「お前がいなくても会社は回るんだからな」新社長に就任したばかりの弟が、社員たちの見ている前でそう宣言した。45歳で営業部長として会社に尽くしてきた俺への、減給25万固定という宣告。部下たちの困惑したざわめきが遠くに聞こえ、目の前の弟のうら笑いだけが鮮明に見えた。あの日、父の葬儀の日に噛み締めた言葉が脳裏をよぎり、俺は自然と口を開いていた。「やめていいんですね」と。だから、この後起きること、ラ…

「お前がいなくても会社は回るんだからな」新社長に就任したばかりの弟が、社員たちの見ている前でそう宣言した。45歳で営業部長として会社に尽くしてきた俺への、減給25万固定という宣告。部下たちの困惑したざわめきが遠くに聞こえ、目の前の弟のうら笑いだけが鮮明に見えた。あの日、父の葬儀の日に噛み締めた言葉が脳裏をよぎり、俺は自然と口を開いていた。「やめていいんですね」と。だから、この後起きること、ラ...

「お前がいなくても会社は回るんだからな」

新社長に就任した弟が、社員たちの前で無情にそう告げた。部下たちのざわめきが遠くに聞こえ、風景さえも歪んで見える。そんな時、はっきりと頭に響いたのは亡き父の言葉だった。その言葉が、俺を決意させてくれた。

俺の名前は正。45歳だ。父親が経営する広告関連の会社で営業部の部長をしている。ずっと営業一筋で、大口の取引先の信頼を築いてきた実績には自信がある。10年前、売上の3割を占める大口取引先が競合他社に流れかけたことがあった。価格面で競り負けていたのだ。俺は3ヶ月間毎週欠かさず先方に足を運び、価格勝負ではなく、納期トラブル時の即応対応体制と効果測定報告を毎月無償で行う提案に切り替えた。数字の安さより、任せて安心できる相手かどうか。先方の担当部長が定年退職する日には花束を持って挨拶に伺い、こう言われた。「あんたになら、次の担当も安心して引き継げるよ」。契約はずっと続いてきた。営業とは足で信頼を稼ぐ仕事だ。俺は仕事にやりがいを感じ、家庭にも恵まれていた。唯一の悩みは弟の裕二とその母親のことだった。

父と母は再婚で、裕二は母の連れ子だ。俺と血の繋がりがあるのは父のみ。それでも俺は裕二とも母とも仲良く暮らしていきたいと考えていた。「お前なんかいなければよかったのに」。子供心にひどく傷ついた記憶がある。裕二はそう言ってテキ意に溢れた目をした。母も父の見ていないところで俺を邪魔者扱いする。それは大人になった今も続いている。調子に乗るなよと吐き捨て、根も葉もない噂を流されたこともあった。仕事の面で本格的に足を引っ張られたことはない。俺が失敗すれば父のメンツに関わると理解しているからだ。だからこそ、裕二の嫌がらせはいつも子供じみていた。母も同じで、父のいない時を狙っては嫌がらせをしてくる。それでも感情的になれないのは、いつか分かり合えるのではないかと信じたいからだった。

裕二は俺とは違い、熱心に経営を学び、父の教えに耳を傾けていた。俺は営業の仕事の他、得意先や同業の上役との食事会に父に同伴するなど、会社同士の繋がりを重視していた。中でも沢社長という人物とは父が特に気が合っていたようだった。裕二はそういう場はくだらないと言ってあまり顔を出さない。俺は社長の座に興味はないが、父の守ってきた会社を守りたいと考えていた。理想は裕二と手を取り合って会社を盛り上げること。そんな悩みを抱えていたある日、父と2人で話す機会があった。

「お前が俺や会社のことを考えてくれているのはよく分かっている。だけど結局は自分自身の幸せが一番大切だ。俺にとってもな。それを絶対に忘れないでくれ」

その時は深く考えなかったが、今にして思えば父は俺と裕二たちの間の不穏な空気を感じ取っていたのかもしれない。それから2ヶ月後、父は脳梗塞で突然倒れ、帰らぬ人となった。遺言もなかったことから、後継者を決める話し合いは荒れた。結局、母が役員たちを味方につけ、「夫自ら教え、経営を学んできたのは裕二です。正さんは確かに会社を支えてくれましたが、あくまで営業畑の人間」と周りを説き伏せた。俺自身、社長の座に固執はしていなかった。まだ互いに分かり合えないけど、時間をかけて手を取り合えるようになれればいい。今にして思えば、俺は甘かったのかもしれない。

裕二が正式に新社長に就任してからおよそ1ヶ月後のことだ。裕二は就任直後から俺を推してくれた役員たちと衝突を繰り返していたらしい。俺の存在そのものが目の上のたんこぶだったのだろう。その日、俺はいつものように部署で朝礼をしていた。朝礼が終わり席に戻ろうとした時、「社長?どうしてこちらに」という部下の声を皮切りに部署内に動揺が広がる。裕二がこちらに歩いてくる。周りの空気が張り詰めるのが分かった。俺は前に進み出て頭を下げる。「社長、おはようございます」。裕二は鼻を鳴らし、うら笑いを浮かべた。嫌な予感がする。「新社長に就任したばかりでバタバタしていたが、少しずつ落ち着いてきたんでね。今日は社長としてお前に直接、いい知らせを持ってきたんだよ」。「いい知らせですか?」「ああ、そうとも。お前の今後の給料は25万固定だ。歩合給は今後一切認めないからな」

一瞬で頭の中が疑問で埋め尽くされる。俺は今まで部長としての給料の他に歩合給を得て、毎月の平均月収は120万だった。25万。頭の中を娘の塾の月謝、住宅ローン、そして妻の顔が順によぎっていく。これは単なる減給ではない。俺の人生と家族の暮らしを踏みにじる宣告だ。「あの、それは減給通告ということでしょうか?」「まあ、すまん。俺にとってはいい知らせという意味だ。父さんの残した会社で引き続き働けるんだ。それだけでも嬉しいだろう。それとも、やめるか?それもいいな。やめたらいい。お前がいなくても会社は回るんだからな」裕二はそう言って吹き出した。お前なんかいなければよかったのに。お前がいなくても会社は回る。こいつは子供の頃から何ひとつ変わっていない。部下たちの困惑とショックによるざわめきが遠くに聞こえた。目の前のうら笑いを張り付けた裕二の顔だけが鮮明で、他が歪んで見える。

裕二としては、目障りな俺を排除しようとしているのだろう。定額25万を取るならコスト削減になり、なおかつ俺を労働力として酷使できる。俺が会社を去ることを選べば、願ったり叶ったりというわけだ。本来、本人の同意もない一方的な大幅減給が法的に通るはずがない。争えば勝てるだろう。だが、こんな会社に法で縛り付けられてまで残る価値が本当にあるのか?俺が黙り込んだ短い時間に、様々な記憶が浮かんでは消える。「結局は自分自身の幸せが一番大切だ。絶対に忘れないでくれ」。父の言葉が頭の中に大きく響いた。俺は自然と口を開いていた。「やめていいんですね」。そう切り返すと、裕二の眉がぴくりと動く。こうもあっさりやめる方を取るとは思わなかったらしい。怒りや悲しみがないと言えば嘘だ。俺は今まで歩み寄ってきた。それなのに、いつまでもテキ意を向け、差し出した手を振り払ってきたのは紛れもなく裕二自身だ。もう我慢の限界だった。自分の幸せを、妻や子供の幸せを考えたら、自然と答えが出た。「では、引き継ぎなどいたしますので。退職届けもすぐにご用意します」。俺が言うと、「部長、そんな」と部下たちの声が聞こえる。

俺が裕二に背を向けた瞬間、裕二が俺の肩を乱暴に掴んだ。「お前、調子に乗るなよ。ちょっと来い」。裕二に無理やり社長室へ連れて行かれ、2人きりになると俺はため息をついた。「今度は一体何なんだ?みんなの前で減給を言い渡したり、やめればと言ってみたり。母さんの入れ知恵か?」裕二の肩が一瞬揺れた。「登場のつもりか。父さんと血の繋がりのない俺が新社長になって、自分がすんなり身を引くことで俺を悪者にしようって算段なんだろう」「お前がこんな真似をしなければ、俺はそのまま働いてたよ。俺がいなくても会社は回るんだろ。だったらそれでいいじゃないか」。呆れた口調で返すと、裕二はさらに眉を吊り上げる。「お前が、お前がいる限り、俺はずっと偽物の息子なんだ」。この言葉に全てが集約されている気がした。「裕二、お前のそういう感情はひしひしと感じてたよ。俺だってお前と同じ立場なら、そう思っていたかもしれない」「お前のそういうところが大嫌いだったんだ」。裕二は声を張り上げ、そばにあった棚を殴りつけた。「とにかく、お望み通り俺はいなくなる。これでお前は満足だろう。今までありがとうな」。あえて感謝の言葉を添えて社長室を出た。扉を閉めると、苛立たしげな声と何かが割れる大きな音が聞こえてきた。

その夜、俺は妻に全てを話した。妻は静かに聞き終えると、「あなたが決めたなら、私は何も心配していないわ」と言った。その一言がどれだけ心強かったか。俺は改めて自分の決断は間違っていないと確信した。退職届けを出した翌日も、俺は仕事で取引先を訪れていた。引き継ぎなどもあるため、立場上即日退職というわけにはいかない。取引先のロビーから出ようとした時、聞き覚えのある声がした。「正君、器遇だな」。声の主は、長年ライバル関係にある会社の沢社長だった。「仕事などで何度もお会いしていますが、本当に偶然ですね」。「いやあ、なんだか随分ひどい顔してるな。何かあったのかい?」。俺は否定したが、沢社長は「ちょっと付き合ってくれないか。昼食でもどうかな?」と誘ってくれた。近くの店の個室で、沢社長に促されるまま、俺は事情をポツポツと語っていった。

話を聞き終えると、沢社長はしばらく考え込み、やがて静かに口を開いた。「君の親父さんとはなあ、何度殴り合うような競り合いをしたかわからん。だが、あの人は1度も卑怯な手を使わなかった。精々堂々、真っ向勝負だ。俺はいい競争相手を失ったよ」。その言葉に俺は思わず目頭が熱くなった。「月収5倍でどうだろう?契約金としてすぐに払うから、すぐにうちに来てくれないか?他の条件に関しても、今までよりもいい条件を用意するつもりだ」。あまりのことに俺は目を丸くして固まった。「目の前で優秀な人材が身軽になったと言っているんだぞ。今捕まえなくてどうする?君の親父さんもそうだったが、自分の実力を過小評価しすぎだ」。そして沢社長は真剣な顔になり続けた。「とにかく、今すぐお前が欲しいんだよ。うちの力になってくれないか」。父が認め合っていたこの人の力になりたい。俺は沢社長の申し出を受けると決めた。

それから2週間ほど経った頃、引き継ぎもスムーズに進み、もうすぐ正式に退職となる。そんなある日、俺が玄関で靴を脱いでいると、妻が明らかに嫌そうな顔をして言った。「あなた、裕二さんがお見えなんだけど」。居間に行くと、裕二は俺の顔を見るなり声を張り上げた。「取引先から聞いたぞ。よりにもよってライバル社のスカウトを受けるなんて、何を考えてるんだ」。俺は「仕事をやめると知って、声をかけてくれただけだよ」と説明した。「この裏切り者が!父さんに悪いと思わないのかよ」「裏切り?皆の前で理不尽な減給を言い渡して、先に信義を破ったのは一体どっちだ?」。裕二は一瞬言葉に詰まったが、なおも食い下がる。「父さんが憎む相手によくも尻尾を振りやがって」「父さんたちは憎み合ってなんかなかったよ。互いに認め合っていた。俺は食事会に同行していたから、それをよく知っている」。裕二の顔は急速に真っ赤に染まった。「ふ、ふざけるな。父さんのライバルに利益を取られるわけにはいかない」「もう遅いよ、裕二。父さんが言ったんだ。自分の幸せを一番に考えろと。裕二、お前はどうなんだ?お前の行動はお前の幸せに繋がるのか?」。裕二が立ち上がった瞬間、妻の声が割り込んだ。「お話が済んだなら、お引き取りいただけますか?」。「俺は、俺は間違ってない」。裕二は吐き捨てて部屋を出ていく。窓の外、遠ざかる後ろ姿は街灯に照らされて小さく見えた。

その後、俺は予定通り退職し、沢社長の会社へ移った。同じ業界にいる以上、嫌でも裕二の動向は耳に入ってくる。噂では、俺が10年かけて信頼を築いた大口取引先が契約を打ち切ったらしい。長年営業部を支えてきた課長も後を追うように退職したと聞いた。母と裕二によるワンマン経営で、社員たちからの信頼も失いつつあるのだとか。そして母にも報いが訪れていた。経営への口出しが過ぎ、業績悪化の責任を役員たちから厳しく追求されているらしい。かつて母が味方につけた役員たちからも見放され、今や社内に居場所はないと聞いた。母から1度だけ電話があった。「兄なら裕を支えるべきなんじゃないのかしら」。俺は黙って通話を切り、着信拒否した。家も引っ越したので、もう近寄っては来られないだろう。

新しい職場で、俺は水を得た魚のように働いている。沢社長は俺の提案に耳を傾け、正当に評価してくれる。足で信頼を稼ぐ俺の営業は、ここでも確かに通用した。妻と娘との3人で、笑顔の絶えない新生活を送っている。「結局は自分自身の幸せが一番大切だ」。父の言葉を今でも時折思い返す。父さん、俺は今確かに幸せだよ。胸を張ってそう報告できることが、何よりの親孝行なのだと今の俺は信じている。

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