お前は妻と娘を何だと思ってるんだ」
夫は変な声を出してうろたえているが、義父の怒りは収まらない。
「お前は、後継ぎである俺が継ぐべきだと言ってるが、何を血迷ったことを主張してるんだ。会社を放棄して、畑の仕事に就いたのは、お前の方だろ。それだけならまだいい。お前は家庭や実家を顧みることもなかったんだ。そんなお前のために、ひろみさんはわざわざ仕事をやめて、家庭を支え、結菜ちゃんを育て、さらには俺らのことまで、必死に面倒見てくれたんだ」
「母さんが入院した時も、毎日のように病院に通ってくれた。そのことを忘れたのか?今、うちにとって必要なのは、荒野じゃない。ひろみさんだ」
「こうや、私も父さんと同じ考えよ。浮気して、開き直るなんて。そんな息子に育てた覚えはないわ」
義母も、義父に続いてそう言った。
「まあ、お父さんが用意したのも、当面の住まいとしてよ。子供が生まれたらマイホームを買うって、荒野も言ってたじゃない。そのつもりで提供したまでよ。ひろみさんが言った通り、このマンションはあなたのものじゃないし、譲るつもりもない。でも、浮気が原因で離婚するって聞いて、お父さんがひろみさんの名義に変えておいたのよ。私たちの力になってくれた、恩返しにね」
実は、私は両親を病気で亡くしている。当時はまだ幼かったため、私は何もしてあげることができなかった。大人になってからも、そのことはずっと心の棘だった。だが、義両親はそんな私を、嫌な顔を一つせず受け入れてくれた。だから、義母の入院の世話をしてほしいと頼まれたことに関しては、問題はなかった。ただ、結菜を育てるのと、家事をしながら義母のことを気にかけるというのは、想像以上に忙しかった。そんな私を見ても、夫は感謝の一言も言わなかったし、あれこれと無理を押し付けてきた。
「ここまでの話を聞いてると、お前にはひろみさんへの感謝の気持ちは、全くないみたいだな。嫁は夫の所有物じゃないんだぞ。お前は一体、何様なんだ」
唯一の味方だと思っていた義両親にまで、冷たく突き放され、さすがの夫も沈黙してしまった。唇がプルプルと震えていて、ショックを隠しきれないようである。下を向いたままの夫に対して、義父は冷徹に言葉を続けた。
「お前は、大事な妻と娘をないがしろにしただけでなく、独身と偽って、若いお嬢さんを誑かした。この罪がどのくらい重いか、分かってるんだろうな」
義父の言葉は極めて厳しいが、本音は違う。ここで全てを認めて、謝ってほしい。息子に与えられる、最後のチャンスだ。
しかし、次の瞬間に夫が取った行動は、予想を上回るものだった。
「何をそんなに怒ってるんだよ。嫁が旦那に尽くすのは当たり前だろ。大黒柱は俺だ。養ってもらってるんだから、ひろみは何も言わずに俺に従うのが当然なんだ。そもそも俺はな、不動産なんて地味な仕事を継ぐなんて、元から考えてなかったんだよ。住人の不平不満を聞いてるだけの親父なんて、俺からしたら、ただの奴隷に過ぎない」
「こうや、あなたがどうしても経営学部に進みたいって。『父さんの会社を継ぐために頑張る』って言うから、学費を全て出してあげたんじゃない。その時から、私たちに嘘をついてたの?」
「そうだよ。俺は地元、いや、日本を離れて、グローバルな仕事がしたかったんだ。地元で結婚したのはな、親父がこの世を去った後に、土地をもらいたかっただけ。そのために、真面目で従順なひろみを利用してやったまでだ。幸いにも、ここは地価が高いからな。売り払えば、俺は大金持ちになる。それを資金にして、海外に移り住みたかったんだよ。こんな田舎にいつまでも住みついてるなんて、俺には似合わないんだよ。俺はエリートだからな」
こうや。なおも不遜な態度を取る夫に、温厚な義母が電話口で急に怒鳴った。
「こうや、私と娘は、一瞬ビクッとしていたが、すぐに夫は私に向き直った。
「何度も言わせるなよ。お前と結菜が、何の不自由もなく暮らせたのは、俺が稼いだおかげだ。それに、何の取り柄もないくせに、結菜と暮らしていけるわけがないだろう。分かったなら、土下座しろ。そしたら、援助してやってもいいぞ」
こんな状況でも、私を見下してくる。夫は何も分かっていない。すると、娘が横から口を挟んだ。
「お父さんは、本当に何も知らないの?お母さんは、だいぶ前に専業主婦をやめたよ。今は宅建の資格を取って、おじいちゃんと一緒に仕事してるの。そうだよね、お母さん」
「そうよ。私は、荒野の給料とは別の収入があるのは、知ってるよね。ここに生活費を入れてくれる約束だったのに。あなたは面倒くさがって、私が何度も言わないとお金を入れてくれない。浮気を始めた頃から、完全に滞るようになってしまったもの。私と結菜が生活するために、パートに出ようかと考えてたら、お父さんが事務として雇ってくれたのよ。もっと役に立ちたいと思って、宅建の資格を取ったの」
夫は、私と結菜を養ってきたと言ってるが、お金の方に関しては、だらしない性格だった。なので、私が全て家計を管理することになってたんだが、自分から生活費を振り込んでくれたのは、最初の数回だけだった。しかも、その金額は月ごとに減っていった。
仕事の忙しさは変わらないのに、これはおかしいだろう。そう考えてた夜に、結菜がSNSでレイカさんと繋がったのだ。結菜は自分のやりたいことをやりながら、いつも私のことを気にかけてくれた。「お母さんのおかげで、私はダンスの練習を頑張れてる」と、毎日のように言ってくれる。そんな結菜を見ていくうちに、私も強くならなければ、と。この家は、私が一人で守ってみせる。そういう気持ちが芽生えたのだ。
「本当にひろみさんには感謝してるよ。おかげで俺の仕事も随分とスムーズになった。ひろみさんは、もはや会社にとって、なくてはならない存在だよ」
電話口から、義父の声が続く。
「こうやも、ひろみさんに感謝すべきだ。お前は自分をエリートだと言ってるが、仕事に集中できたのは、ひろみさんのおかげだろう。それに、『何の取り柄もないくせに、結菜と暮らしていけるわけがない』って。そんなこと、あるはずがないだろう。ひろみさんの稼ぎは、結菜ちゃんと2人で暮らしていくには、十分だ。俺と母さんも、サポートするつもりだからな」
「私も、おじいちゃん、おばあちゃん、お母さんの4人で暮らしていく。お母さんをバカにして、よその女と浮気するようなお父さんなんて、いらない」
義両親、そして娘にはっきりと言い放たれて、夫はその場で固まってしまった。
言おうか言うまいか迷ったが、私も最後の忠告をすることにした。
「分かる?もう、荒野に味方は誰もいないのよ。今までしてきたこと、言ってきたことを、いい加減認めたら?そして、今ここで謝ってほしい。あなたは、私と結菜だけでなく、今まで育ててくれた両親まで裏切ったの。今気づかないと、あなたは一生後悔することになるわよ」
その言葉を聞くと、夫は早口で何か呟くと、離婚届に殴り書きでサインをして、無言で家を出て行ってしまった。一度こちらをギッと睨んでいたが、「誰が後悔なんかするか、バカ」とでも言っているようだった。
残された私たちは、追いかけることなく、立ち尽くしていた。
「残念。最後までひどい態度で。もう、私たちに息子はいない、って思った方が良さそうね」
「こうやが、そこまで自分勝手だったとはな。育て方を間違えてしまったようだ」
「改めて言うよ、ひろみさん。こうやがああいう形で裏切ってしまい、すまなかった。あいつには絶対に責任を取らせる。何でも、遠慮なく言ってくれ」
「とんでもありません。むしろ、ここまで私たちの力になってくれて、本当に感謝しています。それに、普通にしていて大丈夫ですよ。私たちが何もしなくても、こうやはもう終わりですから」
深く頭を下げる義父に、私はにっこりと言った。何度も言うが、私は全て知っている。夫が地獄に落ちていくことは、もう確定しているのだ。
それから、私と娘は今まで住んでいたマンションで新しい生活を始めた。結菜と私は、忙しいながらも充実した毎日を送っている。
離婚が成立してから2年が過ぎた、ある日のことだ。うちで家事をしていると、突然インターホンが鳴った。カメラを見ると、随分と見窄らしい格好をした男が立っていた。だが、それが誰だか、すぐに分かった。一生顔は見たくなかったが、言いたいことがあったため、ドアを開けた。
「あら、こうや。自分からここに来るなんて、どうしたの?もしかして、払ってないお金をまとめて払ってくれるの?」
この2年間、私は義父に紹介してもらった弁護士を通して、元夫に慰謝料と養育費を請求したが、物の見事に踏み倒し続けてきた。電話番号も変え、遠くに引っ越したことで、時効が来るのを待っていたのだろう。
玄関に立っていた元夫は、いきなり泣きながら両手を合わせてきた。
「ひろ、頼む。俺を助けてほしい。しばらく、ここに置いてくれ」
あの時とは正反対に、涙を流しながら私の体を揺さぶってくる。私はさっと、元夫の体を引き剥がした。
「なんで、今更?愛するレイカさんと、幸せにやってるんじゃなかったの?てっきり優雅に海外生活を送ってるのかと思ったわ。それより、慰謝料と養育費、今すぐ払ってくれないかしら?」
「そんな冷たくしないでくれよ。それに、今はそれどころじゃないんだよ。俺の願いだろ。真面目に聞いてくれよ」
「私の話は、何一つ聞こうとしなかったくせに。その汚い格好、とてもエリートの服装じゃないわね。今まで、一体何があったのよ」
私は笑いながら、あえて尋ねた。元夫がここに来た理由は、もちろん知っている。元義両親にも話したが、驚愕しつつも「自業自得ね」と呆れ返っていた。
「レイカが……とんでもない女だったんだぜ。あいつは社長令嬢なんかじゃなかった。キャバクラ嬢だったんだ。しかも、大量の借金を抱えてやがった。それなのに、金遣いが荒いんだ。俺が稼いだ金を全部使われて、水道も止められたんだ。もう、あいつとの生活なんて、耐えられない」
「それは大変。まあ、レイカは派手好きだからね。で、給料を使い果たされそうになったから、逃げ出してきたってわけね」
「そうなんだけど、あいつ、もっとおかしなことしやがった。俺の名義を使って、借金を作って。しかも、借り手はヤバい。闇金融だ。だから、借金取りに毎日追われてて、もう限界なんだ。レイカにも問い詰めようと思ったら、電話番号も変えられて、全くどこにいるかも分からないんだ」
「あら、まだ何も知らないの?テレビやニュースを見ないところは、相変わらずね。レイカ、今、有名人よ。悪質なやり手の結婚詐欺師だって」
「社長令嬢だったことはあるけど、それはもう何年か前のこと。彼女のお父さんの会社は、あっという間に潰れてたんだけど、金銭感覚が麻痺してたようね。それで夜の仕事に就いたんだけど、その給料だけじゃ足りなくて、複数の男を捕まえて、金を騙し取り始めたのよ。まあ、私と結菜は、2年前にはもうこのことを知ってたけどね。ああ、そうそう。レイカはこのことを『最低ランクの男』って言ってるそうよ」
「最初から、全部知ってたのか?お前、俺を嘲ってたのか?なんで、あの時に俺に教えてくれなかったんだよ。おかげで、俺の人生めちゃくちゃじゃねえか」
「それは、自分で蒔いた種でしょう。教える気なんて、ないわ。私は言ったわよね。『今気づかないと、あなたは一生後悔することになるわよ』って。それに、ご両親が何を言っても、謝罪の一つもしなかったくせに。そんな態度を取られたら、どのタイミングで教えろって言うのよ。一人で暴走した報いを受けるべきよ」
「そんなこと、言うなんて……。じゃあ、せめて金だけでも貸してほしい。このままじゃ、俺は住む場所を失ってしまうんだ。海外進出の夢も、叶わなくなってしまいそうなんだ」
「2年前に私が言ったこと、忘れたかしら?『あなたは私と結菜だけではなく、今まで育ててくれた両親まで裏切った。今気づかないと、あなたは一生後悔することになるわよ』って。もう、何もかも遅いのよ。まあ、今からでも土下座するなら、援助してあげてもいいわよ。ただし、お小遣いで1000円だけね」
静かな怒りを宿しながら、淡々と告げる私。元夫は下を向いて、何かを呟いた。
「1000円って……。そんなんじゃ、家賃はおろか、食べていくことすらできないじゃないか。あ、そうだ。財産分与だよ。財産分与した後でも、請求できるよな。それでいいから」
「何言ってんのよ、荒野。自業自得って知ってる?今後のためにも、法律をちゃんと勉強した方がいいよ。離婚して2年経ったら、結婚してる時の財産の請求権はなくなるのよ」
「そ、そんな。そこをなんとかしてくれよ。何年もお前らのこと、養ってきたじゃねえか。そのくらいしてくれたって、いいだろう」
「ちゃんと夫と父親の役割を果たしてたら、こんなことにはならなかったでしょうね。でも、それは自分の蒔いた種だから。今の言葉で、改めて確認できたわ。結局、あなたは何でもかんでも自分を守ることしか考えてないんだから。大体、養育費も慰謝料も払わない人を、誰が援助すると思う?今までご両親に言われたことを、理解しなさいよ。権利を主張する前に、義務を果たしてね。これ以上、私に言えることはないから」
そう言って、私はドアを閉めた。元夫は、ついに何も言い返せなくなり、すごすごと退散していった。
その後、元義両親の話によると、元夫は実家にも同じように助けを求めたらしい。もちろん、すぐに門前払いをしたそうだ。精神的にズタボロになり、仕事もままならず、退職を余儀なくされたという。
レイカに関しては、騙していた男たちから訴えられた。さらに金が必要になり、どこからも借りられず、風俗を増やしたそうだ。しかし、男関係がお店にバレてしまい、首になったらしい。元夫と同様、地獄に落ちていくのだろう。
一方、私と結菜は、元義両親と協力し合って、充実した毎日を過ごしている。私は取得した資格を存分に活かして、より義父の仕事に携わっている。事務だけではなく、苦手だった接客もするようになった。義母はすっかり元気になり、時々私たちの仕事をサポートしてくれる。おかげで経営も順調だ。
結菜は、練習や勉強により一層励み、念願だったダンスの競合校に進学することができた。家から少し遠いが、全国の高校選手権を目標に、毎日生き生きと頑張っている。いつか海外でもデビューしたいと、時々夢を語ってくれる。
色々と大変だったが、結菜の姿には、今まで何度となく元気をもらってきた。これからも、たくさん応援してあげたい。シングルマザーになったことで、この先も困難が待ち受けているだろう。でも、この家族なら、きっと乗り越えられる。家族の絆というものを、私は改めて実感するのだった。
そして、私たちは新たな生活を始めた。以前とは比べ物にならないくらい、穏やかで、満ち足りた毎日。
ある日、家でくつろいでいると、インターホンが鳴った。モニターを見ると、見知らぬ宅配業者の姿があった。荷物を受け取ると、それは義父からだった。中を開けてみると、一通の手紙と、封筒に入った小切手が入っていた。
手紙には、こう書かれていた。
「ひろみさん、結菜ちゃんへ。
二人が新しい生活を始めたと聞いて、安心している。これまでの感謝の気持ちと、これからも二人で頑張ってほしいという願いを込めて、ほんの気持ちだが送る。
私たちも、ようやく身の回りの整理がついた。これからは、のんびりと田舎で暮らしていくことにした。もし、何かあったら、いつでも連絡してほしい。二人の帰る場所は、いつだってここにあるから。
父より」
私は手紙を読みながら、目頭が熱くなった。義父は、私と結菜のことを、本当の娘と孫のように思ってくれている。私は、この温かい気持ちに報いるためにも、これからも頑張っていこうと心に誓った。
結菜も、手紙を読んで、静かに微笑んだ。何も言わなかったけど、その表情は、全てを語っていた。


