午前8時、健康管理センターの廊下はすでに受診者の列で埋まっていた。
白い診察衣に袖を通し、診察室の椅子に腰を下ろすと、主任看護師の山川裕子が受付票を差し出しながら言った。
「山田先生、本日は230名です」
「分かった。今日も一人ずつゆっくり見ていこう」
最初の受診者が入ってきた。中年の男性で、建設会社の営業部長だという。俺は検査表に目を落とす前に、まず彼の歩き方を見た。右足をわずかに引きずっている。椅子に腰を下ろす動作も、左手で肘掛けを強く握って支えていた。
「腰、お辛いですか?」
「え? ああ、いや、大したことはないんですけど」
「無理せず、後で整形外科をご紹介しますよ」
検査表には「異常なし」と書かれている。俺はカルテに一言だけメモを添えた。
俺の名前は山田悟。42歳。この総合病院の健康管理センターで企業検診を担当している。胸部レントゲン、心電図、血液検査。毎日、同じような数字と画像を見続けている。だが、受診者の歩き方、表情、話し方、指先の震え、視線の逃げ方。そのすべてを見て初めて、その人を見たことになる。これは恩師から叩き込まれた習慣だった。
昼休み、休憩室の前で脳神経内科部長の加藤正雄と顔を合わせた。
「いやあ、山田先生、今日も健康な人を見るのは楽でいいね」
嫌味は毎度のことだ。俺はコーヒーを注ぐ手を止めない。
「うちは今、原因不明の症例で徹夜続きだよ。健診医は病気を治す医者じゃないから、そういう苦労は分からんだろうけどね」
「ええ、加藤先生方のお仕事には頭が下がります」
「分かっているならいい」
加藤は肩をすくめて診療棟へ出ていった。俺はまた診察室へ戻る。院内では俺のことを「健康診断しかしていない先生」と呼ぶ者もいる。陰口も、面と向かっての言葉も、耳にはいくらでも入ってくる。それでも俺はこの席を離れるつもりはなかった。健診こそ、未来の命を守る最前線だ。その信念だけは誰にも譲れなかった。
午後の診察が始まってしばらく経った頃、西田という名前の受診者が診察室に入ってきた。年一回の定期検診で、本人は至って元気そうに笑っている。
「先生、今年もお願いしますよ。俺、酒だけは減らせなくてね」
「分かりました。まず少しお話を伺いましょうか」
血液データも心電図も大きな異常はない。数字の上では健康そのものだ。俺は西田の顔をじっと見た。左右のまぶたの開き方がわずかに違っている。右目の上まぶたが、ほんの1ミリほど下がっているように見えた。
「西田さん、最近、物が二重に見えることはありませんか?」
「え? ああ、そういえば夕方になると少し。年のせいかと思ってましたけど」
「お仕事、最近忙しいですか?」
「まあ、忙しいですけどね。夕方になると、なんだか声も出しにくくてね。営業なのに、まったく困ったもんですよ」
俺は検査表を閉じた。
「西田さん、念のため、神経科で精密検査を受けていただけませんか?」
「え、そんな大げざな。ただの疲れでしょう」
「大げさじゃありません。早く調べた方がいい病気があるんです」
西田は不満げな顔をしたが、俺の表情を見て、最後は頷いた。
一週間後、脳神経科から報告書が回ってきた。病名は重症筋無力症。早期発見のおかげで、治療は速やかに始まったという。
「先生、また命を一人救いましたね」
「救ったのは治療した神経内科の先生方だよ」
「そういうことじゃないんです。先生は検査じゃなくて、人を見てますよね。数字が正常でも、先生はその人の顔をずっと見ている。他の先生はみんなモニターしか見ないのに」
「昔、そう教わったんだ」
俺は引き出しの奥にしまってある万年筆に指先で触れた。黒崎竜二。俺に医師の道の本当の意味を教えてくれた恩師の名前だ。検査データは嘘をつかない。ただ、検査だけでは人は救えない。患者の人生を見ろ。若い頃、何度もその声を聞いた。その言葉は二十年経った今も、俺の背骨のように残っている。
「先生、コーヒー入れましょうか?」
「ああ、頼む。濃い目で」
山川が診察室を出ていく。俺は万年筆をそっと胸ポケットに戻した。
その日の夕方だった。病院内がいつもとは違う空気に変わった。廊下を歩くスタッフの足音が速くなる。診療棟の内線電話が鳴り続けている。救急搬入口には黒塗りの車が横付けされていた。俺は健診センターの窓からその様子を眺めていた。山川が慌ただしく戻ってくる。
「先生、大変です。立花ルーディングスの会長がうちに搬送されたそうです」
「立花会長か」
「はい。全国の大学病院を回っても原因が分からないまま、状態が悪化しているって。極秘扱いだそうです」
「そうか。分かった」
立花氏の名前は俺も新聞で何度か目にしていた。戦後の日本経済を支えてきた大企業の会長。それだけの人物が、原因不明のまま搬送されてきた。事態はよほど深刻なのだろう。
「病院長が加藤部長を中心に総力戦だと、各科のトップが集められています」
「健康管理センターには声はかかっていないと」
山川は言いにくそうに目を伏せた。俺は小さく頷いた。
「そうか。まあ、当然だな」
「先生、気にしないでください」
「気にするな。俺たちは俺たちの仕事をしよう」
山川が診察室を出ていく。俺は少し考えて、白衣のまま席を立った。一階の中央処置室の脇にVIP用の廊下がある。そこを通れば、搬送された会長の姿が一目だけ見えるはずだった。廊下の角に立ち、俺は目立たないように壁際による。ストレッチャーが押されてくる。立花氏は意識ははっきりしているように見えた。自分の足で椅子に移ろうと、看護師の手を借りて立ち上がる。
その瞬間、俺の視線が止まった。
立ち上がる時に、腰から一気に伸び上がるのではなく、二段階に分けて立っている。右足の踏み込みが浅い。椅子に腰を下ろす時、視線が一瞬天井の方へ流れた。指先が膝の上でわずかに震えている。数字にはならない。検査にも、多分出てこない。それでも俺の中で何かが引っかかった。これはただの疲労じゃない。名だたる大学病院が見落とすほど、症状の出方が奇妙なのだ。
背後から山川の足音が近づいてきた。
「先生、こんなところで何をしてるんですか?」
「山川さん、あの人を、多分みんなが探している場所にはいない」
「え、どういうことですか?」
「ここじゃない。どこか別の場所を見なきゃならない。俺にはまだうまく言えないが」
山川は俺の顔を見た。VIP用の扉が閉まり、立花氏の姿はその向こうへ消えていった。
立花氏が搬送されてから三日が経った。病院の空気は日に日に重くなっていく。大会議室では朝から晩まで診断会議が続けられていた。脳神経内科部長の加藤正雄を筆頭に、各診療科のトップが一人残らず召集されている。俺は健康管理センターでいつも通り受診者を見ていた。それでも廊下ですれ違うスタッフの表情から、会議の状況は伝わってくる。
「先生、また今朝の会議も結論が出なかったそうです。CTもMRIも全部異常なし。血液検査も遺伝子検査まで回したそうですが、何も出てこないと」
「そうか」
「加藤部長、昨日の夜、廊下で怒っていました。こんな症例は見たことがないって」
俺は検査表の束を机に置いた。窓の外は曇り空だ。午後から雨になるだろう。立花氏の容態は少しずつ悪くなっていると聞いている。それでもどの検査にも異常は現れない。専門家たちが束になっても、病名の一つすら挙げられにいる。
昼休み、俺は院内の中庭を歩いていた。偶然、加藤が一人でベンチに座っていた。俺は声をかけずに通り過ぎようとした。
「山田先生、あんたのところは平和でいいな」
いつもの嫌味とは少し違う声だった。疲れが滲んでいる。
「加藤先生、立花会長のこと、大変ですね」
「大変なんてもんじゃないよ。国内の名医が集まって、誰も病名を言えないんだ。現代の未解決問題だ」
加藤は深くため息をついた。
「あの人が亡くなったら、日本経済にも影響が出る。政治家からも問い合わせが来てる。こんな症例、教科書にも載っていない」
俺は何と言えばいいのか、少しの間迷った。
「立花会長の日常の様子は、どなたか聞かれましたか?」
「日常だと?」
「はい。半年前、一年前、どんな風に過ごされていたか」
「そんな悠長な話をしている場合じゃない。今、目の前で症状が進んでいるんだ」
加藤は立ち上がって、俺の横をすり抜けていった。背中がいつもより小さく見えた。
その夕方、俺は用事があると偽ってVIP病棟の廊下を通った。立花氏がリハビリの職員に付き添われて、廊下を歩いていた。俺は柱の影で足を止め、じっと観察した。右足を運ぶ時、つま先がわずかに引っかかっている。振り向く時、首だけが動かず、体ごと回している。椅子から立ち上がる動作は、以前よりさらに二段階に分かれていた。そして、話しかけられた時の目の動き。視線を相手に合わせるのに、一呼吸の間がある。
俺の中で、いくつかの点が線になり始めていた。
翌朝、俺は迷った末に加藤部長の部屋の扉を叩いた。
「なんだ、山田先生」
「立花会長の件で、少しだけお時間いただけませんか?」
「あんたが、なんで立花会長の話をするんだ?」
俺は椅子を勧められないまま、立ったまま話し始めた。
「加藤先生、立花会長は進行性核上性麻痺の可能性があると思います。あるいは、それに近い稀な疾患です」
「なんだって?」
「歩行の時につま先が引っかかる。振り向く時に体ごと回る。視線を合わせるまでの遅れ。それから立ち上がりの二段階動作。どれも垂直方向の眼球運動障害を伴う疾患の初期に見られる特徴です」
「山田先生」
加藤の声が低くなった。
「あんた、健診医だろう。200人並べて血圧を測るのが仕事だろう。何を今更、診断名を口にしているんだ?」
「加藤先生、専門家が揃って分からないものを、健診医が廊下で見ただけで分かるはずがありません。冗談も休み休み言ってくれ」
俺は反論しなかった。反論する権利が、この場にはないことも分かっていた。
「悪いが、忙しい。出ていってくれ」
俺は一礼して部屋を出た。廊下では山川が待っていた。話が聞こえていたらしい。
「先生、大丈夫ですか?」
「予想通りだ。気にするな」
「私、立花会長のお嬢さんに話を聞いてきます」
「山川さん?」
「先生の見立てが正しいなら、確かめる方法はあるはずです。ご家族なら、日常のことをご存知のはずですから」
山川は早足で廊下を歩いていった。
その日の夕方、山川が診察室に戻ってきた。立花氏の長女、立花綾乃と話をしてきたのだという。
「お嬢さん、泣きながらすがる思いでお話しくださいました。半年前から、階段でつまずくことが増えたそうです。それから、テレビを見ていて、下のテロップが読みにくいと言い出したと。あと、感情の起伏が少なくなって、表情が乏しくなったと、ご家族の方も感じていたそうです」
「テロップが読みにくいか」
「はい。眼鏡を変えても変わらなかったそうです」
俺の中で、点が一本の線につながった。垂直方向、特に下方視の障害。嚥下反射の低下。仮面様顔貌。無動。これは確信だ。
「山川さん、ありがとう」
「先生、良かったです」
「もう一度、加藤先生のところに行ってくる」
部長の部屋に向かう廊下で、俺は一度足を止めた。窓の外に夕暮れの空が広がっていた。不意に、若い頃の記憶が蘇ってくる。海の向こう。世界最高峰の診断研究施設の一室だった。恩師の黒崎竜二が、山積みのカルテを机に広げていた。
「山田君、検査データは嘘をつかない」
「はい」
「ただな、検査だけでは人は救えない。患者の人生を見ろ。その人が朝、どんな風に起きて、どんな風に顔を洗って、どんな風に家族と話しているか。それを想像できない医者は、どんなに検査を並べても患者を救えない」
黒崎はそう言って、俺の胸ポケットに一本の万年筆を差した。
「これは私の師匠から譲り受けたものだ。君にやろう。診断に迷った時はこれを握れ。『人を見ろ』と私が言っていると思え」
その万年筆が、今も俺の胸ポケットにある。俺は歩き出した。加藤部長の部屋の扉をもう一度叩く。
「山田先生、どうされました?」
部屋には加藤だけでなく、病院長もいた。
「立花会長に、垂直方向の眼球運動を確認する検査と、脳の中脳被蓋部を詳しく見るMRIの再検査をお願いしたいのです」
「山田先生、あんた、まだそんなことを言ってるのか?」
「加藤先生、私が間違っていたら、二度と診断のことは口にしません。処分もお受けします。それでも、一度だけ確かめてください」
病院長はしばらく黙って俺の顔を見ていた。
「加藤先生、どうだね?」
「馬鹿馬鹿しい。他に選択肢はあるかね?」
加藤は答えられなかった。
「山田先生、理由を簡潔に頼む」
「はい。立花会長のお嬢さんから、半年前からのご様子を伺いました。階段でのつまずき、下方方向の視界の異常。表情の変化。すべて、麻痺の初期症状と一致します。中脳被蓋部の萎縮を確認できれば、診断は確定します」
病院長は加藤を見た。加藤は深く息を吐いた。
「やってみましょう。最後の賭けです」
翌朝、特殊検査の結果が出た。中脳被蓋部にはっきりとした萎縮が出た。俺の診断通りだった。山川が結果を持ってきた時、俺は椅子に腰を下ろしたまま、しばらく動けなかった。胸ポケットの万年筆をそっと握りしめた。黒崎先生、私は人を見ましたか? 窓の外は雨が上がって、朝の光が差し込み始めていた。
診断が確定した朝から、病院は一気に動き出した。進行性核上性麻痺だが、早期であれば症状の進行を抑える治療法がある。それも国内では限られた施設でしか行われていない、特殊な薬剤療法だった。加藤部長はその日のうちに海外の専門機関へ連絡を取った。プライドの高い彼が電話口で頭を下げているのを、看護師の何人かが目撃していたという。
薬剤は翌日の夕方には空輸で届けられた。治療が始まって一週間、立花氏は少しずつ表情を取り戻し始めた。仮面のようだった顔に、わずかな笑みが浮かぶ。リハビリの職員に付き添われながら廊下を歩く距離も伸びていった。俺は健康管理センターで、いつも通り受診者を見ていた。山川だけは、時折VIP病棟の様子を耳にして戻ってくる。
「先生、立花会長、今日は自分でスプーンを持って食事されたそうです」
「そうか。良かったな」
「加藤部長、朝から晩まで、あの病室に張り付いていらっしゃいますよ」
「加藤先生らしい。責任感の強い方だ」
その頃、加藤部長は自分の部屋で一人、何度もカルテを見返していた。CT、MRI、血液検査。自分たちが総力を上げて集めたデータの山だ。その中に答えは書かれていなかった。答えは廊下を歩く立花氏の姿の中にあった。そのすべてを健診医だと見下していた男が、一目で見抜いていた。
加藤は机の上のカルテを閉じた。窓の外をしばらく眺めていた。自分は何を見ていたのだろう。数字を見ていた。画像を見ていた。病名を探していた。だが、患者を見ていなかったのではないか。その問いが、加藤の胸から離れなかった。
治療開始から二週間後の夕方だった。病院長室に加藤が呼ばれた。
「加藤先生。少し、山田先生の話をしましょうか」
「山田先生の話ですか?」
「あなたは彼のことを、どれくらいご存知ですか?」
「健診医だと。それ以外は、正直あまり」
病院長は机の引き出しから古い写真を一枚取り出した。若い頃の俺が、白髪の男性と並んで映っている。
「この方が黒崎竜二先生です。世界最高峰の診断研究施設で、長く所長を務められた方だ。世界中の医師が教えを乞うために海を渡ったと言われている」
「黒崎先生。加藤先生も名前だけはご存知でしょう」
「もちろんです。診断の生ける伝説と言われた方です」
「この黒崎先生が、生涯でただ一人、後継者にしたいと望んだのが、山田悟先生なのです」
加藤の顔が驚きで引きつった。
「山田先生は若い頃、その研究施設で診断医として頭角を表しました。世界中から難病の症例が集まる場所で、次々と診断をつけていった。30歳になる前に、国際的な学会でも名前が知られるようになっていたのです」
「なぜ、そんな人が、うちの健康管理センターに?」
「本人が望んだのです。黒崎先生の教えは、たった一つだったそうです。『病気を治す医者はたくさんいる。だが、病気になる前に人を救うことこそ、医師の本当の使命だ』と。山田先生はその教えを守ると決めた。名声も地位も捨てて、健診の現場に自ら降りていったのです」
「なぜ、それを誰も知らないのですか?」
「山田先生が望まなかったからですよ。過去を語らず、ただ目の前の一人を見る。それが彼の選んだ道です」
加藤はしばらく動けなかった。自分が馬鹿にしてきた男が、世界が知る医師だったのだ。
「病院長、私はとんでもないことを」
「加藤先生、山田先生はあなたに謝ってほしいとは、多分思っていませんよ」
「では、何を?」
「一緒に患者を見てほしいと思っているはずです。それだけです」
加藤は深く頭を下げた。病院長室を出た廊下で、しばらく壁に手をついていた。
立花氏の退院が決まった日、俺は診察室でいつもの午後を過ごしていた。受診者を一人ずつ丁寧に見ていく。歩き方、表情、話し方。夕方近く、診察室の扉が静かにノックされた。山川が扉を開けると、そこに立花綾乃が立っていた。父の付き添いで何度も病院に通っていた、会長の長女だ。その後ろに、加藤部長の姿もあった。
「山田先生、少しだけお時間よろしいでしょうか?」
「立花さん、どうぞお入りください」
綾乃は診察室に入ると、深く頭を下げた。その肩が震えていた。
「父が、今日退院します。歩けるようになりました。話も、少しずつですが、以前のように」
「良かったですね。ご本人の頑張りです」
「先生。全国の大学病院を回っても、どこの先生も父を見てはくださいませんでした。検査の結果ばかりを見て、異常なしと。父がどんな風に階段でつまずいていたか、どんな風に暮らしていたか、誰も聞いてはくださらなかった。先生は父の病気ではなく、父の人生を見てくださいました。半年前の父を想像してくださいました。それが、どれほどありがたいことか」
綾乃は顔を上げた。涙が頬を伝っていた。
「立花さん、頭を上げてください」
「先生にお会いできて、本当に良かった。ありがとうございました」
綾乃はもう一度、深く頭を下げた。その後ろで、加藤が一歩前に出た。
「山田先生。私はあなたに、たくさんの失礼を申し上げてきました」
加藤は深々と頭を下げた。その姿を診察室の隅でじっと見つめていた山川の目に、涙が浮かんでいた。
「私は数字を見ていました。画像を見ていました。病名を探していました。ですが、患者を見ていなかった。健康診断は診療の入り口だと思っていました。ですが、違いましたね。人の未来を守る最前線だった。私はそれを、あなたから教わりました」
「加藤先生、頭を上げてください。私たちは同じ患者を見ている、ただの医者です」
加藤は頭を上げなかった。しばらくの間、診察室には綾乃のすすり泣く声だけが残った。山川が静かに窓の外を見た。夕方の光が、健康管理センターの廊下を柔らかく照らしていた。
翌朝、俺はいつも通り8時前に病院に着いた。白衣に袖を通し、診察室の椅子に腰を下ろす。
「山田先生、本日は246名です」
「分かった。今日も一人ずつ、ゆっくり見ていこう」
最初の受診者が診察室に入ってくる。胸ポケットには、恩師の黒崎竜二から譲り受けた万年筆が、静かに差してある。



