夫は突然、運転席から私を引きずり下ろした。
「あとは自分でなんとかしろ。病院くらい1時間も歩けばつくだろ」
40度を超える熱で意識が朦朧とする中、私は雨に打たれながら、走り去る車のテールランプを見つめるしかなかった。
「お願い……戻ってきて……」
私の声は雨音に消えていった。
私の名前はなつ子。40歳の専業主婦だ。地方都市で夫の大輔と16歳の息子・裕二と3人で暮らしていた。
大輔とは友人の紹介で出会った。交際を始めた当初、彼はよく「俺はもっと出世するからついてきてくれ」と言っていた。向上心のある彼なら、この人と結婚すれば幸せになれると思った。
結婚当初は確かに幸せだった。名の知れた大企業に勤め、しっかりと稼いできてくれる。休日には2人で映画を観たり、ショッピングに出かけたりと楽しい日々を過ごしていた。
しかし、裕二が生まれ、成長していくにつれて、その日々は変わっていった。
大輔は育児に一切関わらなかった。オムツを替えたことは一度もない。夜泣きの世話も、全部私一人でやった。裕二の行事参観日に休みが取れるのに、大輔が参加したことは一度もない。3人で家族旅行に行ったことだってない。
つまり、大輔は父親らしいことを一つもしてくれなかった。
今では裕二と大輔はほとんど会話をしない。
もちろん、家族としてこんなことではいけないと思い、関係を修復しようとしたこともあった。しかし、大輔は「仕事で疲れているから」と、まともに話し合いもさせてくれなかった。
そして、一緒に暮らすうちに、だんだん分かってきた。大輔は小心者だ。彼のビッグマウスは向上心から来るものではなく、ただの虚勢だった。結婚前に「俺はもっと出世するからついてきてくれ」と言っていたのも、私が他の人のところへ行かないようにするための言葉だった。
実際、大輔は世間一般の男性と比べれば高収入だが、同じ会社の同期と比べれば、さほど出世はできていないようだった。
そんなある日。裕二をサッカー部の朝練へ送り出し、大輔の朝食を用意した時のこと。
寝室からリビングへやってきた大輔は、テーブルに並んだ朝食をじっと見つめた。メニューはいつも通りの納豆と白米、焼き鮭と味噌汁だ。
大輔は椅子に腰かけ、まず味噌汁をすすった。すると眉間にシワを寄せ、「なんだこれ」と呟いた。
「え? 何か変だった? いつもと同じお味噌汁だけど」
用意している時に味見をしたが、何も変わったところはなかったはずだ。
しかし大輔は味噌汁の入った茶碗を置き、「まずくて食えない」と言い放って席を立ってしまった。
それからというもの、大輔は私の作った料理に逐一文句を言うようになった。
昼ご飯に持たせた弁当は「まずくて食べられなかった」という理由で、ほとんど手がつけられないままだった。夕飯も「仕事で疲れているのに、こんなもの食べさせるな」と手をつけないことが増えていった。
そして、大輔の文句は料理だけじゃなく、洗濯や掃除にまで及んだ。
ベランダに干してある洗濯物に「もっとシワを伸ばして干せ」と言ってきたり、窓のさんを指で触って「こんなにホコリが溜まってる」と言ったり。
今まで通りに家事をしているのに、急にそんな文句を言うようになった。
しかも、私の家事に文句を言う時、「他の女性ならもっとしっかり家事をするのに」と、誰かと比べているような言い方だった。
まるで、最近他の女性が家事をする様子をじっくり見ていたような言い草だ。
さらに、スマホを持ったままトイレや風呂に行ったり、深夜に誰かとこそこそ電話をしていたりと、怪しい行動も見受けられるようになった。
もしかして浮気をしているのかもしれない。そう思った私は証拠を掴もうと、大輔の鞄の中を調べたり、寝静まってからスマホを覗いたりしたが、何も得られなかった。
探偵に依頼しようとも考えたが、家計は大輔が管理していて自由になるお金がなく、断念するしかなかった。
そんなモヤモヤした気持ちを抱えたまま数週間が過ぎた。口を開けば文句を言われる生活に、私は強いストレスを感じていた。
そのせいだろうか。ある日の深夜、寝苦しさで目覚めた私は、高熱を出していた。最近大輔と寝室を分けているので、助けを求めることもできない。
私はなんとか床を這ってリビングへ向かう。こんな時に限って、リビングにスマホを置きっぱなしにしていた。
だんだんと視界がぼやけていくような感覚に、大げさかもしれないが命の危険を感じた。
救急車を呼ぼうと、テーブルのスマホを手に取った時、偶然にも大輔がリビングにやってきた。
「こんな夜中に何をしているんだ?」
力を振り絞って事情を説明すると、大輔は無言で私の手からスマホを奪い取った。
代わりに救急車を呼んでくれるのだろうか。そう思って安心した私に、大輔はとんでもない言葉を放った。
「高が熱ごときで救急車を呼ぶなんて、ご近所に知られたら恥ずかしいだろう。家事はまともにできないくせに、俺に迷惑をかけるのだけは得意なんだな。分かったらさっさと寝ろ」
心配するどころか悪態をついてくる大輔に、私は半泣きで抗議した。
「お願いだから病院へ行かせて。救急車がダメなら、うちの車で連れて行ってよ」
そう言って大輔にすがりつく。それからは、ほとんど泣き言のように「お願い」と言い続けた。
大輔は散々渋っていたが、結局は私のしつこさに負けたようで、車を出してくれることになった。
「ああ……明日も仕事だっていうのに、俺の睡眠時間どうしてくれるんだよ」
運転席で大輔は、ブツブツ文句を言い続けた。私は雨が叩きつける助手席の窓に頭を預けながら、その文句を聞き続けた。
家を出発して5分。大輔のスマホに突然着信があった。大輔は車を路肩に止め、応答する。短い言葉を交わして、すぐに電話を切った。
そして彼はこう言った。
「これから仕事に行かないといけなくなった。あとは歩いて病院に行けよな」
「え、仕事? こんな夜中に仕事なんて」
私がそう言うと、大輔は不機嫌そうな顔で「俺を疑うのか」と声を荒げた。
「じゃあ、仕事に行ってもいいから、私を病院まで送り届けてからにしてよ。車だったらそんなに遠くないでしょ」
こんな状態で大雨の中、歩いて病院まで行くなんて不可能だ。私は必死で助手席にしがみついた。
しかし大輔は運転席から降り、助手席側のドアを勢いよく開けると、私のシートベルトを外し、肩を掴んだ。
「早く降りろよ」
この言葉と共に、大輔は私の体を車の外に放り投げるように引きずり出したのだった。
あまりの勢いに、私は膝や手のひらを擦りむいてしまった。暗くてよく見えないが、血が出ているような感じがする。
「い、痛いじゃない!」
大輔に向かってそう言ったが、彼はフンと鼻を鳴らして運転席に戻り、すぐさま走り去ってしまった。
どんどん小さくなる車を、私はなすすべなく見守るしかなかった。
雨はだんだんと勢いを増していく。熱も上がっているような感じがする。夜道には誰もいないし、スマホも大輔に取り上げられたままだ。
歩いて病院に行くしかない。私は這うような思いで病院を目指した。
向かう予定だった病院には大輔が事前に連絡をしていたので、病院のスタッフはきっと待っていてくれているはずだ。他にも患者さんがいるだろうし、これ以上無駄な時間を使わせるわけにはいかない。
意識が朦朧とする中、私はそんなことを考えながら歩いた。道に迷ったり、途中で休んだりしながらも、なんとか病院へたどり着いた時には、家を出てからもう2時間も経っていた。車で行けば15分ほどで着くはずだったのに。
私は病院内に入ろうと扉を目指す。するとガラス越しに看護師さんと目が合った。その瞬間、なんだか安心してしまった私は、意識を手放してしまった。
次に目が覚めた時、私はベッドに横たわっていた。薬や点滴が効いているのか、熱は引いているように思えた。
ぼうっと天井を見つめていると、聞き慣れた声が聞こえてくる。息子の声だ。
「母さん、大丈夫?」
裕二は心配そうな顔でそう尋ねてきた。
「うん、大丈夫よ。心配かけてごめんね。って、あれ? どうして裕二がここに?」
そんな疑問を抱いた私に、裕二は少し笑いかけ、体を起こすのを手伝ってくれた。
体を起こすと、その目の前にはなんと大輔の姿があった。背の低い椅子に腰をかけ、ぐったりしているようだ。さらにその体はびしょ濡れで、いつもきっちりまとめている髪は、嵐に巻き込まれたかのようにぐしゃぐしゃになっている。それからなぜか、大輔の足はガクガクと小刻みに震えていた。
私が意識を失っている間、一体何が起こったというのか。
「おい、母さんに何か言うことがあるだろう」
裕二は強い口調で大輔にそう言った。すると大輔はびくっと体を震わせて顔を上げた。その顔はげっそりとしていて、目元のクマもひどい。
「あ、えっと……すまなかった」
大輔は小さな声でそう言った。裕二は少し不満な表情を浮かべたが、私に向き直ると、これまでの経緯を話してくれた。
大輔は私を車から引きずり下ろした後、家に引き返したらしい。すると、何か異変を感じた裕二が起きており、私が家にいないことを不審に思ったそうだ。帰ってきた大輔に裕二が私の居場所を聞いたが、大輔はのらりくらりとはぐらかそうとした。しかし裕二が迫るうちに、ついに「私を雨の中に置き去りにしてきた」ことを白状したようだ。
裕二は父親よりも体格が良いため、小心者の大輔はビビったのだろう。
それからしばらく言い争いをしていたところ、病院から電話が入り、裕二は私の無事を確認した。裕二は「今から病院へ行こう」と大輔に提案したが、大輔は「明日も仕事があるから」と拒否。ついにぶち切れた裕二は大輔に掴みかかり、「お前も歩いて病院へ行け」とさらに詰め寄ったそうだ。
今にも殴りかかってきそうな勢いにまたビビった大輔は、クロスバイクに乗った裕二に監視されながら、雨の中をジョギングでこの病院まで来たということだった。普段から車通勤で運動嫌いな大輔には、相当応えただろう。これだけボロボロになって疲弊しているのも頷ける。
説明を終えた裕二は、真剣な表情で私にこう言った。
「母さん、こんなやつとは今すぐに離婚した方がいいって」
その言葉に、私はとてもショックを受けた。離婚したくないからじゃない。息子にそんなことを言わせてしまったことがショックだったのだ。
私は裕二の手を握り、「ごめんね」と謝ることしかできなかった。
それからしばらくの間、私と大輔は冷戦状態になった。
私は離婚したかったが、お金の問題があった。専業主婦である私が離婚したところで、息子を立派に育てていける自信がなかった。大輔はどう思っているのだろうか。
私が高熱を出してから数週間が経ったある日、家の固定電話が鳴った。
「あ、もしもし。大輔さんの奥さんですよね。私は部下の明美です」
「ああ、はい。ですが、何かご用ですか?」
明美と名乗った女は、戸惑う私にこう言った。
「私と大輔さんは愛し合っているんですよ。だから、さっさと別れてくれますか?」
なんと明美は大輔と浮気をしていたのだ。やっぱり以前浮気を疑ったのは間違いじゃなかった。
「私だって、離婚できるならしたいわよ」
私はとっさにそう叫んでいた。これが私の本心だ。あんな最低男、欲しければくれてやる。何か罵倒されるかと思った私は覚悟を決めて、ぎゅっと拳を握った。
しかし明美は「そうなの?」と嬉しそうな声を上げた。
「これなら話が早いわね。私は大企業務めだから、慰謝料ぐらい幾らでも払ってあげる。メールアドレスを教えてくれたら、大輔さんと浮気をしていた証拠をたくさん送ってあげるわ。それを使って大輔さんに離婚を迫ればいいの」
予想だにしていない提案に、私は一瞬言葉を失ったが、すぐ我に返った。こんなチャンスを逃してはならない。
私はすぐにメールアドレスを教えた。すると、すぐにたくさんの浮気の証拠が送られてきた。ラブラブなツーショット写真や、逢い引きの約束をしたメッセージのスクリーンショットなど、証拠というには十分に思えた。
私はその日の晩、裕二が眠ったのを見計らって、晩酌をしている大輔に声をかけた。
「ねえ、話があるんだけど」
大輔はテレビから目を離すことなく、「なんだよ」とだけ言った。なんだかむかついたので、私は勝手にテレビの電源を切り、バンとテーブルを叩いた。
怒った大輔がこちらに向き直る。私はそんな大輔の目の前に、あるものを突きつけた。
「離婚届だわ」
大輔は目を丸くして驚いている。
「離婚しましょう。あなたには、大企業で家事が得意な女性が他にいるようだからね」
「え? な、何のことだよ。俺が浮気をしているって言いたいのか? それなら証拠を出してみろよ」
証拠隠滅に自信があったのか、大輔はドヤ顔でそう言った。私も負けじと目を見開き、明美から送ってもらった証拠の数々を突きつける。
すると、さっきまでのドヤ顔は一気に崩れ去り、見る見るうちに泣きそうな顔になっていった。
「え……そんな……なんでこんなものが……全部消したはずなのに…」
「離婚なんて、そんなことしたら恥ずかしいだろう。それに裕二には父親が必要じゃないのか? それに金もいるだろう」
どうやら大輔は、離婚されたと人から後ろ指を刺されたくないがために、離婚したくないらしい。なんて自分勝手なんだろう。
「私は全く恥ずかしくないわ。それに裕二には、あんたみたいな父親はいらないのよ。今まで父親らしいことは一つもしてこなかったくせに。今さらそんなこと言わないで。お金は、あんたが本当に息子のことを大切に思っているなら、養育費はたっぷり払ってくれるでしょう」
私の離婚への意思が固いことに、ようやく大輔が気づいたようだ。頭を抱えて、「こんなはずじゃ…」とすすり泣きをしたのだった。
それから半年後、ようやく私と大輔は正式に離婚することができた。
離婚するにあたって、財産分与と不貞行為の慰謝料、そして裕二の養育費を請求した。さらに、浮気相手である明美にも不貞行為の慰謝料を請求した。
それぞれ一括で支払われたので、当面の生活に困ることはなかった。裕二を転校させるのはかわいそうだと思ったので、近くのアパートに引っ越しをし、今は2人で協力して生活を送っている。
大輔と明美は、どうやら同棲を始めたらしい。しかし、2人とも仕事で忙しいので、お互いに家事を押し付け合い、喧嘩が絶えないのだとか。おそらく明美が家事を頑張っていたのは、浮気相手である大輔にいいところを見せて、私から奪いたかっただけで、自分のものになった大輔にはもう本音を見せてもいいと思ったのだろう。
さらに、どこからか大輔と明美が浮気をしていたことがバレ、「大企業の名を貶めた」として2人とも解雇になったそうだ。諸々の慰謝料を一括で払ってしまったので、2人とも生活に困る日々を送っているらしいが、私の知ったことではない。
大輔と離婚してから、裕二はますます明るくなり、部活に打ち込むようになった。今度の試合で初めてレギュラーとして出場できることになったと、嬉しそうに話す彼を見ていると、私の決断は間違っていなかった。そう、心の底から思えるのだった。



