「中卒。そんな無能な社員に割く時間はない。帰りなさい」…

「中卒。そんな無能な社員に割く時間はない。帰りなさい」...

君、社長会認め。
その一言に、電話の向こうの鍛原が固まった。もちろん驚いたのは彼だけではない。俺のそばで通話を聞いていた二人も、訳が分からないという顔で口をあんぐり開けている。

「何の冗談ですか? 今大事な会議の最中なんですよ」
「ああ、本社会議は確かに大切だ。日本各地の支店から代表者が集い、発言し、意見を交わす尊い場だ。だからこそ、全員が平等に扱われるべきだ。開始後わずか十分で、しかも学歴を理由に社員を泣かせたり帰らせたりするなど、あってはならないことだ。俺はその理念をずっと掲げてきた。今もそれは変わらない。なのに、どうしてお前はこんな大事なことを忘れたんだ」

俺は自分の名前を、今日の啓介という。今年で五十五歳になる。どこにでもいる中年男だ。ただ、人生の大半を仕事に捧げすぎて、結婚の時期を逃してしまった。自嘲しているわけではない。これが俺という人間の真実だ。

「お客様、大変お待たせいたしました。本日のコーヒーでございます」
「今日はキリマンジャロかな?」
俺はコーヒーにはかなりうるさい。だから、どこにでもあるチェーン店にはまず入らない。注文を受けてから丁寧に豆を引き、コーヒーに情熱を注ぐような店を好んでいる。その日のカフェも、そんな俺のお気に入りの一軒だった。
「お味はいかがですか」
「うん。うまい」

俺のコーヒー好きは、高校生の頃に始まった。両親を早くに亡くした俺と妹のミスは、二人暮らしだった。ミスが毎朝、ガリガリと豆を引いて入れてくれるコーヒーが、たまらなく好きだった。今にして思えば、風邪を引いた時ですら、起き出して豆を引いて俺のためにコーヒーを入れてくれていたのだから、ミスには随分と苦労をかけてしまった。少々反省している。

俺はミスをどうしても大学へ行かせたくて、高校を卒業してすぐに就職した。だが、その職場では高卒は俺だけで、学歴をバカにされる日々に嫌気がさし、わずか数週間で退職してしまった。そこから先は、転職活動をする傍らでアルバイトをいくつも掛け持ちし、毎日疲れ果てて帰宅していた。

「お兄ちゃん、ちょっと働きすぎだよ。私も高校卒業したら働くから、もう少しゆっくりしよう?」
そう聞くなり、俺は疲れ切った体を起こして、妹の両肩をがっしりと掴んだ。
「大学は絶対に行っておけ。お前には、俺のような目に遭ってほしくないんだ」
それは、わずか数週間で会社をやめてしまった俺の経験則であり、願いでもあった。俺があまりに必死だったせいか、ミスが「お兄ちゃん、肩痛いから力抜いて」と言ってくる。俺が手を離すと、ミスは俺の目を覗き込むようにして尋ねてきた。
「私、本当に大学に行っていいの? お兄ちゃん、今以上に働いたりしない?」
それは約束しかねる、と思いつつも、俺は「大丈夫だ」とミスに約束した。

それからミスは、授業料の安い国立大学への進学を果たした。しかも俺たちの住まいから徒歩で通える距離だったので、ミスが遠方で一人暮らしをすることもない。つまり、俺はミスが進学してからもモーニングコーヒーを入れてもらえるというわけだ。だが、ミスにこの話をしたところ、「お兄ちゃんって、私のことコーヒーメーカーだと思ってるでしょ」と呆れられてしまった。
「そういうことじゃないんだ、ミス。実は俺からお前に頼みがある」
そう言うと、ミスは一瞬身構えるが、すぐに覚悟が決まったようで、俺をまっすぐに見つめてきた。
「俺に、コーヒーの入れ方を教えてほしいんだ」

俺は新卒で入った会社を辞めてからアルバイトに明け暮れていたが、やはり学歴について笑われることが多く、もはや学歴は立派なコンプレックスとなっていた。そんな俺が選んだのが、コーヒーでの起業という道だった。コーヒーでなんとか身を立てられるようになりたかった。俺はミスに美味しいコーヒーの入れ方を教わると、独学で得た豆の知識などを武器に、家の近所の喫茶店でアルバイトを始め、コーヒーに関するあらゆること、そして店舗経営のノウハウなどを学んだ。学んでいる間も、アルバイトを掛け持ちしながら自分の店を出したいという願いを叶えるために貯蓄に励み、猛烈に勉強した。

俺が自分の店を出したのは、それから数年後、二十五歳の時だった。設立当初は、俺が店に立ち、ポールにはアルバイトのミスが働いているだけだった。だが客足はポツポツと伸びていき、設立一年目は黒字で終わることができた。これに気をよくした俺は株式会社を立ち上げ、二号店、三号店と店を増やし、気づけば全国規模にまで事業拡大していた。

事業が大きくなれば、当然人も増える。学歴コンプレックスだった俺は、採用活動に関わっていた頃、中卒や高卒の応募者たちを積極的に採用するようにしていた。彼らが他の会社へ行ったら、低学歴だと笑われると危惧したからだ。しかし、仕事が忙しさを増してくると、俺は採用担当を人事部に任せ、次々と発生する案件に奔走するようになり、いつしか採用のことをすっかり忘れ去っていた。気づけば俺は五十歳目前だった。あまりの忙しさに、結婚など考えられないくらい必死だった。こんな俺は、五十歳になったのを機に、会長職に就くことにした。正直なところ、この数十年が忙しすぎて疲れており、実務面を社長に譲って少し楽をしたいという気持ちがあってのことだった。

ある日のこと。俺はどうしてもコーヒーが飲みたくなって、所用の途中に本社ビルの地下にあるカフェへと駆け込んだ。いつも俺がモーニングコーヒーを楽しむ、お気に入りのカフェの一つだ。
「いらっしゃいませ」
いつもの女性店員が声をかけてくれるが、俺は違和感を覚えた。彼女は今日はカフェの制服ではなく、スーツを着用している。それに、俺が入ってきたのと入れ違いに、もう上がるつもりなのだろう。タイムカードを打刻している。
「お客様、今日は私は出かけてしまいますが、店長がご案内しますので、ごゆっくりおくつろぎください」
すると、勘のいい話が聞こえたのか、厨房から男性の声が聞こえてきた。
「店長の松島です。いつも当店をごひいきにしてくださって、ありがとうございます」
なるほど。彼があの美味しいコーヒーを入れてくれているのか、と俺は感心した。あの味は、コーヒーの修行を重ねた俺でも毎回出せる味ではないと思えるほど、味わいが奥深く繊細なのだ。
「かえちゃん、頑張れよ」
「ありがとうございます。松島店長」
そう言うと、彼女は店を後にし、松島がコーヒーを片手に現れた。松島は三十代くらいだろうか。まだ若いのに、こんなに美味しいコーヒーが入れられるなんて、と俺はどうしても感心してしまう。
「お客様、テラス席と店内、どちらで召し上がりますか?」
問われた俺は、あまり目立ちたくないので店内でコーヒーをいただくことにした。
「お客様、こちら特別にブルーマウンテンをお入れいたしましたので、どうぞ」
ほとりと置かれた、かぐわしい匂いを放つコーヒーに、俺はたまらず唾を飲み込む。この店にはほとんど毎日通っているが、ブルーマウンテンが出るのは珍しい。松島によれば、豆の調達経路がブルーマウンテンだけ他の豆と違っており、あまり提供できないメニューとなってしまっているとのことだ。

俺が目と鼻と舌で贅沢にブルーマウンテンを味わっていると、店の入り口が何やら騒がしくなった。気になって振り向いてみると、スーツに身を包んだ先ほどの女性店員が、静かに泣きながら立っており、その隣に松島も立っていた。
「どうしたんだ、かえちゃん?」
「私、無能は邪魔だって」
嗚咽を漏らしながら、彼女は途切れ途切れに言葉を継ぐ。
「無能って、どういうことだ? かえちゃんはうちの店で一番仕事ができるじゃないか」
俺は一体何が起きたのかと気になり、入り口で話す二人の方へと歩み寄る。
「あ、お客様、すみません。お見苦しいところを」
「かえちゃん、とりあえず休憩室で落ち着いてきて」
松島に促されて去ろうとする彼女を、俺は呼び止めた。
「誰に無能だなんて言われたのかな?」
すると松島が、仕方がないといった風に事情を話してくれた。今日はうちの会社の本社会議で、この店からは彼女が会議に参加したのだそうだ。そしてプレゼンをしようと資料をプロジェクターで映したところで、社長の鍛原にこう言われてしまったということだった。
「中卒。そんな無能な社員に割く時間はない。帰りなさい」
怒られた彼女は、一言も発言することなく、プレゼン資料も回収できないまま、本社会議を十分ほどで追い出されたということだった。

今日本社会議があるということは知っていた。秘書に出席するかどうかを聞かれ、俺はみんなの邪魔になってはいけないからと、あえて会議に出なかった。俺がいない場所で会議を取り仕切るのは社長の鍛原だ。しかし鍛原が本当にそんなことを言うのだろうか。時に俺の右腕として、時に共に戦ってきた戦友として、俺は鍛原を評価し信頼してきたというのに。よもや俺がいないのをいいことに、こんなことをしているとは。さしずめ、目の上のたんこぶがいなくて、自由気ままに振る舞っているということなのだろうか。
「君、何か証拠になるようなものは持っていないのか?」
俺は鍛原の言動が信じられず、そういうものがあれば共有してほしいと頼んでみた。
「これ、ボイスレコーダーです」
彼女は今日の会議の冒頭からスマホのボイスレコーダーで記録しており、俺はそれを借りて耳に当て、鍛原が本当に「無能は帰れ」という趣旨の発言をしているのを確認した。

俺はスマホを彼女に返すと、今度は自分のスマホを胸ポケットから取り出し、耳に当てる。しかし鍛原は電話に出ない。それはそうだ。会議をしているのだから、電話に出られるはずがない。俺はしつこく掛け続けた。そして十分ほどした頃だろうか。ようやく鍛原が応じてくれた。
「もしもし」
会議中に出ているようで、相手は声を潜めている。
「鍛原か。俺だ」
すると一瞬の沈黙の後、鍛原が驚いたように「会長でしたか」と応じる。俺はそれに構うことなく、要件を一言で言い切った。
「君、社長会認め」

その言葉に驚いたのは鍛原はもちろん、俺のそばで電話のやり取りを聞いていた松島と彼女も、双眸を大きく見開いてどういうことかと口をあんぐり開けている。
「会長、何の冗談ですか。今大事な会議中でして」
「ああ、本社会議は確かに大切だ。日本各地の支店から代表者が一人ずつ集い、発言し、意見交換する尊い場だ。それ故に、みんなが平等に扱われることが前提だ。開始後わずか十分で、しかも学歴を理由に泣かせたり帰らせたりすることなどあってはならない。鍛原君は、何と言ったんだ?」
俺は彼女のフルネームが知りたくて、タイムカードを手にした。
「少々お待ちください。田所さん」
「田所さん、か」
会議で配られるパンフレットには、発表者の名前と所属、そして最終学歴が書かれている。最終学歴なんて、いつから載せるようになったのか。俺は、鍛原の脳内の整理がつくまで、そんなことを考えていた。
「ああ、冒頭で発言しようとしていた人ですね。彼女、中卒だったんで、ちょっとご退場を願ったんです」
俺はその鍛原の対応に疑問を抱き、なぜ中卒だから退場をさせたのかと畳みかける。
「それは、今は大卒が当たり前の時代ですし、高卒でもちょっとあれなのに、中卒ともなりますとね」
俺の電話から鍛原の声が聞こえているのだろう。松島が拳を握りしめて、こちらを凝視している。
「それが君の本心なんだな」
「はあ。何か違いますか?」
だんだん雲行きが怪しくなっているのを感じているのか、鍛原の声が途切れがちになっていく。
「鍛原君を社長から解任する。会議は他の者に任せ、君は社長室で待機していなさい。これから俺が社長室へ行く」
「は?」
電話の向こうで絶句していた。きっと、なぜ解任されなければならないのか、よくわかっていないのだろう。

「あの……お客様は、もしや今日の会長ですか?」
俺がスマホを胸ポケットにしまうと、松島が恐る恐る聞いてきた。
「隠していてすまなかった。一人の客として迎えられたかったものでね」
そして俺は彼女を見つめる。
「一緒に来るかい?」
彼女は瞬いていたが、松島が彼女の肩をポンと叩き、「行ってこいよ」と頷いて見せた。
「い、行きます。連れて行ってください。私、やっぱり悔しいです」

俺は彼女を連れてカフェを出ると、エスカレーターで一階に上がる。そしてオフィスビルエリアに足を踏み入れ、最上階である三十階を目指す。
「中卒って、やっぱりダメなんでしょうか?」
彼女によれば、定時制の高校に通うことも何度か考えたとのことだった。しかし仕事がきつく、帰ればすぐに眠くなってしまうので、到底勉強などできない。今回のプレゼン資料だって、睡眠を惜しんでやっとの思いで作り上げたものだという。
「そんな思いをしてまで作ってくれた資料だったのか。是非拝見したいものだね」
俺が思うことを率直に口にすると、彼女が「データなら家のパソコンに残っているので、お目通し願えれば」と応じてくれた。
「自宅のパソコンで作業をしているのか。それも含めて、色々検討しないとな」
ショップ勤務の社員個人へのパソコン支給は必要ないかもしれないが、いつでも本部とやり取りできるよう、各ショップに一台のパソコンは必要かもしれないと俺は思った。

エレベーターを降りてから社長室までの長い廊下を歩く。途中、会議室前に差しかかったが、異様な静まり方で、俺はどうしたんだろうと疑問に思いながら会議室のドアを内側に開いた。室内には多数の社員が座っていて、壇上に鍛原が立っている。
「会長、お待ち申し上げておりました」
俺を見るなり、鍛原は腰を折り曲げてきた。俺は俺で、この静まり返った雰囲気は一体何だと不審に思う。
「君たちは会議をしていたんじゃなかったのか? それに鍛原君には、社長室待機を指示したはずだが」
「ええ、そうなんですが。その、会長が突然私を解任するとおっしゃったものですから、会議どころではなく」
「それは鍛原個人の問題であって、ここにいる社員たちには関係ないだろう」
俺は少し声を大きくした。
「お言葉ですが、会長。言われた方の身にもなってくださいよ。解任がいらっしゃるまで気が気ではなく」
彼が言い訳をしようとするのを、俺はさらに大きな声で遮り切った。
「言われた方の身になれだ? ならば、ここにいる田所さんの身になってみろ、鍛原」
彼女がおずおずと俺の背後から姿を見せ、鍛原はあっと驚く。
「俺はこの会社を学歴優先に育てた覚えはない。ちなみに、俺は高卒だが、やはり俺は無能なのか?」
そう畳みかけると、鍛原は突いたように肩を落とし、そして俺の顔を見つめてきた。
「会長、私の解任について、お心変わりはないのでしょうか?」
「ああ、ない」
「続いて、鍛原と共に社を去ろうという者がいるなら、この場で挙手するように。ここにいない者には、追って通達しておく」
だが、鍛原以外に社を去ろうという者は、今のところはいなかった。

「会長、お待ちください。もしや、そこの田所さんにお詫びをすれば、私の解任は撤回していただけるのでしょうか?」
それは鍛原が自分で気づかなければならないことだった。今更、彼女だって迷惑だろう。俺は会議室から彼女のプレゼン資料を返却してもらい、場所を会長室に移して見せてもらっている。自分の保身のために必死な鍛原に邪魔をされてはいけないと、ドアには鍵をかけておく。それでも外からドンドンと叩かれているので、決して静かな空間とは言いにくかった。
「あ、あの、会長。社長がドアを叩いていますけど」
「後で話をしに行くから、気にしなくていい。それよりも、君はブルーマウンテンの仕入れについて力を入れて書いているね。確かにこのルートで仕入れられれば、カフェの売上は伸びるだろう。実現性はあるのかな?」
「実はそのルート、松島店長のお知り合いが考えたんだそうです。だから、実現は夢じゃないと思うんです」
ブルーマウンテンの価格は、どの店でも他のコーヒーより高く設定されている。しかし彼女の案を実現すれば、高値を設定する必要はなくなるかもしれないと俺は思った。
「早速、明日にでも松島店長と話をしよう」
「すみませんでした、会長」

社長解任騒動から一夜が明け、鍛原が社長室内の私物を持って会長室を訪れていた。今彼は、土下座でもしかねない勢いで体を深く折り曲げていた。
「学歴主義ではないという、我々の理念を思い出したか」
彼は頭を上げることなく、「はい」と力強い返事を寄越してくる。会社において大事なのは学歴ではなく、個々の資質なのだということに、改めて気づいてほしい。これから鍛原が歩く道には、上司がいるかもしれず、部下がいるかもしれない。いつから学歴至上主義になったのかは分からないが、その考えを改めない限り、彼が社長職に戻ることは絶対にないだろう。

それから会社は、ブルーマウンテンの仕入れルートを変えた。決して簡単なことではなかったが、俺と松島店長、そして田所彼女がプロジェクトを牽引し、見事成功に導いたのだ。
「お役に立てて、何よりです。会長」
一番嬉しそうだったのは、発案者である彼女だった。ベースにあるのは松島の知り合いの案だったが、それを会社の営業形態にフィットさせ、独自ルートを開拓したのは、彼女の才腕あってのことだ。
「君の頑張りあってこそだったな。あの会議で君のプレゼン資料、救出できてよかったよ」
あの時のことを思うと、彼女の目が少し曇る。彼女は彼女なりに、あの会議の中で思うところ、感じるところがあったのだろう。
「私、定時制の高校に通おうと思っています。高校卒業できたら、通信制の大学へも」
「それはすごいな。だが、道のりは険しいぞ」
「望むところです」
そう笑った彼女は、本当に嬉しそうだった。

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