「どうなっても知りませんよ」——そう言い残して、私はその会社を出た。長年勤めた職場で、営業成績トップとして働き、26歳で係長への昇格も決まっていた。なのに、お盆休みから戻ったら、職場中に「私が退職する」という噂が広がっていた。全く身に覚えがない。そして、すべてを仕組んだのが唯一私を嫌う課長だと確信した時、心の何かが冷え切っていくのを感じた。半月後、元の事業部長から呼び出された私は、ある重大な…

「どうなっても知りませんよ」——そう言い残して、私はその会社を出た。長年勤めた職場で、営業成績トップとして働き、26歳で係長への昇格も決まっていた。なのに、お盆休みから戻ったら、職場中に「私が退職する」という噂が広がっていた。全く身に覚えがない。そして、すべてを仕組んだのが唯一私を嫌う課長だと確信した時、心の何かが冷え切っていくのを感じた。半月後、元の事業部長から呼び出された私は、ある重大な...

出勤した瞬間、職場の空気がおかしかった。

「おはようございます」

そう挨拶した途端、何人かの同僚がこちらをチラチラ見て、何やらひそひそ話し始めた。何が起きているのか分からないまま戸惑っていると、普段仲の良い同僚の間宮が近づいてきて、驚いた顔で言った。

「藤田、お前、辞めたんじゃなかったのか?」

「え?どういうことだよ、間宮」

思わず声が大きくなる。

「お前、退職届を出したんだって聞いたぞ。お盆に入る少し前に」

全く心当たりがない。退職届を出した覚えもないし、そもそも辞める気なんて一切ない。何かの手違いか、それとも誰かが勝手に俺の名前で退職届を出したのか。もしそうだとしたら、そんなことをする人物は一人しか思い当たらない。

俺はゆっくりと部屋の奥を見た。すると、ペットボトルのお茶を飲みながらこちらを見てニヤニヤしている課長の中山公平さんと目が合った。中山さんはこちらに片手を上げると、ゆっくりと立ち上がって近づいてきた。

「ああ、藤田君。話は聞いているよ。やめるんだってな」

わざとらしく両手を広げてそう言う。何が何だか分からず、俺は口を開こうとしたが、中山さんは俺の言葉を待たずに続けた。

「いやあ、残念だよ。君は優秀だからな。だが、君みたいな優秀な人材は確かにうちには合わないかもしれないな。お疲れ様。次の職場で頑張ってくれ」

そう言って、俺の肩をポンポンと叩いた。表面上は部下を惜しむ上司のように見えるが、その態度も、俺に話す隙を与えずに話を終えようとしているところも、何もかもがわざとらしい。俺は確信した。退職届を勝手に出したのは、この男だ。

今までは自分にだけ迷惑がかかるなら我慢できた。しかし、まさか俺の名前を勝手に使って退職届を出すなんて、そこまでやるとは思わなかった。もうこれは許せる範囲を超えている。

中山さんは相変わらず気持ち悪い笑顔で俺を見ている。周りの同僚たちは状況が飲み込めず、俺と中山さんを交互に見ている。

俺は少し間を置いて、静かに口を開いた。

「どうなっても知りませんよ」

そう言って、俺は振り返らずに会社を出た。背後で同僚たちが騒ついている声が聞こえたが、もうどうでもよかった。

それから半月ほどが過ぎたある日、携帯電話が鳴った。表示された名前は菊池京介さん。前の会社の事業部長だった人だ。もう退職した俺に、わざわざ電話をかけてくるなんて何があったんだろう。

「もしもし、藤田君か?」

電話に出るや否や、焦ったような声が聞こえてきた。

「はい、そうですけど。何かあったんですか?」

「それはこっちのセリフだ。出張から帰ってきたら、君が退職したと聞いて驚いたぞ」

菊池さんは俺の営業成績を高く評価してくれていた人物だ。だからこそ、俺が突然辞めた理由が分からずに困惑しているのだろう。

「今更言っても仕方ないかもしれないが、どうしても君の力が必要なんだ。一度会社に来てくれないか。ちゃんと話をしたい」

その声には、どこか切実なものが感じられた。正直、もう半月も経った今から会社に戻っても意味がないような気もした。しかし、こんな風に頼まれてしまうと簡単に断ることもできない。何より、俺の係長への昇格を約束してくれたのは、他ならぬ菊池さんなのだ。確かに、昇格が決まっていたのに突然退職してしまったのは、不自然に見えるだろう。

「分かりました。今からでも大丈夫ですか?」

俺がそう答えると、菊池さんはほっとしたように息をついて、来る時間を伝えてきた。俺が了承すると、「すまないな。また後でな」と言って電話は切れた。

言われた時間に会社に到着し、案内された会議室へ向かう。半月ぶりの職場は、わずかに懐かしさを感じる。退職したという事実が、その感覚を大きくしているのかもしれない。

会議室の扉をノックし、返事を聞いてから入室する。中には菊池さんが一人だけいた。

「話しづらいだろうと思ったんだが、まずかったか」

「いえ、お気遣いいただきありがとうございます」

着席を促され、菊池さんの正面に座る。まるで面接のような状況だ。以前、査定面談でこの部屋に来たことを思い出す。

「会議室は失敗だったかな。これじゃあ面談みたいだ」

菊池さんが冗談めかして言う。気を使ってくれているのだろう。俺も「そうですね」と笑いながら答えると、菊池さんは表情を真面目なものに変えた。

「それで本題だが、担当直入に聞くぞ。どうして辞めたんだ?」

俺は少し悩んで、事前に用意していた嘘の理由を答えた。「スキルアップのためです」と。本当のことを話して変な噂が立つのが嫌だったのだ。中山さんに対して思うところがないわけではないが、不必要にこの話を大きくしたくないと思っていた。

しかし、菊池さんは俺の嘘の理由を聞いても一切納得しなかった。腕を組んだまま険しい顔をしていた菊池さんは、ため息をついてから身を乗り出した。

「藤田君の様子を見ていれば、今の話が嘘だとすぐに分かる。どうか本当のことを話してくれないか」

まっすぐ俺の目を見てそう言う。そこにこちらを疑うような雰囲気は感じられなかった。俺は一度俯いて悩んだが、再び菊池さんの目を見て、ついに決心した。

「実は……勝手に退職届を出されたんです」

菊池さんは何も言わず、黙って続きを促している。

「お盆休みに有給を合わせていたんですが、その間に出されていて。休暇が明けた時には、もう職場中に広まっていました」

菊池さんは再び腕を組み、険しい表情になった。

「それが本当なら大問題だ。誰がやったか、心当たりはあるのか?」

俺は、以前の上司である中山課長のことを話した。明確な証拠があるわけではないが、あの日の態度は間違いなく犯人のそれだった。加えて、それ以前から俺に対する嫌がらせが多かったこと。特に最近は取引先を巻き込むほどエスカレートしていたことも話した。

俺の話を聞き終えた菊池さんは、「そうか」とだけ言って、しばらく悲しそうに俯いていた。課長という役職にある人間がそんなことをしでかしたことがショックなのだろう。あるいは、以前からあった嫌がらせに気づけなかった自分を責めているのかもしれない。

しばらく沈黙が続いた後、菊池さんはゆっくりと立ち上がり、携帯電話を取り出した。

「中山君を呼び出す。いいかい?」

俺が頷くのを見ると、菊池さんはすぐに電話をかけた。

「中山君か。すぐに会議室まで来てくれ」

短くそれだけ告げて電話を切る。その声には、一切の反論を許さないような圧力が感じられた。

ほどなくして、会議室の扉がノックされ、中山さんが入ってきた。俺の姿を見て明らかに驚いていたが、菊池さんに座るよう促されると、俺の隣の椅子に静かに座った。

「藤田君の名前で勝手に退職届を出したのは君か?」

菊池さんの言葉に、中山さんは一瞬で顔色を変えた。

「そ、それは……彼がそう言っていたんですか?」

中山さんは俺の顔を見て言う。すると菊池さんが「そうだが」と答えるや否や、中山さんは食い気味に話し始めた。

「嘘です!彼が私を落とし入れようとしているんでしょう?大体、退職届を勝手に出されるような非常識なことをする奴が、この会社にいるわけがない。彼が自分の意思で提出したんです」

もっともらしいことを言っているが、その明らかに焦った様子から、丸分かりだった。当然、菊池さんも中山さんの話を信じるはずがない。

「言い訳をするな」

菊池さんの低い声が会議室に響く。中山さんは青ざめた顔で、冷や汗をかき始めた。

「君が勝手に退職届を出したんだな」

問い詰める菊池さんの迫力に、中山さんはわずかに震えながら頷いた。

「は、はい。大変申し訳ございませんでした」

頭を下げようとする中山さんを、菊池さんが手で制す。

「私ではなく、藤田君に謝罪するんだ」

中山さんは何の抵抗も見せず、言われた通りに俺に向かって頭を下げた。

「大変申し訳ございませんでした」

その姿は、かつて上司として俺の上に立っていた男とは思えないほど小さく見えた。俺が無言で頷くと、菊池さんは中山さんを下がらせた。

「私からも謝罪する。そんなことになっていたとは、全く気づかなかった。本当に申し訳ない」

菊池さんも頭を下げ、続けてこう言った。

「勝手なことを言うようだが、どうか戻ってきてもらえないか。もちろん中山君には相応の処分を下す。君の昇格も、変わらず約束する」

この提案は確かに魅力的だった。しかし、俺にはもう戻ることのできない事情があった。

「そう言ってもらえるのはありがたいんですが、すでに転職していまして。もう戻れないんです。すみません」

俺の答えに、菊池さんは「何?本当か」と驚いていた。

実は、俺は以前からライバルの通信会社からスカウトされていた。わざわざ今の職場を辞めて移る理由もなかったのでずっと断っていたのだが、今回の件で、その会社に転職することを決めた。退職した日の翌日に相談すると、先方は快く受け入れてくれた。もうすでに勤務も始めており、今日ここに来られたのは、偶然外回りの途中だったからだ。

「お世話になりましたし、評価してくれていたことも感謝しています。ですが、さすがにこの状況では、もう戻れません。すみません」

そう事情を話し、改めて自分の意思を伝えた。菊池さんは残念そうな顔をしていたが、少ししてから「そうか」とだけ呟いた。

「今日は時間を取らせてしまってすまなかったな。何か相談事があれば、いつでも連絡してくれ」

俺は「ありがとうございます」と言って、菊池さんと握手をした。そして席を立ち、会議室を出る際、後ろで中山さんが菊池さんに叱責される声が聞こえた。中山さんは、下を向いて固まっていた。

新しい会社は、名前の通り以前の会社と似たような事業内容だったため、俺はすぐに結果を出すことができた。営業成績はあっという間にトップだ。前の会社で係長への昇格が決まっていたこともあり、入社早々、係長として勤務することになった。最初は不安もあったが、これまでの経験を活かして働くうちに、すぐに慣れることができた。

社員たちから反感を買うのではないかと心配していたが、それも間違いだった。どうやら俺は入社前からちょっとした有名人になっていたらしく、スカウトも社員からの要望で行われていたらしい。そのため、俺がいきなり係長として就任しても、誰も文句を言うことはなかった。

以前の中山さんのような、理不尽な嫌がらせをする上司もいない。俺はのびのびと働くことができていた。

そして、転職からわずか三か月という、異例のスピードで課長の地位に着くことになった。前の会社での経験から、課長という役職には思うところがある。俺はその経験を無駄にしないように、成果を上げている部下にはちゃんと褒めるようにした。自分よりも優れた点がある部下には、自ら進んでそのノウハウを聞いたりもした。誠実に、素直に、改めて意識して働くことで、少しでもいい上司になるべく努力している。

その考えは間違っていなかったようで、部下たちの成績はぐんぐん伸びていった。そんな部下たちに負けないよう、俺自身も努力を続ける。そうやって、俺は充実した日々を過ごしていた。

たまに、菊池さんから連絡が来ることがある。基本的には俺のことを気遣ってくれているのだが、最初の頃は「やっぱり戻ってきて欲しい」という話が多かった。ただ、俺の意思が固いことを察したのか、最近は近況報告のような連絡が多くなっている。

その近況報告によると、中山さんは自主退職したらしい。処分としては、平社員からやり直しということだったらしいが、周囲の目が痛かったようだ。俺を勝手に辞めさせたという話は、処分と同時にすぐに社内に広まっていたらしく、働きづらくなってしまったのだろう。現在は転職活動をしているそうだが、成績はあまり芳しくないらしい。

それでも、真面目にやり直そうとしているのは好ましいことだ。俺は中山さんの姿を思い出しながら、改めて部下への思いやりを忘れないようにしようと心に決めた。

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