宿賀会の会場に足を踏み入れた瞬間、違和感を覚えた。俺は足立、五十五歳。地方の町で社員五人を抱える小さな町工場を営んでいる。作っているのは自動車のエンジンに収まる燃料噴射ノズルだ。親指ほどの金属部品で、先端には髪の毛より細い穴が何本も開いている。この穴の精度がわずかに狂えば、エンジンの燃え方が乱れる。出力も燃費も排ガスも、すべてが変わってしまう。
ミクロン単位の精度は、図面通りに削るだけでは出せない。素材の癖を読み、刃の入れ方を変え、削る熱で金属が膨らむ分まで計算に入れて仕上げる。このノズルを、名の通った大手自動車メーカー五社すべてが使っている。車が走るためになくてはならない部品を作っているという誇りはあった。
しかし、部品が欠かせないことと、作る人間が敬われることは、まるで別の話だった。取引先の担当者は当然の顔で部品を受け取り、検品もそこそこに次の発注を置いていく。最大手の取引担当である滝本は、書類を放り投げるように渡してくる癖があった。納期通りに納品さえすればいい、その態度をあからさまに示してくる。
単価はいつも買う側が決める。長年、安く買い叩かれてきた。それでも断れば工場が立ち行かなくなるから、受け続けてきた。断るたびに値上げを申し入れても、一度として聞き入れられたことはない。「こっちだって人件費や流通費のコストで困ってるんだ」と、滝本は決まってそう言う。
他のメーカーも似たような口ぶりで、俺の要求をかわしていく。ただ一つ、腑に落ちないことがあった。五社は表向き互いに競合相手のはずなのに、提示してくる部品単価の見積もり額が、ほぼ変わらないのだ。まるで情報を共有し合っているとしか思えないほど、足並みを揃えた額を出してくる。しかも、最初に見積もりを出してくるのは、決まって滝本の会社からだった。
理由は分からない。俺はその都度首をかしげた。勘なのかもしれないが、紙だけは捨てられない。見積もり書も発注書も納品の控えも、年ごとに閉じて棚に並べてある。古い閉じ込みを引けば、どこの会社がいつ、いくらで買っていったかが分かる。
俺がいつもより少し強く値上げを迫ったのは、その二週間前のことだ。滝本は書類をひったくるように受け取り、何も言わずに俺を睨みつけて帰った。その後ろ姿を見送りながら、何か嫌なものを感じた。
そんな折、業界団体が開く宿賀会への招待状が届いた。大手五社が集まる会だ。うちの工場に声がかかったのは初めてだった。安く買われ続けてはきたが、部品の精度を認めてくれたのかもしれない。俺は背筋を伸ばして会場へ向かった。
会場は都心のホテルの大広間だった。卓ごとに名前を書いた札が立っている。俺は自分の名前を探して、外周の卓から順に見ていった。しかし、どの卓にも俺の名前がない。受付に戻って招待状を差し出すと、若い係が一覧を指でなぞり、途中で止まった。名前は載っているが、席の割り当て欄が空白なのだ。
そこへ滝本が割り込んできた。俺の手元の招待状を覗き込み、口の端を持ち上げて言った。
「ああ、あんたが。宿賀会とか、こういう席には全ての取引先に声をかける決まりでね。普段は俺が下請けを除外するんだが、今回は部下が送ってしまったんだよ」
その言葉で、俺は今までうちが宿賀会に呼ばれなかった理由を知った。滝本は続けた。
「つまり手違いというわけだ。あんたら下請けの町工場の席は必要ないから、外させてもらった。まあ、自分が置かれた立場を自覚することだね」
「でしたら、招待は誤りだったと一言知らせてくれれば。わざわざ無駄足を踏まずに済んだのに」
その言葉はどうにか飲み込んだ。滝本はさらに続ける。
「こっちの経理に毎度ごねる工場に回す椅子などないってことだよ。下請けは廊下に立ってな」
近くの卓の何人かがこちらをちらりと見た。目が合うと、何事もなかったように向き直る。俺は何も言い返さなかった。声を荒げれば、「ごねる工場だ」という滝本の見立てを自分で証明することになる。ただ立っているしかなかった。
名だたる自動車メーカーの車のどれにも、俺が仕上げたノズルが収まっている。その俺が、座る椅子もなければ、グラスも持たされていない。これは俺一人への侮辱では済まない。日々汗水垂らして働く従業員たちも、軽く見られているのだ。グラスを握った途端、激しい怒りが腹の底に沈んでいく。
やがて会場の照明が落ち、壇上に明かりが集まった。進行役が代表者の名前を呼ぶ。立ったのは、業界随一の自動車メーカーで社長を務める相沢だった。分厚いメガネ越しでマイクの前に立ち、耳障りのいい言葉が続く。
「我々の結束だの、未来への投資だの」
そして相沢はグラスを高く掲げて言った。
「我々、大手五社の未来と発展に乾杯」
会場が拍手と歓声に揺れる。俺は相沢の言葉に違和感を覚えた。メーカーは本来、客を奪い合う間柄のはずだ。それなのに、まるで一つの身内のように「我々」と束ねられている。あの不自然に揃った見積もりの数字が、頭の隅で蘇った。
俺は上着の内ポケットに手を入れ、スマホの録音を始めた。証拠になるかどうかも分からない。ただ、長年一方的に単価を決められてきた者の感として、この場の空気だけは残しておくべきだと判断した。
乾杯の余韻が覚め、人々が卓へ戻った転機を見て、俺はクロークへ向かう。その入り口の手前で、滝本が別の社の担当者と話し込んでいた。酔いの回った声が喧騒の中に紛れていく。何を話しているのかは、その場では聞き取れなかった。
通り過ぎざま、俺は足を止め、少しだけ振り返った。
「部外者らしいので帰りますね」
滝本が何か言いかけたが、俺はもう背を向けていた。
それから三時間かけ、夜も更けた工場に戻った。事務所の机に腰を下ろし、上着の内ポケットからスマホを取り出して、記録した音声の再生を始めた。最初は遠くの喧騒しか入っていない。早送りで飛ばしかけた指を、ある箇所で止めた。滝本の声が聞こえてくる。酔った調子で誰かに話しかけている。
「今期も価格は揃えてある。うちが先に出した額に、四社が合わせる形でな。はい。いつも通りに」
相手の声は、別の社の担当者のものだ。
「下への支払いは足並みを崩すなよ。安く買い続けてるからこそ、こっちの利益が保ててるんだ」
笑いを含んだ声が続き、やがて別の話題に移って音声は終わった。表向き競い合うはずのメーカーが、裏では部品の買い値を示し合わせ、一様に低く抑えてきたのだ。不自然に一致した見積もりの理由が、この音声ではっきり分かった。単価の引き上げを頭を下げて頼み込むたびに、俺は裏で笑われていたことになる。
腹の底から冷たい怒りが込み上げてくる。ただ、証拠が録音一本だけでは弱い。誰の声かは聞けば分かるが、日付も、何の価格を指しているのかも、このままでは曖昧なままだ。俺は棚から年ごとに閉じた箱を引き出した。見積もり書、発注書、納品の控え。捨てずに溜め込んできた紙の束だ。机に並べ、年を追って広げていく。
五社それぞれの見積もり額を、年ごとに横一列に書き出してみる。数字を並べただけで答えは見えた。毎年、最大手である滝本の会社が先に額を示し、残りの四社が示し合わせたように同じ額をなぞっている。その順序も、日付を見れば分かる。一円の違いもない年が何度もあった。偶然で片付けられる数字ではない。録音が示した内輪の話と、この十数年分の数字が、机の上で重なり合っていく。
俺はペンを置き、しばらく動けなかった。これはただの買い叩きではない。翌朝、俺は工場の朝礼を手短に済ませ、車で隣町まで走った。向かったのは、顧問弁護士の津島の事務所だ。俺は、メーカーから出された単価が足並みを揃えたようにほとんど同じ額になっていることを説明し、宿賀会で撮った音声を再生した。年ごとに並べた見積もりの束を差し出すと、津島はしばらく無言で数字の列を目で追っていた。
「これは独占禁止法が禁じている行為です」
津島はそう言って、書類の隅を指でなぞった。
「本来は競い合うはずのメーカーが、顔を合わせて手を組み、下請けへの支払いを一律に低く抑える。これは買い占めカルテルと呼ばれるものに当たります」
長年抱えてきた違和感に、ようやく名前がついた。俺は思わず尋ねた。
「これは勝てるものなんですか?下請けの方から声を上げて、潰されたりはしませんか?」
津島は資料から顔を上げ、初めて表情を緩めた。
「情報提供者の身元は明らかにされません。それに、この録音と、これだけの年数の記録が揃っていれば、委員会は動かないわけにはいきません。人件費や物流費の高騰を理由にした単価の値下げも、メーカーが横並びで示し続けた以上、競争が働いていない証拠になる。これらは公正取引委員会に提出する証拠として十分です」
津島はそう言い切った。
それから数日、俺はノズル以外の部品を手掛ける下請け仲間に、何気なく単価の話を振ってみた。ブレーキ部品を手掛ける同業の男は言った。
「うちも同じだよ。毎年、あのメーカーが示し合わせてるとしか思えない額を出してくる。でも、声を上げたら、明日にも取引を切られるかもしれない」
伝動部品を手掛ける別の同業も、似たような渋い顔で同じ不満をこぼしたが、最後は決まって「取引を切られる」という一言で話が終わる。誰もが薄々気づきながら、誰も声を上げない。その沈黙の重さが、長年この仕組みを支えてきたのだと、俺は改めて思い知った。彼らにできることは俺への共感だけだ。それが俺の覚悟を固めさせた。誰かが声を上げなければ、この仕組みはこれからも続いていく。
俺は事務所の机に向かい、夜を徹して資料をまとめた。録音データにある問題箇所のタイムコードを記録し、五社それぞれの見積もり額を表票のように並べ直す。最大手が先に額を示し、残り四社がそれをなぞる流れを、誰が見ても分かる形に整えた。取引が始まった年から今年まで、途切れることなく続いた値の一致を、一枚の表に落とし込んでいく。作業を終えたのは、空がうっすら白み始めた頃だった。
提出の前夜、俺は表を最後にもう一度見直した。感情を出す場面ではないと自分に言い聞かせる。怒りに任せて動けば、足元を救われてしまう。事実だけを淡々と積み上げる。それが、長年買い叩かれてきた人間にできる、唯一の確実な反撃だ。翌日、俺は録音データと取引記録一式を整え、公正取引委員会へ郵送した。
郵送した瞬間、俺の頭の中が晴れてきたように感じた。メーカーだけに依存してきたこと自体が、買い叩かれ続けた原因の一つだと気づいたのだ。証拠を郵送した翌週から、俺は業界の外に目を向け始めた。産業機械、航空、医療。このノズルの精度が必要な分野は、自動車だけではないはずだ。
調査の通知が来るまでの間、工場ではいつもと変わらぬ顔で機械に向かい続けた。業界の外部へ積極的に営業をかけたおかげで、新たな引き合いが舞い込み始めた。不当に安く買い叩かれることなく、適正価格での取引だ。忙しさが増す一方で、あのメーカーに依存しなくともやっていけるという手応えが、少しずつ育ってきた。
俺の元に排除措置命令の通知が届いたのは、それから半年ほど経った頃だった。分厚い書面の冒頭に、見慣れない言葉が記されている。取引委員会は、独占禁止法に違反する行為を認定した事業者に対し、その行為を止めさせ、再発を防ぐための措置を命じることができる。それが排除措置命令だ。書面の後半には、もう一つ書かれていた。情報提供を行った者には、措置が確定した段階で、その概要を知らせる通知が送られる。俺は自分が出した一通の郵送物が、こうして帰ってくるとは思っていなかった。
メーカーに対し買い占めを禁じる命令が出されたという一文を、俺は何度も読み返した。
通知から数日後、工場の前に一台の車が止まる。降りてきたのは相沢と滝本だった。わざわざ二人で来たことに、俺は身構えた。事務所に通すと、相沢は奥の椅子に腰を下ろしたまま、ほとんど口を開かない。話を始めたのは滝本だった。
「うちにも委員会から正式に命令が来た。この工場にも、何か知らせが来てるんじゃないか」
探るような言い方だ。俺がどこまで知っているか、それを確かめに来たのだとすぐに分かった。俺は引き出しから通知書を出し、机に置いた。滝本の目が文面を追い、表情が固まる。
「これを、おたくが出したのか」
俺は答えず、続けてスマホをテーブルの上に置く。そして、宿賀会の夜に取った音声を再生した。滝本の声が事務所に流れた。
「今期も価格は揃えてある。うちが先に出した額に、四社が合わせる形でな」
滝本の顔から色が引いていく。
「これはあくまで酒の席の話だ。本気で言ったわけじゃない」
俺はすぐさま言い返す。
「酒の席だろうと、メーカーで価格を揃えていた事実は変わりません」
俺は次に、同じ年のメーカーの見積もり額を並べた紙を出す。最大手の額に、残り四社がほとんど同じ額を提示している。滝本は紙を見たまま、言葉を失った。それでもなお、言い訳を探すようにしばらく口を閉じ、やがて絞り出すように声を出した。
「うちだけの判断じゃない。業界全体がやってきたことだ。うちだけが悪いわけじゃないだろう」
責任を他者へ振ろうとするその言葉さえ、机の上の通知書が否定していた。
「業界全体がそうしていたかどうかは、委員会が判断したことです。本社が先に額を出していた事実は、この録音と記録が示しています」
滝本は何も返せず、紙を握る手だけに力が入った。それでも視線だけは上げ、最後にもう一言、すがるように口を開いた。
「おたくも、これまでうちには散々世話になってきたはずだ。少しは多めに見てくれてもいいだろう」
立場が逆転したことを、まだ認めようとしない。その言葉に、俺は静かに答えた。
「世話になったことと、単価を裏で揃えられてきたことは別の話です」
滝本はそれ以上、何も言わなかった。
俺は相沢社長に向き直る。
「私はこれまで何度も単価を上げてくれと申し入れてきました。人件費と物流費の高騰を理由に、拒否されてきました」
俺は表票に整理した取引記録を差し出す。高騰を理由にした単価の値下げが、実際にはメーカーの申し合わせによるものであり、その判断を最終的に統括していたのが社長である相沢だったことを、数字の並びだけで示していく。
相沢は言った。「それは業界の慣行というもので」と、俺は相沢を遮り、委員会から届いた書面を相沢の前に滑らせた。
「国がすでに違反と認定した以上、慣行という言葉で済ませることはできませんよ」
相沢は書面を見たまましばらく黙っていた。宿賀会場で業界の結束を語った時のあの大きな声は、もうどこにも残っていない。やがて相沢は低い声で言った。
「部品単価が上がれば、我々もコストの安い調達先を探さざるを得ない。本社との取引にも影響が出るだろう」
遠回しな脅しだった。単価を上げるなら、海外の安い業者に切り替える。そう言いたいのだ。俺は棚から仕上げたばかりのノズルを一本取り出して、机の上に静かに置いた。
「では、これを海外の業者に作れるかどうか、試してみてください。このノズルの先端の穴の精度は、髪の毛の太さの数十分の一以下です。うちの従業員五人が、十数年かけて積み上げた精度です。これが他の業者で出せないから、どこもうちに依頼しているのではありませんか?それから、もう一つ申し上げておきます。このノズルは、産業機械や医療機器のメーカーからも引き合いをいただき始めています。本社が調達先を選ぶように、うちにも今後の納品先を選ぶ権利があります」
相沢はノズルから目を離さなかった。滝本は視線を机に落としたまま、身じろぎもしない。
「私だけではありません。同業の仲間たちも、長年同じ目に遭ってきました。部品の精度に見合った対価を求めるたびに、人件費と物流費を盾にされ、それでも声を上げれば取引を切られると、黙って飲み込んできた。黙っていたのは納得していたからではありません。声を上げれば工場が立ち行かなくなる。その一点だけで、ずっと耐えてきたんです。技術を安く買うことを当然とし、下請けの声を一度も聞こうとしなかった。その姿勢に、今回の命令は下っている。これから先も、さらなる処分が続くことになるでしょう」
相沢は最後まで俺と目を合わせようとはしなかった。滝本は何か言おうとして、開いた口を結局閉じた。事務所には、機械の低い音だけが響いている。やがて相沢が先に腰を上げ、滝本がそれに続いた。来た時の強気は、二人のどこにも残っていない。俺は戸口に立ったまま、車が走り去るまでその後ろ姿を見送った。これは、二人が自分たちで積み上げてきた結果なのだ。
排除措置命令から半年が経った頃、メーカーには課徴金が課され、業界紙には買い占めカルテルの認定が大きく報じられた。取引先からの信用も大きく揺らいだと、同業者から伝え聞いた。
俺の工場との取引は、見積もりの段階から変わった。各社が個別に部品の精度と手間を見て、額を出してくる。長年申し入れても通らなかった単価が、ようやく技術に見合った額になった。
俺は工場に立ち、いつもと同じ手付きでノズルを仕上げる。削る手の動きも、穴の精度を見る目も、何も変えていない。しかし、明らかに変わったことがある。仕事に臨む従業員たちの顔つきだ。技術に見合う対価を得られるという安心感が、皆の顔に宿っている。
技術は正しく評価されるべきだ。そして、その正しさを追い続けてきた自らの姿勢に、悔いはなかった。従業員の顔を見ながら、俺はそう思うのだった。



