矢島部長は、笑いながら「無能は本社から消えろ」と言い放った。俺は、45歳。産業用機器部品メーカーで技術営業の係長をしている。高卒の俺にこれ以上の出世は望めないが、仕事にはやりがいがあり、顧客からの信頼も得ている。現状に満足していた。
だが、1年前、本気で会社を辞めようと思う出来事があった。
原因は、上司の矢島部長だ。社内で使っている基幹システムは、俺が1から作った。しかし矢島部長は、役員たちが集まる完成報告会で「このプロジェクトは私が主導し、無事完成させました」と笑顔で報告した。俺の手柄を奪い、その功績で部長に昇進した。
俺は矢島部長に逆らえなかった。小心者で争いが苦手なのもあるが、矢島部長は我が社の野崎専務と同じ大学の出身で、後輩として常々可愛がってもらっていると自慢していたからだ。学歴も後ろ盾もない係長の俺に、逆らうことはできなかった。
「お前のおかげで助かったよ。ありがとな」
完成報告会の後、歪んだ笑みを浮かべて耳元で囁いた矢島部長に、俺は沈黙で返すしかなかった。
あの日から、モヤモヤした気持ちを抱えたまま、俺は本社で働き続けた。
ある日、部署の会議で矢島部長が言った。
「既存取引先の納品コストを下げるため、材料の使用を変更する」
俺は眉をひそめた。部長が指名した取引先の一つは俺の担当で、材料の変更には大きな問題が伴うからだ。
「部長、使用変更をする場合、私の担当取引先が提示する品質基準を満たせません。交差が0. 01mm狂うだけで跳ねられます」
部長の顔には「何を言っているのか分からない」と書いてあった。この人は2年前、別の業種の会社から転職してきた。大幅なコストカットに成功し、その手腕を認められ、同じ大学で繋がりがある野崎専務にヘッドハンティングされたのだ。技術面での知識はあまりない。
「他の取引先は大半が問題ないぞ。何か問題があるなら、それはお前の責任だ。お前がどうにかしろ」
「私の力ではどうすることもできません。取引先の品質基準の問題です」
「その基準を変えてもらえばいいだろう」
俺の説明も、部長は聞こうとしない。会議は平行線のまま膠着した。
「もういい。お前の話は聞かん」
部長は廊下まで響き渡る大声で俺の発言を遮った。
「部長、何度も言ってるように使用変更はできません。考え直してください」
俺は負けじと、まっすぐ部長の目を見て言い放った。これが良くなかった。
「1年前みたいに、また惨めな目に遭いたいのか」
鼓膜が破れるのではないかと思うほどの音量だった。
「なら徹底的に痛い目を見てもらおうか」
部長は乱暴に俺の肩を小突いた。顔は怒りで真っ赤になり、頭の上から湯気が出そうな勢いだ。
「いつだって、俺の言うことが正しいんだよ」
最後にそう叫ぶと、俺の肩を今までで一番強く叩き、会議室を後にした。俺は肩を押さえながら、大きなため息をついた。
それから半月後、いつも通り仕事をしていた俺のところに矢島部長が来た。
「来い。話がある」
部長の顔は、どこか勝ち誇っているように見えた。不気味なものを感じつつ、部長の後に続いて会議室に入った。
すると、信じられないことを言われた。
「前、来月から閉鎖間近の支店に異動させてやる。無能は本社から消えろ」
「は?」
部長は口の端を歪めて笑った。
「仲のいい野崎専務にお前の話をしたんだ。あの人は人事の管轄だ。お前が周りの社員に高圧的な態度を取り、威圧し、仕事の妨害をしていると吹き込んだんだよ。他にも、重要な顧客と揉めてトラブルを起こしたが、お前が隠蔽したことも伝えた」
全て身に覚えのないことだ。
「専務に嘘を吹き込んだということですか?」
「相手が信じれば、それが真実になるんだよ」
矢島部長が鼻で笑った。
「というわけで、荷物はまとめろ」
俺の肩をポンと叩き、部長は会議室を出ていった。
俺はしばらく会議室に呆然と立っていた。反抗することは可能だが、異動が取り消しになる可能性は限りなく低い。専務に直接訴えたところで、俺の言葉を信じてくれるとは思えなかった。抵抗するだけ時間と体力の無駄だと判断した俺は、大人しく異動を受け入れ、必要な書類やデータをまとめ始めた。
そして、本社を去る日。矢島部長が会社の外まで追いかけてきた。
「ようやく邪魔物が消えるな。清々するよ」
そう言った部長の顔には、悪意の感情が滲んでいた。部長は俺のことが怖かったのだと思う。基幹システムを作り上げたのは俺だ。何かの拍子にそれが俺だとバレたら、部長の立場は危なくなる。しかし、俺が本社からいなくなれば、その心配も消える。
「2度と俺の前に姿を現すな」
俺は一切返事をせず、矢島部長に背を向け、長年勤め続けた本社を後にした。
閉鎖間近と矢島部長が言っていたのは本当のようで、支店の社員はトップである岡田店長と、他にわずか数名。予算もほぼゼロのようで、あちこちボロボロだった。
「今日からお世話になる佐藤です」
「佐藤君、ちょうど良かった」
岡田店長と社員たちはオフィスの真ん中にあるデスクに集まり、難しい顔でパソコンを見ていた。
「どうしたんですか?」
「うちのシステムはかなり古くてね。本社に頼んで、ようやく先日新しい基幹システムを入れてもらえたんだ。でも、何が悪いのかエラーだらけ。本社に相談しても返答は一切なし。部外の人間を雇って対応してもらおうとしたが、そんなお金もない。予算がなくて、せっかくの新システムをうまく導入できんのだよ。ああ、またエラーだ」
パソコン画面に表示されていたのは、俺が開発した基幹システムだった。まさか、こんな形で再会するとは思わなかった。問い合わせは責任者である矢島部長に届いているはずだが、あの人は何も対応しなかったのか。
「店長、このシステムを開発したの、実は俺なんです」
「え? 矢島部長じゃないのか?」
今までは部長との間に波風を立てたくなかったので、真実を口にせず黙っていた。しかし、異動までさせられたのだ。もはや黙っている必要もないと判断し、全ての事情を明かしたが、岡田店長は驚きを隠せない様子だった。
「俺が対応します」
椅子に座り、手早くエラーをチェックする。
「移行データの入力形式が古いままだったことによる単純なバグですね。これならすぐ解消できますよ。……できました」
岡田店長や社員たちが確認したパソコン画面は、エラーは一切表示されず、スムーズにシステムが動いていた。
「君、何者だ?」
「ただの係長です。元ですが。異動に伴い、俺の役職は平社員まで降格となりました」
岡田店長や社員たちはまだ信じきれていない様子だったが、支店のピンチを救った俺に感謝の言葉をくれた。
それから、俺は支店で本領を発揮した。システムのこの部分は支店のやり方には合わないな、と調整していく。システムを作った本人なので、修正もお手の物だ。
「佐藤君のおかげで、うちの業務効率は大幅アップした。本当に助かったよ」
「ありがとう」
岡田店長を始め、支店の社員で疑う人はいない。ここに来てよかった。そう思っていた俺に、新たな苦難が訪れる。
最初は、本社からの通達だった。
「基幹システムの独自修正は、社内規約に違反する。即時停止し、現状に戻すこと」
岡田店長がメールを見ながら沈んだ声を上げる。
システムの動きは本社で確認することが可能だ。矢島部長にはシステムをチェックする能力はない。他の社員に、うちの支店のシステム監視を依頼していたのだろう。俺が支店でシステムに触れれば、開発者が誰かバレるリスクがある。あの人はそれを恐れていたのだろう。俺を異動させただけでは、まだ足りないらしい。
仕方なく元通りにしたが、支店のやり方ではどうしてもエラーが出てしまう。その結果、ある取引先の受注処理が遅れるという事態に発展してしまった。
「大変申し訳ございません」
取引先からの怒りの電話に、岡田店長が対応する。
「え? 今後はうちの本社と取引ですか? わかりました。はい、失礼します」
電話を切った岡田店長が、がっくりと肩を落として社員たちに報告した。
「大切な取引先を本社に横取りされてしまったよ。本社から取引先に打診があったみたいだ」
横取りという言葉に、すぐさま矢島部長を思い出す。もしかして、画策したのは部長ではないか? 考えすぎかもしれないが、可能性はある。
俺は逆境に対して抵抗する道を選んだ。本社にいた頃の俺とは違う。
本社から持ってきた基幹システムの規約を隅々まで読む。すると、基本は独自修正は禁止だが「設計者本人による保守修正は対象外」という但し書きを見つけた。
「俺はこのシステムの設計者です。保守としてやる分には規約には触れないでしょう。責任者である矢島部長には、これからメールを送っておきます」
岡田店長に報告し、保守対応という名目でシステムをいじる。部長からまた止められるかと思ったが、特に連絡はなかった。無駄に騒ぎ、システム開発者が自分ではないとバレる可能性を考えたのだろう。とはいえ、以前のような派手な動きはできない。部長の怒りに触れないラインを探りつつ、支店で問題なく使えるレベルの改善を進めた。
そして3ヶ月後。基幹システムの導入と俺の対応、そして社員たちの努力の結果もあり、なんとうちの支店は全国で部門トップ1位の業務成果を上げた。ただし、ランキングは細かく部門分けされており、俺たちの支店は、ある1つの部門で1位を取っただけ。それでも閉鎖間近の支店にとっては明るいニュースだった。
「やったな」
嬉しそうな岡田店長の顔は、すぐに曇ることとなった。
ランキング1位を記録した支店は、本社で表彰をもらうことになっている。その招待状と一緒に、支店の閉鎖時期を前倒しにするという通達が届いたのだ。
業績が上がっているのに閉鎖の前倒しとは、明らかに不自然な決定だ。矢島部長が裏で動いたのだろう。
「もうおしまいだ」
肩を落とし、落ち込む岡田店長。一方、俺は目を閉じ、覚悟を決めた。
「表彰式の主催者は専務です。専務に直接会って、事実を伝える最後のチャンスかもしれません」
俺の言葉に、岡田店長は少し驚いたようで目を丸くする。
「支店の業績がどれだけアップしたか、データにまとめましょう。閉鎖は間違いだと突きつけるんです。それと、この件は多分矢島部長が裏で動いています。部長のしたことを専務に訴えて、信頼を失わせましょう」
「どうやって? あの2人は同じ大学で仲がいいんだろう」
「真正面から訴えるしかありません。下手な小細工は逆効果でしょう。これは掛けです。うまくいく保証はない。もし失敗したら、みんなで転職先を探しましょう」
笑顔を浮かべた俺に、岡田店長は呆然とする。やがて、岡田店長も笑顔を浮かべた。どうやら腹をくくったらしい。
「よし、やろう。でも事前準備は万全にしておくぞ。俺たちの訴えに信憑性を持たせる。客観的な証拠はないかな?」
「そうだな。基幹システムを作ったのが佐藤だと証明できれば、一番効果的だと思うんだが」
「あ、もしかして」
俺が思いついたアイデアに、岡田店長は頷いて返す。
「よし、確認しよう」
「はい」
こうして、俺たちは表彰式の日に向けて準備を進めた。
そして表彰式の当日。代表として岡田店長が呼ばれ、俺は同行者として本社へ向かった。
機会は思ったより早く訪れる。
「おや、岡田店長。お久しぶりです」
岡田店長が俺に素早く耳打ちする。
「別の支店にいた時にお世話になったんだ」
本部長の隣には、専務がいる。自然と専務の意識もこちらへ向いた。
「野崎専務、支店長の岡田です。初めてランキングで1位を取得しまして」
「おめでとうございます。そちらの方は?」
「本社から移動になった佐藤です。とても優秀な人材なんですよ」
すると専務が眉を寄せる。
「佐藤。その名前は確か、矢島が言ってたな。顧客とトラブルを起こしたとか」
「それは事実無根です」
岡田店長が前のめりになり、必死に訴える。
「1位を取れたのは、佐藤のおかげなんです。佐藤は基幹システムの導入と運用をしてくれました。おかげで支店の業務効率は劇的に改善したんです。支店のために一生懸命な佐藤に感化されて、他の社員も全力で仕事に取り組んでくれました。かくいう俺もその1人です」
岡田店長が俺に笑顔を向ける。
「佐藤、支店に来てくれてありがとうな。異動させられたお前は散々だろうけど、俺や支店にとっては幸運だったよ」
岡田店長は表情を引き締め、専務と再び目を合わせる。
「専務、これに目を通していただけませんか? 佐藤がうちに来てから3ヶ月間の支店の業績データです。これを見れば、佐藤がどれだけ優秀な人材か分かるでしょう」
専務は黙って資料を受け取り、目を通す。
「専務、こちらの資料も是非見てください」
俺は鞄から別の書類を取り出し、専務に見せる。
「これは社内サーバーに残っていた、基幹システムの設計資料と議事録をスキャンしたデータです。作成者の欄に、私の名前があります」
驚いたのか、専務の目が丸くなる。
「このデータを見つけるのはかなり苦労した。社内サーバーを隅々まで探して、ようやく見つけたんだ。これは紙の書類をパソコンに取り込んだものです。作成者の欄は、後から変更できません」
表彰式の準備が進む中、俺は一人、社内サーバーの古いフォルダーを片っ端から開いていた。システム開発当時のファイルは整理されないまま、深い階層に眠っていたのだ。プロジェクトの起案、設計資料、仕様書のドラフト。どれも作成者の欄には俺の名前がある。紙の書類をスキャンして取り込んだこれらのデータは、後から書き換えることができない。俺はファイルを静かにダウンロードし、印刷した。これが最後の切り札になると思っていた。
専務の顔が徐々に変化していく。最初は困惑。続けて、疑うような目。しかし今は、説得力のある証拠を前にして、俺たちの訴えを信じ始めている様子だ。
「岡田店長は君のことを褒めていた。演技や嘘ではないだろう。矢島に話を聞く必要があるようだ」
「専務、こんなところにいらっしゃったんですか?」
タイミングよく、矢島部長が姿を現した。専務を前にして愛想のいい笑みを浮かべている。しかし、俺の姿を見ると、ぎょっとした表情になった。
「な、なんでお前がここにいるんだ?」
「矢島、聞きたいことがある。お前は佐藤君を支店に異動させるように仕向けたのか?」
専務の問いかけに、部長の顔色が一気に悪くなる。唐突すぎる言葉に、取り繕う暇もなかったらしい。
「岡田店長によると、佐藤君はとても優秀な人材のようだ。このデータを見れば、お前から聞いていた人物像とは正反対だと分かる」
「お、俺は嘘はついてません」
何度も首を横に振る部長に、俺は静かな声で問いかける。
「俺が顧客との間にトラブルを起こしたと、専務に吹き込んだんですよね。どこの会社の誰とトラブルを起こしたんですか? その方に問い合わせてみましょうよ」
矢島部長の顔色がさらに悪くなった。会場にはすでに多くの社員が集まっていて、俺たちの会話を聞いていた人たちがざわつき始める。
慌てふためく部長の顔を見ながら、俺は心の中で静かに息を吐いた。
あんたが俺から奪ったものを、今、全部取り返しに来たんだよ。
「それと、基幹システムを作ったのは佐藤君だな」
専務の問いかけに、矢島部長は弱々しく首を振る。
「え、いいえ。システムは俺が作りました。作成者として俺の名前が記載されています」
「社内サーバーに残っていた古いデータには、佐藤君の名前が書かれていたぞ」
「部長が開発者なら、システム修正もできますよね。専務の前で、2人に修正作業をやらせてみては?」
岡田店長がいいアシストをしてくれた。俺は頷いて答える。
「構いませんよ。表彰式が終わった後、すぐやりましょう」
「矢島、いいな。お前の無実が証明されるんだ。断る理由はないはずだぞ」
俺たちに詰め寄られた部長は、青白い顔でブルブルと震え、視線を床に落とした。
「お、俺は……」
もはや自白しているも同然だ。周りで見ていた社員も、矢島部長を冷めた目で見ている。
「表彰式が終わったら、俺の部屋に来い。改めて話をしよう」
こうして表彰式は無事に幕を閉じた。
数日後、専務が直接支店に赴き、俺に頭を下げた。
「申し訳なかった。後日聞かされた話では、直後に部長を呼び出し厳しく追求した結果、全てを自白したということだ。支店の閉鎖前倒しも、あいつが提言したことだった。岡田店長が持ってきてくれたデータを役員会議に提出した。結果、閉鎖は無期限延期になったよ」
「ありがとうございます」
泣きながらお礼の言葉を口にする岡田店長に、俺は言った。
「俺の無実が証明されて、支店の閉鎖が延期になったなら、それで十分です」
矢島部長は平社員へ降格となり、給料も大幅にカットされ、厳しいお局社員が集まる総務部へ移動させられたらしい。それから、材料の使用変更は結局見送りになったそうだ。あの時、体を張って守ろうとした取引先も、正しく守られた。
今回の騒動後、俺は本社に戻らず、支店に在籍している。専務から本社に戻ってこないかと言われたが、俺は断った。出世や肩書きではなく、自分が本当に力を発揮できる場所で働く。それが、45年生きてきて俺がたどり着いた答えだ。
岡田店長を始め、支店の人たちはみんな優しく、仕事に対して前向きに取り組んでいる。俺にとって、ここが本当の居場所だと思っている。



