同期の前で、私はまたあの言葉を浴びせられた。「片親の貧乏人はうちのお点。あんたみたいな人間がこの銀行にいること自体が間違いなのよ」母の入院費を稼ぐために、私はただ唇を噛みしめて耐えるしかなかった。同僚たちは誰も助けてくれず、涙をこらえてトイレに駆け込んだ夜もあった。あの時は、これが人生で一番の屈辱だと思っていた。でも、翌日、フロアに一人の老人が現れるまでは。私の祖父が、璃緒に冷たい声で言った…

同期の前で、私はまたあの言葉を浴びせられた。「片親の貧乏人はうちのお点。あんたみたいな人間がこの銀行にいること自体が間違いなのよ」母の入院費を稼ぐために、私はただ唇を噛みしめて耐えるしかなかった。同僚たちは誰も助けてくれず、涙をこらえてトイレに駆け込んだ夜もあった。あの時は、これが人生で一番の屈辱だと思っていた。でも、翌日、フロアに一人の老人が現れるまでは。私の祖父が、璃緒に冷たい声で言った...

入社して三か月、水野結衣は毎日が戦いだった。青葉信用銀行本店営業部。そこで神崎璃緒という女が、結衣の存在そのものを否定してきた。

「片親の貧乏人はうちのお点。母子家庭のくせによくこんな一流銀行に入れたわね。あんたみたいな隠しがいるだけで銀行の品格が下がるのよ」

その冷たい声が響くたび、周りの社員たちは凍りついたように立ち尽くす。誰一人として結衣をかばわなかった。遠取締役の娘に逆らえば、自分の立場が危うくなることを知っていたからだ。

結衣は唇を噛みしめ、震える拳を握りしめた。涙をこらえ、じっと床を見つめることしかできなかった。

彼女には母がいた。体が弱いながらも、朝早くから夜遅くまでパートを掛け持ちして、結衣を育ててくれた母。父は結衣が五歳のときに病気で亡くなった。それ以来、母と二人きりの生活だった。

小学生の頃、クラスメイトが新しいランドセルを自慢していた。結衣のランドセルはお下がりで少し傷んでいた。それでも母が一生懸命働いて買ってくれたものだった。

ある雨の日、母は傘を持たずに帰ってきた。ずぶ濡れになりながら、結衣の傘だけを必死に守っていた。

「ゆいが風邪引いたら大変だからね」

そう言って母は笑った。その夜、母は高熱を出した。

「お母さん、無理しないで」

「大丈夫よ。ゆいが立派に育ってくれれば、それだけで幸せだから」

結衣は母のために勉強を頑張った。奨学金を得て大学に進学し、アルバイトと勉強を両立させた。そして大学卒業後、この銀行に就職が決まった。母は涙を流して喜んでくれた。

しかし就職から半年後、母の体調が急激に悪化した。入院が必要になり、医療費は月に二十万円以上かかった。結衣の給料だけでは到底足りない。それでも結衣は必死に働いた。残業も休日出勤も引き受けた。

祖父のことはほとんど知らなかった。父が亡くなってから連絡を取ることもなくなっていた。年に一度、お正月に簡単な挨拶の手紙が届く程度。祖父がどんな仕事をしているのかも詳しくは知らなかった。ただ、遠い存在だと思っていた。

璃緒の嫌がらせは日に日にエスカレートしていった。

「ねえ、その服どこで買ったの? 島村?」

周囲の社員たちがくすくすと笑う。結衣は何も言わず、黙って仕事に戻った。

「貧乏人の匂いがするわね。近寄らないでくれる?」

休憩室でそう言われた時も結衣は耐えた。母の医療費のためには、この仕事を失うわけにはいかなかった。同僚たちは結衣に同情の目を向けることはあった。しかし誰も助けてはくれなかった。みな保身のために、見て見ぬふりをした。

結衣は完全に孤立していった。

それでも結衣は諦めなかった。顧客対応は丁寧で、書類作成も正確だった。上司からの評価は高かった。しかし璃緒はそれが気に入らなかった。

「貧乏人のくせに調子に乗ってるんじゃないの?」

璃緒の嫉妬はさらなる嫌がらせを生んだ。結衣に雑用ばかりを押し付け、重要な仕事からは外した。わざとミスを誘発させようと、不十分な情報だけを渡した。それでも結衣は持ち前の努力でカバーした。夜遅くまで残って、完璧に仕事をこなした。

家に帰ると、結衣は母に電話をかけた。

「お母さん、体調はどう?」

「大丈夫よ。ゆいは仕事順調?」

「うん、順調だよ。頑張ってるから、心配しないで」

結衣は母に辛い現実を話すことはなかった。心配をかけたくなかった。電話を切った後、結衣は小さなアパートの部屋で一人涙を流した。

「お母さん、ごめんね。本当は辛いの」

声に出さずに呟いた。ふと小学生の頃の記憶が蘇る。母が作ってくれた卵焼きの味。卒業式で流してくれた涙。あの日々が今の結衣を支えている。

結衣は父の写真を手に取った。幼い頃の、家族三人の笑顔の写真。

「お父さん、私頑張ってるよ。お母さんを守るって約束したから」

写真の中の父は優しく微笑んでいた。結衣は写真を胸に抱きしめ、深く息をついた。明日もまた耐えなければならない。璃緒の侮辱に、同僚たちの冷たい視線に。でも母のために、父との約束のために、結衣は涙を拭い立ち上がった。

そして翌日もまた銀行に向かった。理不尽な扱いに耐えながら、いつか実力で認められる日を信じて。

入社から三か月が経った頃、璃緒の嫌がらせは新たな段階に入った。ある朝、結衣の机の上に破られた書類が置かれていた。前日、結衣が丁寧に作成した顧客向けの資料だった。

「あら、ごめんなさい。間違えて破っちゃったわ」

璃緒は悪びれもせずに笑った。結衣は黙ってもう一度資料を作り直した。

昼休み、結衣が休憩室で弁当を食べていると、璃緒が入ってきた。

「ねえ、その弁当自分で作ったの? 貧乏人はコンビニで買うお金もないのね」

周りの社員たちがまた笑った。結衣は弁当箱を閉じ、席を立った。食欲が失せていた。

午後、営業部長から重要な仕事を任された。大手企業への融資提案の資料作成だった。結衣は喜んで引き受け、夜遅くまで残業して完璧な資料を作り上げた。

しかし翌朝、部長に呼ばれた。

「水野君、この資料だが、神崎さんが担当することになった。君は別の仕事を頼む」

璃緒が横から割り込んできたのだ。結衣の成果を自分の手柄にするために。結衣は拳を握りしめたが、何も言えなかった。

それから数日後、結衣は営業部の会議に出席していた。璃緒が結衣の作った資料を使ってプレゼンテーションをしていた。

「この提案は私が徹夜で考えたものです」

部長や他の上司たちは璃緒を褒め称えた。

「さすがお嬢様だ。素晴らしい仕事だ」

結衣は黙って聞いていた。悔しさで胸が張り裂けそうだった。しかし表情には出さなかった。会議が終わった後、璃緒が結衣に近づいてきた。

「ねえ、あんた私に感謝しなさいよ。あんたみたいな新人の仕事を、私が評価してあげたんだから」

結衣は何も答えなかった。ただ静かに席を離れた。

その夜、病院から電話がかかってきた。母の容態が悪化したという。結衣は急いで病院に駆けつけた。母はベッドで苦しそうに横たわっていた。顔色は悪く、息も荒い。

「ゆい、ごめんね。お母さんのせいであなたに苦労ばかりかけて」

「お母さん、泣かないで。私が必ず直してあげるから」

結衣は母の手を強く握った。その手は驚くほど冷たかった。

廊で医師が結衣を呼び止めた。

「水野さん、お母様の状態は深刻です。すぐに追加の治療が必要です。費用は五十万円ほどかかりますが」

結衣は頭が真っ白になった。五十万円。自分の貯金では到底足りない。銀行のローンを組むしかない。しかし新入社員の自分に、そんな融資を貸してくれるだろうか。

病院の待合室で、結衣は一人座り込んだ。

「どうしよう。どうしたらいいの?」

涙が止まらなかった。母を救いたい。でもお金がない。無力感が結衣を押しつぶした。

翌日、結衣は勇気を出して上司にローンの相談をした。しかし璃緒がその話を聞きつけていた。

「あら、お金に困ってるの? やっぱり貧乏人は貧乏人ね」

大勢の社員がいる前で、璃緒はわざと大きな声でそう言った。結衣は顔を真っ赤にしてうつむいた。屈辱で涙が溢れそうになった。それでも必死にこらえた。

「片親で、お母さんは病気。お金もない、家柄もない。あんたみたいな人間がこの銀行にいること自体が間違いなのよ」

璃緒の言葉は容赦なく結衣を傷つけた。周囲の社員たちは誰も止めなかった。ただ気まずそうに視線をそらすだけだった。

結衣はその場を立ち去った。トイレに駆け込み、ようやく涙を流した。

「どうして、どうして私だけ?」

心の中でそう叫んだ。しかし泣いている時間はなかった。母のために働き続けなければならない。結衣は顔を洗い、鏡の前で自分に言い聞かせた。

「負けない。絶対に負けない」

そして再び仕事に戻った。

数日後、結衣は銀行の内部査定で高い評価を受けた。顧客満足度が営業部でトップだったのだ。上司たちは結衣の真面目な仕事ぶりを認めていた。しかし璃緒はそれがますます気に入らなかった。

「新人のくせに目立とうとして、調子に乗ってんじゃないわよ」

ある日、璃緒は結衣のデスクの引き出しにわざと水をこぼした。大切な顧客資料がびしょ濡れになった。

「あら、ごめんなさい。手が滑っちゃった」

璃緒は冷たく笑った。結衣は震える手で濡れた資料を拾い上げた。涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。もう限界かもしれない。心が折れそうだった。

しかし母の顔が浮かんだ。病院のベッドで苦しそうに眠る母の姿。

「お母さんのためにもう少し」

そう自分に言い聞かせ、また仕事に戻った。

璃緒の嫉妬はもはや狂気に近かった。

そしてある日、運命を変える出来事が起こった。

大勢の社員がいるフロアで、璃緒の侮辱が頂点に達した瞬間、その場に一人の老人が現れた。

質素な服を着た老人だった。背筋を伸ばし、威厳のある雰囲気をまとっていた。璃緒は不機嫌そうに老人を見た。

「誰ですか? アポイントもなしに入ってこないでください」

老人は璃緒を冷たい目で見つめた。

「私の孫娘に何をしている?」

結衣は驚いて顔を上げた。

「おじいちゃん……」

何年も会っていなかった祖父、水野虎之助だった。

璃緒は鼻で笑った。

「あら、この貧乏人のおじいちゃん? 似たもの同士ね。お金もなさそうな格好して」

虎之助の表情が一瞬で凍りついた。その瞬間、フロアの空気が変わった。周囲の社員たちが何かを察知したかのように緊張した。

虎之助は営業部長を見た。

「君がこの部署の責任者か?」

「あ、はい。営業部長の田村と申します」

「私は水野虎之助という。この銀行に口座を持っている」

部長の顔色が急に変わった。水野虎之助という名前に、何かを感じ取ったのだ。

「青葉信用銀行の全預金を、今すぐ他に移したい。手続きを始めてくれ」

「お、お待ちください。一体どういう……」

「私の孫娘を侮辱した銀行に、一円も預ける気はない」

部長は慌ててパソコンで顧客情報を検索した。そして画面に表示された数字を見て、顔面蒼白になった。

五〇〇〇億円。

その場にいた全員が凍りついた。五〇〇〇億円。青葉信用銀行の預金総額の約一〇パーセントに相当する、途方もない金額だった。

璃緒は状況が理解できずに立ち尽くしていた。

「五〇〇〇億円? 何の話?」

部長は震える手で電話を取った。

「遠緊急事態です。すぐにお越しください」

数分後、遠取締役の神崎誠一郎がフロアに駆け込んできた。

「一体何事です? 水野様……」

誠一郎は虎之助を見て顔色を変えた。世界的投資家の水野虎之助を知らぬ者は、金融業界にはいない。

「水野様、どうかどうか落ち着いて」

「落ち着けと? あなたの娘が、私の孫娘を“片親の貧乏人”と侮辱したのだ。そんな銀行に私の資産を預ける理由があるか?」

誠一郎は璃緒を睨みつけた。

「璃緒、お前何をしたんだ?」

「お、お父様、私は……」

「言い訳は聞きたくない。今すぐ全預金を三菱UFJ銀行に移す手続きを始めてくれ」

遠取締役は必死に謝罪した。

「水野様、どうかどうかお許しください。娘は私が厳重に処罰いたします。どうか預金の移動だけは考え直しください」

「謝罪は不要だ。私は差別を許さない。それだけだ」

虎之助は結衣の方を向いた。

「結衣、辛かっただろう。すまなかった。もっと早く気づくべきだった」

結衣は涙が溢れてきた。

「おじいちゃん……」

その優しい言葉に、積もり積もった感情が溢れ出した。虎之助は結衣の頭に手を置いた。

「大丈夫だ。お前は何も悪くない」

誠一郎はその場で土下座した。

「水野様、どうかどうかもう一度チャンスをください」

しかし虎之助の決意は揺がなかった。

「チャンスはすでに与えられていた。あなた方はそれを自ら放棄したのだ」

虎之助は部長に向き直った。

「手続きを始めてくれ」

部長は震えながら頷いた。その瞬間、青葉信用銀行の運命が動き始めた。璃緒はようやく事態の深刻さを理解した。自分が侮辱した相手の祖父が世界的投資家であり、五〇〇〇億円という途方もない預金を引き上げようとしている。

「ま、待って。私、私は……」

璃緒の声はもう誰の耳にも届かなかった。

翌朝、青葉信用銀行本店は異様な空気に包まれていた。昨夜、水野虎之助の五〇〇〇億円の預金移動手続きが完了した。そして今朝、さらに衝撃的な事態が起きていた。虎之助と取引のあった富裕層の方々から、一斉に口座解約の申し出が殺到していたのだ。

虎之助の一本の電話が、日本中に広がっていた。彼と親交のある富裕層、投資家、企業経営者たち。その全員が青葉信用銀行からの資金引き上げを決定したのだ。

本店のロビーには朝から解約希望者が殺到していた。入り口から外まで長蛇の列ができていた。警備員が慌てて整理に当たっている。窓口は完全にパニック状態だった。

「私も全額解約したい。水野虎之助さんが見切った銀行に預ける気はない」

「こんな差別する銀行はもう信用できない。早く手続きしてくれ」

社員たちは必死に対応していた。しかし解約希望者はひっきりなしに訪れる。システムは処理しきれず、何度もフリーズした。営業部のフロアも電話が鳴り止まない。クレームの電話が次々とかかってくる。社員たちの顔は疲労と焦りで青ざめていた。

テレビのニュースでもこの事態が報道され始めた。

「青葉信用銀行で大規模な預金引き出し。世界的投資家・水野虎之助氏が全資産を移動」

ニュースキャスターが深刻な表情で伝える。

「金融業界に激震が走っています。青葉信用銀行では一日で八〇〇〇億円を超える預金が流出。これは同行の経営に深刻な影響を与える可能性があります」

SNSでは璃緒の差別発言が拡散されていた。フロアでの様子を誰かが録音していたのだ。

「片親の貧乏人はうちのお点」

その音声がまたたく間に広がった。コメント欄には非難の声が殺到した。

「最低の人間。こんな奴が銀行員なんて許せない」

「差別主義者。銀行員失格」

「二度と表に出るな」

璃緒の個人情報も次々と特定されていった。高級マンションの住所、通っているエステサロン、婚約者の情報。全てがさらされ、炎上は加速した。

テレビのワイドショーでもこの事件が取り上げられた。

「金融機関の職員としてあってはならない差別発言です。企業の社会的責任が問われます」

青葉信用銀行の企業イメージは地に落ちた。広告契約を打ち切る企業が続出した。銀行の看板から企業ロゴが次々と外されていく。取引先からも信頼を失った。融資の申し込みが激減し、新規顧客も遠のいた。

銀行員たちは肩身の狭い思いをしていた。「青葉信用銀行の者です」と名乗ると、冷たい目で見られる。一人の差別発言が、何千人もの社員を苦しめていた。

その頃、遠取締役室では緊急の取締役会が開かれていた。遠取締役の神崎誠一郎は青ざめた顔で報告を聞いていた。

「預金流出総額はすでに八〇〇〇億円を超えています。このままでは資金繰りが破綻します。金融庁から業務改善命令が出る可能性が高い」

株式市場では青葉信用銀行の株価が暴落していた。前日比で三〇パーセントの下落。格付け会社も信用格付けの引き下げを発表した。

「遠取締役、これは責任問題です。この事態を招いた原因を明確にすべきです」

全ての視線が遠取締役に向けられた。そしてその責任の根源にいる人物。

「遠取締役の娘、神崎璃緒の差別発言が全ての発端です。彼女を即座に処分しなければ、銀行の信用は回復しません」

誠一郎は拳を握りしめた。実の娘を守りたい気持ちと、銀行を守る責任。その間で苦悩していた。しかしもはや選択の余地はなかった。

「神崎璃緒を即日、地方支店に左遷する。職種は窓口係りだ」

取締役たちは重く頷いた。

その日の午後、璃緒は遠取締役室に呼び出された。そこには厳しい表情の父親がいた。

「璃緒、お前は懲戒で秋田支店に移動だ」

「え? 秋田? お父様、何を?」

「窓口係りとして、一から出直してもらう」

「待って、お父様。私を、私は悪くない。あの貧乏人が、あいつが全部悪いの」

誠一郎は璃緒の顔を平手打ちした。

「いい加減にしろ。お前の傲慢さが、銀行をどれだけの危機に落とし入れたか分かっているのか?」

璃緒は頬を押さえて泣き崩れた。

「いや、地方なんて行きたくない」

「これ以上銀行に迷惑をかけるな。明日から秋田に行け。これは命令だ」

璃緒は人事部に連れて行かれ、そこで正式な辞令を受け取った。秋田支店・窓口係り。これまで父親の権力で好き放題してきた璃緒。その全てが一瞬で崩れ去った。

その夜、璃緒の婚約者から電話がかかってきた。

「璃緒、話がある」

「何?」

「婚約を解消したい」

「え? どうして……」

「君のことがニュースやSNSで拡散されている。うちの家族も世間体を気にしている。このまま結婚するわけにはいかない」

電話は一方的に切られた。璃緒は携帯電話を床に叩きつけた。

「嘘よ……」

涙が止まらなかった。全てを失った。仕事も、婚約も、プライドも、そして社会的な信用も。

数日後、璃緒は秋田支店に赴任した。高級マンションは解約し、安いアパートに引っ越した。ブランド品は全て売却し、質素な服を着るようになった。

秋田支店では誰も璃緒を特別扱いしなかった。ただの窓口係りとして、厳しく指導された。かつて自分が見下していた平凡な仕事。その大変さを身を持って知ることになった。

初日、支店長から冷たく告げられた。

「東京から来たからと言って、特別扱いはしない。むしろ、あなたの差別発言は全国に知れ渡っている。ここで信頼を取り戻せるかどうかは、あなた次第だ」

璃緒は頭を下げることしかできなかった。

窓口業務は想像以上に大変だった。お客様一人一人に丁寧に対応し、複雑な手続きを正確にこなす。ミスは許されない。クレームがあればすぐに責任を問われる。かつて結衣がこの仕事をどれだけ真面目にこなしていたか。今になって璃緒はそれを理解した。

夜、一人アパートで璃緒は後悔していた。スマートフォンにはもう誰からも連絡が来ない。友人たちは全員離れていった。

「あの時、優しくしていれば、こんなことにはならなかったのに」

しかしもう遅かった。全ては自分が巻いた種だった。

一方、遠取締役の神崎誠一郎にも厳しい現実が待っていた。取締役会は、娘の処分だけでは済まされないと判断した。

「遠取締役、あなたの管理責任も重大です。娘の差別行為を放置していた責任は免れません」

遠取締役は役員報酬の五〇パーセントカット、六か月間の停職処分を受けた。さらに株主総会で厳しい追及を受けることになった。

「遠取締役の家族が、銀行の信用を失墜させた。このような事態を招いた責任をどう取るつもりか」

誠一郎は重い口を開いた。

「娘の教育を誤り、銀行に多大な損害を与えたこと。心からお詫び申し上げます」

株主たちからは容赦ない非難の声が飛んだ。遠取締役の権威は完全に失墜した。かつて権力の頂点にいた親子。その両者が、今は地に落ちていた。

一方、結衣は祖父と再会していた。病院のロビーで、二人は向かい合って座っていた。

「結衣、辛い思いをさせて本当にすまなかった」

「おじいちゃん、どうして今まで……」

「お前の父親、私の息子が亡くなった時、私は仕事に没頭しすぎていた。お前たちを支えることができなかった。それがずっと心に引っかかっていた」

虎之助の目には涙が浮かんでいた。

「だから遠くから見守ることしかできなかった。しかし、お前が苦しんでいるのを知って、もう黙っていられなかった」

結衣は祖父の手を握った。

「おじいちゃん、ありがとう。私、一人だと思ってた。でも、見守ってくれる人がいたんだね」

虎之助は優しく微笑んだ。

「お前は自分の力で立っている。お前の父親もきっと誇りに思っているだろう」

虎之助の目から一筋の涙が流れた。

「息子を失って、私は仕事に逃げた。本当はお前たちを支えるべきだったのに。臆病だった。お前たちの前に現れる勇気がなかった」

「おじいちゃん……」

「でも、もうそんな日々は終わりだ。これからは家族として、一緒に生きていこう」

結衣は祖父に抱きつき、声を上げて泣いた。長年の孤独がようやく癒されていく。温かい家族の絆が心を満たした。

その時、看護師が出てきた。

「水野様、お母様の容態が安定しました」

結衣と虎之助は急いで病室に入った。母はベッドで穏やかに眠っていた。虎之助が治療費の全てを負担してくれたのだ。最高の医療を受け、母は回復に向かっていた。

やがて母がゆっくりと目を開けた。

「ゆい……」

「お母さん」

母は結衣の隣にいる老人に気づいた。

「お父様……すまなかった。長い間、放っておいてしまって」

「いいんだ。これからは私が二人を守る」

母の目からも涙が溢れた。三人は静かに手を繋いだ。長い間離れていた家族。その絆がようやく戻ってきた。温かい涙が三人の頬を伝った。病室の窓から、優しい光が差し込んでいた。

それから半年後、結衣は三菱UFJ銀行に転職していた。祖父のコネではなく、自分の実力で採用された。新しい職場では、結衣の誠実な仕事ぶりが高く評価されていた。

母は完全に回復し、自宅で穏やかな日々を送っていた。祖父は週に一度、結衣と母を訪ねてくるようになった。三人で食卓を囲む時間は、何よりも温かかった。

「結衣、仕事は順調か?」

「うん、とっても充実してる」

「結衣は本当に頑張ってるわ」

祖父は満足そうに頷いた。

「お前は自分の力で道を切り開いた。それが何より素晴らしい」

結衣は笑顔で答えた。

「おじいちゃん、お母さん、ありがとう。これからも頑張るね」

一方、秋田で働く璃緒は、ようやく自分の過ちに気づき始めていた。最初の三か月は地獄のような日々だった。窓口での手続きミスを厳しく指摘され、何度も謝罪した。かつて自分が見下していた平凡な仕事の難しさを痛感した。

同僚たちは最初は冷たかった。「東京から来た、差別発言で炎上したあの人」。誰もが距離を置いた。しかし璃緒は黙々と働き続けた。朝は誰よりも早く出勤し、窓口を磨いた。お客様には丁寧に、心を込めて対応した。

ある日、ベテラン社員の佐藤さんが声をかけてくれた。

「神崎さん、最近頑張ってるわね。お客様からの評判も、少しずつ良くなってるわよ」

その言葉に璃緒は涙が出そうになった。認められること。それがこんなに嬉しいことだとは知らなかった。

ある日、窓口に高齢の女性が訪れた。年金の手続きで困惑している様子だった。璃緒は椅子を用意し、ゆっくりと丁寧に説明した。一つ一つ書類を一緒に確認していった。

「ありがとう、お嬢さん。とても分かりやすかったわ。あなたみたいに親切な人に、久しぶりに会ったわ」

その笑顔に、璃緒は心が温かくなるのを感じた。人に感謝される喜び。人の役に立つ喜び。それを今まで知らなかった。東京で人を見下していた日々に、何の意味があったのだろう。

仕事が終わり、アパートに帰る道。璃緒は小さな花屋さんの前で立ち止まった。シンプルな花が並んでいる。かつては高級な花しか目に入らなかった。でも今は、この小さな花の美しさが分かる。

璃緒は一輪の花を買った。三百円。東京では見向きもしなかった価格。でもその一輪が、今の璃緒の部屋を明るく照らす。

アパートに戻ると、璃緒は日記を書き始めた。自分を見つめ直すために、半年前から続けている習慣だった。

「今日、お客様に感謝された。嬉しかった。こんな気持ち、初めてかもしれない。結衣さんは毎日こうやって頑張っていたんだ。あの人はどんなに辛かっただろう。どんなに悔しかっただろう。私はなんてひどいことをしたんだろう」

璃緒の目から涙が溢れた。後悔の涙。そして、少しの希望の涙。もう二度と人を見下すことはしない。もう二度と人を傷つけることはしない。そう心に誓った。

そしていつか、もし機会があれば、結衣に謝りたい。顔を合わせる勇気はまだない。でも、いつか必ず。そんな日が来ることを、璃緒は願っていた。

机の上には便箋が置いてあった。何度も書いては破り捨てた、謝罪の手紙の下書き。まだ送る勇気は出ない。でも、いつか必ず。璃緒は花を見つめながら、そう誓った。

結衣には新しい人生が始まっていた。家族の愛に包まれ、自分の力で未来を築いていく。それは誰にも奪えない、確かな幸せだった。

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