ゴミ箱に押し込んだケーキの衝撃音が、笑い声で満ちていた部屋を一瞬で凍らせた。白いクリームと真っ赤なイチゴが、床で無残に潰れている。高級パティスリーで買ってきたという、私のための55歳の誕生日ケーキ。それを台無しにしたのは、紛れもなく私だった。
数秒の沈黙の後、長男の健太が声を荒げた。
「何するんだよ! せっかく俺の嫁が買ってきてくれたのに! 嫁に謝れ!」
息子の嫁・由美は口を手で押さえ、目を潤ませている。私はそんな二人を一瞥し、軽く笑った。
「ねえ、これを見ても、まだそんな態度が取れる?」
私は床からあるものを拾い上げ、健太に見せた。それは、由美が書いているブログの画面だった。
私の名前は尚子。今年55歳になる普通の主婦だ。夫の大輔と娘の舞、そして小さな町で車屋を営んでいる。独立している長男の健太は隣の市で一人暮らし。家業は私と夫で切り盛りしてきたが、将来は健太に任せるつもりでいた。しかし、当の健太はあまり乗り気ではなく、大学を卒業したら私が継ぐと張り切っている舞の方が、むしろ興味を示しているようだった。
そんなある日、健太から連絡があった。来週の日曜日に実家に帰るというのだ。普段あまり寄り付かない息子が、何か話があるから家にいてくれと言う。舞は「結婚の報告じゃないの?」と笑い、大輔は「ああ、そう」とだけ言った。
約束の日、健太は見慣れない女性を連れて帰ってきた。恥ずかしそうに「彼女だ」と紹介された女は「由美と申します」と可愛らしい笑顔で挨拶した。健太が恋人を連れてくるのは初めてのことだったので、私は驚きつつも彼女を家に招き入れた。由美は健太より3歳年上で営業事務をしているらしい。物腰が柔らかく、謙虚で好感が持てた。
しばらく話していると、健太が切り出した。
「俺たち、結婚することにしたんだ。それを報告したくて」
予感はしていたが、実際に聞くと嬉しいものだ。二人は照れ臭そうに笑い合っていた。私は心から幸せになってほしいと思った。半年後、二人は入籍し、結婚式も盛大に行われた。由美は健太を支えたいと仕事を辞め、近所のスーパーでパートを始めた。そして、私たち一家と仲良くなりたいと言って、頻繁に遊びに来るようになった。健太の好物のレシピを教えたり、舞のレポートを見てくれたりと、良好な関係を築いていた。
そんな穏やかな日々が数ヶ月続いた頃、娘の舞が言いづらそうに話しかけてきた。
「ねえ、お母さん。ゆみさんには気をつけた方がいいかも」
意味が分からず、理由を尋ねると「私の勘違いかも」と引っ込めてしまった。その時は不思議なことを言うものだと、深く考えなかった。しかし、舞の不安は的中することになる。
ある日、由美が駅前の新しいカフェでランチをしないかと誘ってくれた。たまにはいいかと承諾し、二人で向かう。ランチは評判通り美味しく、楽しい時間を過ごした。そして会計の段になって、由美が気まずそうに言った。
「あっ、お財布忘れちゃって……」
「あら、いいわよ。ここは私が払っておくから」
そう言うと、由美は申し訳なさそうに頭を下げた。たかが忘れ物。そう思っていたが、以後、これは頻繁に起こるようになった。ランチだけでなく、化粧品や日用品まで、最終的には私が支払う状況になる。後日、立て替えた分を請求しても「給料日前だから」「次は私が払うから」と言い訳を繰り返し、一度も返済されたことはなかった。
あまりに非常識な行動が重なり、私は健太に由美のことを確かめるように頼んだ。しかし、健太は「俺が代わりに払うから」と一万円札を数枚渡すだけで、由美には一言も注意していないようだった。さらに大輔に相談しても「別にいいんじゃないか」と取り合ってくれない。大輔は昔から問題が起きても一歩引いたところから収まるのを待つ主義だった。結局、私は孤立無縁かと思われたが、突然、由美は我が家へ来なくなった。あれだけ頻繁に来ていたのに。来ないなら来ないで平和だと思い、私は忘れることにした。
それから2週間が経った日、私は一人の晩餐を楽しむべく、手の込んだ料理を作っていた。舞はサークルの飲み会、大輔は同業者との飲み会でいない。もう少しで完成という時だった。玄関が勢いよく開き、走る音が響く。リビングに飛び込んできたのは舞だった。
「ねえ、これ見てよ!」
息を切らしながら、舞は自分のスマホを突き出した。画面に表示されたものを見て、血の気が引いていくのが分かった。それは、由美が書いているブログだった。名前こそぼかしているものの、身内だけに分かる程度に個人情報が載せられていた。そして、そこには悍ましい言葉の数々が書き込まれていたのだ。
「健太と由美さんが結婚をした日から、あの家は私のものにする。義母と義妹が邪魔。社長の奥さんなんて最高。あの家に女は私だけでいい。男は全員私のもの」
さらに、今日の誕生日会のことも書かれていた。由美はケーキにあらかじめデスソースを仕込んでおり、私だけがその部分を食べるように画策していたらしい。私にだけ「まずい」と言わせ、嫁が買ってきたケーキに文句を言う非常識な姑というレッテルを貼ろうとしたのだ。しかし、ブログの存在を知った舞がこの計画を阻止したのだった。私はその場で、来るべき誕生日会の日に報復を決意した。
そして、誕生日会当日。
「そろそろケーキを食べませんか?」
由美は高級パティスリーで買ってきたという誕生日ケーキを切り分け、一際大きな一切れを私の前に置いた。白く輝くクリームに鮮やかな赤いイチゴ。見た目は完璧だ。私はケーキの乗った皿を持ち上げ、そして、近くにあったゴミ箱の中に勢いよくひっくり返した。
全員が固まる。数秒後、健太が怒鳴った。
「何するんだよ! せっかく由美が買ってきてくれたのに!」
「そうだぞ! 嫁いびりなんてバカな真似はやめろ!」
大輔まで私を責め立てる。由美は口元を手で押さえ、目を潤ませている。私は怒っている健太に、舞が見つけたあのブログの画面を見せた。すると、怒りで真っ赤になっていた彼の顔色が、見る見るうちに青ざめていく。
「お前、まさかうちの車屋を乗っ取る気だったのか? 男は全員私のものってどういう意味だよ!」
問い詰める健太に、由美は嘘泣きを始めた。
「い、いや、違うんです! ちょっとしたサプライズというか! このブログが私のものだって証拠はないですよね? ただ状況が似ているだけで!」
苦しい言い訳を並べる由美に、健太はさらに詰め寄る。すると、なぜかそこに大輔が割って入った。
「おい、やめないか。由美さんにも何か事情があったんだろう」
これ主義の大輔が自ら首を突っ込んでくる。私が反論しようとした時、舞の手が私の腕を掴んだ。そして、健太の腕も掴むと、外に出ようと言う。私たちは引きずられるようにして玄関まで出た。
「なんだよ、俺は冷静だって」
健太がそう言うが、舞はそれを無視して、今度は音を立てないように静かに玄関の扉を開けた。私たち三人は、再びリビングへ続く廊下を音を立てずに引き返した。そして、リビングの扉を勢いよく開けた。
そこで私たちが目にしたのは、大輔が由美の体を抱きしめて、頭を撫でている光景だった。
「ああ、分かってはいたけど、実際に見るとマジで最悪だね」
どうやら由美はここ数ヶ月の間、大輔と不倫関係を持っていたらしい。これはブログにも書かれていた。大輔が頻繁に家を開けるようになったのと同時に由美が我が家に来なくなったのは、それが理由だったのだ。健太の怒りは頂点に達した。彼は私がゴミ箱に捨てたケーキをわし掴みにすると、二人の口に押し込んだ。ちょうどデスソースの部分が口に入ったようで、二人はもがき苦しみ、床を転がり回った。
「大輔、そんなに由美さんのことが好きなら、離婚してあげるわ」
「ああ、そうだな。俺も離婚してやる」
私と健太がそう告げると、由美は床に転がりながら、勝ち誇ったように鼻の穴を広げて嗤った。
「じゃあ大輔と再婚したら、私が社長夫人ってことよね。残念だったわね、お母さん」
すると、大輔が付け加えた。
「離婚してもいいけど、お前らが出ていくんだぞ。路頭に迷うのはお前らの方だからな」
その言葉に、舞が口を開いた。
「はあ? 何を言ってるのよ。この家も車屋も、元はお母さんの実家のものでしょ。社長はお母さんだし、家の名義もお母さんなんだから。出て行くのはあんたたちよ。由美さんは無職のお嫁さんになるのね」
全て舞の言う通りだった。由美は「何それ」と顔面蒼白になっている。大輔も今思い出したというようにハッとしていた。どうやら由美は、実家が車屋だと聞いて、男性である大輔が社長だと勘違いしていたらしい。私は思いきり胸を張って言った。
「子供たちも、この家も、車屋も、全部私のもの。私の宝物なの。あんたたちには何一つ渡さないわ」
それから3日後、私も健太も離婚届を役所に提出することができた。不倫の慰謝料を請求しない代わりに、即日出ていくように交渉したからだ。大輔はあっという間に、無職で住む場所も失ったおじさんになった。当然のことながら、由美はそんな大輔に見切りをつけ、即刻実家へ逃亡した。しかし、彼女の実家にはすでに健太が事情を説明してあった。由美は以前にも男性絡みでトラブルを起こしていたらしく、ついに実家に呆れられた。
今、由美はどこかの町でその日暮らしの生活を送っているらしい。夢見た社長夫人にはなれず、きっと悔しい思いをしているだろう。一方、私たち家族は今回の件でむしろ結束が固まり、三人で家業を守っていくことになった。継ぐことに乗り気でなかった健太も、何か思うところがあったのだろう。きっと、やる気満々な舞と手を取り合って、頑張ってくれるに違いない。



