幼稚園の帰り道、アパレル会社の社長夫人に捕まってしまった。俺はため息を噛み殺して微笑み返した。
「今日はお休みで、ちょっとラフな格好すぎましたかね」
「ラフって、もしかして着る服がないの? お子さんにはちゃんとしたものを買ってあげてるのかしら? 心配になっちゃう」
「ご心配ありがとうございます。でも幼稚園では着心地の良さが大事だと思いますので」
「素人が何言ってるのよ。私は今一番人気のデザイナーの服を着せてるの。本当に一流でね、その人を雇ってから年商80億に跳ね上がったのよ。貧乏人のあなたには想像もつかないでしょうけど」
普段から自慢話や嫌みが多い彼女だが、今日は特に拍車がかかっていた。言い返してやりたい気持ちにもなったが、ここは幼稚園だ。子どもたちの前で醜態をさらしたくない。
俺はにっこりと笑って言ってやった。
「そのデザイナー、俺だけど」
呆気に取られる彼女を残して帰宅した。だが、まさかこの後警察沙汰にまで発展しようとは、想像もしていなかった。
俺の名前は山中達也。数年前に妻と離婚した。学生時代から長年付き合った彼女と別れ、婚期を逃しかけていた頃に今の元妻と出会った。彼女があっさり妊娠したことで、そのまま結婚という形になった。互いのことを深く知る前に、結婚生活が始まってしまったのだ。
彼女とは何もかもが違っていた。普通のサラリーマン家庭に育った俺と違い、裕福な家庭で育った彼女は選ぶもの全てが高級指向だった。家事や育児に関しても、出産前から家政婦を雇うことを明言していた。
不安に思いつつも、俺は子供の誕生を心待ちにしていた。どうか無事に生まれてきてほしい。
そうして生まれたのは女の子だった。可愛い子供に対して2人とも愛情はあったものの、価値観の違いが喧嘩の種となった。娘が1歳半になった頃、妻から離婚を切り出された。
妻が家から出ていき、何も知らない娘に俺は申し訳なく思った。2人の仲が悪くなることが、この子の人生を左右してしまう。反省した俺は、娘のために話し合おうと、娘を連れて彼女の実家を訪ねた。しかし、あろうことか向こうの両親から信じられない言葉を聞いたのだ。
「今後のこともあるし、その子は君が引き取ってくれないか?」
「まだこんなに小さいんです。母親が一緒にいてあげるべきです。俺も今までの態度を改めます。なので、娘のためにも帰ってきて欲しいんです」
俺は腕の中ですやすや眠る娘の温もりを感じ、泣き出しそうになりながらなんとか涙をこらえて頼んだ。しかし、彼女の両親は冷静に言った。
「お互い育った環境の違いは大きいと思うの。だから、釣り合わない相手だったのよ。娘がもし将来再婚することになったら、子供連れっていうのは妨げになるでしょう。責任を取って引き取ってくださいな」
俺は言葉を失った。彼らはこの子のことを自分たちの孫だと思っていないのだろうか。
母親である彼女は両親の後ろからこちらを見ていたが、その表情は悲しいのか、困っているのか、よくわからないものだった。
最後だと思って、俺は彼女に向かって言った。
「君はそれでいいのか? 自分の娘だろう」
彼女は両親の後ろで、頷いてみせた。俺には、目の前の人たちへの絶望感と、娘は俺が守らなければという使命感が湧いてきた。
「わかりました。俺が引き取ります」
そうして娘を引き取り、シングルファザーとなった。それからは、娘を育てることが俺の人生の中心となった。もちろん俺の両親にも協力してもらい、仕事をしながらも娘に寂しい思いをさせないようにと大切に育ててきた。
時間が経つのは早いもので、娘も今年の春から幼稚園に通い始めた。毎日の送り迎えはできるだけ俺がしてあげたいと思っていたため、自然とママたちの話の輪に入る機会が増えた。世の中にはこういうコミュニティがあるんだなと関心していた。
そんなある時、幼稚園へ娘を送った後、数人のママたちが集まってこれから親睦会をしようという流れになった。俺は複数のママたちの中にパパが1人という状況を想像しただけでぞっとしたが、その日は時間があったため、娘のためにも参加することにした。
そこでは北園さんという同じクラスのママを中心に、色々な話が飛び交っていた。主にご主人の不満や先生への不満などの話題が多かった。なんとなく相槌を打ってやり過ごしていると、北園さんが話しかけてきた。
「あら、山中さんはシングルでしたよね。男の人だし大変なんじゃない?」
初めての会話にも関わらず突っ込んだ内容だったので少し嫌な気もしたが、調子を合わせて頷いた。
「うちの主人なんか仕事一筋で、子育てなんて全く関心がないの。まあ大手のアパレル会社の社長という立場だから仕方ないのよね」
「社長さんなんですね。それはお忙しいでしょう」
俺は適当に受け流したが、その後北園さんの自慢話に散々付き合わされ、その日はお開きとなった。疲れつつも終わったことに少しほっとしながら帰ろうとすると、北園さんが帰ったのを見計らったかのように、他のママたちが寄ってきた。
「山中さん、大変だったわね。あの人、いつもあんなのよ」
「そうそう。旦那の自慢話聞かせるくせに、人の話には興味ないみたい」
どうやら北園さんは、周囲のママたちからはあまりよく思われていないらしい。有名企業の社長夫人ということで、よくも悪くも一目置かれているのだろう。
ある日、いつものように娘をお迎えに行くと、娘が1人でぽつんと遊んでいるのを見かけた。少し元気がないように見えて、俺は心配になり娘へ声をかけた。
「何か元気ないみたいだけど、どこか痛い?」
「うん。あのね、幼稚園で意地悪する子がいるの」
話を聞くと、ある女の子が娘のことを仲間外れにしようと言い出したというのだった。周囲の子はその通りにし、仲の良かった子たちも遊んでくれなくなったという。
俺は幼稚園の幼い子たちがそんなことをするのかと驚く反面、大人が冷静に対処しなければと気持ちを落ち着けた。
「その子のお名前、分かるかな?」
娘の言った名前を聞いて、はっとした。娘は確かに北園と言ったのだ。
俺はすぐに担任の先生に連絡を取り、北園という同じクラスの女の子から娘が仲間外れにされているという内容を伝えた。先生は驚いた様子もなく俺の話を聞いている。その様子に少し違和感を感じた。
「先生、もしかしてこういうことは初めてじゃないんじゃないですか? 以前にも同じようなことが?」
「ええ、実は……その子が定期的にターゲットを決めて、1人を仲間外れにしているようなんです。中には店員やる子もいて、幼稚園でも問題になっていまして」
今回は幼稚園側で親御さんに話をしてくださるということで、俺は納得した。
数日後、仕事中に幼稚園から連絡が入った。俺は娘が熱を出したのではないかと慌てて電話に出ると、例の北園さんの件だった。
「お忙しいところ申し訳ありません。幼稚園側から北園さんへ今回の件について話をしたところ、今日時間があれば当事者同士で話したいとおっしゃっていまして」
「話し合いたいというのは、謝罪するという話ですか?」
「いえ、それがですね……」
先生はとても言いにくそうに続けた。北園さんのママが注意されたことで逆上して、事実無根だ、うちの子がやった証拠があるのかと怒っているとのことだった。先生に言いつけた親と話させろと、随分と息巻いているらしい。
「あ、今は仕事で出張に出ています。23日はお迎えも両親にお願いしているので」
「それは困りましたね。わかりました。お時間を取らせてしまい申し訳ありません。山中さんのご事情もお伝えした上で、担任からも北園さんへ行ってもらうようにします」
先生は納得してくださったが、俺は後ろ髪を引かれる思いで仕事をこなした。
大きな問題になるのではないかと心配していたが、先生たちがうまくいってくださったおかげか、それ以降娘に対する嫌がらせは起こっていないようだった。俺も娘もまた安心して幼稚園へ通うようになった。
しかし、偶然北園さんに出くわした時は、とても気まずかった。
「おはようございます」
たった1回の問題で角が立つのが嫌だと思ったので、できるだけ親しみを込めて挨拶したが、それはスルーされてしまった。それだけではなく、すれ違い様に「片親のくせに偉そうに」とささやかれたのだ。そういった態度は、彼女に出食わすたびに繰り返された。
俺は彼女と同じように振る舞うことはせず、ただ平和に娘が楽しく幼稚園生活を送ってくれることだけを願っていた。しかし、相手にしていないのにも関わらず、しばらくそれが止むことはなかった。俺もだんだんと、悪意をぶつけられることに嫌気がさしていった。
その日、俺は幼稚園の送り迎え以外に外出する用事がなかったということもあり、いつもよりラフな格好で娘を幼稚園へ送った。帰り道、北園さんが数名のママたちと輪を作って話し込んでいるのに気づき、俺はできるだけ気づかれないように通りすぎようとした。しかし、そういう時に限って気づかれてしまう。俺は何を言われるのだろうと思わず身構えていると、北園さんは珍しく柔らかく俺に話しかけてきた。
「あら、誰かと思えば山中さん。今日はいつもと雰囲気が違いますね」
柔らかだと思ったのは勘違いで、単純にニヤニヤとこちらをバカにしているような態度だった。俺は愛想笑いをしてその場を切り抜けようとしたが、そうもいかず、北園さんは心行くまで言葉を続ける。
「ちょっとは気を使ったらどうですか? 皆さんきちんとした格好で来てるでしょう?」
周囲のママたちは同意するでもなく、苦笑いを浮かべていた。
「今日はお休みで、ちょっとラフな格好すぎましたかね」
「へえ。ラフってもしかして着る服ないの? かわいそうね。お子さんにはきちんとしたものを買ってあげてるのかしら? 心配になっちゃう」
俺が言い返さないのをいいことに、北園さんはますますヒートアップしてくる。
「私は子供には今最も人気のあるデザイナーの服を着せているのよ。女の子なんだし、もう少し考えてあげたらどう? 今のうちからセンスのあるものを身につける方がいいに決まっているもの」
周りのママたちが1人、2人といなくなる間に、俺は北園さんの自慢話や嫌みを聞く役をすっかり引き受けてしまったようだった。
「それは素晴らしい考えですね。でも幼稚園では着心地の良さも大切だと思いますよ」
「素人が何言ってるのよ。その人気デザイナーはね、本当に一流なの。ここだけの話、その人を雇ってから年商80億に跳ね上がったの。それくらいすごいってことよ。あなたには想像もつかないでしょうけど」
「そうでしたか」
できるだけ相手の挑発に乗らないように感情を殺した。心の中ではチクチクと彼女の嫌みを感じ、非常に不愉快なのはこの上なかったが、ここでまた争い事を起こすのは娘にも悪いような気がして我慢したのだった。
周囲にすっかり人もいなくなり、俺はそろそろ潮時だと思った。
「では、これで失礼します」
まだ話したそうな表情の北園さんを置いて、その場を立ち去った。
それから数日後、俺は北園の社長と商談の席についていた。北園の社長というのは、あの北園さんのご主人である。幼稚園で俺のデザインした服を着ている園児には気がついていた。北園さんの娘さんもその1人である。
何を隠そう、彼女が言っていた今人気のデザイナーとは、俺のことだったのだ。俺のおかげで年商80億にも跳ね上がったという話には驚いたが、俺を目の前にして彼女があらゆる会社自慢、デザイナー自慢をしているという滑稽な状況に、正直俺は面食らっていた。
今日は昨年から契約関係にあるこの会社と、事業拡大を視野に入れた新たな契約を結ぶ予定だった。しかし、俺は社長に切り出した。
「北園の社長、契約の件ですが、今回はお断りしようと思ってきました」
「え、ちょ、ちょっとそれは困ります。今までお互いにうまくやってきたじゃないですか。どうして急に?」
戸惑いを隠しきれない社長に、俺は言いにくいことではあったが、思い切って話すことにした。
「個人的なことで申し訳ないのですが、うちの娘と社長のお子さんは同じ幼稚園の同じクラスなんです。そこで少し問題がありまして」
俺は、娘の仲間外れから始まった数々の嫌がらせや嫌みのせいで、社長にまで不審感を抱くようになってしまったことを打ち明けた。
「クリエイティブな仕事なので、大きな仕事を一緒にやっていく相手とは信頼関係が大切だと思っているんです。こんな気持ちではいいものが生まれるとは思えません。お互いのためにも、再契約は見送りましょう」
俺の思い詰めた表情を見て、これは大変なことが起きていると悟った様子の社長は、必死で食い下がった。
「私からも謝罪いたします。もちろん妻も連れてきて謝罪させます。本当に申し訳ない。どうか契約の件、考え直してもらえないでしょうか?」
社長の必死の姿に、俺はこれ以上強く言うことができず、「少し考えさせてください」とだけ伝え、その日は契約を結ばずに帰ることにした。
それからしばらくの間、北園の社長からも夫人の北園さんからも何の音沙汰もなく、契約も保留のまま宙ぶらりんの状況が続いた。
ことが動いたのは、1ヶ月ほどが経った時だ。幼稚園から、突如として北園さん親子が姿を消した。周囲のママたちから聞いたところによると、ご主人と離婚し、引っ越してしまったらしい。約束の謝罪もなく、契約も結局結ばず仕舞いだったなと思っていると、北園の社長から連絡が入った。
待ち合わせの時間に訪れたのは、北園の社長1人だった。
「その怪我、どうされたんですか?」
社長は目の周りに青あざを作っていて、俺は驚いて尋ねた。
「謝罪するように妻を説得しようとしたんですが、逆上されましてね」
社長の話によると、彼女は元々カッとなりやすい性格で、言い争いになると決まって手当たり次第その辺のものを投げつけてくるのが当たり前だったらしい。今回は俺も引くことができないと思い、何度も説得を試みたが、その言い争いの最中に運悪く硬いものが目に当たってしまい、出血に驚いた秘書が通報してしまい、警察沙汰になってしまったという。
「そんなことがあったんですか? なんだか申し訳ないです。俺のせいで」
「いえ、あなたは何も悪くありません。妻の悪いところを認めない人間性には、私もほとほと呆れてしまいました。それで離婚を決めて、今は子供の親権について争っているところです」
警察沙汰になったのは今回が初めてではなかったらしく、離婚は全面的に妻に原因があると認められたようで、離婚に関しては慰謝料も一切なしで家を追い出したという。それを聞いて、俺は溜飲が下がる思いがした。
「大変でしたね。私だけの謝罪になってしまうが、本当に申し訳ないことをしました。どうか許していただきたい。もう一度契約を結んでいただけないでしょうか?」
社長は深々と頭を下げた。それを見た俺は、社長の誠意を感じ、もう一度契約を結ぶ決意をした。
そしてそれから数ヶ月後、社長から報告を受けた。
「私も正式にシングルファザーになったよ」
「親権、取り戻せたんですね」
北園の元夫人の金銭感覚が、親権を取り戻す大きな要因になったらしい。家を出た後、北園の元夫人は生計を立てるためにパートの仕事を始めたそうなのだが、これまでのセレブ生活が身についていたせいで金銭感覚が麻痺していた。稼ぎが少なくなったにも関わらず、これまでの習慣を変えられなかったのである。そして社長が子供のために渡していた養育費も自分のために使い込んでいて、裁判ではそのことが問題とされ、親権は社長が持つことになったという。
「じゃあ、今彼女はどうしてるんですか?」
「実家に戻ってると思います。あの両親は厳しい方たちだったから、きっと実家では肩身が狭いだろうね。ま、でももう私には関係のないことだ。達也君、先輩としてアドバイス頼むよ」
「俺が先輩? わかりました。お互いに頑張りましょう」
それから俺と社長はタッグを組み、様々なアイデアとチャンスに恵まれ、仕事は大成功を収めた。それとは別に、子育てに不慣れな父親同士ということもあり、社長とは仕事だけでなく子育ての悩みなど色々な話ができる仲になった。これからもお互いを励まし合いながら、仕事のパートナーとしても、2人で力を合わせて頑張っていこうと思っている。



