嫌なら全部壊せばいい。
そう言って、取引先の部長はせら笑いながら、五百円玉を俺たちに投げつけた。硬い金属音が会議室に響き、硬貨は弧を描いて床に転がった。
「下受けの分際で、元受けである俺たちの要求に逆らうとはな」
俺は隣に座る営業部長と目を合わせ、静かに頷き合った。俺の名前は安倍。四十八歳。機械部品メーカーの技術部で部長を務めている。会社は中小規模だが、地域に根差した信頼と実績のある会社だ。そして、三年前から取引が始まった大手食品加工メーカー。立場はうちが下受けで、向こうが元受け。これまで良好な関係を築いてきたつもりだったが、それは会社同士の話だ。実際にやり取りをする、相手の資材部長・原口という男は、俺が大の苦手とする人物だった。
「安倍部長、お電話です。取引先の原口部長からです」
ある日の仕事中、部下にそう告げられ、俺は内心ため息をついた。電話に出ると、案の定、だるそうな声が鼓膜を叩く。
「ああ、安倍部長。担当者に言うけど、来月の納品、前倒ししてもらえないかな」
すでにスケジュールは埋まっている。俺はそう説明したが、原口は話を遮って言い放つ。
「だから、そんなのいいから、とにかく早めろって」
契約に関する話は技術部ではなく営業担当と話してほしい。俺がそう伝えても、原口は「お前の営業部長は苦手なんだよ。技術部長のお前が了承すればいいじゃないか」と食い下がる。こんなやり取りは今に始まったことではない。それでも、俺は波風を立てないよう、淡々と対応してきた。まさか、この男があんな出来事を引き起こすなんて、その時は思いもしていなかった。
あの電話から一ヶ月ほど経った日、俺は原口に呼び出されて取引先を訪れていた。確認したいことがあると言うのだ。嫌な予感がしたので、営業部長にも同行してもらうことにした。通された応接室で、原口はスマホをいじりながら足を組んで座っていた。俺たちが入ると、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに本題を切り出した。
「部品の件で確認したいことがある。コストの見直しをしてほしいんだよ」
特許部品を含む納品物の契約金を値下げしろと言うのだ。明日から稼働する新工場に納品した分を含めて。俺と営業部長が顔を見合わせると、営業部長が口を開く。
「契約内容の変更は双方の合意が必要です。現状では応じられません。そもそも、どうして突然」
すると原口は、営業部長に指を指して言い放った。
「下受けは黙って元受けのために動いたらどうなんだ? あんたは若くて高学歴だが、所詮、下受けの中小企業の社員だってことを忘れるなよ」
その瞬間、長年の疑問が解けた気がした。なぜこいつは、営業部長に言うべきことをわざわざ俺に言ってくるのか。きっと、自分の能力に自信がないからだ。そして、言いやすい俺に八つ当たりしているのだろう。
「私も同意見です。今回のお話は、今ここで結論を出せません。そもそも、納品が完了してからの契約金の変更は、あまりに不誠実では」
そう言いかけた時、原口が俺を遮った。
「ああ、そうかい」
彼は財布を取り出すと、こちらに向かって何かを放った。五百円玉だった。
「下受けの分際で。お前らみたいな生意気な下受けには、これで十分だろ」
俺と営業部長は言葉を失った。原口は高笑いしながら続ける。
「嫌なら壊せばいい。そんなことできないだろ? じゃあ、大人しく言うことを聞けよ。元受けであるうちに生意気な態度をすれば、ロクな目に遭わないからな」
怒りよりも、呆れが勝った。営業部長が静かに口を開いた。
「原口部長、あなたの考えはよくわかりました。今日のことは一度持ち帰り、弊社内で判断させていただきます」
俺も同意の意味を込めて頷いた。原口は強気に笑う。
「強がりか。どうせお前らは、元受けの言うことを聞くしかないんだ」
俺たちはそのまま取引先を後にした。原口は気づいていない。俺の膝の上で、密かにスマホの録音機能が作動していたことに。
会社に戻り、俺と営業部長は社長に報告した。録音を聞き終えた社長は、しばらく黙って腕を組んでいたが、やがて静かに口を開いた。
「ここまで言うなら、原口部長のおっしゃる通りにしようじゃないか。我々の技術を、五百円玉と同列に扱うとは、あまりにも愚弄しすぎている」
「ええ。録音もあります。原口部長自身が、契約を破棄したも同然です」
営業部長がそう言い切ると、社長は静かに頷いた。
「ただし、壊すな。あくまで我々の技術と部品を、自分たちの元に取り返すだけだ」
翌朝、俺は技術部の社員を集め、事情を話した。誰一人として躊躇する者はいなかった。こうして俺たち技術部の総出で、取引先の工場へと向かったのだ。工場に到着すると、いきなりのことに取引先の人間たちは困惑していた。無理もない。稼働予定の工場の設備を、解体・撤去しようというのだから。俺は工具箱を開き、スパナを手に取った。作業が進むにつれ、広い工場内に静寂が広がっていった。俺たちは丁寧に、傷一つつけずに部品を取り外していく。
作業も終盤に差し掛かった頃、工場の幹部が慌てて駆け込んできた。怒りに顔を歪ませる幹部に、営業部長が経緯を説明し、録音も聞かせた。すると、幹部の顔色はみるみる変わり、すっかり態度を変えて「どうか撤去だけは」と頭を下げたが、俺たちが首を縦に振ることはなかった。
数日後、俺と社長、営業部長は、取引先の社長室にいた。目の前には、顔面蒼白の原口と、脂汗を流す社長が座っている。
「この度は、原口が誠に申し訳ございませんでした」
社長は深く頭を下げる。新工場の稼働が不可能になり、事態は取引先の本社まで発覚。原口は問い詰められ、「まさか本当にやるとは思わなかった」と言い訳を繰り返すばかりだったらしい。
「少し強気にハッタリをかませば、下受けの我々は怯むと思ったのでしょうね」
俺の言葉に、取引先の社長は何も言い返せない。
「誠意のない行動の末の出来事に、『誠意を持って対応する』とは、おかしな話です」
社長がそう言うと、営業部長が続ける。
「原口部長の言動は全て録音されています。どちらに非があるのかは明らかです」
原口は唇を噛み、ようやく謝罪の言葉を口にした。
「この度は、私の軽率な言動により…申し訳ございませんでした」
だが、次の瞬間、こいつはありえない言葉を吐いた。
「ど、どうかお願いします。再契約を。再契約を」
さっき断ったばかりだろう。取引先の社長が慌てて原口を制するが、原口は「こんなことになると思わなかった。ちょっと脅してやろうと思っただけなんだ」と繰り返すばかりだ。俺は静かに立ち上がり、応接室の扉を開いた。
「本日はお越しいただき、ありがとうございました」
そう告げると、社長と営業部長も立ち上がった。完全に追い詰められた原口は、みっともなく涙と鼻水を流し、自己弁護を繰り返すのみだった。
その後、原口は懲戒解雇になった。契約違反を勝手に行い、最新工場の稼働を大幅に遅らせたことで、会社に大損害を与えたのだから当然だ。現在は完全に取引先と縁を切り、違約金の請求を進めている最中だ。騒動は取引先の会社を大きく揺るがせたが、うちの会社には、結果として新規の仕事の問い合わせが増えている。どんな立場になっても、対等に、そして誠実に人と向き合っていきたい。俺はそう改めて心に誓ったのだった。
我が社を馬鹿にした新部長は、ある日突然、一方的に契約終了を告げてきた。
「町場とは契約終了だ。中国製の方が優秀だからな」
我が社の作るベアリングが、中国製より劣っているだと? 新しく部長に就任した男は、頭はいいが仕事はできないタイプらしい。我が社を馬鹿にするとどうなるか、その身を持って理解してもらおう。俺の名前は和田。三十九歳。三年前に創業者である父から会社を継ぎ、社長を務めている。従業員数は二十名の小さな企業だが、売上の九割を担うベアリングは、髪の毛の誤差も許されない精密さを求められる医療機器に使われている、父が開発した特許部品だ。取引先との年間契約額は七千万円。小さな工場にとってはまさに生命線である。
先代の担当者だった川野さんは、退職が決まるまで、俺の良き相談相手であり、父の代からの付き合いがある人物だった。川野さんが退職して一週間後、後任となる新部長・島岡から呼び出しのメールが届いた。挨拶をしたいから来てくれという。指定された会議室にいたのは、ピシッとスーツを着た同年代くらいの男性だった。渡された名刺には、資材管理部部長・島岡と書かれている。
「前任から引き継ぎをしててな。まだ全部覚えてないんだ」
疲れた様子で眼鏡をいじる島岡部長に、俺は笑顔で挨拶した。
「初めまして、和田と申します。川野さんから伺っております。前職で徹底的なコストカットを実現されたとか」
すると島岡部長は、胸を張って自慢げに答えた。
「そうだ。この会社も物価高で苦しんでいるらしい。優秀な俺に寄せられる期待は大きいな」
少し変わった人だなと思いつつ、俺は自虐混じりに自己紹介をした。
「うちは小さな工場でして。父の代からずっと同じ仕事をやってるんで、設備も色々とボロボロでして」
すると島岡部長は、馬鹿にしたように鼻で笑った。
「そんな会社でも、うちみたいな大手と取引できるんだな。で、何を作ってるんだ?」
「ベアリングです。これが少し変わってまして、取引価格は…」
俺がそう答えると、島岡部長は目を丸くして大声をあげた。
「はあ? そんな高額で取引してんのか。詐欺じゃねえか。ただのベアリングだろ」
この発言で、俺は確信した。この男は、川野さんが残した引き継ぎ資料を全く読んでいない。それを見れば、こんな発言は出てこないはずだからだ。俺が説明しようとすると、島岡部長は一方的にまくし立てた。
「工場に援助してやってるのか。前任者と随分仲が良かったようだな。だが、俺が新しい部長になったからには、援助は終わりだ。下請けが大口取引先を貪ろうとはな。中国なら、こんな価格の十分の一で作れるぞ」
「えっと、うちのベアリングはただの部品ではなく…」
「言い訳は聞きたくない。うちと継続して取引したいなら、最低でも今の価格の半分にしろ」
突然突きつけられたとんでもない要求に、俺は言葉を失った。しかし、その後の言葉が、俺の堪忍袋の緒を完全に切らせた。
「それは前任者が嘘をついてたんだ。年を取って耄碌してたんじゃないか」
川野さんは、社長になりたてで右も左もわからなかった俺を、優しく指導してくれた恩人だ。そんな人を侮辱され、俺の中で怒りが湧き起こった。
「川野さんは嘘をついていません。訂正してください。それと、あなたの価格交渉に、我が社は一切応じません」
俺がそう言い返すと、島岡部長は逆上した。
「貧乏人は考える頭もないのか? 工場なんて肉体労働の底辺の仕事だから仕方ないか。俺に逆らうとどうなるか、思い知らせてやる」
唾を飛ばす勢いで怒鳴られれば、反論する気も失せる。俺はため息をついて、会議室を出ていった。
それから一ヶ月後、例年通りベアリングの契約更新のため、島岡部長の元を訪れた。しかし、受付で待たされた挙句、女性社員にこう言われた。
「申し訳ございません。部長は不在だそうです。お引き取りください」
電話をかけても五回連続で「部長は不在」と言われた。明確な入室拒否だ。俺はスマホを取り出し、島岡部長の携帯に直接電話をかけた。数回のコールの後、相手は出た。
「もしもし。契約更新のために、御社に来ているのですが」
俺がそう言いかけると、島岡部長は笑い混じりに言い放った。
「その件だけど、町場とは契約終了だ。中国製の方が優秀だからな」
「はい?」
「金食い虫のボロ工場と取引関係を続けてても、我が社には何のメリットもない。だからお前との関係は、今日で終わりだ」
「でしたら、事前に連絡すべきでは? こちらはわざわざ時間を割いて…」
「は? なんで俺が、底辺のために連絡してやらなきゃいけないんだよ」
一方的な契約終了を告げられ、俺は呆れるしかなかった。あまりにも身勝手な言い分だ。だが、心の中では、ある計画を思い浮かべていた。…これでいい。後悔するのは、お前の方だぞ。
それから三日後、会社の前で休憩していると、タクシーが止まり、慌てた様子の男性が駆け寄ってきた。島岡部長の会社で製造を統括している青山専務だった。
「和田社長! 急なお伺いで申し訳ありません!」
その後ろから、のろのろとタクシーから降りてきたのは、先日俺を侮辱した島岡部長だった。応接室に通すと、青山専務が頭を下げた。
「この度は、うちの島岡が本当に申し訳ございませんでした。おい、お前も謝れ」
島岡部長は、青山専務に怒られ、渋々といった様子で頭を下げる。
「その様子では、うちの顧問弁護士が送った通達が届いたようですね」
「ええ、その通りです」
あの一方的な契約終了の後、俺はすぐに顧問弁護士に連絡した。父の代から付き合いのある弁護士だ。契約書にはこう書かれている。「契約終了の意思表示があった場合、三十日後に特許使用権を停止する」。島岡部長は知らなかったようだ。うちのベアリングは、ただの部品ではなく、特許取得済みの部品であることを。そして、その特許は、契約書通りの手続きを踏めば、我々の意図で停止できるのだ。うちのベアリングは、島岡部長の会社の全国十二の工場全てで使われている。ベアリングが無ければ、主力製品である医療機器は作れない。もし特許使用権が停止すれば、彼らの会社の売上の五割が失われることになる。
「多分、担当者の部長は通達を読まないでしょう」
俺は弁護士の助言を受け、青山専務にも同じ書類を送付しておいたのだ。
「島に聞いたところ、そのようなものは届いてないと言われました」
青山専務が鋭い目で島岡部長を睨む。
「いえ、顧問弁護士はきちんと書類を送付してます。受け取ってないというのは、島岡部長の勘違いでしょう。それ以前に、うちの主力商品に使っているベアリングの契約を勝手に終了するとは、一体何を考えているんだ」
青山専務の怒鳴り声に、島岡部長は涙目で答えた。
「ちゅ、中国製に切り替えれば、似たような部品が安く作れると思って…」
「そんなわけないだろ。特許部品だぞ。簡単に真似ができないから特許なんだ」
俺は島岡部長から受けた仕打ちを、全て青山専務に話した。前置きの悪口はともかく、川野さんを馬鹿にしたことは許せない。俺の話を聞いた青山専務の怒りは、さらに膨らんでいく。
「俺にとっても川野さんは恩人だ。お前は大切な取引先をコケにした挙げ句、俺の恩人を馬鹿にしたのか」
俺はひとつの提案をした。
「青山専務。島岡部長にしっかり処罰を与えた上で、我が社との取引に一切関わらせないというのであれば、取引継続を考えましょう」
青山専務は少しの間も置かずに頷いた。
「ありがとうございます。我が社も、このようなつまらないことで関係を終わらせたくありませんでした」
島岡部長は、自分が「つまらないこと」と断じられたことに、唇を強く噛んだ。
「相手のことを表面だけで判断するから、こんなことになるんですよ。あなたは俺だけでなく、自分の仕事も軽く見ていたんでしょう。その結果がこれです」
島岡部長は、うめき声をあげながら椅子に力なく座り込んだ。
青山専務の対応は素早かった。すぐに上層部へ報告し、島岡部長の処分が決まった。島岡部長は降格の上、地方にある工場へ左遷となった。彼が馬鹿にしていた工場での仕事だ。その後、青山専務から聞いた話によると、島岡部長はマイホームを建てたばかりで、降格による給料カットでローン支払いが難しくなり、妻は子供を連れて出ていってしまったらしい。島岡に残されたのは、空っぽの家とローンだけだ。俺が想像した以上に重い罰を受けたようだが、かわいそうだとは思わなかった。俺は、相変わらず忙しい毎日を送っている。青山専務の会社とは、良好な取引関係を継続中だ。これからも、あの会社とは末永くいい付き合いをしていきたいと思っている。
「意見するなら首な」
課長の問題発言が、はっきりと耳に響いた。システムがエラーを出し、俺が修理しようとしているのに、課長がやらせてくれないのだ。「それなら、やってみればいい」俺はそのまま、キーボードを打つ手を止めた。俺の名前は篠原。三十九歳。電子部品メーカーで技術者として働いている。高卒だが、独学でプログラミングやシステム設計を学び、頑張ってきたおかげで、その能力は周囲から評価されている。そんな俺が地方の事業所へ異動になったのは、二ヶ月前のことだ。本社の上司の話では、近年新幹線が開通したことで発展著しい地方都市にある事業所を強化したいとのこと。俺の経験と実績を見込んでの異動だった。移動先の事業所でも、技術部に配属され、ほとんどの人が温かく迎えてくれた。ただ一人を除いては。
「本社から移動って言うから、どんな優秀な人物かと思えば。高卒の厄介者を押し付けられたもんだ」
その一人とは、課長の野村だ。挨拶の場で、聞こえよがしにそう言ってきた。音和で真面目な部長が「細谷君のことは事前に説明したはずだぞ」と注意してくれたが、野村はやたらと高卒を強調して、納得いかない態度だった。後で聞いた話だが、野村は有名大学出身で、学歴に強いプライドを持っているらしい。他の社員からも煙たがられており、技術的な実務はほとんど理解していないという。技術部の課長なのに、なぜ? と思ったが、元々は営業部にいたが成績が振るわず、学歴を買われて技術部に異動し、そのまま年功序列で課長になったらしい。野村は、会議で俺が何か意見を述べようものなら、「高卒の新人が発言するな。出しゃばるな」と毎度のように嫌味を言い、高卒という言葉を使って俺を抑え込もうとする。俺は高卒であることを恥じてはいない。家庭の事情で高校を中退し、早くから自立したのは自分の選択だ。だが、野村のように、機会あるごとに言われれば不快になる。波風を立てないよう、俺は黙々と仕事をこなしていた。
そんなある日の午前中、事件は起きた。敷地内にある工場から、品質管理システムにエラーが出たと連絡が入ったのだ。データの遅延や一部の応答不良も起きているらしい。そのシステムは、俺が一年前に本社で設計した特許技術を使った自動品質検査システムだった。別システムのアップデートが重なったことで、リソースの競合が起きたのだろう。俺はすぐに部長へ報告し、対応に向かおうとした。しかし、部長と話している間に、野村が先に工場へ行ってしまっていた。
「すぐに業者に連絡しろ。この程度なら、すぐになんとかなる」
野村がドヤ顔で工場内の人間に指示を出している。俺が近づくと、野村は不機嫌そうに眉をひそめた。
「ああ、なんだ。高卒なんてお呼びじゃないぞ」
「何をしていらっしゃるんですか?」
俺が尋ねると、野村は得意げに答えた。
「何って、適切な指示を出しているんだ。課長ともなれば、優秀な業者を手配する判断力が重要なんだよ。お前のような現場作業員とは、格が違う」
「今エラーが出ているシステムは、特許技術が絡んでいます。外部の業者でどうにかできることとは思えません。ここは私が」
俺がそう言って近づくと、野村は声を荒げた。
「生意気な口を利くな。高卒は黙ってろ。俺の意見が正しいに決まっているだろうが。意見するなら首な。分かったら下がれ。責任を持って、必ず解決させてみせる」
首という言葉に、俺の足は止まった。野村は課長だが、落ち度のない俺の首を決定できる権限など持っているはずがない。感情に任せて、考えなしに言っているだけだ。怒りよりも、呆れの感情が先に立った。二ヶ月間の野村の言動が、次々と思い出される。
「…そうですか」
俺はそう呟き、小さく息をついた。このままシステムを放置すれば、数時間以内にシステム全体が停止する可能性もある。だが、課長である野村がここまで言うなら、その通りにすればいい。周囲で見守っていた作業員たちが、「やっぱり業者じゃ無理ですよ。ここは細谷さんに」と野村に進言するが、野村は聞く耳を持たない。
「お前たちも首になりたいのか? お前らみたいな作業員の言うことなんて、聞く価値もないんだよ」
俺は野村に背を向けた。
「野村課長の仰せの通りにいたします」
普段以上にかしこまった口調でそう告げると、野村は勝ち誇ったように笑った。
「最初からそうすればいいんだ。見てろ。お前なんか出しゃばらなくても、技術部課長ともなれば、責任を持って見事な采配で解決してみせる」
「そうですね。是非、そうしてください」
俺は振り返り、微笑んだ。野村は知らない。いや、信じていないのだ。俺が、この特許の品質管理システムの設計者だということを。
俺が工場から事業所に戻った時には、例のシステムは完全に停止していた。エラーは悪化し、全面停止にまで至ったのだ。品質検査なしに製品を出荷することはできないため、製造ラインも停止せざるを得ない状況となった。午後には野村が呼んだ業者が到着したが、一般的な社内システムを扱う業者だった。特許技術を含む複雑な設計は無理だと判断し、すぐに撤退してしまった。
「どうなっているんだ!」
知らせを受けた事業所長がやってきた。事業所長は、俺と部長の元へ真っ先に来て状況を尋ねた。俺と部長、他の社員たちも、揃って野村に視線を向ける。
「事業所長、私が対応しようとしたところ、野村課長が自分が解決すると言い張って、私がシステムに触れるのを妨害しました」
俺が事実を告げると、野村は勢いよく首を横に振った。
「ち、違います! これはその…そうだ! 細谷が、高卒社員の細谷が余計な真似をしたせいでシステムが壊れたんです!」
野村はいつも通り高卒を強調し、俺を指差す。事業所長は一瞬だけ俺を見たが、すぐに野村を睨みつけた。
「…事業所長は、私の異動の際に、本社から説明を受けていたのだろう。システム設計者として、私を派遣すると」
「細谷君は確か、このシステムの設計者だったはずだが。にわかには信じがたい話だな」
野村は呆然とした顔になる。
「設計者? え、何を…」
野村がうろたえている間に、部長や同僚たちが声をあげた。
「事業所長、野村課長の言っていることは嘘です! 細谷君はシステムの異常を報告し、迅速に対応すべく工場に向かいました。しかし、野村課長の強い制止、いや脅迫によって、手を出すことができなかったのです」
「工場の作業員からも裏付けは取っています。細谷君の発言に嘘はありません」
「そうですよ。そもそも課長は普段から細谷さんを目の敵にしていました。高卒扱いして、細谷さんの意見や行動をいつも否定してました」
野村は完全に孤立した。彼は口をパクパクさせながら、何も言い返せない。
「…これ以上意見するなら首、と言われましたが、私はその時点では気にしていませんでした。そもそも首になるようなことはしていませんから。問題は、その後です。『技術部課長ともなれば、責任を持って見事な采配で解決してみせる』と言われたので、そこまで言うのなら、と引き下がったのです。とはいえ、私も何もしないわけにはいきません。最悪の場合はすぐに動けるよう、準備していました」
俺の言葉に、事業所長がほっとしたように言った。
「さすがだ。すぐに動いてもらえるか」
「はい。お任せください。すでにエラーログのデータも分析してあります」
「ま、待て!」
野村がこの後に及んで俺を静止する。
「まだ何か?」
「そ、そもそも! 開発者ってどういうことだ! 俺は聞いていないぞ!」
俺だけでなく、周りからもため息が漏れる。
「…事業所長が、野村課長に説明しようとした時、野村課長は『有名大卒の私に、高卒の経歴書なんて見せないでください。時間の無駄です』と言って、細谷君の経歴書を机に投げ返したんだと聞いています」
部長がそう説明すると、野村は額に汗を浮かべ、うつむいた。
「…申し訳ございませんでした」
観念したのだろう。野村はその場で膝をつき、頭を下げた。
「君が謝罪すべきは、私ではない。この細谷君、いや、この部署の全員、それから君が困らせた工場の者たちだ」
事業所長は言いながら、俺や部長たちに向かって自らも頭を下げた。
「事業所長として、私も謝罪する。野村君に課長を任せていたのは、私の責任だ。本当に申し訳ありませんでした」
「まずは、システムを復旧させます」
俺はそう言って、土下座の姿勢になっている野村を見下ろした。
「『意見するなら首』とおっしゃいましたが、それでよろしいでしょうか?」
あえて尋ねると、野村の顔が屈辱に歪んだ。
「…お願いします」
俺はふっと笑い、工場へと向かった。サーバールームで、ログファイルの削除、キャッシュのクリア、競合するリソースの調整。そして独自アルゴリズムの再設定。三十数分後、システムは完全に復旧した。工場から歓声が上がるのが聞こえた。
それから一ヶ月後、野村は依願退職という形で会社を去った。実質的には解雇だが、本人の経歴を考慮して整えたのだろう。今回の一連の騒動はすぐに本社へも報告され、俺を派遣した上司からは「よくやった」と褒められた。俺は予定通り、応援異動の期間を満了し、本社へ戻ることになった。部長や同僚たちの温かい見送りに、少し寂しさが込み上げる。
「細谷君には、その…野村君のことで、本当に迷惑をかけた」
「いえ、皆さんがよくしてくださったので、楽しくもありました。色々と勉強にもなりましたし、感謝しています」
俺は本社に戻り、新たな一歩を踏み出す。だけど、決して野村のような上司にはならない。技術者としても、上司としても、どんどん成長していきたいと思っている。
「今日から、俺は晴れて最年少部長になったわけだが」
人事発表から一週間後、同期であり、そして憎い仇である男が、俺を呼び出した。この男、花池は、俺の作った設計図を、あろうことか自分の名前で上に提出した。そして今、下卑た笑みで俺に「今後はパシリにする」と宣言しようとしている。絶対に許せない。俺の名前は杉野。四十二歳。工業会社の設計部で、技術主任として働いている。技術的な責任を負う立場だが、管理職ではない。自分の力が部署を支えているという自負はある。そんな俺の生活に、何かと水を差してくるやつがいる。同期の花池だ。仕事の出来は平均的だが、人を踏み台にすることで出世してきた。手柄を平気で奪うと、黒い噂が絶えない男だった。実際、俺も手柄を奪われたことがある。だが、証拠がなく、大きな成果でもなかったため、何もできなかった。
今回の発端は、俺があるプロジェクトの設計を担当したことだ。新工場の立ち上げに向け、部品検査装置の設計を任されたのだ。俺は様々な部署からヒアリングを行い、仕事にあたった。部長が不在のため、課長である花池が部長代理であり、俺は細かく進捗を報告する必要があった。すると花池は、「ここが気に入らない」「ここはもっとシンプルにできないのか」と、必要以上に修正を要求してきた。花池もプロジェクトに真剣なのかと思っていたが、結局、その度重なる修正要求のせいで俺はスケジュールに追われ、仕上げの最終日は二時間睡眠で設計図を仕上げた。会社に泊まり込み、朝一で提出予定だった。設計を終えると同時に、俺はデスクで眠り込んでしまった。目を覚ましたのは、出社した部下の高橋に起こされた時だ。
「な…ない! 俺が仕上げた設計図のデータがない!」
慌てていたのは俺だけではなかった。高橋も顔面蒼白になってあたふたしていたが、そこへ花池がやってきた。
「心配するな。俺がしっかり提出しておいた。お前が疲れて眠っていたんでな。起こすのも悪いと思って」
それを聞いて、俺は安堵した。
「そ、そうだったんですか。ありがとうございます」
俺も高橋も思いもしなかった。眠っている俺のパソコンからデータを抜き取り、自分の名前で提出していただなんて。その設計図はかなりの評価を得て、「製品化できそうだ」と社長が言っているという噂まであった。俺は自分こそが設計者だと声をあげたかったが、花池は俺が動く前に手を回していた。俺が周囲に証言を頼もうとすることはわかっていたのだろう。部署内の人間に圧力がかかり、みんな口を閉ざしている状態だ。はっきりと俺の味方をしてくれるのは、高橋くらいだった。
一週間が経ち、花池は人事の発表通り、部長に昇格した。その日のうちに、俺は花池に呼び出された。日が傾き始めた会議室は、俺の心情と同様に薄暗い。
「まあ、そんな嫌そうな顔するなよ。大切な話なんだから」
花池はうら笑いを浮かべている。
「さて、今日から俺は晴れて最年少部長様になったわけだが。部長になったら、まず最初にやることを決めていたんだ。今日からお前は、この最年少部長様のパシリな。光栄に思えよ」
さすがにここまでくだらない発言が出るとは思わず、俺は呆然としてしまった。遅れて、怒りが込み上げてくる。
「何?」花池は鼻で笑った。「嫌ならやめれば。別にお前なんかいなくても、部署は回る」
実を言えば、花池に設計を奪われた時点で、会社を去ることは考えていた。ただ、その行動が負けを認めて逃げるようで、踏ん切りがつかなかった。妻にもこの件は話してあるが、妻は俺の気持ちを尊重すると言ってくれている。俺は拳を握りしめ、花池を見据えた。
「わかりました。じゃあ、やめますね」
俺の発言に、花池は吹き出す。
「何? 俺に負けたままやめるわけ? せっかく役職のあるポジションを用意してやったのにな」
「花池、お前に誰かをパシリにする権利なんてないよ。高橋も他の部下たちだって、ごめんだろうよ」
俺は敬語をやめ、同期としての話し方に戻した。やめると決めた以上、花池はもう上司ではない。
「んだと!」花池は俺を睨みつけてくる。
「言葉のままだ。それからな、勝ち負けで話したくはないけど、負けたのはお前自身だよ。人の手柄に手をつけて自分のものにした時点で、お前は自分自身にも負けたんだ」
俺の言葉に、花池は顔を真っ赤にして俺の胸ぐらを掴んだ。
「最年少部長様が暴力行為に及んだとあっては、問題になるんじゃないか」
俺の指摘で、花池は乱暴に手を離す。俺は乱れたシャツを直しながら、首を横に振った。
「話はこれで終わりかな? それじゃあ、俺は帰るよ」
俺が背を向けると、後ろから「なんなら、もう明日から来なくていい。有給を消化して、そのままやめちまえ」と、花池が乱暴に吐き捨てるのが聞こえた。
デスクに戻ると、オフィスにはもう誰もいなかった。俺はパソコンを操作して、あるものを一枚印刷した。花池の名前で提出された、例の設計図だ。正式に会社のデータベースに登録されていたため、簡単にアクセスできた。俺はその設計図を自宅に持ち帰り、自分の部屋で無感情に眺めた。そして、手に取った大きな黒マーカーで、黙々と設計図を黒く塗りつぶした。嘘で塗り固められた設計図を、俺の心情を表す黒で塗りつぶしたい気分だったのだ。最後に自分の声を届けたかった。この設計図は、自分が作ったのだと。俺は黒塗りの設計図を、退職願を入れた封筒に同封し、夜のうちにポストに投函した。
退職届を出した翌日の夕方、携帯電話が鳴った。かけてきたのは高橋だった。
「杉野さん、よかった。繋がって」
高橋は安心したような声を出す。
「杉野さんが送った退職願、人事部に届きました。それが兄の目にも触れて、社内は今大騒ぎになっています」
「兄?」
話が見えず、俺は困惑する。次の瞬間、俺は驚愕することになった。
「実は僕、この会社の社長の弟なんです。と言っても腹違いなのですが…その、内緒にしていてすみません」
高橋の父の再婚相手との間の子。それが高橋らしい。今の社長は、その前妻の息子だというから、かなり年が離れているのだろう。高橋は続ける。
「杉野さんが例の設計図を黒塗りにして同封したでしょ? あれがかなり効いたみたいです。それと、僕、昨日の花池部長と杉野さんのやり取りを、こっそり見ていたんです。前から花池部長のことは、何度か兄に相談していたので、今日あたり、杉野さんと兄と僕で、三人で話そうと思ってたんですよ」
そうだったのか。俺が先に退職願を出してしまったせいで、この騒ぎになったのか。電話口で高橋と話していると、突然、怒声が聞こえてきた。
「ちょ、何するんだ! 返せ!」
高橋ではなく、花池の声がスマホから聞こえてくる。どうやら花池が高橋のスマホを奪い取ったらしい。
「おい、杉野! お前、舐めた真似しやがって! お前、高橋の正体を知っていたんだろ! 汚ねえ真似しやがって! いつもそうだ! 真面目に仕事したって、お前がいる限り、俺は正当に評価されやしねえ! お前ばっかりみんな信用して! くそ! 目障りなお前を見下して、コキ使えると思ったのによ!」
まるでチンピラのような口調で、花池はまくし立てる。俺は電話越しに呆れて首を横に振った。
「俺は高橋の事情を何も知らなかった。今知ったんだ。第一、お前のその発言を聞いて、『なら仕方ないね』なんて言うと思うか?」
俺の発言に、花池は口ごもる。
「ふざけるな! こんなの、こんなの認めない! 俺は最年少部長として、これからも出世街道だ!」
「お前、まだそんなこと言ってるのか。お前のくだらない野心のために、また誰かの成果を自分のものにするのか。それでお前が満足なんだとしたら、悲しい人生だな」
その時、電話の向こうから「おい、いい加減にしないか」という声が聞こえ、花池が「ひっ」と悲鳴を上げた。どうやら社長が現れたらしい。その後、花池は我を失って暴れたため、警備員に連れて行かれたという。社長である高橋の兄から、深い謝罪の電話を受けた。
その後、花池の懲戒解雇が発表された。社長の調査で、花池の過去の悪業が明るみに出たのだ。俺は会社に戻り、再び仕事をしている。最初は戻るつもりがなかったが、社長の誠意ある謝罪と、家族の今後を考えると、今のまま働く方がいいと結論付けた。例の設計図は、正式に俺の名前で再評価されることになった。俺の肩書きも、技術主任から技術長というものに変わった。俺は、花池を反面教師に、人にも仕事にも真剣に向き合っていきたいと思っている。
退職金の明細を見た瞬間、俺は自分の目を疑った。三千三百三十円。三十四年間という年月に対して、たったの三千三百三十円。新社長の陽介は、薄笑いを浮かべながら言い放った。
「就業規則通りだよ。意味わかる?」
しかし、俺にはこの会社のシステムを完全に掌握している、隠された力があった。俺の名前は田中健一。五十四歳。地方の中小製造業、新身工業に三十四年間勤務しているシステムエンジニアだ。大学で情報工学を専攻した後、この会社一筋で働いてきた。俺が担当しているのは、工場の生産管理システムと財務システム。これらは俺が一人で設計・開発したもので、会社の基幹業務を支えている。システムダウンが発生すれば、工場は即座に停止してしまう重要なインフラだ。先代の三村社長は、俺の技術を深く理解し、佐々木専務と共に「田中君のシステムは会社の宝だ」と評価してくれていた。そんな穏やかな日々が続いていたが、運命は突然変わった。二年前、三村社長が急逝し、息子の陽介が社長に就任したのだ。父への劣等感を抱える陽介は、先代の方針を全て否定し、「効率化」という名目で次々と改革を断行した。その実態は単なるコストカットであり、ベテラン職人たちが退職に追い込まれ、現場の士気は日に日に下がっていった。俺に対しても「時代遅れの高齢技術者」と嘲り、システムの外注化を検討していると言い放った。
ある日、陽介から呼び出された俺は、彼の経営方針について意見を求められた。会議室には陽介の他に佐々木専務と、外部のITコンサルタント会社の営業担当が同席していた。明らかに俺を追い出すための布陣だった。俺は現在のシステムが会社にとって重要であることを詳細に説明した。長年のノウハウが組み込まれており、単純な置き換えでは現場が混乱するだけだと。しかし、陽介は聞く耳を持たなかった。
「君のような高齢者にシステムを任せるのは時代錯誤だ。若い外部の専門家に任せる方が効率的なんだよ。この会社なら、君の古臭いシステムを半額で構築してくれるそうだ。クラウド化もできるし、AI機能もつけられる」
俺は冷静に反論したが、陽介は鼻で笑うだけだった。その場に同席していた佐々木専務が「田中君はこの会社を支えてきた貴重な人材です。もう少し慎重に検討すべきでは」と助け舟を出してくれたが、陽介は専務の方を向いて言い放った。
「専務も時代遅れだ。父の代の古い考えに縛られていては、会社は成長できない」
この会社のために尽くしてきた俺への敬意は、微塵も感じられなかった。この瞬間、俺は退職を決意した。
「申し訳ありませんが、退職させていただきます」
俺がその場で告げると、陽介は意外にもあっさりと了承した。むしろ、喜んでいるようにさえ見えた。退職の意思を伝えた翌日、陽介から退職金の明細を渡された。中身を確認した瞬間、俺は自分の目を疑った。三千三百三十円。指先が震え、額の角が汗で濡れていく。
「社長、これは何かの間違いではないでしょうか? 従来の規則なら、勤続年数に応じて少なくとも数百万円のはずです」
俺は冷静さを保って尋ねた。しかし、陽介の反応は俺の期待を完全に裏切った。
「就業規則通りだよ。意味わかる?」
彼は新しい就業規則を見せてきた。内容を確認すると、退職金制度が完全に廃止されていることがわかった。掲示板への一枚の紙による周知だけで、説明会も経過措置もない。一方的で強引な変更だ。
「退職金制度は廃止した。法律上、退職金制度を設ける義務はないからな。調べてみたら、支払い義務なんてどこにもない。でも、君への感謝の気持ちとして、僕のポケットマネーから三千三百三十円を出してやる。ありがたく受け取れよ」
陽介の嘲笑が部屋に響いた。しかし、俺は表面上の冷静さを保った。感情的になっても何も解決しないからだ。
「なるほど、よくわかりました。就業規則を遵守されるなら、私も契約を遵守させていただきます」
俺のこの発言に、陽介は首をかしげた。
「契約? 何の契約だ?」
陽介は契約の意味を理解していない様子だった。これで俺の勝利は確実になった。敵が自分の置かれた状況を理解していないのだから、これほど戦いやすい相手はいない。
私は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「長い間、本当にお世話になりました。それでは、失礼いたします」
俺は、入社時に交わした契約書の内容を思い出していた。「社員が個人で開発したシステムの知的財産権は、開発者に帰属する」という条項。これは俺が入社時に条件として提示し、先代の三村社長が、優秀な技術者を確保するための特別条件として了承してくれたものだ。さらに重要なのは、システムの利用許諾契約も俺個人と会社の間で結ばれており、俺の退職と共にライセンスが失効する情報が含まれていることだ。陽介は、これらの契約の存在を知らないようだった。先代と俺だけの特別な取り決めだったため、引き継がれていなかったのだろう。俺にとっては、これ以上ない逆転の切り札となる。
最終出勤日。俺は会社に残って、ライセンス失効の手続きを開始した。開発したシステムは、障害時に保守モードへ切り替えられる仕組みになっている。俺は正規の権限で、生産管理システム、財務システム、在庫管理システムと、全てのライセンス認証を順次停止していった。データを破壊するのではなく、あくまでライセンス認証を停止するだけだ。作業は深夜まで続き、最後に俺はメモを残して会社を後にした。「ライセンス契約の失効により、システム使用権限を停止しました。復旧については、ライセンス契約の条項をご検討ください。田中健一」
翌朝、俺の携帯が鳴った。佐々木専務からだった。
「田中君、大変なことになっている。全てのシステムが動かず、工場のラインが完全に停止したんだ。生産管理も財務も、ライセンス認証に失敗しました、というエラーで起動しない」
俺は冷静に答えた。
「それは大変ですね。ライセンス契約の失効が原因かもしれません」
「ライセンス契約? 何のことだ?」
「私の退職に伴い、システムの使用権が終了したということです」
午前十時頃、今度は陽介から電話がかかってきた。声は震えており、普段の傲慢さは微塵も感じられない。
「田中さん! 大変なことになってる! すぐに会社に来てくれ!」
「申し訳ありませんが、私はもう退職いたしましたので」
「そんなこと言ってる場合じゃない! システムが全部動かないんだ!」
「残念ですね。それはライセンス契約が失効したため、システムが使用できなくなっただけです。就業規則を遵守されるなら、私も契約を遵守します」
電話の向こうで、陽介の息遣いが荒くなる。初めて事態の深刻さを理解したのだろう。
「なんとかならないのか! 金なら出す!」
「契約上、私の退職と共にライセンスが失効することになっています。これは入社時から有効な正式な契約です」
俺は電話を切った。その日の夜、俺の自宅のインターホンが鳴った。モニターを確認すると、脂汗を流した陽介が立っていた。玄関に出ると、陽介は土下座の姿勢で頭を下げた。
「頼むから話を聞いてくれ! 会社が完全に止まってしまった! 取引先からも苦情が殺到している!」
陽介は「退職金を見直す」「給与を倍にする」「役員にする」と、退職金を三千三百三十円で片付けようとしていた相手とは思えないほど、必死に懇願してくる。しかし、俺の決意は変わらない。そして、俺はこの機会を利用して、確かめたいことがあった。
「社長、お疲れのようですね。ところで…アクティブキャピタルの相葉代表はお元気でしょうか?」
陽介の顔が青ざめる。
「な、何のことだ! そんな会社知らない!」
「会計システムの記録を確認しました。昨年度、アクティブキャピタルから会社に二千八百万円が入金され、同じ日に、同じ金額があなたの個人口座に送金されています」
陽介の体が震え始める。
「そ、それは…」
「まだありますよ。三月八日には、当社の取引先リストがあなたのメールアドレスから外部に送信されています。送信先は相葉代表のメールアドレスでした。俺はシステム管理者として、全ての電子記録にアクセスできる権限を持っています。あなたの不審な動きは、全てログに記録されているんです」
俺は決定的な一撃を放つ。
「なぜアクティブキャピタルと取引したんですか? 二千八百万円もの手数料を受け取った理由があるはずだ。説明してください…陽介社長」
完全に追い詰められた陽介は、玄関先で膝をつき、ついに真実を語り始めた。
「認める。投資詐欺にあって、数千万円の借金があるんだ」
声は震えている。
「返済に行き詰まって、アクティブキャピタルが工場用地の転売話を持ちかけてきたんだよ」
「従業員の退職金を削ったのも、借金返済のためですね」
「そうだ。少しでも金が必要だったんだ」
「システムの外注化についてはどうですか? あのITコンサルタント会社との関係を説明してください」
「あれは俺の知り合いの会社だ。契約を取らせる代わりに、リベートをもらう約束をしていた。お前を追い出せば、一千万円もらえるはずだったんだ」
俺は冷静に聞いていたが、怒りが込み上げてくるのを抑えられなかった。長年の俺の人生と会社の未来を、陽介の借金返済の道具として利用しようとしていたのだ。
「証拠は全て整っています。これは不正行為として、税務署に提出します。それとは別に、会社の正常化に向けて提案があります」
俺の提案は単純だった。
「監査役同席のもと、緊急の取締役会を開き、佐々木さんを新社長に就任させること。そして、全従業員の雇用を保証し、私も正当な待遇で新身工業に復職させること」
佐々木専務は、先代の三村社長の右腕として長年会社を支えてきた人物で、陽介の暴走を苦々しく思っている。俺は事前に佐々木専務に連絡を取り、状況を説明していた。専務も陽介の不審な行動に疑念を抱いており、協力を約束してくれていたのだ。陽介は必死に抵抗したが、証拠を突きつけられた以上、選択肢はない。緊急召集された取締役会は、俺が提出した証拠資料を見て騒然となった。そして、全員一致で、陽介の解任と佐々木専務の新社長就任が決議された。陽介は全ての役職を解かれ、会社から追放されることになった。さらに、俺が税務署に提出した証拠により、陽介は所得隠しの疑いで税務調査を受けることになった。アクティブキャピタルの相葉代表も詐欺で逮捕され、不動産投資グループは解散に追い込まれた。社長の座を失った陽介は、借金が膨れ上がり、さらに税理士費用まで背負うことになった。俺の退職金を軽んじた報いが、陽介に振りかかったのだ。
数日後、会社から出ると、陽介が待っていた。やつれた顔で俺を見つめている。
「田中さん、頼む。税務署への通報を取り下げてくれないか?」
俺は冷静に答えた。
「無理ですね。もう手続きは完了しています」
「お前のせいで、俺の人生が…」
「あなた自身の選択の結果です。私は契約を守っただけです」
現在、新身工業は佐々木新社長の下で健全な経営を取り戻している。俺はシステム統括責任者として復職し、正当な退職金制度も復活した。俺の長年の功績が、ようやく正当に評価されることになったのだ。俺は愛し続けた会社で、技術者としての誇りを胸に、再び歩み始める。
「無能なエンジニアはボーナスなし。最新のAIに取って代わられるから、嫌ならやめればいい」
俺を無能と貶したのは、先日就任したばかりの二代目社長・賢一だ。これ以上、社長の我儘には付き合えない。俺はある計画を実行し、その結果、二代目社長は破滅の結末を迎えることとなった。俺の名前は篠原。三十九歳。高校二年の時に父を亡くし、母は悲しみのあまり体を壊した。家計は一気に困窮。十歳下の妹を守るため、俺は高校を中退し、働きに出ることにした。様々な職を転々としたが、その中の一つ、輸入食品を扱う会社でのバイトが、俺の人生を変えた。在庫管理のために市販のシステムを導入したいがコストがかかると悩んでいた社長に、俺はこう提案したのだ。
「簡単なシステムでよければ、作りましょうか」
父がプログラマーだったこともあり、小さい頃から独学でプログラミングを勉強していたのだ。俺が在庫管理システムを作り上げると、評価は一変した。
「うちで働いているのはもったいない。知り合いの会社を紹介してあげる」
社長の知り合いが経営する中堅のIT企業。初めて会った時、社長の正一郎さんは優しい笑顔でこう言った。
「俺も金がなくて苦労したんだ。君の辛さは理解できるよ」
二十歳で正一郎社長の会社に転職してから十九年。エンジニアチームで一番の古株となり、周りからの信頼も厚かった。そんな平和な日々を送っていた矢先、事件は起きた。正一郎社長が倒れたのだ。救急車で運ばれたが、帰らぬ人となった。葬儀での正一郎社長の顔を見た時、涙が止まらなかった。そして、半月後。息子の賢一さんが、全社員の前で社長就任を宣言した。
「これからは、俺が会社を引き継ぐ」
周囲からは不安の声が漏れる。賢一さんは、仕事ができる方ではないからだ。正一郎社長は、出来が悪くても息子が可愛く、二代目は賢一さん以外考えていなかったらしい。七年前、重要プロジェクトのリーダーに、正一郎社長が俺を指名したことがあった。その時、賢一さんは激しく不満を漏らした。
「なぜ俺がリーダーじゃないんだ!」
それ以来、賢一さんは俺に対して高圧的な態度を取るようになった。
「中卒は身の程をわきまえろ。親父に可愛がられてるからって、調子に乗るんじゃねえぞ」
誰もいないところで罵倒され、肩を小突かれたこともあった。波風を立てたくなかったので、俺は誰にも言わずに耐えていた。賢一さんが社長に就任してから一週間後、あるプロジェクトの会議で、俺がアイデアを出すと、今まで黙っていた賢一さんが突然声をあげた。
「そんな馬鹿らしいアイデアは却下だ」
「どの辺りがお気に召さなかったのでしょうか?」
「全部だ。中卒のアイデアなんて、聞く価値もない」
この後も、俺の提案は徹底的に否定され続けた。そして、年末も近くなったある日。ボーナスの支給日、給与明細を確認すると、俺のボーナスの項目は「〇円」だった。
「おい、これ、おかしくないか?」
経理に確認すると、ボーナスの支給は社長の指示と言われた。俺は直接、社長室に乗り込んだ。
「これは一体、どういうことですか?」
印刷してきた給与明細を見せると、賢一さんはニヤリと笑って言い放った。
「無能なエンジニアはボーナスなし。お前の仕事は最新のAIに取って代わられるからだ。嫌なら、やめればいい」
「おっしゃる意味は分かります。ですが、最新のAIに取って代わられるという根拠を示してください。それに、これは私の雇用契約違反です」
そう言うと、驚いたことに、後ろにいた同僚の岡村が口を挟んだ。
「賢一社長、篠原の仕事ぶりは、就業規則や雇用契約で定められた条件を満たしています。ボーナスカットは契約違反で、違法になる可能性もありますよ」
賢一さんは、この事実を知らなかったようで、一瞬言葉に詰まった。しかし、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴った。
「何をわけのわからないことを言ってるんだ! この会社は俺のものだ! 誰にいくらボーナスを支給するかは俺が決める! 違法だの、知ったことか!」
「ですから、それが違法になる可能性があって…」
「うるさい! お前も、俺の会社から出ていけ!」
岡村にまで怒鳴り散らす賢一さんに、もはや話にならないと感じた。俺は理路整然と言い返したところで、無駄だろう。
「わかりました。あとは任せます」
そう言って、俺は岡村と共に社長室を出た。
「篠原、もしかして、本気で会社をやめるつもりか?」
「そうだな。これ以上、あの人の下で働くことはできない」
岡村が困惑した顔を浮かべる。
「そんな…」
「それで、一つ提案なんだが」
この後、俺が口にした提案に、岡村は飛び上がりそうなほど驚いた。
「実は、自分の会社を立ち上げようと思ってるんだ。岡村、俺の会社で働かないか?」
一年ほど前から、俺は独立を考えていた。きっかけは、正一郎社長の言葉だった。
「いつまでもうちの会社にしがみついてなくてもいいんだぞ。お前ほどの実力があれば、別の環境でもやっていけるだろう」
恩返しのため働き続けてきたが、三十代後半に入り、もっと自由にやりたいと思うようになっていた。俺は、貯めた金で独立の準備を進めていた。妹は現在、税理士として働いており、心強い協力を得ていた。
「岡村が一緒に来てくれたら、心強いんだけど」
はっと我に返った岡村は、すぐに頷いた。
「いいじゃないか! 俺も、あの人の下では、これ以上働きたくないと思ってたところだ」
「そうだな。他のエンジニア連中にも、声をかけてみたらどうだ? みんなお前のことを慕ってるし」
その日から、俺と岡村は、エンジニア全員に声をかけて回った。最初は躊躇していた者たちも、俺の事業計画と岡村の熱意によって、徐々に心を決めていった。
「篠原さんに対する、社長のあの態度、見てられませんよ。俺も一緒に行きます」
「あんな無能な社長がいる会社に、未来なんてないでしょうし」
なんと、エンジニア全員が、俺についていくことを選んだのだ。翌日、俺は社長室へ行き、賢一さんに直接退職届を提出した。
「中卒にしては、賢明な判断だな。言っておくが、後で撤回なんて言っても聞かないぞ。底辺を雇ってくれる会社なんて、どこにもない。うちを去った時点で、お前の人生は終わりなんだよ」
下品な笑みを浮かべながら罵倒する賢一さん。しかし、俺は気にしない。
「そうですか。じゃあ、他の連中の人生も終わりですかね?」
「はあ?」
首をかしげる賢一さんに、俺はポケットからあるものを取り出した。
「な、なんだ、この書類の束は?」
「うちのエンジニア、全員分の退職届です」
俺が持っていたのは、エンジニア総勢十名分の退職届だった。それを賢一さんの机の上に置いた。
「え、ちょ、ちょっと待て! 冗談だろう!」
「冗談ではありません。信じられないなら、本人たちから話を聞けばいいでしょう」
しばらく困惑していた賢一さんだが、徐々に怒りの感情が滲んできた。
「はっ、上等だ! エンジニアなんて、募集をかければすぐに集まるしな!」
「そうだといいですね。ああ、そうそう。これ、俺がコツコツまとめてた仕事のマニュアルです。基幹システムの開発には俺も関わってるんで、これから雇うエンジニアに渡しておいてください」
そう言って差し出すと、怒りに飲まれた賢一さんは、マニュアルを引ったくると、全てビリビリに破いて捨てた。
「バカの作ったマニュアルなんて無意味だ! こんなゴミは見る価値なし!」
「そうですか。では、引き継ぎ拒否の旨を書いてもらえますか? 後で責任問題になると困るので」
「知らねえよ、そんなもの! さっさと消えろ!」
俺はため息をつきつつ、社長室を後にした。
それから一年後、俺が立ち上げた会社は順調に動いていた。取引先は、前の会社で良好な関係を築いていた会社が大半だ。俺たちの技術を信頼し、「契約を解除して、篠原さんの会社と契約したい」と、向こうから声をかけてきてくれたのだ。ある日、会社で仕事をしていると、スマホに知らない番号から電話がかかってきた。
「はい、もしもし」
「お、俺だ! 今すぐ、うちに戻ってきてくれ!」
「あ、えっと、どなたですか?」
「俺だよ! 賢一だ!」
どうやら、賢一さんだったらしい。声を聞くのは一年ぶりだが、嫌いな相手の声など、覚えておきたくもない。
「ああ、お久しぶりです。どうしたんですか?」
「え、ち、実は、導入したAIがポンコツで…」
「俺よりいい仕事をしてくれるはずじゃなかったんですか?」
一年前に言われた罵倒をそのまま返すと、賢一さんが一瞬言葉に詰まる。
「あれは汎用品の生成AIで、既存システムとの連携も品質管理もできなくて、クライアントからクレームの嵐で…」
「その件ですけど、俺が賢一さんに渡そうとしたマニュアルに、やり方が全部書いてありましたよ。ああ、価値のないゴミだと破り捨てられましたけど」
「あ、そ、そうだったのか。なんで言ってくれなかったんだ?」
「言ったところで、聞く耳持ちませんでしたから」
俺はため息をつきつつ、続けた。
「あなたの会社がピンチだっていうのは知ってますよ。前の会社に残っていた知り合いから、情報は入ってきてましたから。倒産寸前なんでしょう? 残念ですが、お断りします」
「どうしてだよ! 俺の親父に恩があるんだろう! このままじゃ、親父の会社が潰れちまうぞ!」
「誠一郎社長には申し訳ないですが、それも運命でしょう。あなたの手に渡った時点で、会社は潰れることが決まってたんです。だって、あなた、社長の器じゃないですし」
「な、なんだと!」
「誰の目から見ても明らかでしたよ。誠一郎社長は息子のあなたを信じてましたけど、父親の信頼を裏切ったのは、あなたの方ですよ、賢一さん。そう。こうなったのは、他の誰のせいでもない。全て、あなたの自業自得だ。それに、俺は自分の会社の経営で忙しいんでね。嫌いな相手を助けるほど、時間に余裕はありません」
「え、自分の会社…行ってませんでしたっけ?」
「俺、自分の会社を持ったんですよ。俺のことを中卒の底辺と馬鹿にしてましたけど、社長としての適正は、俺の方が上だったみたいですね」
電話の向こうから、賢一さんの絶望的な息遣いが聞こえてくる。
「あ、もういいですか? 賢一さんと違って、忙しいので」
「あ、待ってくれ! 今までのことは謝るから!」
「本当にすみませんでした! 頼む!」
「せめて…! せめて、うちの会社を助けてくれえ!」
賢一さんが泣き叫ぶ声を聞きながら、俺は容赦なく電話を切った。すぐに賢一さんの電話番号を着信拒否にすると、自分の仕事に戻った。この後、元社員から聞いた話によると、賢一さんの会社は倒産。多額の借金を背負うはめになったらしい。賢一さんは、車や家などの資産を売却したが、返済にはほど遠く、現在は複数の仕事を掛け持ちして、朝も夜もなく働いているそうだ。ちなみに、その元社員は、うちに面接に来た人で、とても優秀な人だったので、喜んで採用した。
「そろそろ、本格的には引っ越し先を探し始めた方がいいな」
岡村の言葉に、俺も頷いて返す。デスクに置いてある正一郎社長の写真に目をやる。写真は、独立の際に妹が送ってくれたものだ。
「誠一郎社長、見守っててくださいね」
誰にも聞こえない小さな声で呟くと、もちろん、という社長の声が聞こえた気がした。



