「おい、鈴木。聞いたぞ。お前、中卒だそうじゃないか」
平田がニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべながら、いきなりそんな言葉を投げつけてきた。確かに俺は中卒だ。しかし、それが何だというのだろうか。俺が呆気に取られていると、平田はさらに続けた。
「さっきお前と前の部署で一緒だった奴から聞いたぜ。なんでここにいるわけ? 中卒は本社にはいらないよ。明日からどこの店舗に移動だ。早く荷物をまとめろ。いつまでも低学歴の人間にいられちゃ邪魔だからな」
あまりにも一方的な通告に、俺は最初、何が起きたのか理解できなかった。
俺の名前は鈴木正。39歳になるサラリーマンだ。幼い頃に両親が離婚し、以来、母子家庭で育った。貧しい環境だったこともあり、中学を卒業すると同時に働き始めた。母は高校へ行けと勧めてくれたが、家族に迷惑をかけてまで進学する理由は見つからなかった。そんな母も10年前に病気で亡くなり、それからは一人で生きてきた。
5年前に結婚し、今は妻と息子と暮らしている。今年の秋には家族がもう一人増える予定だ。妻のお腹の中に新しい命が宿っている。
現在、俺は大手コンビニエンスストア、レインボーストアの本社で働いている。営業課の係長として、主に取引先との契約を担当している。今、俺が心血を注いでいるのは、セルフレジなどの機械を製造販売するサイエンステクノロジー社との契約締結だ。この契約が成立すれば、会社にとって莫大な利益になることは間違いない。相手は日本最大手の企業だけに、一筋縄ではいかない。ここまで漕ぎ着けるのに、どれだけの努力を重ねてきたか。契約を成功させるため、俺は前日まで準備に追われていた。
営業課の仲間たちはみんな明るくていい人ばかりだ。誰かが困っていれば、すぐに手を貸そうとしてくれる。それは現社長の坂口さんの方針によるものかもしれない。坂口さんは誰に対しても紳士的に接することで知られている。部下に対してもきちんと敬語を使う。大企業の社長ともなれば誰でも偉そうになってしまいそうなものだが、坂口さんにとってはそれが当たり前なのだ。俺は密かに坂口さんを目標にしている。彼のような経営者になることを夢見て、独立のための貯金もかなり貯めてきた。ただ、安定した会社員生活に慣れてしまい、なかなか踏ん切りがつかずにいる。
そんな営業課に、一人だけ浮いた存在がいた。この春、32歳という若さで営業課長に抜擢された平田である。俺より7歳も年下だ。ハーバード大学を卒業したという華麗な経歴を持つ男だが、その経歴をやたらと鼻にかけている。元々はロサンゼルス支社にいたらしいが、上司と大喧嘩して本社に飛ばされてきたという噂もある。奴は自分自身を仕事ができるエリートだと思い込んでいるが、実際は真逆だ。他人を敬うことを知らないため、取引相手の怒りを買うことも多い。その度に、俺たち部下が奴の尻拭いをさせられているのだ。
そんな平田に、サイエンステクノロジーとの契約を翌日に控えた日、俺は呼び止められた。大事な前日に、できれば関わりたくない相手だ。俺は嫌々ながら奴に用件を尋ねた。すると冒頭の言葉が返ってきたわけだ。
俺が平田に反論する。「いきなりそんなことをおっしゃっても困ります。もし私を移動させたいのなら、正当な理由と共に適切な手続きを取っていただかないと」
しかし平田は鼻で笑いながら言い放った。「だから言ってるだろうが。中卒は本社にいらないんだよ。考えてもみろよ。お前みたいな低学歴の人間がレインボーストアの営業課の係長だなんて、おかしいだろ」
とんでもない話だ。平田はどうやら何もかもが学歴で決まると思っているらしい。それならば、仕事もできない平田が課長を務めていることの方がよっぽどおかしいのではないか。俺はそう言い返そうとしたが、ぐっと飲み込んだ。反撃すれば、さらに侮辱されるだけだと分かっていたからだ。
しかし、平田は俺が黙っているのをいいことに、好き勝手な言葉を並べ立て始めた。
「お前、母子家庭育ちなんだって? 母子家庭って本当にあったんだな。俺は両親からちゃんと愛情を受けて育ったから、そういうの知らなくってさ」
冗談ではない。俺だって母の愛情を一心に受けて育った。母子家庭イコール不幸という式は成り立たない。こいつはそんなことも分からないのか。怒りを通り越して、呆れてしまった。
周りの仲間たちが平田の余りの暴言に、奴を止めようとしてくれた。やはり信用できる連中だ。しかし平田は言い放った。
「なんだよ。お前ら、ハーバード大卒のこの俺に逆らおうっていうのか? 言っておくけどな。この営業課で一番学歴がいいのは俺だぜ。そのことを忘れるんじゃない」
もう何を言っても無駄なようだ。仲間たちは諦めて、申し訳なさそうに俺を見つめるばかりだった。でも、その気持ちだけでも嬉しかった。
「分かりました。万一私が地方の店舗へ移動することになったとして、私が今日まで担当していた契約はどうなるんですか? 課長、そのことをどうお考えですか」
俺は平田にそう尋ねた。平田はまたもや鼻で笑いながら言った。
「はっ。お前程度の低学歴者が取ってこられる契約なんて、高が知れているだろう。そんなもの、代わりの担当者なんていくらでもいるんだよ。お前は気にすることないんだ」
契約というものは、一発で獲得できる代物ではない。事前の準備、何度も繰り返す交渉。その末にようやく合意に達するのだ。双方が納得しなければ、契約を見送ることだってある。そんな大事なことを、平田は随分と軽く考えているらしい。営業の人間として、奴の考え方はどうしても許せなかった。
それにしても、俺はこんな男のために自分の仕事を失うのか。そう考えると、腹が立つよりも虚しくなってきた。俺が俯いていると、平田は俺が深く傷ついたと勘違いしたらしい。大声で笑いながら言った。
「面白いなあ。その辛そうな顔。最高だよ。まさに中卒って感じだ。そうだ、スマホで写真撮らせてよ。後で他の奴らにも見せて回るから」
そして奴はスマホを取り出し、俺の顔を撮影しようとした。あまりにも卑劣で侮辱的な行為に、俺は声を荒げた。
「やめてください!」
平田はしらけた様子で言った。「なんだよ。つまんねえ奴だな」
とうとう堪忍袋の緒が切れた。俺は平田を真っ直ぐ見つめて言った。
「分かりました。それならば、首でお願いします」
平田は面食らったように声を上げた。俺は必要なものだけをまとめ、足早にオフィスを出て行った。オフィスの出入り口のドアノブに手をかけた時、背後から平田の声が聞こえた。
「まあ、好きにしろよ」
俺は振り返らずにオフィスを後にした。
翌日。本来ならば今日はサイエンステクノロジー社との商談の日だった。しかし俺は自宅でぼんやりと過ごしていた。テレビでお昼のワイドショーを見ていると、スマホが鳴った。電話に出て用件を聞くと、俺はある場所へ向かった。
その場所とは、昨日まで毎日通っていたレインボーストアの本社。しかし足を運ぶ先はいつもの営業課ではない。俺は社長室のドアをノックした。返事を待って中に入ると、重厚な机の前に坂口さんが座っている。そして、その隣に立っているのは平田だった。
坂口さんが言った。「よし、これで揃いましたね」
そして坂口さんは平田を見つめながら尋ねた。「昨日の件についてなのですが、君がこの鈴木君に暴言を吐いたという報告が上がっていますよ」
平田は慌てて否定した。「とんでもない! 滅相もございません! この私がそんなことをするわけがないではありませんか」
一体、どの口が言っているのだろう。俺は平田が平気で嘘をつく姿に吐き気を催した。しかし坂口さんは平田に一枚のUSBメモリを提示した。
「しかし、ここに君が暴言を吐いている音声のデータがあるんですがね」
平田はその途端、わなわなと震え始めた。どうやら昨日の騒動の最中、営業の仲間の誰かがこっそり録音してくれていたらしい。やはり持つべきものは仲間だ。俺は少しだけ報われた気持ちになった。
明らかに動揺している平田を前に、坂口さんはさらに言葉を続けた。「この件の処分については後ほど検討するとして。平田君、今日が何の日か知っていますか?」
平田は分からないらしく、うんうん唸りながら「えっと、温泉の日とかですか? それともボウリングの日ですかね?」などと見当違いな答えを返した。そんなチグハグな返答にも、坂口さんは表情一つ変えずに言った。
「今日はあのサイエンステクノロジー社との商談を予定していた日ですよ」
平田は馬鹿げた様子で首を傾げた。さすがの坂口さんも呆れ果てたらしく、大きなため息をついた。
「君が鈴木君を追い出してしまったせいで、彼が担当していたサイエンステクノロジー社との商談は破談になってしまったんですよ。君はこの責任を、一体どう取るつもりですか?」
強い口調で問いかけられた平田は、それでもまだ言った。「そんなの、別の担当者にやらせればいいだけじゃないですか? 営業にはこいつよりもっと学歴が上の人間がたくさんいるんですから」
すると、あの温厚な坂口さんがついに声を荒げた。
「何を言っているんですか!」
その声はかなりの迫力で、平田のみならず俺までもが思わずビクッとしてしまったほどだ。坂口さんは続けた。
「サイエンステクノロジー社との契約で、うちは20億円もの利益を見込んでいたんですよ。営業課長の君なら、もちろんそのことはご存知ですよね?」
「2、20億円……」
平田は目を剥いて叫んだ。その顔は顔面蒼白で、血の気が引いているのがはっきりと分かった。どうやら奴はまったくそのことを知らなかったらしい。本当に、この男は課長として全く機能していない。
坂口さんは睨みを利かせながら言った。「今後、これほどまでに高額の利益を得られる機会は、そうそうないでしょう。それを平田君が、ぶち壊してしまったのです」
平田はオロオロしながら言い訳を始めた。「で、でも俺はただ、こいつに地方の店舗への移動を命じただけであって、首にしたわけじゃ……」
坂口さんは再びUSBメモリを掲げて、その言い訳を遮った。「この音声データを聞いた限りでは、平田君に非があることは火を見るより明らかです」
平田はどうにか状況を打開しようと様々な保身の言葉を投げかけたが、そのどれも坂口さんの心に届くことはなかった。坂口さんは小さく呟いた。
「ロサンゼルス支社で問題を起こした君を改心させようと、あえて営業課の課長に就任させた。私の判断ミスでした」
そして坂口さんは立ち上がり、俺に向かって言った。
「鈴木君。この度は辛い思いをさせて本当に申し訳ない。トップに立つ者として、謝罪させてください」
なんと、頭を下げてくれたのだ。俺はすっかり恐縮してしまった。顔を上げた坂口さんは、再度平田をじっと見つめた。
「ところで、昨日の騒動の音声を聞いたところ、君はしきりに低学歴の人間を馬鹿にしているようですが」
平田はこんな状況にも関わらず、妙にハキハキと答えた。「はい。だって学歴のない人間なんて、生きてる価値がありませんから。当然のことですよ」
ここまで来ると、哀れにさえ思えてくる。その言葉を聞いた坂口さんは、穏やかに言った。
「そうですか。ところで、私自身の最終学歴が中学卒業であることは、君はご存知ですか?」
そう。坂口さんも俺と同じく、中卒からここまでのし上がってきた人なのだ。俺はその共通点に親近感を抱きながら、坂口さんを尊敬している。平田は社長の学歴を知らなかったらしく、耳障りな大声を上げた。
「坂口さんも俺と同じように感じているらしく、“そんなに大声を張り上げなくても、ちゃんと聞こえていますから”と平田に苦言を呈した。平田は落ち着きなく社長室の中を歩き回り始め、「そんなバカな、そんなことあるわけない」とブツブツ呟いている。どうやら社長の学歴を知って、精神的におかしくなってしまったらしい。人間というものは、自分が信じていたものが崩れてしまった時、案外簡単に壊れてしまうものなのだ。特に平田のように、強いこだわりというより偏見を持っている人間ならば、なおさらだ。
坂口さんが咳払いをひとつすると、平田はようやく足を止めた。坂口さんは改めて言った。
「今回のことは、こちらとしても痛み分けで見逃すわけにはいきません。平田君にはそれ相応の処分が下るでしょう。覚悟しておいてください」
平田はその言葉を聞いてしばらく黙っていたが、とうとう耐えられなくなったらしい。「うわあああ!」と叫び声を上げ、社長室の壁を拳でガンガン殴り始めた。全くとんでもない行動に出る男だ。俺は平田を止めようとしたが、坂口さんに制された。
「鈴木君が怪我をしては元も子もない。まあ、彼には好きなようにさせておきましょう」
俺はその言葉に頷いた。平田は力を込めて壁を殴り続けている。まるで知能のある生物とは思えない。そして、ついにその拳で社長室の壁に大きな穴を開けてしまった。途端、音を聞きつけた警備員たちが駆けつけてくる。暴れながら叫び続ける平田は、警備員たちに難なく制圧されてしまった。そして坂口さんの指示のもと、どこかへと連れて行かれた。
騒動が静まった後、坂口さんは俺に言った。
「ところで、鈴木君を解雇するという昨日の話は、なかったことにさせていただけませんか? 君がこの会社を本当に辞めたいのならば、もちろん止めませんが」
その申し出はとても嬉しかった。しかし俺は首を横に振った。
「ありがとうございます。しかし申し訳ありませんが、その申し出は辞退させていただきます。俺には夢があるんです。あなたのような社長になるという夢が」
坂口さんはニッコリと笑って言った。「そうですか。分かりました。今までどうもありがとう」
深く頷いてくれた。その笑顔を見て、俺はこの決断が間違っていなかったと思えた。
その後、平田には即刻解雇処分が言い渡されたらしい。再就職先を転々とすることになったが、その人を馬鹿にする態度が多くの人間の怒りを買い、採用されてもすぐに解雇されるという繰り返しだったようだ。そんな状況に嫌気が差した平田は、SNSでとても条件のいいバイトを見つけて、その仕事に就くことにした。しかしそれは特殊詐欺絡みの闇バイトに他ならなかった。それに気づけなかった平田は、とうとう警察に捕まってしまった。捕まった時も警察官の学歴を聞いては馬鹿にしていたらしい。そんな態度のせいで、かなり厳しい取り調べを受けているようだ。
一方、俺はと言えば、ついに念願の独立を果たした。これまでの経験を生かした営業代行サービスを行う会社を立ち上げたのだ。そして、もう一つ嬉しいことがあった。妻が無事に出産し、俺に娘が誕生したのだ。小さな生まれたばかりの妹を慈しむ息子の姿は、何とも微笑ましい限りだ。
俺はこれからも家族のために。そして、いつか尊敬する坂口さんに肩を並べられるように、精一杯働いていきたい。



