雨の日の夕方、店の前に親子が立っていた。傘は一本だけ。女の人は男の子の方へ傘を傾け、自分の左肩を濡らしていた。しがない寿司屋の主人である俺は、その親子を追い返すことができなかった。
俺は平田新一、四十一歳。商店街の外れで、亡き父・仙台から継いだ小さな寿司屋を一人で切り盛りしている。カウンター八席と座敷がひとつだけの店だ。のれんには「寿司」の二文字だけが書かれている。半年前まで十二年間、うちにいた一番弟子が駅前に自分の店を出し、常連の年賀状の束を持っていった。翌月から、カウンターは半分も埋まらなくなった。
その日は秋の雨だった。客は誰も来ず、俺は閉めようと表に出た。すると、引き戸の前にその親子が立っていた。
「あの、すみません。ここはやっているお店なんですか?」
「やっています」
女の人は少し困ったように看板を見て、唐突に言った。
「穴子はありますか?」
「穴子ですか? すみません、今日はもう終わりにしようと思っていて。それに、穴子は切らしているんです」
普通の客ならそこで帰る。だが、その女性は続けた。
「あの、一貫だけでいいんです。何でもいいので、一貫握ってもらえませんか?」
雨が強くなった。男の子が黙って母親の顔を見上げていた。女の人が財布を開くと、指が止まった。中を二度見て、閉じた。俺は見なかったふりをした。
「すみません」
その声が急に小さくなった。男の子が母親の服の裾を引いた。
「もういいよ。帰ろう」
慣れた言い方だった。この子は、こういう場面を何度も経験してきたのだと分かった。俺の頭に父の声が浮かんだ。一貫でも客は客だ。俺は何も言わずに引き戸を開けた。
「濡れますから、入ってください」
女の人が深く頭を下げ、男の子の背中を押した。俺は二人の前に、一貫ずつ寿司を置いた。
「今日はこれしか出せません」
「十分です。ありがとうございます」
「それは何ですか?」
「カツオです。秋の戻りガツオと言って、今が一番油が乗っています」
「カツオ、食べたことないです」
「じゃあ、今日覚えて帰ってください」
男の子が母親を見ると、母親が頷いた。男の子は両手で持って口に入れた。
「これ、すごく美味しいです」
俺は返事ができなかった。こんな風に味を褒めてもらえたのが何年ぶりか思い出せなかった。やっとの思いで「ありがとうございます」と言うと、声がかれた。
女の人は自分の一貫にはまだ手をつけず、息子が味わうところをじっと見ていた。終わった後、彼女は座ったまま俺の方へ深く頭を下げた。
「あの、お代の代わりにここで働かせてくださいませんか?」
「働く?」
「皿洗いでも掃除でも何でもします」
俺は困った。人を雇う余裕などない。断ろうとした時、女性が先に口を開いた。
「こずれですが、働けますか?」
俺は言葉を止めた。男の子が俯いた。俺は気の毒だと思ったわけではない。この人は行き場のないまま雨の中に立っていた。俺も客の来ない店の中で立っていた。どうしてか、他人とは思えなかった。
「明日から、来てください」
しほさんがパッと顔をあげた。口が半分開いたまま止まっていた。それから、「今日のお代は要りません」と言うので、俺は慌てて言った。
「それは困ります。今日の分の給料ということで」
「そんな、いただけません」
「これからしっかり働いてもらうんですから。あの、明日は何時から入ればいいですか?」
「昼の十一時からで、夜は九時に上がってください」
「もっと遅くまでできます」
「九時で結構です。子供がいますから」
「ありがとうございます」
しほさんは頭を下げ、それから顔をあげてもう一度言った。「ありがとうございます。本当に」
翌日、しほさんは時間の少し前に来て仕込みを大方済ませると、すぐに表へ出ていった。近所を回って、店の宣伝をすると言うのだ。夕方近くになると戻ってきて、「二十六件もありました」と汗をかきながら言った。
五時の開店前に、表で音がした。杖の先が石段をつく音だ。お年寄りが一人、店の前に立っていた。その後ろに押し車を押した人。少し離れて、腰の曲がった人がもう一人来た。
「大将、表に人が並んでくださっていますね」
俺は手を止めた。この店の前に人が並ぶところを、父の時代でも見たことがなかった。通りかかったサラリーマンの二人組が列を見て足を止めた。
「何の列ですかね、これ」
前に並んでいたお年寄りが答えた。
「昔ながらの寿司屋だよ」
二人はのれんに張ってある紙を読んだ。
「おお、結構安いな。一貫からいいって書いてある」
「へえ、入ってみるか」
そのまま列の後ろに着いた。そこから行列は止まらなくなった。開店の五時に戸を開けると、外には十人以上の人がいた。俺はひたすら寿司を握り続けた。しほさんがお茶とおしぼりを出し、注文を通し、お金を受け取った。ヒカルは皿の片付けと皿洗いを手伝った。夜の八時を過ぎても客は途切れなかった。閉店時間より早く酢飯が尽きたのは初めてだった。
閉店後、レジを開けると、しばらく見ていなかった数字があった。数えているうちに指先が震えてきた。
「大将、私、余計なことをしましたかね。嫌なら剥がします」
「剥がしません」
自分でも思っていないほど強い声が出た。しほさんが目を丸くした。
「すみません。剥がさないでください。今井さん、もしよろしければ、明日から正式に来てくださいませんか? お代の代わりではなく、もちろんお子さんと一緒に」
しほさんは何か言おうとして口を閉じ、それから深く息を吸った。
「ありがとうございます」
だが、その反響は長くは続かなかった。二日目、列は半分になった。三日目はもっと減って、開店の五時に外にいたのは四人だけだった。一週間が過ぎる頃には、開店前には誰も並ばなくなった。消えたのは初めて来た客の方だった。値段に釣られて入ってきて、うまいと言って帰っていった人たちが二度は来ない。残ったのは、しほさんが宣伝して呼んできた人のうちの数人だけだった。昔からこの町にいて、この店を知っていたお年寄りたちだ。
俺はまず味を疑った。店を閉めた後、何も握って自分で食べた。何度確かめても、味は落ちていない。ある日、帰り際の客がこう言った。
「大将は昔から口数が少ないからな。俺らはいいんだよ。大将のことよく知ってるからさ。だけど、初めての人にはこの店、ちょっと敷居が高いよ」
「俺、何を喋ればいいんでしょうか?」
「そんなもの、何でもいいんだよ。『今日はこれがおすすめです』だけで十分だ」
「それは品書きにも書いてあります」
「紙は喋らないだろう。大将が直接言うから、『じゃあそれをもらうか』って話になるんだよ」
俺は話を流したふりをした。だが、手が止まっていた。初めての客が来て席に座る。俺は客の注文に沿って黙って寿司を握る。今日のおすすめも知らされず、大将との会話もない。そういう店にもう一度行きたいと思う人がいるだろうか。原因は品書きでも味でもなく、カウンターの内側に立っている男だった。だが、分かっても直せなかった。四十一年、自分から積極的に客に話しかけたことはないのだ。
次の日、俺は音げなくしほさんに当たってしまった。
「大将、品書きをもっと増やしてみませんか?」
「そんなもので変わりませんよ」
言ってしまってから、自分の声が硬いことに気づいた。
「あ、すみません」
しほさんは謝りもしなかったし、言い返しもしなかった。のれんをきちんと畳んで、いつもの場所に置いた。
「お疲れ様です。また明日」
それだけ言って、ヒカルを連れて帰って行った。
次の日の昼、俺は封筒を一つカウンターに置いた。中に履歴書の用紙と保険の書類が入っている。
「これ、書いてもらえますか?」
しほさんはすぐには手を出さなかった。
「あの、こういうのは結構です」
「いいえ。うちで正式に働いてもらってるので、必要なものです」
「私はお代の代わりに来ているだけで、その件はもう終わりましたよね」
「お代の代わりではなく、うちの店員として雇っていますので」
しほさんが顔をあげた。目が赤くなりかけたのを、瞬きで押し戻したのが分かった。
「ありがとうございます。すぐ書きます」
書類を書きながら、しほさんはぽつぽつと少しずつ自分のことを話した。勤務先が潰れてから収入が途切れて数ヶ月になること。アパートの更新が間もなく来ること。でも、借りているお金はないこと。それから、母が二十四の時に亡くなり、自宅で看取ったこと。その後、離婚してヒカルと二人になって、一生懸命介護の資格を取ったこと。俺は何も言えなかった。
ヒカルは毎日学校が終わると店に来た。座敷の隅のいつも同じ場所に座って宿題をする。俺は声をかけることもできず、ヒカルも大人の男とどう喋ればいいのか分からないらしく、黙って下を向いていた。
ある夜、しほさんが教えてくれた。
「あの子、父親の顔を知らないんです。生まれてすぐでしたから。私が離婚したのは。だから、大人の男の人と長く喋ったことがないんです。大将のことも、どうしていいか分からないんだと思います」
俺は納得した。ヒカルと俺は似ていた。何を話せばいいのか分からないもの同士。それでは会話が進まないはずだ。
十一月の終わりの日、宿題を終わらせたヒカルが自分からおしぼりを持ってきた。
「僕、これ全部やります」
畳んだおしぼりを重ねに積み上げて、ヒカルは満足そうに並べ直していた。ふと、その手が止まって俺の方を見た。
「おじさん」
「はい」
「僕、邪魔じゃないですか?」
思わぬ言葉に、俺は皿を持ったまま動けなくなった。
「子供がそんなこと言ってはいけません」
ヒカルは笑顔を向けた。だが、一瞬俺が返事に詰まったのを見られてしまった。その夜、しほさんがのれんを洗いながらぽつりと話した。
「仕事の面接には、今まで随分落ちたんです。『こずれです』と言うと、やっぱり相手の方の顔が変わるんです。人手が足りないと言っていたのに、子供のことを言うと途端に」
俺はあの雨の日を思い出した。ヒカルはあの時、母親の裾を引いて「帰ろう」と言った。これまでにどれだけの場面があったことか。だからヒカルはきっと、自分がいなければ母は自由に働けるのだと考えている。
十二月の初め、若い男の客が一人で入ってきた。壁の品書きの前で立ち止まって、じっくり読んでいる。それから俺の方を見た。何かを聞きたいような表情だった。俺にはそれが分かった。分かっていたのに、どうしても声が出なかった。
その時、座敷の方から足音がした。
「今日のおすすめはカンパチです。あと、白子も入ったって言ってました。少し高いですけど。美味しそうでした」
ヒカルの声だ。緊張のためか、少しだけ声が震えている。
「へえ、君詳しいね」
「えっと、値段はこちらに書いてあります。一貫からでも大丈夫です」
「ほう。一貫からでもいいの?」
「はい。一貫でも大切なお客さんですから」
客が笑った。
「じゃあ、そのカンパチと白子を一貫ずつ」
「かしこまりました」
「君、ここの店の子?」
「手伝いです。母がここで働いているので」
「はあ。しっかりしてるなあ」
「僕は何も。でも、おじさんのお寿司は絶品です」
俺は準備をしながらそのやり取りをずっと見ていた。俺にできないことを、十歳の子が先にやってのけたのだ。その夜、店を閉めてから俺はしほさんに初めて弱音を吐いた。
「今井さん。俺は仙台のやり方しか知らないんです。丁寧な挨拶はしない。無駄なことは喋らない。味が分かる人だけ来ればそれでいい。そうやってずっとやってきました」
しほさんは「そうですか」とだけ言った。否定もしなかったし、慰めもしなかった。しばらくして、静かに聞いてきた。
「仙台は、どんな方だったんですか?」
俺は答えるのに時間がかかった。
「腕は確かな人でした。俺は十八で家を出て、二十八でここに戻って、それから六年間この場所に仙台と一緒に立ちました。仙台からは一度も褒められたことがありませんでした。切り付けが甘いとか、しゃりが硬いとか、そういうことはしょっちゅう言うんです。でも、うまいとは決して言わない。でも、この前外では俺のことを自慢していたと客から聞きました。それを聞いても、俺はどうしていいか分かりませんでした」
しほさんは洗い物の手を止めて、ただ黙って最後まで俺の話を聞いていた。聞いてもらえているだけで、それだけで救われた気がした。
翌日、俺は心を決めた。昼過ぎ、初めての客が二人入ってきた。品書きの前で足が止まる。あの時と同じだ。俺は深く息を吸って口を開いた。
「今日のおすすめは、かんかぶりです」
思いきり噛んだ。客が吹き出した。
「大将、なんか緊張してます?」
「していません」
「してる」
店に笑い声が起きた。客とこんな風に笑い合うなんて初めてかもしれない。その日から、少しずつ空気が変わった。俺が一言喋ると客が二言返してくれる。その言葉を拾い、また俺が一言返す。それだけで、この店にもまた人が来てくれるようになった。
十二月も半ばになると、年の瀬の折り詰めの注文がぽつぽつと入り始めた。
「大将、この折り詰め、配達しませんか? もう歩けなくて、ここまで来られない方がいます。私、何人か知ってます」
結局、俺とヒカルの二人で回ることになった。一件目で俺は玄関先に立ち尽くしてしまった。折り詰めを持ったまま、何と言えばいいのか分からない。隣でヒカルがすっと前に出た。
「こんにちは。商店街の外れの寿司屋です。年の瀬なので折り詰めをお持ちしました。お一ついかがでしょうか?」
「まあ、大将来てくれたの?」
「どうも」
俺は後ろで頭を下げるだけの役になっていた。四件目の家で、家へ上がっていけと言われた。廊下は暗く、電球が切れていた。玄関に段差があって、そこに古い椅子が置いてあった。茶の間には茶碗が一つ、湯呑みが一つ。テレビの前には座布団が一枚だけ敷いてある。
「一人だとね、作るのが面倒でさ、適当になっちゃって」
「そうですか」
「一膳しか出さない日が続くと、寂しいもんだよ」
俺は返事ができなかった。しほさんが言っていた通りだった。この人はこういう人たちの家に上がって、暮らしぶりを見てきたのだ。その夜、俺は引き出しから古い年賀状の束を出した。弟子が持っていったのは一番新しい束だけだった。俺は慣れない手つきで文字を書いた。「本年もよろしくお願いします。旬のネタを揃えてお待ちしています」。それだけ書いた。丁寧に、一枚一枚、自分の字で。
大晦日の夜、店を閉めてから三人で巻き寿司を食べた。しほさんが持ってきた煮物と、俺が握った巻き物だけの簡単なものだった。
「年越しそばは食べないんですか?」
「そうですね」
「うちは毎年蕎麦屋のを頼んでいましたが」
「じゃあ、来年は頼みましょう」
「来年」という言葉が自然に出てきたことに、俺は少しだけ驚いた。
年明け、店を開けた日にやってきたのは、年賀状を出した昔の常連たちだった。
「いや、年賀状もらったもんでね。久しぶりに顔を出そうと思ってさ」
「俺のところにも届いたよ。久しぶりだったよな」
「びっくりしたな。年賀状が届いたのは仙台の時以来だろう。なんか捨てられなくて、持ってきたよ」
客がポケットから年賀状を取り出す姿に、胸が熱くなった。俺が書いたたった二行の文字が、遠ざかっていた人を繋いでくれたようだった。
一月の風の冷たい日だった。のれんが揺れて、痩せた年寄りが体を斜めにして入ってきた。俺は包丁を置いた。
「大西さん」
「よ、生きてたか」
「ご無沙汰しております」
大西さんは八十二になる。仙台の代から四十余年、通ってくれていた人だ。俺は自然と、その席の前におしぼりと茶を置いた。
「この店、傾いてるって聞いてな。若いのが出てったんだってな」
「はい」
「見に来なきゃと思ってたんだ。思ってたんだけどよ。足が言うことを聞かねえんだ。商店街の坂は、俺には遠いんだ」
大西さんは小さく笑った。それから、以前と同じように注文をした。
「じゃあ、白身から。細かいことは任せる」
四十年、この人はそう言い続けてきた。俺は一貫目を出した。大西さんは箸で持ち上げて口に入れた。長く噛んでいた。いつまでも噛んでいた。やっと飲み込んだ時には、一分以上が経っていた。
「大西さん」
「ああ、うまいよ」
そう言って、大西さんは箸を置いた。二貫目に手を伸ばさなかった。
「悪いなあ。もういいわ」
「お体の具合、悪いですか?」
「いや、そうじゃなくて。歯がもうねえんだ。すり潰すのがもう無理でよ」
かつての常連のそんな姿を見て、俺は居たたまれない気持ちになった。
「もう寿司は無理だな。ま、今日は顔見に来ただけだ。元気でやってるならいい」
大西さんは代金を置いて、俺が引き止める間もなく立ち上がった。のれんが揺れて、寂しげな背中がゆっくり消えていった。
カウンターの上に、手をつけられなかった寿司が残っていた。俺はなんとなく、それをすぐに片付けられなかった。客が満足に食べられるものを俺は出すことができなかった。そのことが、こんなに情けないことだとは。
気づいたら、しほさんが俺の後ろに立っていた。
「大将、少し休憩しましょうか」
「そうします」
のれんを下ろして、俺はカウンターに座った。しほさんは、さっきから大西さんが出ていった引き戸を見ていた。
「大将、さっきずっと大西さんの口元を見ていましたね」
「見ていました」
「何か分かりましたか?」
「大西さんは、噛む力より飲み込む力の方が落ちていると感じました。歯のせいだと思っておられましたけど、多分違います」
「では、どうすれば」
しほさんはそこで口を閉じた。何かを言いかけてやめた。
「何か言いかけたでしょう。教えてください。あの人を満足させられる方法があるなら、聞かせてください」
しほさんはしばらく黙って、ゆっくり提案した。
「三つあります。一つ目は、しゃりの握りを緩くすることです。二つ目は、ネタに細かく切れ目を入れること。表から見えないように、見えない側に入れるんです。三つ目は温度です。冷たいものは飲み込みにくいので、人肌に近づけます」
俺は最後まで聞いて、首を横に振った。
「それは、俺の寿司のせいじゃありません」
「そうですね。聞いておいてすみません」
再び店に沈黙が訪れた。しばらくして、しほさんがぽつりと話し始めた。
「うちの母は、最後はほとんど噛むことすらできませんでした。食べたいものがあっても食べられないんです。見ている方は何もできません。食べたがっているのは分かるのに、すごくもどかしいんです。大西さんはまだ食べられます。飲み込みづらいだけなんです」
その夜は眠れなかった。翌日から、俺は朝早く起きて一人で寿司を握り始めた。緩く握ると確かに崩れる。硬くならないかつ崩れない、ギリギリの力加減を手のひらで探した。三日が過ぎ、四日目にやっと、口に入れると程よく解ける握りができた。ネタには、しほさんが言うように細かく切れ目を入れた。いわゆる隠し包丁だ。温度については最後まで悩んだ。完全に冷たい飯ではダメかと言って、温めすぎればネタの鮮度が落ちる。そこで、握る直前にしゃりを取り分けて人肌に近い温度まで置くようにした。しほさんに何度も味見をしてもらった。
問題は、大西さんをどうやって呼び戻すかだった。そんな時、ヒカルが鉛筆を持ってきた。
「僕、大西さんに手紙を書きます。大西さんの家、知ってます。直接渡しに行ってきます」
ヒカルが描いた手紙は、絵だけだった。新しいお寿司ができました。おじさんが何日もかけて作りました。僕もお待ちしています。ヒカルは自分でその手紙を届けに行った。それから二日後の昼過ぎ、のれんが揺れた。
「大西さん。お待ちしていました」
「押しかけてすまねんな」
大西さんはいつもの右から二番目の席に座った。俺は一貫目を出した時、言った。
「わさびは今日は抜いています」
「子供扱いするんじゃねえよ。俺は八十二だぞ」
「新しい握り方に合わせて、味を調整しているんです」
「まあいいや。食うよ」
大西さんが箸を手に取った。一貫目を口に入れて、ゆっくり噛んだ。三度目か四度目で、喉が一度だけ上下した。大西さんの箸が止まった。皿の上ではなく、空中で止まっていた。
「おい」
「はい」
「うまいな」
「はい」
大西さんは二貫目に手を伸ばした。三貫目も四貫目も、握るのが追いつかないほどだった。七貫目で、大西さんはやっと箸を置いた。そして、まっすぐ俺を見た。
「もう俺は寿司をうまく食えねえもんだと思ってた。三年だぞ。三年。寿司を諦めてたんだ。あんたが、俺にもう一回食わせてくれたな」
それを聞いて、俺は何も言えずに深く頭を下げた。店の奥で、しほさんがこちらに温かい目を向けていた。
その夜、店を閉めた後もしほさんはなかなか帰らなかった。カウンターの椅子に深く腰かけて、両手を膝の上に置いていた。
「大将、少し聞いてもらえますか? 私が看護の仕事で最後に担当していた方の話です。谷口さんという方でした。一人暮らしで、八十を過ぎていました。私は三年ほど通いました。だんだん飲み込む力が落ちて、食べられるものが減っていったんです。最後はおかゆになって、それも食べられるのが半分になって。谷口さんの楽しみが、一つずつ消えていきました」
しほさんはそこで一度だけ言葉を止めた。
「それでも、一つだけ何度もずっと同じことを言っていました。『あの店の穴子をもう一度食いたかった』と」
俺は動けなくなった。
「もう何度も何度も聞きました。私が行く度にその話をされるんです。どこのお店ですかと聞いても、名前は覚えていないようでした。ただ、商店街の外れの寿司屋だと。うちはのれんに『寿司』としか書いていませんから、それで気づかなかったのだと後で分かりました」
しほさんは天井を見上げて話を続けた。
「谷口さんが亡くなってから、私はその店を探しました。商店街を端から歩いて、寿司屋を見て回って。そしたら、外れのところに目立たないお店があって。のれんも書いていなくて、引き戸も閉まっていて。まさかここが、と思いました。あの雨の日は、その前の週に残っていた最後の面接に落ちた日だったんです。次の仕事の当てもなくなり、お金に余裕もありませんでした。それなのに、どうしてかその穴子が食べたくなったんです。私が食べても谷口さんの代わりにはならないのに、おかしいですよね。でも、あの人が最後まで食べたがっていたものを、一度でいいから味わってみたくて。だからあの時、『穴子はありますか』と」
俺は流し台に手を置いた。十年以上、俺はこの店を誰にも必要とされていないと思い込んでいた。それは違ったのだ。谷口さんという客が、俺の知らないところで俺の握った穴子をもう一度食べたいと言い続けてくれていた。俺は黙って一貫だけ穴子を握り、しほさんの前に置いた。
「これは、谷口さんが待ってくれていた分です」
しほさんは箸を持たなかった。手で取って口に入れた。ゆっくり噛んで味わって、それから顔を伏せた。肩が上下して、しばらく顔は上がらなかった。この人がこんな風に泣くのを見たのは初めてだった。涙で濡れた顔をあげて、しほさんが言った。
「すごく美味しいです。ありがとうございます」
春になって、ネタが桜鯛や初鰹に変わった。ヒカルは小学五年生に上がった。ある日、ヒカルが開店後の店に残って俺の前に立った。
「おじさん、教えてください」
「何をですか?」
「お寿司です。握りたいんですか?」
「はい」
俺は少し考えて、米びつの蓋を開けた。
「では、まずはこれからです」
「お米ですか?」
「ネタを触るのは、ずっと先です」
ヒカルは一切不満な顔をしなかった。「分かりました」と言って、袖をまくった。翌朝から、ヒカルは学校へ行く前に店へ修行に来るようになった。米の研ぎ方は、俺も仙台に厳しく仕込まれた。手のひらで押さずに、指を立てて水を回す。力を入れると米が割れる。割れた米が混じると、しゃりの食感が濁る。
「もう少し軽く」
「はい」
「音を聞いてください。米が擦れる音がしたら、それは力が強すぎます」
「音ですか?」
「はい。手の食感より、耳で聞いた方がよく分かります」
「大将もこうやって仙台に教わったんですか?」
「そうです。この場所で、同じことを言われました」
「怒られましたか?」
「よく怒られました。とても厳しかったです」
修行を始めて三日目に、ヒカルの手が明らかに変わった。
「筋がいい」
そう言ってから、俺の方が固まった。自分の口から出た言葉が信じられなかった。俺は人をあまり褒めたことがない。耳が熱くなった。ヒカルは「はい」とだけ言って、すぐ作業に戻った。その夜、しほさんが洗い場で聞いてきた。
「大将、今朝ヒカルに何か言ってくださいましたか?」
「何かと?」
「あの子、なんだかずっと機嫌が良くて」
「米の研ぎ方の話をしただけです」
「そうですか。あの子、褒められると黙るんです。嬉しくないんじゃなくて、どう言えばいいか分からないだけで」
「知ってます。俺も同じですから」
春は一段と忙しかった。折り詰めの注文が重なって、夜通し詰めた日が二日もあった。四月に、ヒカルのクラスで授業参観があった。
「ええ、授業参観ですか?」
「はい。でも、私はその日、市役所へ書類を出しに行かないといけなくて」
「では、俺が学校へ行きます」
そう言ってから、自分でも驚いた。しまった、と後で俺は心の底から思った。寿司屋の頑固な親父がスーツを着て小学校の教室にいる姿なんて、想像もつかない。俺は「冗談だ」と言おうと口を開きかけた。
「ありがとうございます。ヒカルが喜びます」
しほさんの嬉しそうな表情に、俺の言葉はかき消された。自分から言ってしまった以上、今更やめるとは言い出せなかった。
当日、俺は仕込みを途中で中断してそのまま学校へ行った。教室の後ろに保護者が並んでいた。母親が十五人ほどで、父親が二人。その中で、俺だけが店の白衣だった。ヒカルは前を向いたまま、耳を赤くしていた。教室の後ろの壁に、子供たちの作文が張ってあった。その中にヒカルの作文を見つけた。
「題名は『お店の手伝い』だった。おじさんに米の研ぎ方を教わっていること。水で手が冷たいけれど平気なこと。おじさんは寿司を握るのがとてもうまいのに、話すのは下手なこと。最後の一行だけ、字が少し大きかった。『僕はあの店の子みたいになってきました』」
俺は作文の前でしばらく動けなかった。
四月の半ば、閉店後にヒカルがどこか思い詰めた顔で、ゆっくりと話しかけてきた。
「おじさん、あの」
「どうしました?」
「最近、母さんが休みの日にどこかへ行ってるんです」
「はあ」
「買い物ではなく。不動産屋さんです。二回見ました」
ヒカルの話では、アパートの更新が六月に来る。大家から家賃を上げると言われたらしい。しほさんは店で一度もその話をしていなかった。
「このこと、今井さんには聞かないでおきますね」
「はい。言わないでください。僕が心配してるって知ったら、母さんに悪いです」
小学生の子が、そんな心配の仕方をするものなのか。俺は次の日、商店街の豆腐屋の主人に聞いてみた。この人は商店街で長く役員をやっていて、アパートの空きのことなら全部知っている。
「え、それならうちの上が開いてるよ」
「ここの二階ですか?」
「ずっと物置きにしてたんだ。でもさ、使わないまま置いとくと家が痛むんだよな。うんと安くしとくよ。人が住んでくれる方が、こっちも助かる」
話はあっという間に決まった。店に戻ってしほさんに伝えると、しばらく黙ってから「じゃあ、直接お礼を言ってきます」と言って出ていった。戻ってきた時には、目が少し赤かった。
その夜、店を閉めた後だった。しほさんは先に帰った。豆腐屋の二階を見せてもらう約束があるとかで、ヒカルを店に残して出ていった。ヒカルはいつもと違って、宿題をやっていなかった。鉛筆も持たず、ノートも開かず、ただ座敷に座っていた。
「おじさん」
「はい」
「僕がいなかったら、母さんはもっと働けていたと思います」
俺は皿を洗う手を止めた。水を止めて、のれんで手を拭いて、ヒカルの方を向いた。
「どうして、そう思うんですか?」
「面接にいっぱい落ちていました。『こずれです』って母さんが言うと、みんな顔が変わるんです。僕、外で待ってる時もあったけど、結構聞こえるんです。それで帰り道に、母さんが『大丈夫だよ』って笑うんです。毎回毎回。全然大丈夫じゃないのに」
ヒカルの声がそこで一度震えた。
「僕がいなかったら、母さんは」
俺はかける言葉を一生懸命探した。だが、この子が抱えているものを軽くしてやれるような、うまい言い方は何も浮かばなかった。だから、本当のことだけを言った。
「ヒカルがいたから、お母さんはこの店で働けたんです」
「え?」
「あの雨の日を覚えていますか? あの時、ヒカルが今井さんの裾を引いて『帰ろう』と言いましたね。あれを聞かなかったら、俺はヒカルたちを招き入れていません。『今日はもう終わりです』と言って、そのままのれんを閉まっていました。だから、ヒカルがいなかったら二人はうちに入っていません。ヒカルがいない方が今井さんが他で働けたかどうかは、俺には分かりません。でも、少なくとも今この店で働いているのは、ヒカルがいたからです」
ヒカルが声を上げて泣き始めた。感情をあらわにして、遠慮なしに泣いた。俺は座敷の縁に腰を下ろして、隣に座った。何も言わずに、泣き終わるまでそこにいた。
季節は巡り、七月に入ってネタが穴子や浜茹でに変わった。商店街では毎年恒例の祭りの支度が始まった。祭りの二日間、店の前にはいつにも増して長い列ができた。
「去年ここで食べたんだよ。うまかったから、祭りの時来ようって家族で決めてて」
俺がひたすら寿司を握り、ヒカルが客をさばいた。ヒカルの接客は、もうすっかり大人顔負けになっていた。
「四人でお待ちの方、ご案内します」
「カウンターは二名ずつでお願いします」
しほさんは奥の隅で作業をしていた。お年寄り用の寿司の仕込みだった。大西さんは定期的に店に来るようになっていた。
「大将、今日はさすがに柔らかくしすぎじゃないか」
「この前、噛みにくいと言っていたでしょう」
「言ったけどよ、加減ってもんがあるだろう」
「大西さん、今日は絶好調ですね」
「うるせえや」
軽口を言いながら、この人は毎回腹いっぱいまで食べて帰る。
祭りの片付けの日、しほさんとヒカルが引き戸の紙を張り替えた。新しい紙に書いた内容は、前と全く同じものだった。安いものから順に品と値段。最後の一行も同じだ。「一貫からどうぞ」。俺は中から、二人を見ていた。二人が並んで作業している光景が、すごく幸せそうに見えた。
駅前の弟子の店の噂が聞こえてきたのも、その夏のことだった。
「あそこ、全然人が残ってないらしいよ。店主が一人でやってるって。もう閉めるんじゃないかって話だ」
「そうですか」
弟子の直樹は、ここに十二年いた男だ。中学を出てすぐうちへ来て、仙台に仕込まれて俺の隣に十二年立っていた。年賀状の束を持ち出された時は、怒鳴りに行こうかと思った。だが、俺は行かなかった。言っても、言うことがなかったからだ。
秋がやってきた。戻り鰹が入り始めて、雨の日が増えた。しほさんとヒカルがここに来てから、もうすぐ一年になる。その日も強い雨だった。夕方の五時前、俺が表に出ると、店の前に男が立っていた。傘を刺していなかった。髪が雨で濡れていた。痩せていて、頬がこけている。それでも、俺はすぐに分かった。
「大将」
「どうしたんだ? 傘も刺さずに」
「俺、店を畳みました」
「そうか」
「先月のことです。片付けが今日終わりました。もう一度、ここで使ってください」
直樹は雨の中で頭を下げた。深く、長く下げた。俺はその場で動けなくなった。頭では分かっている。直樹の腕が確かで、即戦力になる人材だということも、間違いなく店がもっとうまく回るようになることも。だが、そう簡単に受け入れることはできなかった。年賀状の束を持って出ていき、自分の店を構えた男。うちの客を奪っていった若い直樹の姿が、目の前の痩せた男と重なる。そして何より、この一年、しほさんとヒカルがどれだけ精一杯この店を支えてくれたか。この一年の二人の姿が、まるで走馬灯のように脳裏に流れた。
「すまないが、すぐに返事はできない」
俺はようやくそれだけを絞り出した。直樹は顔をあげず、雨に濡れた地面を見つめたまま頷いた。
「はい、当然です。無理を言ってすみません」
それきり、二人の間に雨の音だけが冷たく響いた。その夜、店を閉めた後、俺はカウンターの隅に座ったまま動けなくなった。しほさんは何も言わずに、茶をそっと俺の前に置いた。
「大将、お疲れですか?」
静かな声だった。俺は湯呑みを見つめたまま言った。
「直樹が、出ていった弟子が、ここに戻りたいと言ってきました」
「そうですか。大将は何て言ったんですか?」
「今日は返しました。明日また来るようにと」
しほさんは少しだけ視線を落とし、それからまっすぐ俺を見た。
「大将は、どうしたいんですか?」
俺は一つ呼吸を置いて答えた。
「あいつがいれば、店は助かる。それは分かっています。でも、過去のことを簡単には許せません。それに、一年今井さんたちがこの店を支えてきてくれたことを考えると、出戻ってきた直樹を簡単に受け入れるなんて」
しほさんはゆっくりと首を横に振った。
「私は大将の決めたことなら、何でもいいんです。だから、私たちのことは考えないでください。でも、一つだけ。そのお弟子さんは、ずっとこの店で仙台の背中を見てきた方なんですよね。だったら、大将にとっても弟みたいなものだったんじゃないですか」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。しほさんの目は、どこまでもまっすぐだった。
「私がどう思うかではなく、大将がどうしたいかです。この店をどうして行きたいか、それだけを考えてください。このお店が良くなることが、私の喜びでもあります」
その夜、俺は一睡もできなかった。暗い天井を見つめながら、仙台の顔が浮かび、直樹の顔が浮かび、そしてしほさんとヒカルの顔が浮かんだ。
翌日、約束の時間よりも少し早く、直樹が引き戸を開けた。店に入ってきた直樹に、俺はゆっくりと近づいた。
「直樹、ここに座りなさい」
俺はカウンターの席を指した。直樹は戸惑いながらも、一番端の席に腰を下ろした。俺はまっすぐ直樹の目を見て、静かに一言ずつ噛みしめるように言った。
「昨日、すぐ返事ができなくて悪かった。直樹、戻って来い」
直樹の肩が、ふっと大きく震えた。唇を噛みしめて、溢れそうになる何かをこらえているのが分かった。
「ありがとうございます。本当に、すみませんでした」
やっとの思いで絞り出した直樹の声は、かれて小さく震えていた。失われた時間は戻らない。一度できた溝がすぐに消えるわけではない。それでも、同じ仙台から学んだもの同士。互いの得意も不器用さもよく知っている。唯一の仲間だった。その週から、直樹はうちに立った。
常連の何人かは喜んだ。
「おお、戻ったのか。よかった、よかった。なんだか昔に戻ったみたいだなあ」
昔の店を知っている人たちだ。悪気はない。ただ、その言葉をしほさんの前で言うので、俺は落ち着かなかった。しほさんは笑って茶を出していた。ヒカルは直樹に容赦なかった。
「土田さん、そこ、吹き残しがあります」
「いや、ちゃんと吹いたよ」
「吹けてないです。角のところに水が溜まってます」
「見えねえだろ、そんなの」
「おじさんは、角からしっかり吹けって言います」
直樹が言い返せずに、のれんを持ち直した。カウンターの常連が笑った。
「なあ、お前、子供に叱られてるぞ」
俺は隣で寿司を握りながら、笑うのを我慢するのに苦労した。直樹の腕が相変わらず確かだった。直樹が入っただけで、店の回り方が明らかに変わった。仕込みが昼前に終わる。混む時間に俺が握りだけに集中できる。切り付けの手が早くて、無駄がない。十二年の積み重ねは、嘘ではなかった。
直樹はしほさんに対しては、丁寧だった。丁寧すぎた。必要なこと以外は話さない。明らかに距離感を測りかねているのが、端から見ても分かった。
ある日、しほさんの方から直樹に話しかけた。
「土田さん、お昼は召し上がりましたか?」
「もう済ませました」
「私、何か簡単なもの作りますよ」
「結構です」
「はい、分かりました」
直樹が帰った後で、しほさんが言った。
「土田さんの手つき、仙台に似ているんですね」
「今井さんは、仙台を見たことがないでしょう」
「はい。でも、大将が時々あの方の手をじっくり見ていますから」
俺は黙り込んだ。その通りだ。あの男は中学を出てすぐ仙台に拾われて、仙台の手を毎日見て育った。俺が家を出ていた間、あいつは仙台の隣にいた。
直樹が入って、店の手が足りるようになった。忙しい時間でも客を待たせなくなった。だが、その分、しほさんの仕事が減った。誰も意地悪はしていない。しほさんを追い出そうとしているわけでもない。ただ、店に余裕ができてしまった。それだけのことだった。その頃から、次第にしほさんが早く上がる日が増えた。
「今日は、もう大丈夫そうですね」
「はい。そうですね。では、上がらせていただきます」
引き止める理由がなかった。手は足りている。それは本当だ。ヒカルが洗い場から俺を見ていた。何か言いたそうな顔だった。俺は目を合わせられずに、下を向いて包丁を拭いた。しほさんがもしこの店を去ってしまったら。そう考えた瞬間、手が止まった。前より店も盛況で、これ以上ありがたいことはない。それなのに、何かが足りない。
十一月の初め、しほさんの携帯に電話が入った。しほさんは俺に断ると電話に出て、丁寧に挨拶を言って切った。顔色はいつもと変わらなかった。だが、しほさんが仕事中に電話を取ることは珍しかった。
「何か急ぎの要件でしたか?」
「すみません。私が仕事を応募している介護の事業所からです。面接の日の連絡でした」
「応募?」
「はい。この町にもうすぐ新しい施設ができるんです。新規でスタッフをたくさん募集していると見まして」
突然のことで、俺は驚いて包丁を置いた。
「介護の仕事で、ということですか?」
「そうです。正社員で。幸い、私は経験もありますので」
その日から、しほさんはいつも通りに働いた。数日後の閉店後、しほさんが俺の前に立って、改まっていった。
「大将。来月で、ここをやめさせてください」
俺は何も言えなかった。考えないようにしていた時が、今起きてしまった。だが、しほさんにはヒカルがいる。この先もヒカルはどんどん進学する。母親として、どの選択が正しいかは考えるまでもない。それに、息子のことになると、おそらくこの人は一度も引かない。
「分かりました」
そうとしか言えなかった。しほさんはゆっくりと一度頭を下げて、言葉を続けた。
「私、ここに来てからちゃんとご飯が食べられるようになりました。あの雨の日は、今後のことも分からなくて、本当に不安だったんです。それが、ここに来てからヒカルが毎日生き生きとしていて。私も資格を生かしてお店の役に立つことができて、本当に幸せでした。全て大将のおかげです。本当に、これまでありがとうございました」
この人はいつもそうだ。感謝の言葉をはっきりと口に出して言う。俺は最後まで聞いて、ただ頷いただけだった。
その夜、俺は仙台の包丁を出して研いだ。砥石に当てると、いつもの角度に落ち着く。奥ののれんが動いて、直樹が顔を出した。まだ帰っていなかったらしい。
「大将、何かありましたか?」
「いや」
「今井さんの様子も、なんか」
「大丈夫だ」
直樹は少し立っていたが、そのまま裏へ引っ込んだ。砥石の水が乾いていく。刃を持ち上げて、明りに当ててみた。仙台は俺に何も言わなかった。外では褒めていたのに、俺には一度も言わなかった。俺はそれを、恨みにも似た気持ちで抱えてきた。
今、俺がやっていることは何なのか。いて欲しいと思っている人に、何も伝えない。それは、あの人がやっていたことと何が違うのか。俺がやるべきことの答えは、出ていたはずだった。
翌日の夜、のれんを下ろした後で引き戸が開いた。そこには、ヒカルが一人で立っていた。息が上がっていた。
「ヒカル、どうしました?」
「おじさん、母さんに何か言ってください」
俺は持っていたのれんを置いた。
「何かって?」
「この店をやめないでって、言ってください」
「いや、今井さんはちゃんとした仕事に着くんです。その方がいいんです」
「母さん、本当は残りたいんです」
「そう言っていたんですか?」
「言いません。母さんは、そういうことは言いません。母さん、家で泣いてたんです。このお店で働くの、すごく楽しかったって。今までで一番楽しかったって」
俺は何も言えなかった。もうすっかり綺麗に拭いた場所を、何度も何度ものれんで拭いた。
「ヒカル。俺はあまり人を褒めたことがありません。生まれてから今まで、ずっと口下手なんです。前にヒカルに『筋がいい』と言いましたね。人をまともに褒めたのも、あれが最初でした。弟子の直樹のことも、本当は腕を買っているのに、褒めてやれなかった。一度だって。だから、今井さんになんて言えばいいかも、全然分からないんです」
子供相手に、いい大人が情けない話をしているのは分かっていた。それでも、これが本当のことだった。その時、奥ののれんが動いた。そこには直樹が立っていた。いつからそこにいたのか分からない。
「直樹、いたのか」
「すみません。今の話、聞いていました。聞いてしまいました」
直樹はカウンターの端まで来て、椅子には座らずに立ったまま言った。
「俺、この店をなんで出てったか、話してませんでしたよね。十二年ここにいて、一度も言われなかったからです。『うまいぞ』って。仙台にも大将にもです。切り付けが甘いとか、しゃりが硬いとか、それは毎日散々言われました。それを直すたびに、また別のことを言われました。俺は一生認めてもらえないんだって、そう思いました。もし『うまくなったな』の一言があれば、俺はずっといたと思います」
直樹はそこで一度言葉を切った。それから、ゆっくり続けた。
「それと、もう一つ。仙台の葬式の時、俺は身内の席に座らせてもらえませんでした。決まりですから。でも、十二年ですよ。中学出てすぐここに来て、ずっと住み込みで働いて。正月も盆もここにいたのに。あの時、俺は最後まであくまで従業員だったんだと思いました。仙台や大将の家族みたいに思ってたのは、自分だけだったんだって。それともう一つ。俺、昔大将に三回言いました。『値段くらい書きましょう』って。最初は俺が二十三の時、次はその冬、最後は出ていく前の年です。三回とも、大将から返事はありませんでした。いいともダメだとも、言われなかった。俺、覚えていないですよね。だから、俺は出ていきました」
俺は記憶を探した。いくら思い出そうとしても、言われた覚えがなかった。俺は聞いていなかったのだ。褒めなかったどころではなかった。直樹が店のためにした提案を、俺はいつも聞いてすらいなかったのだ。
「覚えていないですよね」
店の中が、さらに静かになった。ヒカルが俺と直樹を交互に見ていた。
「直樹」
「はい」
「仙台は、俺を一度も褒めてくれなかった。でも、外では自慢してたって後から客に聞かされた。そんなこと、後から言われたって、どう受け止めていいか分からなかった」
直樹はしばらく何も言わなかった。それから、ぽつりと呟いた。
「同じですね」
「ああ、同じだな」
俺はぎゅっと拳を握りしめた。そして、息を大きく吸い込んで、口を開いた。
「直樹。お前の握る寿司はうまい。俺よりいい腕をしてると、本当に思ってる。今までちゃんと言ってやれなくて、本当にすまなかった」
直樹は俯いたまま、しばらく動かなかった。やがて、かれた声で言った。
「大将。俺、ずっとその言葉を待っていました」
おそらく直樹は泣いていた。俺は俯いていた。こういう時、どんな顔をしていいのか分からなかった。しばらくして、直樹が静かに言った。
「大将、今井さんのことも、いつまで待たせるつもりですか?」
俺はすぐに返事ができなかった。代わりに、ヒカルの頭をぽんと撫でた。
「直樹。明日、いつもより多めに米を炊いてくれ」
「え? 何をするんですか?」
「ちゃんと客の前で言うからさ」
「何を言うんですか?」
「ずっと言えなかったことを、全部だ」
翌日は土曜だった。俺は常連たちに電話をかけて、店に来てもらうよう頼んだ。昼になると、店に人が集まり始めた。少ない席はすぐに埋まった。しほさんを始め、豆腐屋の主人や、おやや、干物屋の夫婦も来てくれた。しほさんはその様子を見て驚いていた。
「大将、一体何の集まりですか?」
俺はのれんを出して、いつものように引き戸も開けたままにした。
「皆さん、今日はありがとうございます。すみません、少しだけ聞いてください」
店が静かになった。俺は直樹の方を見た。
「こいつは、うちの仙台の一番弟子です。名前は土田直樹と言います。中学を出てすぐにうちに来て、十二年仙台とここに立ちました。一時期自分の店を構えましたが、ここに戻ってくる選択をしてくれました。出ていったことは責めていません。全て俺の責任でした。直樹は、もう俺の家族です。今までも、これからもです」
直樹は動かなかった。動けなくなっていた。口を開こうとして、顎の辺りが震えていた。直樹がずっと欲しかったのは、腕前の評価だけではなかった。今まで俺がずっと言ってやれなかったことだ。
続けて、俺はしほさんの方を向いた。
「それから。あの人は、うちの店の女将です。今井さんです。昔ながらだったこのお店を、ここまで立て直してくれました。彼女の力添えがなければ、この店は今存在しません。段差の板も、品書きの工夫も、何もかもこの人のアイデアです。大西さんに喜んでいただいた一貫を考えたのも、この人です。直樹は腕があります。俺より早いし、とても正確です。今井さんには、お客さんに寄り添う心があります。二人とも、それぞれ役割が違うんです。だから、二人ともこの店には必要です。どうか、この二人をこれからもよろしくお願いいたします」
しほさんが何か言おうとして口を開いた。だが、何も言えず、両手で顔を覆った。客の誰かが鼻をすすった音がした。そして、誰からともなく店中に拍手が広がった。直樹が客に背を向けた。洗い場の方を向いて、腕で顔を抑えた。肩が大きく揺れていた。
「よく言ったな、大将。あの野郎、嬉しくて泣いてるじゃねえか」
俺は大西さんに頭を下げた。
「それから、今井さん。寿司のうまさ思い出させてくれて、ありがとう」
しほさんは何かを言おうとして、声がかれて出ないようだった。顔を手で覆ったまま、深く頭を下げて、そのまま泣き崩れた。ヒカルが座敷の隅に立って、口を一文字にしていた。泣くのを我慢している顔だった。俺と目が合うと、両手で顔をこすって下を向いた。
「皆さん、本当にありがとうございます。今日はこの店の再出発ということで、常連の皆さんにご馳走させていただきます。お好きなものを、お好きなだけ召し上がっていってください」
その後、カウンターの端から端まで注文の声が飛び交い、店内はあっという間に笑い声で包まれていた。その日の夕方、しほさんは奥で電話をしていた。長い電話ではなかった。戻ってきた時、しほさんはいつもの顔で、いつもの場所におしぼりを置いた。
「介護の仕事の件、お断りしました」
「はい?」
「引き続き、こちらでお世話になります」
「勝手を言って、すみません」
俺は自分の手に力を込め、それから顔を上げていった。
「提案なんですが。店として、その事業所に出向いて寿司を作るのはどうでしょう?」
「え?」
しほさんがまん丸と目を見開いた。
「配達は確かに難しいです。事業所の全員分の量の寿司を一気に作って届けるのは、鮮度の面でも味の面でも。だから、俺が施設の昼に合わせて出張して、その場で寿司を握る。今井さんには、いつものように手伝ってもらいたいんです。ここに来られない人にも、ぜひ新鮮な寿司を食べてもらいたいんです」
俺の言葉に、しほさんは言葉を失ったように口を閉じた。そして、深く深く頭を下げた。
「ありがとうございます。大将」
その声が、まっすぐ俺の耳に届いた。店に、また新しい風が吹いたような気がした。
その夜、客はいつもより早く引けた。次の日の仕込みも早くに片付き、直樹も帰った。ヒカルは表を掃除していて、店内には俺としほさんの二人になった。しほさんは洗い物を終えて、のれんを畳んでいた。俺は何も言わずに冷蔵庫を開けた。穴子を出した。いつも通り握って、皿に乗せて、カウンターの上に置いた。
「今井さん、どうぞ」
「大将、これは?」
「まあ、座ってください」
しほさんが椅子に手をかけて、それから座った。穴子の乗った皿を見ている。
「今日の〆ですか?」
「違います」
「では、何ですか?」
俺は一度息を吸った。
「今までの俺の、詫びです。店のことも、客のことも、この一年で俺は全部あなたに教わりました。分かった気になって、いい気になって。四十二になるまで、俺は何も知らずに、ここに立っているだけでした。俺を変えてくれたのは、しほさん。あなたでした」
俺は初めて、下の名前を呼んだ。
「大将。これから、時間をかけてそのお礼を俺からさせてください」
「いえ、お礼なんて。むしろ私の方こそ、ダメです。これだけの恩を返すには、時間がかかるんです。すごく長い時間が」
「だから、そのずっとここにいてください。俺の隣に」
しほさんはただ、何も言わずに俺を見つめていた。しばらく時間が過ぎた。俺はたまらず声をかけた。
「ネタが悪くなります」
「あ、はい」
しほさんは手を伸ばして穴子を取った。口に入れて、ゆっくり噛んだ。飲み込んでから、笑顔で口を開いた。
「すごく美味しいです。ありがとうございます。それから、あの、私でよければ、どうぞよろしくお願いいたします」
しほさんはそれから両手で顔を覆って、しばらくそのままでいた。俺は照れ隠しに茶を入れ直して、そっとしほさんの前に置いた。
翌朝、直樹が店に来た時、俺としほさんが同時に「おはよう」と言った。直樹がぴたっと足を止めた。
「二人とも、何かありました?」
直樹はニヤニヤとした笑みを浮かべたまま、尋ねてきた。
「何にもないですよ」
「へえ。そうですか」
「おい、早く準備始めるぞ」
しほさんが湯呑みを取ろうとして、手から滑らせた。湯呑みが床で割れた。
「すみません」
俺はしほさんに駆け寄って、二人で破片を片付けた。俺は破片を新聞紙に包みながら、口の端が少し上がっていた。
「大将、耳が赤いですよ」
「うるさい。大きい箒を持ってこい」
俺としほさんが出会ったあの雨の日から、早いもので六年が過ぎた。店は今も変わらず、商店街の外れにある。カウンターは八席のままで、座敷も一つのままだ。席は一つも増やしていない。のれんも変えていない。仙台の字で「寿司」とだけ書かれたまま、大切に使っている。だいぶ色が抜けたので染め直しの話も出たが、字はそのまま映してもらった。店を広げようかと考えた時期はあった。だが、結局俺は断った。店を広げれば、客一人一人に声をかけられなくなる。誰がその日どんな顔で入ってきたかを、しっかり見られなくなる。それができなければ、俺はこの店をやっている意味がない。
しほさんは正式にここの店の女将になった。客の名前とそれぞれの好みは、全部しほさんが覚えている。直樹は三年前に、二つ隣の町で再び自分の店を出した。俺の店と同じくらいの規模の小さな店だ。値段は、うちのように引き戸に大きく書いてあると聞いた。店を出すと聞いた時、俺は直樹にのれんを送った。布切れだが、自分が書いた「寿司」の文字だ。その文字を染め直したのを、直樹にそっと手渡した。
「よかったら、新しい店で使ってくれ」
直樹はのれんを大事そうに受け取り、何も言わずに深く頭を下げて出ていった。直樹の店の引き戸には、俺が描いたそののれんが、風に揺れているという。年に一度だけ、直樹はうちに来る。のれんをくぐって、カウンターに座って、一貫だけ食べて帰る。その時、何を握るかは俺が決める。
「ごちそうさまでした。大将」
「また来なさい」
それだけの会話を、毎年している。
大西さんは、去年の冬に旅立った。最後の何年かは、月に一度必ず来てくれていた。葬式で息子さんに言われた。
「親父は、最後まで大将の店の話をしていました」
ヒカルは十六になった。もう立派な高校一年生だ。学校が終わると店に来て、白衣に着替える。背が俺と変わらなくなった。声もすでに低い。あの座敷の隅で静かにしていたのと同じ子だとは、久しぶりの客には分からないだろう。白衣の名札は、俺と同じ「平田」になっている。
ある日の閉店後、ヒカルが真剣な顔で俺に言った。
「最初、提案があります」
「どうした? 改まって」
俺は片付けの手を止めた。
「新しいメニューを作りたいんです。うちの店に、小さなお子さんや家族のお客さんをもっともっと呼び込むために」
ヒカルはノートを広げた。そこには、子供の目線で考えられたアイデアがずらっと並んでいる。
「これです」
ヒカルが指差したのは、「お子様ランチ」という文字だった。お寿司屋さんのお子様ランチ。小さな子がワクワクするような。
「分かってます。大将がこの店の伝統を大事にしているということは。この店にこういうものは合わないと思っているでしょう。でも、知って欲しいんです。子供たちにも、大将の寿司のうまさを。あの日に大将が握ってくれたカツオの寿司が、僕の人生を変えたと思ってます」
ヒカルの真面目な物言いに、俺は思わず吹き出した。寿司屋にお子様ランチ。確かに、昔の俺なら絶対に首を横に振っていただろう。隣にいるしほさんと目が合うと、二人して笑ってしまった。
「いいな、これ」
俺は素直にそう言った。
「本当ですか?」
「うん、いいんじゃない? ちょっとやってみようよ」
「うん、面白い。早速、試作してみようか」
「ありがとうございます」
ヒカルは笑顔で頭を下げ、すぐに真剣な顔つきになって俺の目を見た。
「それから、大将。そろそろ、僕にも寿司を握らせてください。もう、五年もやってます」
「五年か」
俺は仙台の包丁を出した。砥石で刃をといでから、ヒカルに包丁を渡す前に、自分の手を一度だけ見た。これをヒカルに引き継ぐ時が来たのだ。包丁と、長年培ってきたこの仕事の全てを。
「まずは、これを持ってみなさい」
「これ、仙台のですよね」
「そうだ」
ヒカルが唾を飲み込み、両手で丁寧に受け取った。刃を寝かせて、角度を確かめている。
「なんか、勝手に傾きますね」
「研ぎ癖だ。仙台の癖だ」
「仙台の癖ですか? 俺が研いだんじゃない。包丁自身が覚えてるんだ」
ヒカルは包丁を握り直して、しばらく黙っていた。仙台の癖が、今この子の手のひらに伝わっている。仙台はヒカルのことを知らない。それでも、この店で刃物を持つ人間の手には、思いと技は確かに伝わっていく。そうやって、受け継がれていくものなのだ。
引き戸の紙が風に煽られて、端から剥がれた。紙を拾って、しほさんが言った。
「新一さん、この紙、そろそろ変えましょうか?」
「ああ。じゃあ、書き換えてくれるか? 同じように」
しほさんが同じ言葉を、そのまま新しい紙に書き移した。安いものから順に品と値段。そして、お決まりの最後の一行。「一貫からどうぞ」。あの雨の日、初めて書かれた言葉だ。あれから紙は何度も張り替えた。だが、書いてある言葉だけは、一度とも変えていない。
仙台の文字が染みついた古いのれんをそっとくぐり抜ける。温かな店内の明かりが、外の空気をふわりと溶かしていく。明日からも、カウンターの向こうにはいつもと変わらぬ客の笑顔があるはずだ。あの雨の日に、全てはここから始まった。雨に濡れて立っていたしほさんとヒカル。あの日の小さな出会いが、この店の全てを変えてくれた。もしあの時、二人を追い返してしまっていたら。もしあの時、温かい一貫を差し出していなかったら。今のこの温かい景色は、きっと。いや、絶対に、なかったはずだ。
店の中から、しほさんの軽い足音が聞こえてきた。
「新一さん、もうのれん、入れましょうか」
「ああ、お疲れ様。今日もありがとう」
「いいえ、こちらこそ」
しほさんは引き戸から、空の月を見上げていった。
「明日も、きっといい日になりますね」
そう言って、ふわりと優しく微笑んだ。仙台が残してくれたこの小さな店は、今日も静かに温かな明かりを灯し続けている。扉を開ければ、いつでもうまい寿司とみんなの笑顔が待っている。そんな場所がここにあるということが、何よりも愛しく思えるのだった。商店街の外れの、この小さな店で。俺たちはこれからも、ひたすらに寿司を握り続けていく。



