幼稚園の門の前で、久保田さんに声をかけられた瞬間、嫌な予感がした。私は30代半ばの工場経営者。祖父から引き継いだ金属加工の専門工場の三代目だ。作業服のまま娘を迎えに来るのは、いつものことだった。
「あなた、昔からこの辺りに住んでるんですって?」
久保田さんは、私を頭の先からつま先まで値踏みするように見た。彼女はこの町に引っ越してきた新住民で、大手家電メーカーに勤める夫を自慢の種にし、古くからの住人を見下している。保護者の間でも、その高飛車な態度は有名だった。
「その服、何? 見たことないんですけど。それに奥さんと共働きだって? 夫婦で働かないといけないなんて、貧乏で大変ね」
子供たちのいる幼稚園で騒ぎを起こすわけにもいかず、私は曖昧に笑ってその場を離れた。ああ、これが噂のボスママか、と。これ以上関わらないようにしようと思った。
しかし、事態はそう簡単には終わらなかった。ある日、娘を迎えに行くと、娘が唇を噛みしめて目を真っ赤にしている。珍しく泣き出す寸前の顔で。
「どうした? 何かあったのか?」
しゃがんで話を聞くと、娘はぽつぽつと話し始めた。「まりんちゃんに、貧乏な子はおもちゃに触っちゃダメって言われた」と。「パパの仕事は、ゴミを作ってるだけなんだって」とも。
久保田さんの娘、まりんちゃん。母親に似て、どこか生意気な子だと噂されていた。私は娘をなだめながら、まりんちゃんに腹が立つ以上に、母親の久保田さんに怒りが湧いてきた。子供は親を見て育つ。これは間違いない。
ちょうどそこへ、久保田さんがまりんちゃんのお迎えに来た。私は覚悟を決めて話しかけた。「あの、まりんちゃんがうちの娘を仲間外れにして、貧乏な子は遊んじゃダメって言ったそうなんです。確認してもらえますか?」
久保田さんは、小さく笑って首を振った。「あのね、そんなこと、どうして確認しないといけないの? マリンが言ったことなんて、本当のことじゃない? あなたも奥さんも娘さんも貧乏でしょ。貧乏ってね、遊ぶことさえ選ぶ権利がないのよ」
娘のことを侮辱され、私は冷静さを保つのがやっとだった。「そんなこと、子供が言うことじゃないでしょう。どうしてあの子がそんなことを言うのか、考えたことはないんですか?」
すると久保田さんは声を張り上げた。「マリンは賢いの。教育にお金をかけてるから。それに、工場の社長だなんて、ただゴミを作ってるだけじゃないの? うちの主人とは大違いね」
彼女の高笑いが響き、周りの保護者の視線が集まる。私は何も言い返せずにいた。しかし、その時だった。娘が私の陰から飛び出して、久保田さんに向かって叫んだ。
「違う! パパのお仕事はゴミじゃない! 工場なの!」
「生意気な子ね」
久保田さんは娘を鼻で笑い、近づこうとした。私はとっさに娘を引き寄せ、彼女から隠した。
「いい? マリンにあなたの貧乏が映るといけないから、もう二度とマリンと遊ぼうとしないで。お願いね」
そう言い残すと、久保田さんは笑顔のまま娘の手を引いて幼稚園を出て行った。私は、娘を侮辱された無念さと、娘が私を守ろうとしてくれた愛しさで、胸が張り裂けそうだった。誰がどうなろうと、娘と妻に迷惑をかけずに打てる最高の手を、必死に考えた。
翌日、私の工場に、思いがけない客が訪れた。久保田さんの夫、久保田部長だった。彼はあの大手家電メーカーの経営企画部門の部長で、うちの工場は長年、彼の会社の主要部品を製造し納入していた。祖父の代からの付き合いだ。これは、久保田さんの妻にも、もちろん他の誰にも言っていない。
契約更新の話を始める前に、私は切り出した。「以前、久保田部長のお嬢さんが、私の娘と同じ幼稚園に通っていると聞きました」
「ああ、ええ、そうなんですよ」
子供の話をすると、彼の頬が少し緩んだ。しかし、私は続けた。
「先日、私の娘が奥様とお嬢様に侮辱されました。お嬢様からは『貧乏人とは遊べない』と言われ、奥様もそれを認めて、『娘の貧しさがお嬢様に移るから遊ばないでくれ』とまで言われました。私の工場と仕事も『ゴミだ』と」
久保田部長の顔色が変わり、無言で俯いた。私は言葉を続けた。「私はともかく、娘が侮辱されたことが許せない。私はこの仕事に誇りを持っている。亡くなった祖父にとっても、ここで作るものは誇りでした。それをゴミと言える、あなたの奥様の感覚が、私には理解できません」
久保田部長は力なく「申し訳ない」と呟くのが精一杯だった。そして突然、妻を呼び出した。工場の場所を告げ、「とにかく来てくれ」と。
30分ほどで、久保田さんの妻がふんぞり返って現れた。
「何よ? どうして私がこんなところに来ないといけないわけ?」
彼女は私を睨みつけた。私は静かに、しかしはっきりと言った。「私の工場で作る部品は、あなたにとってゴミなんでしょう? でしたら、ご主人の会社からご注文いただいている部品全て、特注品も含めて製造を中止します。今後の契約も解除しましょう」
彼女は意味が分からない様子で首を傾げた。その背後から、久保田部長がゆっくりと近づいた。
「さやか、君のせいだ。君のせいで会社が潰れる」
「はあ?」
「私の工場の特注部品がなければ、うちは終わりなんだよ。君はとんでもないことをしてくれた」
久保田部長の叫びに、妻は顔を真っ赤にして反論した。「何言ってるのよ! あんたがバカなんでしょ! いい会社に務めて、こんな奴に気を遣ってやってるんじゃないの!」
「謝れ! 土下座して謝るんだ!」
久保田部長は自ら床に膝をつき、妻の手を引いて無理やり土下座させた。妻の顔から血の気が引き、体が震えていた。
「申し訳ございませんでした! 私は妻の一人すらどうにもできない! 誠に申し訳ございませんでした!」
はっきりと謝罪する夫の隣で、無理やり頭を押さえつけられた妻は、恐怖と屈辱に震えていた。「私はさやかと離婚します。ですから、契約はどうか会社を生かしていただきたい。仕事だけは続けさせてほしい」
しかし、妻はその言葉にまた怒り狂った。「何言ってるのよ! バカじゃないの! こんな奴に頭下げて!」
夫婦の罵り合いは、私が見ていられないほどだった。私は二人に退場を告げた。久保田部長は、それ以上何も言わず、騒ぐ妻を引きずるようにして工場を出て行った。
すべての騒動に決着がついたのは、一ヶ月後のことだった。久保田部長が一人で工場を訪れた。
「離婚が成立しました」と彼は言った。「彼女は、そうするしかない人だったんです。自分が正しいと思い込まないと、気が済まない。人を見下し、物事に優劣をつけたがる、異様に社交的で高級志向な人間でした。私の給料を思う存分使い、欲望を満たす。そんな妻を養う生活に、私は疲れ果てていました」
彼は調査会社に依頼して、妻の素行調査までさせたそうだ。その結果、彼女には浮気の事実まで判明した。久保田部長は、今回の騒動と浮気を離婚理由の柱にして、彼女と戦ったという。
「マリンは私が引き取りました。責任を持って、時間をかけて、あの子をしっかり育てたい」
「本当に申し訳ございませんでした。今回のことは、私の身から出た錆です。仕事にも影響を出してしまって、恥ずかしい限りです」
彼の誠意を受け取り、私は契約を更新した。短く握手を交わし、私はシングルファーザーになった彼を励ました。
「きっと近い将来、何でも笑い話にできますよ」
「そうしないといけませんね」
壁の時計を見ると、幼稚園のお迎えの時間だった。私たちは立ち上がり、娘たちの元へ向かった。子育てする父親同士として、新たな付き合いが始まった。



