朝、畑の縁に膝をつき、伸び始めた新芽を指先でそっと持ち上げた。土の匂いが鼻の奥に広がる。俺は大田正斗、58歳。この山奥の集落に流れ着いてから、もう25年になろうとしている。
春は新芽を積み、夏は山へ入って薬草を探し、秋には乾燥小屋で仕分ける。そんな暮らしを続けてきた。
集落の細い道から下駄の音が近づいてきた。振り返ると、自治会長の村瀬道夫が手を挙げている。
「薬草先生、朝から精が出るな」
「村瀬さんこそ。調子はどうですか?」
「あんたにもらったあの煎じ薬な。あれ飲んでから寝つきが偉くいい。うちのばあさんまで欲しがっとるよ」
「じゃあ乾燥小屋に残しておきますよ。夕方寄ってください」
村瀬は嬉しそうに笑って去っていった。村瀬は俺がこの土地に来た日から、ずっと変わらずそばにいてくれた人だ。
畑仕事に戻ろうとしたところで、今度は小さな足音が駆けてきた。田中さんの孫だ。小学校に上がったばかりの男の子が、顔を真っ赤にして息を切らしている。
「おじさん、弟が熱出したんだ」
「そうか。じゃあ一緒に行こう。慌てなくていい。走ると転ぶぞ」
俺は乾燥小屋から解熱に効く薬を選び、男の子と歩き出した。田中家の玄関先では母親が待っていた。弟の方は布団の中で赤い顔をしてぐったりしている。俺は額に手を当て、脈を見て、口の中の色を確かめた。医者としての癖は、25年経っても抜けない。
「風邪ですね。3日ほどこの煎じ薬を飲ませてやってください。汗をたっぷりかかせれば、明後日には走り回りますよ」
「先生、いつもすみません」
「野菜の方がありがたいですよ。うちの畑、葉っぱが育たなくてね」
母親が笑い、俺も笑った。この集落で俺を医者と呼ぶ者はいない。皆、薬草のおじさん、薬草先生と呼ぶ。それでいい。その方がいい。
山道を下り、郵便受けを覗くと、今日も白い封筒が入っていた。差出人は海外の研究機関だ。俺は封を切らずに、それを小脇に抱えて山小屋へ戻った。
山小屋の囲炉裏に薪をくべて湯を沸かし、薬草茶を入れて机に置く。机の隅には額縁に入った写真が一枚ある。セーラー服のような白いワンピースを着た、痩せた女の子が笑っている。娘の弓だ。10歳のまま、時が止まっている。俺は写真の前に湯呑みを置いた。
囲炉裏の火が落ち着いた頃、俺は板の床の一枚を持ち上げた。下には階段がある。村の誰も知らない、地下の研究室へと続く階段だ。明かりをつけると、コンクリートの壁に沿って並ぶ棚と実験机が浮かび上がる。顕微鏡、分離器、保存庫。どれも古いが、まだ動く。薬草の抽出液を入れた瓶が、静かに並んでいる。俺はここで今も研究を続けている。誰にも言わず、誰にも見せず。25年間。
机の上には、封を切っていない封筒の山があった。今日下ろしてきた三通を一番上に重ねる。差出人はスウェーデン、スイス、アメリカ。文字を読まなくとも、大体察しがつく。招待だの講演だの、そういう話だろう。俺はもう、そちらの世界の人間ではない。
25年前、俺は植物由来の新薬研究で世界の注目を浴びていた。ノーベル賞候補と呼ばれた時期もある。そのすぐ横で、特許を巡る争いが起きた。利益、独占、駆け引き。研究の中身よりも金の話ばかりが飛び交うようになった頃、弓が病に倒れた。原因不明の難病だった。
俺は世界一の薬を作ろうとしていた男のはずだった。その俺が、目の前の娘一人救えなかった。
弓は入院しても笑うのをやめなかった。同じ病室の子を励まし、看護師に礼を言い、俺の手を握っていった。弓の声が、今も耳の奥にある。
「お父さんなら、きっと未来の誰かを救う薬を作れるよ」
弓がそう言った後、俺は表舞台を降りた。論文も出さず、学会にも顔を出さず、名前を消してこの山へ入った。逃げたと言われても仕方がない。それでも、俺は弓との約束だけは捨てなかった。
机の引き出しを開けると、古いアルバムが一冊入っている。表紙はもう色あせている。中には、まだ小学校にも上がらない頃の弓が押し花で遊んでいる写真が何枚も貼ってある。ページの間には、弓が自分で挟んだ小さな花が今も残っていた。俺はそっとアルバムを閉じて、引き出しに戻した。顕微鏡を覗き、抽出液の色を確かめる。今日も夜が更けていく。
翌日は朝から曇っていた。畑の草取りをしていると、集落の方から車の音がした。一台や二台ではない。黒塗りの乗用車と大きなワゴンが四台、細い山道をゆっくり登ってくる。俺は鍬を止めて顔を上げた。村瀬が息を切らして駆けてきた。
「先生、なんだか偉い人らが村に来とる。東京の病院の人だとかで、あんたに会いたいと言うとるんだ」
「俺にですか?」
「白衣を着た若いのやら、外人までおる。何かの間違いじゃないのかね」
車の列は集会所の前で止まった。降りてきた人影は十人以上いる。その中に一人の女性がいた。年の頃は30代半ばだろうか。ジャケットを羽織り、胸に分厚い医学書を一冊抱えている。
女性が一歩前へ出て、深く頭を下げた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。国立先端医療研究センターの白石優と申します。ご丁寧に。太田です」
「太田正斗先生でいらっしゃいますね」
先生と呼ばれるのは久しぶりだった。
「実は、小林メディカルホールディングス会長の小林が、原因不明の難病で倒れております。国内の大学病院、海外の研究機関、あらゆる場所を回りましたが、有効な治療法が見つかりません」
「その話が、なぜ俺のところへ?」
「先生の25年前のご論文です。植物由来のある成分が、この病態に効く可能性があります。私はそう考えています。山奥に伝説の研究者がおられると聞き、失礼を承知でお尋ねしました」
背後で村瀬たちが目を丸くしていた。薬草のおじさんと呼んでいた男が伝説の研究者。その言葉の意味を、村人たちはまだ飲み込めずにいた。
胸の奥で、何かが小さく動いていた。白石はもう一度深く頭を下げた。その手に抱えた医学書のページの間から、色あせた押し花の片鱗がほんのわずかに覗いていた。
俺は鍬の柄を握ったまま目を伏せた。
「白石さんと言いましたね。とにかくここじゃ話もできません。山小屋の方へ来てください」
俺は他のメンバーには集会所で待ってもらい、白石優一人だけを山小屋へ案内することにした。細い山道を登る間、白石は黙って俺の後ろについてきた。医学書を胸に抱えたまま、時折立ち止まって山の草に目を落としている。その視線に、ただの研究者ではない何かを感じた。
山小屋に着き、俺は囲炉裏の火を起こした。薬草茶を入れて彼女の前に置く。白石はじっと湯気を見つめていた。そして、机の隅の写真に目を止めた。額縁に入った、白いワンピースの少女。その瞬間、彼女の肩がわずかに震えた。
「この子は…ゆみちゃんですか?」
「娘です。25年前に亡くしました」
白石は両手で口元を覆った。目から大粒の涙がこぼれ落ちた。俺は何が起きているのか分からず、ただ立ち尽くしていた。
「先生、私…ゆみちゃんと同じ病室にいたんです」
「何ですって?」
「東亜病院の3階の4人部屋でした。私は病気で長く入院していました。あの頃の私は、もう治らないんだと思って、毎日泣いてばかりで…」
俺の膝から力が抜けた。向かいの椅子にゆっくりと腰を下ろす。白石は震える声で続けた。
「ゆみちゃんは、自分の方がずっと苦しいはずなのに、いつも笑っていて。私が泣くたびに『大丈夫だよ』って手を握ってくれました」
白石は医学書のページをそっと開いた。その間から、色あせた小さな押し花が現れた。薄い黄色の、何の変哲もない野草の花。
「これ…ゆみちゃんが病院の中庭で見つけて、押し花にしてくれたんです。『元気になったら本に挟んでね』って。私、25年間、しおりとして持ち続けてきました」
俺の視界が滲んだ。覚えている。弓が中庭から摘んできた、あの小さな花。
「あなたが…あの時の弓ちゃんなのか」
「はい。ゆみちゃんに励まされて、私は生きようと決めました。人を救う研究者になろうって」
俺は写真の中の弓に目を向けた。娘は変わらず笑っている。
「白石さん、俺はもう一度研究をやります。会長さんの病を、本気で治しに行きます」
白石は涙をぐっと拭って、深く頷いた。
翌日から、山小屋の地下研究室に明かりが絶えなくなった。俺はこれまでに続けてきた抽出液の記録を、白石に開示した。
「先生、これはもう、ほとんど臨床段階に入れる水準です。どうして今まで発表する気がなかったんですか」
「ただ、弓との約束を果たしたかっただけです」
白石は言葉を失っていた。俺たちは役割を分け、山小屋と集会所を行き来しながら、成分の生成と投与の設計に取りかかった。
数日後、山道をまた黒塗りの車が登ってきた。今度は一台きり。降りてきたのは、仕立ての良いスーツを着た男だった。
「小林メディカルホールディングス専務、北川惣次郎と申します。太田先生、少しお時間をいただけますか?」
俺は畑の縁に立ったまま男を見た。北川は鞄から一通の書類を取り出した。
「先生の新薬について、弊社と独占契約を結んでいただきたい。契約金はこちらの数字でいかがでしょうか?」
差し出された書類の端には、俺が生涯で見たこともない桁の数字が並んでいた。俺は書類を受け取らず、ただ北川を見返した。
「北川さん、これは患者のためのものです。会社のためではありません」
「もちろんです、先生。だからこそ、弊社が責任を持って世界へ届ける。そのための独占です」
「独占という言葉がついた時点で、それはもう患者のためじゃない」
北川の口元がわずかに歪んだ。
「先生、この村の土地の多くが、実は登記の整理が進んでいないとご存知ですか? うちの関連会社でまとめて買い上げるという話も出ておりましてね。もちろん、先生がご協力くだされば、そんな話は消えます」
俺は書類を突き返した。声は荒げなかった。
「お引き取りください。俺は特許も独占もしない。新薬は、必要としている人のところへ届けます。あなたを通さずにです」
北川は書類を鞄にしまい、薄く笑って一礼した。車が去った後、村瀬が駆け寄ってきた。
「先生、あの男、ろくなもんじゃなさそうだな。何を言われた?」
「土地を買うとか…そういう話ですよ。気にしないでください。俺が何とかします」
村瀬は何か言いたげだったが、結局集会所の方へ走っていった。
その晩、集会所には村人たちが集まっていた。村瀬は中央に立って話し始めた。俺はただ聞いていた。
「みんな、薬草先生が大きな仕事をしとる。世の中の病気を救う薬を作っとるんだ。それを金で邪魔しようって連中がおる。うちの土地まで狙っとるらしい」
集まった村人たちは顔を見合わせた。田中さんも、畑を耕す男たちも、みんな真剣な目をしている。一人の男が手を挙げた。
「村瀬さん、先生の畑はわしらが守るよ。あの人にはうちの子供たちも何度も助けられとる」
「私も手伝います。畑仕事なら任せてください」
村瀬が俺の方を振り返った。俺はゆっくりと頭を下げた。
「皆さん、迷惑をかけます。俺はこの村で暮らせたから、ここまで来られた。恩を返させてください」
翌日から、村は動き出した。薬草畑の周りを村の男たちが交代で見回った。女たちは山へ入り、希少な薬草の群生地を白石に教えた。山を知り尽くした年寄りたちは、季節の移り変わりから採取の時期まで細かく助言してくれた。白石は昼は泥だらけになって畑で働き、夜は地下研究室で顕微鏡を覗いた。髪は乱れ、手は荒れ、それでも彼女の目は日に日に輝いていった。
ある抽出液の色が、俺が25年間探し続けてきたあの色に変わった。淡い黄金色。弓が押し花にした、あの花と同じ色。俺は思わず息を止めた。
「先生、これ…」
「ああ、ここまで来た。あと少しだ」
窓の外では、村の見回りの提灯が闇の中で小さく揺れていた。
新薬が完成したのは、それから二週間後だった。地下研究室の机の上に、小さなアンプルが一本、静かに置かれていた。淡い黄金色の液体が、天井の裸電球の光を受けて揺れている。俺と白石は、それをしばらく無言で見つめていた。
「先生…25年ですね」
「ああ、長かったような、短かったような。妙な気分だ」
小林会長への投与は、東京の国立先端医療研究センターで行われることになった。俺は山を降りなかった。白石が新薬を抱えて車に乗り込む姿を、俺と村瀬が見送った。
「先生、あんた、行かんでよかったのか?」
「俺の仕事はここまでです。あとは白石さんが引き継いでくれる」
投与から3日、5日、7日。白石から届く電話の声は、日ごとに明るくなっていった。
「炎症反応が下がりました」
「意識がはっきりしてきました」
「自力で食事を取れました」
そして10日目の夜、白石は震える声で告げた。
「先生、会長、歩かれました。廊下を、自分の足で」
俺は受話器を握ったまま、しばらく声が出なかった。囲炉裏の火がパチリとはぜた。写真の中の弓が、いつもの笑顔で俺を見ている。
その翌日から、村は一変した。細い山道をテレビ局の中継車が列をなして登ってくる。新聞社、通信社、海外メディアまでが集会所の前に押し寄せた。集会所のテレビからニュースが流れていた。
「難病治療に光。日本人研究者・太田正、25年の沈黙を破り新薬を完成」
画面の中で、若い頃の俺の写真が映し出された。白衣を着て痩せた男だ。村瀬は口を半分開けたまま驚いていた。
「これは…うちの薬草先生か?」
「村瀬さん、先生って本当にこんな偉い人だったんですか?」
「わしら、あの人と一緒に大根採ったんだぞ。25年も」
村人たちは何かに取り憑かれたような顔で、顔を見合わせていた。俺は騒ぎを避けて、いつものように畑に出ていた。記者たちが柵の向こうから呼びかけたが、俺はただ鍬を動かし続けた。
小林会長が退院し、村を訪れたのはそれから半月後のことだった。小林は白石に付き添われ、山小屋までの道を自分の足で登ってきた。俺は畑の前で待っていた。小林は俺の前まで来ると、深く、深く頭を下げた。
「太田先生。命を救っていただき、ありがとうございました」
「頭をあげてください、会長さん。新薬が効いてよかった」
「先生、私はこれまで利益を第一に会社を回してまいりました。北川のことも含めてです。今回、恥ずかしながら命を失いかけて、ようやく分かりました」
小林はまっすぐに俺を見た。
「この新薬は価格を抑えて、世界中の患者へ届けます。特許は公共のものとして扱います。北川は専務を解任いたしました」
「そうですか。ありがたい話です」
短い言葉しか出なかった。だが、それでも十分だった。小林は白石を振り返り、小さく頷いた。白石が一歩前へ出て、胸に抱えていた分厚い医学書を両手で俺に差し出した。
「先生、25年、私のしおりになってくれた花です。今日、先生にお返ししたくて」
白石は震える指でページを開いた。その間から、色あせた小さな押し花が現れた。薄い黄色の、何の変哲もない野草の花。先日、山小屋で見せてもらったあの花だった。
「ゆみちゃんが私にくれる時、こう言ったんです。『お父さんがお薬になるかもしれないって教えてくれた花だよ』って、笑いながら」
俺の手が止まった。記憶の奥の、ずっと奥の方から、幼い声が浮かび上がってくる。中庭のベンチで、弓が小さな花を俺の手のひらに乗せていったのだ。
「お父さん、これ、お薬になる?」
俺は笑って「なるかもしれんな」と答えた。それだけの、何でもないやり取りだった。その花が、25年間、白石の医学書の間で生き続けていた。
俺は震える指で押し花にそっと触れた。色は焦げているけれど、花の形はあの日のままだった。押し花を両手で包み込むと、弓の指の熱がまだそこに残っている気がした。
その夜、俺は山小屋の机の前に座り、積み重ねた封筒の山を初めて一通ずつ開けていった。スウェーデン、スイス、アメリカ、フランス。どれもノーベル賞選考委員会や国際医学会からの推薦状だった。古いものは15年以上前のものだった。読み終えて、俺は写真の中の弓に話しかけた。
「弓、お父さんな、こんなにたくさん呼ばれてたらしいぞ」
弓は変わらず笑っている。
翌朝、俺はいつもと同じ時刻に目を覚ました。顔を洗い、鍬を担いで畑へ向かった。途中で集会所の前を通った。昨日まで並んでいた中継車は、もうほとんど姿を消していた。残っているのは、いつもの村の風景だけだった。村瀬が集会所の縁側に腰かけて、朝の茶を飲んでいた。
「先生、今日も早いな」
「新芽の季節ですから。手を止めるわけにはいかないんですよ」
俺は軽く頭を下げて、また歩き出した。隣の縁側では田中さんが茶を注いでいた。
「村瀬さん、先生、東京にも海外にも行かれないんですかね?」
「あの人はなあ、行かんよ。世界を救っても、最後は土と向き合う人なんだな」
村瀬は湯呑みを置いて目を細めた。朝日が薬草畑を金色に染めている。俺は新芽の一本を指先でそっと持ち上げた。土の匂いが鼻の奥に広がる。25年前と何も変わらない朝だった。
胸のうちで、俺は静かに語りかけた。
「弓、約束は守れたよ。遅くなって、済まなかった」
風が木々を鳴らした。


