「下請けで女従業員の特許なんて、大手なら6ヶ月で超えられるもんなんだよ。分かったら今すぐ無償でうちに権利を渡せ。」
佐野哲也46歳は、盗南成功の技術評価会議の上座でそう言い放ち、対面に立つ薄いグレーの作業着姿の女性を見下した。高野直33歳。誰もが彼女が泣き崩れるのを待っていた。
しかし直は怒鳴らず、泣き叫びもしなかった。ただ静かに、一言だけ返した。
「じゃあ、作ればいいじゃないですか。」
会議室の空気が止まった。
「ああ?今何て言ったんだ、お前。」
佐野が椅子を蹴るように立ち上がり、指を突きつけた。隣の大光電気の若手社員が声を殺して笑った。盗南成功の社員たちは全員、視線を落とした。内田社長は両手を膝に置いたまま、一言も発しなかった。
「内田さん、この女を首にしてください。」
それでも直の背筋は最後までまっすぐ伸びていた。作業着の胸ポケットには薄い封筒が入っていた。しかし、この時は誰も知らなかった。あの一言の裏側に、直だけが握っていた理由があることを。見下した課長の人生が、どこで折れるのかを。
これは技術を信じ、誰にも奪わせなかった女性の物語だ。
物語は8年前の春に遡る。直は一枚の名刺を握りしめ、盗南成功の門をくぐった。胸のポケットには、父・幸夫の写真が入っていた。
父の幸夫は東大阪の小さな工場で20年働いた技術者だった。独自に開発した加工の手順は、業界のやり方を変えられるほどだった。ある日、大手メーカーの担当者が工場に来て、技術を見せて欲しいと言った。父は断れなかった。資料を持ち去られ、保証もなく、礼も言われなかった。数ヶ月後、そのメーカーの新製品に父の技術が使われていた。
父の抗議の声は、大企業の法務部に完全に封じられた。その後、父の体は急速に衰えた。50歳の誕生日の3日前、父は病院のベッドで目を閉じた。1月の病室は白く、窓の外には薄暗い東大阪の夜景が広がっていた。入院中の最後の夜、父は直の手を握っていった。
「技術は守れ。特許を取れ。誰にも奪わせるな。」
直はその言葉を一言一句、忘れたことがなかった。
盗南成功の入社初日、技術顧問の立木作三が声をかけてきた。
「君が幸夫さんの娘か。俺も父さんとは長い付き合いだった。よく来てくれた。父さんの分まで、ここで頑張れ。」
工場に踏み込んだ瞬間、機械油と金属の匂いが体を包んだ。父の小さな作業場とどこか似ていた。盗南成功は大光電気の下請け会社だった。社内の空気は、言われた通りに作ることが全てだった。直が新しい提案をするたびに返ってくる言葉は同じだった。「今は忙しい。与えられた仕事を守ることだけ考えろ。」
毎日、定時後の工場に1人で残った。実験データは自分のノートにまとめた。
入社5年目の冬。直は実験を諦めかけた夜があった。深夜2時の工場で、直は膝を抱えて床に座り込んだ。
「お父さん、私は間違った道にいるのかな?」
その声は機械の唸りに溶け消えた。
翌朝、立木が珍しく早く工場に顔を出した。
「昨夜も残ってたのか。顔色が悪いぞ。」
「もう少しで確信に近づける気がするんです。」
「それなら、やめるな。お前の父親も、そういう顔で続けたんだ。」
その一言が直の背中を押した。
電気自動車の市場が急拡大し、パワー半導体の発熱が業界の難題になっていた。その頃、直は3年越しの実験でついに突破口を見つけた。何種類もの細かい粒子を組み合わせた独自の放熱コーティング技術だった。半導体部品の放熱効率を従来の3倍に高める方法だった。
深夜の工場で1人、データを見返した直の手が震えていた。「技術は守れ」という父の声が蘇った。直は椅子に座ったまま、しばらく1人で泣いた。社内では「NTコーティング」と呼ばれるようになった。
データを見た立木の目が細くなった。
「直、これは本物だ。必ず特許を取れ。それと、個人名義でも出しておけ。お前の父親の話を繰り返すな。いいな。」
内田社長に相談すると、返事は曖昧だった。
「うちには職務発明規定がないから、まあ会社名義で出してくれ。」
直は会社名義でNTコーティングの特許を出した。同時に、立木に紹介された弁理士事務所に個別に依頼した。製造工程の核心部分を、個人名義でも追加出願した。この個人名義特許の存在を会社は知らなかった。佐野も知らなかった。
NTコーティングの技術は、大光電気の評価ラインに採用された。技術担当として盗南成功に来たのが、佐野徹だった。
「いい数値だな。これをうちで製品化したいんだけど、特許ライセンスとか面倒なことは言わないよね。大手が使ってやるんだから、感謝して欲しいんだよね。」
直は静かに答えた。
「この技術には特許権があります。正当な対価をいただきたい。」
佐野の目が細くなった。
「下請けが権利を主張するわけ?初めて聞いたわ、それ。」
会議室に笑いが起きた。
「じゃあ、作ればいいじゃないですか。」
会議室の空気が止まった。
「ああ、今何て言ったんだ、お前。」
直は立ち尽くしたまま、目の奥に静かな熱を宿していた。
翌日、佐野は盗南成功の内田社長に電話を入れた。
「内田さん、直という女性を技術開発部から外してください。代わりに、NTコーティングの全権利をうちに渡してほしい。それだけのことです。やって頂けますよね。」
「あの…しかし、直は当社の主力開発者で、年内に2億円分の売上を見込んでいます。」
「それでいいなら、答えてください。」
電話が切れた後、内田は長い時間一言も発しなかった。大光電気の発注を失えば、会社はすぐに潰れるはずだった。
翌朝、内田は直を社長室に呼んだ。
「直さん、話がある。技術開発部を廃止することにした。あなたには今月末で退職していただくことになった。」
直はしばらく黙った後、静かに尋ねた。
「理由を教えていただけますか?」
内田は視線を落とし、答えなかった。
立木がその場に乗り込んできたのは30分後だった。
「内田さん、直に何の落ち度があるんですか?あの子はこの会社のために8年間働いてきたんだ。」
「立木さん、私だって会社が潰れたら社員が路頭に迷う。仕方ないんです。本当に申し訳ない。」
内田の目に涙が浮かんでいた。立木は拳を握ったまま、何も言えなかった。直は「分かりました」とだけ言い、社長室を出た。廊下を歩く直の足音が、いつもより大きく聞こえた。
2週間後、直は私物をまとめた。8年間通った工場と、深夜まで使った研究スペースを後にする日だった。別れの朝、直は最初の作業場を1人で歩いた。
その日の夜、佐野は大光電気の本社で前田政治部長と向かい合っていた。
「前田さん、NTコーティングの権利を頂きます。うちの研究開発チームで6ヶ月以内に再現します。間違いなく。」
「本当に全部再現できるのか?特許はどうなっている?」
「会社名義の特許は抑えます。製造工程も解析すれば終わります。」
前田部長の眉がわずかに曇った。
「個人名義の特許はないのか?確認したか?」
「下請けの女が個人で特許を取るわけがないですよ。」
佐野は笑った。その確認を怠ったことが、後に全てを決定付けることになる。
会社を出て5日後、直は立木に紹介された弁理士事務所を訪れた。
「高野さん、個人名義の特許は問題なく受理されています。早期審査も取っています。登録までもう少しです。このNTコーティングの製造工程は非常に優れた内容です。市場価値は数十億円に達する可能性があります。」
そして、直の元に木下吉という男が会いに来た。中堅電子部品メーカーの専務、54歳だった。立木から話を聞き、すぐに動いた。
「高野さん、あなたの技術に2000万円を出資させてください。この特許を核に、会社を作りましょう。」
「本当に私でいいのでしょうか?」
「技術を守った人なら、会社も守れる。立木さんが保証した。」
1ヶ月後、高野技研株式会社が設立された。代表取締役社長は高野直、33歳。資本金2000万円の小さな会社だった。初めて「代表取締役社長」という肩書きの名刺を手にした夜、直は机の上に父の写真を立てた。
「お父さん、ここから始めるよ。」
誰もいない事務所に、その言葉は静かに消えた。
翌日、西彩佳が直の元に来た。
「直さん、私も連れて行ってください。あんな会社に未来はない。」
西はNTコーティングの研究に立ち合ってきた後輩だった。直は黙って頷いた。翌朝、西は荷物を一つ持って高野技研の扉を叩いた。机は4つ。パソコンは1台。それが全てだった。
「思ったより小さいですね。」
「でも、ここから大きくする。絶対に。」
2人は顔を見合わせて、小さく笑った。
その頃、盗南成功では佐野の要求通り、NTコーティングの会社名義特許が大光電気に移転された。内田社長は書類に判を押しながら、目を閉じていた。
会社名義特許が移転されたという知らせは直の耳にも届いた。「個人名義は生きている。でも、胸が締め付けられる。父が守れなかったものを、今また誰かが奪っていく。」しかし今度は違う。直は奪われない手をちゃんと持っていた。
その後、弁理士から連絡が入った。
「高野さん、個人名義の特許登録が完了しました。」
佐野は大光電気社内に「製造技術は全部入手済み」と報告した。大光電気の研究開発チームがNTコーティングの解析と複製に着手した。
「3ヶ月で完成させろ。下請けの女が作ったものだぞ。」
研究開発の責任者は佐野の言葉を黙って聞いた。その目にはすでに「これは難しい」という色があった。
3ヶ月後、大光電気の研究開発チームが試作品の評価データを提出した。NTコーティングの放熱性能を目標値とした場合、達成率は48%だった。
「課長、密着力と放熱の両立ができません。配合が読めません。」
「解析が甘いだけだ。続けろ。」
研究開発チームは解析を繰り返したが、製造の条件は分からなかった。その答えは直の個人特許の中だけにあった。
前田部長がデータを見て眉を寄せた。
「佐野、これは話が違う。3ヶ月で再現するという約束では。」
「もう3ヶ月あれば絶対に超えられます。」
佐野は前田の目を見ずに答えた。前田の胸には嫌な予感が広がっていった。しかし、この段階ではまだ誰も事態の深刻さを知らなかった。社内の報告書ではまだ「再現試験は順調」と書かれていた。現場の研究者だけが頭を抱えていた。
一方、直の高野技研は東大阪の小さな工場で量産を進めていた。立木が業界のネットワークを動かしていた。
「直、台湾の翔永という大手から正式な引き合いだ。本気だ。」
「行きます。お父さんの技術を、ちゃんと見せてきます。」
直はすぐに現地に飛んだ。技術デモを行い、性能の優位性を実証した。
「高野社長、この数値は本物だ。競合他社とは全く次元が違う。独占サプライヤー契約を結んでいただけないか?」
「台湾向けの供給は受けます。国内ライセンスは別途進めます。」
担当者は即座に頷いた。初めて海外の大企業に技術の価値を認められた瞬間だった。直は会議室を出た後、廊下でしばらく立ち止まった。
「お父さん、技術が台湾まで届いたよ。」
帰国した直は、国内パートナーとして大光電気の競合を探した。行き着いたのが、川崎充電子機器株式会社だった。国内中堅の電子部品メーカーで、大光電気と電気自動車部品の分野で競合していた。
「ここなら、技術の値段をちゃんと払ってくれる。」
直は技術開発本部長に面会を申し込んだ。その3日後、技術評価が行われた。
「高野社長、この技術は本物だ。他に渡すのは惜しい。弊社と国内独占ライセンスを結んでいただけないか?」
「もちろんです。」
3年間の独占ライセンス契約が結ばれた。月額使用料と技術支援費で、年間2億円規模の収益が確定した。
「直さん、これで研究の機会も増やせますね。」
「増やすけど、急がない。品質を落とさない。」
契約書にサインをした夜、直は東大阪に帰った。「この町から、世界に届けて見せる。」
会社設立から8ヶ月、高野技研は確実に成長していた。大光電気の研究開発チームは6ヶ月が経った後も目標値に届かず、試作品のやり直しは12回を数えていた。
「佐野。お前は確かに製造技術を全部入手したと言ったな。なぜ半年経ってもこの数値なんだ?」
「その…個人名義の特許が別に存在するらしく、製造工程はそちらに含まれていたようで…」
前田の顔色が一瞬で変わった。
「何だと?なぜそれを最初に確認しなかった?次世代の電気自動車モジュールの発売が1年以上遅れるぞ。」
前田が手元の資料を叩きつけた。
「部長、最初から個人名義の確認を主張しました。しかし佐野課長が『下請けの女にそんなものはない』と止めたんです。」
「お前、何をやっていた?」
「解析すれば追いつけると判断しました。私は間違っていません。数字が答えだ。」
「間違っている。お前は事実を隠した。」
その後、大光電気は電気自動車部品の国内入札で3件、海外で2件を失った。損失額は約80億円という数字が社内で出回り始めた。
「この遅延は契約違約金の対象になります。文書でください。」
会議室の空気は日に日に重くなっていった。
調査の末、NTコーティングを持つのは高野技研で、社長は高野直だと判明した。会社紹介ページに、1年半前に切り捨てたあの顔があった。
「この会社の社長が、あの直だと?」
その夜、佐野は一睡もできなかった。問い合わせへの返答は「本社にお越しください」だった。
佐野、前田、そして調達本部長の笑神の3人が本社に赴いた。
「社長は間もなく参ります。少々お待ちください。」
「社長」の2文字が佐野の耳に強く残った。ドアが開き、紺のスーツの女性が入ってきた。名刺には「高野技研株式会社 代表取締役社長 高野直」とあった。
あの作業着の女が、この席を用意した。佐野の手が小刻みに震えた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。弊社の担当者が大変なご迷惑をかけました。NTコーティングのライセンスについて、ご検討いただけませんか?」
前田が深く頭を下げた。笑神も続いた。
「ありがとうございます。ただ、NTコーティングの国内ライセンスについては、川崎充電子様と3年間の独占契約を締結済みです。弊社からご提供できる枠は、現在ございません。」
前田と笑神の顔が青ざめた。
「待ってください。金額は出します。倍でも出します。」
「お金の話ではありません。契約はすでに結ばれています。」
「なぜだ。なぜあなたが社長だ。会社名義はうちが持っている。製造工程は解析できるはずだ。」
「佐野、座れ。これ以上恥を上塗りするな。」
その時、直は薄い封筒をテーブルに置いた。中から出てきたのは、個人名義の特許登録書の写しだった。
「会社名義はすでに大光電気へ移転されています。でも、製造工程は最初から私の名前です。解析できないのは当然です。守るために出したのですから。」
「そんなの無効だ。職務発明だ。会社のものだ。」
「当時の盗南成功に、職務発明規定はありませんでした。弁理士の見解も、登録も、すでに確定しています。」
「ここにいます。当時、個人出願を進めたのは私です。」
ドアの脇に立っていた立木作三が、静かに一歩前へ出た。直に頼まれ、助言役としてこの場に同席していた。
「佐野課長。あなたは発注停止を盾に、彼女を辞めさせました。その記録は、盗南成功側にも残っています。内田社長が勝手にやったことではありません。電話の内容も日付も残っていますよ。」
「お前が『個人名義はない』と報告した件だな。」
「笑神本部長。あれは下請けの女が…」
「もういい。お前の言葉で会社が80億を失った。」
佐野は椅子に戻り、俯いた。
「当時、あなたはおっしゃいましたね。『下請けで女従業員の特許なんて、大手なら6ヶ月で超えられる』と。作れましたか?」
会議室に沈黙が落ちた。時計の秒針だけが、ひどく大きく聞こえた。1年半、12回の試作、80億円の損失が、その問いへの答えだった。テーブルの上の特許登録証が、蛍光灯の下で白く光っていた。
前田が静かに立ち上がり、深く頭を下げた。
「高野さん、私からも謝らなければならないことがあります。佐野の確認不足に気づいていたのに、止めなかった。私の責任です。」
「それを言いに来てくださったことに、感謝します。」
この言葉で、前田は再び深く頭を下げた。
直は古い実験ノートを取り出した。表紙の内側に、父の字で一文字あった。
「技術は守れ。特許を取れ。誰にも奪わせるな。」
「これが私が守ったものです。お父さん、今日で終わらせたよ。」
佐野はノートを見たまま、声が出なかった。立木の目尻がわずかに潤んだ。
「高野社長、本日はこれ以上お時間をいただくわけにはいきません。後日、本社から正式な文書を送ります。」
3人は重い足取りで会議室を出た。
「幸夫さんにも見せたかったな。」
「見せました。今日の名刺で。」
「まだまだ交渉の余地はない。お前が潰したんだ。」
翌日、緊急役員会が開かれた。遅延期間1年半、総損失額80億円。社外弁護士から、特許確認の怠慢と下請けへの不当圧力が指摘された。
「発注停止を盾にした工作は、優越的地位の乱用に該当しうる。損害賠償と刑事告発の検討を急げ。」
「業界説明では、事実を伏せるな。『6ヶ月で超える』と書いた男が、12回失敗している。」
「調達技術管理課長として、説明責任を果たせ。」
「私は会社のために動いただけです。」
「内弁は正しい方針だ。方針の話ではない。確認を怠り、部下の信頼を潰した話だ。」
佐野は課長会で、地方営業への左遷を告げられた。通知書には「虚偽報告」と「確認義務違反」が明記され、業界団体への説明も命じられた。
「同期の俺が、地方の営業だと?」
処分通知を受け取った佐野の手が、髪の毛をくしゃっと握った。学歴は損失を埋めない。佐野の顔から血の気が引いていった。
大光電気の社内通達には「調達技術管理課長 佐野徹也の移動」と書かれていた。しかし、社内の誰もがそれが左遷であることを知っていた。荷物をまとめる佐野の横で、かつての若手社員が立ち止まった。
「あの日、会議室で笑ったのは自分です。すみませんでした。」
佐野は答えず、ダンボールの紐をきつく結んだ。誰も手伝わず、同僚たちも黙って通り過ぎた。
前田政治も無事では済まなかった。役員会で、部下の虚偽報告を見認した管理責任を問われた。
「気づいてはいました。正直に認めた前田の言葉が、自らの首を締めた。部長職を解かれ、別部門の研究所への移動が命じられた。
「止めなかった私が悪い。処分は受け入れます。」
笑神調達本部長も監督責任を問われ、減給処分となった。「調達の名で人を潰すな。全部署に通達する。」
大光電気は盗南成功に対し、公式の謝罪文と再発防止策を送付した。業界内でも話は広がった。「NTコーティングで80億損失を出した課長」という評判が、人づてに広がっていった。調達の現場では、佐野の名前が「やってはいけない例」として語られた。
一方、盗南成功では深刻な事態が起きていた。大光電気からの受注が激減し、売上が急落し始めた。内田高尾社長は経営危機に、1本の電話を入れた。電話の先は、高野技研だった。
「直さん、以前のことを深くお詫びします。私の判断は間違っていました。本当に申し訳なかった。社員たちのために、どうか助けていただけないでしょうか。」
電話口の向こうで、内田が泣いているのが伝わった。直は受話器を持ったまま、しばらく動けなかった。怒りでも悲しみでもない。技術者たちは何も悪くない。直は隣に座る立木の顔を見た。立木は静かに頷いた。
「盗南成功の技術者の皆さんの雇用は守ります。」
直の答えはそれだけだった。
「よく言った。技術者を守る。それが筋だ。」
高野技研は盗南成功をグループの製造会社として再建する手続きに入った。新社長として選ばれたのは、西彩佳だった。佐野の指示に従わず、直を追って盗南成功を去った後輩だった。
「絶対に、技術者が誇りを持てる会社にします。」
西は辞令を受けた夜、直と2人で笑った、東大阪の小さな事務所を思い出していた。「ここから大きくする」という直の言葉が、今この会社を動かしていた。
直との救済交渉の中で、内田は1つの条件を飲んだ。社員全員の前で、退職に至った経緯を正直に話すこと。内田は全社員を会議室に集めた。
「8年間、この会社のために働いた直さんを、私は切り捨てました。取引先の圧力に負けた。会社を守るという言い訳で、正しいことから目をそらした。」
社員たちの前で、内田の声は震えていた。しかし、誰も笑わなかった。最前列で、誰かが静かに泣いていた。
「社長、私たちもあの日は黙っていました。」
「責めなくていい。責めるなら、私1人で足りる。」
その後、内田は顧問として残り、自分の弱さが招いた傷跡の修復に尽くした。
その頃、地方営業では佐野徹也は誰からも相手にされていなかった。取引先の担当者からも、会合で目を避けられるようになった。
「すみません。うちは佐野さんの経由の案件は受けられないと、上から言われていまして。」
成果もなく、1年後に大光電気の早期退職制度を使って退職した。転職活動は30社以上に応募したが、全て不採用だった。「業界内での風評がある」と、複数の人材エージェントに言われた。ある会社の面接では、入り口で名前を見ただけで日程を取り消された。
退職から2年後、佐野は東大阪のアパートの一室に1人で住んでいた。近所のコンビニでアルバイトをしながら生活していた。レジを打つ手に、以前の傲慢さはなかった。
ある夜、狭い部屋でカップ麺を啜りながら、佐野は考えていた。あの時、高野直の技術を正当に評価していたら。学歴や会社規模で人を判断しなければ。「じゃあ、作ればいいじゃないですか」という言葉の意味をちゃんと聞いていたら。後悔だけが、狭い部屋を埋めていた。誰かに話す相手は、もういなかった。
コンビニで働き始めて半年が経った頃、小さな出来事があった。常連の老人が声をかけてきた。
「いつもありがとう。あんたは気が利くね。」
「ありがとうございます。」
答えた後、佐野は自分の言葉の軽さに気づいた。誠実に仕事をする人間の価値を、佐野は初めて体で知った。学歴も会社名も関係ない場所で、誰かに感謝される日が来るとは思わなかった。それが、どうしようもなく悲しかった。
ある日、佐野は店の棚で1冊の本を手に取った。『特許で会社を守る 中小企業のための知的財産戦略入門』。著者名は高野直だった。佐野はしばらくその本を持ったまま、動けなかった。結局、その本を買った。誰にも言えなかった。夜、1人で読んだ。技術を守ることへの言葉が、静かに刺さった。
それから佐野は少しずつ変わっていった。コンビニの業務を以前より丁寧にこなすようになった。お客の顔を覚えた。頼まれたことを忘れなくなった。
あの頃の自分が、今の自分を見たら何と言うだろう?答えは決まっていた。「無様な男だ」と言うに決まっていた。でも、もうそれでいいと思っていた。誰かの役に立つことの方が、肩書きよりずっと大切だと、佐野はようやく気づき始めていた。
あるシフトを終えてスマートフォンを見ると、ニュースが目に入った。「元下請け女性技術者が独立。特許を武器に大企業に挑んだ逆転劇。」佐野は記事を最後まで読んだ。写真の中で、直が静かに微笑んでいた。佐野はスマートフォンのアプリを閉じた。それ以上は何もしなかった。できなかった。
それから数年が経った。高野技研株式会社は、東京証券取引所グロース市場への上場を果たした。上場記念の記者会見で、直はスーツの胸ポケットに父・幸夫の写真を入れていた。記者から「社長のここまでの道のりについて」と問われた時、直は少しの間窓の外を見た。
「父が守れなかった技術を、今日から私が守り続けます。」
会見が静まり返った。記者会見を終えた後、直は会場の隅で父の写真を取り出した。
「やっと言えたよ。」
その声は周囲の喧騒の中に消えた。それでも、直は確かに届いたと信じていた。
翌朝、直は1人で東大阪の小さな霊園に向かった。父・幸夫が眠る墓の前に、花と工場で拾った小さな金属部品を置いた。父が最後まで誇りにしていた、技術者としての印だった。
「お父さん、守ったよ。あなたの技術を、世界に届けたよ。」
東大阪の工場の景色が墓の向こうに広がっていた。直はしばらくそこに座って、機械油の匂いがする父の記憶を辿っていた。技術者の娘が、技術者の父の夢を、ここで終わらせなかった。
その後、直は高野技研の記念技術者財団を設立した。下請けや中小企業で働く女性技術者へ、研究費と特許出願費用の支援を行う財団だった。父と同じような理由で、技術を奪われる技術者を1人でも減らすためだった。
財団の初回募集で、47件の応募が集まった。その中に、東大阪の小さな工場で働く26歳の女性技術者からの応募があった。丁寧に書かれた研究計画書に、直はかつての自分を重ねた。審査を通過した彼女への採用通知を、直は自分の手で封筒に入れた。
立木作三は高野技研の技術顧問に正式就任した。上場の翌日、立木は会社の一角に飾られた幸夫の写真の前に立った。
「幸夫さん、あなたの娘さんは、本当に立派になりましたよ。」
立木の目から、涙が1粒こぼれた。直が立木の隣に立ち、その肩に静かに手を置いた。
「立木さんが守ってくれたから、ここまで来られました。」
「お前の父さんは、正しかったんだ。」
2人は並んで、幸夫の写真を見つめた。しばらく、誰も何も言わなかった。
西彩佳は盗南成功の再建社長として、佐野が残した傷跡を1つずつ修復していた。技術者が誇りを持てる会社を、確かな足取りで形にしていた。
一方、その頃、佐野は業界の説明会に申し込んでも、受付で名前を止められた。
「申し訳ありません。本日の参加リストに、お名前がございません。」
手書きの参加表も、後日返送と一緒に戻された。かつて権利書を無償で譲渡と迫った男が、今度は自分の名前を書いても相手にされなかった。
直のNTコーティング技術は世界に広がり続けていた。世界50カ国以上でライセンス契約が締結された。電気自動車の放熱技術の世界標準として、業界で評価された。父が守れなかった技術の価値を、娘が世界に証明した。
技術は、誠実に磨き続ける者の元に残る。権力や肩書きでは、本物の技術は奪えない。この物語は、それを証明した逆転劇だった。



