新入社員が社長室に来るなり、給料の書類を机に叩きつけてこう言ったんだ。「今すぐ給料10倍にしないと、東大卒の俺ら全員辞めますんで。そのつもりでいてくださいね」入社数ヶ月の若造に、母校の名前を盾に脅されるなんて、社長としても男としても、さすがに頭にきた。だが、彼らには何も知らされていなかった。なぜ東大卒の彼らが、こんな小さな会社に入社できたのか。なぜずっと給料が上がらないのか。そして、この日、…

新入社員が社長室に来るなり、給料の書類を机に叩きつけてこう言ったんだ。「今すぐ給料10倍にしないと、東大卒の俺ら全員辞めますんで。そのつもりでいてくださいね」入社数ヶ月の若造に、母校の名前を盾に脅されるなんて、社長としても男としても、さすがに頭にきた。だが、彼らには何も知らされていなかった。なぜ東大卒の彼らが、こんな小さな会社に入社できたのか。なぜずっと給料が上がらないのか。そして、この日、...

社長室のドアがノックされ、返事をすると、新入社員の二階堂と八幡が入ってきた。二人は何やら書類のようなものを手にしている。俺が要件を聞くと、二階堂は突然、こう言い放った。

「社長、いい加減にしてくださいよ。この会社に入ってもうだいぶ経ったのに、俺らの給料、1円も上げないなんて、一体どういうつもりですか?」

俺は思わず言葉を失った。入社してまだ数ヶ月の新入社員が、いきなり給料の要求とは。二階堂は、自分たちのような高学歴の人間がこんな給料で働かされているのはおかしいと、まくし立てる。

そして、手に持っていた紙の束を、俺の机の上に投げつけた。

「今すぐ給料10倍にしないと、他の部署の奴らも含めて、東大卒の俺ら全員辞めますんで。そのつもりでいてくださいね」

俺はふっと笑って、こう言った。

「どうぞ、どうぞ」

二階堂たちは驚いて、少し後ずさった。

俺の名前は飯村正義。47歳になる、世間一般によくいる普通のおっさんだ。小さなアパレル通販会社「Mクローゼット」を経営している。

俺は10代の頃から洋服が好きで、たまらなかった。しかし当時は都会の実店舗でしか販売されておらず、田舎で暮らしていた俺は、目当てのデザイナーズブランドの服を手に入れることはほとんどできなかった。

その悔しさもあって、俺は大学在学中にMクローゼットを立ち上げた。大学では文学を専攻していたので、周りからは畑違いだと笑われることも多かった。それでも、講義の傍らで一からアパレルやネット通販の勉強を続け、今の会社を育て上げてきた。

創業当初は、当然誰からも相手にされなかった。大手通販サイトのように、お客さんがすぐに信用してくれるほどの実績がなかったからだ。正直、心が折れそうな時期も何度かあった。しかし、SNSでの宣伝や、無料・会員限定セールなどのキャンペーンを度々開催することで、徐々に知名度は向上。近年は売上も右肩上がりで、取引先のアパレルブランドも増え続けている。

今、うちの会社は、ヨーロッパのレトロテイストが売りの人気ブランド「カンターレ」との契約合意に向けて、調整を進めているところだ。カンターレは、ある人気モデルがファッション誌で着用したことをきっかけに人気が爆発。今までは店舗販売のみだったが、近くに店舗がないファンからの要望に応えて、今回初めて通信販売を行うことになったらしい。そして、その販売を担う会社として、うちが選ばれたのだ。

なんとも幸運な話だ。この契約を絶対に成功させるぞ、という思いで、社員みんなが一丸となって取り組んでいる。

カンターレとの商談を担当しているのは、営業部の部長と新入社員2名の計3人。部長は大学時代からの友人で、創業時からお世話になっている人物だ。何でも話せる気心の知れた相手だからこそ、今回の担当に選んだ。

そして、なぜこんな大事な商談に新入社員を2人も参加させたのか。それは、彼らの成長を促すためだ。

今年、うちに入ってきた新入社員は5名。なんと全員が東京大学の卒業生だ。5人は大学時代に仲の良かった連中らしい。そのうちの2人、二階堂と八幡が、部長と共に商談を行っている。

しかし、この二階堂という男は、入社早々に問題を起こしていた。初対面の俺に向かって、いきなり給料アップの交渉をしてきたのだ。

「社長、給料もっと上げてくださいよ。俺たち東大出てんですから。新入社員だからって舐めた金額のままにするつもりなら、こっちにだって考えがありますからね」

こんな物騒な言葉を聞いて、俺は思わず面食らった。少なくとも、社長に対する言葉ではない。苦笑いするしかない俺を、笑うように見ていた二階堂と八幡の顔は、今でも思い出せる。

どうやら、そんな俺の曖昧な態度がいけなかったらしい。以来、二人は会社の誰に対しても高圧的に接するようになってしまった。上司として、もっとしっかり叱るべきだったと、今でも後悔している。

そんなことがあったからこそ、俺はあえて二階堂と八幡を、大事な商談の担当に選んだ。俺が期待をかけていることが伝われば、彼らだって改心するかもしれない。そんな思い込みがあった。

商談は概ね合意にまとまりかけ、最終的な調整を数日後に控えていた日のことだ。俺は社長室でメールをチェックしていた。

そして、冒頭の場面に戻る。二階堂と八幡が、給料10倍を要求してきたのだ。

「給料というものは、学歴だけで全てが決まるものではありません。その人の能力や働きによって変動するものです」

俺はそう伝えたが、馬の耳に念仏だった。二階堂は、ちっとも俺の言葉を聞く気がない。

「ところで社長って、どっかのFラン大学出身ですよね。そんな人がトップとか、この会社マジで大丈夫なんですか?」

Fランとは、Fランクの略称で、偏差値の低い、いわゆる三流以下の大学のことだ。俺は思わず顔を歪めた。

確かに、俺は大卒といえど、決して全国的に有名な大学の出身ではない。俺は本当は、都内の国立有名大学が第一志望だった。高校時代は必死に勉強して、学年トップの成績を常に収めていた。だから、その大学の試験に十分パスできるだけの学力も身につけていた。

しかし、受験当日に、俺は40度近い高熱を出してしまった。うなされながらも、どうにかして試験会場まで向かおうとする俺を、母は必死に止めてくれた。もしあのまま試験会場に向かっていたら、きっとどこかで倒れていたことだろう。母には今でも感謝している。

人には、それぞれ様々な事情というものがある。そんなことも考慮できない目の前の若者たちに、俺はすっかり失望してしまった。

さすがに腹が立った。俺は、少し皮肉を込めてこう尋ねた。

「では、どうしてうちのような低学歴者が社長の会社に、わざわざ君たちは入社したんだ?」

その問いかけに、二階堂は小声で「うるせえ」とつぶやき、八幡は俯いて答えなかった。なんて奴らだ。人として、完全に終わっている。国内トップの大学で学んだところで、こんな人間性ではどうにもならない。

俺は、とにかく現時点で給料を上げることはできない。まして10倍など到底無理だと、諭すように告げた。二階堂は大げさにため息をつき、二人は来客用のソファーに、だらしなくどさっと腰かけた。

「社長、本当にいいんですね。こんな有能な人材、一気に5人も失うことになるのに。これだから、ちゃんとした大学出てないやつはダメなんだよ」

八幡はそれを聞いて、けたけたと気味の悪い笑い声をあげている。そして二階堂は、こう言い放った。

「カンターレとの契約も、きっと破断になるでしょうね」

どういうことか尋ねると、二階堂はこう答えた。

「中年の部長1人では、今時の若者向けのブランドとの契約を強引に持っていくことなんてできるわけがない。それに、部長も大した大学を出ていないくせに、俺たちに色々命令するのは偉そうで許せない」

そして、部長を散々バカにするような、ひどい言葉をマシンガンのように浴びせてきた。

俺はとうとう我慢の限界を迎えた。俺だけを攻撃するのなら、まだ平気だ。しかし、長年仕事を共にしてきた部長のことまで馬鹿にするなんて、許すわけにはいかない。

俺は大きく息を吐いて、二階堂と八幡をじっと見つめた。二階堂はニヤニヤしながら言う。

「何ですか? 何か文句でも? そんな目で新入社員を威圧するなんて、これパワハラですよ。SNSで告発しちゃおっかな」

カンターレとの商談が佳境を迎えている今、SNSでの炎上騒ぎは絶対に避けたい。俺は仕方なく、目をそらして俯いた。二階堂はそんな俺の様子を面白そうに眺めながら、もう一度、「給料を10倍にしないと、全員辞める」と繰り返した。

そんな様子に、俺は思わずふっと笑った。その瞬間、二階堂と八幡が、驚きのあまり少し後ずさったのが分かった。

机の上に投げ出されたままの紙の束を手に取り、俺は言った。

「どうぞ、どうぞ。まあ、そんなことだろうと思ってましたけどね」

俺の言葉を聞いた二人は、ぎょっとしたように互いに顔を見合わせた。二階堂は動揺を悟られないよう、挑発的な言葉を続ける。

「あれ? どうしました? 社長、頭大丈夫ですか?」

「君たちよりは、よっぽどまともな頭をしていますよ」

俺は平然と言ってのけた。二階堂は顔を歪めた。

「ところで、うちの会社が君たちをなぜ雇ったのか、本当の事情を知っていますか?」

二人は、わけが分からないらしく、「どういうことだ?」と呟いている。俺は真実を明らかにしようと決意した。

「実は、君たちが世話になっていたゼミの神宮寺教授から、前に相談を受けたんですよ。『うちのゼミに、どうしようもない5人組がいて困っている』って。それで、『うちの会社で、どうにか社会に通用するちゃんとした大人になるように教育してくれないか』と、教授に頼まれたおかげで、君たちはうちに入社できたんですよ。まあ、いわばコネ入社ですね」

二階堂は、顔を真っ赤にして反論した。

「そんなの嘘だ! 大体、なんで東大の神宮寺教授とFラン出身の社長が知り合いなんだよ!」

俺は、大学時代にバイトしていた喫茶店の常連客だった神宮寺教授と親しくなったこと。そして、俺の高校時代の第一志望校が東大だったと知った教授が、当時、特別に個人的に講義をしてくれていたことを話した。

実は、その講義で俺はインターネットサイト運営の色々を教わったのだ。それ以来、神宮寺教授とはしばしば連絡を取り合っている間柄で、俺がMクローゼットを起業した時も、教授は様々なアドバイスと共に応援してくれた。

二階堂と八幡は、驚きのあまり目を見開いたまま、声も出せずにいる。俺は少し笑いながら続けた。

「どうやら本当に何も知らなかったみたいですね。ああ、僕も神宮寺教授から、口止めはされていたんだけど。でも、同じ会社に大学時代つるんでいた、ならず者の5人組がそのまま入社するなんて、少しはおかしいと思わなかったんですか? 本当に世間知らずのお坊っちゃんたちだ」

俺の言葉に、二階堂は切れたらしく、「ああ、くそ!」と大声をあげた。

「とにかく、俺たち東大の人間をバカにするのも大概にしろよ。この低学歴が!」

「君たちはもう東大の人間ではないですよ。もうとっくに卒業しているのだから、元東大の人間ですね」

俺が訂正すると、二階堂は、はぁはぁと息を荒くし、声にならない声をあげた。八幡は、まだ俺の言葉が信じられないようで、「神宮寺教授がそんなことをするわけがない」と、はめている。

俺は仕方なく、スマホを取り出して、ある人に電話をかけた。

10数分後、慌てた様子で社長室にやってきたのは、他の誰でもない、東大の神宮寺教授だった。学生時代の恩師ご本人の登場に、二階堂と八幡はすっかり目を丸くしている。

神宮寺教授は、だらしなくソファーに腰かけている二人を、いきなり叱りつけた。

「お前らなあ。卒業して、このMクローゼットに世話になれば、多少はマシな人間に変わるだろうと期待していたのに。はあ……出身ゼミの教授として、私は本当に情けないよ」

本当にうちの会社へやってきた神宮寺教授の姿に、二階堂と八幡は、声も出ないといった様子だ。神宮寺教授は俺に対して、しきりに謝っていた。だが、この人は何も悪くない。俺は顔をあげるよう、教授を促した。

二階堂はようやく口が聞けるようになったらしく、教授に詳しい説明を求めた。教授は、先ほど俺が二人に行ったのとほとんど同じ言葉を、彼らに伝えた。

そして、俺はこう付け加えた。

「君たちの今までの給料は、実は全て神宮寺教授のポケットマネーから出ているんですよ。だから、俺の独断で給料を上げることなど、できるはずがない。最も、君たちがまともに働いてくれていたならば、うちの会社から正式に給料を出したいと申し出ることもできたのですがね」

神宮寺教授は、かつて俺に特別に講義をしてくれていたことからも分かるように、とても面倒見のいい人なのだ。ただ、今回はそれが完全に裏目に出る結果となってしまった。どれもこれも、二階堂をはじめとするゼミ出身の、おつむの足りない5人組が悪い。

世間知らずな二階堂にとって、かつての恩師に給料を出してもらっていたことよりも、ショックなことがあるようだ。

それは、自分がコネでこのMクローゼットに入社していたということだ。

その紛れもない事実に、すっかり打ちのめされているようだった。二階堂は、その高飛車な口調からも分かるように、かなりプライドの高い人間だ。自分が有能であることを、信じて疑っていなかった。

自分の力ではなく、神宮寺教授が俺に頼んだおかげで入社できていたと知った二階堂は、ぐったりと項垂れた。そして次第に、ふるふると震え始めた。

これは、きっと自分自身に対する怒りから来るものだろう。俺はそう思っていたのだが、どうやら違うらしいことが、間もなく二階堂の言動で分かった。

二階堂は、しきりに神宮寺教授を攻め始めた。そして、「とにかく、今回の責任を取れ」とまで言い出したのだ。とても成人済みの大人とは思えない言葉だった。俺は、すっかり呆れ返ってしまった。

神宮寺教授は、物静かな、しかし同時に厳かな口調でこう言った。

「そもそも君たち、ゼミの5人組は、その態度がまるでなっていなくて、卒業間近になっても就職先が全く決まっていなかったじゃないか。それで皆、私に泣きついただろう。覚えてないとは言わせないぞ。その結果、私は仕方なく、昔馴染みの飯村君が経営しているこのMクローゼットに、君たちの面倒を見てもらうことにしたというわけだ」

俺は、自分たちのことを棚に上げて、面倒を見てくれた教授を攻めるのは根本的に間違っていると、二階堂たちに告げた。二階堂と八幡は、もうぐうの根も出ないようだった。歯を食い縛っているその顔は、悔しさでいっぱいのようだ。

二階堂は、やっとのことで捨て台詞のようなものを吐いた。

「ちっ…高卒のくせに、俺たちをバカにしやがって」

しかし、そんな言葉をこぼしたかと思うと、その顔は次第に情けないものへと変貌していく。そして何と、二人して涙を流し始めたのだ。

これでは、まるで駄々をこねる子供ではないか。俺は思わず、その光景に苦笑いした。

神宮寺教授は、ただただ頭が痛いようで、自分のこめかみを抑えてため息をついていた。出来の悪い教え子を持つと、大変である。俺は、教授が気の毒でたまらない気持ちに駆られた。二階堂たちの泣き声は、やがて社長室に響き渡るほどに大きくなっていった。

その後、二階堂をはじめとする東大卒の問題5人組は、間もなく退職していった。というより、神宮寺教授が「もうこれ以上、飯村君に面倒をかけるわけにはいかない」と言って、辞めさせたのだ。俺は教授の申し出を了承した。さすがの教授も、これ以上5人組の面倒を見ることは不可能だと判断したようだ。

教授に見放された5人組は、就職先を探すこともなく、毎日親の金で遊び歩いていた。しかし、金が尽きてくると、詐欺関係の闇バイトに手を出した結果、先日、とうとう警察の世話になったようだ。どうやらかなりの件数の悪事を働いていたらしく、このまま無事で済むことはないだろう。面倒見のいい教授の顔に、5人組はとんでもない泥を塗る結果となった。

教授は、学生に対して今まで甘すぎた自分自身を反省しているそうだ。うちの会社での件以来、大学での教授の学生に対する指導が厳しいものになったことは、言うまでもない。

一方、Mクローゼットはと言うと、無事にカンターレとの契約が合意に達した。カンターレの商品の人気は想像をはるかに超えるもので、販売を開始するや否や、すぐに売り切れてしまう事態が頻発した。そのため、増産体制をすぐに整えた。おかげで、日本全国のカンターレファンは大喜びし、うちの業績も引き続き右肩上がりを記録している。

これからも、素敵な洋服をお客さんに届けられるように、頑張っていこう。

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