私の家の鍵の色が違うなんて、夫は気づかなかった。昨日のうちに、私は夫が持つ鍵を、磁石が壊れて開かなくなった古い鍵とすり替えておいたのだ。だから夫と義母が帰宅した時、鍵は開かなかった。ドアの向こうで「開けろ!」と怒鳴る夫に、私は静かに言った。「いやよ。私はお母さんと同居するつもりはないの」――結婚前に私が買ったこのマンションで、夫の実の母親から「ダメ嫁」と罵られ、夫からは「ロボットみたいだ」と…

私の家の鍵の色が違うなんて、夫は気づかなかった。昨日のうちに、私は夫が持つ鍵を、磁石が壊れて開かなくなった古い鍵とすり替えておいたのだ。だから夫と義母が帰宅した時、鍵は開かなかった。ドアの向こうで「開けろ!」と怒鳴る夫に、私は静かに言った。「いやよ。私はお母さんと同居するつもりはないの」――結婚前に私が買ったこのマンションで、夫の実の母親から「ダメ嫁」と罵られ、夫からは「ロボットみたいだ」と...

鍵穴に、塗装の剥げたキャラクターのキーホルダーが付いた鍵をそっと差し込む。ほつれた紐を崩さないよう、ゆっくりと抜き取る。さあ、いい仕事をしてね。義母と夫の慌てふためく顔を思い浮かべ、喉の奥から笑いがこぼれた。

私の名前は泉。28歳の会社員だ。夫の建一は長男で、義弟夫婦が義実家に住んでいるおかげで、結婚してからこの2年ほど嫁姑問題もなく、平和な夫婦二人暮らしを満喫していた。

ところがある朝、義父がぽっくり亡くなった。その日を境に、義母は緩やかに、しかし確実に変わっていった。

最初の変化は、義母からの電話だった。

「泉さん、私、偽嫁にいじめられているの」

義母は開口一番、涙声で訴えてきた。家事もせずに遊びほうけているダメ嫁が、義父が亡くなってからはこれ幸いと家のことを放置するようになった。義母をこき使い文句を言い、嫁の尻に敷かれた義弟は義母をかばわない。――それが義母の主張だった。

「なるほど。大変でしたね」

私はできる限り同情的な声を出す。義母は私にとって赤の他人も同然だ。義母は私の反応に満足したようで、「泉さんに相談してよかったわ」と言って電話を切った。

義弟の嫁のかえさんにも事情を聞くと、興味深いことに、彼女の話は義母の主張とまるで真逆だった。義父の遺産が義母のブランド品購入で食いつぶされたと聞いて、驚きのあまりお茶を吹き出してしまった。かえさんは義母とは違って「大変ですね」という言葉では満足せず、義弟にも証言をさせた。

義母曰く「尻に敷かれた義弟」だが、彼はイメージを裏切って用意が良かった。なんと、義母と近所の奥様の会話を録音し、データを送り付けてきたのだ。

「長男の嫁に泣きついてやったわ。離れて暮らしているから、私の言うことにも素直に頷いちゃって。次男の嫁よりよっぽど従順で扱いやすそうなの。普段世話していない分、長男の嫁として罪悪感もあるでしょうし、きっと何でも言うことを聞いてくれるわよ」

なるほど。私も甘く見られたものだ。有罪、間違いなし。私はかえさんの味方になるべく、行動を開始した。

まず、我が家の残念な存在――夫の建一を何とかすることにした。

「かえさんを嫁いびりしてこき使った挙げ句、お父さんのお金も使い込んじゃったんだって」

私は夫に義母の本性を教えてあげたのだが、夫はどこに怒りのスイッチがあったのか、真っ赤な顔をして怒り出した。

「母さんがそんなことするわけないだろ。弟の嫁が嘘をついているに決まっている」

そう言い切って、「かわいそうな母さん、俺、電話して慰めてくる」と、妻である私の話を全く信じようとしない。義弟の録音を聞かせても、「泉と俺は母さんに頼りにされてるんだよ」という検討違いの感想をもらい、私は激しく沈んだ。どこをどう聞いたらそういう意味に受け取れるのか。

温厚で人当たりの良い夫だと思っていたが、飛んだマザコン男だったことが発覚した。義母と義弟嫁の問題もお手上げ状態なのに、残念な夫はさらにやってくれた。

なんと、我が家に義母を連れてきたのである。

「勝手に同居を決めた夫を許してはおけない。結婚する時、同居はないって言ったわよね」

私は夫を呼び出し、険しい表情で問い詰めた。結婚当初、同居はしないと約束していたのだ。夫は義弟夫婦が同居しているから大丈夫だと言い、同居はしないと断言していた。

「でも今は状況が違うだろう。母さんは弟の嫁にいじめられているんだ。放っておくなんてかわいそうじゃないか」

バカバカしくてため息が出る。かわいそうだからといって、約束を破っていいわけがない。私に一言も相談なしに同居を決めるのも許せない。

「なんでそんなひどい仕打ちができるんだよ。俺の母親だぞ。俺の親を少しは思いやれないのかよ」

「感情の話じゃないの。約束を破って相談もしないなんて、人としてどうなの?」

「お前はいつもそうだよな。まるでロボットみたいだ。自分の都合で相手の気持ちを切り捨てる」

自分が勝手に義母を連れてきたくせに、自分のことは棚に上げている。説得に時間がかかりそうだとうんざりしていると、義母が私を呼ぶ声がした。

「ほら、母さんが呼んでるだろ。さっさと行けよ。待たせるな」

鼻息荒く吐き捨てると、夫は私を部屋から追い出した。少し頭が冷えるのを待つかと思い義母の元へ行けば、彼女は私の顔を見るなりため息をついた。

「泉さん、あなた、家事が下手ね。テレビの裏に埃が溜まっているし。冷蔵庫の中身、あれは何? 冷凍食品やレンジで温める総菜じゃない? あんなものばかりじゃ体に悪いから、代わりに捨てておいてあげたわよ。早くきちんとした食材を買ってきなさいな」

来て早々チェックが素早いことだ。ちらっとゴミ箱に視線をやれば、ごちゃごちゃといろんなものが捨てられていた。キッチンの配置も変わっている。

これは無理だ。人じゃない、モンスターだよ。同居しているかえさんを尊敬する。半日、いや1時間も我慢できそうにない。これ以上何か言えば、自動的に私の口から1時間ほどの暴言が溢れることになるだろう。無駄に時間を消費したくなかったので、私は買い物袋を手に家を出た。頭の中では、義母をどう追い出そうかということばかり考えていた。

その日の料理も「どういう味付けなの? 食べる気が薄れるわ」と文句を言いつつ、全て耐え切った義母を眺め、嫁いびりに常識などないのだと学んだ私は、以降イエスマンとなって対応した。

「はい、今後はそのようにいたします」

ロボットのようにそう繰り返した。それが義母には気に入ったらしい。義母に従順な嫁に移ったのだろう。夫は私がいびられる様子を見て、喜ぶどころかむしろ満足げだった。思いやりとは何だろうか。

「明日休みだから、実家に母さんの荷物を取りに行ってくる」

夕飯の席でそう言われて、私は心の底からほっとした。来週末とか言われたら、窓から直接義母を追い出していただろう。

翌日は、計画実行にふさわしい快晴だった。時計を見れば午後4時過ぎ。午前中から義実家に向かった夫と義母は、そろそろ帰ってくる頃だろう。

そんなことを思っていたら、玄関からガチャガチャとドアの鍵を回す音がした。こうもうるさい金属音は、鍵を差し込もうとする手が苛立ちに震えているからだろうか。ニヤニヤしていると、今度はインターホンが鳴った。

「おい、鍵が開かないぞ。どういうことだ?」

インターホン越しに応えると、夫の困惑した声が聞こえる。

「あら、変ね」

「中から開けろ。母さんを待たせるなよ」

「いやよ。私はお母さんと同居するつもりはないの。だからドアは開けないわ。開けたら同居に同意したことになるもの」

丁寧に説明してあげたが、夫は今一つ理解が足りないらしい。

「ふざけんなよ。ここを開けろ」

猛烈な勢いでドアを叩き始めた。

「ちょっと泉さん、バカなことしてないでさっさと開けなさい。こんなことして許さないわ。このダメ嫁!」

愛想笑いを浮かべる私を、義母は金切り声で怒鳴ってくる。

「夫を追い出すなんて、この恩知らず! 彼のおかげでこんな暮らしができているのか、胸に手を当ててよく考えなさい!」

そう説教されても正直困る。

「ご存知ないようなのでお伝えしますが、このマンションは私が結婚前に買ったものです。名義も私のものですし、誰のおかげかと言うなら、私のおかげでしょうか。つまり夫は、私のおかげでこんな暮らしができているので、胸に手を当てるまでもなく私に感謝をすべきですね」

淡々と言えば、夫と義母の二人から「なっ」と驚きの言葉を頂いた。ドアの向こうで義母が夫に「本当なの?」と問い詰めていたが、本当の話だ。このマンションはローンを組んで購入した。亡き父が心付けに頭金を出してくれたおかげで、私の給料でも審査が通ったのだ。家主は私であり、それがルールである。

理解が足りない夫と義母は、苛立ち紛れにドアを蹴ったり殴ったりと忙しい。警察を呼んで引き取ってもらおうかと考えたが、先に近所の人が通報したようで、インターホン越しに呆れたような声がする。

「警察のものですが、騒音の通報がありまして」

「自分の家だと言ってますが、本当ですか?」と質問された私は、声色を怯えた調子に変えて答えた。

「いえ、ここは私の家です。何度言っても理解できないようで困っていて……」

物分かりのいい警官だったのだろう。ギャンギャンと喚く二人を、そのまま引き取ってくれた。

「ふう」

暢気になった玄関でため息をつく。自室に戻り机の引き出しを開けると、金色に鈍く光る一本の鍵があった。一見すると普通の鍵だが、実は中に磁石が入っている。マグネットタンブラーシリンダー鍵というらしい。結婚前、鍵が開かなくなって驚き鍵屋さんに訪ねると、磁力が落ちたのが原因だと言われた。使えなくなっても鍵を捨てるのが怖くて取っておいて、本当に良かったと思う。

マンションの鍵そのものを取り替えるのではなく、夫に渡していた鍵を昨日のうちに壊れた鍵とすり替えておいたのだ。塗装の剥げたキーホルダーを付け替えただけで、夫は疑いもしなかった。

「本当にいい仕事してくれたわ」

悪戯っぽく笑い、次の計画に取りかかる。つらりと開けた別の引き出しには、昨日買い物ついでにもらってきた離婚届があった。

警察から説教され解放された夫と義母は、うちには入れないので義実家に向かったらしい。だが、あいにく義実家の名義は、義父が亡くなると決まった時点で義弟夫婦に変更されており、かえさんは私を真似て「ここは私と夫の家よ」と受け入れを拒否したそうだ。今回の計画で義実家の名義だけが心配だったのだが、かえさんが豪気に追い出してくれて本当に良かったと思う。同居するなら名義を返せと義弟に迫った当時の決断に、感謝の気持ちを込めて手を合わせる。

さて、義実家からも受け入れを拒否された二人だが――。

「母さんがいなければいいんだろ。俺を入れてくれるよな」

隣には義母を連れ、我が家の玄関前でそう叫ぶ夫がいた。

「え、建一? 嫁いびりなんて本当に最低だよな。俺は気づかなかっただけなんだ」

「いやいや、気づかないどころか満足げに笑ってたよね。謝罪が必要なら謝らせる。誠心誠意謝るよ。何でもするからさ。約束ももう二度と破らないからさ」

義母は夫の第一声の後、すっかり黙り込んでいる。無駄に時間を消費するだけだと頭を切り替え、玄関のチェーンをかける。少しドアを開いて、その隙間からすっと封筒を差し出した。

「して欲しいことは、それに記入することだけよ」

もはや何でもするという気分だったらしい。夫は急いで封筒を受け取り、中を確認したようだ。

「これ、離婚届じゃないか」

「ついでに提出もお願いね。何でもするんでしょう? なら離婚してね。約束、もう二度と破らないものね」

小さく笑った私の耳に、「おい、うるさいぞ。また警察呼ばれたいのか」という近所の怒鳴り声が聞こえた。入れてくれと迫ってくる夫に、私は優しく語りかける。

「愛想笑い、私、一度の裏切りも許せないの。あなたの言った通り、情のないロボットだから。理解したなら、さっさとダメ嫁を連れてとっとと消えてね。あんまりしつこいと、ご近所さんより先に私が警察に通報しちゃうわよ」

そう言い捨てて、インターホンを切ってやった。

弁護士に依頼したおかげで財産分与も問題なく進み、私は夫と無事に離婚が成立した。元夫と義母は二人でアパート暮らしを始めたと、かえさんから教えてもらった。元夫は営業職から内勤へ追いやられたらしい。その理由が「嫁に捨てられたが諦めきれずストーカー化して警察に捕まった」という噂が広まったからだというのだから、噂とは怖いものだとつくづく思う。

給料は下がったが義母の散財癖は治らず、二人は互いに罵り合いながら切り詰めた生活を送っているそうだ。めでたし、めでたしである。

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