朝の冷え込みを読んで砥石の角度を0.02mm変えた。35年間、図面にないこの判断で金型を作り続けてきた。ところが新社長は「勘などに頼る職人なんていらん。機械で十分だろ。首だ」と、あっさり私を切り捨てた。私は退職を受け入れ、懸念書を会社に残した。それから2ヶ月後、「納品した金型が全部使えない」と取引先から電話が来る。そして、その後輩からも衝撃の事実が告げられた。私は今、この会社を辞めて良かった…

朝の冷え込みを読んで砥石の角度を0.02mm変えた。35年間、図面にないこの判断で金型を作り続けてきた。ところが新社長は「勘などに頼る職人なんていらん。機械で十分だろ。首だ」と、あっさり私を切り捨てた。私は退職を受け入れ、懸念書を会社に残した。それから2ヶ月後、「納品した金型が全部使えない」と取引先から電話が来る。そして、その後輩からも衝撃の事実が告げられた。私は今、この会社を辞めて良かった...

「機械で十分だろ。首だ。」
新社長は、金型を製造する工場で働く俺に、あっさりとそう言い放った。複雑な形状の金型の仕上げに不可欠な手作業を、不要だと断じたのだ。しかし、この傲慢な新社長はすぐに思い知ることになる。職人の経験と技術を軽視した代償の大きさを。

俺は55歳。中小の金型製造メーカーの工場で35年働いてきた。仕上げ台の上には複雑な形状の金型が置いてあった。自動車メーカーに納めるブレーキ部品を整形する型で、自動加工機械で荒削りを終えたものだ。

設計データ通りに加工されている。しかし、それで完成ではない。今朝は冷え込んでいた。金属は気温が下がるとほんのわずかに縮む。次の工程で素材に熱が入った時、今の寸法のままでは部品が型の内側に食い込んで抜けなくなる。だから0. 02mm分、あえて余分に削っておく必要がある。図面に書いていない判断だ。

砥石を当てる角度をわずかに変えた。
「高さん。そこ0. 02削りましたね。」
俺の脇で作業を見ていた佐野の声だ。42歳、入社13年目の後輩だ。なぜ0. 02mmなのか、佐野は聞いてこない。今朝の冷え込みと素材の状態から、佐野自身がすでに同じ結論に辿り着いているからだ。自動加工機械にはこれができない。設計データ通りに削ることはできても、今日のこの素材の状態は機械には読めない。

仕上がった面を指の腹で確かめる。合格だ。仕上げ台の脇のノートを開き、今日の判断を書き添えた。

発注先である大手自動車メーカーの杉浦が、少し遠巻きに俺と佐野の作業を見つめている。この型の発注元の担当者だ。
「高さん、やっぱりあなたじゃないとこれはできませんね。」
俺は杉浦に頷いた。

そんな俺の日々に異変が訪れる。我が社の新社長になった平川が工場を訪れたのは、就任してから3週目のことだった。作業フロアの入り口に立った平川は、機械が動くエリアと俺たちが手作業をしているエリアを交互に見渡していた。
「機械が動いてるのに、まだ手作業の工程があるのか。」
それは平川を案内する製造部長に向けた言葉だったが、俺にはしっかり聞こえていた。

平川はフロアをゆっくりと歩き、俺と佐野がいる仕上げ台の前で立ち止まる。
「お前ら、ここで手作業をしているが、機械化の検討はしたのか?」
俺は砥石を置いた。
「複雑な金型は、機械では対応できない工程があります。」
「機械では対応できないだと?」
「素材の個体差や、加工中の熱変形があるため、機械で一律的な対応ができないんです。どうしても手作業による微調整が必要になります。これは設計データに書けない判断で――」
平川は俺の説明を遮り、吐き捨てるように言った。
「バカバカしい。手作業による微調整? 人間が機械の精度に勝てるはずがないだろう。」
俺は反論した。
「職人の勘やら技術だとでも言うつもりか。機械に作業させた方がよほど効率的だ。私はこの会社に来る前、食品メーカーの管理部門にいたんだ。そこで生産コストを3年で40%削減した実績がある。だからこの会社の社長に招聘されたんだ。」
話すほどに平川の顔が得意げになっていく。まるで武勇伝を語るかのように平川は続ける。
「コスト削減の手法は簡単だ。数字にならない工程を全部洗い出して潰していくんだよ。そう、お前らがやっているような手作業をな。」

平川はそう言って不敵な笑みを向けてくる。俺は引くことなく反論する。
「しかし社長、複雑形状の金型だけは手作業が必要です。」
その時、横から佐野が口を開く。
「高さんの言う通りです。この手作業の工程があるから、精度の高い金型が作れるんです。」
平川は佐野を一瞥した。
「はあ。二人して神田よりと言ってるのか。」
フロアが静まり返った。佐野は萎縮し、黙ってしまう。俺はそんな佐野の代わりに一歩前に出た。
「勘ではありません。素材の個体差が実際にどう出るか、熱が入った時にどう金属が変形するか。長年の経験則によるものです。だからそれを勘だと言っている――」
イライラしたように平川が言った。
「もういい。勘などに頼るいい加減な金型職人なんていらん。機械で十分だろ。首だ。」

工場内が静まり返る。平川は呆然とする作業員たちを見回し、予想通りの反応に満足したのか、うっすら笑みを浮かべて踵を返し、工場を後にする。俺の後ろにいたはずの佐野は、いつの間にか姿を消していて、周りの作業員たちも俺から距離を取っていく。

しばらく俺は動けなかった。「勘」という一言が頭の中で繰り返されていた。35年間、俺はただの勘で仕事をしてきたのか。朝の冷え込みを読んで砥石の角度を変えたのも、素材の状態を指先で判断したのも、全部根拠のない勘だというのか。怒りでも悔しさでもない、胸の底がすっと冷えていく感覚だった。

それでも俺はできることを考えた。面と向かって首と言われたのは俺だけだ。佐野はきっと会社に残れるだろう。となれば、俺が今やれることは記録に残すことだけだ。

俺はその日のうちに懸念書を作った。複雑形状の金型における機械化の限界、想定されるリスク、具体的な品番と工程を、できるだけ細かく書いた。そしてそれを一部総務に渡し、手元に一部を残した。

数日後、俺は総務に呼ばれた。テーブルの上に退職合意書がある。平川から総務に下った指示に違いない。不当だという気持ちはあった。だが、長く争う気はなかった。数字にならない判断を勘だと切り捨てる社長のもとで仕事を続けることなどできなかった。

俺はペンを取って署名する。そして道具と私物をまとめて工場を出た。フロアを横切る時、佐野と目が合う。その時、平川が佐野の横に立ち、低い声で何かを囁いている。佐野は俺を見たまま何も言わない。俺も何も言わなかった。

あの日から、佐野は一度も連絡をよこさなくなった。平川から何か言われているのだろうが、確かめる方法はない。

退職から3週間後、俺は知人が経営する小さな金型工場で仕事を始めた。従業員8人、設備は自動加工機械が1台。あとは職人の手仕事が頼りの工場だ。複雑形状の金型は扱っていないが、量産の案件でも俺は仕上げの基準を変えなかった。寸法は出ている。それでも指の腹で触れて確かめる。合格かどうかを判断するのは数字ではなく、この指の腹の感触だ。35年かけて磨いてきた手を、ここで止めるわけにはいかない。

杉浦から電話が入ったのは、退職から2ヶ月が過ぎた頃のことだった。
「高さん、突然の連絡で申し訳ありません。先日工場に行った時、退職されたと伺いました。実は、高さんにご相談がありまして。先日、納品された複雑形状の金型なんですが、全部使えない状態なんです。整形の工程で部品が型から抜けなくなっています。熱変形が出ているとしか考えられなくて。高さんなら原因が分かると思うんです。もしよければ、直接工場に行って確かめてもらえませんか? 私も同行します。」
それだけではなかった。杉浦はさらに声を落とす。
「実は同様の不良が、他の自動車メーカー2社にも波及していると聞きました。損失の総額は、場合によっては20億円規模に達するかもしれないと、弊社の経営陣も深刻に受け止めています。この状態が続けば、契約を解除することも想定しています。」

俺は少し間を置いてから答えた。
「少し考えさせてください。」
電話を切った。杉浦が言った内容は、俺が懸念書に書いたことと重なっていた。加工中の熱で素材がわずかに変形する。それを読んだ上で勾配を調整するのが、俺たちがやってきた工程だ。機械にはその日の素材の状態が読めない。だから設計データ通りにしか削れない。不良は起きるべくして起きた結果だ。

しかし、俺には動く理由がない。杉浦が困っているのは分かる。だが、俺を不要だと判断した会社に、自分から手を貸すことの意味がまだ整理できていなかった。

夜の11時を過ぎた頃、スマートフォンが鳴った。画面に表示された名前を見て、俺は息を飲んだ。佐野だった。俺が退職してから2ヶ月以上、一度も連絡のなかった男だ。
「高さん……」
声がいつもと違う。枯れていて低い。佐野はしばらく黙ってから、ゆっくりと話し始めた。取引先に納めた複雑な形状の金型が不良になったとのことだ。俺はもう聞いていると伝えた。杉浦さんから連絡をもらっていたからだ。

すると佐野は、こう続けた。不良が発覚した翌日、平川に呼び出されたと。「お前がちゃんと機械の指示通りにやらなかったからだ」と。現場の誰もが、手作業による仕上げ工程をなくしたことが原因だと分かっていた。それでも平川は佐野に責任を押し付けたのだ。

俺は黙って耳を傾けた。
「高さんがあの日、工場を出る時、社長に呼び止められたんです。『高さんのやり方を引き継ぐなら、お前も首にする』と言われました。上の子が今年大学受験で、学費のことも考えるとすぐにはやめられなくて。だから高さんに何も言えなかった。」

返す言葉が出てこなかった。佐野には妻と子供が2人いる。上の子が受験の年だということは、俺も聞いていた。平川がそれを知っていたかどうかは分からない。だが結果として、抜けられない事情を抱えた人間を、平川は2ヶ月間に渡って縛り続けたのだ。
「それからずっと耐えてきたんです。高さんのやり方を全部なかったことにしろと言われても、それだけはできなくて。懸念書のことも知っていたのに、社長に言えませんでした。」
俺は何も言わなかった。
「すみません。こんな時間にご迷惑でしたよね。」
「いや、いいんだ。事情は分かった。」

俺はもう、あの工場に行くことに躊躇する必要はないと判断した。
「佐野、とにかくお前はゆっくり休め。俺は明日の朝、工場に行く。杉浦さんからも頼まれていたんだ。」

電話を切った後、しばらく動かなかった。平川が佐野に言い続けてきた言葉が頭から離れない。佐野は我慢を重ね、そして限界になった今夜、電話を取ったのだろう。佐野を守れるのは、佐野に技術を叩き込んだ俺しかいない。そして、それは俺の技術を守る戦いでもある。

翌朝、杉浦に電話を入れた。
「工場に行きます。製造部長へ話をつけてもらえますか?」
「分かりました。今すぐ連絡します。」
「それともう一つ。総務の担当者と平川社長にも、工場に来ていただきたい。」
「分かりました。弊社のほうとも連携して正式に要請しますので、おそらく断れないはずです。」

俺は杉浦の電話を切り、次に今勤めている工場に連絡を入れた。包み隠さず事情を説明すると、工場長は理解を示し、俺が前の職場に行くことを認めてくれた。

俺は工具バッグを手に工場に向かう。工場に着くと、入り口で杉浦が待っていた。製造部長が隣に立っている。目を伏せたまま、製造部長は俺を工場に通した。フロアに入ると、不良品が並んでいた。複雑形状の金型が十数個、仕上げ台の上に陳列している。俺はその中の一つを手に取った。指の腹で抜き勾配の面を確かめる。工程での熱で素材がわずかに膨張していることが分かる。懸念書に記した通りの不良だ。
「製造部長。佐野に再生をさせてください。私が横で見ます。」
製造部長は頷いた。

間もなく佐野が出勤してきた。顔色が悪い。あまり眠れなかったのか、目の下に疲れが滲んでいる。
「高さん、来てくださったんですね。」
「来ると言っただろう。これから金型を作り直すことになった。佐野、やれるか?」
「はい、やります。」
佐野は工具を手に取った。砥石を当てる前に、素材の状態を確かめる。今日の工場の温度、素材の保管状態、直近で加工が入った際の熱の入り方。それらを積み重ねて、削る量を判断する。機械にはこの工程がない。だから不良になったのだ。佐野が砥石を当てる前に俺を見た。俺は頷く。佐野の手が動き始めた。

午前中が終わる頃、フロアに足音が増えた。平川と総務の担当者だ。二人が入り口に立った瞬間、俺の存在に気づいたようだった。平川の表情が固まる。杉浦が口を開いた。
「今日お越しいただいたのは、不良の原因と経緯を確認するためです。高さんに説明をお願いしています。」
「なぜ元社員が――」
杉浦は遮らず、平川に向かって言った。
「私が依頼したからです。高さん、お願いします。」

俺は作業着のポケットから一枚の紙を取り出した。退職前日に総務に提出した懸念書の控えだ。
「社長、これをご覧になったことがありますか?」
平川の目が紙に向いた。
「この懸念書は、私が退職する前日、総務部に提出したものです。複雑形状の金型は機械化に対応できない。加工中の熱変形に対して機械は判断ができない。品番と工程を具体的に書いた。今回不良が出た品番と工程は、ここに書いてあるものと一致しています。」

平川は無言のまま懸念書の控えを見つめている。俺は声を強めていった。
「今朝の気温と素材の状態を読んで、砥石の角度をほんのわずかに変える。削る量にして0.

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01mm。図面にも設計データにも書いていない判断です。機械はその日の冷え込みを読めない。素材の個体差を指の腹で感じることができない。今回の不良は、その0. 01mmの判断を機械に代行できなかった結果です。これが、数字にならない工程の正体です。社長。」

平川は黙ったままだ。俺はさらに畳みかける。
「私の懸念書が、総務に提出後にどう処理されたかお答えください。」
総務担当者がわずかに体を強張らせ、平川を見た。平川は黙った。総務担当者が観念したように口を開いた。
「申し訳ございません。上からの指示で……」
「つまり、社長の指示で握り潰されたということですね。」
俺がそう確認すると、平川は視線を床に落とした。その一言で全てが分かった。
「答えが出ましたね。では、もう一つあります。」

俺は平川を正面から見た。
「俺が工場を去った日、佐野に何を言ったか覚えていますか?」
平川の顔がわずかに歪んだ。
「佐野。社長に直接話してくれ。」
佐野は作業を止め、一歩前に出た。
「高さんのやり方を引き継ぐなら、お前も首にする。そう言われました。」
平川はそこでようやく口を開いた。
「そ、それは指導の発言であって――」
言い淀むかを、俺は遮った。
「佐野はその言葉を2ヶ月間抱えながら、この工場で仕事を続けた。上の子が大学受験の年で、学費だってかかる。佐野がすぐには仕事をやめられないと分かっていて言ったのですか?」
「そ、そんなことは知らん。」
平川はそう言って俺から目をそらす。俺は平川を正面から見据えていった。
「技術を数字にならないと言って私を切り捨て、それを指摘した後輩の弱みを握り、会社に縛りつけた。その結果が、今回の不良を生んだ。」
俺は不良品の並んだ仕上げ台に目を向ける。
「社長。あなたはコスト削減の専門家として来た。そして数字にならない工程は不要と言いましたね。では聞きます。今回の不良が生んだ損害を数字にしてみましたか? あなたが切り捨てた職人を機械に変えて得たコストより、この不良が生み出した損害の方が大きいはずだ。そして何より、あなたの判断が会社の信用という数字にはできないものまで失わせた。あなたに、人の技術を預かる会社の社長など勤まるはずがない。」

平川は答えなかった。何かを諦めた顔だ。杉浦が口を開いた。
「社長。弊社はこの件で少なからぬ損害を受けています。提出済みの懸念書が適切に処理されなかった事実は、会社の注意義務違反として賠償交渉の根拠になるでしょう。3者の損失総額は、20億円規模に達する可能性があります。賠償についての協議を正式に求めます。再発防止策を文書で提出してください。期限は2週間以内です。このまま対応がなければ、契約解除を正式に検討せざるを得ません。」
「……分かりました。」
平川が項垂れる。杉浦が製造部長に向いた。
「引き続き佐野さんに作業を続けていただけますか?」
製造部長は頷いた。

佐野が砥石を持ったまま俺を見ていた。さっきの一部始終を聞いていたはずだ。俺は何も言わない。佐野も何も言わない。ただ目が合う。それで十分だと、俺は思った。

数日後、杉浦から電話があった。佐野が再生した金型が検査を通過し、大手自動車メーカーの製造ラインも動き出したという。俺は礼を言って電話を切る。

それから数週間後、杉浦から再び電話が入った。平川が社長を退任したとのことだ。取締役会が経営責任を取らせた結果だと、杉浦は淡々と言っていた。当然だ。俺は静かにそう呟いて電話を置いた。

平川の退任を聞いた翌日、俺は前の工場に足を運んだ。フロアに入ると、佐野が仕上げ台の前に立っていた。砥石を持つ手つきに、以前と変わらない迷いのなさがある。

俺は工具バッグからノートを取り出した。表紙が擦り切れた、厚みのある一冊だ。どの素材のどの工程で、何を読んでどう削ったか。数値に残せない判断を、俺なりの言葉で書き続けてきた記録だ。
「これは俺のものじゃない。お前が次に継ぐためのものだ。」
佐野はノートを受け取り、表紙に目を落とした。ゆっくりと開いたページには、びっしりと文字と数字が並んでいた。佐野と目が合い、俺はゆっくり頷く。

35年間、俺はこのノートのために働いてきたのかもしれない。そして、この技術が佐野の手に渡った。今、俺の仕事は本当に終わった。これで完全に技術の継承ができたと、俺は思うのだった。