年金通知書が届いた日の夜、柴田直美は台所の蛍光灯の下でそれを何度も読み返した。手が震えていた。震えているのに、自分でも気づくまでに少し時間がかかった。
人は誰でも、老後というものをどこかで安らかに落ち着く場所だと思い込んでいる。若い頃にどれだけ苦労しても、どれだけ節約しても、最後には国が用意してくれた制度の網の目の中に、ちゃんと受け止めてもらえると信じている。しかし、その網に大きな穴が開いていたとしたら――しかも、その穴に気づくのが、もう後戻りできない年齢になってからだったとしたら。
直美が直面したのは、まさにそういう現実だった。
2026年6月、直美は61歳だった。背が低く、痩せた体型で、いつも髪を後ろで束ねていた。白髪が増えてきたが、彼女は染めることにあまり関心がなく、そのままにしていた。不安を感じると、両手の親指を互いに押し当てて、小さく擦り合わせる癖があった。
彼女は地元のクリーニング店でパートとして働いていた。週5日、午前9時から午後3時まで。仕事の内容は洗濯物の仕分けとプレスが中心で、夏場はアイロンの前で汗だくになることもあった。それでも文句は言わなかった。
夫の克郎は64歳だった。配送ルートの管理を兼ねた契約ドライバーとして、物流センターで長年働いていた。口が悪く、声が大きかった。吸っているのは安い銘柄のタバコで、1日に20本を超えることも珍しくなかった。左手首には、10年以上前に買った古い機械式の腕時計をしていた。
その年の6月、2人はある計画を温めていた。克郎が翌年の早い時期に正式に退職し、2人でキャンピングカーを使って日本中を旅するというものだった。中古なら150万円台から手が届くものもある。直美のパート収入も当面続ける予定だった。
旅の話をする時、克郎はいつもより少しだけ口数が増えた。北海道の丘陵、山陰の海岸、四国の遍路道。行ったことのない場所を地図上で指差しながら話す彼の横顔を、直美は眺めていた。こういう顔をする人なんだ――そう思った。
その計画が、1枚の封筒によって根底から揺らぐことになる。
6月の第3週、水曜日の夕方。直美はクリーニング店のパートを終えて帰宅した。郵便受けに、電気料金の明細とチラシ、そしてもう一通、赤い封筒があった。差出人は、聞いたことのある地方銀行だった。宛名は、克郎の名前。
赤い封筒というのは、普通の知らせではない。速達か、督促か。長年の生活経験で、直感として分かった。
台所に入り、封筒を開けた。最初の数行を読んだ時、内容がすぐには頭に入ってこなかった。もう一度最初から読んだ。今度は意味が分かった。それでも信じられなかった。手が小刻みに震えた。老眼鏡がずり落ちて床に落ちた。
そこに書かれていたのは、克郎名義の滞納した借入金の残高と、返済を求める通告だった。金額は直美には大きすぎて、一度では飲み込めなかった。しかも、担保物件という欄に、2人が住んでいる家の住所が記されていた。
克郎が帰ってきたのは、夜の7時を過ぎた頃だった。靴を脱ぎながら「飯は?」と言いかけて、台所の明りの下にいる直美の顔を見て、足が止まった。
テーブルの上に、封筒と書類が広げてあった。
「これは何?」
直美が静かに問うた。克郎はタバコに火をつけ、「ちょっとした話だ」と言って、灰皿に灰を落とした。
弟の聡が、会社の資金繰りに詰まった。不動産仲介の会社をやっているが、今年の前半に物件が動かなくなって、銀行からの融資も降りなかった。それで克郎に頼んできた。この家を担保に入れてやれば融資が通る。数ヶ月で返すという話だった。
「いつのこと?」
「去年の秋だ」
「なぜ話さなかったの?」
克郎はタバコの煙を吐いてから、「うるさくなると思ったから」と言った。
低い、しかし硬い沈黙が台所に落ちた。克郎は書類を指ではじきながら、「来年には俺の退職金と毎月の年金が入る。2人分で計算したら返せる。弟は3ヶ月で立て直せると言っていた」と続けた。声に苛立ちが混じっていた。なぜ大騒ぎする必要があるという態度が、全身から出ていた。
その夜、克郎は風呂に入り、ニュースを見て、11時前には眠った。普段通りだった。いびきが廊下まで届いた。
直美は眠れなかった。台所の明かりをつけずに、スマートフォンの画面だけを頼りにテーブルに座っていた。退職金と年金、2人分で返せる。直美には計算がどうしても合わない感覚があった。
夜中の12時を過ぎた頃、彼女は年金ネットにアクセスすることを思い出した。克郎のマイナンバーカードは引き出しに入っている。これは盗みだとは思った。しかし、今夜、「数ヶ月で返せる」という根拠を自分で確かめなければ、この先眠れないとも思った。
ログインできた。加入記録が表示された。直美はスクロールしながら、目を追った。克郎が30代の数年間、フリーランスで仕事をしていた時期があることは知っていた。しかし、国民年金の未納期間がそこまで長いとは思っていなかった。画面には、5年以上にわたる空白が記録されていた。
それだけでも十分に重大な数字だったが、直美がさらに調べると、もっと深刻なことが分かってきた。老齢基礎年金の受給に必要な加入期間は満たしているが、加給年金額の条件として求められる厚生年金の加入期間が足りていなかった。
2人で老後の生活設計をする上で、直美がずっと前提として頭に入れていたあの上のセ――夫婦で受け取るものとして資産に組み込んでいたそのお金が、もらえない。
直美はしばらく画面を見たままでいた。スマートフォンを伏せた。暗い台所の中で、両手を膝の上に乗せた。親指がもう一方の親指の腹を抑えていた。強く握りすぎて、少し爪が刺さっていた。
声を出さずに泣いた。肩が動いていたが、音はなかった。克郎のいびきだけが、廊下の奥から規則正しく聞こえていた。
夜が明けるまで、直美は一度もベッドに戻らなかった。
翌朝、直美は克郎に言った。
「あなたの年金ネットの加入記録だ」
克郎の顔つきが変わった。柔らかくなったのではなく、反対に硬くなった。書類を手に取り、目が文字を追っている間、口元が少し動いた。そして、書類をテーブルに戻し、腕を組んだ。
「それで?」
声は平坦だった。
「加入期間が足りない。加給年金がもらえない」
克郎の顔が赤くなった。段階的ではなく、一度に。
「国が間違えたんだろう。昔の記録なんかいい加減なもんだ。俺がちゃんと払ってたのを、向こうが記録し忘れてるだけだ」
声が上がり始めた。
直美は静かに言った。
「30代のフリーの時期に、5年以上国民年金を払っていなかった。それは記録の誤りではない」
克郎は椅子を引いて立ち上がり、テーブルを手のひらで叩いた。大きな音がした。
「そんなことをいちいち掘り返してどうするんだ? もう今更どうにもならないだろう」
直美は声をあげなかった。あげなかったのは、怒っていないからではない。怒りが冷たく固まって、喉のところで止まっているような感覚だった。
その日のうちに、2人は年金事務所へ行くことになった。克郎が「じゃあ、行って確かめてやる」と言い出したからだった。
事務所の窓口で、40代と思しき女性の担当者がデータを確認した。しばらく画面を見てから、事実確認として画面の内容を口頭で読み上げた。
「該当期間の国民年金の納付記録はない。これは記録の誤りではなく、納付がなかったことを示しています」
克郎は机の角を指で擦りながら、それを聞いていた。
「当時は仕事が安定してなかった。そういう時期もあるだろう」
担当者は頷いた。
「そういった方は多くいらっしゃいます。ただし、受給資格への影響は覆せない。追納が可能な期間も、すでに過ぎています」
担当者が丁寧に説明を続けた。加給年金の要件として、厚生年金の加入期間が一定以上連続していることという条件がある。克郎の場合、30代のフリー期間がその条件を満たさないため、配偶者に対する加給年金の加算が適用されない。毎月の年金額そのものも、未納期間の分だけ減額となる。数字が出た。直美が試算していた数字と、ほぼ一致していた。
帰り道、2人は並んで歩いた。克郎は何も言わなかった。タバコを出して火をつけ、歩きながら吸った。信号待ちの時、克郎がぽつりと言った。
「加給年金が出ないなら、毎月の計算が全然違ってくるな」
直美は頷いた。頷いてから、自分がなぜ頷いたのかよくわからなかった。
それから1週間が経った。2人の間の言葉は、必要最低限だった。メニューのこと、天気のこと、テレビに映っている人のこと。実質的なことは、何も話さなかった。
そして、ある朝。克郎が聡に電話をかけた。直美は台所で朝食の後片付けをしながら、廊下から漏れてくる克郎の声を聞いていた。最初は普通の声だった。しかし、克郎の声のトーンが変わった。
「どういうことだ?」
少し経ってから、「おい、もう一度言え」と言った。
直美は手を止めた。沈黙が続いた。それから、低い声で何か言った。それきり、声がしなくなった。
しばらくして、克郎が台所へ入ってきた。顔色が白かった。椅子を引いて座ったが、すぐには何も言わなかった。
「聡が会社を潰した」
声が低くて、感情が抜けていた。
「正式に倒産の手続きをして、連絡先も変えて、今はどこにいるかわからない」
直美はその言葉を聞きながら、体の中でゆっくりと何かが落ちていくような感覚を覚えた。驚いていないわけではなかった。しかし、驚く以上に、やはりそうかという感覚があった。
「借金は?」
克郎は机の上に両肘をついて、額に手を当てた。
「担保の家に来る」
翌週、銀行から書留が届いた。今度は厚みのある白い封筒だった。中には数枚の書類が折りたたまれていた。内容は明確だった。担保物件の競売手続きへの移行通告。一定の期日までに返済または任意売却の意思を示さなければ、法的手続きに入るというものだった。
直美は書類を広げたまま、テーブルの端に座った。部屋の中を見回した。引っ越してきて30年近く経つ。子供が生まれて、ここで育ち、受験があり、葬式があり、今は2人だけになった。壁の古い染みも、台所の窓枠の歪みも、全部知っている。この家が他人のものになる日が来るかもしれない。その現実は、言葉で聞いているのと文書で通告されるのとでは、重みが違った。
8月に入った頃、克郎の会社で会議があった。物流業界は複数の問題が重なっていた。ドライバーの高齢化と退職による人手不足、燃料費の高騰、そして自動化設備の導入コストが収益を圧迫していた。
全体会議で、人事部長が立って話した。内容は、管理職層の早期退職優遇制度の導入と、一部ポジションの契約見直しだった。言葉は柔らかかったが、聞いている全員には分かった。ターゲットは誰か。克郎のような、年齢が上で職務が現場寄りで、デジタルシステムの扱いに慣れていない人間だ。
直美は聞いた。
「乗らなかったら?」
克郎は答えた。
「乗らなかったら、ポジションを変えられるか、自然に追い出されるかだ」
結論が出るまでに3週間かかった。会社側は、克郎のポジションを外部委託システムへ移行することを決定した。克郎に対しては、希望退職の適用ではなく、契約終了という形を取ると通知が来た。退職金に相当する金額は、規定の3分の1程度だった。
克郎がその書類を持って帰ってきた夜、直美は何も言わずに玄関に立った。克郎は封筒を差し出した。直美は受け取って中を確認した。一通り読んで、封筒を閉じた。克郎は靴を揃えずに廊下に上がり、作業着のまま洗面所へ消えた。水の音がした。
直美は台所に入り、夕食の準備を続けた。包丁を持った時、手が少し震えていることに気づいた。気づいたからと言って、何かが変わるわけではなかった。
食事の間、克郎は箸をつけずにタバコに火をつけた。灰皿に灰が落ちて、食卓に細い煙が漂った。直美はそれを見ながら、注意をしなかった。注意する言葉を選ぶ気力がなかった。
9月に入った。直美は、自分が持っている唯一の個人資産のことを考え始めた。親の遺産として受け継いだ、地方の小さな土地だった。山間の集落にある農地として登録された区画で、市街化調整区域の指定を受けているため建物は建てられない。売るにも買い手が限られる。長年そのままにしてきたが、毎年固定資産税だけは払ってきた。
直美はパートの昼休みに、スマートフォンで業者をいくつか検索した。一件に電話をかけた。業者は少し調べてから折り返すと言った。翌日、電話があった。
「現状農地で調整区域、立地も不便という条件では、流通価格はかなり低いです。買い手を探すだけでも時間がかかります。ただ、今すぐ現金化するなら、買い取り業者に当たることはできます」
出された金額は、直美が銀行に返済を示すための手付けとして示せる金額として、ギリギリだった。
直美は一晩考えた。この土地を売るということは、両親が残してくれたものを手放すということだった。戻ってこない。もう二度と、その土地を自分の資産として使うことはできない。しかし、今の状況でこの家を失えば、それ以上のものがなくなる。
直美は翌朝、業者に折り返した。手続きを進めて欲しいと言った。
手続きに約2週間かかった。契約書にサインをして、手付金が振り込まれる日、直美は通帳を持って郵便局へ行った。確認すると、確かにその額が入っていた。両親の顔が頭に浮かんだ。すぐに打ち消した。今は感傷的になっている場合ではなかった。
その日の夜、直美は克郎に話した。
「実家の土地を売って、手付けを作った。銀行に任意売却の交渉を申し入れる。そのための資金だ」
克郎は黙って聞いていた。最後まで聞いてから、「分かった」とだけ言った。感謝の言葉はなかった。直美もそれを求めてはいなかった。ただ、少しだけ、このお金がきちんと使われるかどうかが心配だった。
直美がその異変に気づいたのは、手付金の振り込みから3日後だった。いつも使っている口座の残高を確認しようとして通帳を見た。残高が動いていた。直美が預金した後、さらに出金された記録があった。
直美は克郎に直接聞いた。克郎は最初、何のことだというような顔をした。しかし、直美が通帳を出して金額を指で示すと、表情が変わった。
「スマートフォンで見つけた投資の話だ。聡の借金を何とかするためには元手が必要だった。知り合いから教えてもらった仮想通貨の取引で、短期間2倍にできると書いてあった。入金してすぐに手続きをした」
「それは詐欺だ」
「まだ分からない。手続き中だ」
直美はカ郎の顔を見た。克郎は目をそらした。
直美はそのサイトのURLを教えてもらった。スマートフォンで調べた。国民生活センターの注意喚起リストに、似た事例が出てきた。連絡先の電話番号は存在しない番号だった。出金申請を出しても、必ず理由をつけて引き出せないという報告が複数あった。
克郎はそれを画面で見ながら、黙った。部屋の中が静かになった。
直美は座ったまま、テーブルの表面を見ていた。木目の古い染みが目に入った。30年、この染みを見てきた。両親が残してくれた土地を売って作ったお金が、なくなった。銀行への手付けが、消えた。
直美は何も言わなかった。台所に行き、流し台の下の棚から古いスーパーの袋を一枚出した。それを自分の部屋へ持っていき、押し入れのダンボール箱からリュックサックを引っ張り出した。数年前に買って、一度しか使っていない古い登山用のリュックだった。
タンスを開けた。下着、靴下、いつも着ているセーター、薄い上着。必要最低限のものを畳んで入れた。化粧ポーチと常備薬の小瓶と通帳と印鑑を入れた巾着袋も入れた。
克郎は台所にいた。部屋の前を通る直美の気配に気づいて、廊下へ出てきた。リュックを見て、顔色が変わった。
「どこへ行く?」
声が普通より少し高かった。直美は答えなかった。玄関で靴を履いた。克郎が廊下を歩いてきた。足音が早くなった。克郎が直美の腕を掴んだ。
「ちゃんと話をしろ」
声に力があった。直美は腕を引かなかった。掴まれたまま、克郎の顔を見た。克郎の目には、怒りではなく、混乱とその奥にある何かが見えた。直美はそれを見て、しかし、それに応じる言葉を持っていなかった。
「手を離してほしい」
静かに言った。克郎は手を離した。
直美はドアを開けた。10月の夜の空気が入ってきた。冷えていた。細かい雨粒が、街灯の光の中に見えた。
「待ってくれ。謝る。どうすればいいか、一緒に考える」
声の調子が変わった。膝をついたような気配があったが、直美は振り返らなかった。直美はそのままドアを引いて、外へ出た。
小雨が顔に当たった。冷たかった。リュックが背中に重かった。歩き始めた。最初の曲がり角を曲がるまで、後ろを見なかった。曲がってから、立ち止まった。
駅のそばにビジネスホテルがあることを思い出した。そこへ向かった。一泊だけ、そこで考える。
チェックインの時、フロントの若い男性がリュックを見て、「少々お待ちください」と言い、鍵を渡してくれた。エレベーターを上がって部屋に入ると、シングルベッドと小さなテレビと、カーテンが引かれた窓があった。エアコンが動いていた。
直美はリュックをベッドの端に置いた。靴を脱いだ。ベッドの縁に腰を下ろした。両手の親指が、自然に互いを押さえていた。直美はそれに気づいて、手を開いた。手のひらを見た。クリーニング店で長年使い続けた手だった。シワが深く、皮膚が硬くなっていた。
テレビはつけなかった。照明を消して、そのままベッドに横になった。濡れたままの頭で枕に顔をつけた。眠れるとは思っていなかった。しかし、10分も経たないうちに、意識がなくなった。
10月の半ば、直美は12平方メートルの部屋を借りた。場所は最寄りのクリーニング店から自転車で15分ほどの住宅地の外れで、木造2階建てアパートの1階だった。築40年は超えているだろう。外壁の塗装が所々剥がれ、窓の一部が歪んでいた。
管理会社の担当者が鍵を渡す前に、いくつか注意点を言った。壁の一角に薄くカビが出ていること。日当たりのため日中も暗いこと。それと、隣の部屋の音が聞こえやすいこと。
直美は内覧の時、部屋の四隅を順に見て、窓を開けて外の景色を確認した。コンクリートの塀の向こうに、隣の建物の壁があった。日光は入らない。それでもここを選んだのは、値段と通勤距離と、あとは今すぐ入れるという条件だった。
翌日から、直美の一日は前の生活と様変わりした。朝6時に起きる。アパートの共同洗面所で顔を洗い、インスタントの味噌汁を一杯飲む。7時半にアパートを出て、自転車でクリーニング店に向かう。9時から午後3時まで洗濯物の仕分けとアイロンがけ。パート終了後、一旦部屋に戻らず、そのまま自転車を走らせる。弁当工場の仕事は、夕方4時半から始まった。
直美の担当は食器の洗浄だった。大型の食器洗浄機に食器を並べ、洗い終わったものを取り出して拭いて積む。その繰り返しを、夜の10時まで続けた。
最初の1週間、直美は両方の仕事が終わるたびに、体がどこか重だるい感覚があった。疲れているというより、体の中に水が溜まっているような重さだった。自転車のペダルが、以前より重く感じた。
食事は安く済ませた。コンビニで半額になった弁当を買うこともあったが、基本は自炊だった。米を炊き、冷凍の野菜と卵で何かを作る。味付けは醤油と塩だけのことも多かった。
走ることはしなくなった。克郎と同じ家にいた頃は毎朝5km走っていたのに、この部屋に移ってからは一度も走っていない。走る気持ちになれないのか、走る体力が残っていないのか、自分でも分からなかった。
直美が出ていってから、克郎は一人で家にいた。克郎は次の仕事をすぐには見つけなかった。物流センターを契約終了になってから最初の2週間は、何もしていなかった。家の中が少しずつ荒れた。シンクに食器が溜まった。床にタバコの箱が落ちていて、拾わずにそのままになった。
10月の終わりに、知り合いから長距離トラックの仕事を紹介された。夜間に幹線道路を走る仕事で、日中は眠り、夕方に出発して翌朝に戻る。克郎はそれを受けた。
11月の初め、夜の10時過ぎ。克郎は直美に一度だけ電話をかけた。呼び出し音が3回なって、直美が出た。
「体は大丈夫か」
直美は少し待ってから、「大丈夫だ」と言った。克郎はまた何も言えなかった。直美が「何か用か」と言った。「用はない」と克郎は言った。そのまま電話が切れた。
11月の中旬になると、直美は工場の仕事にも少しずつ慣れてきた。ラインの隣に立つ女性は、渡辺という苗字で、年齢は55歳前後に見えた。休憩時間になると、自動販売機の前で缶コーヒーを飲みながら、天気の話や近所のスーパーのチラシの話をした。
渡辺は直美のことをそれほど詮索しなかった。どこから来たのか、なぜここで働いているのかを聞かなかった。直美はそれをありがたいと思いながら、同時に少し寂しかった。
ある夜の休憩時間、渡辺が言った。
「最近顔色が悪いですよ」
「ちょっと眠れていなくて」
渡辺は少し考えてから言った。
「私も最初のうちはそうだった。夜仕事は慣れるまでに3ヶ月はかかる。でも、慣れたら案外持つから」
その言葉が、その夜なぜかずっと頭に残った。慣れたら案外持つ。特に深いことではないはずだった。しかし、直美にとって、自分がこの状況に慣れるということを想像した時、その先に何があるのかがよくわからなかった。
11月の終わり近くのある夜、工場の仕事が終わって外に出ると、スマートフォンに見知らぬ番号からメッセージが来ていた。短い文章で、「柴田聡の件で確認したいことがある。連絡が欲しい」と書いてあった。
翌日の昼休みに、その番号に電話をかけてみると、相手は弁護士の補助的な立場の人間だと名乗った。聡が残した債務の一部についての確認事項があるという話だった。直美は自分は聡の義姉にあたるが、克郎とは別居中であること、詳細については直接克郎に連絡して欲しいと言った。
直美はスマートフォンを持ったまま、しばらくクリーニング店の裏の駐車場に立っていた。聡の債務が、別の法曹から影を伸ばしてくる気配だった。それが克郎に及ぶのか、自分にも及ぶのか、まだ分からなかった。
11月の深い夜だった。直美は工場の裏口から出て駐輪場に向かっていた。午後10時を過ぎていて、外は暗く、工場の建物の影が地面に長く伸びていた。大型のゴミ袋を一つ、裏口の集積所まで運んでいた。工場のゴミ処理当番で、今週は直美の番だった。
コンテナの蓋を開けて袋を入れようとした時、駐輪場の脇に人影があった。最初は通行人か近所の誰かだと思った。しかし、影の輪郭と立ち姿が見覚えのあるものだった。
克郎だった。作業着を着ていた。直美が知っている物流センターの作業着ではなく、長距離トラックのドライバーが着るような厚手の紺色の上着だった。髪が伸びて、頬がこけていた。顎に髭が生えていて、きちんと剃っていないようだった。
直美はゴミ袋をコンテナに入れてから、克郎の方を見た。克郎はこちらを見ていた。2人の間に数メートルの距離があった。
克郎は最初何も言わなかった。右手を上着のポケットに入れたまま立っていた。目の下に影があった。直美は、「なぜここが分かったのか」とは聞かなかった。クリーニング店の住所は変わっていない。そこから調べれば、今夜の仕事の場所も分かる。
克郎がポケットから紙を取り出した。四つ折りになっていた。広げて、直美に差し出した。直美はそれを受け取った。暗かったので、工場の灯りの下に少し移動してみた。
離婚届だった。克郎の署名欄に署名があり、押印もしてあった。
直美はその紙を見たまま、しばらく動かなかった。
克郎が話し始めた。声が掠れていた。
「銀行が民事訴訟の準備を始めた。聡の件で連帯保証人として訴えられれば、差し押さえの対象が広がる可能性がある。今のところ、君は直接の保証人ではないが、婚姻関係が続いていれば、共有財産として扱われるものが出てくるかもしれない。弁護士に相談した人間から、そういう可能性があると聞いた。だから、離婚届を出してほしい。君を巻き込まないために」
直美は離婚届を持ったまま、克郎の顔を見た。克郎は視線をそらさなかった。ただ、目の奥の光が弱かった。いつも強かった目に、今夜は何か違うものがあった。疲れているのか、怯えているのか、それとも別の何かなのか、直美には判別できなかった。
「あなたはどうするの?」
克郎は少し間を置いてから言った。
「夜間の山岳路線を走る仕事を受けた。カーブが多く、冬場は路面が凍結する区間もある。報酬は通常の路線より高い。それで、残った借金を少しでも返していく」
直美は黙っていた。克郎は続けた。
「うちの家は競売にかかる。止められない。俺はその後は、トラックの中で生活を点々とするつもりだ。お前に迷惑はこれ以上かけない」
直美は離婚届を折りたたんだ。克郎が振り返って歩き始めた。行くなとは言わなかった。引き止める言葉も出てこなかった。克郎の背中が暗がりに消えていく前に、直美はただ一言聞いた。
「夜の運転、気をつけて」
克郎の足が一瞬止まった。それから、また歩き出した。何も言わなかった。
部屋に帰って、直美は離婚届をテーブルの上に置いた。シャワーを浴びて、インスタントのうどんを食べた。食べながら、離婚届を見ていた。
もし今夜この紙を役場に持っていけば、翌朝には受理されることになる。しかし、その瞬間に何かを失う。遺族年金の受給資格。万が一の時の保証。数字として試算したあの月額の差。
克郎が死ぬかもしれないと思った。山道の夜間走行を、あの人が続けている間。それは非現実的な心配ではなかった。長距離の山岳路線で事故が起きることは、珍しくはない。もしその時、自分が法律上の妻でなければ、遺族年金はもらえない。
直美は離婚届を手に取った。少しの間持っていた。それから、タンスの一番下の引き出しを開け、離婚届を服の下に挟んだ。引き出しを閉めた。
今夜は出さない。明日も。多分、出さない。しかし捨ててもしない。この紙がここにあるという事実だけを抱えて、今夜は眠る。
12月に入った。直美の日課は変わらなかった。朝6時に起き、クリーニング店で働き、夕方から工場へ行く。その繰り返しの中で、体は何とか動き続けていた。
ある日、工場の帰り道に自転車を走らせながら、直美は一つのことをずっと考えていた。40年以上前のことだった。就職したての頃、直美は文書管理の仕事をしていた。当時の職場では、結婚前と結婚後で氏名が変わることがある女性社員については、旧姓と新姓の両方で一部の書類を管理していた。直美もその対象だった。旧姓のせいで登録されていた書類が、いくつかあったはずだった。
それが年金の記録とどう関係するのか、はっきりとは分からない。しかし、制度の移行期に旧姓と新姓が混在した記録が残っていることがあるという話を、かつて職場の先輩から聞いたことがあった。
翌日の昼休み、直美は年金事務所に電話をした。状況を説明し、旧姓で登録されている記録が存在する可能性について尋ねた。担当者は少し調べてから、「来ていただければ詳しく確認できる」と言った。
水曜日、直美は年金事務所に着いた。番号札を取り、待合いに座った。冬の朝の光が、窓から斜めに入っていた。
窓口に呼ばれた。今日の担当は50代の男性だった。穏やかな話し方をする人で、直美の説明を途中で遮らずに聞いた。
「結婚前の旧姓で就職し、最初の勤務先では旧姓のまま社会保険に加入した可能性がある。結婚後に氏名変更の手続きをしたが、古い記録が引き継がれていない可能性がある。旧姓の記録を確認して欲しい」
担当者はメモを取りながら聞き、旧姓と生年月日を確認した。端末を操作する手が止まることなく動いていた。画面を見ながら何度かキーを叩いた。眉がわずかに動いた。
「少々お待ちください」
担当者は一度席を離れた。奥の部屋に入った。5分ほど経って戻ってきた。同僚らしき別の職員も一緒だった。その2人が画面を見ながら話し合い、また確認の操作をした。
直美は窓口の椅子に座って、机の縁を見ていた。机の角にセロハンテープの跡があった。何かを貼っていたのだろう。剥がした後が黄ばんでいた。
担当者が戻ってきた。直美の目の前に座り、画面を向けた。
「旧姓で登録されている期間が見つかりました。最初の就職先で、入社から2年間の加入記録が旧姓のままになっていました。結婚後に氏名変更が行われた時、この初期の2年分が別記録として切り離されたまま、統合されずに残っていました」
直美は画面を見た。数字が並んでいた。2年分の加入記録が、確かにそこにあった。
担当者が説明した。
「統合した場合の影響ですが、現在の受給見込み額に、月額で約2万円の増加が見込まれます。ただし、この額は確定ではなく、正式な計算は今後になります」
2万円。直美はその数字を頭の中で繰り返した。月2万円。年間で24万円。少ないといえば少ない。それで暮らしが楽になるかと言えば、楽にはならない。しかし、今の直美にとって、月2万円の差は、食事の質が変わる金額だった。薬局の薬をためらわずに買える金額だった。
直美は書類に記入した。名前、生年月日。ペンを持つ手が少し震えていた。震えていることに途中で気づいて、意識して抑えようとしたが、止まらなかった。担当者はそれを見て、何も言わなかった。
手続きが終わって、直美は席を立った。年金事務所の外に出ると、12月の冷たい空気が顔に当たった。直美は歩道の縁に立った。人が後ろを通り過ぎた。自転車が脇を走った。直美はその場に立ったまま、声を出さずに泣いていた。泣いている自分に気づいたのは、頬が冷たくなってからだった。手で拭ったが、また出てきた。
その夜、直美は工場の仕事が終わって部屋に帰り、いつもより少しだけ丁寧に夕食を作った。冷凍庫に入っていたブリ大根の素を使って、大根と一緒に煮た。大したものではなかったが、いつものインスタントではなかった。食べながら、月2万円が増えた生活を頭の中で試算した。今の2つの仕事の収入と合わせると、ギリギリではあるが毎月の支出を少し上回る。余裕はほとんどない。しかし、これまでのような、常に赤字に転落するかもしれないという不安な感じが、少しだけ和らいだ。
翌朝、クリーニング店でアイロンがけをしていると、スマートフォンが振動した。見知らぬ番号だった。仕事中の電話は基本的に出ないようにしていたが、何か予感めいたものがあって、直美はアイロンを台に置き、裏口の外へ出た。
「もしもし」
相手は病院の名前を名乗った。
「丸総合病院、救急担当のものです」
直美の体が静止した。
「柴田克郎さんのご家族の方でしょうか」
直美は壁に手をついた。裏口のコンクリートの壁は冷たかった。
「はい。妻です」
「今朝、高速道路の山岳区間でトラックが横転する事故がありました。運転していた柴田克郎さんが搬送され、現在ICUで治療中です。意識はありません。すぐに来ていただけますか?」
直美は何も言えなかった。数秒間、電話で沈黙した。
「はい、今から行きます」
電話を切った。裏口の外に立ったまま、スマートフォンを手に持っていた。病院の名前を言われたが、どこにあるか今すぐ思い出せなかった。スマートフォンで検索した。住所が出た。最寄り駅から電車で40分だった。
店内に戻り、店長に事情を話した。
「家族が急病で」
家族という言葉を自然に使ったことに、後から気づいた。
病院についたのは昼前だった。受付で名前を告げると、すぐにスタッフが来て案内された。廊下を何度か曲がり、エレベーターで上の階へ行き、ICUの前にある待合スペースに通された。
スタッフが説明した。高速道路のカーブでタイヤがバーストし、ガードレールを破って斜面に転落した。運転席が大きく変形した。克郎は頭部と胸部に強い衝撃を受け、内臓に複数の損傷がある。出血は一部処置が終わっているが、まだ予断を許さない状態だ。意識は戻っていない。
「面会はできますか?」
「ガラス越しなら、ご覧いただけます」
直美はICUの窓の前に立った。ベッドの上の克郎は、白い包帯とチューブに覆われていた。顔の右側に擦り傷があり、唇が腫れていた。胸の辺りにモニターのパッドが貼られ、数字が点滅していた。鼻からチューブが入り、腕に点滴が刺さっていた。
直美はそのガラスの前に立ったまま、動かなかった。
どのくらいそこに立っていたか分からなかった。気づくと、足の裏が冷えていた。廊下のリノリウムの床が、靴の底から体温を吸い取っていた。
待合に戻って椅子に座っていると、廊下の向こうから人が来た。最初は看護師か別の患者の家族かと思った。しかし、歩き方が違った。目的を持って、しかし慎重に歩いてくる。廊下の突き当たりから曲がって、ICUのある区画に入ってきた。
直美はその顔を見た瞬間に、誰かは分かった。柴田聡だった。克郎より6歳の弟。以前、数回顔を合わせたことがある。体型は克郎より細く、顔の輪郭が似ているが、目元が違う。
今日は派手な色のジャケットを着ていた。濃い色のシャツに、金色のボタン。秋口に買ったような、季節感のずれた格好だった。聡は直美を見て、一瞬だけ表情が止まった。しかし、すぐに柔らかい顔を作った。
「義姉さん」
聡は言った。
「大変でしたね。連絡を聞いて、駆けつけました」
直美は立ち上がらなかった。椅子に座ったまま、聡を見た。聡は待合の椅子を引いて、直美の斜め前に座った。膝に手を置いて、体裁のいい表情を作っていた。ただし、その表情が顔全体に行き渡っていなかった。目の奥が、別のことを考えている時の目をしていた。
「どこにいたの?」
直美は言った。低い声だった。
聡は苦い顔をした。
「色々あって。事業がうまくいかなくて、頭を冷やしていました。連絡できなくて申し訳なかった」
直美はそれ以上聞かなかった。聞いても意味がないと分かっていた。聡が今ここにいる理由は、謝罪でも心配でもない。何かを確認しに来た。何かを手に入れに来た。
しばらく沈黙があった。聡はあたりを見回した。廊下に視線をやり、ICUの方向を確認するような動作をした。それから、声を落とした。
「話があるんですが」
「話とは何?」
直美は聞いた。聡は少し前傾になった。
「義兄さんには、生命保険がかかっていますよね」
直美は聡を見た。
「15年ほど前に、友人の紹介で加入した保険です。証券を調べたんですが、受け取り人の欄に、私の名前が入っていました。当時、義兄さんが加入する時に私も一緒にいて、義兄さんが名前を書く欄に迷ったので、私が書いてあげたんです。名義変更の手続きをしていなければ、今でも私が受け取り人のはずです」
声に感情が薄かった。説明しているような、確認しているような口調だった。直美は黙っていた。
「もちろん、義姉さんにとっては複雑な話だとは思っています。ただ、法律上のことを考えると、受け取り人が決まっているものですので。それと、今の私にも事情があって、事業の整理のためにどうしても資金が必要な状況で」
直美の頭の中で、状況が整理された。克郎が15年前に入った保険。受け取り人を聡のままにして、変更していなかった。その保険金は、克郎が死亡した場合、法的には聡のものになる。聡はそれを知っていて、今日ここに来た。
直美は立ち上がった。聡の顔をまっすぐに見て、左手で聡の頬を打った。乾いた音が廊下に響いた。聡は目を見開いた。椅子から少し身をのけぞらせた。頬を手で抑えた。その目に驚きがあった。直美がそうするとは、計算に入っていなかったのだろう。
直美は聡に向かって立ったまま、動かなかった。体が震えていた。怒りで震えているのか、力が抜けているのか、自分でも分からなかった。
聡は椅子から立ち上がった。頬を抑えたまま、しかし声は静かだった。それが直美には余計に不気味だった。
「感情的になるのは分かります。でも、これは法律の話です。受け取り人の指定は、契約の中身です。義兄さんが変更しなかった以上、法的な権利は私にある」
直美は言った。
「あなたが逃げた借金の尻拭いを、克郎がずっとしてきた」
聡はそれを聞いて、少し目を細めた。
「それとこれとは別の話です。事業の失敗は事業の話。保険は保険の話」
直美は言葉が出てこなかった。出てこないのは、言いたいことがないからではなく、言いたいことが多すぎて、どこから出せばいいか分からなかったからだった。
聡は眼鏡を直しながら言った。
「今日のところは、義兄さんの回復を祈っています。ただ、状況が動いたら、早めに連絡をください」
言って、廊下を歩いた。振り返らなかった。ジャケットの背中が、曲がり角に消えた。
聡が去った後、直美は再びICUの窓の前に戻った。克郎はまだ動いていなかった。モニターの数字が点滅していた。直美はガラスに手をついた。手のひらがガラスに触れた。冷たかった。
保険金の受け取り人が聡になっていることを、克郎は知っていたのだろうか。気づいていなかったのか、気づいていて放置していたのか。それは今となっては確認する方法がなかった。克郎はICUで眠っていて、話せない。
夕方、主治医が直美に話を聞かせてくれた。医師は40代に見えた。話し方は丁寧で、難しい言葉を使う時には必ず補足した。現時点での状態についての説明は、直美が午前中に聞いた内容と大きくは変わらなかった。
「頭蓋内の出血が問題で、処置はしているが、今後48時間が重要な時間帯になる。意識が戻るかどうか、今の段階では何とも言えない。年齢と体への衝撃の大きさを考えると、楽観的な見通しを立てるのは難しい」
「最悪の場合は、どういうことになりますか?」
医師は少し間を置いた。
「臓器の機能が回復しない場合、今後の状態は厳しくなります」
はっきりとは言わなかった。しかし、直美には意味が分かった。
夜になった。直美は病院の待合スペースの椅子に座っていた。自動販売機でお茶を買って飲んだ。工場には電話して、今夜は休む旨を伝えた。クリーニング店にも、明日の午前は難しいかもしれないと連絡した。
聡のことを、克郎は知っていたのだろうか。克郎は弟が好きだった。好きだったから、頼まれれば断れなかった。家を担保に入れたのも、そういう感情から来ていた。弱さからではなく、血のつながりへの感情から来ていた。そして、その感情が、自分たちの生活を崩した。
旅の話をする時の克郎の横顔が、直美の中のどこかに残っていた。
廊下の蛍光灯が白く、待合スペースを照らしていた。他に人はいなかった。消灯時間が来て、廊下の一部が暗くなった。ICUの区画の前だけは、灯りがついていた。直美は椅子を少し動かして、その明かりが見える位置に座り直した。
バッグの中に、タンスの引き出しから取り出してきた離婚届が入っていた。家を出る時、なぜかそれを持ってきていた。理由はよくわからなかった。ただ、持っていった方がいい気がした。
克郎が死んだのは、事故から3日後の朝だった。午前6時14分。ICUのモニターが変わった。直美は待合の椅子で浅く眠っていた。看護師が来て、肩を叩いた。直美は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。それから、全部思い出した。
ガラスの向こうで、医師と看護師が動いていた。しかし、その動き方が昨日までと違っていた。急いでいなかった。ゆっくりと、しかし静かに、それぞれが動いていた。
医師が直美のところへ来た。
「6時14分に心停止が確認されました。処置を行いましたが」
直美は頷いた。言葉は出てこなかった。頷いてから、壁を見た。壁には案内板があって、階下の名前が書かれていた。目が文字を追ったが、読めなかった。
病院の担当者が手続きのことを教えてくれた。死亡診断書の発行、葬儀者への連絡、役所への届け出。直美は紙に書かれた順番を見ながら、1つずつ確認した。
葬儀は2日後だった。式場は病院から近い場所だった。直美は一人で行った。棺の前に座り、線香を炊き、係の人が言う通りに動いた。他に誰もいなかった。外は曇っていた。
克郎の顔は、事故の傷が処置されて、随分穏やかに見えた。眉の太さは変わっていなかった。左手首に、古い機械式の時計がついていた。
係の人が聞いた。
「装飾品として、棺に入れますか?」
直美は少し考えてから、「このままで」と言った。時計はそのまま克郎の手首にあった。棺の蓋が閉まった。直美は椅子に座って、それを見ていた。感情が来るかと思ったが、来なかった。来ないことが、また別の重さになった。
骨を拾う時、係の人が手順を教えてくれた。直美は言われた通りにした。箸で骨を拾い、壺に入れた。それが、思っていたより軽かった。克郎の骨がこれほど軽いものだとは思わなかった。
壺を受け取って、式場の外に出た。曇り空だった。直美はそれに乗って、アパートへ戻った。
葬儀から数日後、直美は役所へ死亡届を提出しに行った。窓口で受け付けてもらい、手続きが終わって帰ろうとした時、担当の職員が少し困ったような顔をして、直美を呼び止めた。
「確認させてください。柴田克郎さんと直美さんの婚姻関係についてなのですが」
直美は立ち止まった。職員は続けた。
「先日、離婚届が提出されていて、受理されております」
直美の体から、一瞬で血の気が引いた。
「いつ?」
職員は端末を見ながら答えた。
「克郎さんの事故の翌日の日付で提出されています」
直美は頭の中で日付を確認した。事故の翌日。克郎はその日、まだICUにいた。意識はなかった。病院から出ていない。
タンスの引き出しの中の離婚届。克郎が工場の裏口で渡してきた、署名と押印だけが入った用紙。あれが聡に見られた。そうとしか考えられなかった。直美がアパートを空けている間に、聡が部屋に入った。引き出しの中を探した。見つけた。そして、自分で日付と必要事項を書き込み、役所に提出した。
離婚が成立していれば、直美は克郎の法律上の妻ではなくなる。遺族年金の受給資格がなくなる。保険金について争う立場からも外れる。
その日の午後、直美は法律支援センターへ行った。担当したのは40代の女性弁護士だった。眼鏡をかけ、手元にノートを開いて直美の話を聞いた。途中で質問を入れながら、要点をメモしていた。感情的に反応しなかった。それが直美には助かった。動揺よりも、事実を整理してもらうことが今は必要だった。
一通り話を終えると、弁護士は言った。
「離婚届の不正提出は、文書偽造と公正証書原本不実記載に当たる可能性がある。争う余地はある。ただし、それを立証するには証拠が必要です」
証拠として必要なものを、弁護士が説明した。克郎が事故当日にICUに入院していたことを示す医療記録。離婚届を提出できる状態ではなかったという医師の証言。届け出の日付に直美が役所へ行っていないことを示すもの。そして、できれば聡がアパートに侵入したことを示す何か。
「アパートの防犯カメラはありますか?」
直美は考えた。アパートの入り口に小さなカメラがついていた。管理会社が設置したものだった。最近設置されたもので、ちゃんと動いているかどうかは確認していなかった。
「確認してみます」
弁護士が続けた。
「もう一つ。その離婚届に書き込まれた字が、直美さんのものでも克郎さんのものでもないことを示せれば、それ自体が証拠になります。筆跡鑑定は費用がかかりますが、書き込まれた内容と日付の筆跡を、保存している他の書類と比較することができます」
最後に弁護士が言った。
「時間がかかります。半年以上かかる可能性があります。その間、精神的にも体力的にも消耗します。それを踏まえた上で、続けますか?」
直美は少し間を置いてから、「続けます」と言った。
翌日から、直美は動き始めた。最初にアパートの管理会社に電話した。防犯カメラの映像について聞くと、担当者は確認しますと言った。翌日に折り返しがあり、カメラは機能していて、映像は一定期間保存されていると教えてくれた。弁護士への提出を求めたいと伝えると、法的な手続きを通じてであれば対応できるという返答だった。
次に病院へ行った。克郎の入院記録と、事故当日から死亡までの詳細な記録を法的手続きのために開示して欲しいと申し出た。病院の事務担当者は手続きの書類を渡してくれた。
工場には、問題の日の出勤記録があった。あの夜、直美は工場にいた。タイムカードの記録と、担当の渡辺から一言もらえれば、直美がその日に役所へ行けなかったことが示せる。渡辺に事情を話すことには少しためらいがあった。しかし、渡辺は思っていたよりもずっと静かに聞いて、「分かりました。必要なら話します」と言った。
聡からは、その間に2度電話があった。1度目は番号を見て出なかった。2度目は出た。聡は落ち着いた声で言った。
「法的な手続きは、時間と労力がかかりますよ。義姉さんには、今そんな余裕はないでしょう。円満に解決するなら、話し合いで」
直美は言った。
「弁護士を通じてください」
そして、電話を切った。
その夜、部屋に帰って布団に入った時、初めて泣いた。葬儀の時も、役所で離婚成立を告げられた時も、泣かなかった。しかし、夜の部屋で一人になった時、何かが崩れた。声は出さなかった。ただ、涙が出て止まらなかった。泣きながら、直美は天井を見ていた。
どれくらい泣いたか分からなかった。いつの間にか、涙は止まっていた。目は腫れていたが、それ以外はいつもと同じだった。また明日があると思った。明日もクリーニング店がある。明日も証拠を集める必要がある。それだけだった。
法的手続きは、弁護士が言った通り半年以上かかった。最初の申し立てから、行政の不服申し立て手続きを経て、婚姻関係の回復を求める審判へ進んだ。その間、直美は何度も書類を揃え、弁護士事務所へ行き、説明をした。弁護士は費用の一部を後払いにしてくれた。それでも、毎月の出費は積み重なった。
聡は弁護士を立てて争った。主張は、離婚届は克郎が事前に署名と押印を持って作成したものであり、直美がそれを知っていた上でアパートに保管していた。提出されたのは、克郎の意思の実現だというものだった。
直美は弁護士を通じて、全てに反論した。克郎が届けを作成したのは事故より前だが、提出の意思決定はしていなかった。事故当日に克郎は入院していて、その翌日に他者が提出した。直美は当日工場に出勤しており、役所へは行っていない。
防犯カメラの映像は、弁護士が管理会社を通じて入手した。画質は荒かったが、問題の日の夜、聡のものと思われる人物が、アパートの入り口から入っていく映像が残っていた。聡側は、その人物が聡だと断定できないと主張した。しかし、映像に映ったジャケットは、直美が病院の廊下で見たあの派手な色のジャケットと一致していた。
鑑定も出た。離婚届に書き込まれた日付と届出人の欄の文字は、克郎の筆跡でも直美の筆跡でもないと、鑑定結果が出た。費用はかかったが、その結果は決定的だった。
翌年の春、審判が下りた。婚姻関係の回復が認められた。直美は弁護士から電話でそれを聞いた。クリーニング店の裏口の外に出て、聞いた。弁護士が審判の内容を説明した。不正な書類の提出が認定された。婚姻は継続していたものと見なされる。遺族年金の受給資格は維持される。
直美は短く、「分かりました」と言った。電話を切ってから、裏口の外にしばらく立っていた。駐輪場に自転車が数台止まっていた。遠くで誰かが声を出して笑っていた。空が明るかった。泣くかと思ったが、泣かなかった。体の中で何かが溶けたという感覚があった。溶けて広がって、それからすっと消えた。
聡は後日、私文書偽造と同行使、公正証書原本不実記載の容疑で、警察の任意事情聴取を受け、その後逮捕された。弁護士からそれを知らされた時、直美は特に感想を持てなかった。聡が逮捕されたことで、克郎が生き返るわけでも、家が戻ってくるわけでも、失った土地が戻るわけでも、何も変わらなかった。ただ、聡はそこにいなくなった。
保険金の問題は、聡の逮捕によって別の局面に入った。受け取り人指定が聡のままであっても、犯罪に関連した受け取りについては、保険会社が支払いを保留した。その後の手続きの中で、克郎の残した借入金の債権者が保険金に対して法的な請求を行った。克郎が仮称の貸金業者から借りていた分の残債が、保険金の額を超えていた。結論として、保険金は全額、債権者への弁済に当てられた。聡には渡らなかった。しかし、直美にも渡らなかった。
家は、すでに売却にかけられていた。克郎が入院している間に手続きが進み、春が終わる前に落札されていた。直美が結婚してから30年近く暮らした場所は、もう他人のものだった。
直美は引き渡しの前に、一度だけその家へ行った。鍵はまだ手元にあった。空になった部屋に入ると、匂いがした。誰もいなくなった部屋の匂いだった。克郎が使っていた灰皿が、台所のシンクの脇にまだあった。直美はそれを手に取った。古い陶器の灰皿で、そこに傷があった。バッグに入れた。それだけを持って、家を出た。鍵を郵便受けの中に入れた。振り返らずに歩いた。
2027年の冬が来た。直美は62歳になっていた。アパートは変わらずそこにあった。壁のカビは、夏に市販の薬で処置した。完全には消えなかったが、広がりは止まった。クリーニング店のパートは続けていた。工場の夜間シフトは、審判が終わった後に週3日に減らした。体が続かなかった。それでも、完全にやめることはしなかった。
12月のある朝、スマートフォンに通知が来た。銀行からの入金通知だった。直美はそれを見た。遺族厚生年金の初回振り込みだった。克郎との婚姻が法的に認められた上での遺族年金。そこに、直美自身の老齢基礎年金の一部が上乗せされていた。
金額を見た。生きていける金額だった。余裕はなかった。貯金はできなかった。この部屋より良い場所に引っ越すこともできなかった。しかし、この金額と今の仕事を合わせれば、食べていける。病気になった時、医療費の一部は払える。それだけの金額だった。
直美はスマートフォンを置いた。テーブルの上に、克郎の骨壺が置いてあった。小さな骨壺だった。式場からアパートへ持ち帰り、テーブルの端に置いたまま、ずっとそこにあった。納骨する場所を決めていなかった。決める余裕がなかった。
引き出しを開けた。中に、古い紙が一枚折りたたまれていた。開いた。中古のキャンピングカーの広告だった。2年前に克郎がネットで調べて、プリントアウトしたものだった。型番と価格と走行距離と写真が印刷されていた。紙は黄ばんでいた。折り目が濃くなっていた。直美は広告を広げたまま、テーブルに置いた。骨壺の前に置いた。
台所の棚の上に、克郎の写真を入れた小さな額があった。葬儀のために探し出した、数年前の写真だった。腕を組んで、どこかの海岸に立っていた。どこで撮ったのか、直美には記憶がなかった。克郎の顔は少し横向きで、こちらを見ていなかった。
直美はその写真の前に立った。言葉はなかった。言葉を探したが、見つからなかった。言いたいことが何もないのではなく、多すぎて、どれを言えばいいかわからなかった。怒りがあった。悲しみがあった。それ以外の、言葉にならないものもあった。
右手の人差し指で、額のガラスの上を、克郎の顔の辺りを一度だけ触れた。ガラスは冷たかった。涙が来た。目の縁から出て、頬を伝った。拭かなかった。落ちるままにした。
外からトラックの音がした。低いエンジン音が近づいて、そのまま通り過ぎて、遠ざかった。直美は泣きながら、外の音を聞いていた。トラックはどこかへ行ってしまった。しかし、静かにはならなかった。すぐにまた、別の車の音が来た。世界は続いていた。直美も、その中にいた。
あれから、直美の毎朝は変わらず6時に始まる。スマートフォンのアラームで起き、顔を洗い、インスタントの味噌汁を飲む。自転車でクリーニング店へ行く。アイロン台の前に立ち、仕分けをして、プレスをして、また仕分けをする。昼休みに弁当を食べる。渡辺と短い言葉を交わす。
走ることは、また始めた。毎朝ではなく、週に2回か3回、近くの川沿いを30分ほど走る。以前の5kmより短い。しかし、また走れている。それだけのことだが、直美にとっては、それだけのことが何かを意味していた。
克郎の骨壺は、まだテーブルの端にある。春になったら、どこかへ納骨しようと思っている。どこにするかは、まだ決めていない。灰皿は、台所の棚の一番上に置いてある。使っていない。ただ、そこにある。キャンピングカーの広告は、引き出しの中に戻した。



