夜中、トイレに起きたら、玄関に赤い傘が立っていた。昨日の夜は、あんなところに何もなかったのに。近づくと、傘の柄に白い髪が結ばれていて、そこには黒い文字で私の名前が書かれていた。「みさ」。母が血の気の引いた顔で叫んだ。「絶対にその名前を口にしちゃだめ!」その夜、私の名前を呼ぶ声がした。「みさ、開けて」。それは母の声だった。でも、母は今、隣の部屋にいる。ドアの向こうの声は、続けた。「どうして開け…

夜中、トイレに起きたら、玄関に赤い傘が立っていた。昨日の夜は、あんなところに何もなかったのに。近づくと、傘の柄に白い髪が結ばれていて、そこには黒い文字で私の名前が書かれていた。「みさ」。母が血の気の引いた顔で叫んだ。「絶対にその名前を口にしちゃだめ!」その夜、私の名前を呼ぶ声がした。「みさ、開けて」。それは母の声だった。でも、母は今、隣の部屋にいる。ドアの向こうの声は、続けた。「どうして開け...

あの声を初めて聞いたのは、結婚してすぐの春の夜だった。寝室の外、廊下から女の声がした。「みな子」と。私は返事をしなかった。眠る前、義母の富子にこう言われていたからだ。「夜中に誰かがあなたの名前を呼んでも、絶対に返事をしてはいけないよ」

あの時は、古い家にありがちな言い伝えだと思った。まさか、あんなことになるなんて考えもしなかった。なぜなら、あの夜私の名前を呼んだ女は、ずっと前に死んでいたからだ。そして本当に恐ろしいのは、その女が私の名前だけではなく、この家の人間しか知るはずのないことまで知っていたことだった。

夫の直樹と結婚したのは一年前の春。直樹の実家は山に囲まれた小さな町にあり、駅から車で三十分ほど離れた場所に立っていた。築年数の古い木造住宅だったが、庭には大きな柿の木があり、裏には使われなくなった井戸まで残っていた。初めて家を訪れた時、私は古いけれど静かでいい家だと思った。ただひとつだけ気になることがあった。家の中には家族の写真がたくさん飾られているのに、なぜか一人の女性だけ、顔の部分が切り取られていたのだ。

「そうめん?」と尋ねると、直樹は一瞬だけ黙った。「昔の親戚だよ」
「どうして顔が切られてるの?」
「古い写真だから傷んだんじゃない?」

その時はそれ以上気にしなかった。しかし結婚してしばらく経ったある夜、義母の富子から突然こう言われたのだ。「みな子さん、ここで暮らすなら一つだけ覚えておいて」
「何ですか?」
「夜中に自分の名前を呼ばれても返事をしないこと」

私は思わず笑ってしまったが、富子は笑わなかった。「冗談じゃないよ」その声があまりにも真剣だったので、私は黙った。「誰が呼ぶんですか?」富子はしばらく黙った後、低い声で言った。「知らない女の声が聞こえても、絶対に返事をしてはいけない」

その時の私は、昔の家にありがちな迷信だと思っていた。だからその夜も普段通りに眠った。直樹は仕事で帰りが遅く、私は先に寝室へ入っていた。時計を見ると午前零時一分。部屋の明かりを消して布団に入った直後だった。「みな子」

私は目を開けた。声は廊下から聞こえていた。小さな声だったけれど、聞き間違えるはずがない。私の名前だった。「みな子」もう一度。今度は少し近い。私は布団の中で息を殺した。義母の言葉が頭の中に浮かぶ。返事をしてはいけない。振り向いてもいけない。

廊下の床板がゆっくりと鳴った。ミシミシ。そして足音が寝室の前で止まった。障子の向こうには人の影が立っていた。細い女性の影だった。長い髪のようなものが肩から垂れ下がっている。私は声を出すことができなかった。するとその影がゆっくりとこちらへ顔を近づけたように見えた。「みな子」私は唇を噛み、必死に返事をこらえた。すると女はしばらく黙った後、私の名前ではない言葉を口にした。「まだ覚えているの?」

その瞬間、私は背筋が凍った。私はこの女を知らない。会ったこともない。それなのに、なぜ私にそんなことを聞くのか。女はもう一度、低い声で尋ねた。「あの夜のこと、まだ覚えているの?」そして最後に、障子の向こうからコンコンと二回、指で叩く音がした。「お母さんに聞いてみて」その直後、影は消えた。

翌朝、私は富子に昨夜のことを話した。富子は私の顔を見るなり、全てを理解したように手を止めた。「聞こえたのね」
「お母さん、あの女の人は誰なんですか?」富子は答えなかった。ただ仏壇の方を見つめたまま、しばらく黙っていた。「みな子さん、今夜は一人にならないで」
「どういう意味ですか?」富子は小さな声で言った。「それから、絶対にあの写真を見つけないこと」写真のことは、それ以上話したくないというように口を閉じた。

その日の夕方、直樹が帰宅した。私は昨夜のことを話そうとした。しかし直樹の口から出た言葉を聞いて、何も言えなくなった。「母さんから聞いた。昨日、女の声を聞いたんだって」私は直樹を見つめた。「どうして知ってるの?」直樹は答えなかった。しばらくして仏壇の方を見ながら、震える声で言った。「みな子、明日二人でこの家を出よう」

その時、私はまだ知らなかった。直樹が私に何も言わずこの家を出ようとした本当の理由を。そしてその夜、私は仏壇の奥で一枚の古い写真を見つけてしまった。写真に映っていたのは若い女だった。その写真の裏にはこう書かれていた。「ゆみ子 昭和五十八年死亡」。

翌朝、私は昨夜の出来事を誰にも話せなかった。夢だったと思いたかった。あの女の声も、廊下の足音も、全部ただの見間違いだと自分に言い聞かせた。ところが朝になって、玄関を開けた瞬間、私は息を止めた。誰も触れていないはずの玄関先に、古びた赤い傘が一本置かれていた。しかもその傘からは、ポタポタと水が落ち続けていた。雨は降っていない。

私は傘に近づかなかった。ただ遠くから見つめていると、傘の柄に白い髪が結びつけられていることに気づいた。恐る恐る近づいて髪を確認すると、そこには黒い筆で一文字だけ書かれていた。「みさ」私の名前だった。

その瞬間、背後から母の声がした。「みさ、その髪、見たの?」振り返ると、母の顔から血の気が引いていた。
「うん。これ、何なの?」母は答えなかった。代わりに傘を見た瞬間、震える手で私の腕を掴んだ。「絶対にその名前を口にしちゃだめ」
「え?」
「今すぐ家に入って。傘にも触らないで」

私は母に引っ張られるように家の中へ入った。玄関の戸を閉める直前、もう一度だけ外を見た。赤い傘の下に誰かが立っていた。白い顔、長い黒髪。そしてこちらを見ながら、ゆっくり笑っていた。私は反射的に戸を閉めた。「お母さん、今、外に誰か…」
「言わないで」母が突然叫んだ。その声は、私が今まで聞いたことのないほど怯えていた。そして母は震える声でこう言った。「この家ではね、昔から夜中に自分の名前を呼ばれても、絶対に返事をしてはいけないの」

私は何も言えなかった。その夜、午前零時を過ぎた頃、家の中が突然静まり返った。時計の針が進む音だけが、闇夜に大きく聞こえていた。そして――廊下の奥から、私の名前を呼ぶ声がした。私は息を止めた。母が言っていた。絶対に返事をしてはいけない。だから私は黙っていた。

すると今度は声が少し近づいた。「みさ」そして三度目。耳元で女が囁いた。「見つけた」

その瞬間、私の部屋のドアノブがゆっくり回り始めた。カチャカチャと金属が擦れる音が、静まり返った部屋の中に響く。鍵はかかっている。それなのに、誰かが外から確かめるように何度もノブを回している。私は昨夜、玄関の前に置かれていた赤い傘を思い出していた。そしてあの女が最後に囁いた言葉。「見つけた」。一体何を見つけたというのだろう。私なのか?それとも、この家の中に隠されている何かなのか。

やがてドアノブの動きが止まった。静寂が戻ったと思った、その瞬間だった。「みさ、開けて」私は思わず立ち上がりそうになった。しかしすぐに違和感に気づいた。母は今、私の部屋の前にいるはずがない。数分前、母は自分の部屋に戻っていた。そして何よりもおかしかったのは、声があまりにも低かったこと。まるで母の声を真似している、別の誰かがドアの向こうから話しているようだった。「みさ、お母さんよ。開けて」

私は返事をしなかった。するとドアの向こうから、小さな笑い声が聞こえた。「どうして開けないの?」背中に冷たい汗が流れた。その声は、もう母のものではなかった。昨夜、玄関で見た女の声と同じだった。私は布団を頭まで被り、耳を塞いだ。それでも声は聞こえてくる。「みさ」「みさ」名前を呼ばれる度、ドアが少しずつ軋んだ。

やがて、ドアの下の隙間から何かが見えた。最初は黒い影だと思った。だがそれはゆっくりとこちらへ伸びてきた。濡れた長い髪だった。床を這うようにして、ドアの隙間から何本もの黒髪が入り込んでくる。私は声を出しそうになった。その瞬間、部屋の窓が突然ドンと大きな音を立てた。私は驚いて窓を見る。カーテンが、風もないのに大きく揺れている。そしてその向こうに、人影が立っていた。二階なのに、誰かが窓の外に立っている。

私は震えながらカーテンに手を伸ばした。ほんの少しだけ開けると、そこには白い女の顔があった。女は窓ガラスに顔を押し付け、こちらを見ていた。そしてゆっくり口を開いた。「やっと会えたね」

その瞬間、部屋のドアが激しく叩かれた。「みさ、開けちゃだめ」今度こそ、本物の母の声だった。私は慌ててドアへ寄った。「お母さん、そこから離れて」母は廊下から叫んでいた。しかしその声には恐怖が混じっていた。私はドアを開けようとしたが、母はそれを止めた。「聞いてみさ。今から何が聞こえても、絶対にドアを開けないで」
「でも、お母さんは外にいるんでしょう?」
「いる。でも、あれもいる」

私は言葉を失った。母はしばらく黙っていた。そして震える声で続けた。「この家にはね、昔から名前を呼ぶ女がいるの」
「どういうこと?」
「その女に名前を知られた人間は、少しずつ家族の記憶から消されていく」私は意味が分からなかった。しかし母はさらに恐ろしいことを口にした。「そして最後には、その人自身が自分の名前を忘れるの」

その瞬間、窓の外から女の声が聞こえた。「お母さん」母が突然黙った。そして母は震えながら呟いた。「どうして…あの子が私のことを『お母さん』って呼べるの?」私はその言葉を聞いて初めて気づいた。あの女は私の名前だけを知っていたのではない。この家にいる人間のことを、全部知っている。

そしてその夜、母が私に隠していた十年前の出来事が、少しずつ明らかになり始めた。母はしばらく何も言わなかった。廊下の向こうではまだ何かが歩き回っている気配がする。床板がミシミシと小さくきしむたびに、私は体を強張らせた。けれど母はその音を聞いているはずなのに、もうそちらを見ることさえしなかった。ただ私の部屋のドアに背中をつけ、震える手で口元を抑えていた。

やがて母は、息を消したように小さな声で言った。「十年前、この家で一人の女が死んだの」その瞬間、廊下の奥でカタンと何かが落ちる音がした。母は一度だけそちらを見て、それから声を落とした。「その女は、私の妹だった」私は言葉を失った。母に妹がいたなんて、一度も聞いたことがなかった。アルバムにも昔の写真にも、そんな女性が映っていた記憶はない。「どうして今まで何も教えてくれなかったの?」

母はすぐには答えなかった。しばらく沈黙した後、ゆっくりと話し始めた。「妹の名前はゆみ子。十年前、この家に泊まりに来ていたの。この頃、この家にはまだ祖母が住んでいてね。祖母は昔から『この土地には名前を奪う女がいる』と言っていた。でも私たちはそんな話をただの迷信だと思っていた」そして震える指で廊下の先を指した。「ある夜、ゆみ子が突然、自分の名前を呼ぶ声を聞いたの」

私は息を飲んだ。「その声はどこから聞こえたの?」母は答えなかった。ただ目を伏せたまま続けた。「ゆみ子は…返事をしてしまった」その瞬間、部屋の外から女の笑い声が聞こえた。私は今ここで起きていることと、十年前の出来事が繋がっていることを直感していた。

母はさらに話を続けた。「翌朝、ゆみ子の姿がなくなっていた。家中を探したけれど、どこにもいなかった。警察にも連絡した。でも不思議なことに、誰もゆみ子のことを覚えていなかった。でも、警察に見せるために写真を探していたら、ゆみ子が映っている写真だけ全部おかしくなっていたの」

母は震える手で自分のスマートフォンを取り出した。画面には古い写真が一枚表示されていた。家族が庭に並んでいる写真だった。だが母の隣だけ、不自然に空白になっている。誰か一人が立っていたはずの場所だけ、背景が歪んでいた。「ゆみ子」母がそう呟いた瞬間、スマートフォンの画面が突然消えた。真っ暗になった画面に、私と母の顔が映る。そしてその二人の間に、知らない女の顔が映っていた。

私は声を失った。女は画面の中で、私たちの後ろに立っていた。長い黒髪が顔を覆い、白い肌だけが暗闇の中に浮かんでいる。そしてゆっくり顔をあげた。「お姉ちゃん」母がスマートフォンを床に落とした。「聞こえた?」私は震えながら頷いた。今、女は確かに言った。「お姉ちゃん、どうして私を忘れたの?」母はその場に崩れ落ちた。そして両手で顔を覆い、泣きながら繰り返した。「忘れたんじゃない。忘れたんじゃないの」

「じゃあ、どうして?」母は答えなかった。代わりに床に落ちたスマートフォンが再び点灯した。画面には、さっきまで存在しなかった一枚の写真が表示されていた。そこには十年前の家族写真が映っていた。今度は空白ではない。母の隣にゆみ子が立っていた。そしてそのゆみ子の腕には、幼い私が抱かれていた。私は写真を見つめたまま凍りついた。母はゆっくり顔をあげた。「そうよ、みさ。あなたは十年前、この家にいたの」

その言葉を聞いた瞬間、私の頭の奥でずっと閉じられていた記憶が突然弾けた。暗い廊下。赤い傘。泣いている女。そして幼い私の耳元で囁く声。「大きくなったら、私の名前を思い出してね」私は思わず耳を塞いだ。その瞬間、廊下の奥からはっきりと女の声が響いた。「みさ、思い出した」

そして部屋のドアの下から、濡れた黒髪がゆっくりとこちらへ伸びてきた。ドアの下から伸びてきた黒い髪は、まるで生き物のようにゆっくりと床を這っていた。一本また一本と部屋の中へ入り込み、私の足元へ近づいてくる。私は後ろへ下がったが、背中が壁にぶつかり、それ以上逃げることができなかった。

母は床に落ちたスマートフォンを見つめたまま動かない。画面には十年前の写真が表示されている。そこには確かに幼い私と、母の妹だというゆみ子が映っていた。しかし私にはそんな記憶が一切なかった。母は震える手で写真を拾い上げると、私の顔を見ながら小さく言った。「あなたが忘れているんじゃない。私たちがあなたから、その記憶を消したの」

私は意味が分からず母を見つめた。「どういうこと?」母は答える前に、ドアの向こうを見た。黒髪はさらに伸びている。もう少しで私の足に届く距離だった。母は震える声で続けた。「十年前、ゆみ子が消えた夜、あなたは全部見ていたの」私は息を飲んだ。その瞬間、頭の奥がズキっと痛んだ。目の前の景色が歪み、知らないはずの光景が一瞬だけ浮かんだ。暗い廊下を走る幼い私。裸足で、泣きながら誰かを探している。そして階段の下に立っている女。長い髪、白い着物。そしてその女の手を握っている、ゆみ子。

その言葉を聞いた瞬間、記憶の中の女がこちらを振り向いた。顔は見えない。それなのに私は分かった。あれは、今ドアの向こうにいる女と同じだと。そして幼い私がその女に向かって、何かを言っている。「お姉ちゃん、私は呟いた」母の顔が青ざめた。「違う」今、私はあの人をお姉ちゃんって呼んだ。母は答えなかった。その沈黙が、答えだった。

私はもう一度写真を見た。ゆみ子の隣にいる幼い私。そしてゆみ子の背後に立つ白い女。写真を拡大すると、女の口元だけが不自然に笑っていることに気づいた。だが次の瞬間、写真の中の女がゆっくり顔をこちらへ向けた。「みさ」私はスマートフォンを落とした。その声は、部屋の中から聞こえた。母も聞いていた。二人でゆっくりドアを見る。するとドアの向こうから女の声がした。「私の名前、まだ思い出せない?」

母は震えながら首を横に振った。「ゆみ子じゃない。あなたはゆみ子じゃない」女はしばらく黙っていた。そして低い声で笑った。「そう。やっぱりお姉ちゃんも忘れてる」

その瞬間、家中の電気が一斉に消えた。真っ暗になった部屋の中で、私の耳元に誰かの息遣いが聞こえた。「みさ」私は振り返らなかった。「あなたが最後に私の名前を呼べば、全部終わるよ」母が私の腕を強く掴んだ。「みさ、絶対に答えちゃだめ」

だが、その直後、母の手が突然離れた。「お母さん」返事がない。暗闇の中、私は何度も母を呼んだ。しかし母は答えなかった。そして部屋の隅から女の声がした。「今度は、お母さんが忘れる番」

私は震えながらスマートフォンのライトをつけた。そこに母はいなかった。代わりに床には一枚の古い写真だけが落ちていた。写真には私と母、そしてゆみ子の三人が映っている。その写真の裏には、赤い文字でこう書かれていた。「次に名前を奪われるのは、みさ」。写真を握ったまま、私はしばらく動けなかった。さっきまで隣にいたはずの母が、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。部屋の中には私一人しかいない。時計の秒針だけが、カチカチと異様に大きく響いていた。

私は何度も母の名前を呼びそうになったが、口を閉じた。もしあの女が言った通りなら、名前を呼ぶこと自体が何かを引き起こすのかもしれない。床に落ちていた写真を拾い上げ、もう一度裏返す。そこには確かに赤い文字で「次に名前を奪われるのは、みさ」と書かれている。しかしその文字を見つめているうちに、私は奇妙なことに気づいた。赤い文字が、少しずつ薄くなっているのだ。まるで写真の中から何かが吸い取られているようだった。

次の瞬間、廊下から足音が聞こえた。「みさ」私は動かなかった。「みさ、そこにいるんでしょ」母の声だった。だが今度は、返事をする前に違和感があった。母は私の名前を呼ぶ時、いつも少しだけ語尾を上げる。それなのに廊下から聞こえてくる声は、妙に平坦だった。私はドアの前まで近づいたが、開けずに耳を済ませた。すると向こう側から小さな声が聞こえた。「開けて。お母さんだよ」私は唇を噛んだ。「本当にお母さん?」
「そうよ。早く開けて」

私はドアに手を伸ばしかけた。しかし、その瞬間、背後から別の声がした。「開けちゃだめ」私は凍りついた。振り返ると誰もいない。けれど、その声は確かに聞こえた。しかもそれは母の声でも女の声でもなかった。幼い女の子の声だった。「開けたら、今度はあなたが消えるよ」

私はゆっくり部屋の隅を見る。そこには古い姿見が置かれていた。鏡の中には私の姿が映っている。しかしその後ろに、もう一人、幼い女の子が立っていた。白いワンピースを着て、長い黒髪を肩まで垂らしている。私は慌てて振り返ったが、当然そこには誰もいない。再び鏡を見ると、少女はまだいる。そして少女は鏡の中から私を見つめながら、指を一本立てて口元に当てた。私は恐怖で動けなくなった。

少女がゆっくり口を開く。「お姉ちゃん、まだ私のこと思い出さないの?」その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。十年前の記憶が一気に戻ってくる。雨の夜、赤い傘を持った女。泣いている母。そして私の手を握っていた小さな少女。私はその少女と一緒に、この家の地下へ続く階段を降りていた。「みさ、こっち。誰にも見つからないよ」少女が笑っている。私はその子の名前を知っていた。ずっと知っていた。なのになぜか、思い出せなかった。「あなた、誰?」幼い私がそう尋ねると、少女は悲しそうに笑った。「忘れちゃったの?」

私は鏡の前で震えながら呟いた。「妹…」少女の顔から笑顔が消えた。その瞬間、部屋のドアが勢いよく開いた。そこには母が立っていた。だが私はすぐに気づいた。母の顔がおかしい。目はうつろで、口元には不自然な笑みが浮かんでいる。そして母は私を見つめながら、ゆっくりといった。「みさ、やっと思い出したのね」私は一歩後ろへ下がった。「お母さん…」母は首を傾けた。「違う」そして母の口から聞こえてきたのは、あの女の声だった。「私は、お母さんじゃない」

その瞬間、鏡の中の少女が泣き始めた。そして少女は震える指で私の背後を指さした。「お姉ちゃん、逃げて」私はゆっくり振り返った。母の後ろに、長い黒髪の女が立っていた。その女は私を見て笑いながら、静かにこう言った。「十年前に忘れた約束、今夜果たしてもらうね」

女がそう言った瞬間、母の体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。私は反射的に母へ駆け寄ったが、触れた手は驚くほど冷たかった。「お母さん」何度呼んでも返事がない。けれど母の胸はかすかに上下している。生きている。それを確認した瞬間、私は少しだけ安心した。しかしその直後、廊下の奥からギイという音が聞こえた。古い木の扉が開く音だった。

私は顔をあげた。廊下の突き当たりには、今まで一度も開いたことのない小さな扉がある。母は昔から「あそこには絶対に近づくな」と言っていた。けれど今、その扉が少しずつ開いている。そしてその隙間から、冷たい空気が流れ込んできた。まるで地下から、長い間閉じ込められていた何かが這い上がってくるようだった。

「みさ」背後から女の声がした。私は振り返らなかった。怖かったからではない。なぜか、あの声に従ってしまえば二度と戻れないような気がしたからだ。私は母をその場に残し、ゆっくりと廊下の奥へ歩いた。小さな扉の前まで来ると、床に古い鍵が落ちているのが見えた。私はそれを拾い上げた。鍵には小さな札がついていて、そこには一つの名前が書かれていた。「ゆみ子」

その名前を見た瞬間、頭の中にまた記憶が流れ込んできた。十年前の夜、私はこの扉の前に立っていた。そしてその隣には、ゆみ子がいた。ゆみ子は泣きながら私の手を握り、「絶対にこの扉を開けちゃだめ」と言っていた。けれど扉の向こうから、誰かが私の名前を呼んだ。「みさ」幼い私は、その声に返事をしてしまった。その瞬間、ゆみ子が私の手を強く引いた。「違う。それは私じゃない」記憶はそこで途切れた。

私は現実に戻り、鍵を握ったまま立ち尽くしていた。すると背後から足音が近づいてきた。振り返ると、母が廊下に立っている。しかしその顔には、さっきまでの母の表情がない。まるで何かに操られているように、無表情で私を見つめていた。「みさ、その扉を開けて」
「いや」私は初めて、はっきりと拒絶した。母は微笑んだ。「開ければ、全部分かるわ」
「お母さんじゃない」そう言った瞬間、母の顔が歪んだ。「賢くなったね」母の声ではない。あの女の声だった。

私は急いで鍵を扉の鍵穴に差し込んだ。カチッと音がして錠が外れる。扉を開けると、そこには地下へ続く古い階段があった。壁には何十枚もの紙が貼られている。私はスマートフォンのライトを向けた。そこに書かれていたのは、全て人の名前だった。「佐藤健一」「田中か子」「高橋直子」知らない名前が何十個も並んでいる。そしてその一番下に、私の名前があった。「みさ」だが、その名前の横には、まだ誰の名前にも書かれていない言葉があった。「未完了」。

私は息を止めた。その瞬間、地下室の奥から小さな女の子の声が聞こえた。「お姉ちゃん、早く来て」私は震えながら階段を見下ろした。暗闇の奥に、幼い少女が立っている。そしてその少女の隣には、十年前に消えたはずのゆみ子が立っていた。ゆみ子は泣きながら私を見つめていた。「みさ、お願い。私の名前を呼ばないで」

私はその言葉を聞いて初めて理解した。この地下室にいる人たちは、死んだのではない。名前を奪われたまま、今もここに閉じ込められているのだ。地下室の階段を一段降りた瞬間、空気が変わった。地上の部屋とは比べ物にならないほど冷たく湿った空気が、肌にまとわりつく。壁には古い紙がびっしりと貼られていて、その一枚一枚に人の名前が書かれていた。私はスマートフォンのライトを向けながら、ゆっくり階段を降りていく。

すると階段の途中に立っていたゆみ子が、震える声で言った。「みさ、そこで止まって」私は足を止めた。ゆみ子の顔は、白い肌、長い髪、そして悲しそうな目。ただ写真と違うのは、彼女の足が床についていないことだった。ゆみ子の体は、ほんの少しだけ宙に浮いていた。

「お姉ちゃん、どうしてここまで来たの?」私はその言葉に反応した。「私とあなたは、本当に姉妹なの?」ゆみ子は黙って頷いた。そして少しだけ悲しそうに笑った。「そうだよ。あなたは私の妹じゃない。私がずっと守ってきた、お姉ちゃん」私は混乱した。今まで母の妹だと思っていたゆみ子が、実は私の姉だったのか。それならなぜ母は、そんな大切なことを隠していたのか。

ゆみ子はゆっくりと壁を指さした。そこには他の名前とは違う、赤い文字で一つの名前が書かれていた。「この名前を見て」私はライトを向けた。そこに書かれていた名前を見た瞬間、全身が凍りついた。「みさ」そう、あなたの名前。「でも、どうして『未完了』って…」ゆみ子は答えなかった。その代わり、壁に貼られた紙を一枚剥がした。紙の裏には、古い筆跡で文章が書かれていた。「名前を呼ばれたものは、三つのものを失う。記憶、家族、そして最後に自分自身」

私はその文章を読みながら息を飲んだ。ゆみ子は静かに続けた。「私も最初はただの迷信だと思ってた。でもあの女に名前を呼ばれてから、少しずつ家族が私のことを忘れていった。最初に父が忘れた。次に母。そして最後に、あなた」私は何も言えなかった。ゆみ子は自分の胸元に手を当てた。「あなたは最後まで私を覚えていた。でもあの夜、あなたを守るために、私は自分から名前を差し出したの」

「じゃあ、母は…」ゆみ子の表情が変わった。「お母さんは、あなたを守るために嘘をついた」
「どういう意味?」
「ゆみ子は地下室の奥を見た。そこには古い木箱が一つ置かれていた。「その中に、全部入ってる」

私は木箱に近づいた。蓋には無数の傷がついている。まるで中にいる何かが、外へ出ようとしていたようだった。私は恐る恐る蓋を開けた。中には古い写真と一冊のノート、それから小さな赤い傘が入っていた。私は傘を見た瞬間、昨日、玄関に置かれていたものと同じだと気づいた。そしてノートを開く。最初のページには、母の字でこう書かれていた。「この家に住む限り、娘の名前を二度と呼ばないこと」

私はページをめくった。そこには十年前の出来事が、母自身の手で記録されていた。「ゆみ子は消えたのではない。私が地下室に閉じ込めた」。私は息を止めた。「嘘」ゆみ子が俯いた。「本当だよ」

その瞬間、地下室の奥からコンコンと何かを叩く音が聞こえた。一回、二回、三回。ゆみ子が青ざめた。「来る」
「誰が?」ゆみ子は私を見つめた。「私たちの名前を奪った女」そして地下室の暗闇から、ゆっくりと女の声が響いた。「みさ」私は息を止めた。「ゆみ子」ゆみ子が震えた。そして最後に、女は笑いながらこう言った。「二人とも、今度こそ名前をもらうね」

母方の祖母は、もうこの世にはいない。それでも、その夜、私は祖母の声を聞いた。「まだ起きてるの?」私は息を止めた。生然と全く同じ、少しかれた優しい声だった。私は返事をしてはいけないと分かっていた。けれど、声の主が誰なのか確かめたいという気持ちが、恐怖よりも強くなってしまった。「おばあちゃん?」

その瞬間、家の中から音が消えた。時計の針の音も、外を吹いていた風の音も、全てが一斉に消えた。そして戸の向こうから、小さな声が返ってきた。「名前を呼んだね」私は凍りついた。その言葉を聞いた瞬間、これまで祖母から何度も言われていた言葉を思い出した。「この家で、夜中に誰かに呼ばれても絶対に返事をしてはいけない。名前を呼んでもいけない。もし返事をしたら、その人は家の中に入ってくるから」私は今、自分でその禁忌を破ってしまった。

戸がゆっくりと動いた。ほんの数値だけ開いた隙間から、真っ暗な廊下が見えた。誰もいない。そう思った次の瞬間、その暗闇の中に白い指が一本だけ現れた。そしてその指が、こちらを指さした。その瞬間、部屋の隅に置かれていた古い鏡が突然ガタンと大きく揺れた。鏡の中には私しか映っていなかった。いや、正確には私の後ろにもう一人、立っていた。振り返ってはいけない。頭ではそう分かっていた。それでも鏡に映ったその姿から、目を離すことができなかった。長い黒髪、白い顔、そしてこちらを見つめる真っ黒な目。その女は私の耳元に口を近づけるようにして、鏡の中からゆっくりと笑った。「やっと呼んでくれたね」

その瞬間、部屋の明かりが消えた。真っ暗な部屋の中で、かすかに聞こえるのは自分の浅い呼吸だけだった。けれどほんの数秒後、鏡の向こうからコツコツという小さな音が聞こえてきた。それは誰かが鏡の内側から、爪でガラスを叩いているような音だった。私は怖くて目を閉じたまま、壁伝いに後ろへ下がった。すると今度は、背後から冷たい息が首筋にかかった。

「振り向かないで」その声を聞いた瞬間、私は動きを止めた。それはさっきまで聞こえていた女の声ではなかった。祖母の声だった。「今振り向いたら、あの子に顔を覚えられる」私は震えながら尋ねた。「おばあちゃん、あの女は誰なの?」しばらく沈黙が続いた。そして祖母は、消え入りそうな声で答えた。「あれは、この家で死んだ女じゃない。昔この家に住んでいた人間が、自分の名前を捨ててまで呼び戻したものなの」

その言葉の意味を理解する前に、廊下から激しい足音が聞こえた。ドン、ドン、ドン。誰かがこちらへ向かって走ってくる。しかしその足音は、部屋の前で突然止まった。そして戸の向こうから、私自身の声が聞こえた。「開けて。私だよ」私は息を飲んだ。私はここにいる。なのに、戸の向こうから聞こえているのも、間違いなく私の声だった。「早く開けて。ここから出ないと、あなた名前を取られるよ」

私は戸に近づきかけた。その瞬間、背後の祖母が叫んだ。「絶対に開けないで」戸の向こうの「私」は、しばらく黙っていた。そして次の瞬間、今まで聞いたことのない低い声で、ゆっくりと言った。「じゃあ、次は誰の声で呼べばいい?」その言葉と同時に、戸に五本の黒い指が浮かび上がった。それはまるで、こちら側にいる人間を探すように、ゆっくりと動いていた。私は声を出すこともできず、ただ背後にある祖母の気配を見つめていた。

すると祖母が、私の手首を強く握った。生きている人間の手とは思えないほど、冷たかった。「今から私が言うことを、絶対に忘れないで」祖母の声は震えていた。「この家には昔から、名前を奪うものがいる。あれは人を殺すんじゃない。最初に名前を奪うの。名前を奪われた人間は、家族からも忘れられて、最後には自分が誰だったのかさえ分からなくなる」私は何も言えなかった。祖母は続けた。「でも一つだけ方法がある。あれに自分の名前を教えなければいい。そしてあれが呼ぶ名前にも、絶対に返事をしないこと」

その瞬間、戸の向こうから私の名前が呼ばれた。一度、二度、三度。声は母の声だった。「みさ」私は思わず息を飲んだ。母はこの家に来ていない。それなのに、戸の向こうから聞こえる声は間違いなく母だった。「みさ、開けて。お母さんだよ」私は必死に唇を噛んだ。返事をしてはいけない。分かっているのに、母の声を聞くほど心が揺れていく。すると突然、祖母が私の耳元で囁いた。「違う。あれはお母さんじゃない」そして祖母は震える声で、最後の言葉を口にした。「あれはもう、私の名前まで知ってる」

祖母の最後の言葉を聞いた瞬間、私は全身から血の気が引いていくのを感じた。戸の向こうではまだ母の声が続いている。「みさ、どうしたの?早く開けて」この声はあまりにも自然で、優しかった。けれど祖母は私の手を離さず、首を横に振り続けている。やがて戸に浮かんでいた黒い指が、一本また一本と消えていった。静かになった。私はもう、あれは帰ったのだと思った。

しかし次の瞬間、部屋の天井からポタリと水滴が落ちてきた。顔をあげると天井には何もない。それなのに、もう一滴、私の頬に冷たいものが落ちた。そしてその水滴は、赤かった。「おばあちゃん…」私が小さく呼びかけると、祖母は震えながら天井を見上げた。「上にいる」その言葉と同時に、天井裏から何かを引きずるような音が聞こえ始めた。ズル、ズル、ズル。ゆっくりと、私たちの真上を何かが這っている。私は逃げようとしたが、祖母が腕を掴んで止めた。「逃げちゃだめ。今外に出たら、あれと目が合う」

音は少しずつ近づいてきた。そして天井の板が一枚だけ、ゆっくりと下へ膨らみ始めた。私は息を殺して見つめた。板の隙間から、長い黒髪が一本だけ垂れてきた。その髪は床につくほど長く、まるで誰かが天井裏から逆さに、こちらを覗き込んでいるようだった。するとその髪の奥から、かすかな声が聞こえた。「みさ」私は目を閉じた。しかし次に聞こえた声で、私は思わず目を開けてしまった。「おばあちゃん」祖母の名前を呼ぶ声だった。

その瞬間、祖母の表情が完全に変わった。「そういうことだったのね」祖母は震えながら笑った。「この家が欲しがっていたのは、私の名前だったんだ」祖母がそう呟いた瞬間、天井から垂れていた黒い髪が、まるで生き物のようにゆっくりと揺れ始めた。私は祖母の腕を掴んだまま、一歩も動けなかった。すると祖母は突然、私の手を振りほどいた。「みさ、今すぐこの部屋から出て」
「え?」
「早く」祖母の声には、今まで聞いたことのないほどの強い恐怖が混じっていた。

私は戸に向かおうとした。しかし、その瞬間、廊下の奥からカタンと何かが倒れる音がした。続いて、暗闇の中から祖母の声が聞こえた。「みさ、こっちへ来なさい」私は立ち止まった。目の前にいる祖母も、私を見ている。それなのに、廊下からも祖母の声がする。「みさ、早く」祖母は顔を青ざめさせ、私の口を手で塞いだ。「絶対に返事をしないで」

廊下の声は、今度は泣き声になった。「みさ、お願い。助けて」私は目の前にいる祖母を見た。祖母は必死に首を横に振っている。そして廊下から聞こえていた鳴き声が、突然止まった。数秒の沈黙。その後、今度は私の声が聞こえてきた。「おばあちゃん、そこにいるの?」祖母の顔から、完全に表情が消えた。「もうだめ」そう呟いた祖母は、私を見つめながら静かに言った。「みさ、今から私が言うことを、絶対に信じないで」
「え?」
祖母は涙を流しながら、震える声で続けた。「ここにいる私は、本当の私じゃない」

その瞬間、天井から垂れていた黒い髪が、私たち二人の間に勢いよく落ちてきた。黒い髪が二人の間に落ちた瞬間、祖母が私の肩を強く押した。「走って」私は反射的に戸を開け、廊下へ飛び出した。後ろから祖母の叫び声が聞こえたが、振り返ることはできなかった。

廊下は真っ暗だった。それでも私は玄関だけを目指して走った。ところが、何度走っても玄関が近づかない。見慣れた廊下のはずなのに、同じ柱、同じ戸、同じ古い掛け軸が、何度も目の前に現れる。「ここ、さっきも通った」そう呟いた瞬間、背後から足音が聞こえた。ペタペタ。裸足で濡れた床を歩くような音だった。私は振り返らずに走った。しかし足音は、少しずつ近づいてくる。そして突然、耳元で女の声がした。「みさ、どこへ行くの?」私は必死に口を閉じた。「あなたの家は、ここでしょう」

その瞬間、目の前に玄関が現れた。私は勢いよく扉を開けようとした。しかし鍵がかかっている。何度回しても開かない。背後の足音が、止まった。私はゆっくりと振り返った。廊下の奥に、祖母が立っていた。いや、祖母の姿をした何かが、こちらを見ていた。そしてその顔が、ゆっくりと歪んでいく。「みさ」女は笑った。「やっと二人きりになれたね」

その瞬間、玄関の鍵がカチッと音を立てて開いた。私は外へ飛び出した。けれど、外に出た瞬間、私は気づいてしまった。そこは家の外ではなかった。そこに広がっていたのは、何十年も前に消えたはずの古い村だった。そして道の両側には、顔のない人たちがずらりと立っていた。

顔のない人たちは、誰一人として動かなかった。ただ道の両側に立ったまま、私を見ているようだった。顔がないのに、見られているとはっきり分かった。私は一歩後ろへ下がった。しかし背後には、さっきまでいたはずの家がない。そこにあったのは、深い霧だけだった。すると村の奥から、鈴の音が聞こえてきた。チリン、チリン。その音に反応するように、顔のない人たちが一斉に私の方へ顔を向けた。そして全員が、同じ言葉を呟いた。「帰ってきた」

私は意味が分からず、ただ震えていた。すると霧の中から、古い着物を着た女がゆっくりと歩いてきた。長い髪で顔は隠れていたが、その歩き方には見覚えがあった。「おばあちゃん…」女は立ち止まった。そしてゆっくりと顔をあげた。そこにあった顔を見た瞬間、私は声を失った。それは祖母の顔ではなかった。私自身の顔だった。女は私と全く同じ顔で微笑み、静かに言った。「やっと名前を返してもらえるね」

その瞬間、村里から無数の声が響いた。「みさ」「みさ」「みさ」私は耳を塞いだ。けれど、その声は耳からではなく、頭の中から聞こえていた。そして最後に、私のすぐ後ろから祖母の声がした。「違う。あれはあなたじゃない」振り返ると、そこには血だらけになった祖母が立っていた。祖母は私を見つめ、震える手で古い鍵を差し出した。「その鍵で井戸を開けて。井戸に、全部ある。私たちが忘れてしまった、本当の名前が」

その言葉を最後に、祖母の姿は霧の中へ消えていった。私は震える手で鍵を握りしめた。そして村の中央にある、古びた井戸へ向かって歩き始めた。まだ私は知らなかった。その井戸の底に眠っているのが、祖母の秘密だけではなく、私自身がこの家に呼ばれた本当の理由だということを。

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