突然の声に、私はビクっと体を震わせた。体は正直なものだ。声を聞いて誰かを判別するより先に、過去の嫌な感情が反応してしまう。恐る恐る振り返ると、そこには元夫が立っていた。隣には小さな女の子がいる。元夫は気持ち悪いくらいの笑顔を浮かべ、慣れ慣れしく話しかけてくる。法律上はもう他人なのに、ずかずかと入り込んでくる感じが嫌だった。
今日は小学校の入学式。桜が舞い散る校内は、制服に身を包んだ新入生とその家族でごった返していた。どう答えようか迷っていると、元夫がとんでもない言葉を放った。
「お前、不妊なのに、こんなところに来たのか?」
その瞬間、あの頃の嫌な記憶が蘇ってきた。そう、私たちが離婚した原因は、この不妊の問題から始まった。だけど今思えば、それはきっかけに過ぎなかった。彼は私を不妊と責めるばかりで、原因がどちらにあるのか調べようともしなかった。朝の挨拶代わりに「おはよう、不妊」と言われた時、もうダメだと思った。
元夫が連れている女の子は、どうやら彼の子供らしい。私たちが夫婦だった時に子供ができなかったのは、単に相性の問題だったようだ。
「あれからさ、俺、再婚したんだ。美人の嫁でさ、プロジェクトもうまくいって課長にしてもらえたし、この子にも会えたし、本当に幸せだよ」
聞いてもいないのに、そんなことを言いながら彼は女の子の頭を撫でる。「それでお前はどうなんだよ。子供が見たくて来たのか? 余計子供欲しくなるんじゃないか」
こんな失礼なことを笑顔で平然と言える神経が分からない。「もう見かけても話しかけてこないでくれる?」そう言うのが精一杯だった。本当に吐きそうだった。
翌日、月曜日の10時過ぎ。パートを休みにしておいてよかったと一人で思っていた時、突然携帯電話が鳴った。見知らぬ番号。嫌な予感がしたが、通話ボタンを押すと、なんと元夫からだった。
「いや、昨日は久しぶりに会えて良かったよ」
子供もおらず、分ける財産もない私たちは、連絡先を交換する必要もなく、連絡に残しておきたいほどいい思い出もなかった。だから別れた時、真っ先に元夫の番号を消したし、番号も何度か変えた。
「なんでこの番号が分かったのよ?」
「悪い悪い。昨日あっただろ。あの時俺の嫁がさ、お前のこと見てたらしくて。お前のこと知ってるって言うんだよ。小中と一緒だった大本みかって覚えてないか?」
大本みか。すぐには思い出せないほど昔のことになってしまった。思い出せた時、なぜか悲しくなった。彼女とはいい思い出がない。ブランドで身を固めた彼女は、上から下まで人の立ち姿をなめるように見回して吟味する。身の毛がよだつような数秒間。好きな人、彼氏、進路先の選択。彼女にとって大事なのは、人にどう見られるかだった。
約10年前の同窓会で、その場の流れでなんとなく電話番号を交換した。そんな彼女と元夫が今、夫婦になっている。落ち着くべきところに落ち着いた。そうとしか表現しようがない不思議さを感じた。
「昨日、子供連れてたのを見たってみかが言ってたけど、連れ子なのか?」
「違うわよ!」
自然と怒鳴るような喋り方になってしまう。本当に失礼な男だと思う。
「だってほら、連れ子を可愛がるなんて難しいと思うからさ。お前のような不妊女には仕方ないかもしれないけど」
「違うって言ってるでしょ! 私と夫の子です!」
「また見栄張らなくてもいいって。いちいちこんなことを言うために電話してきたの?」
私はまともに相手するのが馬鹿らしくなった。「2度としょうもないことで電話しないで!」そう言うなり、通話を切った。この人と話しているといつもこうなる。
それからしばらく経ち、我が子の運動会の日。夫は仕事の都合で後ほど合流することになっていた。子供たちは普段より少し早起きして作ったお弁当をとても楽しみにしている。校舎裏の日陰でお弁当を食べられる場所を確保し、昼食前のメインイベントであるリレーを見ようと入場門に向かっていた時のことだった。
「みさ、みさじゃない?」
呼び止められた。正直、このイベントに出席するにあたり、一抹の不安がなかったと言えば嘘になる。もしかして、みか。分かっていたけど確認したくなかった。
「あんたたちが夫婦だったなんてね。ケン太さんに聞いた時はびっくりしたけどね」
挨拶もそこそこに、ずかずかと入り込んでくる感じは変わっていない。みかは耳打ちするように口元を私の耳に近づけ、小声になった。
「あんた不妊なんでしょ? 大変だね。3人も連れ子なんて」
「違うよ。私の子供」
「また、隠したくなる気持ちも分かるけどさ。ああ、そうか。子供たちにも言ってないんだね。分かった。誰にも言わないから」
この人たちと話していると、こんな会話ばかりになる。声を上げて否定しようとした時、聞き覚えのある声が聞こえた。
「あら、あなた、今みさと話してたの? 子供たちが自分の子だって言いはるのよ」
「そうか。みさの妄想癖も相変わらずだな」
「もしかして結婚したっていうのも妄想じゃないの?」
そう言うなり、2人は笑い出した。バカップルという懐かしい言葉が頭の中でこだました。これ以上真面目に返答するのも馬鹿馬鹿しく、時間の無駄に思えた。しかし、調子に乗った夫婦には引き際という言葉がないようだった。
「俺もさ、不妊だと分かってたら結婚なんかしなかったけどな」
「確かにそうよね。それにしてもみさ、本当にもったいないことしたよね。この人、あんたと別れてから課長にまでなったんだよ。会社でも注目の出世ルートにいるんだよ。あんたは分からなかっただろうけどさ」
そう言って、有名なお笑い芸人のように胸を張る。こんな人が出世するような会社なんて、その程度が知れてるわ。そう思ったが口には出さなかった。
「おいおい、そんな言い方したら失礼だろ」と嫁を嗜めるふりをして、元夫も同じように胸を張った。やっぱりバカップルだ。
いつまでこんな胸くそ悪い会話に付き合わなければならないのか。そう思った時、3人の子供たちがやってきて「お母さん!」と声をかけてきた。もしこのバカップルが連れ子だとか、私の大事な子供たちに吹き込むようなことをするなら、怒りつけてやろう。そんなことを考えていたが、2人は「あら、可愛い子供たちだね」と白々しく言いながら立ち去ろうとした。
だが、次の瞬間、子供たちは「お父さん!」と言いながら、嬉しそうに別の方向に手を振っていた。私の夫、誠一さんが笑顔で現れたのだ。
「ねえねえ、あの方、物好きの旦那さんと?」
みかは元夫に向かってさらに言葉を重ねようとした。ところが元夫の反応は、みかの予想に反して釣れないものだった。はっきり分かるほど顔を曇らせ、ブルブルと震えている。みかは「あれ?」と言いながら、俯いてしまった元夫の顔を覗き込み、首をかしげた。みかは、さっきまで強気一辺倒だった元夫の急変に、訳が分からないようだった。
「こんにちは。誠一です」
子供たちの頭を撫でながら、私の夫が挨拶する。影など一つもない飛び切りの笑顔。爽やかだなと心から思い、こちらも笑顔になってしまうのはいつものことだが、今日は特にそれがありがたく思えた。
「こちらの方、お顔色がよろしくないですが、大丈夫ですか?」
誠一さんは初対面の相手にもしっかり気配りしている。一方の元夫は、そんなことを言われてますます下を向いて顔を上げられなくなってしまった。
「今日も暑かったし、普段の激務の影響ですかね。あと、うちの旦那さんなんですけど、大企業の張根商事に勤務してまして。不調になれるかどうかの昇進争いの真っ最中なんですよ」
さっきは課長になったと私に言ったくせに、張り合いたいのか無茶苦茶なことを言っている。「え、張根商事さんですか? わあ、これはこれは大事な仕入れ先さんだ」と言うや否や、誠一さんは名刺入れから名刺を取り出して挨拶を始めた。誠一さんと元夫の会社が取引関係にあったとは。だとすると、元夫の急変ぶりもなんとなく分かる気がする。
「そ、それじゃ私は……」
元夫がたまらず立ち去ろうとした時だった。
「様子を見るために初対面のようなふりをしていましたが、あなたとうちの妻が以前夫婦だったことは聞いています」
「え、ああ、はい、その通りです。久しぶりだったもので、つい声をかけてしまいました。それだけのことでして、特に何も」
「特に何も? 実はさっきまで近くで見てたんですよ。特に何もないなんて思えませんが。高木さんを何度も何度も『不妊』と言っていましたよね。今もそのように見えましたが」
「いえ、その、検査結果で……」
「検査を受けたことは一度もないと、うちの妻から聞いておりますが」
誠一さんは黙り込んでしまった元夫をさらに攻め立てた。まるで私が彼らにされたことへの仕返しをするかのように。
「若さん、大変失礼ですが、あなたは人として間違ってないですか? 人の妻を不妊呼ばわりするなんて。実際、世の中それで苦しんでいる人はたくさんいると思うんですが」
さっきまで芸人のように胸を張っていた元夫は、名もなき虫のように小さくなってしまった。
「あと、今後、御社との取引は止めさせていただきます。高木さんみたいな最悪な人間性を持つ人とは一緒に働けない。そちらの上司にはそう伝えますので」
一番聞きたくない言葉を言われた元夫は「そ、それだけはご勘弁を……」と言葉を絞り出し、その場にへたり込んでしまった。しかし誠一さんは一切構わず、子供たちの手を取って歩き始めた。振り返ると、顔面蒼白のみかが夫の肩を揺さぶっていた。「しっかりしなさいよ、あんた!」
その後、あの夫婦が離婚したことを聞いた。あの人がいるから取引したくないと名指しで言われた元夫の所業は、例え元夫婦であっても著しく人間性に問題があり品格に欠けると上層部に判断されたらしい。重要な有料得意先を失った責任を取るのは必然という流れを覆すことはできず、元夫は退職した。ローンが残る家、まだまだお金がかかる子供たちを抱え、苦労しているのだとか。そして、そんな元夫を簡単に捨て、離婚という道を選んだみかも、パート先で出会った男に騙され、ボロボロにされたのだそうだ。
一方、私はずっと味方でいてくれて守ってくれた夫と、子供たちの成長を見守る何気ない日常に感謝して暮らしている。確かに、子供が欲しい人にとって、それは喉から手が出るほど欲しいものなのは間違いない。しかし、そんな欲しいものが手に入らない状況でも、それを受け入れて夫婦2人で生きていく方法もあると思う。出世できなくても、日々を楽しく生きていくことはできると思う。そんな毎日をありがたいと感謝できれば、そんな日々がやってくる。そういうものだと思う。だから、誠一さんや子供たちとの日々に本当に感謝して、楽しく生きる。それで十分じゃないか。今はそう思えるし、これからもそう心から願うのだった。
両親と一緒に出かけた1泊2日の旅行の帰り道、私たちは立ち寄ったスーパーで立ち尽くしてしまった。目の前を歩く一人の男性。あの服、あの髪型、あの身長。絶対にそこにいるはずのない人物なのに、間違いない。私の夫のタクトだ。なぜここにいるはずがないって? 実は今回の旅行は、元々夫と一緒に行く予定だった。だが急に出張が入ったということで旅行をキャンセル。代わりに友人を誘うも、彼氏との予定があると断られた。そこで私は両親を誘って旅行に出かけたのだ。
なのに、どうして夫がこんなところに? 私の両親も夫の姿に気づき、驚いている。
「おい、タクト君がどうしてここに? 出張だったんじゃないのか?」
それに横にいる女性は誰なんだ? そう、夫は一人でいたわけではなく、ベビーカーを押す女性と並んで歩いていた。それも女性の腰に手を当てながら。傍から見れば、幸せな家族そのものだ。夫が浮気をしていることは、誰が見ても明白だった。
今までそんな夫の浮気の気配に気づいたこともなく、目の前の光景が信じられずに私は呆然としてしまった。だがふと我に返ると、怒りがふつふつと湧いてきた。
「ふざけんじゃないわよ」
もちろん、怒っているのは私だけじゃない。「ようこ、行くわよ」私のこの気の強さは、完全に母譲りだ。
私たちは幸せそうに歩いている2人に近づいた。
「ねえ、今日ご飯何食べたい?」
「うーん。ママの作る料理なら何でも美味しいよ」
デレデレと会話する夫の背後から声をかけた。
「素敵なご家族ですね。お買い物ですか?」
「はい。よ、ようこ、こんなところで何してるの?」
「ねえ、出張は? あと、そっちの女は誰?」
夫を睨みつけ、隣のベビーカーを押していた女性に目をやったところ、私自身も驚いてしまった。その女性はなんと私の友人のレミ。彼氏と予定があると言って旅行の誘いを断られた友人だ。レミとは学生時代からの付き合いで、元々タクトとの出会いは彼女からの紹介によるものだった。
「レミ? え、なんで?」
「ち、違うの。これはたまたまそこで会って、たまたま……」
「離れたこんなところで。そういえばレミ、この辺り住んでたよね」
「やだ、ようこ、誤解しないでよ。たまたま会って買い物手伝ってもらってただけよ」
「声かける前、タクトのこと『パパ』って呼んでたの聞いたけど」
「そ、それは……」
「レミ、どういうこと? パパって……」
「そのままの意味よ。この子の父親はタクト君」
はあ? 意味が分からない。
「タクト、どういうこと?」
「おい、レミ!」
「いや、これはその……」
隠れて浮気してただけじゃなくて、子供まで作ってたっていうの? 私たちは人目もはばからず大声をあげて2人に詰め寄った。ベビーカーにいたレミの息子も泣き出してしまう。だが、そう簡単に怒りを抑えることなんてできない。だって夫が浮気だなんて。しかも相手は私の友人。さらに子供までいるとは。レミの出産時、夫と2人でお祝いに行ったけど、あの時2人はどんな気持ちで私と話していたって言うの?
「ちゃんと説明してよ! 2人でずっと私のことを騙していたの!」
突然のことに頭が混乱し、ショックと悲しみのあまり、涙で顔がぐちゃぐちゃだ。
「ようこ、落ち着きなさい。ひとまず落ち着いて話せる場所に移動しよう」
父の言葉にはっと我に帰り、辺りを見渡すと、私たちの騒ぎにたくさんの人が集まってきていた。そこで私たちは近くのファミレスに移動し、話の続きをすることにした。行くまでの道中、これまでの夫やレミの様子を振り返り、なぜ気づかなかったのかと悔しくなった。
ファミレスで夫とレミの正面に座り、私は2人を睨みながらこれまでのことを問い詰める。もちろん、この会話はスマートフォンで録音してある。
「いつからあんたたちは浮気していたの?」
「ようこと君が結婚する前からよ」
はあ?
「そもそもタクトを紹介してきたのはレミでしょ?」
「ようこに紹介した後、私もタクト君のこと好きになっちゃったの。だから奪っちゃった」
信じられない。つまり夫と結婚してからの3年間。いや、交際期間を含めるともっと長い期間、私はずっと2人に騙されていたのだ。怒りが再燃する。こんな非常識な奴とずっと友達だったなんて。結婚式ではスピーチまでしてくれていたのに。レミは誰よりも私たちの結婚を喜んでくれていると思っていた。
「レミを旅行に誘っても来れないわけよね。だって2人で会うための口だったんだもの」
「は、それなのになんでタクトは私と結婚したのよ?」
「別れられるわけないだろ。だってお前は社長の……」
「まさか、お前、自分が社長になるために?」
「タクト君は社長になった後、ようことは離婚して私と一緒になる予定だったの。社長になるにはようこと結婚しなきゃいけないって言うから」
はあ。社長になるためだけに私と結婚したっていうの?
「なんだと? よくもそんなことを! こんな奴をうちの会社の社長にするわけがないだろう。お前は首だ! 不倫の慰謝料もきっちり払ってもらうぞ!」
普段は温厚なお父さんも、さすがに怒りが抑えられない。夫は顔色を変えた。
「社、社長! それだけは! レミと子供を養っていかなくてはいけないんです!」
「え、嘘? ようこのパパが社長なの? そんなこと聞いてなかったわよ!」
レミは私の父が誰なのかを知らなかったみたい。確かに私は自分の家族のことについてはレミに話したことなんてなかったけれど、夫もレミに家のことを詳しくは言っていなかったみたいね。実は夫の会社は、私の父が代表を務める会社。私と結婚したことで、夫は次期社長候補と言われていた。父は間もなく定年退職するため、来月には人事発表の予定だった。
「休日に出張なんて、うちの会社では珍しいと思っていたが、こういうわけだったとはな」
結婚当初から夫は帰宅の遅い日や休日出張がたまにあった。うちはプライベートも大事にするホワイト企業だと父がよく話していたので不思議だとは思っていたが、このことを父に伝えていれば、2人の関係ももっと早くに分かっていたかもしれない。
「社長、首だけはご勘弁を! お願いします! まだ小さい子供もいるんです!」
「お前みたいな奴が信用できるわけないだろう。気にかけてやっていたのに、こんな形で恩を返されるとはな。タクト君なら安心してようこを任せられると思っていたのに。失望したわ」
「レミちゃん。あなたにも本当にがっかりよ」
私の両親は2人のことを決して許さないだろう。もちろん私も。
「分かりました。要は離婚して会社も辞める。そういうことですね」
「そうよね。タクト君は優秀だから、他の会社でも十分やっていけるわよ。私が支える」
夫とレミは開き直って、自分たちでどうにかすると強気な態度を見せた。
「ねえ。じゃあ最初から私のことなんて好きじゃなかったってこと?」
私はここでふと浮かんだ疑問を夫にぶつける。結婚前からレミと関係を持っていたのなら、プロポーズの時の「君とこの先もずっと一緒に生きていきたい」っていう言葉は何だったの?
「ああ、そうだよ。俺はようこと出会う前からずっとレミのことが好きだったんだ。やっと思いが通じて、レミを幸せにするには社長になるしかないって思って、お前と結婚したんだ。ようこ、ごめんね」
「タクト君が選んだのは私なの」
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。夫は私と出会う前からずっとレミのことが好きだった。じゃあ私はずっと利用されていただけだったってこと? 社長になるためだけに、これだけ大勢の人を巻き込むなんて。夫とはこれまでに子供のことについて、こんな話を何度かしていた。
「ねえ、そろそろ子供のこととか考えてみない?」
「ああ、だけどまだしばらくは子供はいいかな。仕事も忙しいし、ようことの結婚生活をもう少し楽しみたい」
「そっか。それなら仕方ないね」
私は子供が欲しかったが、夫はずっと欲しがらなかった。それがもうすでに自分の子供がいて、私とは離婚する前提だったなんて。夫は開き直ってペラペラと喋る。
「大変だったよ。好きでもない相手と結婚生活を続けるのは。でも、やっと一緒に住めるんだね」
「ああ、長かった」
完全に2人の世界に入ってしまっているバカな2人。これからの生活のことなんて何も考えていないのだろう。結婚した相手がこんな人だったなんて、呆気にとられて物が言えない。今まで浮気に気づきもしなかった私も私だけど、それだけ夫のことを信頼していたからだ。だが、数週間前までの夫への愛情は、もうとっくに消えていた。学生時代から仲の良かったレミにも、こんな形で裏切られるなんて。
「ねえ、何の恨みがあったらこんなことできるの? 私たち親友じゃなかったの?」
「親友? 学生の時からあんたのことなんか鼻についたのよ。地味なくせにブランドバックとか持ってるし、勉強もできて誰からもちやほやされちゃってさ。あんたが結婚が決まったって報告した時、『おめでとう』って言って涙をこらえるのが必死だったんだから」
レミが付き合っていた彼氏との子供を妊娠したと言っていた時、「事情があってすぐには籍は入れられないけど、もう少ししたら結婚するつもりなんだ」と言っていた。その事情がまさかこのことだったなんて。レミの彼氏って、タクトのことだったのね。信じられない。
「私をここまでコケにしたこと、絶対に後悔させてやるわ。慰謝料もきっちり払ってもらうから、2人とも覚悟してよね」
もう悲しいという感情は全くない。ただ2人に対する怒りだけだ。私は今日、夫と親友を同時に失った。数ヶ月後、私は夫と離婚。夫は会社を首になった。普通の会社では不倫だけで首にすることは難しいが、今回は社長である父の力が働いたらしい。スーパーで言い合いをしていたのが近所の人にも知れ渡り、狭い地域なので私はしばらく白い目で見られるようになってしまった。だけど私は悪いことはしていない。だから堂々と顔をあげて生活をしている。
2人にはもちろん慰謝料をしっかり請求した。子供がいるのにとか言っていたけど、それとこれとは別の話だ。レミは出産時に仕事をやめており、貯金もないとのこと。両親を頼るが絶縁されたようだ。そのレミの両親からは謝罪された。両親のことは学生時代から知っていたが、とても真面目な人たちだ。その子供があんなに常識がないとは驚きだ。ちなみに元夫の両親は全面的に息子の味方だ。元義母はザ・姑って感じで、息子が可愛くて仕方ないみたいなので、嫁姑関係もあまりうまくいっていなかった。今回の件を説明しに行った時には謝られることもなく、「息子の新しい人生の邪魔をしないでちょうだい」と言われた。どうやら今回の計画について、義両親は事前に知っていたらしい。周囲の人たちに「うちの息子はもうすぐ社長になる、可愛い孫もできた」と言っていたらしいから、もうこの家族とは関わらないのでどうでもいいが。だが義両親はお金の余裕はないみたいで、金銭面での援助はできていないみたい。元夫とレミはギリギリの状態で暮らしているらしい。子供も育てなければいけないので働いているみたいだが、その仕事もうまくいっていないそうだ。その理由はおそらく私の父だ。あらゆる業界に顔が効くので、今回の件は様々な企業に回してある。まともな会社がタクトやレミのことを雇うことはないだろう。
離婚をしてから私は、夫と2人で住んでいた家から実家に引っ越した。今回のことで私のメンタル面を心配した両親から強く進められたからだ。私自身思っていたよりダメージは少なく、すっかり吹っ切れてはいるが、両親を安心させるためにも数ヶ月は一緒に住もうと思っている。
そして新しい生活も落ち着いてきた頃、元夫とレミが私の家に押しかけてきた。2人とも見た目がひどくやつれている。家には私1人だ。
「話をさせてくれ」
「話すことなんてないけど」
断るものの、前でギャーギャーとうるさいので、仕方なく家に入れた。
「なぜだか全然就職できなくて、アルバイトだけで生活していくのもやっとなんだ。子供を育てていくにもお金がかかる。お父さんの会社にどうにか再就職させてもらえないか?」
「うちにはまだ小さい子供がいるのよ」
呆れた。父があなたをもう一度雇うと思う? 前に話した時は「2人でやっていく」って大口叩いていたのに。数ヶ月経ったらこれ惨めなものね。
「う、うるさい! あと、お前がSNSで拡散したせいで、誰も相手にしてくれなくなったじゃないか!」
「何言ってるの? 全て本当のことじゃない?」
そう、私はと言うと、SNSに今回の件を全て書き込んだ。2人と共通の友達も大勢いるので、たくさんの友達から反響があった。おかげで2人とも友達は激減し、完全に干されているみたい。もう2人には頼れる人もいないだろう。
「こんなはずじゃなかった。君なら簡単に再就職して余裕のある生活をしていけると思っていたのに」
そういえばレミは、学生の頃から専業主婦になりたいってずっと言っていた。ま、自業自得よね。
「私があなたたちにされたことは絶対に許さない。手助けも一切しない。だけどあなたたちには子供がいるんだから、その子を守るために必死に働くのね」
「何とか、なんとか」とギャーギャー騒いでいたが、帰ってもらった。どの口が言っているんだろう。そもそもあの2人から謝罪なんてものは一切ない。もう2人とは会うこともないだろう。その後、風の噂で元夫とレミは違う地域に引っ越したと聞いた。この地域では噂が広まりすぎて生活しづらかったのだろう。ボロボロの状態ではあるが、それぞれが必死に働き、なんとか育児をしているそうだ。唯一の救いは、2人ともきちんと子供を育てていることだ。育児放棄するとか、そこまで落ちぶれた人間じゃなくて良かった。最低な親だけど、子供だけでも幸せになってほしいと心から願う。子供に罪はないんだから。
夫の蒼太が交通事故にあった。私と義両親は夫が入院している病院へ向かう。すると夫は私たちにこう告げた。
「俺、下半身不随だってさ」
夫の言葉に義両親は顔面蒼白になり、涙を流す。そして夫も義両親と同じように悲しみの表情を浮かべる。そんな状況を見て、私だけは心の中で笑っていた。義両親には本当に申し訳ないが、私は口を開くことにする。
「皆さんに伝えたいことがあります」
下半身不随になってしまった夫を支えたい。本来ならそのような言葉が出るのが自然の流れ。きっと夫や義両親もそう考えているだろう。しかし私が言いたいことは全く別のことだった。
「私は蒼太さんと離婚するつもりです」
いきなりの私の離婚宣言に、夫と義両親は予想通り驚いている。
「離婚? 何言ってるんだよ。夫がこんな状態だっていう時に!」
「え、エミさん、どういうこと? 蒼太がこんな体になったからって、そんな簡単に離婚だなんて。夫婦はこういう時に支え合っていかないと」
「もちろん、エミさんに蒼太の世話を全て押し付けるわけじゃない。私たちも支えるから、どうか考え直してやってくれないか?」
「誤解しないでください。私は今回の件で離婚を決めたわけではありません。ずっと前から蒼太さんとの離婚を考えていたんです」
「なんだと? どういうことだよ」
「この際だから全て話します。蒼太さんが私にしてきたことを」
今回の事故はもちろん想定外だったが、これで私の離婚したいという決心が変わるわけではない。この話をするタイミングが少し早まってしまったが、全員が揃っている今がいいタイミングだ。私は覚悟を決めて、これまでの夫婦生活を暴露することにした。
「蒼太さんは家ではまるで私のことを奴隷のように扱っていました。家事は全て私がやるのが当たり前。ちょっとでも気に入らないことがあると、すぐに怒鳴り散らしてきます。生活費も、最近は何もかも値上がりしてるっていうのに、十分な額をもらっていませんでした」
「な、なんだよ。急に。妻なんだから夫を支えて当たり前だろ。生活費だって欠かさず入れてきた」
「なんで私だけが支えないといけないの? 私だって働いてるんだし。お互い助け合ってこその夫婦じゃないの? 生活費なんて、あれだけじゃ毎月の食費でなくなってたわよ」
「なんでこのタイミングで言うんだよ。親父とお袋のいる前で。しかも状況分かってるのか? 俺、怪我してるんだぞ」
「ちょうどいい機会だと思って。あなたの世話なんて、これっぽっちもしたくないから」
「んだと!」
「ちょ、ちょっとエミさん。もしそうだとしても、いくらなんでもあんまりじゃない? 急に離婚だなんて」
「蒼太が我が家に来る時は、いいお父さんをやっているように見えていたけど、全て本当のことです。以前私が自転車とぶつかって足を骨折したことがありましたよね。その時も蒼太さんは一切手伝うことなく、私に掃除、洗濯、料理の全ての家事を押し付けてきました。娘の明里が手伝ってくれたので助かりましたが、これまで娘に関しても無関心で、学校行事だったり進路を決める際も全く話し合いに参加してきませんでした」
「な、なんだって。しかし、にわかには信じがたいな」
「私たちとの行事にはいつも参加していたし、誕生日だって毎年祝ってくれてるし」
義両親は私を疑っているわけではなく、夫の本性を知らないので信じられないのだろう。義両親の前では夫はいつもいい子を演じていたから。
「親父、お袋。実の息子じゃなくて嫁の言うことを信じるのか? こんなの俺と離婚したくてついた嘘だよ! あんまりだよ! 夫がこんな状態だっていうのに!」
「しかし、エミさんがこんな時に嘘をつくとも思えないが」
「俺はエミをこき使ってなんかいない! 俺は家族のためにずっと必死で働いてきたんだ! エミたちのことをいつも第1に考えて、大事にしてきただろう!」
必死に訴えてくる夫。義両親は心揺れているようだが、夫の本性を知っている私には全く響いてこない。こんな演技ができるなんて、夫は役者にでもなれるのではないだろうか。
「俺が下半身不随になったからって離婚するのか。俺の面倒を父さんと母さんだけに押し付けるのか? それでも妻かよ!」
夫は自分がやっていたことは棚にあげて、ここぞとばかりに反論してくる。だが私は当然、夫に対して反論する。離婚を決めた理由はこれだけではないからだ。
「ええ、私があなたの面倒を見る必要ないでしょ。愛人にでも頼めば」
私の愛人発言に夫は絶句。義両親も驚く。
「な、なんで私が知らないとでも思った? おめでたい人ね」
「あ、愛人ってどういうこと? 蒼太が浮気してたっていうの?」
「ええ、残念ながら。蒼太さんは1年ほど前から急な出張と残業が増えました。初めは仕事だから仕方ないと思っていましたが、それと同時にスマホを見る頻度も上がったので、いくら鈍感な私でもおかしいなと思い始めました。それに、これまでちっとも気にかけていなかった身だしなみにも気をつけるようになったんです」
夫は気まずそうに目をそらしている。
「私は浮気を疑い、蒼太さんのスマホを見ました」
「は? お前、勝手に!」
私は夫を完全に無視して話を続ける。
「その中で浮気相手とのやり取りを目撃して、蒼太さんの浮気を確信したんです。浮気の痕跡を隠そうともせず、電話の履歴もその人でいっぱいでしたから、すぐに相手を特定することができました。すでに探偵事務所に依頼して、離婚に向けた調査も始めていたんですが、そんな中での今回の事故だったんです」
「ほ、本当なの? 浮気なんて、まさか。蒼太に限って」
「ち、違う! 作り話だ! 俺が事故ってこんなになったからって、離婚したくなっただけだ!」
「いい加減にしろ。作り話なんかじゃありません。証拠だってあります」
私が取り出したのは、夫と不倫相手のやり取りをスマホで写真に収めたものだ。デートの約束だったり、日常的にやり取りしているのがすぐに分かる。こんなに堂々と繰り返されては、浮気に気づかない方が難しいですよね。
「ああ、ちなみに相手は会社の部下みたいですよ」
「まあ、よくもそんな……」
「お気づきでしょうか? 最後のこのメッセージは昨日のもので、内容は『明日のドライブ楽しみだね』というものなんです」
「昨日の、明日ってことは、今日ってこと? じゃあ蒼太、事故にあった時、浮気相手を車に乗せていたということなの?」
「さすがお母さん。その通りです。今日事故にあった時、夫は浮気相手と一緒にドライブ中でした。今回の事故の原因は、夫の車がカーブで大きく対向車線にはみ出たということが原因らしいんですが、どうせ浮気相手に夢中で前方をしっかり見ていなかったんでしょうね」
義両親も夫が浮気をしていたと知り、大激怒。それと同時に呆れた声をあげる。
「だ、だって。子はいい大人が恥ずかしい。自己自得じゃないか?」
「ああ、情けない!」
「いや、違う! 誤解だよ! 大体、人のスマホを勝手に見るなんてやりすぎだろ! 彼女とは何もない! ふざけてそういうメッセージを送り合っていただけだよ! 今日も仕事の話があるって言うから乗せていただけで、信じてくれよ!」
休みの日に? こんなに証拠があるのに、まだ白を切ろうと言い訳をして義両親を丸め込もうとする。口だけで言っても分からないのなら、別の手段に出るしかない。
「相手も相手だが、相手に怪我はないのか?」
「幸いにもお相手の方は捻挫と擦り傷で済んだみたいですよ」
「なんでお前、そこまで把握してるんだ?」
「ちょっと待っていてください」
そこで私は隣の病室に向かった。その部屋にいたのは夫の部下。そう、夫の浮気相手だ。大事を取って今日は入院するみたいだ。隣の病室に入ると、私を見て浮気相手は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに軽蔑した表情を浮かべる。
「何か? あなた、夫の浮気相手ですよね。ちょっと来てもらえますか?」
「は、な、何言ってるんですか? そんなわけないでしょ」
「全部知ってるんですよ。夫の部下で、1年ほど前から関係があったって。怪我も軽傷みたいですから、今ゆっくり話し合いましょう」
「さっきから何言ってるのか分からないんですけど」
「いつまで白を切るつもり? こっちには証拠だって揃ってる。会社に送り付けたっていいのよ。それでもしてないっていうのなら、それを説明しに来て」
「分かりました」
浮気相手はしぶしぶといった様子で了承した。夫の病室に戻ると、まだ夫と義両親は喧嘩していた。浮気した、していないだの。夫も浮気相手が隣の病室にいることは知っていたはずだ。だが、まさか私が連れてくるとは思っていなかったのだろう。浮気相手に気づいた夫は、明らかに動揺している。
「お待たせしました。この方が蒼太さんの浮気相手です」
義両親も浮気相手の登場に驚くが、なぜか浮気相手本人は余裕の態度だ。
「さっきから何言ってるのか分からないんですけど。確かに今回の事故の時、先輩の車に乗っていましたけど、仕事の相談に乗ってもらっていただけです」
「そ、そうだよ! さっきも言っただろう! 信じてくれよ!」
「相談? こんなメッセージのやり取りをしてるっていうのに」
私は浮気相手にも夫とのやり取りを納めた写真を見せるが、浮気相手は白を切る。
「私たち、仲良すぎるから、こんな感じのふざけたメッセージも送ることありますよ。それに私も結婚してますし、旦那さん一筋で、浮気なんてありえないです」
なぜこんな余裕の態度でいられるんだろう。こっちには証拠が揃っているというのに。その上、浮気相手は私のことを見下した発言をしてくる。
「大体、奥さん。先輩がこんな大変な時に、よくこんなどうでもいい話できますね。私だったらできないな。旦那さんを許してあげなくちゃ」
夫も冷静さを取り戻し、浮気相手に便乗してくる。
「ほ、本当だよな。ひどい嫁だよ。夫がこんな状態の時に、あることないことで攻め立ててくるんだもんな。全く」
義両親は戸惑っている。一体どちらの話が本当なのか分からない様子だ。ただ私だけは大爆笑。その場にいた全員が困惑する。
「な、なんだよ。急に笑い始めて。ついに頭でもおかしくなったのか」
「いや、あなたたちがあまりにもバカだから。そんな余裕でいられるのも今のうちよ」
そして私はある人にスマホで連絡する。後、病室に男性がやってくる。その人物を見た瞬間、浮気相手は明らかに動揺し始めた。
「どちら様なの?」
「ああ、この方は夫の浮気相手の旦那さんです」
「え、なんで? どうして? さっき連絡した時は仕事ですぐには来られないって」
私が旦那さんを呼び出したことに、浮気相手が困惑している。
「どうして連絡先知ってんのよ!」
「どうしてかって、前にお会いしたことがあるからですよ」
「前? どういうこと?」
「以前、私が自転車とぶつかって骨折したのですが、その自転車に乗っていたのがこの方だったんです。探偵所に依頼して浮気相手のことを調査した際に、旦那さんのことも判明しました。こんな偶然もあるんですね」
「本当に、その節は申し訳ありませんでした」
「いえいえ。あれから何回も家に来て謝罪していただきましたから。蒼太さんは浮気で忙しくて、この方に会ったこともなかったでしょうけど。もちろん、今回の浮気の件は旦那さんにもすでに話してありました。お互い協力して、離婚の準備を進めていたんですよ」
「エミさん、親御様、この度はうちの妻がご迷惑をおかけしました。今回の件で、改めて僕も離婚の意思が固まりました」
「え、離婚? ちょっと待って。嘘でしょ? 離婚なんて絶対にしたくない。考え直して!」
「何を考え直すの? いつまでそうやって嘘つくつもりだ? もう全部知ってるんだよ。いい大人なんだから、自分の過ちぐらいさっさと認めたらどうだ?」
「ち、違うの! 先輩が、私が部下だからって断れないことをいいことに、無理やり……本当は嫌だったの!」
浮気相手は離婚されると思っていなかったのだろう。旦那さんに泣きつき、先ほどまでの態度を一変させて、私の夫のことを攻め出す。
「無理やりなんかしてないだろ! それが本心か! 俺のこと騙していたのか!」
夫は浮気相手に本気だったようだが、浮気相手にとって夫はただの遊びだったようだ。
「私が好きなのはあなただけよ。許して!」
「もう信用なんてできない。離婚の意思は変わらない」
浮気相手は離婚すると宣言されたことがよほどショックだったのか、声をあげて泣き出した。
「お見苦しいところを見せてしまってすみません。今日のところはこの辺で失礼します。わざわざありがとうございました。また慰謝料の話は後日させてもらいます」
「ええ、もちろんです」
旦那さんは泣きじゃくる浮気相手を連れて、病室を出ていった。そして、ここにもショックを受けている人物がもう1人。
「そ、そんな、嘘だろう……」
夫は浮気相手に騙されていたと知り、急に大人しくなった。そしてようやく謝罪の言葉を口にした。
「え、エミ、俺が悪かった。本当にごめん。こんなことしてしまった。これからは心を入れ替えるから、許してくれ。まだやり直せるよな、俺たち」
はあ。呆きれて物が言えない。浮気相手がダメなら嫁とやり直そうって。どこまで私のことを舐めれば気が済むのだろう。もちろん私はやり直す気などさらさらない。そして私は夫にとどめの一撃を食らわせる。
「何言ってるの? 都合がいいにも程があるわ。やり直すわけないでしょ。もうあなたのことは信用できない。知ってるのよ。娘の学費を使い込んだこと」
「何のことだよ!」
「あなたが最近、私に何の相談もなく買ったあの新車。今回の事故で廃車になったけどね。あれ、娘の学費を購入資金に当てていたんでしょ。娘が私たちに負担かけないようにって、必死にアルバイトをして貯めていたあのお金を」
「いや、あれはだな……」
「娘の思いを知っていたくせに、よくもそんなことができたわね。それでも親なの? あの一瞬であなたへの信頼は地に落ちたのよ。あろうことか、その車で浮気相手と出かけて事故を起こして。どこにあなたと夫婦を続けるメリットがあるの? 私も娘ももうあなたなんて必要じゃないわ。娘の受験が終わるまではと思っていたけれど、我慢できない。離婚してください」
娘の金を使い込んでいたと知り、義両親はさらにショックを受ける。そして、大きく横に首を振り、ため息混じりに夫に問う。
「そうか。そうだ。あんたって、そんな人間だったのか」
「アルバイト? どうして明里がアルバイトなんか。俺たちからよく金の援助をしていただろう」
「ええ、知っています。夫が実家に行く度に、お父さんからお金をもらっていたこと。全て自分の趣味に使って、私たちに対して使ってくれることは一切ありませんでしたが」
「な、なんでお前がそんなこと知ってるんだよ!」
「あなたがあまりにも給料に見合わない生活をしていたからよ。援助してもらうためにお父さんお母さんの前ではいい息子を演じていたのよね」
「黙れ!」
「なんだって。生活費や明里の習い事に金がかかるって言うから援助していたんだぞ! 全部自分の遊びに使っていたのか!」
「最近だと、浮気相手とのデート代に消えていたはずです」
「よく分かった。エミさんが離婚したい理由がそうだ。お前には離婚を止める資格はない。俺たちもお前を甘やかしすぎていたようだ。今日限りで、親子の縁を切らせてもらう」
義両親はどうやら怒りの頂点に達し、夫と縁を切ると宣言した。
「縁を切る? 絶縁ってことか!? 待ってくれよ! 俺、下半身不随で、これからどうやって生活していけばいいんだよ! 人間誰だって過ちぐらいあるだろう! お願いだ! 今日から心を入れ替えるから、俺を捨てないでくれ!」
夫は言い訳ばかりをするが、義両親は私への仕打ちなどを含めて夫の悪業について言及し、間違っていることを指摘する。
「謝れば済むとでも思っているのか? 自分のことしか頭にない奴が、家族を守っていけるわけないだろう。家族のことを思うなら、離婚してしっかり慰謝料払って、償いながら生きていけ」
「思いやりのある子に育てたと思っていたけど、どんな勘違いだったか。家族に対していつもそんな態度だったの? 情けないな」
「なんだよ! みんなで俺を責めやがって! 子供の金を親が使って何が悪い! 育ててやったんだから、親に恩返しするのが当たり前だろ! 車だって家族で使うんだから、正当な理由だろ!」
「あなたには親の自覚がないの? 娘はまだ高校生よ。親の私たちが責任を持って育てないでどうするのよ。いつ親の自覚が芽生えるのかと思っていたけど、もうあなたには一生無理よね」
もうこの夫には何も期待できない。全く反省している様子もないし、このまま話していても拉致があかない。義両親もすっかり夫に呆れている様子だ。
「これ以上話してもしょうがないわね。とりあえず、浮気の慰謝料500万と、使い込んだ娘のお金100万返して」
「はあ? そんな金あるわけねえだろ! これから金だってかかるのに!」
「ないの? ないなら働いて返して。あなたの面倒は見ないけど、お金を払うまでずっと監視してやるから、覚悟しておきなさいよ」
私はそう言い残し、夫を残して義両親と共に病室を後にした。
「エミさん、今まで本当にごめんなさいね。親として全く気づけなかったわ」
「謝らないでください。悪いのは全て蒼太さんですし、元々お母さんたちには頼らず解決しようと考えていましたから」
「明里ちゃんのお金、あれは私たちが代わりに払うから。娘の将来も考えられないなんて、親失格だよ」
「ありがとうございます。ですが、娘の学費はちゃんと別で用意してあるので心配いりません。使い込んだ分は、あの人に全て払わせますから」
「離婚することには大賛成だが、俺たちはこれからもエミさんと明里の家族だ。何か困ったことがあれば、いつでも頼ってくれ」
「ありがとうございます。本当に素敵な義両親だ。なぜこの2人からあんな人間が生まれてしまったのだろう」
その後、私と夫は弁護士を通して無事に離婚。娘との2人暮らしが始まった。離婚してしばらくして、精神的にボロボロになった夫は私に謝罪メッセージを送ってきた。
「久しぶり。今回のことは本当に悪かったと思ってる。この前退院して、在宅ワークに切り替えて仕事を再開したよ。だけど今回のことが会社全体に広まっていて、ミーティングでも白い目で見られていてすごく働きづらいんだ。退職も考えているけど、慰謝料を考えるとやめることができない。慰謝料の金額だけど、相場に比べてとても高くないか? 減額してもらえないか」
どこまでも自己中心的な内容だった。結局夫はどこまでも自分のことしか考えておらず、娘のことに関しても何も聞いてこない。本当に関心がないのだろう。私は「話したいことがあれば弁護士を通してください」とだけ伝えた。夫は元々浪費家だったので、個人の貯金は全くないだろう。働いても完済できるのは何年も先になりそうだ。それでも絶対に払わせる。義両親も絶縁とは言ったものの、夫がお金を返すまで厳しく監視してくれている。
そして娘は無事に大学に合格。頑張り屋で家族思いで、本当によくできた娘だ。父親がいなくて、本当に良かった。
「お母さん、お父さんのこと、大変だったのに応援し続けてくれてありがとう」
「何言ってるの? 娘の頑張りを応援できない親がいる? 親じゃないわよ。明里もずっと私の味方でいてくれてありがとうね」
「当たり前じゃん。なんで早く離婚しないのかなってずっと思ってた」
「明里のためと思っていたけど、飛んだ勘違いだったみたいね。明里は本当に私の自慢の娘よ」
改めて、私は娘の成長を見守り、支え合っていきたいと思う。



