本社での年次会議に出席する直前、専務が私にそう言い放った。
「私は君を絶対に許さない。覚悟しておくことだな」
私は木戸、38歳。企業向け保険を扱う会社で営業部課長を務めている。
若い頃からコツコツと結果を積み上げてきたからこそ、30代後半で課長になれたのだと思っている。
うちの仕事は契約して終わりではない。何かあった時に初めて真価が問われる仕事だ。だから私は契約後も年に何度か必ず得意先を訪ねてきた。社長の誕生日、会社の創業記念日。そういった日付を手帳に書き込み、欠かさず連絡を入れる。
「木戸さんが来てくれると安心する」
そう言ってもらえた時こそ、この仕事をやっていて一番報われる瞬間だと思っている。
先月、長年付き合っていた彼女とようやく入籍した。彼女も仕事に邁進するタイプで、二人で話し合って決めたタイミングだった。
来月、年に一度の経営方針発表会が開かれる。本社が全国の支社から部長以上の人間を招集する大きな会議だ。
本来は部長が出席するはずだった。だが、長年付き合いのある取引先との商談の日程が、どうしても会議と重なってしまったのだ。
その代理として、私が本社に行くことになった。
会議そのものにも緊張はある。しかし、それ以上に私の頭を占めていたのは別の不安だった。
数ヶ月前、一人の女性が二週間、うちの支社へ出張に来ていた。その女性は事前に専務の娘さんだと聞かされていた。明るく話しやすい人だったと思う。
だが、出張が終わりに差し掛かった時、彼女に告げられたのだ。
「木戸さんのことが好きになっちゃいました。付き合ってください」
思いがけない言葉に衝撃を受けると同時に、真っ先に浮かんだのは当時まだ恋人だった妻の顔だった。すでに結婚を真剣に考えていた私は、告白を受け入れる選択肢などありえなかった。
「あなたの気持ちに答えることはできません。申し訳ありません」
そう告げて頭を深く下げた。彼女は何も言わなかった。その妙な沈黙が恐ろしくて、私はゆっくりと顔を上げた。
すると、さっきまで恥ずかしそうに頬を赤らめていた彼女の表情が一変していた。怒りの形相と呼ぶにふさわしい顔に、私は一歩引いた。
「わ、私はパパの娘なのよ。分かっているの?もうあなたのことだってパパには話してあったのに」
私は内心、報復されるのではないかと心配したが、彼女が上層部に何か働きかけるような真似はしなかったようだ。失恋のショックで勢いよく強い言葉を吐いてしまっただけなのかもしれない。しかし、気になるのは「パパには話してあったのに」という言葉だ。どこまで聞いていたのかは分からないが、専務が私の名前を覚えているとしたら──そう考えると、自然とため息が出た。
会議当日、私は本社ビルを訪れていた。会議までまだ時間があるため、人の邪魔にならない場所を探して資料を確認することにした。緊張を落ち着かせるための口実でもある。
「君、もしかして」
不意に声をかけられ、顔を上げると、少し離れた場所から私を見ている男性がいた。60代くらいで、スーツをビシッと着こなしている。
「やっぱり」
男性はそう言って近づいてきた。一瞬誰だか分からなかったが、すぐに思い出した。専務だ。慌てて頭を下げる。そう、この男性は、数ヶ月前に私が告白を断った女性の父親だったのだ。
「娘から話を聞いていた上に、写真も見せられていたのでね。君の名前と顔はよく覚えていたよ」
専務は嫌味な言い方でそう言いながら、スマートフォンを取り出して何かを見せてきた。画面には、パソコンに向かっている私の横顔が映っていた。いつの間に撮ったのか、私はまったく気がつかなかった。おそらく彼女が仕事中に撮ったのだろう。
「娘さんに不快な思いをさせてしまい、本当に申し訳ございません」
私は言葉を選びながら謝罪した。正直に言えば、私は真面目に仕事をしていただけで、思わせぶりな態度を取ったことも一切ない。謝るのもおかしな話だが、結果として彼女に嫌な思いをさせたという点では謝罪すべきだと思った。
私は額に浮かんだ汗を拭おうと、左手でハンカチを取り出した。
その瞬間だった。
「君、まさか結婚したのか?娘を傷つけて、自分だけは幸せに過ごしているってわけだ」
専務の言葉で、血の気が引いていく。彼の視線は確実に私の左手、もっと言えば左手の薬指に向けられていた。
「まったく、娘が気に入るような男だからどんな男かと思えば」
専務はまるでゴミでも見るかのような冷たい目をしている。何を言っても火に油な気がして、私はひとまず口を閉ざした。すると彼は言葉を続けた。
「娘は今でも落ち込んでいるよ。本当なら私が直接君の支社に乗り込んでも良かったんだ。だが娘が、自分が悪かったんだからやめてって懇願してな。娘の優しさに感謝するんだな」
彼女が告白を断った時に吐いた捨て台詞が脳内に蘇る。あの調子ならむしろ父親を焚きつけそうなものだが、やはり彼女は一時の感情で強い言い方をしただけだったのだろう。
「はい」
と言いかけたところを、専務が遮った。
「だが、私は君を許してはいない。娘は自分が勝手に好きになって迷惑をかけただけだと言っていたが、君が何か誑かす真似をしたに決まっている。それに、幼い娘を差し置いて結婚なんて、人を馬鹿にするのも大概にしろ」
とんでもなく無茶苦茶なことを言っている。私は目を白黒させる。何を言えばいいのかと考えあぐねていると、専務は腕時計をちらりと見て言った。
「ふん。もう時間だ。いいか?私は君を絶対に許さない。覚悟しておくことだな」
そう言い残して、彼は去っていった。私にできるのは、目の前の仕事に全力を尽くすことだけだ。それ以外に自分を守る手段なんてない。私は大きく深呼吸をして、会議室へと足を進めた。
会議が始まり、各支社の代表が順番に成績報告と来期の方針を発表していく。やがて私の支社の番が来た。私は立ち上がり、淡々と報告をする。数字は決して悪くはない。そのまま来期の方針へと話を続けていく。
「今後も引き続き、担当者が直接足を運び、関係性重視の営業を続けていく所存です。数字だけでなく、お客様との信頼こそが長期的な契約に──」
そこまで言った時だった。
「ちょっと待て」
誰かが私の発言を遮った。リモート参加を含めても、私以外に57名もの人間が参加する会議だ。一体誰が発言をと探すと、その人物と目があった。専務だった。
「専務、何かございましたか?」
すると専務は発言用のマイクを使い、私に言い放った。
「関係性重視?いちいち足を運ぶって時代遅れも甚だしい。今時そんな非効率なやり方で、何が課長だ?君は運だけで昇進した口か?」
専務の露骨な喧嘩腰に驚いたのだろう、周りからどよめきが聞こえてくる。私は泰然とした態度で応答した。
「効率は重要です。ですが、手間を惜しみすぎれば信頼関係は生まれません。お客様の安心と保障につながる保険の仕事だからこそ──」
私の言い分など、彼には興味がないのかもしれない。先ほど彼は「私を許さない。覚悟しておけ」と言い切った。私を見つけた時から、会議で何か嫌がらせをしてやろうと思っていたとしてもおかしくはない。
「黙れ」
専務が続ける。
「まったく、投げやりだな。言い訳ばかりで、お前は管理職の器もないな。お前なんか、平社員に降格して、なんなら田舎の支社にでも移動がお似合いだ」
私と専務を除く57人の視線が、一斉に私に集まる。頭の中が揺れている感覚がした。怒りなのか、屈辱なのか、はっきりと分かる言葉が見つからない。ただ、57人もの前で晒し者にされているという事実だけがそこにあった。顔が、耳が熱い。私がなんとか平常心を保とうとしていると、専務がさらに続けた。
「そこにいるみんなもそう思うだろう?こんな古い人間に管理職は務まらんよな」
実際に笑っている人はいなかったと思う。だが、深まる沈黙が私にそう錯覚させた。
自分の娘が失恋したからという理由で、こんな形で報復するとは。父親以前に、人として全く理解できなかった。そもそも私は彼女の告白を断った際、結婚を考えている女性がいることもきちんと説明しているのだ。今日まで彼女や専務には多少申し訳ない気持ちもあった。だけど、こんな仕打ちは到底受け入れられない。
今にもそう叫びたい気持ちを、そして体の震えを抑え込むようにして、私は口を開いた。
「わかりました。専務がそうおっしゃるなら、そうなのかもしれませんね。私はこの場に、いえ、会社に不要な存在のようですので、失礼いたします」
静かにそう告げると、私はその場で一礼し、会議室を出た。
廊下に出た途端、私の中で何かがストンと落ちた。あの男の下でもう一日足りとも働く気にはなれない。
会議から戻り、私はすぐに退職届を提出した。部長には「そんな真似をするな」と止められたが、会議での出来事を説明すると、彼の顔色が変わった。
「信じられないかもしれませんが、事実です。他の参加者の方々に聞けばすぐに分かりますよ。私はあんな人が専務を務める会社に未来を感じない。何より、もう……心が」
大勢の目にさらされた瞬間を思い出し、私は胸を押さえた。ある意味、トラウマになったと言っても過言ではない。私の心痛を察してか、部長は理解してくれたのだ。私はあの専務が宣言した通りに降格や移動がまかり通るとは思っていない。ただ、部長に言った通り、あんな男が専務を務める会社にいたいとは思えなかったのだ。
退職届を提出してから引き継ぎなどをして、およそ一ヶ月後。私は有給休暇を消化し、久しぶりに妻と二人でゆっくりと過ごしていた。その日の午後、私のスマートフォンが鳴った。表示された番号は部長のものだ。何かあったのだろうか。あったとしても、もう私は有給消化中なのだが。そう思いつつも気になって通話に出ると、聞こえてきたのは部長ではない声だった。
「木戸君かな?」
「どなたでしょうか?」
怪訝に思い尋ねると、次の瞬間、私は目を丸くした。相手は本社の社長その人だったのだ。社長は部長に頼んで、私に連絡を取ってもらったらしい。
「実は、君の支社の、その会議の件は聞いた。どうやら専務が個人的な感情を暴走させたようだね。遅ればせながら、謝罪がしたいんだ。君が良ければ、そちらへ伺っても構わないだろうか?」
今更か、と私は目を細めた。何にせよ、自宅を教える理由にはならない。
「謝罪なら必要ありません。家に来られても困りますよ」
そう言って電話を切ろうとした時、隣で聞いていた妻が口を挟んだ。
「来てもらえばいいじゃないの。あなたがこれだけ苦しんだんだもの。ちゃんと謝らせてあげなさい」
思いがけない言葉に、私はしばし呆然とした。
数時間後、インターホンが鳴った。玄関を開けると、本社の社長と、専務が並んで立っていた。
「専務もご一緒とは聞いておりませんでしたが」
「すまない。確かに伝え損ねていた」
正直に言えば、専務とは二度と顔を合わせたくはなかった。しかし来てしまったものは仕方がない。私はそのまま二人を家に通した。
テーブルを挟んで向かい合うと、専務は一つ息をつき、悔しそうに唇を噛んでから、ゆっくりと頭を深く下げた。
「この度は、娘可愛さから、あってはならない行動をしてしまいました。本当に申し訳ございません」
「私は会議の日はあいにく出席できませんでしたが、私がいたら絶対に止めていました。木戸さんには本当に申し訳ないことをしました」
社長が専務に続いて頭を下げ、ため息をつく。
「……実は、な。今月、キドさんの支社の契約が一件も取れていないんだ」
お茶を運んできた妻と私は視線を交わす。それから私は静かに口を開いた。
「支社へ伺ったようですので、もう部長からお聞きかもしれませんが」
そう前置きし、私は詳しく説明した。長年担当してきた得意先の大口の契約が、会議の一ヶ月後、つまり今月に集中していたのだ。そのどの会社も、主に私が担当してきた。もちろん私以外にも営業は何人もいて、サポートしてくれる予定だった。しかし私がいなくなったことで、その体制が根本から崩れてしまった。それだけではない。今回の得意先の多くは、人や信頼関係を重視する社長ばかり。唐突に私がいなくなったことで、不審感を抱かれてもおかしくはない。
「会議で専務が『時代遅れ』とおっしゃったあの営業スタイルの結果が、今月の数字に出ているわけですね」
私がそう静かに告げると、社長は言葉を失ったように沈黙した。これは後から部長に聞いた話だが、支社の有様を報告で聞いた社長は、私の退職の原因となった専務に対し、「今すぐあいつを連れ戻せ」と怒鳴ったらしい。
「社長は謝罪に来たと電話でおっしゃいましたが、厳密には違うのではありませんか?」
「え、いや、そんな。謝罪したいからこそ、専務を連れて」
社長はそう説明するが、私は首を横に振る。本当に謝罪するつもりなら、最初から専務を連れてくるはずだ。そもそもこんなに急に押しかけるなんて、非常識では?
専務が苦虫を噛み潰したような表情で、社長の顔色を伺っている。おそらく、私の言ったことはほとんど当たっているのだろう。社長と専務は揃って、再び頭を下げた。
「おっしゃる通りです。どうか、戻ってきてください。待遇はこれまで以上に保証いたします」
「私はすでに次の就職先が決まっていますから、無理ですね」
「え?」
気抜けした声が社長と専務から漏れる。
「実は、妻の父の会社に誘われておりまして」
妻の父は、実を言うと県内で有名な大きな会社を経営している。私の事情を聞いて、「それならうちに来ないか」と言ってくれたのだ。私がそう説明すると、専務は顔色を変えた。
「ふん。なるほど。そういうことか。だから娘を振って、後継狙いができそうな女性を選んだというわけか」
「お言葉ですが」
ここに来てずっと黙って見守っていた妻が口を開いた。顔は微笑んでいるが、目は冷たく専務を見据えている。
「言っておきますが、会社は私の兄が継ぎます。下世話な妄想をするのはやめていただけませんか?」
「そもそも、妻と結婚した後も、今の会社で普通に働いていくつもりでしたからね」
私も妻の後に続くと、専務の顔が見る見るうちに赤くなる。
「……謝罪してあなたを連れ戻せれば、失った信頼を回復できると思った。我々が浅墓でした。そもそも、打算があった分、誠実とは言えない」
隣で悔しげに俯く専務を見て、私は今日何度目かのため息をついた。この男たちに謝罪の気持ちなどなかった。あるのはただ、辻褄を合わせて軌道修正したいという自分の都合だけ。私は心の底から退職届を出して良かったと思った。あの会議室で感じた屈辱が、今日初めて少しだけ遠くなった気がしたのだ。
その後、前の会社では役員会議の決定で、専務は更迭されたらしい。私はカウンセリングに通い、精神的苦痛に対する慰謝料を弁護士に相談している。弁護士によれば、あの場には57名もの証人がいる。これほど証拠の揃った案件も珍しいと言う。
そして数週間後、今度は前の会社経由で一通の手紙が届いた。差出人の名前を見て、私は驚いた。専務の娘の名前だったからだ。妻のいる前で封を開けると、丁寧な字でこう書かれていた。
「父親の暴走を招いたのは全て自分です。告白を断られた時に感情的になってひどいことを言ったことも含めて、全部申し訳なく思っています」
私の写真をこっそり撮っていた件など、彼女にも行き過ぎたところはあった。しかし、今回の件で一番悪いのは暴走した専務自身だ。私はいつか親になったら、専務のような父親にならないよう、反面教師にしようと思う。



