「もう家族じゃないから、出て行ってもらうよ。」
静かなキッチンに、息子の冷たい声が響いた。手に持っていたコーヒーカップを、思わず置いてしまう。目の前には、息子の達也と、嫁の舞が、まるで他人を見るような目で立っていた。
「お母さん、私の両親が来てるんです。お母さんの部屋、使わせてもらいますね。」
舞の声に、申し訳なさのかけらもない。37年間、必死に育ててきた息子から、こんな言葉を聞くなんて。胸の奥で、何かが静かに、でも確実に壊れていくのを感じた。
「わかったわ。」
私の口元には、微笑みが浮かんでいた。2人が戸惑った表情を見せる。当然だろう。彼らは知らない。私がこの日のために、準備してきたことを。
リビングのドアの向こうから、舞の両親の笑い声が聞こえてくる。まるでこの家の主のような振る舞いだ。私は立ち上がった。
「荷物をまとめるわね。」
その一言に、達也も舞も、あっけにとられた表情を浮かべる。抵抗されると思っていたのだろう。でも、24時間後には、その安堵が恐怖に変わることを、2人はまだ知らない。
私の脳裏に、37年前の記憶が蘇る。夫を事故で亡くしたあの日。まだ1歳だった達也を抱きしめた夜のこと。「この子だけは立派に育てる」と誓った。朝4時に起きて弁当を作り、事務職で必死に働き続けた。教育費だけは、決して惜しまなかった。息子の笑顔が、私の生きる力だった。
5年前、達也が舞を連れてきた時のことを思い出す。「結婚したいんです。でも、頭金が足りなくて…」迷うことなく、貯金600万円を差し出した。息子の幸せが、何より大切だったから。
「お母さん、本当にありがとうございます。大切にします。」
あの時の舞の言葉を、今でも覚えている。でも、いつからだろうか。態度が少しずつ変わっていったのは。
「お母さん、この味噌汁、ちょっと濃すぎません?」
最初は些細な文句から始まった。次第に、私の存在そのものを否定するような言葉が増えていった。
「お母さんも、もう少し身だしなみに気を使ったら? 舞の両親を見習ってよ。」
達也までもが、私を見下すようになった。尽くせば尽くすほど、それが当たり前になり、感謝の気持ちは薄れていく。まるで、無償の使用人のように扱われていた。
同居が始まって半年が過ぎた頃から、舞の要求は露骨にエスカレートしていった。
「お母さん、明日から朝5時に起きて、全員分の朝食と弁当を準備してくださいね。」
「私、仕事があるので。」
週3日のパートを「仕事」と呼ぶ舞に対して、私は37年間フルタイムで働いてきた。それでも、黙って従うしかなかった。朝の食事準備、弁当作り、洗濯、掃除、買い物、夕食準備、後片付け。深夜まで続く家事労働は、月に換算すれば20万円ほどの価値があるはずだ。でも、感謝の言葉は一切ない。
「このお味噌汁、また薄いわね。お母さんって、本当に料理下手なのね。」
心を込めて作った料理も、舞は必ず批判する。達也も、同調するように頷く。
「母さん、もう少し味付け考えてよ。子供たちの教育にも響いてくるんだから。」
息子の言葉に、胸が締め付けられる。あなたが子供の頃、この煮物が大好きだと言っていたのに。
金銭的な搾取も始まった。
「お母さん、年金は全額家計に入れてもらいます。振り込み先をうちの口座に変更してください。」
「でも、少しは手元に…」
「何に使うんですか? 住居費も食費も、全部こちらで出してるのに。」
結局、月18万円の年金は全て彼らの口座へ。小遣いすら渡されず、必要なものがあれば、土下座するように頼む。屈辱的な生活が始まった。
「母さんも養ってもらってるんだから、当然だろ。」
達也の冷たい言葉。私が600万円を出して建てた家で「養ってもらっている」という矛盾。さらにひどいのは、孫との接触まで制限されたことだ。
「おばあちゃんには近づかないで。」
5歳の孫が私に駆け寄ろうとすると、舞は慌てて引き離す。「お母さんと遊ぶと、変な癖がつくから。」同じ家にいるのに、孫を抱くことも、一緒に遊ぶことも禁じられた。
「おばあちゃん、なんで一緒にご飯食べないの?」
「おばあちゃんは汚いから、雪と一緒に食べられないのよ。」
舞がそう吹き込むと、純真な孫は信じてしまう。
「おばあちゃん、臭い。」
その言葉に、心がちぎれそうになった。3年間、毎日のように世話をしてきた孫からの言葉。舞の高笑いが、今でも耳に残っている。
ある日、私が風邪で寝込んだ時のことだ。39度の熱でふらつきながら、それでも洗濯物を干していると、舞がソファーでスマートフォンをいじりながら言った。
「あら、動作が遅いわね。認知症じゃないの?」
「舞、それは言いすぎだよ。」
達也が口を挟んだが、その声に心配の色はない。
「でも、最近同じ話を繰り返すし。母さん、病院行った方がいいんじゃない?」
私は認知症なんかじゃない。ただ、家族と話したくて、同じ話題を出してしまっただけなのに。
洗濯物も、別にされるようになった。
「お母さんの下着と一緒に洗うの、ちょっと… 汚いものは別にしないとね。」
食事の席でも、屈辱は続く。
「お母さん、箸の持ち方おかしくない? 食べ方が汚いのよね。」
「母さん、もう少し上品に食べてよ。」
37年間、休む間もなく働いてきた手は、確かに荒れている。でも、それは息子を育てるために頑張ってきた証だったのに。
私物の管理も制限された。
「お母さんの荷物、多すぎるから処分してください。大切な思い出の品々が、ゴミと呼ばれ、次々と捨てられそうになる。」
「これからは、私たち家族の明るい写真だけ飾りましょう。」
私は、写真に映ることすら許されなくなった。
夜、質素な食事を一人で取っていると、廊下から舞の電話の声が聞こえてくる。
「うちの姑? ああ、本当にお荷物よ。目障りだし、邪魔なのよね。早く施設にでも入ってくれればいいのに。」
「お荷物」。その言葉が、私の心に深く突き刺さる。でも、不思議なことに、怒りよりも、ある種の確信が湧いてきた。そろそろ、あの切り札を使う時が来たのかもしれない。
運命の日は、舞の両親が訪問してきた土曜日の朝だった。玄関のチャイムが鳴り、舞が満面の笑顔で両親を迎え入れる。
「お父様、お母様。いらっしゃい。お待ちしておりました。」
普段見せたことのない愛想の良い顔で、荷物を運んでいる。
「いやあ、立派な家だね。これなら老後も安心だ。」
舞の父親が、感心したように見回していた。リビングに案内された舞の両親は、まるで王様のようにソファーの真ん中に座る。私は台所の隅で、朝から準備していた豪華な料理を運ぶ準備をしていた。
「お母さん、お茶をお願いします。最高級の玉露でお願いしますね。」
舞の指示で、私は高級茶葉を使ってお茶を入れる。その茶葉は、私が自分のわずかな小遣いから買ったものだった。
「お母様、これ、京都の高級和菓子です。お父様には、あの30年ものウイスキーを。」
「まあ、こんな高いものいいんです。だって、本当の家族ですから。」
本当の家族。その言葉を聞いて、私の心に鋭い痛みが走る。では、私は偽物の家族だというのだろうか。
豪華な昼食が始まった。伊勢海老、松茸ご飯、高級和牛。材料費だけで5万円を超える食事だ。
「素晴らしい料理ね。舞は、本当に料理上手。」
「実は…お母さんが作ったんです。」
舞が小声で答えると、両親の表情が一瞬曇る。
「へえ。まあまあの味ね。」
朝から準備した料理への評価が、それだった。
「ところで、おばあさんは、どちらで?」
舞の母親が、私を探すような素振りを見せる。
「あ、その人は台所で食べてます。一緒に食べると、雰囲気がね。」
私は台所の片隅で、冷めた残り物を立ったまま食べていた。同じ屋根の下にいながら、まるで下働きの使用人のような扱いだ。
食事が一段落すると、達也が立ち上がった。
「実は、今日、大切な話があってお集まりいただきました。」
リビングに呼ばれた私は、嫌な予感を感じながら席に着く。いや、座ることすら許されず、立たされたままでした。
「お父様、お母様も高齢になってきましたし、一人暮らしは心配だと、舞と話し合いました。」
達也の言葉に、舞の両親が嬉しそうに顔を見合わせる。
「それで、この家で一緒に暮らしていただくことにしたんです。」
私の心臓が止まりそうになった。この家は、そんなに広くない。
「でも、部屋が…」
言いかけた私を、達也が冷たい目で見つめる。
「母さん。だから、今日から出て行ってもらうよ。」
まさか。実の母親を追い出して、嫁の両親を住ませるなんて。
「何を言っているの? 私はあなたの母親よ。」
声が震えていた。しかし、息子の表情は変わらない。
「母さん、正直に言うよ。舞の両親は、品もある。それに、財産もしっかり持っている。母さんとは違うんだ。」
息子の言葉は、私の心を深くえぐった。
「そうよ、お母さん。」
舞が勝ち誇ったような顔で続ける。
「私の両親は、月30万円は援助してくれるって言ってるんです。お母さんみたいに、年金だけでカツカツの生活してる人とは違うんです。」
「でも、この家は私が600万円を…」
「もういいだろ、母さん。」
達也が私の言葉を遮る。
「あの金は、母さんが好きで出したんじゃないか。俺たちが頼んだわけじゃない。」
好きで出した? 息子の幸せを願って出したお金を、そんな風に言われるなんて。
舞の母親が、私を上から下まで見つめて言った。
「あなた、確か清掃員でしたっけ? 37年間も。まあ、お勤めご苦労様でしたね。」
見下すような口調に、プライドがズタズタになる。
「うちの娘には、もっとちゃんとした家の方と結婚して欲しかったんですけどね。」
舞の父親まで、私の息子を侮辱する。
「お父様、達也さんは今、ちゃんと働いてますから。」
「母さんの教育が悪かったんだろうね。もっとちゃんとした大学に行けていれば。」
息子までもが、私のせいにする。必死に働いて、教育費を捻出してきたのに。
そして、達也が決定的な言葉を口にした。
「母さん。はっきり言うよ。もう、母さんは家族じゃないんだ。」
家族じゃない。その言葉が、部屋中に響き渡る。
「俺たちにとって、母さんはもう外の人なんだよ。舞の両親こそが、本当の家族なんだ。」
外の人。37年間、ために生きてきた私が、外の人。
「明日の朝10時までに出て行ってくれ。荷物は最小限にして、家具は全部置いていけ。」
舞が付け加える。
「お母さんの部屋、私の両親が使いますから。綺麗に掃除しておいてくださいね。」
もう、息子でも嫁でもない。私を完全に他人として扱う2人の姿が、そこにあった。でも、不思議なことに、私の心は妙に落ち着いていた。むしろ、ある種の解放感すら感じていた。
「わかったわ。明日の朝には出ていきます。」
私は静かに微笑んだ。
「でも、後悔しないでくださいね。」
その言葉に、一瞬、達也と舞の表情が曇ったが、すぐに安堵の色に変わる。
「後悔? するわけないだろ。母さんに何ができるって言うんだ。」
達也の嘲笑が響く中、私は静かにリビングを後にした。
部屋に戻ると、古い金庫をそっと開ける。37年前、この家の土地を購入した時の権利書。そして、誰も知らない、私の本当の財産。
「さあ、始めましょうか。」
窓の外では、舞の家族が楽しそうに笑い合っている。でも、24時間後、その笑顔が恐怖に変わることを、彼らはまだ知らない。
夜10時。家中が静まり返った頃、私は静かに金庫の鍵を開けた。古い金庫のダイヤルを回す。37年前のあの日、夫が残してくれた小さな財産で購入した、この土地の権利書。
「しずか、万一の時は、これがお前と息子を守ってくれるから。」
夫の遺言通り、私は市の中心部の土地を300万円で購入した。当時は誰も見向きもしなかった場所だ。でも、今は違う。再開発が進み、評価額は8000万円を超えている。
そして、もう1枚の書類。これこそが、私の本当の切り札だった。37年間務めた会社の企業年金。通常の年金とは別に、月額45万円が私の口座に振り込まれている。達也も舞も、この存在を知らない。私の口座は、急逝のまま、別の銀行に解説してあるんだ。
さらに、長年コツコツと積み立ててきた投資信託。元本1000万円が、今では2800万円にまで膨らんでいる。夫の生命保険金3000万円も、一切手をつけずに運用を続けてきた。
「お荷物だなんて、とんでもない。私こそが、この家の本当の所有者なのよ。」
書類を確認しながら、私は冷静さを保つ。これは、長年準備してきた計画の実行なのですから。
翌朝5時。私は家を出た。誰もまだ起きていない。朝の冷たい空気が、私の決意をさらに固くする。
高層ビルの30階。長年お世話になっている弁護士事務所の扉を開ける。
「中村さん、お待ちしておりました。」
佐藤弁護士は、長い付き合いだ。この日のために、密かに準備を進めてきた共犯者でもある。
「書類は全て整っています。土地の所有権は中村様。建物の使用権も同様です。住宅ローンの保証人である点も確認済みです。息子さんが滞納すれば、即座に退去命令が出せます。」
佐藤弁護士の説明を聞きながら、私は頷く。
「加えて、こちらの書類もご覧ください。息子さん名義の建物ですが、土地は完全にあなたの所有です。使用貸借の契約も一切交わしていない以上、使用契約の解除が可能です。」
法律は、正しく使えば最強の武器になる。37年間、私はずっとそれを学んできたのです。
「それでは、この書類に署名をお願いします。」
ペンを走らせる音だけが、部屋に響く。
「明日の午前10時、郵便局の配達証明付きで送ります。同時に、裁判所への申し立ても行います。」
「ありがとうございます。」
長い間、準備してきた甲斐がありました。
事務所を出ると、次に向かったのは不動産会社だった。
「中村様、お待ちしておりました。ご契約いただく物件は、都心の高級マンションです。3LDK、南向きの明るい部屋。眼下には街並みが一望できます。こちらは、月額18万円で、敷金は不要です。今日からでもお入りいただけます。」
私の年金18万円。実は、これも嘘ではない。企業年金とは別に、国民年金も受け取っているんです。つまり、企業年金45万円は、全て自由に使えるお金なのです。
「では、契約をお願いします。」
全ての手続きを終えて家に戻ったのは、夕方だった。リビングでは、舞の家族が豪華な夕食を囲んでいる。私の姿を見ても、誰も声をかけない。それどころか、邪魔物を見るような目つきだ。
自室に戻り、身支度を始める。本当に大切なものだけを、小さなスーツケースに詰めていく。夫の写真、達也の幼い頃の写真。そして、37年間の証拠書類。通帳、契約書、領収書の束。全部、記録してきたのよ。息子への教育費(総額100万円)、頭金として渡した600万円、日々の家事労働の詳細な記録。全て、日記と領収書で証明できる。
午後5時。全ての準備が整った。机の上に、一通の手紙を置く。
「達也へ。明日の朝には出ていきます。24時間後を、楽しみにしていてください。母より」
短い文章だが、これで十分だ。謎めいた言葉を残すことで、彼らは不安になるだろう。
窓の外を見ると、リビングではまだ舞の家族が笑い声をあげている。本当の家族ね。私も、静かに微笑んだ。でも、この微笑みの意味を、彼らが理解するのは明日だ。
布団に横になりながら、私は心の中で静かに言った。さようなら、息子。そして、おかえりなさい。私。息子のためだけに生きてきた人生。明日からは、私のための人生が始まる。もう、誰にも遠慮しない。自分の幸せを追求していくのです。
深夜0時を過ぎた頃、私はぐっすりと眠りに着いた。明日、全てが変わる。復讐ではない。これは、正当な権利の行使なのです。
翌朝、午前6時。私は目を覚ましたが、今朝は何も作らない。7時になると、リビングから舞の声が聞こえてきた。
「お母さん、朝ご飯、まだなの?」
でも、私は答えない。スーツケースを持って、玄関へ向かう。
「あら、本当に出ていくのね。」
舞が勝ち誇ったような顔で見送る。達也も、罪悪感のかけらもない表情で立っている。
「母さん、これからどうするの? まさか、ホームレスにでもなるつもり?」
私は静かに微笑むだけだ。
「心配しなくていいわ。むしろ、あなたたちの心配をした方がいいかもしれないわね。」
「はあ? 何言ってんの? 母さん。」
「すぐに分かるわ。楽しみにしていてね。」
タクシーに乗り込み、振り返ることなく新しい住まいへ向かう。都心の高級マンション。窓から見える景色は、あの家とは比べ物にならない。
「ここが、私の新しい人生の始まりね。」
荷物を置いて、時計を見る。午前9時45分。あと15分で、運命の時間です。
一方、その頃の息子の家では。
「やっと出ていったわね。これで私たちの幸せな生活が始まるわ。」
舞が嬉しそうに両親と談笑している。
「娘よ。よくやった。あんな貧乏臭い姑とは、もうおさらばだ。」
舞の父親も、満足そうに笑う。
「達也さん、これから私たちがしっかり援助しますからね。」
「ありがとうございます、お父さん。」
達也は、得意げな表情だ。朝食を作る人がいないことにも気づかず、コンビニのおにぎりを食べている。
午前10時。玄関のチャイムが鳴った。
「はい、どちら様ですか?」
達也が玄関を開けると、そこには郵便局員が立っている。
「中村達也様ですね。配達証明付きの書留郵便です。こちらにサインをお願いします。」
配達証明? なんだ、これ?
不審に思いながらも、達也は受け取る。差出人は、佐藤法律事務所。
「なんだよ、これ。母さん、何か変なことしたのか?」
封筒を開けた瞬間、達也の顔色が一変した。
「ちょ、ちょっと待って。これって…」
書類には、大きく「建物明け渡し請求通知書」と書かれている。
「舞、ちょっと来て! 大変なことになった!」
慌てた様子の達也に、舞も駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
「母さんが、この家の土地の所有者だって。」
「え? 何言ってるの? この家は、あなた名義でしょう。」
「建物は俺の名義だけど、土地は母さんのものだって書いてある。」
書類を読み進める2人の表情が、どんどん青ざめていく。
「使用貸借の契約もなく使用していたところ、所有者である中村しずかの意思により本件を解除する。ついては、30日以内に建物を取り壊し、土地を明け渡すこと。」
「取り壊し? そんな馬鹿な!」
達也が叫ぶ。
「さらに、過去5年間の使用相当額として、月額30万円、総額1800万円の支払いを請求する。」
「1800万円? そんな金、あるわけないだろ!」
舞の両親も、書類を覗き込んでいる。
「達也さん、これは本物の法律事務所からの通知ですよ。無視できません。」
舞の父親の声が震えている。
「そんな… お母さんに、そんな知恵があるはずない。誰かに騙されてるのよ!」
舞が否定しようとするが、書類には不動産登記簿も添付されている。37年前、中村しずか名義で購入された土地。現在の評価額、8000万円という記載も。
「8000万円? 嘘でしょ? あの母さんが…」
「いや、これは本物だ。」
感慨に襲われた達也が、震える手でさらに書類をめくる。そこには、私が長年記録してきた全ての証拠が添付されていた。教育費(総額100万円)の領収書。頭金600万円の振り込み明細。毎日の家事労働を記録した日記。月額に換算して20万円相当の労働を5年間。総額、実に1200万円。
「これって、母さんが全部記録してたのか?」
1つ1つの領収書、1日1日の日記。全てに日付が入り、金額が明記されている。逃れようのない事実の積み重ねだ。
さらに、衝撃的な書類が続く。企業年金受給資格証明書。月額45万円。
「お母さん、そんなにもらってたの?」
舞が絶句する。自分たちが管理していたのは、国民年金の月18万円だけ。本当の収入は、その3倍以上あったのだ。
投資信託残高証明書、2800万円。生命保険金運用実績、3000万円。次々と明らかになる、母親の本当の資産。総額、優に1億円を超えている。
「バカな… あの母さんが… お荷物だと思ってたのに…」
達也が床に崩れ落ちる。自分たちが見下していた母親が、実は圧倒的な資産家だったという現実。
「こんなにお金があったなんて… 私たち、何をしてたの?」
舞も、青ざめた顔でつぶやく。そして、最後の書類。それは、私からの手紙だった。
「達也へ。あなたは私を『家族じゃない』と言いましたね。その言葉を、そのままお返しします。この土地は、あなたのお父さんが私と息子を守るために残してくれたものです。でも、あなたはその父親の思いも、私の献身も、全て踏みにじりました。教育費(総額100万円)、頭金600万円、5年間の無償労働(総額1200万円)。それに土地の使用料1800万円を加えれば、総額3700万円。これが、あなたが私に返すべき金額です。もちろん、そんな大金は用意できないでしょう。だから、せめて私の土地から出て行ってください。外の人には、この土地を使う権利はありませんから。本当の家族を、大切にしてくださいね。 中村しずか」
手紙を読み終えた達也は、完全に言葉を失った。母親の静かな怒り。そして、計算し尽くされた復讐。全てが、完璧に準備されていたのです。
「達也さん、どうするの? 3700万円なんて、とても…」
舞の声も震えている。
「お父さん、助けてください!」
舞が父親にすがりつくが、父親は冷たく手を振り払う。
「冗談じゃない。私たちは関係ない。娘がお世話になるはずだったのに、こんな騙され方をするなんて。」
「お父様!」
「もう帰るぞ。こんな家にいられるか。まさか、土地も持ってない家だったなんて。私たちまで巻き込まれたら、たまらない。」
舞の両親まで、立ち去ろうとする。
「待ってください! 援助してくれるって… 月30万円、援助してくれるって言ったじゃないですか!」
「あれは、ちゃんとした家だと思ったからだ。借り物の土地に建てた家なんかに、金は出せない。」
「お母様!」
「娘よ。悪いことは言わない。この家族とは縁を切りなさい。まともな男性を見つけて、やり直すのよ。」
舞の両親は、容赦なく出て行ってしまった。たった数時間前まで笑い合っていた人たちが、あっという間に去っていく。残されたのは、達也と舞。そして、厳然たる現実だけ。
「どうしよう… 本当にどうしよう…」
舞が泣き崩れる。
「母さんに、電話してみる。」
震える手でスマートフォンを取り出した達也。しかし、私の番号は、すでに着信拒否に設定されている。
その頃、私は新しいマンションのバルコニーで、優雅にコーヒーを飲んでいた。
「本当の家族ね。今頃、どんな顔をしているかしら?」
都心の景色を眺めながら、私は心からの自由を感じていた。もう、誰かのために生きる必要はない。これからは、私自身のための人生です。
それから1ヶ月が経ちました。私の新しい生活は、想像以上に充実したものになっています。毎朝7時に目覚めて、バルコニーで朝日を浴びながらコーヒーを飲む。誰かのために早起きする必要も、感謝されない家事をする必要もありません。
「おはようございます、中村さん。」
隣の部屋の奥様が、優しく挨拶をしてくれる。この辺りには、品のある方ばかりが住んでいる。
「今日は、書道教室の日ですね。」
「そうなんです。37年間封印していた趣味を、ようやく再開することができました。」
週に3回、近所の文化センターで書道を教えている。
「先生のお手本、本当に美しいわ。私も先生みたいになりたいです。」
生徒さんたちの笑顔が、私の新しい生きがいになっている。午後は、友人たちとのランチ。37年間、自分のための時間なんてなかった。でも、今は好きな時に、好きな人と会える自由がある。
「しずかさん、本当に綺麗になったわね。」
「ええ、もう誰かに気を使う必要がないから。」
笑い合いながら、高級レストランでゆっくりと食事を楽しむ。月45万円の企業年金があれば、こんな贅沢も気兼ねなくできるのです。
夕方、マンションに戻ると管理人さんが声をかけてきた。
「中村様、また若い男性が訪ねてきましたが、お断りしておきました。」
「ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします。」
達也だ。毎週のように訪ねてくるが、一度も会っていない。オートロックのエントランスで、毎回断られているようだ。部屋に戻ると、留守番電話に50件以上のメッセージが入っている。全て、達也と舞からだ。
「母さん、お願いだから、話を聞いて。」
「お母さん、私が悪かったです。どうか、許してください。」
でも、私は1つも聞かない。削除ボタンを押すだけだ。
弁護士の佐藤先生から、定期的に報告が届く。
「中村さん、息子さん夫婦は、現在月6万円のアパートに住んでいるようです。建物の解体費用が捻出できず、土地の明け渡しも遅れています。」
「そうですか。法的手続きは、粛々と進めてください。」
「承知しました。また、息子さんの勤務先への給与差し押さえの手続きも開始しています。」
冷たいようだが、これは正当な権利の行使です。私は、何も間違ったことはしていない。
ある日、弁護士事務所から連絡があった。
「中村さん、息子さんご夫婦が直接面会を希望していますが、いかがなさいますか?」
「お断りします。話すことは、何もありません。」
「かしこまりました。そのようにお伝えします。」
でも、数日後。偶然にも、達也と舞に出会ってしまったのです。デパートの入り口で、まさかの遭遇だった。
「お母さん!」
達也が駆け寄ってくる。以前とは比べものにならないほど、やつれた姿になっていた。
「お母さん、お願いです。もう一度だけ。」
舞も、涙を流している。高級ブランドで着飾っていた彼女は、今では量販店の服を着ている。
「すみません。私は急いでいますので。」
私は、冷静に、でもはっきりと拒絶する。
「母さん、俺が悪かった。本当に反省してる。だから、もう一度…」
「あなたは、私を『家族じゃない』と言いましたよね。その言葉を、今でも覚えていますよ。」
達也の顔が青ざめる。
「お母さん、私たちが間違っていました。どうか、もう一度チャンスを…」
「チャンスなら、もう何度も差し上げましたよ。37年間もね。」
私は、静かに、でも確実に言葉を続ける。
「あなたたちは、私の全てを奪おうとしました。財産も、居場所も、存在意義も。でも、私には力がありました。自分を守る力がね。」
「母さん…」
「達也、舞。これからは、あなたたち自身の力で生きてください。本当の家族は、どこに行ったのですか?」
その言葉に、2人は何も答えられない。舞の両親は、あれから一度も連絡してこないそうだ。
「では、失礼します。」
私は、二度と振り返ることなく、その場を去った。後ろから嗚咽が聞こえてきたが、もう私の心は揺れない。
夜。マンションのバルコニーから、夜景を眺める。キラキラと輝く街の灯り。37年間、見ることのなかった景色だ。
「しずか。あなたは、立派にやり遂げたわね。」
亡くなった夫の声が聞こえる気がする。
「ええ。あなたが残してくれた力のおかげで、私は強くなれたわ。私は、間違っていなかった。」
理不尽に屈することなく、正当な権利を主張し、自分を守った。それは、誰にでもできることだ。もし、あなたも理不尽な扱いを受けているなら、我慢し続ける必要はない。自分の尊厳を守ることは、決して悪いことではないのです。
私の物語は、復讐の物語ではない。これは、自分を取り戻した女性の再生の物語なのです。今、私は本当に幸せだ。誰にも縛られず、誰にも蔑ろにされず、自分のために生きる自由を手に入れた。37年間の献身は、無駄ではなかった。それがあったからこそ、今の自由の尊さが分かるのだから。
あなたにも、きっと自分を守る力がある。誰かに遠慮することなく、強く生きてください。正義は、必ず勝利する。努力は、必ず報われる。そして、何より、自分を大切にすることは、決して間違いではないのです。



