「高卒の落書きなんざ、シュレッダーで十分だろ。」そう言って、新しく来た部長が私の必死の企画書を目の前で細切れにした。よく見れば、それは社長が会社の命運をかけて準備した、たった一枚の原本だった。翌朝、私は黙って紙片を拾い集めながら、彼にこう告げた。「壊すのは一瞬ですね。」部長は鼻で笑った。高卒のお茶汲みの私が何を言うかと。でも、彼は知らない。私が誰の娘で、この会社の心臓部を誰が握っているのかを…

「高卒の落書きなんざ、シュレッダーで十分だろ。」そう言って、新しく来た部長が私の必死の企画書を目の前で細切れにした。よく見れば、それは社長が会社の命運をかけて準備した、たった一枚の原本だった。翌朝、私は黙って紙片を拾い集めながら、彼にこう告げた。「壊すのは一瞬ですね。」部長は鼻で笑った。高卒のお茶汲みの私が何を言うかと。でも、彼は知らない。私が誰の娘で、この会社の心臓部を誰が握っているのかを...

朝6時、実り食品の営業フロアにはまだ誰もいなかった。セ沢美緒は一番乗りで鍵を開け、給湯室のポットに湯を満たし、社員一人ひとりのデスクを布で拭いていく。25歳の彼女は、高校を出てこの会社に入って7年目。製造ラインから営業部へ移って3年になるが、任されている仕事は来客のお茶汲みと雑用だった。決まった担当すら与えられていない。

「ねえ、あの子って結局何の担当なの?」
「さあ、考察なんじゃない?製造上がりって聞いたけど、社長のお気に入りで置いてもらってるだけじゃない?」

そんな陰口は美緒の耳にも届いていた。だが美緒は言い返すこともせず、今日も黙ってライスペーパーを絞った。彼女のデスクの一番下の引き出しには、いつも一冊の古びたノートが入っている。表紙は手垢で黒ずみ、すり切れていた。母が残した手書きの開発ノートだ。

昼休み、美緒はそっとそれを開いた。ずらりと並ぶ配合表。数字の一つ一つに母の指の記憶が宿っている。美緒は目を閉じ、頭の中で味を組み立てた。塩、油、まろやかな酸味、そして隠し味の柚子がほんの一滴。舌の上で母の味がふわりと広がっていく。

「お母さん、今日も一日頑張るね。」

美緒の下には、誰にも言えない宝物が静かに眠っていた。

母の瀬沢和子は、この実り食品で日溜まりドレッシングを生んだ伝説の商品開発者だった。今から30年前、女性が開発の現場に立つことすら珍しかった時代。和子は「女に商品開発なんて無理だ」という声を浴びながらも、来る日も来る日も試作を重ねた。何百本も味見しては捨て、舌がしびれるまで確かめ、ついに一本のドレッシングを完成させた。柚子をほんの一滴だけ忍ばせた、家庭の食卓を明るくする味。「日溜まりみたいな味だね」と当時の社長が名付けたその商品は、発売から25年、実り食品を今も支えるロングセラーになった。

だが和子はその栄光を誇ることもなく、静かに働き続けた。美緒が高校を出たばかりの頃、母は病で呆けるように逝った。最後の夜、和子は痩せた手で美緒の手を握り、あの開発ノートを渡した。

「美緒、お前の舌は宝だよ。人が何と言おうと、その舌だけはお前を裏切らない。」

それが母の遺言になった。美緒は母の味を継ぐと決めた。工場で働きながら独学で味覚を磨き、母のノートを何百回と読み返した。周りには笑われた。高卒が学者の真似かと。それでも美緒はやめなかった。母が宝だと言ってくれたなら、宝にして見せると。

その朝、実り食品の朝礼に見慣れない男が立っていた。仕立てのいい紺のスーツに、手首で光る高級腕時計。本社から事業戦略部長として送り込まれてきた保田誠である。年は46。フロアに漂う社員たちを値踏みするように見回した。

「本社から来た保田です。一つだけ言っておく。私が話を聞くのは数字を出せる人間だけだ。学歴もない。感覚で仕事してるような人と無駄話をする気はない。以上。」

それだけ言うと保田は腕時計に目を落とした。もう朝礼には興味がないという顔だった。その斜め後ろから若い男が喋り始める。

「あー、僕、部長お気に入りのミツです。要するにですね、部長に話しかけていいのはちゃんと結果出してる人だけってこと。現場のおばさんたちは黙って手動かしときゃオッケーって話っす。」

朝礼の後、保田は三ツだけを従えてフロアを歩いた。その足が、お茶を配る美緒の前で止まる。

「あれ誰?」
「ああ、あれっすよ。部長、高卒のお茶汲みの子。製造上がりで何の担当かもよくわかんなくて。まあ、置いてあるだけっす。」
「うん。いる意味あるの?」

目の前で名指しで否定されても、美緒は手を止めない。ただ隣で顔を赤くした宝田の袖を引いた。落ち着けという合図だった。

数日後、会社に大きな波が動き始めた。大手流通グループ、セントラルフーズからの大口受注。看板商品の日溜まりドレッシングを全国のコンビニと海外店舗へ独占供給する、50億円の契約だった。会社の規模からすれば桁が違う。

進捗会議の朝、会議室に社員が集められた。美緒と宝田も並んでいる。プロジェクトマネージャーを任された保田がホワイトボードの前で得意げに横文字を並べていく。説明が一区切りしたところで、美緒がおずおずと手を挙げた。

「あの、部長。この納期だとリニューアル配合の量産が間に合いません。あの味は原料の柚子の状態に合わせて、人の舌で微調整しないと同じ味が出ないんです。」
「はい、ストップ。」

保田が美緒の言葉をぴしゃりと遮った。

「今時、舌で味を決める?それ自体がもう非効率なんだよ。データで詰めろ。データで。高卒の感覚なんかで50億は動かせないの。」

三ツがニヤニヤと口を挟む。

「いや、部長、この子に言っても無駄っすよ。社内じゃお茶汲みで有名なんすから。」

その時、低く通る声が会議室に響いた。

「保田部長。」

扉が開いて、社長の高岡光一が立っていた。穏やかな人だが、その目は笑っていなかった。

「その配合はうちの心臓です。効率だなんだと、そう簡単に切り捨ててもらっては困る。」

社長の一言で、保田の態度が手のひらを返したように変わった。

その夜、フロアには美緒と宝田だけが残っていた。残業で書類整理をしていた二人の元へ、社長の高岡が一人でやってくる。手には分厚い封筒を抱えていた。

「瀬沢さん、新規の契約の資料がようやく書き上がったよ。」

社長は封筒から、びっしりと手書きの文字で埋まった書類を取り出した。

「この中の味と品質の取り決めのところ。数字に無理がないか、あんたに見てもらえないか?」
「私でよければ。私、毎日舌で覚えてる味ですから。」
「あんたの目が一番確かだからね。」

封筒を渡すと、社長は少し声を柔らげた。

「それとね、この契約のまとめ役は保田部長に任せてあるんだ。本社から来たばかりで立場が弱いだろうが、ここらで一つ大きな手柄を立てさせてやりたくてね。明日の朝でいい。頼むよ。」

社長が帰ると、宝田が頬を膨らませた。

「なんであんな部長のためにミオさんが手を貸すんすか?あの人、ミオさんのことをあんなに馬鹿にしたのに。」

美緒は闘志の書類を明かりにかざしながら、静かに言った。

「そんな小さいことにこだわらないの?私たちが向き合ってるのは部長でも手柄でもない。この味が海の向こうで誰かの食卓を明るくする。目指してるのはそっちでしょ。」

封筒の中には、社長が3週間取引先を一件ずつ頭を下げて回り、社運をかけてまとめた、たった一つの原本が収まっていた。

翌朝、美緒は宝田と一緒にデスクに書類を広げ、品質の数字を一つずつ確かめさせていた。

「ここの数字は、現場で味を知ってないと書けないの。社長がそれを私たちに託してくれたんだから。」

二人が顔を寄せていた、その時だった。足音もなく保田がフロアに入ってきた。近頃、効率化のため紙の資料をデータ化しろと社内を回っている最中だ。その視線が、デスクに広げられた手書きの書類で止まる。

「ここでも手書きか。勘弁してよ。」

横からひょいっと書類をつまみ上げ、ひらひらと振ってみせる。

「ねえ、これだよ。これが非効率の元がこの会社をダメにしてんの?いい機会だ。みんなよく見てなよ。」

「あ、部長、それ……」

「こういうのはこうすんだよ。」

保田の口元がニヤリと釣り上がった。

「高卒の落書きなんざ、シュレッダーで十分だろ。」

言うが早いか、保田は書類をシュレッダーの口へ差し込んだ。

「やめてください!それ――」

駆け寄ろうとした美緒の前に、三ツがさっと立ちはだかる。

「おいおい、勝手に騒ぐなって。」

ガリガリと無常な音が鳴った。社長が一字一字書き上げた文字が、細い紙片になって落ちていく。最後の一枚が吸い込まれて、機械が止まった。

我に返った宝田が、悲鳴のような声をあげる。

「なんてこと……それ、50億の契約の原本ですよ。」

「は?」

保田は本気で意味がわからないという顔をした。その顔から音を立てて血の気が引いていく。膝がわずかに揺れた。

「う、嘘だろ?そんな大事なもんをなんでこんなところに――」

保田の目が泳いだ。宝田がすがるように見る。三ツが慌てて言いつくろう。

「そ、そうっすよ。こんな紛らわしい場所に大事なもの置いてた現場が悪いんす。普通、お茶汲みのこのデスクに50億の原本なんか置かないっす。完全に現場の管理ミスっすよ。」

「そ、そうだ。その通りだ。」

保田が飛びついた。

「俺は悪くない。高卒のこの机にある紙なんか、誰がゴミと思わないんだ。大体、俺はプロジェクトマネージャーだぞ。こんな書類の管理なんざ、現場の雑務だ。」

吐き捨てるように言い残すと、保田は逃げるようにフロアを出ていった。三ツがヘラヘラ笑いながら後を追う。後に残ったのは、粉々になったバラバラの切れ端だけだった。

美緒は何も言わない。ただ膝をつき、社長の几帳面な文字の断片を一枚ずつ拾い上げていく。その背中を、宝田はただ見ていることしかできなかった。

書類が裁断されたという知らせは、その日のうちに社長室へ届いた。降りてきた社長の顔を見て、いつもの穏やかさは消えていた。細かな紙の帯を見て、しばらく動けない。

「申し訳ありません。私の預かっていた資料だったのに。」

美緒が頭を下げた。

「あんたが詫びることじゃない。」

社長は切れ端を一つ、指でつまみ上げた。3週間頭を下げて回った日々が、その指の中で乾いた音を立てた。

呼び出された保田は、社長の前で深々と腰を折った。

「社長、本当に申し訳ありません。紛らわしい場所に置いていた現場の管理に問題がございまして――」

「保田部長。」

低い声が言い訳を断ち切った。

「来週の契約は、あの取り決めがなければ成立しない。先方の合意も署名の段取りも、全てあの一枚に集めてあった。分かるか?あの一枚で会社が傾くんだ。」
「でしたら、パソコンで作り直せば――」
「3週間かけて集めたものを、来週までにどうやって作り直すんだ。」

社長はそれ以上何も言わなかった。ただ深い疲れの滲んだ目で、重い足取りでフロアを出ていく。その丸まった背中を、美緒は追いかけた。

「社長、あの取り決めをもう一度、私たちに集め直させてください。」
「瀬沢さん、気持ちはありがたいが、3週間かけたものを来週までに――」
「中身は私が組み直します。品質の数字は私の舌が全部覚えています。頭を下げて回るのは私が行きます。間に合わせます。」

社長はしばらく美緒の顔を見て、深く頷いた。

「そうか。あんたが言うなら、信じるよ。」

その日から、美緒と宝田が走り回った。宝田は取引先を巡って合意を取り直し、美緒は古い連絡先を片手に電話をかけ続けた。

「ご無沙汰しております。実り食品の瀬沢です。」

電話の向こうで相手の声がふっと変わる。

「瀬沢さん?ああ、あなたから直接なんて、お久しぶりです。」

鼻であしらうような態度が、美緒の名前一つで言葉の限らない柔らかさに変わる。宝田にはそれが不思議でならなかった。

美緒が立て直せば立て直すほど、面白くない男がいた。保田である。高卒のお茶汲みと見下してきた女が契約を蘇らせれば、自分の立場がなくなる。追い詰められた保田が選んだのは、詫びることではなかった。現場の手柄をそっくり横取りすることだった。

その夜、人のいない部長室に保田は三ツだけを呼びつけた。

「三ツ、あの契約、今まさに瀬沢たちが立て直してる最中だろう。その成果を、俺の主導で再建したことにすればいい。」
「え、でも、実際に動いてるのは瀬沢さんたちですが――」
「誰が動いたかなんて、本社は知らねーんだよ。報告書を書くのはこの俺だ。現場のミスで消えかけた契約を、私が主導で立て直した。書けば俺は無能から一転、救世主だ。」

その夜のうちに、三ツは本社へ虚偽の中間報告書を送り付けた。ありもしない指示と現場の無能ぶりが、もっともらしく並べられていた。

翌日、電話をかけ続ける美緒の前で、保田はわざと聞こえるように歩み寄った。

「無駄だよ。お茶汲みの子が頭下げたところで、何が変わるんだ。3週間かかった話を、電話一本でひっくり返せるわけないだろう。どうせ失敗する。そしたら現場が勝手に無理しただけって話で終わりさ。」

美緒は受話器を置くと、ゆっくりと保田を見た。怒りではない。底の見えない静けさだった。

「部長、一つだけ言わせてください。壊すのは一瞬でも、人の信用はそんなに安くありません。あなたが今日捨てたものの本当の重みを、そのうち嫌でも知ることになりますよ。」

笑い飛ばそうとした保田は、なぜか最後まで笑いきれなかった。美緒の目の奥に、見たことのない何かが消えずに燃えていたからだ。

3週間後、一度は失われた契約がついに締結の日を迎えた。宝田が回り直した合意は、以前よりも固く結び直されていた。宝田の目の下には濃い隈が残っていたが、その顔はどこか誇らしげだった。

締結を前に、本社の重役も同席する報告会が開かれた。会議室には社長の高岡、顧問弁護士の桐生、役員たち、そして取引先セントラルフーズの仕入れ本部長、柏木までが顔を揃えている。そこへ保田が胸を張って入ってきた。送り付けた中間報告書が本社で高く評価されたと聞き、すっかり救世主気取りである。腰巾着の三ツが手を擦りながら後に続いた。

「いやあ、皆さん、お疲れ様でした。」

保田が横文字を並べ始める。

「現場が一度は失いかけた案件を、プロジェクトマネージャーであるこの私が主導で立て直しまして――」

「保田君、その主導だがね。」

社長が口を挟んだ。

「具体的に君はどの取引先と、何を話したのかな?」
「え、えっと、私は全体を統括する立場として、各方面に方針を徹底させまして――」

その時、取引先の柏木本部長が不思議そうに口を開いた。

「失礼ですが、私、あなたとは一度もお会いしていませんよ。何度も頭を下げに来てくださったのは、瀬沢さんとそちらのお若い方です。うちが署名したのも、瀬沢さんがいる会社だからですから。」

保田の動きがぴたりと止まった。

「あ、あー、もちろん。足を運んだのは彼らですよ。私は彼らを動かした司令塔でしてね。現場の尻を叩くのも立派な仕事でしょう。」

口を挟んだのは、顧問弁護士の桐生だった。

「司令塔ですか?では、その司令塔殿に1つお尋ねします。これはあなたが本社へ送られた中間報告書です。“現場のミスで消えかけた契約を、私が主導で立て直した”とはっきり書いてありますね。」
「そ、それは部下が私の名前で勝手に出したものでして――」

保田はとっさに三ツへ話を振った。だが三ツはさっと目をそらした。

「え、ぼ、僕は書いてませんよ。あれは部長が“これで俺は救世主だ”って自分で送るんだって。僕はただ見てただけで。」

腰巾着はここぞとばかりに主人を踏み台にした。保田が自分の手で報告書を送った事実だけが、その場に残る。

「保田部長。」

桐生が続けた。

「一つだけ教えてください。“ただの現場のミス”だというなら、なぜあなたは本社に“私が立て直した”と事前に報告できたのですか?立て直さなければならないと最初から知っていたからでしょう。あの書類がもうこの世にないと、自分の手で知っていたのだから。」

「違う、そうじゃない――」

言い逃れを重ねるほど、保田は深みにはまっていく。会議室の誰もが冷たい目でその姿を見ていた。

社長がゆっくりと立ち上がった。

「保田君、私はね、君に手柄を立てさせてやりたかったんだ。だからあの書類を自分の手で書いた。その手を君は一行も読まずに決めた。挙げ句、部下の手柄を横取りして、嘘で塗り固めた。」

それでも保田はまだ引き下がらない。

「結果的に契約は取れたわけですし、元を辿れば紛らわしい場所に置いていた高卒の子のミスでして――」

その高卒の子について、桐生が一冊のノートをテーブルに置いた。手垢で黒ずんだ、あの開発ノートだった。

「あなたが横取りしようとした50億の契約。その主力商品、日溜まりドレッシングのリニューアル配合。今、世界の店頭に並ぼうとしているその味を完成させたのが誰だかご存知ですか?」

桐生の視線が、壁際の美緒に向いた。

「瀬沢美緒さん。あなたがお茶汲みと顎で使ってきた、この方です。彼女の舌がなければ、あの味は再現できない。つまり、この契約の商品そのものが、彼女なんですよ。」

保田の顔から血の気が引いた。

「た、ただの高卒が――」

「そしてもう一つ。」

社長が静かに言った。

「その日溜まりドレッシングを30年前に生んだのは、伝説の開発者、瀬沢和子。瀬沢美緒さんのお母さんです。」

その名前を聞いて、保田の瞳がぱちっと開いた。瀬沢和子。記憶を辿った保田の顔が、恐怖に歪んでいく。かつて別の会社で「女に商品開発なんて無理だ」と一人の女性開発者を無理やり潰した男。それが若き日の保田自身だった。

美緒が初めてまっすぐ保田を見た。

「あなたが昔、女に開発は無理だと言って潰した人。私の母です。母が命を削って作った味を、あなたは今日また“高卒の落書き”と言って、シュレッダーにかけたんですよ。」

保田はもう一言も返せなかった。

会議室に、桐生の淡々とした声が響いた。

「保田部長、法的に整理しておきましょう。一つ、社長が社運をかけて用意した契約書類を一行も読まずに破棄した、会社資産の重大な毀損。二つ、その損害を隠すため、部下の成果を自分の手柄と偽り本社へ虚偽の報告を上げた背信。三つ、この会社の心臓である技術の後継者を根拠なく貶め、業務を妨害した。解雇理由として、これ以上のものはありません。」

「解雇だと?訴えますからね。退職金と慰謝料はきっちり――」

桐生は表情一つ変えなかった。

「どうぞ、ご自由に。ただし、解雇に退職金は出ません。そしてあなたが訴えるより先に、会社があなたを訴えます。あなたが決めた書類が間に合わなければ失っていた契約の額は50億。その全額を損害として請求します。50億、払えるのですか?」

がっくりと、保田の膝が落ちた。退職金どころか、一生かかっても返せない数字を背負わされたのだ。崩れ落ちた保田が、すがるように美緒を見た。

「瀬沢さん、あんたが一言許すと言ってくれれば――頼む。この通りだ。」

美緒はゆっくりと立ち、母のノートを胸に抱えた。怒りもせず、勝ち誇りもしない。

「壊すのは一瞬でしたね。でも、ここに書いてあるのは、母が命を削って積み上げたものです。あなたには最後まで一行も読めなかったでしょう。人の重みを学歴や肩書きで測るのは、もうやめなさい。」

その日、契約は無事に締結された。美緒が守り抜いた会社の命綱は、これまで以上に太く、海の向こうへと繋がっていく。連れ出された保田が警備員に促され、会議室を出ていく。その丸めた背中を見送る者は、もう誰一人いなかった。

5年が過ぎた。解雇と虚偽報告の二つの言葉は狭い業界をあっという間に駆け巡り、保田を雇う会社はどこにもなかった。自慢の学歴も肩書きも、もう誰も見向きもしない。50億の賠償は、今も毎月わずかな給料の大半を持っていく。主人を売った三ツもまた「保証で上司を売る男」として業界を追われていった。

ようやく保田を拾ったのは、注文も見積もりも手書きの紙とファックスでやり取りする小さな下請けだった。かつて自分が時代遅れだと鼻で笑ったその世界のど真ん中で、保田は机に向かっていた。

ある日、保田は得意先へ頭を下げに行った。仕入れたい商品の名前を見て、足がすくむ。日溜まりドレッシング、実り食品。壁には額入りの写真が飾ってあった。家庭の食卓を照らす味の伝道師、瀬沢美緒。穏やかに笑う、見覚えのある女性の写真だった。

「手書きの依頼書ですか?うち、こういうの受け付けてないんですよ。効率化のためデータで出し直してもらえます?」

若い担当者が、慇懃に無礼で返す。その言葉もその仕草も、かつて保田自身があの親子にしたものと寸分違わなかった。

美緒は相変わらずだった。新聞に載っても表彰されても、次の朝には一番でフロアの鍵を開けている。変わったのはその隣。かつて隈を作って走り回った宝田は、立派な開発者に育っていた。そして今度はその宝田に、美緒は母のノートを託す。

「次はあなたの番よ。あなたのその舌も、もう立派な宝だから。」

窓の外で朝日が二人のデスクを照らしていた。それが、この目立たない伝道師の、何より幸せな日々だった。

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