三年前のあの夜、俺はある女癖の悪い男を力づくで止めた。それがまさか、業界ナンバー3の大手ハウスメーカーの専務だとは知らずに。
俺は三井、41歳。科学素材や樹脂を扱うメーカーの営業課長だ。開発部の能力が高いおかげで、ウチは安定した売上を記録してきた。そんなある日、部長から呼び出しを受けた。
「三井、ちょっといいか。お前に頼みたい仕事があるんだ。大手ハウスメーカーから、うちが2年前に開発した特許取得の樹脂素材を売ってほしいと依頼が来ている。お前にはその交渉役になってほしい」
その樹脂素材は、建物の壁に使われる従来品と比べて耐熱性が高く、温度変化に強い。エアコンの使用率を大幅に削減できる優れものだ。部長から会社名を聞いた瞬間、俺は思わず眉を寄せた。相手は業界ナンバー3の大手ハウスメーカー。そしてその会社の専務・中村と俺には、少々因縁があった。
出会いは3年前の夜の町。別の取引先との打ち上げで、半ば無理やり綺麗な女性のいる店に連れて行かれた時だ。隣の席で女性スタッフに絡んでいたのが中村だった。明らかに嫌がっている様子を見て、俺は「おい、嫌がってるじゃないか。やめろよ」と中村を力づくで止めた。高校時代はボクシング部に所属し、今も筋トレを続けている俺と、想像以上に非力だった中村では、力の差は歴然だった。
「お、覚えておけよ」と捨て台詞を残して中村は逃走。女性やスタッフには感謝され、同席していた取引先の人にも「よくやった」と褒められた。
しかし1ヶ月後、業界ナンバー3の会社と契約を締結し、納品に伺った際、車内の廊下を歩いていた中村と偶然すれ違った。相手が専務だと知って、これ以降、俺は中村に一方的に虐げられている。顔を合わせれば嫌みを言われ、俺が高卒だと分かると「高卒のバカが売る商品なんて信用できんな」と学歴をネタに馬鹿にされた。相手は専務なので強くは出られず、誰かに相談するのも憚られ、ずっと耐えてきた。部長にも言っていない。
「三井、どうしたんだ?」
「いえ、何でもありません」
3年前に結んだ契約は去年の時点で終わっており、それ以来中村と顔を合わせてはいない。しかし今回の交渉を無事にまとめれば、中村とまた顔を合わせる可能性はあるだろう。それでも、大手企業との繋がりはウチにとって大きい。俺は何としても契約をうまくまとめて見せると決意した。交渉相手は黒沢さんという人で、中村と直接関わることはなさそうだと、ほっと胸を撫で下ろした。
交渉当日。黒沢さんの会社の会議室で顔合わせをする。話を進めていく中で、俺はあることに気づいた。相手の希望する納品数はかなり多い。それならウチの工場で作るより、黒沢さんの会社が地方に所有する巨大な工場で作った方が、時間や手間、搬入費などをカットできる。樹脂の売買より、特許ライセンスの提供の方がお互いにメリットがある。そう提案すると、黒沢さんは即座に承諾してくれた。
「なるほど。確かにそっちの方がお互いメリットがありますね。早速社内で通してみます」
2ヶ月かけて、なんとか最終調整の段階までこぎつけた。契約金額は外産で47億。売買契約と比べればかなりのコストカットができた。
「今日あたりに目処がつくかな」
もはや通い慣れた廊下を歩き、会議室の扉を開けると、そこには意外な人物が座っていた。
「久しぶりだね、三井君」
にこやかに笑っているのは、3年前から俺を虐げている中村。隣にはもう1人、見慣れない人物が座っている。
「ああ、彼は私の部下の朝川部長だ。私と同じ有名大学の出身でね、優秀な人材だよ。体力しか取り柄のないどこかの筋肉バカとは違って」
筋肉バカというのは言わずもがな、俺のことだ。朝川部長は俺に不遠慮な視線を向ける。
「今日はお前と黒沢が進めている樹脂の件で話があって来たんだ。俺1人で話をするつもりだったんだが、専務が直接話をしたいとのことでわざわざ来てくださったんだ」
困惑した様子の黒沢さんが、何の話をするのか聞いていないようだ。嫌な予感がしつつ尋ねると、中村が笑みを深くした。
「黒沢君と進めている契約は、残念だが白紙だ。別の会社の樹脂素材を購入することにした」
「え、ど、どうしてですか?」驚いた声をあげたのは黒沢さんだった。
朝川部長がめんどくさそうな顔をしつつ説明する。「僕と俺の大学時代の後輩が務めている会社から、新しい樹脂を作ったから買って欲しいと言われたんだ。樹脂なんて顧客には見えない部分の素材だし、どれを使っても大差ないだろう。それに、初詮中小企業が開発した特許技術だ。特許を取得したからと言って、必ずしも優れているわけじゃないんだぞ」
「私の後輩が作った樹脂は素晴らしいものだ。高学歴の大学の出身だからね」
3年前には気づかなかったが、どうやら中村は学歴主義でもあるらしい。女癖が悪い上に他人を学歴でしか測れないとは、救いがないなと心の中でため息をついた。
黒沢さんが「三井さんの会社の樹脂は特許を取得しています!」と叫ぶが、俺は頭を下げるしかなかった。
「申し訳ありません、黒沢さん。でも、御社の専務に契約白紙と言われれば、俺はそれに従うしかありません」
「ふん。筋肉バカなくせに引き際は湧きまえているらしい」と朝川部長がニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる。一方、中村は面白くないと言いたげな顔だ。多分、俺を虐めてその反応を見て楽しみたかったのだろう。俺があっさりと引いたため、少々不服なようだ。
「さっさと帰れ」と虫を追い払うように手を振る中村。俺は足早に取引先を後にした。
翌日、会社の自分のデスクに座り、小さくため息をつく。昨日のうちに契約白紙の書面は中村の会社に送ってあった。契約の件は部長にも報告済みだ。その際、中村との確執についても伝えてある。隠したままではいられないと判断したのだ。
「元は早く相談してくれても良かったのに。まあ今回の件は三井のせいじゃない」と部長は慰めてくれたが、もっとうまく立ち回れなかったのかと後悔している。
昼休みに入り、外へ食べに行くため会社の玄関を出る。今日はいつも持ってきている弁当を忘れてしまったのだ。「特許契約は白紙になるし、弁当も忘れてしまった。嫌なことは重なるものだな」と思いながら歩いていると、会社の門の前に高級車が停まった。
降りてきたのは、中村の会社のトップ・石田社長だった。石田社長は率直にメディアに出るタイプで、業界以外の人間も顔を知っている人は多い。おそらく俺に会いに来たのだろうと思い、ハラハラしながら駆け寄った。
「み井さんという方はいるかね?」
「俺が三井です」
そう名乗ると、石田社長は怒りで顔を真っ赤にしながら大声で怒鳴った。
「なぜ47億の特許契約をドタキャンした?!」
「え、昨日、御社の専務に契約を潰されまして白紙になったんです。ドタキャンはしていません」
しばらくの間、俺たちは見つめ合ったまま固まる。
「中村が契約を白紙にしただと? そんな報告は受けてないぞ。あいつは、三井という社員が一方的に契約を白紙にしたと言っていた」
「えっと、昨日の会議を録音したデータがあります。お聞きになりますか?」
交渉や会議の際、俺は録音で記録を残す癖をつけていた。後で聞き直して内容を確認するためだ。昨日の中村と朝川部長の暴言もばっちり記録されている。石田社長の前で再生ボタンを押すと、社長の顔から怒りが一気に消えた。
「これは全部本当のことなのか?」
「はい、全てそのままです」
石田社長は冷や汗をかきながら、俺に何度も頭を下げた。
「す、すまなかった。中村の報告を間に受けて一方的に決めつけてしまって」
「いえ、分かっていただけたならいいんです」
石田社長は続けて、突然俺に激怒してきた理由を明かしてくれた。実は彼の会社は住宅建設の主力事業が不振なのだという。そこでウチの特許技術の樹脂を用いて新規事業を進め、業績回復を図るつもりだった。
「中村が代わりに提示した他社の樹脂は使えない。そもそも質が悪すぎるんだ。三井さん、お願いがあるんだが」
石田社長の言葉に、俺は軽く目を見開いた。
翌日、俺は自分の会社ではなく石田社長の会社にいた。社長の会社で一番大きな会議室。集まっているのは会社の役員クラスの面々。その中には顔面蒼白で脂汗を流している中村専務と朝川部長、そして困惑した様子の黒沢さんの姿があった。
「というわけで、我が社は主力事業の業績不振を受け新規事業の計画を進めていた。そのためには三井さんの会社の樹脂が必要不可欠だ。しかし、中村と朝川部長の独断のせいで契約の危機に陥りかけている」
石田社長の口から全ての事情が明かされ、役員たちは呆れた目で専務と部長を見ている。ここに至るまでに、中村と朝川部長の暴言を証明するために様々な証拠が提示されていた。俺が録音していた音声データ、同席していた黒沢さんの証言、そして俺の証言も含まれている。3年前の夜の店での騒ぎについても報告した。
「前から使えない男だとは思っていたが、女癖も悪いとはな」「初詮のコネ入社か」とひそひそ声が耳に届く。中村はブルブルと震えながら怒りと羞恥で顔を真っ赤にしていた。
「ここまでの大きな問題を起こした人間を会社の重役に置くことはできない。今度の役員会議で中村と朝川の処分を決めていこうと思うが、反対の者はいるか?」
役員たちは誰1人として反対しなかった。昨日、石田社長から頼まれたのは、この緊急会議への同席だった。
「中村を役員から追い出すための公が欲しいんだ。三井さん、協力してもらえないだろうか?」
「それはいいですけど。あ、1つ条件があります。契約を撤回していただけませんか? 我が社としてはこのまま特許のライセンス契約をしたい。47億という条件は魅力的であるし、真面目に仕事に取り組む黒沢さんのことは信頼しているからです。それに大手企業との繋がりも捨てがたい」
「それは俺の方から頼みたいことだ。是非ともこのまま契約していただきたい」
「そうですか。ありがとうございます。では、全面的に協力させていただきますよ」
そして俺は社外の人間ながら緊急会議に参加することになった。中村専務と朝川部長は脂汗を流しながら必死になって弁明する。
「ま、まさかそんな重要な契約だとは知らなかったんです」
中村の言い訳に、黒沢さんが静かに、しかししっかりと反論した。
「どのような契約であろうとも、私情を持ち出すのはダメですよ。その上あなたは専務という責任のある立場にいる。自分の行いがどのような結果につながるのか、よく考えてから行動すべきでしたね」
「黒沢君の言う通りだ」と石田社長が言うと、専務と部長以外の全員が頷く。
「お、俺は専務に巻き込まれただけです」
「一緒になって俺を罵倒してきましたよね。「筋肉バカ」とおっしゃってましたがお忘れですか?」
即座に俺が言い返すと、朝川部長は気まずそうに俯いた。
「ちっ、中小企業のくせに」と中村が呟く。
「あなたは今、日本で働く人の大半を見下したことになりますが、それで務として問題ないとお思いですか?」
容赦ない俺の一言に、中村はグッと言葉に詰まった。
「仕事に私情を持ち出してはならない。あなたは専務という立場にふさわしくない。大人しく処分を受け入れてくださいね」
「くそっ」
中村専務が力なく椅子に座り込む。朝川部長も絶望の顔で床を見つめていた。
石田社長の行動は早かった。1ヶ月後には中村の退職が決定。表向きは専務の自己都合による退職ということになっている。朝川部長は部署異動となった。今回の件は内々にしか公表されていないが、社内で噂となり広まっているらしい。朝川部長は移動先で冷たい目で見られ、居場所がないとのことだ。
「中村もまだ働き盛りの年齢ですが、再就職は難しいでしょうね。事情を知った奥さんは愛想をつかして、離婚を考えているらしいですよ」と黒沢さんからその後の顛末を教えてもらい、俺は苦笑いを浮かべながら答えた。
「少し厳しすぎるバツになりましたね」
「いやいや、足りないくらいですよ。あの2人に嫌な思いをさせられた社員は多いんです。みんな自業自得だって言ってます」
どうやら俺が思っていた以上に、2人は社内でも嫌われていたようだ。仕事を邪魔する人たちはいなくなり、特許のライセンス契約の話し合いも順調に進んでいる。次回、契約書にサインということになった。
「では今後とも末永くよろしくお願いします」
「こちらこそ」
嬉しそうに笑う黒沢さんと硬い握手をかわす。これから忙しくなりそうだと思いながら、俺も笑顔を浮かべた。



