電気を消され、真っ暗な玄関で、私の「ただいま」だけが虚しく響く。疲れて帰ってきても、妻の香りの「おかえり」も、娘のすみれの姿もない。2人ともテレビに釘付けで、振り向きもしない。挨拶すら返ってこない。まるで透明人間だ。唯一、ペットの犬だけが尻尾を振って寄ってくる。すみれが「絶対私が世話するから」と買った犬なのに、結局トイレの世話も散歩も全部私の担当だ。
私は吉雄。建設会社の作業員で、休日は兄の農業を手伝っている。もうすぐ定年を迎える、ごく普通の中年男性だ。ただ一つ、昔の貧乏で進学できず、最終学歴は中卒だ。
「夕飯は残っているのか?」
妻にそう声をかけると、睨みつけられた。
「今いいところなのに。冷蔵庫に何かあるでしょ? 勝手にチンして食べてちょうだい」
それだけ言うと、またドラマに熱中する。ため息が出る。まだ今日は返事をしてくれただけマシか。残業で遅くなった日は、家中の電気を消して寝ているし、朝も私がご飯を作る。いつからこうなったんだろう。家族のために必死に働いてきたのに、誰からも見向きもされない。虚しさが込み上げてくる。
結婚当初は違った。風邪を引けば「大丈夫?」と心配してくれて、優しく看病してくれた。今では「私たちに映さないでね」と言うだけだ。妻にとっての優先順位は、自分と娘、次に犬。私はその下だ。いや、犬の方が高級な餌を食べているだろう。でも、トイレの世話は汚いからと私にやらせる。散歩も日焼けが嫌だと2人とも行かないから、私の役目だ。
冷蔵庫の残り物を適当に食べる。温めても味気ない。
香りとは、勤めている建設会社の忘年会で知り合った。彼女は派遣コンパニオンの一人で、私は一目惚れした。その場の勢いで告白して結婚した。香りにはバツイチで、幼い娘のすみれがいた。前の夫に浮気され、捨てられたらしい。私は香りに同情したし、連れ子のすみれも大切にしようと決めた。
最初の数年はうまくいっていた。すみれもよく懐いてくれて、本当の親子みたいだった。ところが結婚して3年目くらいから、香りは本性を現し始めた。
「私の給料じゃ足りないのか?」
「これっぽっちじゃ全然足りないわ。あんたみたいな中卒のおじさんの妻になってやったのよ。私をもっと贅沢させてくれなきゃだめ。女は金がかかるんだから、しっかり稼いできなさいよ」
妻は高卒だという理由で、中卒で年上の私を馬鹿にする。確かに私は5つ上だ。でも、学生時代ならいざ知らず、いい大人になれば5つくらい誤差だと思う。土日は休んですみれと遊んでやりたいと言うと、香りは見下したように笑った。
「あのね、あんたみたいなおじさんと可愛いすみれが一緒にいたら、すぐ不審者として通報されるわよ」
「そんなわけないだろう。親子なんだから」
悔しさでいっぱいだった。すると今度は、すみれが妻そっくりの顔で言い放った。
「おじさん、本当の父親じゃないし、日焼けして真っ黒でゴキブリみたいだから、一緒にいたくないの」
雷に打たれたようなショックだった。家族としてうまくいっていると思っていたのは、私だけだったのか。後で分かったことだが、香りがすみれに「どやけをして真っ黒なあいつは貧乏臭い」と悪口を吹き込んでいたらしい。確かに香りもすみれも色白の美人だ。私は外仕事で炎天下にいる。じりじりと暑さに耐え、滝のような汗を流しながら家族のために働いているのに。
「私たちのためにお金を稼いできてよ。それがあんたの仕事。『絶対に苦労はさせない。一生2人を養います』って言ったじゃない」
妻は私のプロポーズの言葉を持ち出してきた。唇を噛んだ。私は確かに言った。でも、ちょっと話が違うだろう。
この時、ようやく分かった。香りは私を愛しているから結婚したわけじゃない。金ずるとなる、都合のいい再婚相手が欲しかっただけだ。あまりのショックで離婚を考えた。まだ香りとの間に子供がいない。すみれに妹か弟を、と思っていたが、今まで恵まれなかった。夜の生活も、香りからあの手この手で断られ、いつの間にかなくなっていた。ある意味チャンスだ。弁護士に相談したが、「奥様に不貞行為があったわけじゃないし、この程度では離婚の重大な理由には当てはまらない」と言われた。ATM扱いは重大な理由じゃないのか。
帰り道、珍しく居酒屋に寄った。どうやらその時、妻に聞かれるまま弁護士との話を喋ってしまったらしい。「ふうん、そうなんだ」という妻の声と、ニヤニヤとした嫌な笑顔だけが記憶に残っている。多分それが決定的だった。私は離婚を諦め、仕事に逃げた。土日も家にいると文句を言われるので、兄の農業を手伝うようになった。農家は人手と体力が勝負だ。大歓迎されて、とても嬉しかった。
月日が経ち、すみれはすっかり大きくなって、ますます妻そっくりになっていく。見た目は色白で美人だが、冷たい人間だ。私立の高校を卒業後、ニートになった。妻と一緒に毎日が日曜日のような生活を送っていて、私とはほとんど口を聞かない。目が合えば睨みつけてくる。誰のおかげで生活できると思っているのかと言ってやりたいが、喧嘩になるから我慢だ。どうも婚活をしているようだが、理想が高すぎて誰も捕まえられないらしい。
定年退職が来月となったある日、妻から聞かれた。
「ねえ、あんた定年後ももちろん再雇用してもらうのよね」
「いや、もう肉体労働は大変だからな。そろそろのんびり過ごしたいと思っているよ」
長年、何もしない妻と娘を横目に、馬車馬のように働いてきたのだ。少しは休みたい。
「はあ? 生活費はどうやって稼ぐつもり? あんたまさかずっと家にいるつもりなの?」
「年金暮らしだって、いいじゃないか。それなりに貯金はあるだろう。贅沢しなければ大丈夫さ」
「いやよ。ふざけないで。『一生贅沢させてあげる』って言ったじゃない。あんたなんて、金を稼ぐしか取り柄のない中卒男のくせに」
妻はヒステリーを起こして怒り出した。
「落ち着けよ、香り。私ももう定年なんだ。仕事をやめてもいい年齢だぞ。そろそろ私にも休みをくれないか」
「冗談じゃないわ。あんたに休みなんて必要ないわよ。そんなことを言うんだったら、私にも考えがあるからね」
妻は私を睨みつけると、足音荒く出ていった。
先週、無事に定年退職した。リビングでくつろぐ私を、妻と娘が苦にしげに見ているのは知っていたが、自分の家だし無視していた。すると妻がご機嫌で言った。
「すみれが婚活サイトで知り合った男の人と結婚できるかもしれないの。一流大学出身のイケメン社長よ」
「そりゃ良かったじゃないか。おめでとう」
ずっとニートだった娘がようやく幸せを掴んだのか。めでたいことだ。
「あんたも察しが悪いわね。だから中卒はダメなのよ」
妻はにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「だからさ、あんたはATMとしてはもう用済みなのよ。定年退職の無職は出ていけ」
すみれも一緒になって笑っている。
「あはは。ママも言うわね。ずっとおじさんが目障りだったのよ。すっきりした」
ATM扱いは分かっていたが、ショックだった。そうか。香りもすみれも、私のことをずっと金づるだと思っていたのか。
「もちろん初めからね」
妻はあっさりと答え、離婚届を突きつけてきた。すみれも私の使い古したバッグを投げつけてくる。
「ほら、荷物まとめておいてやったから、中卒の不細工おじさんは出ていけ」
「お前たちの本性は分かった。離婚してやる」
冷静に答えた。これで偽物の親子と縁が切れるのだ。良かったじゃないか。
「ああ、これまであんたを支えてきたんだから、退職金は全部私たちがもらうわね」
「いいだろう。弁護士を入れて、しっかり書面に残そう」
「もう2度と私たちの前に現れないでね。これからは赤の他人だから」
「本当、本当。これからセレブになるのに、あんたみたいな底辺とは関係を絶たなきゃ」
こうして私は妻と離婚した。退職金を全額渡す代わりに、財産分与はなしという条件にした。すみれとも養子縁組を解消した。長年、我が子のように育ててきた。多少の情はあったが、本人から「赤の他人」と言われれば、もう無理だ。きっぱりと縁を切ろう。
それから数ヶ月後、香りから何件も電話がかかってきていた。嫌な予感がするが、折り返し電話をすると、香りが叫んでいた。
「あなた、私が悪かったわ。やり直しましょう」
聞いたこともない猫なで声にびっくりだ。
「あなたも本当に水臭いんだから。会社を起業したの? なんで教えてくれなかったのよ」
どうやら香りは、偶然町で兄嫁に会ったらしい。私は定年後の計画のため、しばらく兄の手伝いに行けなかった。兄夫婦にはまだ離婚したことを伝えていなかった。香りが兄嫁に離婚したと話すと、兄嫁が慌てて私の近況をばらしてしまったというわけだ。
「ねえ、なんで教えてくれなかったのよ。雑誌で取材されるくらい順調なんて。会社の宣伝には、綺麗な社長夫人が必要でしょ」
実は、定年後に部下たちと会社を立ち上げたのだ。今、建設業界では農業参入に乗り出している。後継者不足に苦しむ農林水産業へ活路を見出す業者が増えた。私の務める建設会社もその1つだった。兄が専業農家なこともあって、私は会社の農業参入を手助けしていた。定年後は農業法人として別会社を立ち上げ、その代表取締役として就任することが決まっていたのだ。
「すみれの婚約者はどうしたんだ? 新しいATMが見つかったから離婚したんだろ?」
それとなく聞いてみると、妻は怒りながら言った。
「あの男は飛んだ詐欺師よ。結婚詐欺だったのよ」
なんと一流大学卒業という経歴は全くの嘘。急遽事業資金が必要だとか、絶対に儲かる話があるだとか言われて、結局私の退職金を全て騙し取られたらしい。そして、すでに連絡がつかない。
自業自得すぎて、笑ってしまいそうだ。
「悪いが、再婚する気はない」
私が宣言すると、香りは言った。
「じゃあ、追加でお金をちょうだいよ。生活費が必要なのよ」
図々しいにもほどがある。
「ちゃんと書面を交わしたじゃないか。もう私たちは他人なんだ。なんで赤の他人にお金を恵まなきゃならないんだ」
「ふざけんな。定年まで一緒にいてあげたんだから、もっとお金をよこしなさいよ。この中卒男」
「そうか。その中卒男に今まで養ってもらったのにな。感謝の心すらないんだな。じゃあ、私の家から出て行ってもらおう。それから慰謝料請求するからな」
「はあ? 家って私がもらったわよね。慰謝料って何よ?」
実は、弁護士から言われていたのだ。妻と娘の長年の言動は、間違いなくモラハラだ。あの時はまだ3年目で初めてだったから難しかったが、今なら立派な離婚の理由になるし、慰謝料も請求できると。だから私は、もしまた妻が何か言ってきたら、今度こそ完全に復讐してやろうと考えていたのだ。
「家は財産分与には入っていない。私の名義だ。住む場所がないと困ると思っていたが、余計なお世話だったな」
「え、ちょっと待ってよ。困るわ」
妻は急に弱気になったが、結局一言も謝罪の言葉がない。香りはその程度の人間なのだ。
「もう遅い。元々ボロかったし、どうせいらない家なんだ。私は別のアパートで暮らしているからな。売りに出すから、近日中に出て行ってくれ」
私は電話を切った。その後、弁護士に頼んで慰謝料も請求した。弁護士さんが熱心な人で、「慰謝料の逃げ得は許しませんから」と受け負ってくれて安心している。家も無事に売れた。2人はしぶしぶ出ていき、ペットの犬は「いらない」と私に押し付けてきた。私がいないため長い間散歩も行っていなかったようで、私を見ると大喜びですり寄ってくる。
「お前だけだよ。これからは私が一生、ちゃんと世話してやるからな」
この犬のように、普通に家族として楽しく暮らせたら良かったのにと思うと少し残念だが、2人の自業自得だ。香りはずっと専業主婦で働いた経験もほぼない。すみれも高校卒業後はニートだ。これからの生活は大変だろうが、もう他人だ。私の知ったことではない。
今は社長として責任のある身だ。私を慕ってついてきてくれた若い部下には、妻や子がいる者も多い。部下たちのためにも、第2の人生を頑張っていこう。
私はお寿司屋さんになる。
それは幼い頃の私の言葉だ。父は寿司職人で店を持っていて、母も一緒に手伝っていた。私は寿司職人に憧れていた。「女の子がお寿司屋さんじゃ行けないの?」という私に、父は驚きながらも喜んだという。後に母から「父があの時、本当に嬉しそうな顔をしていた」と聞いて、幼い頃の自分を褒めてあげたくなった。
私の名前は泉。36歳の寿司職人だ。「女なのに寿司職人なんて」と言われることが多々ある。でも私は父に憧れていたし、一人っ子の私はいずれ父の店を継ぎたいと昔から思っていた。父に技術を教えてもらい、調理師学校にも通い、他の店でも修行した。そして5年前から、父の店で寿司職人として働いている。
そんな私は、以前から付き合っていた人と結婚した。夫の浩は、私が修行していたお店で働いている。同い年で話が合い、意気投合して結婚した。浩とは仲良くやっているんだけど、近距離別居のお母さんがちょっとくせ者だ。
お母さんに溺愛されて育ってきた浩は、お母さんの言うことは絶対という節があって、ほとんど言いなりだ。結婚式の時も、私が自分で探した式場で挙げたかったのに、「そんな新しい式場じゃなくて、昔からある伝統的な式場で挙げなさい」とお母さんが口を出し、結局そこで式を挙げることになってしまった。その恨みは何年経っても忘れられない。その一件でお母さんのことを嫌いになってしまったので、最低限の付き合いをしていたが、住んでいるところが近いだけに、何かと口を出して浩に会いに来る。3年前にお父さんが亡くなってからは、一人でいるのが寂しいのか家に来る回数が増え、正直迷惑している。浩に言ったこともあるが、「そのうち慣れるよ」なんて言って軽くかわされてしまう。
そして事件は起こった。ある日、買い出しに行った父の車が事故に巻き込まれ、父が急死してしまったのだ。私も母も衝撃が大きすぎて、しばらく立ち直れなかった。浩も心配して「お店どうする? 俺が手伝おうか?」と言ってきてくれた。確かに、母が手伝ってくれているとはいえ、職人が私1人というのは負担が重い。母とも相談して、浩にも手伝ってもらうことになった。
心配性の父は、自分に何かあった時のためにと遺言を残していたようだ。常連さんでもある弁護士さんが、父の遺言書を持ってきた。父は遺言書を毎年見直していたらしい。何かあった時、母と私が困らないようにと気にしていたのだ。その遺言書には、実家は母に、店は私に相続させると書いてある。それから私には、この店をどうしていきたいかを綴った手紙が渡された。
「心配性の父がやりそうなことだ」
私と母はそう言い合って、父が亡くなってからようやく笑うことができた。
父がいなくなって浩に手伝ってもらうようになり、なんとか店を開けていたが、ここで問題が起こる。店は私が相続したもので、浩はあくまで手伝いだ。だが、事情を知らない新規の客は、男が板前だと思うのが普通だ。そのせいか、浩はどんどん態度が大きくなった。浩の握った寿司を出すと、昔からの常連さんがあれという顔をしたのも私は見ている。このままではお客さんにも申し訳ないし、浩のためにも良くない。私は浩に話すことにした。
家に帰って「話がある」と言うと、浩は「なんだよ、そんな深刻そうに」と笑いながら座った。
「言いにくいんだけど、お店のことで話があるの」
そう言うと、浩も真面目な顔で話を聞き始めた。
「最近の浩、ちょっと仕事が雑になってきてるよね。あの店にはお父さんが大事にしてきた常連さんが今もたくさん来てくれているし、もう少しちゃんとして欲しいんだけど」
すると浩が考え込んだ。その時、インターホンが鳴った。誰かと思ったら、お母さんだった。
「後で来てもらってよ。大事な話の最中なんだから」
そう言ったけど、玄関に行った浩はお母さんを連れて中に入ってきた。ため息が出る。
「これからのお店のことを話してたんですって? だったら私が同席しても構わないわよね」
「はい?」
「だって、大事な息子のお店のことよ。母親の私も知っておいた方がいいでしょう」
そう言ってテーブルに座り、お茶を要求し始める。どんな神経してるんだろう。しぶしぶお茶を出すと、お母さんが突然喋り出した。
「あのお店、古臭いのよね。あんなんじゃこの先大変よ。もっと時代の波に乗らないと。泉さんのご両親は世代が古いから仕方ないけど、あんなお店、新しいお客さんがつかないでしょう。これからは映えるお寿司で話題性を作らないとだめよ。カリフォルニアロールとか絶対映えるわよ」
露骨に嫌な顔をしてしまったが、お母さんは気づかない。私は両親の遅い子で、お母さんとは年齢が一回り離れている。流行り物が好きなお母さんとは、感覚が合わない。
「この際、泉さんのお母さんには引退してもらって、私がお店に立とうかしら。お客さんからは『若女将』なんて呼ばれちゃうかも」
もはや何を言っているのか分からなくなってきた。ふと浩を見ると、何やら考え込んでいるようだ。そして一通り自分の思いを語ったらしいお母さんは、浩に話しかける。
「ねえ、いい考えでしょ。浩が板前なんだから、あなたの好きにしたらいいのよ。今までの古臭い伝統を守っていくのか、新しいお店にして繁盛させていくのか。答えは簡単じゃない?」
すると浩は頷いてしまった。
「そうだな。今後あの店は俺と母さんで仕切るよ。泉は従業員としてついてくればいいから」
「はあ?」
いきなり上から目線になった浩に怒りを感じたが、浩は止まらない。
「嫌なら出ていけよ」
完全にお母さんに支配されてしまったようだ。板前と言われて天狗になってしまったんだろう。浩が自分の店を持つのが夢だということは知っていた。父が亡くなった時、手伝ってくれると言ったのは浩の優しさだったはずだ。でもお母さんが「あの店は浩のもの」とよく言っていたのも知っている。お母さんは、浩が私の父から遺言で店を相続したと勘違いしているようだ。浩はきっと、そう言われていくうちにその気になってしまったんだ。
「ほら、泉さん、浩がこう言ってるのよ。どうするの?」
そこで私は、一気に色々なものが吹っ切れて笑顔になった。
「分かりました。喜んで。ただ、あの店の名義は私になっているので、買い取ってもらう形になりますよ」
そう言うと、浩は慌てて言った。
「買い取り? 俺、そんな大金なんて持ってないよ」
ここで浩が我に帰ってくれるかと思ったけど、お母さんがまたしゃしゃり出てきた。
「大丈夫よ。お父さんの遺産がまだあるもの。あの店は立地もいいし、もっと売上が上がるんだから、1000万くらいでどうかしら」
お父さん、中小企業とはいえ役員だったしな。相当な蓄えがあったんだな。
「一度話を整理させてください。契約書を作って、きちんとさせましょう。私は一度実家に帰って母に報告してきます。1週間時間をください。連絡しますから」
そう言って、大急ぎで必要なものをバッグに詰め込んで実家に戻った。母に話すと、母は驚いて悲しんだが、私の計画を聞くと少し嬉しそうな顔をする。そこから1週間、私は弁護士事務所に行ったり不動産会社を尋ねたりと、とにかく大忙しだった。
1週間後、私は契約書を持って弁護士さんと一緒に浩の元へ戻ると、案の定お母さんも同席している。そして父から相続したあの店は、浩に譲渡する形になった。契約を交わすと、私は引っ越し業者を呼び、自分の荷物を運び出した。驚いている浩に向かって、離婚届を突きつけた。
「え、離婚?」
「『嫌なら出ていけ』って言ったよね。こういうことでしょ」
戸惑う浩に、またお母さんが言った。
「怖い嫁ね。浩にはもっと若くて可愛い子を結婚させるわ。さっさと離婚して出ていきなさいよ」
このお母さんは、本当に私のことが嫌いだな。まあ、私も嫌いだし。これで縁が切れると思うと清々する。浩のことは好きだったけど、お母さんと縁が切れることはないだろうし、こんな状態じゃこの先やっていけない。店を乗っ取られると思った時に、私は離婚を決めた。浩はまたお母さんに顎で使われる形で、離婚届に判を押した。こんなに情けない人だとは思わなかったな。私は悲しい気持ちでその場を立ち去った。
それから1ヶ月、私は再び寿司屋の板前として店をオープンさせた。あの1週間で、父の遺言書を保管してくれていた弁護士さんに相談した。1000万円ならあの店の相場以上だし、譲渡するなら契約書を作成すると言ってくれたので、それを頼んだ。そして、父が遺言書と一緒に残してくれた手紙の内容を実行に移す。手紙にはこう書かれていた。
「これからは伝統だけでなく、新しい時代の流れも取り入れていかないと、この店はやっていけなくなるだろう。泉の思うようにやりなさい。そして、この店だとお客さんも限られるから、ここを売って新しい土地で新規一転するのもいい。そこからは泉の責任で頑張りなさい」
父が亡くなった直後は、あの店を守ることを第一に考えたけど、きっと今が私の責任で頑張る時なんだと理解した。お店の常連さんで父の親友が社長である不動産会社に足を運んだ。生前父からその話を聞いていて、「その時は力になって欲しい」と言われていたと、社長自ら物件を探してくれた。内装は、そこから紹介してもらった工務店にお願いしたけど、そこもお店の常連さんだった。どうやら父は色々な人に慕われていて、広い人脈を持っていたようだ。皆が私に協力してくれて、私は新しい店をオープンさせることができた。
今までよりもテーブル席を増やし、お子様メニューも作り、家族連れを誘致した。するとこれが大当たりで、手頃な値段で本格的な寿司を家族で楽しめるとインターネットの口コミでも話題になった。昼間や夕方はファミリー層、夜は昔からの常連さんや仕事帰りのサラリーマンといった風に、時間帯でターゲットが分けられて、なかなか評判になっていった。
するとある日、お店を開けようとしていると店先で声をかけられた。顔を上げると、そこには浩の姿がある。
「泉、俺たちやり直さないか?」
「はあ?」
抜け抜けとそんなことを言う浩に、ため息が出る。
「あれからずっと連絡もなかったのに、今更何なの?」
「泉がいなくなって、初めてその大切さに気づいたって言うか… とにかく俺が間違ってたから、戻ってきて欲しいんだ」
よく聞く当たり障りのないセリフを言う浩に呆れてしまった。
「お母さんにそう言えって言われたの?」
図星だったのか、浩は視線を泳がせる。
「お店が全然お客さん来ないんだって。常連さんが言ってたわよ。好奇心で覗いてみたら、メニューはガラっと変わっていて、伝統とはかけ離れた創作寿司が並んでたって。見た目は奇抜だけど味は美味しくない。何もかも値段が高いし、もう行きたくないって言ってたわ」
すると浩は反論してきた。
「あれは母さんの案なんだ。俺はやめようって言ったんだけど、母さんが作ろうって。それに母さんは接客なんてしたことがないから、お客さんに敬語は使えないし、料理の出し方も雑。でも、買い取ったお金を出したのは母さんだから、何も言えなくて」
だんだん弱気になっていく浩を見て、私は笑えてきた。
「あのお母さんが接客なんて無理でしょう。もてなされることしか考えてないんだし。誰かをもてなしているところ見たことある? それに、お母さんの料理、申し訳ないけど美味しいなんて思ったこと一度もないわ。そんな人の提案する料理がまともなわけないでしょ。私はこうなること分かってたけどね」
「分かってたなら、どうして止めてくれなかったんだよ」
「どうして止めなきゃいけないのよ。妻より母親を取るんだから、私が助ける義理なんてないわよ。板前って言われて天狗になって、私を追い出したのは浩でしょ。自業自得よ」
私と浩が口論していると、どこからともなくお母さんが出てきた。神出鬼没とはこのことだ。一体どこまで邪魔をすれば気が済むんだろう。
「泉さん、この店繁盛してるらしいじゃない。私たちがここを手伝ってあげるわ。1人じゃ大変でしょう」
今までは義理の母だったから言いたいことは我慢していたけど、今では他人。我慢することはない。私は今までの鬱憤を晴らすかのように言ってやった。
「あら、あれだけ大きな口を叩いたんだから、あの店繁盛してるんですよね? 『若女将』として腕を振るってるんですよね?」
そう言うと、お母さんは黙って私を睨みつけてきたので、私も睨み返した。
「あなたの手伝いなんていりません。料理の出し方も雑だし、お客様に敬語を使えないなんて問題です。自分の店が潰れそうだから、今度はまた私の店を乗っ取りに来たんですか? でも、もう買い取れる資金もないですものね。1000万なんてすぐに回収できるって言ってたそうですけど、実際には赤字だらけじゃないんですか? 早くなんとかしないと、生活できなくなりますよ」
そこまで言うと、ようやく言い返さなくなったお母さんに、私は笑いが込み上げてきた。
「せいぜい仲良く親子で頑張ってください。あの店の常連さんたちは、今では私の店の常連さんなんで、もうあなたたちの店に行くことはないと思いますよ。ほら、帰って」
反論する気力を失ったのか、浩とお母さんはしょんぼりと帰って行った。ほどなくして浩の店は閉店。借金だけが残り、実家も売りに出した。古いアパートに引っ越し、お母さんは文句を言っているらしいけど、そこで初めて浩に怒られ、しぶしぶパートに出ているという。浩は別の店で働き始めたけど、この狭い業界だから悪評が広がっていて、かなり辛く当たられているらしい。
私はと言うと、調理師学校時代の女の後輩を弟子にして、数少ない女性寿司職人の店としてメディアの取材にも応じている。伝統を大事にしながら、男社会のこの業界に新しい風を吹かせるべく、日々奮闘している。忙しいけど充実していて、楽しい毎日だ。
私の名前は早紀子。31歳の会社員だ。夫の裕介とは高校時代の同級生で、同窓会をきっかけに付き合うようになった。当時は知らなかったけど、実は彼の父親は地元企業の社長で、結婚の挨拶に行く時は人生で一番と言っていいほど緊張した。
大きな家の玄関を上がるとお母さんが迎えてくれたが、とても厳しそうな人で、私の前では一切笑わない。リビングに通されて挨拶をすると、お父さんはとても柔和な人だった。新居は義実家の近くにマンションを借りる。ゆくゆくは一軒家を買いたいけど、両親には頼りたくないという裕介の意向で、私もそのつもりで働いている。結婚生活はうまくいっていた。だけどある日、私が1人で義実家に行く用事ができてから、思い描いていた生活とはかけ離れていった。
「早紀子、ごめん。父さんに渡す書類が俺の部屋にあるんだ。必要になったらしいんだけど、実家に届けてもらえないか?」
裕介はお父さんの会社で働いている。休日出勤していた彼から電話があり、私は書類を届けることになった。義実家のインターホンを鳴らすと、出かける準備をしているお父さんがいた。
「ああ、早紀子さん、助かったよ。私はこれから出るけど、夕飯でも食べてから帰りなさい」
そう言って家の中に招き入れると、お父さんは書類を持って出ていった。中にはお母さんがいる。できれば2人きりになりたくない。挨拶だけ済ませて帰ろうとしたが、お母さんが言った。
「ふうん。夕飯ね。お寿司でも取ろうかしら。裕介はもう仕事終わりそうなの?」
確か裕介の帰りはもう少し遅くなると言っていた。これを伝えると、お母さんはどこかに電話をかける。
「お寿司を頼んだから、裕介に持って帰ってちょうだい」
そう言われ、私は頷いた。
「いつまでそんなところにいるの? あなたは礼儀がなってないわね」
どうしていいか分からずに玄関にいた私に、いきなりお母さんが怒り始める。
「ああ、すみません」
思わず頭を下げて靴を脱ぎ、慌てて玄関を上がった。
「あ、何かお手伝いすることありますか?」
お母さんは明らかに見下した表情でため息をつく。
「ったく。指示がないと何もできないの。私が働いてる時なんて、そんなんじゃ仕事にならなかったわよ」
部屋を見回すと、洗っていない食器が少しだけあった。
「あ、私、食器洗えますね」
そう言って流し台に向かうと、お母さんに止められた。
「あなた、エプロンはどうして? それくらい持ってこないの? それにその食器、いくらすると思ってるの? あんたなんかに扱えるものじゃないのよ」
書類を届けに来ただけなのに。どうしてエプロンを持ってこないといけないのか。腑に落ちない気持ちが顔に出てしまう。
「なんなのその顔は。私の言うことに文句があるの?」
その時インターホンが鳴った。頼んだお寿司が届いたようだ。
「はい、いつもの… あれ? 今日は2つと1つ?」
お母さんとの会話を聞くと、どうやらお寿司屋さんの大将がわざわざ配達してくれたらしい。優しそうな大将は私に気づくと会釈をした。私もそれに合わせて頭を下げたが、お母さんとしては足りなかったようだ。
「はあ、すみません。常識のない嫁で」
お母さんが私を睨みつけてくる。寿司桶を受け取ってテーブルに運ぶと、お母さんは寿司桶を渡してきた。
「裕介に食べさせてちょうだい」
「ありがとうございます」
地元では有名なお寿司屋さんだけど高級なので、私は食べたことがない。こんなチャンスはないと喜んだのも束の間。お母さんは私を見下したような顔で言った。
「もちろん、裕介だけよ。あなたは嫁には来たけど、家族だなんて認めてないわ。でも、このことを裕介に言ったら承知しないからね。あなたはうちで食べてから帰ったことにしなさい」
言っていることがあまりにも理解できなくて、何も言えなかった。でもお母さんは寿司を渡してきて、「いいわね」と言って私を家から追い出した。
裕介に言うべきか、私は悩んだ。でも、裕介とお母さんの関係性を私が悪くしてしまっては申し訳ないし、お父さんの会社で裕介が働いている以上、義実家との関係を壊すわけにもいかない。私はコンビニでおにぎりを買って家に帰った。仕事を終えて帰ってきた裕介に、書類を届けたことへのお礼を言われる。
「これ、お母さんから」
そう言って私が寿司を差し出すと、裕介は目を輝かせた。
「お寿司? ありがとう」
子供のように喜ぶ裕介。でも次の瞬間、顔が曇る。
「あ、あれ? でも1つ、早紀子の分は?」
その問いに、私は反射的に言った。
「あ、私はお母さんと一緒に頂いたから、大丈夫」
「あ、そっか。後で母さんにも連絡しとくわ」
裕介は安心した顔で寿司を開ける。いいな。美味しそうだな。これ以上見ていると、思わずさっきのことを言ってしまいそうなので、私は家事をするふりをして別の部屋へ行った。
それから1ヶ月後、私は急にお母さんから呼び出される。なぜか車で来るように言われ、嫌な予感がしながらも車で向かった。
「もう遅いわよ。ちょっとデパートまで行きたいの。乗せていってちょうだい」
呼び出されてから15分ほどで着いたのに、遅いと言われてしまった。デパートまで車でも片道30分くらいかかるんだけどな。その間、お母さんと車内で2人きりなんてちょっと憂鬱。でも来てしまったから仕方ない。私が助手席のドアを開けると、お母さんは首を振った。
「私を後ろに座らせる気?」
後部座席にお母さんを案内した。送迎と荷物持ちをさせられて、帰りにはあのお寿司屋さんによるように指示される。車で待っていると、当然のように寿司を3つ持って戻ってきた。義実家について荷物を下ろすと、お母さんは寿司を1つ持ってくる。
「これ、裕介に」
こんなに人を働かせておいて、ありがとうの一言もない。私は寿司を受け取ってため息をつきながら家に帰った。すると裕介がすでに帰っていて、「遅かったね。どうしたの?」と心配してくる。私はなんとか笑顔を作った。
「あ、お母さんがデパートに行きたいって言うから、車を出して一緒に行ってきたの。あ、これお母さんから」
「あ、そうなんだ。ありがとう。早紀子が母さんと仲良くやってくれてよかったよ」
その言葉に、私は引きつった笑顔しかできなかった。
それから数ヶ月、同じようなことが続く。呼び出されては家事を押し付けられたり、荷物運びをさせられたり、その日の帰りは決まって裕介だけに寿司を渡される。これは立派な嫁いびりだと思う。だけど、口が裂けてもそんなことは言えない。ある日、私はまた義実家に呼び出された。お昼時に電話が来たので、ご飯も食べずに慌てて家を出る。すると義実家には珍しくお父さんもいて、お寿司を食べながら仕事をしていた。今日、裕介は休日出勤をしている。お母さんが私を呼びつける時は、決まって裕介のいない時だ。私の訪問に驚いたお父さんが声をかけてくれるけど、それをお母さんが遮った。
「ああ、早紀子さんとはこれからお買い物に行くのよ」
「え、そんなこと聞いてませんけど」
とは言えず、お父さんの背中越しから飛んでくるお母さんの鋭い視線から目をそらし、頷いた。
「ああ、そうだったのか。私はこれから仕事に出てしまうから、よろしく頼んだよ」
そう言ってお父さんはお寿司を食べ終えると、仕事に出てしまった。そこに残ったのは、殻になったお寿司の桶が2つ。私が何をしたらいいのか立ち尽くしていると、お母さんが怒鳴ってくる。
「何してるの? その寿司、返してきなさい。ついでにこの買い物もしてきてちょうだい」
そう言ってメモを渡してくる。そこには、お米5kgや牛乳、味噌など、明らかに重いものばかりだ。
「え、こ、これを1人で?」
「何か文句ある?」
ギロリと睨まれて、私はしぶしぶ首を横に振り、寿司桶を持って義実家を出た。
お寿司屋さんについて中に入ると、大将がいたので寿司を返しに来たことを伝えた。
「さ、お嫁さんが来てくれたのか。今日は人手不足で取りに行けなくて申し訳ない。寿司は美味しかったか?」
そう言われ、私は言葉に詰まってしまう。それを見た大将は心配そうな顔をした。
「ああ、もしかして寿司が苦手なのか? そういう人もいるからな。気にすることないよ」
優しそうな目を見て、私は涙腺が緩んでしまう。慌てる大将。
「あ、すみません。お母さんが『嫁は家族じゃない』というので、いつも見るだけです。ここのお寿司は一貫も食べたことがありません」
私はついにそれを言ってしまった。
「おい、なんだって?」
大将は先ほどまでとは態度が変わり、大きな声を出す。それを聞いて、私はこの人がお母さんと親しく話していたところを思い出し、「この人はお母さんの味方だった」と思った。まずいことを言ってしまった、と。大将は矢継ぎ早に私に言う。
「いつも旦那が食べるんだって、寿司桶を頼んでただろう。『旦那は下戸だから、今日は嫁と食べて。息子には寿司を持たせる』って、よく言ってたぞ。今日だって『嫁と買い物に出かけるから、先に腹ごしらえするんだ』って」
これ以上余計なことは言わずに帰ろうと思ったけど、こう質問されてはごまかしきれない。
「それは… 多分、お父さんとお母さんの分です。私の主人への寿司は本当ですけど…

『嫁の分際で、こんな高級寿司を食べようとしているのか』って、私はお母さんと一緒に食べたことにさせられていました」
「じゃあ、あそこの旦那も裕介君も、そのことは知らないっていうのか」
私はこくんと頷いた。
「どうして何も言わないんだ」
「主人はお父さんの会社で働いていますし、それを言って実家との関係がこじれてしまったら困ります」
色々な思いが溢れて、私の目からは涙がこぼれた。すると大将は優しく笑う。
「ああ、そうか、そうか。でも大丈夫だ。あそこ の旦那も裕介君も、そんなことでどうにかなる男じゃない。もしかしてお嫁さんは、お昼食べてないのか? だったら今握ってやるから、食べていきな」
「あ、で、でもお母さんに買い物を頼まれていて」
そう言うと、大将は買い物の内容を聞いて驚き、呆れたようにため息をついた。
「ああ、そんなの断ればいいんだよ」
「あ、まあ、そういうわけにもいかないか」
私はまた頷いて、大将に頭を下げてお寿司屋さんを後にした。
なんとか重い荷物を持って義実家に戻ると、お母さんが仁王立ちで待っていた。
「遅かったじゃない。何してたのよ」
「すみません。ちょっと時間がかかっちゃって」
「本当に使えない嫁ね。あなたっていつもそう。さっさと裕介と離婚して出ていけばいいのに」
まだまだ文句が続きそうな雰囲気だったけど、突然お母さんの言葉が途切れた。ちょうどその時、玄関のドアが開いて裕介が入ってきたのだ。その後ろにはお父さんの姿もある。
「母さん、どういうことだ?」
裕介がお母さんに詰め寄ると、お母さんはごまかし始めた。
「あ、何のことよ。私は何もしてないわよ」
でも、今の声が聞こえてしまっているのに、ごまかせるはずがない。それよりも、どうして2人がここへ? そう思っていると、お父さんが口を開いた。
「寿司屋の大将から全部聞いたぞ。だから裕介と一緒に帰ってきたんだ。部下には厳しいお前だったが、仕事上は筋が通っていた。でも、これはただの嫁いびりだろ」
普段のお父さんからは想像ができない、厳しい口調だ。お母さんは私を睨みつけるが、私はもう隠す必要がなくなった。
「今だって、私は一口も食べていない寿司を置きに行かされて、これとこれを買ってこいって言われたんです」
そう言って、買ってきた荷物とメモを見せた。しかもメモにはご丁寧に、「無能な嫁でも買い物くらいはきちんとしてくるように」と、お母さんの字で書かれている。これを見た時は驚いたけど、まさかこれが嫁いびりの証拠になるとは思っていなかった。
「それに、いつもお寿司はこちらで頂いたことにして、裕介の分だけ寿司を持たされていました。お父さんには『寿司を2人分持たせた』と言っていたそうですが、私はお寿司を一口も食べたことはありません。でも、それを裕介には言うなと口止めされていました。私は裕介とお父さんやお母さんとの関係が悪くなるのが嫌で、黙っているしかなかったんです」
するとお母さんは笑いながら反論した。
「やあね。そんなの冗談じゃない。寿司は2人で食べると思って持たせたわよ。当然じゃない」
そこに裕介が口を挟んだ。
「でも、お礼の電話をした時、早紀子は『実家で食べたから』って言ってたよな」
「あ、それは… 」
お母さんはしどろもどろになる。私はそれを見て笑顔で言った。
「仕方ありませんよね、私。嫁の分際ですし、家族ではないんですものね。お母さんに言われた通り、裕介とは離婚しないといけないかもしれませんね。裕介とは離婚なんてしたくありませんでしたけど、お母さんの急な呼び出しや嫁いびりに耐えるのも、重い荷物を持たされるのも、そろそろやめにしたいです」
今までのお母さんの行いを暴露してやると、お母さんの顔色は青く変わっていく。そのタイミングでインターホンが鳴った。そこにはお寿司屋さんの大将が立っている。
「ああ、これ、お嫁さんが食べてくれよ。俺からのサービスだ」
そう言って、とても1人前とは思えない量が入った寿司桶を置いて去っていった。次の瞬間、お父さんが口を開く。
「ああ、裕介、お茶だ。早紀子さんにお茶を入れてやれ」
それに頷いた裕介は、私の手を引いてテーブルに座らせ、お茶の用意をしてくれた。お父さんは私の前に寿司桶を置いてくれる。お母さんは玄関で立ち尽くしていたけど、誰も相手にせず、そのうち2階に消えてしまった。初めてのお寿司に大興奮の私。とても食べきれないと思っていた量のほとんどを食べてしまった。
お母さんは誰も自分の機嫌を取りに2階へやってこないので、怒ってまた私たちのところへやってくる。そしてお父さんに向かって単価を切った。
「あなたはどっちの味方をするのよ。あの子の味方をするなら、離婚よ」
しかしお父さんは、あっさりそれに了承した。お父さんの母親は、昔ひどい嫁いびりに遭っていたらしい。だからお母さんと結婚する時に、「もし息子ができて、お嫁さんが来た時、嫁いびりをするようなら即離婚だ」と念押しをしたらしい。お母さんは当てが外れたのか絶望したような顔をしたけど、お父さんはさっさと離婚の準備を始める。私はお母さんの財産分与の中から、嫁いびりの慰謝料としてお金をいただいた。お母さんは本当に離婚され、家を追い出された。お金に困って経理の経験を生かして就職活動をしているけど、今はパソコンもできないと仕事にならないと言われ、就職できないそうだ。
私はこの度めでたく妊娠し、それを機に退職した。裕介は「男の子か女の子か」と言いながら日々名前を考えているし、お父さんも初孫が楽しみだそうで、デレデレになりながらベビーグッズを買ってきてくれる。これからの生活が楽しみだ。


