鈍い音と悲鳴が同時に響いた。振り返ると、息子のショ太が頭を押さえて倒れ込んでいた。指の間から血が溢れ出る。
みほさんは手に持ったビール瓶を振り上げたまま、ケラケラと笑っていた。酔った勢いで振り回した瓶が、たまたま隣の部屋から顔を出したショ太の頭を直撃したのだ。
「痛い!痛いよ、ママ!」
ショ太の叫び声で我に返った。私は慌てて息子に駆け寄り、抱きしめた。頭からは血が止めどなく流れている。
「ちょっと、大丈夫?大したことないわよ。極道一家の嫁である私は無敵なの。文句ある?」
みほさんは酔った顔でそう言い放った。私は怒りで体が震えたが、まずは息子の治療が先だと判断した。
「誰か救急車を呼んでください!」
ママ友たちが慌てて119番に電話する中、私は泣き叫ぶショ太を強く抱きしめた。
あの日、すべてが始まった。
私は桜田裕子。28歳の専業主婦で、小学生の一人息子ショ太がいる。最近はPTAの役員を引き受け、忙しい日々を送っていた。学校行事の準備、毎月の会議、様々な委員会活動。子供たちのために頑張る保護者たちと協力し合うのは、やりがいのあることだった。
しかし、その中で常に波風を立てる厄介なママ友が一人いた。みほさんだ。
最初に彼女と出会ったのは、入学式後の保護者会だった。場にそぐわない派手な服装と強い香水の匂い。彼女は静まり返った会場で、大きなバッグから缶ビールを取り出した。
「あら、みんな堅苦しいわね。もっとリラックスしましょうよ」
「ここでお酒を飲むのはちょっと…。後日、保護者だけのランチ会でもやりましょう。その時にみんなで楽しく乾杯しましょう」
私がそう優しく声をかけると、みほさんは不機嫌な顔で言い返した。
「あーあ、やだやだ。こんなつまらない女と同じクラスだなんて」
あまりに失礼な態度に腹が立ったが、他の保護者の手前、ぐっと怒りを飲み込んだ。
それだけではなかった。PTA役員を選ぶ際も、みほさんは非常識な発言を繰り返した。
「私、みんなのためにPTA役員に立候補してあげる。その代わり、学芸会とか運動会の席は最前列を確保してよね。あと、バザーのいい商品は私が一番先に選べるようにしてね」
会場はシーンと静まり返り、誰もが唖然とした表情を浮かべていた。
それ以来、みほさんは常にPTAの雰囲気を乱す存在だった。委員会の仕事を引き受けてもろくに参加せず、他の人に押し付ける。募金活動では集めたお金の使い道について不審な質問を繰り返す。学芸会の記念写真では、自分の息子を写真の真ん中にしてほしいと露骨に要求してきた。
ある日、私は思い切ってみほさんに声をかけた。
「みほさん、PTAの役員になったんだったら、もう少し積極的に参加してくれませんか?他の方々にも迷惑になりますし」
するとみほさんは不敵な笑みを浮かべて言った。
「はあ?あんたが何偉そうに?PTAなんか高が知れてるわ。私には裏の世界の人脈があるのよ。私の夫の家族は、名の知れた極道一家なの。分かった?」
その態度に私は言葉を失った。他のママ友たちは、極道一家の嫁を自称する彼女を恐れて、みほさんを避けるようになっていった。
それでもみほさんの態度が良くなることはなく、むしろどんどんエスカレートしていった。そして、あの悲劇の日を迎えることになる。
それはあるPTAのランチ会のことだった。会場となった学校の多目的室は、和やかな雰囲気に包まれていた。テーブルには色とりどりのお弁当が並び、保護者たちは楽しそうに歓談していた。
「皆さん、お集まりいただきありがとうございます。まず今月のPTAの活動を簡単に報告させていただきます」
私が話し始めると、保護者たちは静かに耳を傾けてくれた。来月の学校行事の準備状況などを説明していると、突然後ろの扉が大きな音を立てて開いた。
「ごめん、遅れちゃった」
派手なワンピース姿のみほさんが、ケラケラと笑いながら入ってきた。
「みほさん、もう始まっていますよ」
私が優しく注意すると、彼女は悪びれた様子もなく開いている席に座った。そして、テーブルの上のビール瓶に手を伸ばし、プシュッと栓を開けた。
「みほさん、まだ活動報告の途中ですので、アルコールはご遠慮ください。この後みんなで一緒に乾杯しましょう」
「えー、なんで?別にいいじゃない。喉がカラカラなの」
みほさんは周りの雰囲気を全く読まずに不満を口にする。他の保護者たちは困惑した表情で顔を見合わせていた。
「もうすぐ終わりますから、それまで飲食はお控えください」
私ができるだけ冷静に言うと、みほさんは大きなため息をついた。
「本当につまんないわね。こんな堅苦しい会合なんて意味あんの?さっさと終わらせてよ。お腹空いた」
周りから小さなざわめきが起こる。ある保護者が勇気を出してみほさんに声をかけた。
「みほさん、これはPTAの会合です。もうちょっと真面目に参加してくれませんか?」
「はあ?何よ、偉そうに。あんた、私が誰だか知ってんの?」
みほさんの声が次第に大きくなり、みんなの表情が困惑から恐怖へと変わっていく。私はなんとか状況を収めようとみほさんに近づいた。
「みほさん、落ち着いてください。みんなで…」
「はあ、もううるさい!」
次の瞬間、予想もしなかった悲劇が起きた。みほさんが手にしていたビール瓶を思いっきり振り上げたのだ。ちょうどその時、隣の部屋で子供たちだけのお疲れ様会をしていたショ太が顔を出した。
「ママ、ジュース…」
みほさんの振り上げたビール瓶が、ショ太の頭を直撃した。
病院での診断結果は、7針縫う大怪我だった。痛みのあまり泣き叫ぶショ太の治療を見守りながら、みほさんへの怒りは頂点に達した。
帰宅後、私は決意を固めて電話の発信ボタンを押した。
「もしもし、みほさん。昨日のことで話があります」
「あんた誰?もしかして桜田さん?何よ、まだグチグチ言うつもり?」
「みほさん、今すぐあなたの旦那さんとそのご家族を連れて、私の家に来てください」
「はあ?何言ってんの?そんな暇ないわよ」
「ゴチャゴチャ言わずにすぐ来てください。大事な話があります」
「ちょっと、あんた何様のつもり?」
「とにかく、きっかり1時間以内に来てください」
みほさんのヒステリーな喚き声を無視して、私はガチャリと電話を切った。
1時間後、ピンポンではなくドンドンと乱暴なノックの音が玄関に響いた。ドアを開けると、そこには怒り狂ったみほさんと彼女の夫、そして義母の姿があった。
みほさんはいつものように派手な柄のワンピースに身を包んでいたが、厚化粧の下には不健康そうな肌が覗いていた。彼女の夫は安物のジャージに首元まで開けた派手な柄のシャツを着ていた。典型的なチンピラ風の男性だ。義母は年齢不相応な若作りで、タイトなスカートとヒールの高い靴で必死に若さをアピールしているようだった。
「何よ、あんた?急に呼び出して」
「はい。俺たちを呼びつけてどういうつもりだ?お前、俺たちが何者か分かってんのか?」
「お待ちしていました。どうぞお入りください」
「ちょっと待ちなさいよ。何が『お待ちしていました』よ。その偉そうな態度。まずは謝りなさいよ」
彼らは怒鳴りながら勝手に玄関に入ってきた。しかし、玄関に一歩足を踏み入れた彼らの顔に動揺が走ったのを、私は見逃さなかった。
磨き上げられた名木の框、高級な絵画が飾られた壁、そして奥に続く廊下には骨董品の壺が優雅に置かれている。
「おい、この玄関…。何よ、この家」
「さあ、こちらへどうぞ」
私は彼らを奥へ案内した。歩きながら生垣越しに手入れの行き届いた日本庭園がちらりと見える。
「ここ、まるでヤクザ映画の親分の家みたいに立派な家だな」
私は彼らを大広間へと導いた。立派な床の間には有名な日本画家が描いた水墨画が飾られ、畳の上には高級な座布団が用意されている。
「まずはお座りください」
純和風の豪邸に度を抜かれたみほさん一家は、辺りをキョロキョロ見回しながら座布団に座った。
「えっと、どんな話だ?」
「まずは事実関係をお話しします」
私は燃える怒りを抑えつつ、できるだけ冷静に昨日の出来事を説明した。
「それがどうしたの?あんたの子供がケガしただけでしょ。避ければよかったじゃない」
「そうだよな。わざと狙って怪我させたわけじゃない。たまたまあんたの息子の頭に当たったってだけだろう。うちの娘が悪いとは思えんな」
「何を言うんですか?うちのショ太は7針も縫う大怪我をしたんですよ!」
「あー、あれね。でもちょっとした事故みたいなもんでしょ。わざとじゃないんだし」
「事故なんかじゃありません。これは傷害事件です」
「はあ?あんたまだそんなこと言ってんの?大体、この私があんたみたいな雑魚を相手にするわけないでしょ。あんた、私が誰だか分かって言ってるの?私は極道一家の嫁なのよ」
みほさんがいつものセリフを言い終わらないうちに、突然部屋の奥の襖がガラッと開いた。
そこに現れたのは、私の父、桜田剛だった。
「あ、お父さん」
父は静かに入室し、座布団に腰を下ろした。その存在感に、みほさんたちは思わず身を縮めた。
「裕子、こいつらか」
「うん、そう。この人がショ太を怪我させたみほさんとその家族よ」
父の目つきが鋭くなった。
「ふむ、お前か。わしの大事な孫を傷つけたのは。どう責任を取るつもりだ?」
みほさんの顔は恐怖に引きつっている。みほさんの夫が冷や汗を流しながら答えた。
「申し訳ございません。何かお詫びの品を…」
「お詫びの品だと?お前ら、命に関わるような大怪我をさせといて、お詫びの品とやらで終わりにしようったのか」
みほさんが口を挟んだ。
「ちょっと待ってよ。命に関わるなんて大げさすぎるわ。そりゃ7針はちょっと大きな怪我だけど、私だってわざとじゃなかったんだし」
父はみほさんの喚き声が聞こえないかのように、目を合わせることもない。そして夫の方に目をやると、鋭く言った。
「ところで、お前たち親子は極道だそうだな。どこの組だ」
夫がおずおずと小声で返答した。
「え、あの…山崎組です」
「はあ、山崎か。あそこは今でも続いていたのか。知ってるよ。あの辺りの露天の取り立てぐらいしかやっていない、小さな組だろう」
そう言われて、2人は顔を真っ赤にして俯いた。
「あなた様は極道をよくご存知のようですが、あなた様も、もしかして…」
小さな声でみほさんの義父が尋ねた。
父は無言のまま静かに右手を上げ、浴衣の袖をまくり上げた。そこには鮮やかな桜の入れ墨が浮かび上がっていた。
義父は思わず息を呑んだ。
「そ、その腕の入れ墨は…まさか…桜田組の…」
「ああ、そうだ。わしが桜田組の組長だ」
父の正体が明かされると、みほさん一家の態度は一変した。先ほどまでの傲岸な態度は影を潜め、今や彼らは震える手で畳に額を擦りつけていた。
みほさんは化粧が涙で崩れ、派手なワンピースにシワを寄せすすり泣きながら言った。
「本当に申し訳ございませんでした。どうかお許しください」
「お願いします。どうかお慈悲を。妻の軽はずみな行動は、私の躾が足りなかったせいです。どうかお許しを」
義父も先ほどまでのチンピラ風の口調を完全に失い、掠れた声で懇願した。
「桜田様、私どもの非をお許しください。どうかお慈悲を」
義母も化粧が涙でにじみ、憔悴した顔をさらしながら言った。
「お孫様の件が本当に申し訳ございません。どうか、どうか私たちを…」
4人は同時に深々と頭を下げ懇願した。しかし父はみほさん一家を見渡すと、冷たい声で言った。
「うるさい。もう遅い。どう償うつもりだ?お前たちは」
「お、落とし前って…。私、本当にわざとやったわけじゃないのに!」
この後に及んでもみほさんはまだ言い訳を口にしている。夫が慌てて妻を嗜めた。
「みほ、お前は黙っていろ」
「どうやら言葉では分からんようだな。お前の根性を叩き直してやる」
そう言うと父は大声で人を呼んだ。
「おい、いるか?」
「はい、ただいま」
入ってきたのは、父が信頼している闇業者の男だった。黒ずくめのイカつい男が部屋に入ってくると、空気が一変した。
「お呼びでしょうか、桜田組長」
「ああ、この家族に特別なローンを組んでやってくれ」
「はい、かしこまりました。どのようなプランにしましょうか?」
「2億円。返済方法は例のあれで」
「承知いたしました。すぐに手配します」
「例のあれって、どういうこと?」
闇金融の男はニヤリと笑いながら口に放った。
「ああ、カニ漁船での労働ですよ。きっかり1年働いてもらいます。命がけの仕事になりますがね」
「そ、そんな。待ってください。どうか考え直していただけませんか?確かに妻は軽率な行動をしましたが、私たちには子供もいるんです。1年も家を開けるなんて…」
「ちょ、ちょっと待って。私にそんなことできるわけないでしょ。私は女なのよ。それに漁師なんて触ったこともないわ。お願いです。私たちの孫のことも考えてください。母親がいなくなったら、あの子はどうなるんです?それに2億円だなんて、私たちには到底払えない金額です。カニ漁以外の方法で何か…例えば分割払いとか、あるいは他の労働で…」
「そうよ!そうだわ!私、こう見えてお掃除とか洗濯とか得意なんです。1年、いえ、2年でも3年でもこちらで働かせていただきます。だから、だからどうぞお願いします!」
「ダメだ。おい、さっさと手続きを進めてくれ」
「はい、少々お待ちを。えっと、それから…ああ、そうだ。もちろん当然の生命保険にも加入していただきますよ。万一の時のために。生きて戻れる人、結構少ないんですよ」
みほさんは顔面蒼白になった。
「では早速サインをしていただきたいのですが…どなたが行きます?」
「おい、どっちが行くかさっさと決めてサインしろ。お前か、それとも夫か?」
夫婦は顔を見合わせ、言葉を失った。
「あんたが行きなさいよ。あんた、極道の男でしょ」
「え?なんで俺が?お前が行けよ。お前が怪我させたんだろ?」
「何言ってんのよ。かい性の私にそんなことさせる気?あんた、それでも極道の男なの?」
「うるさい!」
「お前たちで決められないなら、わしが決めてやる。さっきからギャーギャーうるさい女。お前が行け」
「え?え?そんな…なんで私が?」
「なんでだと?元はと言えば、お前がうちの大事な孫をビール瓶で殴ったからだろう。何か文句があるのか」
「みほ、黙れ」
「黙らないわよ!黙るもんですか!あんたが行けばいいでしょ!私には子供がいるのよ。あの子、私がいなかったら悲しがるに決まってる。あの子はママっ子なんだから!」
「みほさん、子供のことは心配しないで。私たちが責任を持って預かるから」
「そうだよ。みほさん、あの子のことなら心配いらん。お前が夜、飲み歩いてる時、いつも誰が預かってると思ってるんだ」
「い、嫌よ!絶対嫌!」
みほさんは突然立ち上がり、ドアに向かって走り出そうとした。しかし、夫が彼女の腕を掴んで引き戻した。
「おい、やめろ!これ以上事態を悪化させるな」
「離してよ!私は行かないわ!絶対に行かないったら行かないんだから!」
「みほ、お前が行くしかないんだ。私たちにはもう選択肢がない。どうか諦めて行ってきてくれ」
「よし。決まりだな。では契約書にサインをお願いします」
みほさんはついに諦めたのか、震える手で契約書にサインをした。
「ありがとうございます。では明日の朝9時に港に集合してください。そこから直接カニ漁船に乗っていただきます」
「明日⁉」
みほさんは顔を上げ、愕然とした表情で夫を見つめた。
「ちょ、ちょっと待って。いくらなんでも明日なんて無理よ」
夫も慌てた様子で口を開いた。
「そ、そうだよ。あ、いや、そうです。明日は早すぎます。全て準備の時間を…もう少し時間をください」
「そうよ。明日なんて急すぎて、うちの子にゆっくり話すことさえできないわ。お願いします。せめて1週間…いえ、3日でもいいから。この通りです。もう少し…ほんの少しこう…」
2人は必死の形相で私の父を見つめた。その目には恐怖と懇願の色が濃く滲んでいた。しかし父の表情は、冷徹なままだ。
「準備なんぞ必要ないだろ。出発は明日だ」
その一言で、みほさん夫婦の表情から最後の希望の光が消えていった。
「お父さん、これで十分よ。ありがとう」
父は頷くと、みほさん家族に向き直った。
「いいか、お前たち。今回のことはこれで水に流そう。ただし、2度とうちの娘や孫に近づくな。分かったな」
「はい、わかりました」
そう言うと、みほさん家族は脱兎のごとく家を出ていった。
「裕子、これで良かったか?」
「ええ、お父さん、本当にありがとう」
「わしも、お前や孫のことになるとつい熱くなってしまうな」
父は少し照れ臭そうに咳払いをした。その表情には、普段見せない優しさが垣間見えた。
「お前たち家族を守るのが、このわしの仕事だからな」
この後、みほさんは約束通りカニ漁船で働くことになった。あの闇金融の男から聞いた話だが、その生活は想像を絶するものらしい。北の海は常に荒れ狂い、冷たい風が吹き荒れる中で、みほさんは過酷な労働を強いられているそうだ。夜明け前から働き始め、日が暮れるまでの長い時間。網を引き上げ、蟹を選別する作業が続くという。
しかし、意外にというべきか、みほさんは持ち前のパワーと気の強さでカニ漁に順応した。気っ風の良さが漁師たちにも気に入られ、予想外に船場生活を楽しんでいるらしい。
みほさんらしいといえば、みほさんらしい。
夫はというと、あれから夫婦仲が冷え切り、離婚したそうだ。みほさんの子供も祖父母の家に引っ越すため転校したが、結局は施設に預けられたらしい。
みほさんの息子くんには申し訳ない気持ちでいっぱいだ。でも、彼女が反省して優しい心を取り戻して帰ってくることを、私は願っている。施設で頑張っている子供のためにも、そうあってほしいと心から願っている。
一方、私たち家族は平和な日常を取り戻した。PTAの活動はより活発になり、保護者同士の関係も良好になった。ショタの傷も無事に完治し、今では元気に走り回っている。そんな息子の笑顔を見て、私は心から幸せを感じている。
私は今でも時々、あの出来事を思い出す。でも、それは過去のこと。今はこの平和な日々を大切にしていきたいと思う。



