午前4時、俺は毛布を跳ねのけて遠油ストーブに火を入れた。外は氷点下5度。息が白く固まって空へ登っていく。長靴を履き、作業着の襟を立て、牛舎までの雪道を歩く。
扉を開けると、湿った草と牛たちの体温が混ざった匂いが押し寄せてくる。この匂いを嗅ぐと、いつも肩の力が抜ける。ここが俺の居場所だ。
「みんな、おはよう」
声をかけると、一番奥のホルスタインがのっそりと顔を上げた。続いて隣の牛。その隣の牛。順番に瞳がこちらを向く。
俺の名前は霧島優馬。45歳。北海道の人口2000人ほどの小さな村で牧場を営んでいる。搾乳機のスイッチを入れ、餌をやり、糞をかく。一頭ずつ体を撫でて目を覗き込む。食欲はあるか、毛艶はどうか、乳房は張っているか、歩き方はおかしくないか。俺にとってこれは診察に近い。牛たちは口を利かないから、体で語る。その語りを聞き逃さないのが俺の仕事だと思っている。
牛舎の一番端、まだ小さな囲いの中に生まれて二ヶ月の子牛がいた。俺はその囲いの前で足を止める。ミオと名付けた雌牛だ。
「ミオ、今日も元気か?」
呼ぶと子牛は俺の指をぺろりと舐めた。温かい舌の感触が指の骨まで染みていく。ミオ。それは10年前に逝った妻の名前でもある。村の誰にもこの子牛の名前の由来は話していない。話す必要もない。俺とこの子牛と、雪の中で眠る妻だけが知っていればいい。
朝の作業を終えて外に出ると、東の空がわずかに白み始めていた。村人たちは俺のことを「牛舎の霧島さん」と呼ぶ。若い頃から牧場一筋で生きてきた、少し無口な男。それでいい。それが俺の選んだ人生だ。
午前8時、外で軽トラックが止まった。ドアを叩く音がして、聞き慣れた声が響いた。
「霧島、いるか? 牧草の話でな」
隣の牧場主、高瀬さんだ。62歳。この土地で30年以上牛を飼っている男で、俺がこの村に来た時から家族のように面倒を見てくれた人だった。
「開いてる。入ってくれ」
扉を開けると、高瀬さんは雪を払いながら土間に入ってきた。
「今年の牧草を少し底上げするらしい。組合でまとめて頼むから、お前の分も入れとくぞ」
「悪いな。いつも助かってる」
「何言ってる? お互い様だろう」
高瀬さんはストーブの前にどっかりと座り込むと、俺が入れたインスタントコーヒーを両手で包んだ。節くれだった太い指。牛を扱ってきた者の手だ。俺は自分の手を見下ろす。細く長く、あまり牧場主らしくない指をしている。高瀬さんは昔からこの手のことを何も聞かなかった。
「そういえば、うちの一頭が乳房炎でな。お前が来て見てくれた通りにオンシップしたら、翌日には熱が引いたよ。お前、本当に牛のこと分かってるよな」
「たまたまだ。あの牛は元々丈夫だから」
「またそうやって謙遜する。お前はな」
高瀬さんはしみじみと俺の顔を見た。
「お前は牛だけじゃなく、人も見られそうだな」
冗談めかしたいつもの調子だが、俺は湯呑みを持つ手を一瞬だけ止めた。ほんの一秒。それに気づかれないよう、俺は視線をストーブの炎に落とす。
「牛の方が正直でいい。文句も言わないしな」
「そりゃそうだ。違いない」
高瀬さんは笑って話を牧草の値段に戻した。窓の外では雪がまた降り始めていた。
昼過ぎ、村の小型バスが牧場の入り口に止まった。今日は隣町の小学校の子どもたちが牧場体験に来る日だ。引率してきたのは大学二年生の柏木浩という青年だった。
「霧島さん、今日はよろしくお願いします」
背が高く、真っすぐな目をした若者だった。
「寒い中来てくれてありがとう。中に入る前に、まず子どもたちに一つだけ話をさせてもらっていいか?」
「もちろんです」
12人の子どもたちが牛舎の前に並んだ。赤い頬、白い息、目だけがキラキラしている。俺はしゃがんで彼らと目線を合わせた。
「牛はな、みんなと同じで命を持っている。腹が減れば鳴くし、寒ければ震える。今日はその命を少しだけ間近で見てもらう。触る時はそっとだ。大きな声も出さない。牛はな、こっちが穏やかだと向こうも穏やかになる。生き物ってのはみんなそうだ」
子どもたちが真剣に頷く。柏木も少し後ろで俺の話を聞いていた。
搾乳を体験させ、餌をやらせ、生まれたばかりの子牛の命を見せた。子どもたちは歓声を上げ、ミオの小さな鼻先に恐る恐る手を伸ばす。ミオは驚くほど大人しく、その手を舐めた。体験が終わり、バスが去っていくのを見送った後、柏木だけが残っていた。彼は少し照れたように頭を掻いて俺の方を向いた。
「霧島さん、俺、今日ここに来てよかったです。命を育てる仕事って、こんなに静かで、こんなに重いものなんですね。うまく言えないんですけど、なんか胸が熱くなりました」
「その熱くなった感覚を覚えておくといい。若いうちに感じたそういうものは、後で自分を助けてくれるから」
「はい。また来ていいですか? 今度は一人で手伝いに来たいんです」
「歓迎するよ。ただし朝は4時からだぞ」
「うわ、マジですか?」
柏木は笑って頭を下げて帰っていった。
夜になった。牛舎には俺一人だ。ストーブの上で夜食が小さく沸いている。仏壇の前に座り、ロウソクに火を灯す。写真の中の妻は42歳のまま笑っている。白いワンピースを着て、生まれたばかりの子牛を抱いていた頃の写真だ。夫婦で牧場をやろう。それが俺たちの夢だった。妻が病に倒れてから、もう10年になる。
「ミオ、今日はな、子どもたちが来た。柏木って若いのがいてな、いい目をしてた」
写真は何も答えない。それでいい。
「牛はみんな元気だ。お前の名前をつけた子牛もよく食う。心配するな」
言葉を切って、俺は仏壇の下の引き出しにそっと手を伸ばしかけた。そこには彼女が最後に残した一冊のノートが入っている。10年間、俺はまだ最後のページを開いていない。開いてしまえば、ミオが本当にいなくなる気がして怖かった。
「約束は守ってる。もう二度とメスは握らない。俺はもう医者じゃない。ここでお前と一緒に牛と生きていく」
ロウソクの炎がふっと揺れた。まるで返事のように、外では雪が降り続いている。
この日は朝から風が強かった。牛舎の屋根の上を粉雪が横に流れていく。俺は午前の作業を終えて朝食を取っていた。窓の外で、遠くから重い音が響いた。金属と金属がぶつかる音。続いて悲鳴のような高いブレーキ音。それから静けさが戻る。
俺は箸を置いた。胸の奥がざわつく。長靴をつっかけて外へ飛び出す。坂を下ったカーブの向こう。黒い煙が細く立ち上っていた。
軽トラを走らせて現場に着くと、思っていたよりずっと悲惨な光景が広がっていた。観光バスが横倒しになり、大型トラックが道路の反対側に突っ込んでいた。割れたガラスが雪の上に散らばる。バスの側面から乗客たちがはい出してくる。血で汚れた顔。動かない手足。泣き叫ぶ子ども。数えるだけで十数人はいる。
俺は軽トラを止め、まず一人の乗客に走り寄った。中年の男性だ。胸を押さえて呼吸が浅い。
「大丈夫だ。喋らなくていい」
声をかけながら指を頚動脈に当てる。脈は早いがある。近くに立ち尽くしていた若い運転手に叫んだ。
「救急は呼んだか? 何分で来る?」
「呼びました。でもこの吹雪で30分はかかるって」
「分かった。落ち着いて、動ける人を集めてくれ。毛布と水と、車の中にある救急箱全部だ」
俺の口から出た指示は、自分でも驚くほど滑らかだった。指先が冷えているのに、震えていない。雪の上に横たわる人々を俺は素早く見て回る。呼吸、脈、意識、出血。助かるもの、待てるもの。今すぐ処置しなければ落ちるもの。頭の中で自然に振り分けが進んでいく。
バスの下敷きになりかけて引きずり出されたらしい若い男が、うつ伏せに倒れていた。その顔を見て、俺は息を飲む。柏木だった。先日子どもたちを連れて牧場に来てくれた、あの青年だ。
「柏木、聞こえるか? 俺だ。霧島だ」
返事はない。背中の作業着が赤く染まっている。太ももの動脈をやられている。このままなら数分で失血する。俺は迷わなかった。軽トラに積んでいた牛舎の道具箱を引き寄せる。清潔な子牛用のタオル、消毒用のアルコール、乳房の処置に使う輸液セットのチューブ。太めの糸と針。本来は牛のためのものだ。それでも今はこれしかない。太いチューブを傷口の心臓側に強く巻いた即席の止血帯。巻いた瞬間、血の噴出が弱まる。
「柏木、聞こえるなら瞬きしろ。まだ死なせない」
柏木のまぶたがかすかに動く。隣で毛布を運んできた女性に、俺は落ち着いた声で告げた。
「この人の足を心臓より高くしてくれ。この毛布を頭の下に敷いて、話しかけ続けてほしい。名前を呼ぶだけでいい」
「はい」
俺は次の負傷者へ移る。バスの中で天井に頭を打ったらしい男性。意識はあるが瞳孔の反応が鈍い。高所からの衝撃による頭蓋内損傷の疑い。これはヘリでなければ助からない。一人また一人。声をかけ、脈を取り、位置を変え止血をする。気がつくと、俺の手はもう10年前と同じ動きをしていた。指が覚えている。体が覚えている。
遠くから風に乗ってヘリのローター音が聞こえてきた。除雪された広い場所に、赤いドクターヘリが降りてくる。機体から飛び出してきたのは、フライトスーツを着た若い医師と看護師だった。
医師の男は真っ先に俺のそばへ駆け寄ってくる。
「救命医の朝田です。状況を教えてください」
「重傷者6名。うち緊急搬送すべきは3名。左大腿動脈損傷、止血帯装着済み。手前の男性は頭部外傷で意識レベル低下、瞳孔不同あり。バスの中に胸郭圧迫の女性がもう一人」
朝田と名乗った男は、一瞬だけ動きを止めた。俺の説明があまりに現場の医師のそれだったからだろう。だがすぐに部下に指示を飛ばす。
「大腿動脈の人から搬送。男性はセカンド。バス内部の確認、急いで」
ここからは彼らの戦場だ。俺は一歩下がり、担架に乗せられていく柏木の手をそっと握った。若い指にまだ力が残っている。朝田はテキパキと処置を続けながら、時おりこちらをちらりと見た。柏木の傷口を確認する彼の手が、止血帯を巻いた場所を丁寧に触れる。その巻き方、角度、圧の入れ方。どれも一目で分かる。これを施したのが素人ではないことが。
全ての重傷者がヘリと救急車に収まった頃、ようやく空が明るくなってきた。朝田は最後の一人を送り出し、ゆっくりと俺のところに戻ってくる。
「あなたのお名前を伺ってもいいですか?」
「霧島だ。この先で牧場をやっている」
「牧場ですか」
朝田は俺の手を見た。それから俺の顔を見て、ゆっくりと目を細めた。
「失礼を承知でお聞きします。あなたは霧島優馬先生ですか?」
俺は答えなかった。
「私の恩師がいつも話していました。世界に一人、心臓外科で神の手と呼ばれた日本人がいたと。ある日突然消えたと。写真は一枚も残していないと」
「人違いだろう」
「そうかもしれません。でも今日、あの止血の手つきを見て、私は確信しました」
俺は目を伏せた。朝田はそれ以上追求してこなかった。代わりに深く頭を下げた。
「あの青年、きっと助かります。あなたの止血がなかったら、間違いなく落ちていました。ありがとうございました」
俺の手には、10年ぶりに人の命をこの手でつなぎ止めた実感が残っていた。
翌日、事故は全国のニュースになった。「北海道の牧場主が奇跡の救命」という見出しで、俺の顔こそ映らなかったものの、噂はまたたく間に広がっていく。村役場に問い合わせの電話が鳴り続け、海外の医療機関からも連絡が来始めていると、高瀬さんが心配そうに教えてくれた。
三日後の夕方、玄関の戸を叩く音がした。朝田翔太が私服で立っていた。手には小さな菓子折り。
「押しかけてすみません。一度だけお話ししたくて」
「上がってくれ」
ストーブの前に座らせてコーヒーを入れる。
「柏さん、意識が戻りました。霧島さんに会いたいと言っています」
「そうか。よかった」
「あの日からずっと考えていました。なぜ先生ほどの人が山奥で牛と暮らしているのか」
俺はコーヒーの表面を見つめる。話すつもりはなかった。それでも口が勝手に動いていた。
「妻がいた。交通事故だった。二人で牧場をやろうと約束していたんだ。彼女は先に行ってしまった。だから私は彼女の代わりにここで牛と暮らしている。それだけの話だ」
「医師を辞め、メスはその時に置いたんですね」
「もう握らないと決めた。それが約束だった」
朝田はしばらく黙って、それからゆっくりと顔を上げた。
「先生は、大切な人との約束を10年間、たった一人で守ってきたんですね。誰かに褒められるためじゃなく、自分の中で守ってきた。あの日の先生の手を、私は一生忘れません」
朝田は深く頭を下げて帰っていった。去った後、俺はしばらく座ったまま動けなかった。
一週間が過ぎた。村はまだ事故のことでざわついていた。それでも俺の朝は変わらない。4時に起きて牛舎の扉を開け、一頭ずつ声をかけて回る。
その日の午前10時、牧場の入口に黒い大型のワゴン車が止まった。村には似合わない都会仕様の車だった。運転席から日本人らしき通訳の男が降りてくる。続いて後部座席から背の高い外国人が姿を見せた。濃紺のコートに白い髭、灰色の瞳が雪の光を反射してわずかに細くなる。一目で分かった。エリック・マイヤーだった。
「ユウマ。久しぶりだな」
「エリック」
15年ぶりだった。かつてボストンの手術室で俺の隣に立っていた男。親友であり、最大のライバル。その男が今、雪の中に立っている。俺は言葉が出なかった。エリックは薄く笑って両手を軽く広げた。
「牧場主の格好も悪くない。だが君の指はまだ外科医の指だ」
家に招き入れ、通訳を交えて向かい合った。エリックはゆっくりと本題を切り出した。
「ドイツに7歳の少年がいる。心臓の位置がずれ、動脈が三本絡み合っている。世界中の外科医が集まって議論した。誰も執刀を引き受けない。ただ一人、名前が上がった。霧島優馬だ」
「もう10年メスを握っていない」
「知っている。だからこそ私が来た」
エリックはテーブルの上で両手を組んだ。灰色の瞳が静かに俺を見ていた。
「あと二ヶ月持つかどうかだ。手術できる人間は、この地球上に君しかいない」
「そんなこと言われても困る。私はここで牛を飼っている。それだけの男だ」
言葉が硬くなる。自分でも分かっていた。本当は、俺の心はもう揺れている。妻と約束した。もうメスは握らないと。この10年、その約束だけで生きてきた。今さら崩せない。
エリックは長い沈黙の後、小さく頷いた。
「そういうと思っていた。だからこれを持ってきた」
エリックはコートの内ポケットから一冊のノートを取り出した。見覚えのある深い茶色の表紙。背の角が少し擦れている。俺の心臓が大きく跳ねた。
「なぜそれをあなたが……?」
声が震えた。仏壇の下の引き出しにあるはずのノートと同じものだった。いや、違う。これはミオの別のノートだ。
「亡くなる三ヶ月前、彼女から国際便で届いた。手紙が添えてあった。『いつか夫が壁にぶつかった時、あなたから渡してください』と。私はずっとこの時を待っていた」
俺は震える手でノートを受け取った。最初の数ページは医師としてのメモだった。彼女らしい丁寧な字が並んでいる。ページをめくる指が、途中で止まらなくなった。中盤からは、俺たち二人の牧場の設計図があった。夢の続きが、そこにあった。
そして最後のページ。俺は一度、深く息を吸った。細くなった彼女の字がそこに残されていた。
「優馬さん、あなたがこれを読む時、私はもうあなたのそばにいないでしょう。牧場の約束は、あなたを縛るためのものじゃないの。あなたが疲れた時に帰る場所を持っていて欲しかった。それだけ。だからもし世界のどこかに、あなたしか救えない命があるなら、迷わず助けに行ってください。牧場は、帰ってくる場所として残せばいい。あなたの手は、私と牛たちのためだけのものじゃない。私はあなたの手が誰かの命をつなぐ瞬間を、ずっと誇りに思っていました」
俺はノートを閉じて、しばらく顔を伏せていた。喉の奥で10年分の何かが押し上がってくる。エリックは何も言わず、ただ座っていた。
やがて俺は顔を上げた。窓の外、牛舎の方角に目をやる。子牛のミオが今頃、藁を食んでいるはずだった。
「ミオ、お前は最初から全部知っていたのか?」
エリックが静かに口を開いた。
「返事は明日でいい。今日は彼女と話してくれ」
こう言って彼は席を立ち、玄関で振り返り少しだけ笑った。
「君の妻はいい女だったな」
「ああ。私にはもったいない女だった」
翌朝、俺は牛舎の扉を開けた。外はまだ薄暗い。牛たちがいつも通り顔を上げる。一頭ずつ歩いて回った。背中を撫で、首をさすり、目を覗き込む。最後に、子牛のミオの前で膝をついた。
「ミオ、少しの間、留守を頼むな。ちゃんと帰ってくるから。その時はまた指を舐めてくれ」
子牛はいつものように、俺の指を舐めた。
家に戻る途中、軽トラックのエンジン音が聞こえた。高瀬さんだった。エリックから連絡を受けたらしく、彼はすでに事情を知っている顔をしていた。
「霧島、行くんだってな」
「ああ。少しの間だ。二ヶ月か三ヶ月か、まだ分からない」
「牧場は俺が守る。心配するな。搾乳も餌も牛舎の掃除も、俺の若い頃はお前よりうまかったんだからな」
高瀬さんは笑いながら、太い指で目頭を押さえた。俺は深く頭を下げた。そこにもう一台、軽自動車が到着した。柏木だった。まだ杖をついている。足には傷跡がある。それでも目は真っすぐだった。
「霧島さん、噂で聞きました。俺、大学少し休学します。ここで高瀬さんの手伝いをさせてください。命を助けてもらったのに、俺、まだ何もしてないですから」
「無理はするな。傷が完全に治ってからでいい」
「治りかけの頃が一番動けるんです。俺、朝4時起きられますよ」
柏木が笑った。高瀬さんが横でうんうんと頷いている。
俺は仏壇の前に座り、ロウソクに火を灯した。写真のミオは変わらず笑っている。
「行ってくる。お前の言う通りにする。帰る場所は、しっかり残していく」
ロウソクの炎が、またふっと揺れた。
昼過ぎ、救命医の朝田が迎えに来た。エリックはすでに空港で待っているという。俺は小さなボストンバッグ一つを持って、玄関の戸を閉めた。軽トラに乗り込む前、俺は一度だけ振り返る。高瀬さんと柏木が並んで立ち、こちらに向かって大きく手を振っていた。
「先生、行きましょう」
「ああ。行こう」
車が動き出す。車窓の外、雪原がゆっくりと流れていく。俺は胸の中でそっと呟いた。
俺には帰る場所がある。だから、もう一度だけ命を救いに行ける。



