「4下請けはただで働け。嫌なら消えろ。」
元請けの現場責任者がそう言い放った瞬間、俺は心の中で決めた。この男に、信用を失うことの恐ろしさを思い知らせてやると。
俺は井原、38歳。祖父の代から続く建設会社の社長を務めている。5年前に父が他界し、俺が3代目として社長職を継いだ。会社の規模は小さいが、軟弱地盤や液状化リスクの高い土地に対応できる独自の特許工法を持っている。開発には10年の歳月を費やした。
特殊な軽量素材を地中に敷き詰めることで、地盤そのものの重量を減らし、液状化のリスクを根本から解決する。一般的な地盤改良は固めるだけで重量は変わらないが、俺たちの工法は軽くすることで揺れ自体を減らす。この違いが他社には真似できない独自性だ。
試行錯誤の末にようやく完成させた特許技術である。
祖父は毎晩作業場で図面と向き合っていた。小学生の俺が「おじいちゃん、まだ仕事なの?」と聞くと、祖父は優しく微笑んで言ったものだ。
「地道な積み重ねが大切なんだよ。」
その言葉通り、祖父は40年かけて地盤改良の技術を磨き続けた。父もまた、バブル崩壊後の不況で資金繰りに苦しんだ時も、安売りの誘惑に決して屈しなかった。
「誇りを捨てた瞬間、職人は終わりだ。」
その教えがあったから、俺は今日まで会社を守って来られたのだ。
そして、この特許技術がきっかけで、大手ゼネコンが自社の新本社ビルを建てるプロジェクトに参加することになった。施主である大手ゼネコンの平岡社長は、様々な工法に詳しい技術通として知られる人物だ。
平岡社長とは3年前の業界展示会で知り合った。工法のデモンストレーションを見た社長が、「これは本物だ。いつか必ず使わせてもらう」と約束してくれたのを覚えている。
新本社の建設予定地が液状化の危険性が高い地盤だと知った平岡社長は、俺の会社の特許工法が唯一対応可能と判断した。元請けの建設会社に、俺の会社を必ず使えと名指しで指定してくれたらしい。
俺の会社は規模が小さいため、形の上では下請けという立場になる。しかし実際には、この新本社ビル建設の肝となる存在だ。
現場の全てを仕切っているのは、元請けの現場代理人であるベテランの吉田だ。その下で佐野という男が施工現場の監督を務めている。2人とも俺の特許工法の重要性をよく理解してくれていて、下請けという立場ではなく、現場の肝となる技術者として対等に接してくれていた。
着工から2ヶ月、地盤改良工事が半分を過ぎた頃、事態が一変する。
吉田が急病で倒れ、長期休養に入ることになったのだ。
入院前、吉田は病身を押して俺に電話をかけてきた。吉田の声には強い不安が滲んでいる。
「井原さん、申し訳ない。代わりに土本という者が現場代理人として来ます。」
吉田によると、土本というのは元請け会社の社長の息子で、次期社長候補になっている男だということだ。社長は息子に現場経験を積ませるため、吉田の入院によって空席となった現場責任者に息子を据えたのだという。
吉田は声を潜めて続けた。
「息子は建築関連の学部を出たわけでもないし、正直心配なんです。ただ、すでに建築確認も通っていますし、井原さんの会社との特許契約も締結済みですから、あとは佐野が実務を仕切れば大丈夫だと思います。」
元請け会社の中でも山城代という役員が土本の現場配置に反対していたらしく、かなり揉めたそうだが、最後は社長の鶴の一声だったようだ。吉田の言葉には、自分を納得させるような響きがあった。
確かに現場作業を進めるための書類手続きさえ完了していれば、仮に現場代理人が不慣れでも実際の作業は佐野が仕切るから問題はない。土本はあくまで書類上の責任者で、いわばお飾りのような立場になるだろう。
「わかりました。吉田さんはゆっくり休んでください。」
しかし、吉田の期待も俺の予想も完全に裏切られることになる。
3日後、土本が現場に姿を表した。30代前半の若い男で、高級スーツを着ている。現場には似つかわしくない格好だ。
土本は現場に現れた初日から苛立っていた。佐野によると、社長からコストを2割削減するよう命じられ、父親に自分の力だけで成果を出すと宣言したため、法務部や技術部に相談できない状況らしい。建築の知識がない土本は、手当たり次第に下請けの単価を削ろうとしていた。
その日、俺は現場事務所で佐野と打ち合わせをしていた。そこへ土本が入ってきて佐野を呼びつける。
「おい、現場の状況を説明しろ。」
佐野は俺に目で謝罪の意を示してから、工事に関わる全ての会社の役割や関係を記した施工体制表を取り出した。佐野が現場の進捗状況や下請け業者の役割を説明していく。俺はその様子を横で見ていた。
すると土本の目がある箇所で止まった。
「ちょっと待て。この下請けの工事単価、他と比べて明らかに高いじゃないか。」
佐野が慌てて説明する。
「それは特許工法の使用料が含まれているためです。」
「特許?どういうことだ?」
「特許使用料や特殊素材の材料費が加算され、トータルで約3割ほど高くなります。」
「3割もありえないな。」
土本は顔をしかめた。
「いくら特許だろうが、こんな高い金を払う必要はない。」
佐野が必死に説明を続ける。
「しかし、この工法でなければ建築確認の基準を満たせません。」
「建築確認?そんなものに金を払えばどうにでもなるんだろう。」
「ダメです。建築基準法という法律で決められています。」
「法律?そんな細かいことは現場で何とかしろ。それが現場監督の仕事だろ。」
佐野が顔を青ざめさせるのを、俺は横で見ていた。
「変更はできません。それに特許使用契約もすでに締結されています。」
「契約?そんなものは元請けの判断で変えられる。下請けは元請けに従うものだ。」
土本のその言葉に、俺は嫌な予感がした。俺はそっとスマホを取り出し、録音を開始する。万が一のために常に身につけている習慣だ。
土本は突然俺の方を向いた。
「お前が下請けの井原か。」
おそらく佐野が俺に遠慮しながら話す姿を見て、土本は俺が下請けの者だと思ったのだろう。俺が頷くと、土本は勝ち誇った顔で言い放った。
「コストを見直す必要がある。下請けは今回ただで働け。」
信じられない言葉だった。周囲の空気が凍りつく。
10年かけて開発した技術をただで差し出せ。祖父が磨いた技を、父が誇りをかけて守り抜いた技術を、この若造の都合で無償提供しろというのか。
血が逆流するような怒りを覚えた。だが数秒後、俺は冷静さを取り戻した。ここで感情的になれば相手の思う壺だ。
「とにかく今回はコストを大幅に下げなければいけないんだ。ただで働けば、次からも使い続けてやるよ。」
俺は契約書のコピーを取り出した。
「特許使用料が明記されています。我が社の技術に見合った金額です。」
土本はちらりと見ただけで鼻で笑った。
「特許と付いているだけで、そんな工法は他でも代用できるはずだ。地盤改良の会社がやっても同じだろ。」
俺は湧き起こる怒りを抑えながら静かに答えた。
「一般的な地盤改良とは違います。特許を取得した工法で、この建設予定地の地盤ではこの工法を用いるしかないんです。」
「はあ。下請けが元請けに口答えしていいのか?元請けが気に入らなければ、下請けなんて簡単にお払い箱だぞ。」
土本は特許工法の技術的な意味も、契約の法的な重みも理解していない。理解していれば、たとえ下請けでも軽んじることは言えないはずだ。
佐野が必死に説明を試みる。
「土本さん、この特許工法がなければ現場は進まないんです。」
「黙ってろ。現場責任者の俺が判断することだ。」
土本は俺を睨みつけた。
「おい、下請け。どうするんだ?ただでやるのか?」
俺は自分にも言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
「そのような理不尽な要求に従うことはできません。」
「嫌なら消えろ。他を使う。」
頭の中で一瞬だけ迷いがよぎった。この仕事を失えば会社の経営は厳しくなる。従業員の生活もかかっている。だが父が言っていた。
「技術を安売りする者は、やがて技術そのものを失う。」
父が倒れる前、俺に言った言葉が蘇る。
「誇りを捨てた瞬間、職人は終わりだ。」
俺は深呼吸をして覚悟を決めて答えた。
「わかりました。では、特許の使用を中止します。」
その言葉に土本は一瞬、呆気に取られた表情を見せた。だがすぐに不機嫌そうに手を振る。
「ああ、もういい。さっさと帰れ。」
俺は現場を後にする前に、自社の職人全員に連絡を入れた。
「今日で引き上げる。資材も全て回収してくれ。」
佐野が慌てて駆け寄ってきた。
「井原さん、本気ですか?」
「ただ働きなどという不当な条件を押し付けられたんです。こんな状態で仕事が続けられるわけがない。」
佐野は苦しそうな表情で俺を見つめることしかできない。土本のひどい態度を目の当たりにし、それでも仕事を続けてくれとも言えないのだろう。
俺は会社に戻ると、すぐに顧問弁護士に電話をした。
「元請けに対し、特許の使用許可を正式に解除する手続きをお願いします。」
弁護士は最初は驚いたものの、俺と土本のやり取りを聞き、即座に動いてくれた。契約書には違反があった場合の措置も含まれていた。不当な値引きの強要は明らかに契約違反にあたる。さらに俺には証拠として土本とのやり取りを録音したデータがある。
弁護士はすぐに内容証明郵便で通告書を送る手続きを進めてくれた。
次に俺は平岡社長の秘書に連絡を入れた。平岡社長は今回のプロジェクトで俺の会社を名指しで指名してくれた御仁だ。だからこそ、今回の経緯はきちんと報告する必要がある。その御仁を裏切ることになるかもしれない。そう思うと電話をかける手が震えた。だが隠し事をするわけにはいかない。技術者として筋を通した以上、その結果も正直に報告しなければならない。
秘書は驚いた様子ですぐに平岡社長に取り次いでくれた。俺は吉田の入院、土本の配置、そして今日のやり取りを包み隠さず説明する。
平岡は静かに聞いていたが、最後に怒りを含んだ声で言った。
「わかった。私が技術を見込んで名指しで選んだ会社に、そんな扱いをするとは許せない。こちらでも確認する。」
電話を切ると、俺は深いため息をついた。これからどうなるかわからない。だが技術を軽視され、契約を踏みにじられて黙っているわけにはいかなかった。
その日の夜、弁護士から連絡があった。内容証明郵便は元請けの法務部当てに発送し、到着確認が取れ次第正式に契約解除が完了するとのことだ。
俺は複雑な気持ちで電話を切った。こんな形で仕事を降りることになるとは思わなかった。だが後悔はない。技術者としての誇りを守った。それだけは確かなのだ。
その間、佐野から何度か電話があった。
「井原さん、本当にすみません。土本さんが代わりの業者を探せと。でも、私はあなたの会社しかないと思っているんです。」
声が震えている。
「佐野さん、無理に説得しなくていい。あなたの立場も分かっている。」
「すみません。本当にすみません。」
佐野は板挟みで苦しんでいるのだろう。
1週間後、弁護士から連絡が入った。元請けの法務部に内容証明郵便が到着し、受理確認が取れたという。これで正式に特許使用許可の解除が完了した。弁護士によると、先方の法務部から技術部門に連絡が行き、現場が大騒ぎになっているらしい。技術部門なら建築確認の重要性も特許契約の意味も理解しているはずだ。
電話を切って間もなく、佐野から連絡が入る。佐野は慟哭するような口調で、この数日間の土本とのやり取りについて語り始めた。
「井原さん、現場が完全にストップしてしまいました。」
俺が現場を引き上げた後、佐野は土本を説得し続けていたという。
「土本さんは最初、代わりの業者を手配すればいいと言っていました。でも、技術部の役員から電話が入って、顔が真っ青になったんです。」
佐野の声には同調と呆れが混じっている。
建築確認はすでに通っていて、今更工法を変更することはできない。仮に変更するなら、また最初から建築確認を取り直す必要がある。その審査には問題がなくても1ヶ月はかかるだろう。その間工事は完全にストップし、施主との間で結ばれた工事請負契約により工期遅延のペナルティも加算される。土本は頭を抱えていたという。
「私も何度も説明したんですが…」
「佐野さんのせいじゃない。あなたはよくやってくれた。」
午後、平岡社長から直接連絡が入った。平岡は今朝、元請けの社長に直接電話をしたという。自分が技術を見込んで名指しで選んだ会社に、なぜ不当な扱いをしたのかと。元請けの社長は事情を把握しておらず、驚いていたらしい。しかも不当な態度を取ったのが自分の息子とあって、その驚きは大きく、すぐに調査して対応すると約束したとのことだ。
さらに平岡は、技術を軽視する会社とは今後の取引を考え直すとも伝えたそうだ。元請けにとっては、会社の信用さえも失う恐れがある。
すると夕方、会社の電話に元請けの役員を務める山城代という男から連絡が入った。
「井原様でいらっしゃいますか?この度は弊社の現場責任者が井原様に無礼な対応をしたとのことで、誠に申し訳ありませんでした。」
山城代の口調は丁寧だが、声には焦りが滲んでいた。山城代によれば、工事が完全にストップし、特許技術が使えない以上、現場再開の目途も立たない。このままでは会社の信用問題に発展する。あまりの深刻な事態に気が気ではないという状態なのだろう。
「私が直接御社にお伺いして、土本と共に改めてお詫びをさせていただけないでしょうか?」
俺は少し間を置いてから答えた。
「お話は伺います。ただし、一度失った信頼関係は簡単には戻りません。」
「重々承知しております。何卒お願い申し上げます。」
電話を切ると静寂が訪れる。しかし、事態は急激に動き始めているのを感じる。土本は自分の軽率な判断と下請けに対する理不尽な態度が、どれほど大きな問題を引き起こしたかようやく理解したようだ。
だがこれで終わりではない。俺には守るべきものがある。技術者としての誇りと会社の信頼だ。簡単に妥協するつもりはなかった。
翌日、約束通り山城代が会社を訪れた。そしてその後ろには土本の姿も見える。土本の目は充血し、おそらく何日も眠れていないのだろう。高級スーツはしわだらけで、あの日の自信に満ちた表情は後形もない。手は小刻みに震えていた。
応接室に通すと、2人は深々と頭を下げる。山城代は額に汗を浮かべながら口を開いた。
「井原様、この度は誠に申し訳ございませんでした。即日、工事を再開していただけないでしょうか。」
だが俺は簡単に頷くつもりはなかった。
「山城代さん、今回の件は単なる現場責任者の不始末やミスという問題ではありません。」
俺は冷静に言葉を選んだ。
「特許契約を一方的に破棄しようとし、特許権という法律で守られた権利を軽視した。そして技術者に対する敬意が全くない。」
山城代は黙って聞いている。
「一度失った信頼関係は簡単には戻りません。」
「おっしゃる通りです。」
山城代は苦しそうに答えた。
「しかし、何卒…」
俺は少し間を置いてから、いくつかの条件を提示した。
まず、新たな契約では特許使用料を含めてこれまでより2割増しの工事単価にする。また、土本を現場から外し、今後このプロジェクトには一切関わらせないこと。さらに、今回の経緯と謝罪は書面で残すということだ。
俺はゆっくりと山城代を見た。
「これらの条件を全て受け入れられますか?」
山城代は震える声で答えた。
「全てお受けします。」
俺が頷くと、山城代は安堵の表情を浮かべた。だがまだ終わりではない。俺は土本の方を向いた。土本は終始視線を下に向けたままだった。
「土本さん、何か言うことはありませんか?」
土本は顔を上げた。
「申し訳ありませんでした。」
その言葉には心からの謝罪の気持ちが感じられない。形だけの謝罪。どこか他人事のような態度だ。
俺は冷たく言い放った。
「土本さん、あなたが技術を軽視し、契約を軽視し、下請けを侮辱した結果がこれです。あなたが失ったものを教えましょう。次期社長の座、高い給与、社内での信用、そして何より父親からの信頼です。」
土本の顔が歪む。建築確認という言葉の意味も知らず、特許契約の重要性も理解せず、ただコストカットという言葉だけを振りかざした。
俺は続けた。
「現場には技術を磨き、誇りを持って働く職人たちがいます。あなたはその誇りを踏みにじったんです。」
土本は言葉を失っていた。
そして俺は最後に言った。
「このような態度では、あなたに社長の後を継ぐ資格はありません。もし今後も態度が改まらないのであれば、御社とは一切の取引をしない。その覚悟でいてください。」
土本の顔が真っ青になり、観念したように深く頭を下げた。
その後、俺は山城代と今後の契約について確認した。
「新たな契約書と謝罪文書は後日送ります。全て受け入れさせていただきます。」
山城代はそう言うと、打ちひしがれたままの土本を連れて応接を後にした。
その数日後、佐野から連絡が入る。土本は即日現場から外されたという。元請け会社では、土本の所業が役員会で議題に上がり、厳重な処分を検討する段階に入ったらしい。社長の息子だからという理由で何でも許されるわけではない。会社の存続を危うくした責任は重大だ。
佐野の声には複雑な感情が滲んでいた。
「井原さん、今回のことで会社全体が変わりつつあります。下請け会社への接し方をもう一度見直すべきだという声が上がっているんです。」
俺は答えた。
「それはいいことです。これは土本さんだけの問題じゃない。技術を軽視した元請けへの戒めでもあるんです。」
それから数週間後、工事が再開された。俺は久しぶりに現場に立った。佐野が笑顔で迎えてくれる。現場にはまた活気が戻っていた。
その後、佐野から土本のその後を聞いた。役員会で左遷処分が決定し、土本は地方支社の係長へと移動となる。給与は大幅にカットされ、次期社長候補から外されたという。社内では会社を潰しかけた無能として語り継がれることになったそうだ。
さらに今回の一件は、元請け会社にとっても大きな転機となった。技術を持つ下請け会社への接し方を見直す契機となり、関係を改善する動きが始まったという。
技術、そして誇りがあれば、元請けと下請けという上下関係などない。対等な関係なのだと、俺は改めて実感した。



