夕食の席で新しい夫と談笑していた私のスマホが、突然けたたましく鳴り響いた。画面に映るのは「岡田千春」—…

夕食の席で新しい夫と談笑していた私のスマホが、突然けたたましく鳴り響いた。画面に映るのは「岡田千春」—...

夕食の席で、新しい夫と穏やかな時間を過ごしていたその時、私のスマートフォンが突然鳴り響いた。画面に表示された名前を見て、私は息を呑んだ。岡田千春。かつての義母だ。元夫と離婚してから、一度も連絡を取っていない相手。なぜ今、こんな時間に?

胸の奥で何かがざわめくのを感じながら通話ボタンを押すと、耳をつんざくような怒鳴り声が飛び込んできた。

「何をやっているんだい!?夫が癌で入院してるってのに、なんで病院に来ないんだ!?冷たい女だね。妻失格だよ!」

あまりの勢いに、思わずスマホを耳から離した。癌?入院?夫?横で心配そうに私の顔を覗き込む今の夫に、大丈夫だと目で合図しながら、私は電話口に向かって静かに告げた。

「お母さん、今私は夫と食事中なのですが。お母さんのおっしゃる“夫”とは、どなたのことですか?」

「はぁ?」

電話の向こうの声が凍りついた。やがて、元義母は混乱したように言葉を紡ぐ。

「ちょっと待って。どういうことだい?息子が、あんたが浮気して遊び歩いてるって…」

その言葉で、ようやく状況の輪郭が見えた。元夫は、義母に離婚の事実を告げていなかったのだ。自分が離婚したことも、慰謝料を踏み倒していることも、キャバ嬢と不倫していた事実も、すべて隠して。

「お母さん、まずお伝えします。私は息子さんと、もう1年以上前に離婚しています」

その瞬間、受話器の向こうで、小さな悲鳴のような息遣いが漏れた。元義母は何も知らされていなかった。そして、この一本の電話が、長く続いたすれ違いと嘘の終わりの始まりだった。

私、メイが岡田洋介と結婚したのは、まだ20代半ばの頃だ。私たち夫婦はしばらくの間、洋介の実家で暮らしていた。地方都市にある広い一軒家で、義母の千春と3人で過ごす日々。義母は大らかで明るく、家の中を絶えず綺麗に保つ几帳面な女性だった。私はそんな義母に気遅れしながらも、家事の手伝いをし、少しずつ仲良くなろうと心がけた。努力のかいあって、私たちの距離は少しずつ縮まっていくように思えた。義母も、私の気持ちを汲んで可愛がってくれた。

しかし同居から数年が経った頃、洋介に東京本社への栄転の話が降りてきた。突然の知らせに、嬉しさと同時に戸惑いを覚えた。お母さんを一人ぼっちにしてしまうわね。故郷を離れることへの後ろめたさがあった。だが洋介は、心配する私をからかうように笑った。

「何言ってんだよ。母さんを年寄り扱いするなって。あの人、俺らより元気だからさ」

確かに義母は背筋が伸びて若々しく、力仕事もこなす。それでも、家が急に静かになる寂しさは容易に想像できた。だが会社の命令だから仕方がない。数週間後、私たちは慌ただしく引っ越しを済ませ、東京での新生活が始まった。

高層ビルの立ち並ぶ街を歩きながら、義母は大丈夫だろうか、寂しがっていないだろうかと考える。しかし日々の生活の中で、そんな思いも次第に薄れていった。東京は華やかで、どこへ行っても人の波で埋め尽くされている。これまで地方で静かに暮らしてきた私には、どこか落ち着かなさを感じる環境だった。

そんな不安をさらに膨らませたのは、夫・洋介の変化だった。東京に来てから、彼の帰宅時間はみるみる遅くなっていく。

「ちょっと残業が続いちゃって」

最初はそう言いながら笑っていた。しかしその後、連日のように帰宅が遅くなる。11時になってもLINEの既読すらつかない。日付が変わる頃、ようやく玄関の鍵が回り、洋介が申し訳なさそうに帰ってきた。

「悪い。今日も遅くなった」

疲れているのだろうと思い、「お疲れ様」とねぎらいの言葉と共に夫を出迎えた。だが洋介は、その後私に声をかけることもなくソファに横になってスマホを弄り始める。私はそっと聞いてみた。

「仕事、そんなに大変なの?」

「ああ、責任も重くなったし、やることが多くてな。まあ仕事だから仕方ないさ」

その後も夫の遅い帰宅は続き、帰りが深夜になることが常態化してしまう。東京には友人も知人もおらず、私も仕事をしているわけではない。夫が帰宅しないと、ずっと一人ぼっち。話し相手がいないのだ。私の孤独感は、思った以上に重かった。

そんな中で私の支えとなったのは、地方に残った義母・千春との定期的な電話だった。

「メイさん、東京には慣れたかい?大都会だから、何かと大変でしょう」

「はい、まだ慣れません。でもお母さんと話すと落ち着きます」

「洋介が仕事で忙しいみたいね。メイさん、もし寂しくなったら、いつでも電話をかけてきていいからね」

豪快で時に厳しいけれど、根は優しい。私にとっては、もう一人の母のような存在だった。この生活はずっと続くと思っていた。しかし私たちの生活は、ある日を境に急激に変化していく。

それは洋介の態度に不自然さが増してきた頃だった。スマホを伏せておくようになり、休日も「仕事の付き合い」と言って外出が増えた。胸騒ぎを覚えた私は、夫の言動の細部を注意深く観察するようになる。帰宅した夫の衣服から、香水の香りを感じる日があった。そしてシャツの襟に、見覚えのないラメがついているではないか。これは化粧品のようなラメだわ。でも私はこんなラメを使ったメイクはしていない。そういえば洋介は、最近急におしゃれに気を使い出したような気がする。疑惑はますます深まった。

そして決定的だったのは、ある夜洗濯物を取り込んでいると、洋介のズボンのポケットからピンク色の小さなレシートが落ちてきたことだ。そこには都心の高級ラウンジの名前と、女性の指名料らしき数字が記されていた。

「何よ、これ?まさか…」

震える指先でレシートを見つめる。真実を確かめたいと思った私は、夫の勤務が終わる頃を見計らい、職場の近くでこっそり張り込みをした。すると夫が会社を出てきた。定時に出てきたわ。今日は仕事が早く終わったのかな。気づかれぬよう尾行を開始すると、夫は若い女性と合流し、共に歩き始めた。女性は甘えるように夫に寄り添っている。あの女性は誰?随分親密な様子ね。その後、洋介は女性と顔を見合わせ、互いに意味ありげに微笑むと手をつなぎ、なんと共にホテルに入っていくではないか。

そんな…まさか。浮気現場を目撃してしまい、動揺のあまり心臓が激しくなったが、私は落ち着くために深呼吸をしてスマホを取り出した。そして2人がホテルに入る瞬間を写真に収める。やっぱり「仕事」なんて嘘だったのね。証拠を掴んだ私の胸には、悲しみよりも怒りが満ちていた。私が一人で寂しい思いをしていたというのに、洋介は仕事のふりをして浮気をしていたのだ。

後日、覚悟が決まった私は洋介を問い詰める。

「これ、どういうこと?」

証拠の写真を並べ、洋介の顔を睨む。彼の言葉を待った。

「いや、これは…」

洋介は最初こそ取り繕おうとしたが、やがて面倒になったように肩を竦めた。

「はっ。田舎出身のおばさんに文句を言われてもなあ」

どうやら開き直ってしまったようだ。

「この写真を撮ったということは、女の顔も見たんだろ。どうだ?美人だっただろう?」

そう言うと洋介は意地悪くニヤニヤと笑った。

「都会の女は可愛いんだよ。お前みたいな田舎出身のおばさんとは大違いだ」

その言葉は私の心を深く抉った。開き直った洋介の態度と、愛人と私を比較して見下すような発言で、私の心は一瞬で彼から離れてしまった。

「離婚しましょう」

涙は出なかった。幸い、私たちに子供はいない。迷う理由はないのだ。

「そうか。じゃあ慰謝料くらい払ってやるよ」

私から解放されて嬉しいと言わんばかりに、洋介は軽く手を振った。その軽薄さが、逆に私の決意を強める。すぐに離婚届を用意し、役所に提出した。こうして2人は離婚したはずだった。

しかし、離婚成立後、約束された慰謝料は一度も私の口座に振り込まれることはなかったのだ。私は元義母の千春を傷つけることを恐れ、自ら離婚の事実を言えずにいた。何度か電話を手にし悩む。しかし、どうしても自分から話す気になれずに諦めた。まあいいか。どうせ洋介が報告するだろうし。そう考えていた。

私の一人暮らしが始まる。離婚後の生活は決して楽ではなかった。だが私は複数のパートを掛け持ちし、少しずつ生活を立て直していく。よかった。やっと生活が安定してきたわ。そんな私に、思いがけない出会いが訪れた。パート先の食堂に、いつも静かに食事をしに来る常連客がいる。彼の名前は富岡高一郎。口数は少ないが、いつも「ごちそうさま」と穏やかに微笑む人だった。

ある日、食堂が閉店して片付けをしていると、高一郎がふと声をかけてきた。

「無理していませんか?顔色が悪そうに見えて、少し心配で」

その一言で、私は胸の奥に張り付いていた緊張がふっと緩んだ。

「心配をかけちゃってすみません。もしかしたら、少し疲れているのかも」

私はそう返し、笑顔を向けた。彼に声をかけられて嬉しかったのも事実だ。それをきっかけに、私たちは言葉を交わすようになった。

「よかったら、今度食事でも一緒にどうですか?メイさんが好きそうなお店があるんですよ」

やがて私たちは食事に行き、自然とデートを重ねるようになる。彼は押し付けがましさのない、誠実さの滲み出る男性だった。そして半年後、高一郎は不器用な仕草で小さな箱を差し出す。箱の中身は指輪だった。

「僕と結婚してください」

「ありがとう。でも…」

私は震える声で、自分がバツイチであることを告白した。すると高一郎は、迷いなく笑った。

「そんなこと、僕には関係ありません。過去がどうであっても、僕はメイさんと一緒にいたい。2人で幸せになりましょう」

その言葉で、私の胸の奥に募っていた孤独や自己嫌悪は、ゆっくりと溶けていった。こうして私たちは結婚した。結婚後の日々は穏やかで、優しい夫と過ごすことにより、充実した毎日を送っていた。

再婚から1年が経った頃、ある日の夕食時、私のスマホが突然鳴った。そこには見覚えのある「岡田千春」の名前。離婚後、私は義母とは一切連絡を取っていなかった。それなのに着信が来たということは、何かあったのだろうか。

「もしもし」

次の瞬間、耳をつんざくような怒声が飛び込んできた。

「何をやっているんだい!?夫が癌で入院してるってのに、なんで病院に来ないんだ!?冷たい女だね。妻失格だよ!」

思わずスマホを握り直した。おっと。まさか。さらに千春の怒りは止まらない。

「あんた、他の男と浮気してるんだってね。信じてたのに、裏切られたよ、メイさん」

義母は混乱しているのか、声は震え、言葉は鋭い。だが私の胸に浮かんだのは、強烈な違和感だった。義母はまだ私と洋介が結婚しているかのような口ぶりだ。まさか、義母は離婚を知らない?洋介が報告していないのではないだろうか。それどころか、私が浮気したと嘘をついたのかもしれない。

私は静かに深呼吸をし、横で心配そうに見守る高一郎に微笑んで見せた。そして元義母にはっきりと言った。

「お母さん、今私は夫と食事中なのですが。お母さんのおっしゃる“夫”とは、どなたのことですか?」

その一言で、元義母は黙り込んだ。電話の向こうからは困惑が感じられた。

「お母さんのおっしゃる“夫”とは、どなたのことですか?」

電話の向こうでは、時が止まったかのようだった。義母の沈黙がしばらく続き、やがて声が途切れ途切れに紡がれる。

「え?どういうことだい、メイさん。あんた今、何を…?」

どうやら動揺している様子だ。癌に苦しむ元夫の洋介を放置した私を責めようとしていた勢いが、すっかり抜けてしまったようだ。

「私はもう、洋介さんの妻ではありません」

穏やかに答えた。

「な、何を言ってるんだい?離婚なんて、私は聞いてないよ」

その声は震えている。やはり洋介は伝えていなかったのだ。私は事実を伝えるべきだと理解した。けれど胸の奥が妙に痛むのは、元義母がかつて自分を娘のように扱ってくれた日々が脳裏をよぎるからだった。しかし覚悟を決める。

「私たちは離婚しました。随分前に」

「嘘だ!洋介はそんなこと一言も言ってなかったよ!」

義母にとっては、寝耳に水のようだ。

「それは、洋介さんが報告しなかったからだと思います」

その一言で、電話越しの空気が変わった。またしても沈黙が流れた。深く、息苦しくなるような沈黙だ。元義母が現実を必死で理解し、整理しようとしている証拠だった。

「メイさん、ちょっと待っておくれ。あんたの電話番号が変わって連絡が取れなくなって、ずっと心配してたんだよ。だけど洋介に聞いても、あの子ってば…」

言葉が尻すぼみになっていく。

「お母さん、本当に知らなかったんだ」

それは胸を締めつけるほど痛い真実だった。元義母は私からの連絡が急に途絶えたことに気づき、何度も息子に問い詰めたという。

「ねえ、どうしてメイさんは電話に出ないんだい?別れたのかい?喧嘩でもしたのかい?何があったのか、私に隠し事をするんじゃないよ」

しかし洋介は、巧みに嘘でごまかしてきたのだ。

「うるさいな。あいつの話はしたくないんだよ。あんな浮気女」

「浮気?メイさんが浮気?まさか」

「俺が浮気しているんだ。こっちは被害者だ。自分たちのことは、母さんには関係ない」

まるで自分が裏切られた被害者だと言わんばかりに、息子は義母を睨みつけ、逆切れを繰り返していたらしい。しかしその度に、元義母はわずかに違和感を覚えた。なぜ洋介はメイさんの話になると、こんなに激しく怒るんだろう。だが血のつながった息子だ。信じたい気持ちが勝ったのだろう。その結果、私は「浮気者の女」という誤ったレッテルを貼られ、元義母から罵倒されることになったのだ。洋介が病に犯されているにも関わらず、嫁であるはずの私は見舞いに来ようとしない。きっと浮気相手と楽しんでおり、見舞いどころではないのだろう。義母はそう誤解していた。全ては、洋介の嘘のせいだった。

「メイさん、あんたの言ってることと洋介の言ってること、どっちが本当なんだい?私にはもう、わからないよ」

元義母の声は、相変わらず震えていた。息子を信じたいのであろう。だが真実はそうではない。迷い、混乱し、すがるような声だった。

そこで私は決心した。

「お母さん、これからとある画像を送ります。ショックを受けないでくださいね」

そう言うと、私はスマホのアルバムを開いた。そこには、洋介とキラキラしたドレスに身を包んだ若いキャバ嬢が寄り添ってホテルに入る様子が、複数枚撮影されている。私がかつて洋介の浮気現場を押さえた写真だ。いかにも今風な派手なメイクの若い女性。その女性の隣で、だらしなく鼻の下を伸ばす洋介。2人で手をつないで夜道を歩く後ろ姿。そして、浮気を問い詰めた際に洋介本人がそれを認める音声も録音されていた。

「今から送ります」

送信ボタンに指をかけたが、ほんの一瞬だけ迷った。かつて義母にお世話になった日々の記憶。こんな義母に、息子の不貞の証拠を送るのだ。しかし、もう真実を隠し通すことはできない。私は決意を固め、証拠データを送信した。

それから数十秒が経過。どうやら義母は画像を確認したらしい。

「そんな…これ、何よ。見るからに悪そうな女じゃないか」

義母の声は、涙で濡れていた。さらに音声データも再生したのだろう。洋介の軽薄な笑い声と浮気を認める言葉が流れた瞬間、義母は低く唸るように言った。

「この声は…洋介だわ。間違いない。私はなんてバカだったんだろうね」

その言葉を聞き、私の胸は痛んだ。恨みではなく、責める気持ちでもない。義母は過去に、自分の夫、つまり洋介の父親の浮気で家庭を壊された苦い経験があった。若い女に走った夫は、義母と洋介を置き去りにして家を出て行ったのだ。その日から義母は、女手一つで息子を育て上げてきた。だからこそ義母は、浮気をする男を心の底から軽蔑していた。どれほど外で評判がよかろうと、どれほど立派に働こうと、家庭を裏切る男に価値などない。それが義母の考えだった。

私は義母が「浮気」という言葉に過剰なほど反応した理由を、ようやく理解した。そして義母は、よりによって自分の息子がその「浮気」をして妻を苦しめる男である事実に、今初めて気づいたのだ。電話越しでも分かるほどに、義母は落ち込んでしまった。

「メイさん、本当にひどいことを言ってしまったね…ごめんよ。私は許されないことをした。息子をあんな馬鹿な男に育ててしまって、その上あんたを罵倒してさ。許してなんて、言えないよ」

私は胸が詰まり、言葉が出なかった。自分が受けた傷よりも、義母が今受けている衝撃の大きさの方が、私には重く感じられる。

義母は泣きながら続けた。

「私は夫の浮気で全てを失った。だから絶対に、あの子は同じことをしないって信じていたんだよ。なのに私は、浮気をするダメ男の味方をして、真っ先に守るべき相手を傷つけたんだ…」

「お母さん、もういいんです。私も連絡できなかったから」

自分を責める義母に、私はどう声をかけてよいのかわからない。

「違うんだよ、メイさん。悪いのは全部、あの子だ。あの子が嘘をついて、あんたを傷つけてしまって…」

義母の嗚咽で、しばらく会話にならなかった。私は黙って耳を傾け、義母が落ち着くのを待つ。やがて、涙を拭うような音の後、義母は震えた声で言った。

「メイさん、私にできることは何でも言っておくれ。償わせてほしい」

その言葉には、ただの罪悪感ではない何かが宿っていた。息子の嘘に踊らされ、嫁を傷つけた悔恨。そして真実を正すために、これから何をすべきかを決める覚悟。

「もう2度と、あの子に好き勝手させるわけにはいかない。あんたにとっても、私にとっても、けじめをつけさせるからね」

その言葉は、私の心に染み渡った。電話の向こうで、私は静かに頷いた。

ちなみに、洋介の浮気相手は「広川綾」というキャバ嬢だ。洋介が人生を狂わせてまで選んだ女。しかしその女は、洋介が入院してからというもの、一度も病室に姿を見せなかった。洋介は入院当初から弱り切っていた。

「なあ、綾。顔を見せてくれよ」

すがるように綾にメッセージを送る。それでも綾は連絡を返さず、電話をかけてもブロックされているような状態だ。

「全く…あいつはどこで何をしているんだか。きっと忙しいんだろうな」

洋介は最初こそ彼女は忙しいだけだと強がっていた。だが日に日にその言葉は力を失い、やがて現実を認めたように黙り込むようになっていく。

そんなある日、私は元義母と共に洋介の病室を訪れた。柔らかい光が差し込む病室には、酸素の流れる機械音がかすかに響いている。ベッドに横たわる洋介は、以前よりも一回り小さくなったように見えた。だが私の姿を見た瞬間、洋介の顔には久しぶりに生気が戻り、笑顔が浮かんだ。

「メイ…本当にメイか…」

弱々しい声だったが、その中にはすがるような必死さが滲んでいた。孤独は人間の心をもろくする。綾に見捨てられた今、洋介にとって唯一の救いは、かつて自分が裏切った妻なのだ。

しかし私は、微笑みさえ浮かべなかった。代わりに淡々とバッグからタブレットを取り出すと、画面を洋介の目の前に差し出した。

「お見舞いのついでに、あなたに真実をお伝えしに来ました」

わざと他人行儀に話す。そこに映し出されたのは、洋介の浮気相手である綾が、別の男性と寄り添い夜の街を歩く姿。次に再生された動画では、2人がマンションに手をつないで入っていった。他にも、共に買い物をする姿や、2人で食事をする姿。2人が同棲している事実を突きつける。

洋介の目が見開かれ、数秒後、信じられないというように震えた。

「う、嘘だろ?この男は誰だ?まさか、綾が俺を置いて…」

「ご覧の通りです。あなたが病気になった途端、彼女は別の男性の元へ行ったのよ」

私の声は日やかで、同調のかけらもなかった。裏切られた痛みを、裏切ったものが味わうのは当然だ。その思いが私を冷静にさせていた。ベッドの上で、洋介は俯き、肩を震わせる。

その姿を、義母は腕を組んで見下ろした。

「洋介、自業自得だね」

厳しい声だ。しかし愛する息子に向ける言葉とは思えない冷たさがあった。浮気をした息子を、義母は静かに攻める。

「お前、メイちゃんとの離婚の時、慰謝料を払う約束をしたよね。どうして一度も払わなかったの?」

洋介はゆっくりと顔を上げた。

「黙っていないで、さっさと答えなさい」

母の威圧に観念したのか、静かに口を開く。

「…金がなかったんだよ」

「金がなかった?あんた、普通に働いてたでしょ」

「都会の女との暮らしには、金がかかるんだよ」

その言葉に、義母は鼻で笑った。

「“都会の女”…あんたをこんな目に合わせたのが、その女かい?」

洋介は黙った。義母はバッグから封筒を取り出し、中の写真をベッドの上に広げる。そこには綾が別の男性と行動を共にする様子が、複数のアングルで映っていた。高級なレストランで共に食事をしている。だが、その会計をしているのは、綾のようだ。別の写真には、有名な温泉宿で2人がくつろぐ様子も写っている。

「その“都会の女”に注ぎ込んだ金はね、その男との生活費に全部使われてたよ。これ、探偵に調べてもらった結果だ。メイちゃんが私と一緒に動いてくれたんだよ」

洋介は言葉を失い、口を開閉させたが、声は出なかった。私は淡々と続ける。

「あなたが払うべきだった慰謝料も、綾という女への貢ぎ物になって消えた。そのお金は、あなたの愛人と、その相手の甲斐性なしの男に使われてしまったのよ」

洋介は震える手でシーツを握りしめ、掠れた声で言った。

「…悪かったよ。反省している」

そして私の顔を見ると、図々しくもこう言ったのだ。

「だからメイ、もう一度俺とやり直してくれないか?」

彼は弱々しく手を伸ばす。顔は涙で濡れ、過去の横柄な態度は見る影もなかった。だが私は、その手を取らずに左手の薬指を見せた。そこには、高一郎から贈られた結婚指輪が輝いている。

「その指輪は…?」

洋介の顔が絶望に染まった。

「私には大事な人がいます。過去に戻るつもりはありません」

それだけ告げると、最後にこう言った。

「それじゃあ、洋介。大事にね」

そして義母に軽く会釈し、病室の扉へ向かう。義母も無言で洋介を睨みつけると、私の後を追い、病室を後にした。その場に残された洋介は、まるで魂が抜けたように脱力し、ベッドに沈み込んだ。

数ヶ月後、洋介は治療に耐え、奇跡的に癌を克服して退院する。しかし退院の日、迎えに来た義母の態度は、以前のような優しさを含んでいなかった。

「洋介、メイちゃんへの慰謝料は全額払わなきゃだめだよ。これは母さんの命令だ」

「なんだよ。病気明けの息子に向かって、鬼バカかよ?」

息子の怒鳴り声にも、義母は微動だにしない。

「鬼バカで結構だけどね。男としての責任は果たしなさい。自分で巻いた種だろう」

洋介は歯ぎしりしながら黙り込んだ。さらに義母は続けた。

「メイちゃんが泣き寝入りしないように、弁護士を立てなさいと伝えておいた。費用は全部、私が出すよ」

「は?おいおい。母さんは息子じゃなくて、メイの味方をするのかよ」

みるみる洋介は不機嫌になる。

「当たり前だろ。嘘をついて裏切られたのは、メイちゃんちゃんなんだから。私は自分の息子だからと言って、あんたのことは信用していない」

洋介は膝の上で拳を握りしめた。それは悔しさか、怒りか、それとも自分自身への絶望か。しかし、もう誰も彼を守らない。自分の責任は、自分で償うしかないのだ。

翌月、洋介は観念したようにカードローンを申し込み、借金を背負って慰謝料の全額を私の口座へ振り込む。義母の厳命と弁護士からの容赦ない督促が効いたのだろう。ほどなくして、義母から丁寧な手紙が届いた。あの日の電話で私を罵倒したこと、洋介の嘘を見抜けなかったことに対する、反省と謝罪だ。私はその手紙を読み終え、静かに息を吐く。義母は誠実に向き合ってくれた。だからこそ、私は義母を許すことにした。

一方の洋介は、仕事に復帰したものの、借金返済に給料のほとんどが消えていく生活だ。職場では、若いキャバ嬢に見捨てられたという噂話を面白がられ、影で嘲笑されているらしい。しかし洋介は借金のため退職もできず、女遊びもできず、ただただ働き続ける毎日だ。その生活を抜け出す道は、どこにもなかった。

一方で、私の心は静かである。高一郎との家庭は穏やかで、笑いが絶えない。もうすぐ、新しい命が誕生する。義母もその知らせに喜び、心から祝福してくれた。かつての傷も裏切りも、全ては通り過ぎた過去のこと。私は今、確かな幸せの中で、新しい未来へ足を進めていくのだった。

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