娘が泣きながら帰ってきたのは、取引先の祝賀会に出てから一時間後のことだった。
「ごめんなさい、お父さん」
そんな言葉とともに、ゆいの肩は震えていた。俺、上村は四十五歳。妻を病気で失ってから、一人で娘を育ててきた。この小さな工場と、たった一人の家族が、俺のすべてだ。
ゆいは高校を卒業すると、迷わずうちの工場で働きたいと言った。大学進学を勧める担任の前で、彼女はきっぱりと宣言したのだ。「お父さんの技術はすごい。一緒に工場を守りたい」と。その目は本気だった。それから三年、ゆいは真面目に働き、俺にとって掛け替えのない存在になった。
俺たちが作っているのは、産業用ロボットの関節に使う特殊なベアリングだ。技術者でもある俺は、長い年月をかけて独自のベアリングを開発し、特許も取得した。抵抗を従来品の八割も減らすこの技術は、業界で注目された。そして、大手産業用ロボットメーカーの技術部長・吉岡氏が、真っ先に契約を申し出てきたのだ。
契約には重要な条件が三つあった。五年間の独占供給、大手メーカーへの優先供給、そして俺が強く主張して入れた「供給側の判断で契約を即時解除できる条項」だ。社長の立ち会いのもと、契約は成立した。それから三年、順調に納品を続け、担当者の大竹課長とも信頼関係を築けていた。
そんなある日、メーカーから新工場完成の祝賀会に招待が届いた。だが俺は納期が迫っていて出席できない。するとゆいが言ったのだ。
「私が代わりに行きたい。大事な取引先だから、お祝いをきちんと伝えたい」
俺は成長の機会だと思い、彼女を送り出した。まさか、そんなことになるとは知らずに。
ゆいの話を聞いて、俺の血の気は引いた。会場で、見知らぬスーツの男が近づいてきて、どこから来たのかと聞かれた。ゆいが父の工場の代理だと答えると、男は「ああ、あの小さな工場か」と軽蔑の表情を浮かべたという。男は新しく就任したばかりの営業部長・角倉と名乗った。
問題は、そこからだった。
「どこの大学に行っているんだ?」
ゆいが「高卒で、父の工場で働いています」と答えた瞬間、角倉の顔つきが変わり、周りの若手社員たちも笑い始めた。そして男は、ゆいの耳元に顔を近づけて、こう囁いたという。
「悪いけど、高卒でボロ工場は無理ってことで。それに、新工場が動き出したら、うちは大手部品メーカーと組む予定だから、あんたたちの工場との取引は終わりにしたいんだよね」
突然の理不尽な言葉に混乱したゆいは、会場を逃げ出すようにして帰ってきた。話し終えると、彼女はまた泣き出した。
「お父さんの大事な取引先なのに、私が行かなければ……」
「お前は何も悪くない」
俺はゆいの頭を撫で、震える肩を抱きしめた。怒りで俺の心は凍りついていた。だが、娘の前で感情を爆発させるわけにはいかない。
「大丈夫だ。お父さんがなんとかする」
ゆいを部屋で休ませると、俺は事務所に戻り、金庫から契約書のファイルを取り出した。あの条項がある。供給側の判断で、契約を即時解除できる条項が。
壁の時計は午後八時を回っていた。俺は深呼吸を一つして、大竹課長の携帯番号を押した。
「大竹課長、上村です。今日の祝賀会で、娘が角倉営業部長からひどい侮辱を受けました」
電話口が一瞬静まり、大竹の声が驚きに震えた。
「え、どういうことですか? そんな、部長がそんなひどいことを……。取引停止の件は、会社として正式に決定したことではありません。角倉部長の独断です」
大竹の説明によると、角倉は二ヶ月前に就任したばかりの新しい営業部長で、社長の娘と結婚したばかりの“エコ採用”だという。新工場で大手部品メーカーと組む計画を勝手に進めているという噂はあったが、まさか娘に直接そんな暴言を吐くとは思わなかった、と大竹は謝罪し、会社として正式な対応を取ると約束した。
「大竹課長を信頼しています。会社の対応を待ちます」
そう言って電話を切ったが、その夜は一睡もできなかった。ゆいの泣き顔が頭から離れない。
二日後、大竹課長から電話があった。
「角倉に抗議しました。しかし本人は『冗談のつもりだった』と軽く流すだけで……。会社は『個人の発言であり、会社の方針ではない』という立場です。申し訳ありません」
大竹は誠実に動いてくれた。しかし、会社としての対応には誠意が感じられない。
翌朝、俺はメーカーの代表電話にかけ、中本社長に直接取り次いでもらった。契約以来、信頼してきた相手だ。だが、ゆいの涙より重いものはない。
「社長、特許ベアリングの五年契約は破棄します」
電話口が沈黙し、中本社長の声が上がった。
「え、どういうことですか?」
「会社の対応には誠意が感じられません。娘への侮辱を個人の発言として処理し、正式な謝罪もない。それが、あなたの会社の姿勢ですか?」
「いえ、そんなことは……これから調査を……」
口先だけだ。本気で対処する気がない。俺は静かに、しかし明確に告げた。
「私は筋を通しました。大竹課長に相談し、会社の対応を待ちました。しかし誠意ある対応は得られなかった。よって、特許ベアリングの五年契約は破棄します」
「待ってください! そのベアリングは代替が利かないんです。新工場の生産ラインが稼働できなくなります!」
それは分かっている。契約解除が彼らにとってどれほどの打撃になるか、理解した上での決断だ。
「この世で最も大切な娘を傷つけられた。契約解除するに十分な理由です。私はあなたの会社だけに供給してきた。それなのに、契約を打ち切ろうとする人間を営業部長に据えた。その判断の責任は、あなたにあります」
中本社長は言葉を失った。俺は電話を切り、すぐに契約時に世話になった弁護士に電話した。契約解除通知の作成を依頼し、その日のうちに内容証明郵便を発送した。
その夜、俺はゆいの部屋をノックした。
「今日、大手メーカーとの契約を解除する通知を送った」
「え……でも、大竹さんや吉岡さんは……」
「お前は何も心配しなくていい」
ゆいは小さく頷いたが、その表情は晴れなかった。夕食のとき、彼女の箸はほとんど進まなかった。
「私、悔しい。角倉さんに笑われて、何も言い返せなかった自分が情けない」
ゆいの拳が握りしめられる。
「でも、そのときに思えたの。お父さんの技術は本物だって。お父さんの工場は、誇りに思えるって」
俺はゆいの頭を撫でた。
「ありがとう」
ゆいは俺の肩に顔を埋め、小さく頷いた。
翌日から、俺の携帯に何度も着信が入るようになった。大竹課長、吉岡部長、そして中本社長。一日に十回を超える日もある。しかし、俺は一切出なかった。答えは変わらない。
三日後、吉岡部長から留守番電話にメッセージが入っていた。技術者として俺の価値を最初に見抜いてくれた男だ。俺はその夜、彼に電話をかけた。
「上村さん、正直に言います。我々は国内外二十社以上の部品メーカーに当たりました。しかし、あなたの特許技術を再現できる製品は一つもなかった。新工場のロボットは、設計段階からあなたのベアリングの性能を前提に組み立てられている。代替品では、精密動作が再現できません」
「吉岡部長、あなたの気持ちは分かります。でも、俺の答えは変わりません」
俺は静かに電話を切った。
数日後、業界紙に小さな記事が載った。『大手産業用ロボットメーカー、新工場の稼働延期』。特殊部品の供給が途絶えたため、新工場の稼働が当分延期されるとある。ゆいが後ろから覗き込んだ。
「お父さんの技術、やっぱり大事だったんだね」
俺は黙って頷いた。
その日の午後、俺は以前から取引を打診されていた大手自動車部品メーカーの担当部長に電話をかけた。あちらの意向は変わっていないかどうか。
「状況が変わりました。今なら契約可能です」
電話口から、明るい声が返ってくる。
「上村さん、お待ちしていました。是非お願いします。こちらこそ、御社との独占契約を前提にご相談させてください」
ゆいが事務所に入ってきて、目を輝かせた。
「お父さん、新しい取引先が決まったの?」
「ああ、大手自動車部品メーカーと契約交渉を始める」
「私も、もっと頑張る!」
その笑顔を見て、俺は確信した。この笑顔があればいい。技術と誠実さがあれば、新たな道は必ず開けると。
契約解除から一週間後、工場の前に黒塗りの高級車が止まった。降りてきたのは中本社長と、その後に続くスーツ姿の男。おそらくあいつが角倉だろう。俺は二人を事務所に通した。
中本社長は深々と頭を下げた。
「この度は、誠に申し訳ございませんでした。社を代表して謝罪申し上げます」
社長は角倉を見る。
「角倉、誠意を込めて謝罪しろ」
角倉は立ったまま、頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
だが、その目は泳いでいる。形だけの謝罪だ。そして、角倉が口を開いた。
「確かに、あの場では私の言葉が誤解されたのかもしれません。しかし、そこまでひどいことを言ったつもりは……」
その瞬間、俺の中で何かが切れる音がした。誤解だと?
俺は唸るような低い声で言った。
「娘は泣きながら帰ってきた。お前は娘に『高卒でボロ工場は無理』と言った。『うちの工場との取引は終わり』とも言った。これは、誤解する余地のない明確な侮辱だ。違うか?」
角倉は動揺し、言葉を失う。
「お前は娘の学歴を笑い、周りの若手社員も一緒に笑った。そして、娘が働いていることを侮辱した。しかも、特許契約の取引をお前の一存で終わりにすると言った。違うか?」
角倉の顔が青ざめる。
「私は、ただ新工場の方針として……」
「お前に何の権限がある?」
俺の声が事務所に響く。
「技術部長の吉岡さんは俺の技術を高く評価してくれた。営業部の大竹課長とは信頼関係を築いてきた。お前は、たった二ヶ月前に来たばかりだろ。エコ採用で営業部長になったばかりの人間が、長年の契約を勝手に終わりにできるとでも思ったのか?」
角倉は言葉に詰まる。俺は容赦なく続けた。
「お前は『大手部品メーカーと組む』と言った。その大手とやらは、俺の特許技術を再現できるのか?」
角倉は答えられない。
「つまり、お前が見下した『ボロ工場』の技術がなければ、お前の会社の新工場は動かせないんだ」
角倉は震え、後ずさって座り込んだ。
「申し訳ございませんでした……」
「土下座するなら、俺じゃなく娘のゆいに対してだ」
俺はゆいを呼んだ。ゆいが緊張した顔で事務所に入ってくる。角倉はゆいの前で土下座し、震える声で言った。
「お嬢さん……本当に申し訳ございませんでした」
ゆいは複雑な表情で角倉を見つめている。怒りと同時に、少しの哀れみも感じているように見えた。それが、ゆいの優しさだ。ゆいは小さく答えた。
「……わかりました」
そこで中本社長が口を開いた。
「昨日、緊急取締役会を開きました。角倉は営業部長を解任し、子会社への出向が決定しました。あの場で笑った若手三名も、地方拠点への異動です。二度と本社には戻しません」
そして、社長は続けた。
「上村さん、改めて契約の再開をお願いしたい。条件は全て、上村さんの希望に添います。新工場の損失は一日で数百万を超えています。このままでは今期の業績が……」
俺は腕を組んで答えた。
「答えは変わりません。あなたの会社は、私の大切な娘を傷つけた。それが今の状況を生み出したんです」
「しかし、我々は最大限の処分を……」
俺は遮った。
「社長、縁故で営業部長を置いたのは、あなたの判断です。その責任は経営者であるあなたにあるはずだ」
社長は言葉に詰まる。
「私はもう前を向いています。娘を傷つけてまで守る関係に、価値はありません。お引き取りください」
社長は何度も食い下がったが、俺の決意は揺がなかった。二人が去った後、俺はゆいの頭を撫でた。
「辛かったか?」
ゆいは首を横に振った。
「うん。お父さんが守ってくれた。それが嬉しい」
ゆいはそう言って、笑顔を見せた。それを見て、俺は心から安堵した。
それから一ヶ月後、業界紙にまた記事が載った。『大手産業用ロボットメーカー、部品調達問題で新工場の稼働を三ヶ月延期。今期業績は大幅な下方修正』。大竹からも連絡があり、角倉と若手社員たちのその後を聞いた。角倉は子会社で閑職に回され、若手社員たちも地方拠点で倉庫整理や資料コピーといった仕事に従事しているそうだ。社内での評判は地に落ち、誰も声をかけようとしないと聞いた。
一方、新たに結んだ大手自動車部品メーカーとの独占契約は順調だ。受注は以前の一・五倍になり、工場は活気に満ちている。
ある日、ゆいは目を輝かせて俺に言った。
「お父さん、私ももっと技術を学びたい。工場で働きながら、通信制の大学に行ってもいい?」
俺は笑顔で答えた。
「ああ、いいぞ。応援する」
俺はこれからもゆいと支え合い、この工場を守っていく決意を固めるのだった。



