「あの、俺と付き合ってください」
さえ子さんはいつもの癖で、目を閉じたままキスを待っていた。その唇が、ほんの少しだけ待ちわびるように開いている。
俺の言葉に、さえ子さんは驚いて目を開けた。
「え、待って。今、何て言った?」
「いや、だから、俺と付き合って欲しいんです。さえ子さんのことが好きだから」
さえ子さんは、しばらく俺を見つめたままだった。そして、すぐに俺に抱きついてきた。
「本当は私が先に好きになったの」
俺の名前は橋本拓。広告代理店に入社して数年が経つ。俺の部署には、めちゃくちゃ仕事のできる年上の女性上司がいる。それが麻野さえ子さんだ。
さえ子さんは社員みんなの憧れの的であり、俺にとっては絶対に逆らえない存在だった。仕事に関してはとても厳しい人で、誰にも容赦しない。直属の部下である俺は、ある時は秘書のように、ある時はマネージャーのように、さえ子さんの仕事をサポートしていた。
「たく、早く行くわよ」
外回りの時は、さえ子さんが「出発」と言えば、その時が出発だった。俺はいつでも出られるように準備していた。「いいように使われている」と周りから言われても、俺は苦ではなかった。さえ子さんを尊敬していたし、自分も早く仕事を覚えたかったからだ。もちろん、そんなさえ子さんを女性として見ることなんてないと思っていた。
しかし、ある日をきっかけに、俺は違う意味でもさえ子さんに「使われる」ようになる。
その日、うちの部署は仕事終わりに飲み会だった。さえ子さんはお酒が強そうに見えて、実はとても弱いらしく、最初からみんなに飲まされて、結構酔っ払っていた。俺は心配になって様子を見ていた。なぜって、さえ子さんが潰れたら、介抱するのは絶対に俺の役目になるからだ。
「おい、お前、最後に送っていってやれよ」
みんながお開きになった時、さえ子さんはベロベロになりながら、俺に言った。
「たく、2件目行くよ」
俺は仕方なく、さえ子さんと一緒に2件目に行った。店に入っても、さえ子さんは酔って、ほとんど何を言っているかわからない。俺は1杯だけ飲んで、帰ろうということになった。それでもさえ子さんは楽しそうだったから、これで良かったのかもしれない。
俺が言われるがまま、さえ子さんのマンションまで着くと、そこは俺のマンションの隣のマンションだった。
「なんだ、こんな近所だったんですね」
俺はさえ子さんに肩を貸したまま、彼女の玄関の前まで連れて行った。
「じゃあね、たく。バイバイ」
絶対にさえ子さんらしくない挨拶だったけど、なんだか可愛くて、俺は一瞬だけ笑って、自分の家に帰った。それから、俺はさえ子さんに怖気づかなくなった。酔っ払うとあんなに可愛くなってしまうし、家も近所だから、途端に親近感が湧いた。
「何見てるの?さっさとこれやって」
俺がぼーっとしていると、さえ子さんはいつもの仕事モードで怒った。でも、俺はさえ子さんと少し距離が近くなったような気がしていた。
そんなある日、さえ子さんが仕事に遅刻してくるという事件があった。その日は車内プレゼンがあった。さえ子さんは順番を後ろにしてもらって、なんとか事なきを得たのだが、それが上司にバレて、こっぴどく叱られていた。さえ子さんはどうやら朝に弱いらしく、いつも出勤はギリギリだった。ただ、その後の仕事は完璧だから、誰も何も文句は言えない。しかし、遅刻はダメだ。
その日、さえ子さんは俺にさえ怒らずに、大人しくしていた。俺は気を利かせてランチに誘ったり、コーヒーを買ってきたりした。そんな俺の気遣いを知ってか知らずか、仕事が終わると、さえ子さんは俺を呼び止めた。
「ちょっと待って、たく」
みんなが続々と帰っていく中、さえ子さんはわざわざ休憩室まで俺を連行した。
「今日はありがとう。いつかやるんじゃないかと思ってたんだけど、ついにやらかしてしまったわ」
反省して落ち込んでいるさえ子さんを見るのも初めてだった。
「そんな時もありますよ。さえ子さんは仕事は完璧なんだから、気にすることないです。俺にできることなら、何でもしますよ」
俺は何気なく、この言葉を言っただけだった。しかし、言った途端、さえ子さんは「待ってました」とばかりに目を輝かせた。
「本当に?本当に何でもしてくれるの?」
何かまずいこと言ったかな?俺は瞬間にそう思った。
「は?はい。もちろん」
「じゃあ、これに渡しとく」
さえ子さんは急に俺の片手を掴んで、手の中に何かを入れた。俺はその中身を見て驚いた。
「え、これ、うちの鍵?」
「明日から、朝起こしに来て」
「ええっ!」
俺は思わず大きな声をあげてしまった。
「まずいですよ。上司の家の鍵をもらうなんて」
「何言ってるの?なんか勘違いしてない?」
さえ子さんは冷たい目線で俺を睨んだ。
「え、だって、鍵って、普通、恋人とかに渡すもんじゃないですか」
「そういうんじゃないから。たくは私の部下だし、舎弟みたいなもんでしょ。とにかく、深く考えなくていいから。じゃあ、よろしくね」
さえ子さんはそう言うと、さっさと帰ってしまった。この前、送った時は何も思わなかった。でも、朝一でさえ子さんの部屋に入るって、本当にそんなことしていいのだろうか?俺は葛藤しながらも、命令されたことには従わなければならない。
「これも仕事の一環と思おう」
自分にそう言い聞かせて、次の朝、俺はさえ子さんの家を尋ねることにした。いつもより少し早起きをして支度し、鍵を持ってさえ子さんの家に着いた。インターホンを鳴らそうとして、俺は「そうか、鍵があるんだった」と気づいた。ガチャッと扉を開けると、当たり前だけど、本当にドアが開いてしまった。
頼まれたとはいえ、なんだか悪いことをしているような気分になる。俺はなぜか忍び足でさえ子さんの家に入った。家の中は綺麗に片付いていて、なんだかいい匂いもする。しばらく彼女のいない俺は、女の人の家に入るのも久しぶりだった。
「し、失礼します」
なぜかわからないが、俺は泥棒のように、抜き足差し足で廊下を歩いた。さえ子さんの部屋らしいところまで着くと、やはりまだ静まり返っている。部屋のドアを一応コンとノックしたが、返事はなかった。俺は恐る恐る、部屋のドアを開けた。
「さえ子さん、入りますね」
小さく呟いて、俺が部屋に入ると、すやすやと寝息を立てて寝ているさえ子さんがベッドに横たわっている。いつもビシッとメイクをしているさえ子さんしか見たことがないから、すっぴんの姿を見て、俺は「なんて綺麗なんだ」と見惚れてしまった。近くによって、またじまじまっと顔を眺めてみる。天使のような寝顔に、俺の心臓は鼓動を早くした。
「さ、さえ子さん、朝です。起きてください」
いつまでも寝顔を見ていたくて、俺は最初、小さな声でそう言った。さえ子さんは全く動かず、起きる気配もない。枕元にはスマホといくつも目覚まし時計が置いてある。
「これで1人で頑張ってたのか」
完璧な彼女にも弱点があったのだと分かると、なんだか安心するし、支えたいとさえ思ってしまう。
「さえ子さん、起こしに来ました。朝ですよ」
ベッドの脇にしゃがみ込んで、さっきよりも大きな声を出した。それでも、さえ子さんは無反応だった。よく見ると、さえ子さんはピンクのふわふわのパジャマを着ており、めちゃくちゃ女子っぽい、可愛らしい雰囲気だ。俺は思わず、彼女の額にかかった前髪をそっと指で避けた。綺麗な顔がより一層はっきりと見えた。俺はつい、そのまま手を頭まで伸ばして、彼女の頭を優しく撫でていた。
「わ、何してんだ、俺」
自分の行動が途端に気持ち悪くなり、俺は手を引っ込めた。バクバク言う自分の心臓をトントン叩いて、落ち着かせようとした。俺は何を考えているんだろう。さえ子さんは俺のただの上司だぞ。自分にそう言い聞かせて、今度はもう少し大きな声で名前を呼んだ。
「さえ子さん、起きてください」
少しだけさえ子さんは動いたが、一向に目を開ける気配はない。しかも今度は、寝ぼけているのか、寝返りを打つついでに、俺の首にまとわりついてきた。
「うわわ。さえ子さん、ちょっと」
俺がさえ子さんの手を外そうとするけど、結構な力で絡まっている。俺は彼女の力と重力で、そのまま彼女の上に倒れ込んだ。
「ひえーっ」
心の中で叫ぶ俺。
「さ、さえ子さん、まずいです。この状況は非常にまずいです」
俺はテンパって、アナウンサーの実況中継のようになってしまった。密着した体が、俺だけ熱くなっていくようだった。とにかく離れなくては。しかし、頭でそう考えているものの、体は正直で言うことを聞かない。
さえ子さんはまだ起きていないのか?いや、起きてはいるが、寝ぼけているのかもしれない。俺はもう一度、さえ子さんに声をかけた。
「さえ子さん、今すごい状態になってます。起きてるなら、目を開けてくださいよ」
俺がそう言っても、さえ子さんは俺にぎゅっと抱きついたまま、何も言わない。さえ子さんの体のぬくもりといい匂いで、俺はどうにかなりそうだった。
「よく考えろ。俺は上司を起こしに来ただけなんだ」
「うーん」
さえ子さんは寝ぼけながら甘えた声を出して、ますます俺にくっついてくる。俺はもう我慢の限界だった。
「ごめんなさい、さえ子さん」
俺は力いっぱい、彼女を抱きしめ返してしまったのだ。布団の中で、ぎゅっとくっつく2人。俺は何も考えられなくなっていた。
「もう起きてますよね」
俺は念のため、確かめるようにそう言った。しかし、さえ子さんはまだ俺の言うことを無視している。だんだんと腹が立ってきた俺は、彼女の綺麗な寝顔をじまじまっと見つめて、次の瞬間、唇と唇をつけてしまった。
「ん?」
さすがにびっくりしたのか、ついにパチッと目を開けた彼女。
「ちょ、ちょっと待って。何したの?」
「いや、さえ子さんが起きないから」
俺も我に帰り、次第に焦り始める。こんなに無防備に寝てて、しかも抱きついてきて、ベッドに入れたのはさえ子さんの方だ。やはりキスはやばかったか。
「ごめんなさい。つい、寝顔を見てたら」
さえ子さんも混乱して、挙動不審になっている。その時、ジリジリと、いくつもの目覚まし時計とスマホのアラームが同時になった。
「あ、え、あ」
さえ子さんと俺は同時に体を起こして、必死でアラームを止めた。
「はあ」
俺たちは一緒にため息をついて、ベッドに座り込んだ。顔を見合わせて、この状況がおかしすぎて、2人で吹き出してしまった。
「はあ、もう何なの?」
「さえ子さん、こんなに目覚ましかけるのに、起きれないんですか?」
俺たちは笑いながら、そう言い合った。
「あ、やば。こんな時間。やだ、支度して行かなきゃ。たく、先に行っていいよ」
「え?ああ、はい。じゃあ、お先に行きますね」
俺は急いでさえ子さんの部屋を出た。もう少し一緒にいたかったなんて、とても言えない。今朝の出来事にドキドキしたまま、俺は仕事に切り替えるのが大変だった。
会社についてしばらくすると、さえ子さんもビシッとメイクをして出社した。俺はなんだか、その姿に笑ってしまう。さっきまであんな無防備な格好で、子供みたいに寝てたくせに。俺がさえ子さんの方を見てニコッと笑うと、さえ子さんは口を尖らせて俺を見ている。彼女も笑ってしまうのを我慢しているようだった。
2人だけの秘密ができてしまい、くすぐったいような、嬉しいような、変な気分だった。何せ、今朝のことは、あのさえ子さんとのことなのだ。自分でも信じられない事実に動揺ももちろんあった。でも、それ以上に、俺は喜びを感じていた。さえ子さんも笑ってくれたということは、拒否はされていないということだよな。そのことばかりを頭でぐるぐる考えながら、1日が終わった。
そして、その日、退社時間になると、さえ子さんはまた俺に声をかけてきた。
「たく、明日の朝もよろしくね」
「え、明日もですか?」
俺は明日もまた、あの甘い朝を過ごせるというのか?
「うん、明日も待ってるから。じゃあね」
「さえ子さん、待ってくださいよ」
俺は帰ろうとするさえ子さんの後を追いかけた。
「これ、いつまで続けるんですか?」
「え、そんなの、私が起きれるようになるまでよ」
俺はにんまりした顔を隠した。
「どうせ同じ帰り道だし、一緒に帰りましょう」
俺はさえ子さんの横に並んで歩いた。
「ふん。好きにすれば」
そんな冷たい返しでも、俺は全然大丈夫だった。俺を頼ってくれて、心を開いてくれたということだ。仕事ではビシバシ扱われるけれど、むしろそれさえも愛情を感じる。
次の朝も、俺はドキドキしつつ、さえ子さんの家の鍵を開けた。
「失礼します」
やはりドキドキしたが、初めてではないので、昨日ほどの緊張はない。
「さえ子さん、おはようございます」
俺はすやすや寝ているさえ子さんのそばによって、そう言った。さえ子さんは本当に寝ているのか、寝息を立てたままだ。俺はもしかしたらまた寝たふりをしているのかと思って、ちょっと意地悪がしたくなった。
「さえ子さん、起きないと、また注意しますよ」
さえ子さんのまぶたがピクンと反応した気がした。
「なんだ、やっぱり起きてるんじゃないか」
俺がさえ子さんの顔に手を伸ばそうとした、その時。さえ子さんはまた俺の首に手を回してきた。
「うーん」
よりによって、まだ寝たふりを続けて、ぬいぐるみに抱きつくように俺を引っ張った。俺はどすんとベッドに落ちる。そして、また昨日の朝と同じような体勢になってしまった。
「ちょっと、さえ子さん、ふざけないでください」
ここまで来ると、さすがにさえ子さんもわざとやっているのだろうとわかる。すると、彼女は寝ぼけたふりをして、俺にキスしてきたのだ。
「え、おはよう、たく」
俺は言葉を失った。
「ちょっと、どういうことですか?今の」
「だって、たくが言ったんじゃん。起きないとチュするよって」
鏡を見なくても、自分の顔が赤いことがよくわかった。
「そ、そりゃそうですけど、本当にするなんて」
俺たちはベッドの中で密着したまま、数分過ごした。
「っていうか、さえ子さん、この体勢やばいんで、もう起きませんか?」
俺だって本当は起きたくなかったが、今日は仕事だ。
「ああ。そうだね。今日は大事な契約があるじゃん」
急に声のトーンが変わって、さえ子さんがガバッと起きた。俺は目覚ましを一斉に止めて、会社に行こうとした。
「あ、待って、たく。一緒に行こう」
「え、いいんですか?」
俺は思わず目を輝かせてしまった。
「え、なんで?昨日は先に行ってって言うから、なんか寂しくて」
「バカ」
さえ子さんは急いでメイクして、2人で家を出た。まだ出勤時間には少し早かったから、俺たちは途中のカフェでコーヒーを飲んで、一緒に電車に乗り込んだ。電車はいつもの満員電車だったが、さえ子さんとくっついていられるのが嬉しくて、いつもとは違う乗り物に思えた。
ぎゅうぎゅうの人の波に耐えながら、さえ子さんが苦しくないように、俺が盾になった。
「たく、ありがとう」
俺の腕の中にすっぽりと隠れているさえ子さんが呟いた時には、また抱きしめてしまいそうなくらい可愛く見えた。
俺たちはそんな朝を数週間続けた。これはもう、恋人と言っていいのだろうか。でも、さえ子さんは何も言ってこないし、仕事中もあの雰囲気は決して出さない。休みの日は会うこともないし、俺はもしかして、本当に部下として使われているだけなのかとすら思った。
さえ子さんの本当の気持ちを知りたくなった俺は、週明けの月曜の朝の儀式の時に、気持ちを打ち明けてみようと思った。
「さえ子さん、おはようございます」
「うん」
さえ子さんはいつもの癖で、目は閉じたままキスを待っている。
「あの、俺と付き合ってください」
「え?」
その瞬間、さえ子さんはびっくりして目を開けた。
「さえ子さん」
そのまま何も言わないさえ子さんが気になって、俺は言った。
「え、待って。今何言ったの?」
「いや、だから、俺と付き合って欲しいんです。毎朝のこの儀式も、ちゃんと恋人としてしたいんです。さえ子さんのことが好きだから」
さえ子さんは俺を見つめたままだったが、すぐに笑顔になって、俺に抱きついてきた。
「うん、いいよ。っていうか、たくのこと好きになったのは、私が先なの」
「え、そうだったんですか。俺が入社してから、さえ子さんはずっと厳しい上司だったじゃないですか。そんなそぶり、全然なかったじゃないですか」
「当たり前じゃない。年上の女上司に、最初からグイグイ来られたら、気持ち悪いでしょ」
さえ子さんなら全然気持ち悪くはないが、俺は心の中で思いながらも、口には出さなかった。
「だから、何か口実はないかなって、ずっと探してたの。あの日遅刻して、たくが慰めてくれなかったら、思いつかなかったわ」
「俺、うまいこと誘導されてたんですね」
「嫌だった?」
さえ子さんは上目遣いでそう聞いてきた。
「結果、全然嫌じゃないっす」
さえ子さんの表情が可愛すぎて、俺はたまらずにちゅっとキスをした。
「それは、恋人としてのキスってこと?」
「そうですね」
「本当はね、一番初めの日も、たくが部屋に入ってきた時には、もう起きてたんだ」
「え、そんな早く起きてたんですか?」
「うん。でも、起きてたら、もう来なくなっちゃうでしょ」
「それで、ずっと寝たふりしてたんですか?」
「ごめん。でも、これからもそうするね」
俺たちはおでこを合わせて笑った。こうして、俺たちのちゃんとした交際が始まった。
毎朝、さえ子さんを起こしに行く俺は、朝からるんるんだった。近所の人が見たら、「会社へ行くのがそんなに楽しいのかしら」と変に思われるかもしれない。
「さえ子さん、おはようございます」
俺がキスして起こすと、さえ子さんは気持ち良さそうに伸びをして目を覚ます。
「おはよう」
そして、俺たちは一緒に出社するのだった。
そんな幸せな毎日を数ヶ月続けた頃、さえ子さんが俺に「朝来るの大変じゃない?」と言うようになった。
「え、別に全然大変じゃないよ。俺は朝弱くないし、少し早起きするだけだから」
俺はそう返事していたが、ちょっとだけ不安になった。まさかさえ子さんは、もう来なくていいと思っているのかな?俺はさえ子さんに本心を聞いてみた。
「さえ子さん、本当は、俺にもう来て欲しくないとか?」
「え?なんで?そんなことないよ」
「だって、来るの大変じゃないなんて聞くからさ」
「はあ、そのね。もう、たくってば、本当に鈍感なんだから。来て欲しくないんじゃなくて、そのうちに住めばいいのになっていう話よ」
俺はトンとした顔で彼女を見た。
「なんだ、そういうことか。よかった。俺てっきり、うざがられてるのかと思ったわ」
「バカね。気づいてよ」
さえ子さんって、仕事ではあんなに強いのに、彼氏にはなかなか思ったことを遠慮して言えないんだな。俺はさえ子さんの提案をすぐに承諾して、その月の終わりには自分のマンションを退去し、さえ子さんの部屋に引っ越しをした。
俺たちは同棲しても、朝の儀式を忘れない。毎日、さえ子さんの綺麗な笑顔を見て、ちゅっとして、彼女を起こしてから出社する。
そんな生活を数年続けて、俺とさえ子さんは、ついに結婚する運びとなった。会社のみんなには、付き合っている時からの公認の仲だったから、誰も驚かないが、祝福はしてくれた。
「さえ子さんの舎弟だったやつが、今度は夫になるのか」
なんて言われている。
結婚してからも、そしてこれからの未来も、俺たちは毎朝、甘い儀式を忘れずにするだろう。今日も、こんな美しい妻を起こすことができて、俺は幸せ者だ。



