夫が隣人の女と、私を施設に追いやる計画を立てていることを、私は知っていました。私は目が見えません。夫は私の手を取って、書類にサインさせました。「施設の同意書だ」と。私は震える手で、夫の偽りの名前を書きました。しかし、彼らは知らなかったのです。私の目は、もう見えていることを。夫が渡した書類が「離婚届」と「借金の借用書」だったこと。そして、私の命を狙う保険金の話を、私は聞いてしまったのです。彼ら…

夫が隣人の女と、私を施設に追いやる計画を立てていることを、私は知っていました。私は目が見えません。夫は私の手を取って、書類にサインさせました。「施設の同意書だ」と。私は震える手で、夫の偽りの名前を書きました。しかし、彼らは知らなかったのです。私の目は、もう見えていることを。夫が渡した書類が「離婚届」と「借金の借用書」だったこと。そして、私の命を狙う保険金の話を、私は聞いてしまったのです。彼ら...

「見えないんだから、ここにサインさせるだけでいいのよ」
聞き慣れた隣人の声がリビングに響いた。その声には隠しきれない愉悦が混じっていた。
「ああ、施設に入る同意書だってことにしとくか。どうせ文字なんて読めないんだし、適当に書かせればいいさ」
夫の健一が低く笑いながら答えた。
私はソファに座り、膝の上で白い杖を静かに握りしめていた。怒鳴ることも泣き叫ぶこともなかった。ただ静かに目を伏せていた。

健一と隣人の田中明美は、私が何も見えていないと完全に信じきっている。
健一が私の前に歩み寄り、テーブルに紙を置く気配がした。
「いい病院が見つかったんだ。目の治療に専念できる。空気のいい施設だ」
夫の声はとても優しく聞こえた。
「ここにお前の名前を書いてくれ。俺が手続きをしておくから」
私の手に冷たいボールペンが握らせられた。
「どこに書けばいいの?」
私はわざと焦点の合わない目を宙に向け、震える声で尋ねた。
「ここだよ。俺が手を添えてやるから」
健一の手が私の手に重なった。その手からは、明美と同じ甘い香水の匂いがした。
私は促されるまま紙の上にペンを走らせた。枠から大きくはみ出した、いびつな文字で自分の名前を書いた。
「これでいい」
「ああ、ばっちりだ。よく書けたな」
健一は満足そうに紙を取り上げた。明美が小さな声で「やったわね」とささやくのが聞こえた。

二人は完全に勝ったつもりでいた。邪魔な妻を施設に追いやり、この家と最初の宝くじで当てた金を手に入れたと。
けれど、二人は知らなかった。私が数ヶ月前、秘密裏に受けていた治療が成功していたことを。私の目はもう真っ暗ではなかった。
目の前のテーブルに置かれていた紙の文字も、はっきりと見えていたのだ。
夫が施設の同意書だと言って私に書かせた紙。それは離婚届と財産分与放棄の承諾書だった。

私は見えないふりをしたまま、心の中で深く息を吐いた。怒りよりも先に、冷ややかな感情が胸を満たしていった。
視力を失いかけていた数年間、私は本当に夫を頼りにしていた。暗闇の世界で健一の手だけが私の道しるべだと思っていた。
しかし、私の視界が少しずつ回復し始めた頃、ぼやけた景色の中で最初に見えたのは、リビングのソファで身を寄せ合う夫と明美の姿だった。
信じられなかった。何度も目をこすり、夢であってほしいと願った。
けれど、視界がクリアになるにつれ、残酷な現実がはっきりと見えてきたのだ。
キッチンには私の知らない派手なエプロンがかかっていた。洗面所には明美の化粧品が堂々と並べられていた。
私が見えないことをいいことに、二人は私の家でまるで夫婦のように振る舞っていたのだ。
最初の宝くじの当選金も、全て健一が管理していた。
「お前の目の治療のために大切に使うからな」
そう言っていた夫が、そのお金で明美に高級なバッグを買い与えているのも、私は見ていた。

私が視力回復の事実を隠したのには理由がある。
もしすぐに「目が見えるようになった」と言えば、二人は言い逃れをするだろう。「ちょっと相談に乗っていただけだと」「お金はこれからのために使っただけだと」。
だから私は沈黙を選んだ。彼らが安心しきって決定的な尻尾を出すのを待つためだ。
そして今日、彼らは自ら最大の証拠を私の目の前に突き出してきた。偽造された離婚届。それは彼らの悪意を証明する何よりの証拠になる。

「じゃあ由美、俺はちょっと市役所に行ってくるからな」
健一が上機嫌な声で言った。
「明美さんが様子を見ててくれるって言うから、大人しくしてるんだぞ」
「ええ、行ってらっしゃい」
私は焦点の合わない方向に向かって、小さく頭を下げた。
玄関のドアが閉まる音がした。リビングには私と明美の二人だけが残された。
明美は私が座るソファの向かい側に腰を下ろし、ため息をつきながら小さな声でつぶやいた。
「ああ、やっとこの薄暗い生活から抜け出せるわ。長かったわね」
明美はテーブルの上にあった私のマグカップを無造作に横にどけた。ドンという乱暴な音が響いた。
私がビクッと肩を震わせると、明美は鼻で笑った。
「ごめんなさいね。見えないと、音だけでびっくりしちゃうわよね」
明美の言葉には思いやりのかけらもなかった。私は黙って俯いていた。杖を握る手に、ゆっくりと力を込めた。
明美は自分のスマホを取り出し、画面をスクロールし始めた。彼女は私が何も見えていないと信じているからこそ、無防備だった。
スマホの画面には高級家具のオンラインショップが開かれている。さらに健一とのLINEのやり取りも、私の位置から丸見えだった。
『早くあの女を施設にぶち込んで、二人で旅行に行こうぜ』
健一からのメッセージが、はっきりと私の目に飛び込んできた。

私はゆっくりと立ち上がった。
「トイレに行きます」
「あっそ。気をつけてね」
明美はスマホから目を離さず、適当に答えた。
私は杖で床を確かめながら、わざとゆっくりと廊下を歩いた。壁伝いに歩くふりをしながら、自分の寝室に入った。
ドアを静かに閉め、鍵をかける。そしてベッドのマットレスの下に隠しておいた小さな手提げ金庫を引き出した。
ダイヤルを合わせ、蓋を開ける。中には、弁護士の高橋先生からもらった名刺。彼らが私のお金を使い込んだ証拠となる銀行の取引履歴のコピー。そしてもう一つ、小さなビニール袋に入った一枚の宝くじがあった。
私はそれを取り出し、指先でそっと撫でた。半年前、病院の帰りに一人で買った宝くじだ。視力が回復し、一人で歩けるようになった喜びの記念として買ったものだった。
その宝くじが、数日前に発表された抽選で、再び高額当選を果たしていたのだ。一回目の当選額をはるかに超える、途方もない金額だった。
夫と明美は、私が何も持たない哀れな女だと思って笑っている。明日には施設に送られ、全てを失うのだと。
けれど私は、全てを持っている。彼らの嘘の証拠も、真実を見通す目も。そして、新しい人生を始めるための、十分すぎる資金も。
私は金庫をしまい、深く深呼吸をした。もうすぐだ。彼らが自分たちの勝利を確信し、一番高いところへ登り詰めた瞬間、その足元を全て崩してやる。その準備は整っている。

寝室のドアの向こうから、明美が誰かと電話で話す声が聞こえてきた。
「うん。さっきサインさせたわ。明日には追い出せる。ええ、これで全部私たちのものよ」
私は冷たいドアに背中を預け、静かに目を閉じた。悲しみはもうない。あるのは静かな決断だけだった。

その夜、夫の健一が市役所から帰宅した。そして夕食の席で、私に一枚の封筒を差し出したのだ。
「由美、明日の朝、車が迎えに来る。荷物はまとめておいたからな」
その言葉を聞いた瞬間、私は自分の計画をいよいよ実行に移す時が来たと確信した。

その夜、私は寝室で古びたボストンバッグを静かに開けた。夫は夕食の時、「荷物はまとめておいたからな」と言って、このバッグを私に渡してきた。
しかし中身を手で探って、私は呆れ果てた。入っていたのは季節外れの薄い服が数着と、古びたタオルだけだったからだ。洗面用具も、下着すらまともに入っていない。まるで二度とこの家に帰ってこない前提のような、雑な荷造りだった。
私は冷たくなった夫の心を、はっきりと感じた。
私はバッグの中身を床に出し、本当に必要なものだけを詰め直した。

なぜ私はこれまで騙され続けて、黙って耐えてきたのか。理由はこの家と土地にあった。
ここは五年前に亡くなった父が、私に残してくれた大切な場所だ。父は亡くなる直前、病院のベッドで夫の手を握ってこう言った。
「健一さん、由美のこと、頼む。二人でこの家を守ってくれ」
夫は涙を流しながら、「必ず守ります」と約束してくれた。
私はその言葉を、ずっと心の支えにしてきたのだ。
三年前に私の視力が落ち始めた時、不安で泣き崩れる私を、夫は優しく抱きしめてくれた。
「俺が由美の目になる。何も心配はいらないからな」
外出する時は必ず私の手を引いて歩いてくれた。私が好きな小説を、夜に声を出して読んでくれたこともあった。
だから最初の宝くじで一億円が当たった時も、全て夫に預けたのだ。
「由美の目の治療費にしよう。残りは二人の老後の資金だ」
夫のその言葉に、私は心から感謝し、通帳と印鑑を渡した。
けれど、あの優しさは大金を手に入れた瞬間に消え去ったのだ。

バッグの底から、一枚の古い写真が出てきた。家を建て替えた日、夫と二人で笑顔で映っている写真だ。
私はその写真を両手で静かに破った。ビリッという小さな音が部屋に響く。過去の優しい夫は、もうどこにもいない。
私は涙を流さなかった。代わりに手提げ金庫から取り出した、二回目の宝くじの当選証明書を見つめた。前回をはるかに超える途方もない金額が記された証明書。
私はそれを分厚い本のカバーの裏にしっかりと隠し、バッグの底に入れた。これで私のこれからの人生は、誰にも脅かされない。

夜中、私は静かに部屋を出た。夫は隣の寝室で高いびきをかいて寝ている。
暗い廊下を歩き、リビングに入った。目が見えるようになった今、夜の家の中もはっきりと分かる。
ソファの上には、夫の上着が無造作に脱ぎ捨てられていた。私はそのポケットにそっと手を入れた。指先に硬い紙の感触があった。
取り出してみると、それは旅行代理店のパンフレットだった。豪華客船で行くハワイの旅。出発日は来月の頭になっている。ご丁寧に、参加者の名前欄には「佐藤健一、田中明美」と書かれていた。
さらにポケットの奥から、一枚のレシートが出てきた。高級ジュエリーショップのレシートだ。金額は二百万円を超えていた。
私が「施設」という名の暗闇に放り込まれている間に、二人は私の父が残した家でもない、私のお金で豪遊するつもりなのだ。
私はそのパンフレットとレシートを、スマホのカメラで静かに撮影した。シャッターという音が出ない無音カメラのアプリを使っている。弁護士の高橋先生に教わった方法だ。
画像はすぐに先生のメールアドレスへ転送した。数分後、先生から短い返信が届いた。
『確認しました。証拠として十分です。明日は予定通りに』
その文字を見て、私は小さく息を吐いた。これでまた一つ、夫たちの裏切りの証拠が揃った。胸の奥で、冷たい決意が静かに固まるのを感じた。

翌朝、予定通りに隣人の明美がやってきた。
「由美さん、おはよう。お手伝いに来たわよ」
明美の声は隠しきれない喜びに弾んでいた。夫も機嫌よく朝のコーヒーを飲んでいる。
「明美さん、朝早くから済まないね」
「いいのよ。由美さんのことだもの。大変な時はお互い様でしょう」
二人の白々しい会話がリビングに響く。明美が入れたコーヒーの香りが漂ってきた。それは、私が大切にしていた特別な日だけのお茶の香りだった。
私はわざと足元をふらつかせて歩いた。テーブルの角に、コツンと膝をぶつける。
「痛っ」
私が小さく声を上げても、二人は見向きもしなかった。
「あ、ごめんなさい。湯のみを落としてしまって」
私はわざと自分の湯のみを床に転がした。ガチャンと鈍い音がして、お茶が床に広がる。
「ちょっと、何やってるのよ!」
明美がヒステリックな声を上げた。
「ごめんなさい。見えなくて。どこでしょうか?」
私が床に手をついて探すふりをすると、夫が大きなため息をついた。
「もういい。そのままにしておけ。汚い手で触るな」
夫の声は氷のように冷たいものだった。
「どうせ後で業者を入れて、床のフローリングごと全部張り替えるんだから」
夫のその一言で、私は全てを悟った。彼らは父の思い出が詰まったこの家を、完全に自分たちの好みに変えるつもりなのだ。
私は床を拭くふりをしながら、強く雑巾を握りしめた。爪が白くなるほど力を込めた。もう、この二人に少しの情けもかける必要はない。
私は静かに立ち上がり、見えないふりをして深く頭を下げた。
「ごめんなさい。ご迷惑をおかけします」
心の中では、全く違う言葉をつぶやきながら。

午前九時、家の前に一台の車が止まる音がした。
「お迎えが来たぞ」
夫が嬉しそうに立ち上がり、足早に玄関へ向かった。明美もウキウキした足取りでその後ろをついていく。
私は杖をつき、ボストンバッグを持ってゆっくりと廊下を歩いた。
玄関のドアが開く音がした。
「おはようございます。佐藤由美さんの迎えに上がりました」
低く事務的な男の声が聞こえた。
私は玄関に近づきながら、そっと目を細めて外を見た。そこに止まっていたのは、介護施設の送迎車ではなかった。古びた、薄汚れた黒いワンボックスカーだ。男の服装も、施設の職員のような制服ではない。シワだらけのシャツに、汚れたスニーカーを履いている。
そして男が夫に差し出した書類の束を見た瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。そこには施設の名前など、一切書かれていなかったのだ。
紙の一番上に書かれていたのは、「金銭」という大きな文字だった。しかも、借主の欄には私の名前が勝手に書かれていたのだ。
夫の嘘は、私が想像していたよりも、はるかに恐ろしいものだった。

「ちょっと待ってください。この書類、不備がありますよ」
事務的な男の声が、玄関の空気を冷たくした。私が車に乗る直前、男は夫の健一に書類の束を突き返した。
私は杖をついたまま、少しだけ首をかしげて聞き耳を立てた。
「なんだって? 昨日全部揃えたはずだろう」
健一の声に焦りが混じっている。
「登録証明書の期限が切れています。三ヶ月以内のものじゃないとダメなんですよ」
男は面倒臭そうに頭をかいた。
「うちは正規の金融機関じゃないんでね。印鑑と新しい証明書がないと、お金は貸せませんよ。当然、奥さんの入所もできません」
お金を貸せない。入所もできない。その言葉で全ての点と点が繋がった。健一は、私をどこかのヤクザな施設に放り込むつもりだ。そして同時に、私の名義で闇金のような場所から大金を借りようとしていたのだ。
「ちっ、分かったよ。すぐ市役所に行って取ってくる」
「いや、今日はもう次の予定があるんでね。三日後にまた来ます。書類、きっちり揃えておいてくださいよ」
車のドアが乱暴に閉まり、エンジン音が遠ざかっていった。玄関には重い沈黙が落ちた。
私はわざと不安そうな声を出した。
「あなた、どうしたの? 迎えの車じゃなかったの?」
健一は大きく深呼吸をしてから、私に向き直った。声のトーンを、いつもの優しい夫のものに変えて。
「ごめんな。由美。施設の方で急な水漏れがあったらしくてね。受け入れは三日後になったよ。部屋に戻って休んでいなさい」
「そうなのね。分かったわ」
私は深く頭を下げ、杖で床を探りながら自分の寝室へ戻った。背後で、健一が壁を蹴る鈍い音が聞こえた。

寝室のドアを閉めると、廊下から明美のかん高い声が聞こえてきた。
「ちょっと健一さん、どういうこと? 今日からあの女がいなくなるって言ったじゃない」
「仕方ないだろ。印鑑証明の期限が切れてたんだ。これから市役所に行ってくる」
「もう、早くしてよ。私、美容室の予約があるから先に出るわ。あの女には鍵をかけておけばいいでしょう。どうせ何も見えないんだから」
バタバタと足音が響き、やがて二つのドアが閉まる音がした。外から鍵がかけられたのが分かる。家の中は完全な静寂に包まれた。
私は杖を床に置き、ゆっくりと目を開いた。もう、見えないふりをする必要はない。
私は寝室を出て、廊下を歩き、リビングのドアを開けた。朝の光が差し込むリビング。そこで私の目に飛び込んできたのは、あまりにも残酷な光景だった。
私が長年大切にしてきた、ベージュの落ち着いたソファ。その上には、明美の派手な赤いコートが投げ捨てられていた。テーブルの上には、飲みかけのワイングラスと、高級なデリバリーの空箱が散乱している。
私が見えない数年間で、この家は完全に明美の好みに染められていた。床の隅には埃が溜まっている。私が見えなくなってから、まともな掃除すらしていなかったのだろう。
私は静かに歩みを進め、和室の前に立った。そこには、五年前に亡くなった父の仏壇がある。扉を開けると、鼻をつくような香の匂いがした。仏壇の花瓶には、萎れ果てた花が刺さったままだった。お供えの水は完全に干上がり、お香の灰が散らかっていた。
「お父さん、ごめんなさい」
私は震える手で枯れた花を捨て、新しい水を供えた。
父が私と健一に託してくれた、大切な家。それを健一はこんなに汚し、私を追い出して売り飛ばそうとしているのだ。悲しみよりも、静かな怒りが胸の奥で燃え上がった。

私はリビングに戻り、健一がいつも使っている引き出しを開けた。ここは、私が目が見えないことを理由に、絶対に触らせてもらえなかった場所だ。
引き出しの中には、無造作に書類が突っ込まれていた。その中から、一冊の通帳を見つけた。表紙には「佐藤健一」と書かれている。最初の宝くじで一億円が当たった時、健一が管理するために作った口座だ。
私は息を詰めながらページをめくった。最後のページを見て、私は目を疑った。残高は、わずか数万円しかなかったのだ。
一億円という大金が、たった数年で消えていた。取引履歴を一つずつ目で追った。高級車の購入、宝飾店での決済、海外旅行の支払い。それだけではない。毎月のように、数百万円単位のお金がある口座に振り込まれていた。振り込み先の名前は、田中明美。
私は手に持っていた通帳を強く握りしめた。健一は、私の目の治療費だと言って預かった金を、全て明美に貢いでいたのだ。
そして、お金が尽きた。今度は私の名義で闇金から借金をし、この家まで売り払うつもりだ。それが健一の描いた筋書きだった。
しかし書類を読み進めるうちに、私は一つの奇妙なことに気がついた。引き出しの奥から、別の契約書が出てきたのだ。それは、明美が健一に書かせた借用書だった。健一が明美から個人的に五百万円を借りていることになっていた。
どういうことだろう? 一億円を貢いでおいて、さらに健一に借金まで背負わせている。その時、玄関のドアがガチャリと開く音がした。市役所に行ったはずの健一ではない。美容室に行ったはずの明美の足音だった。何か忘れ物でもしたのだろうか?
私は急いで書類を引き出しに戻し、ソファに座った。見えないふりをして、手探りでマグカップを握る。
「あら、もしもし」
リビングに入ってきた明美は、誰かと電話をしていた。私のことなど気に留めず、大きな声で笑っている。
「うん。あのバカな男。今頃役所で必死になってるわ。自分の嫁の名前で三千万円も借金するのよ。信じられる?」
明美の声には、健一に対する愛情など微塵もなかった。そこにあるのは、獲物を嘲笑う冷酷な響きだけだ。
「ええ、もちろん。その三千万円が私の口座に入ったら、あの男も捨てるわよ。一億円はもう絞り尽くしたし。あんな能天気な様子、見てられないわ」
私の手がわずかに震えた。明美の本当の目的は、健一と結ばれることではなかった。健一から全てを奪い、最後は健一自身も破滅させるつもりなのだ。そして健一は、それに気づかず、私を犠牲にしてまで明美に尽くそうとしている。
「じゃあ、来月のハワイ旅行、楽しみにしてるわね。ええ、愛してるわ」
明美は甘い声でそう言うと、電話を切った。電話の相手は健一ではない。明美には、健一の本命の男がいるのだ。
明美は鼻歌を歌いながら、リビングの鏡で化粧を直し始めた。私はソファに座ったまま、その背中を静かに見つめた。
三日後、彼らは私を借金の担保にし、施設へ送ろうとする。健一は明美を信じ切り、明美は健一を裏切る準備を進めている。なんて滑稽で哀れな人たちなのだろう。
私はボストンバッグの底に隠した、二回目の宝くじの当選証明書を思い出した。彼らが奪い合っている小金とは比べ物にならない、圧倒的な力。私はそれを武器に、この家を、そして私の人生を取り戻すのだ。

「由美さん、お茶でも飲む?」
明美が突然振り返って、私に声をかけた。その顔には、底意地の悪い笑みが浮かんでいた。
私は杖を握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。
「ええ、ありがとうございます。明美さん」
私がそう答えた時、明美はまだ知らなかった。私の目が、彼女のその意地の悪い笑顔を、はっきりと捉えていることを。

「お茶入れたわよ。由美さん」
明美の声がリビングに響き、私の目の前のテーブルに湯のみが置かれた。私はソファに座ったまま、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。明美さん」
見えないふりをしながら、手探りで湯のみを探す。指先が湯のみに触れた瞬間、私は思わず息を飲んだ。
焼けつくような熱さが指先に走った。沸騰したてのお湯を、そのまま注いだのだろう。普通なら、熱くてとても持てない温度だ。
私が驚いて手を引っ込めると、明美は鼻で笑った。
「あら、ごめんなさい。熱かったかしら? 見えないと不便よね」
明美の言葉には、浅ましい悪意がこもっていた。私が湯のみを落として、火傷をするのを期待しているのだ。
私は火傷しそうなほど熱い湯のみを、両手でしっかりと包み込んだ。手のひらが赤くなり、じんじんと痛む。それでも私は絶対に手を離さなかった。
熱さを顔に出さず、静かに一口飲んだ。
「美味しいです。ありがとうございます」
私が静かにそう言うと、明美はつまらなそうに鼻を鳴らした。
私は湯のみを持つ手に力を込めながら、心の中で冷静に計算していた。相手の悪意は、もう私の心を傷つけることはない。すべて、彼らを地獄へ落とすための証拠になるからだ。

ガチャリと玄関のドアが開く音がした。
「ただいま。いやあ、待たされたよ」
夫の健一が上機嫌な声でリビングに入ってきた。手には、市役所の茶色い封筒を握っている。
「あら、お帰りなさい。健一さん。書類、取れた?」
明美が甘えた声を出して、夫にかけ寄った。
「ああ、ばっちりだ。由美の印鑑証明も、新しく取ってきたぞ」
私はその言葉を聞いて、背筋が冷たくなるのを感じた。印鑑証明を取るには、私の実印とカードが必要だ。私はそれらを、父が残した古い箪笥の奥に隠していた。
夫は、私が目が見えないことをいいことに、私の大切な箪笥を漁り、勝手に持ち出したのだ。
「由美、これで三日後には施設に入れるからな。心配いらないぞ」
健一は私に向かって、わざとらしく優しい声を出した。
「はい。あなた、本当に色々とありがとう」
私は深く頭を下げ、その後、疲れ果てたように目を閉じた。
「ちょっと横になりますね。頭が痛くて」
「そうか。じゃあソファで寝ていなさい。俺たちは少し奥の部屋で片付けをしてくるから」
健一と明美の足音が、寝室の方へ向かって行った。ドアが閉まる音がした瞬間、私はゆっくりと目を開けた。
私は来ていたカーディガンのポケットから自分のスマホを取り出した。そして録音アプリを起動し、静かに立ち上がった。足音を忍ばせて廊下を歩き、寝室のドアのすぐ外に立った。スマホを床に置き、録音状態のまま放置する。そして自分は再びリビングのソファに戻り、静かに目を閉じた。

十分後、二人が寝室から出てきた。
「いやあ、あの古い箪笥も全部捨てていいな。場所を取るだけだ」
健一が笑いながら言う。
「そうね。どうせ使う機会なんてないんだし」
二人は私を一目見て、私が熟睡していると思い込んだ。そしてリビングのテーブルで、あの金融業者の書類を広げ始めた。
私は寝息を立てながら、二人の会話に全神経を集中させた。
「三千万円。これで本当に借りられるのね」
明美の声が少しだけ不安に響いた。
「ああ、この家を担保に入れれば、すぐにお金は降りる」
「でも健一さん、三千万円なんて、どうやって返すの? あなたの年金だけじゃ無理でしょう」
明美の質問に、健一は低く不気味な声で笑った。その笑い声は、長年連れ添った私の知る夫のものではなかった。
「返す必要なんてないさ。由美には五千万円の生命保険がかかってるんだ」
私の心臓が大きく跳ねた。息が止まりそうになるのを、必死にこらえた。
「五年前、由美の目が見えなくなり始めた時にな、俺が受取人でかけておいたんだよ。施設に入って、もし病気が悪化して死んだら、その金が俺に入る。三千万円返しても、二千万円はお釣りが出るってわけだ」
「まあ、健一さんったら頭いい。じゃあ、あの女には施設で早く死んでもらわないとね」
明美が嬉しそうに声を弾ませた。それ以上は言葉にしなくても分かった。彼らは私からお金を奪うだけでなく、私の命が終わることまで計画に組み込んでいたのだ。
私はソファのクッションを強く握りしめた。怒りで体が震えそうになるのを、奥歯を噛みしめて耐えた。まだだ。まだ動いてはいけない。

「じゃあ、俺ちょっとコンビニに行ってくるわ。ついでに銀行にも寄りたいし」
「行ってらっしゃい。私、ここで留守番してるわね」
夫が家を出ていった。明美は再び自分のスマホに夢中になり、誰かとLINEを始めた。
私はゆっくりと体を起こし、「トイレに行きます」と声をかけた。
「はいはい」
明美は画面を見たままで答えた。
私は廊下に出て、寝室のドアの前に置いてあった自分のスマホを回収した。画面を確認すると、今の恐ろしい会話がしっかりと録音されていた。
手が少し震えたが、私はすぐにその音声データを高橋弁護士に送信した。
『高橋先生、今送った音声を聞いてください。夫は私の生命保険を狙っています』
メッセージを送ると、すぐに既読がついた。そして一分も経たないうちに返信が来た。
『確認しました。佐藤さん、これは非常に強力な証拠になります。詐欺だけでなく、悪意の害としても十分に戦えます。相手は完全に逃げ場を失いますよ。よく頑張りましたね』
高橋先生からのメッセージを読んで、私の目から一滴だけ涙がこぼれた。悲しみの涙ではない。反撃の準備が確実に整いつつある、安堵の涙だった。
私は顔を拭い、静かに深呼吸をしてからリビングへ戻った。

その日の夕方、私たちの家のインターホンが鳴った。コンビニから帰っていた夫が、面倒臭そうに玄関へ向かった。
「はい。はい。どちら様ですか?」
ドアが開く音がした。
「あら、ご主人、こんにちは」
聞こえてきたのは、近所に住む町内会副会長の渡辺さんの声だった。
「あ、渡辺さん、どうも。いつもお世話になっております」
夫はいつものように愛想のいい声を出した。しかし次に渡辺さんが放った一言で、夫の顔色が一瞬にして青ざめることになる。
「あのね、佐藤さん、ちょっとお願いがあるんだけど」
渡辺さんの声は少し怒っていた。
「最近、そちらの前に見慣れない車がよく止まってるのよ。『不動産』って書かれた車。うちのガレージの前に止められて、主人が車を出せなくて困ってるの。奥さんの目が悪いから家を売るって聞いたけど、ご近所への配慮はしてちょうだいね」
その言葉が落ちた瞬間、玄関の空気が凍りついた。リビングにいる私には、夫が息を飲む音がはっきりと聞こえた。
夫は私に「施設に入る」とは言いましたが、「家を売る」とは一言も言っていなかったのだ。
私はゆっくりと立ち上がり、杖をついて玄関へと歩き出した。そして、わざと驚いたような震える声を出した。
「あなた、家を売るの?」
私のその一言で、玄関の空気は完全に凍りついた。健一は言葉を失い、大きく目を見開いたまま、口をパクパクとさせている。隣に立つ渡辺さんは不審そうに眉を潜め、私と健一の顔を交互に見た。
「あれ? 奥さん、ご存知なかったの? ごめんなさいね。私、余計なことを言ってしまって」
渡辺さんは気まずそうに、手にした書類を胸に抱え直した。
健一は泡を食ったように慌てて、両手を振り、必死に作り笑いを浮かべた。
「い、いや、渡辺さん、違うんですよ。奥の由美が聞き間違えたんです。あれは家の査定じゃなくて、シロアリ業者です。ほら、この家も古いから、念のために見てもらおうと思って」
あまりにも苦しい、見え透いた嘘だった。渡辺さんは呆れたように小さくため息をついた。
「シロアリ業者が、大和総合不動産なんて名前の車に乗ってくるの? おかしな話ね。町内会のルールでも、引っ越しや売却の時は事前に班長さんに知らせることになってるのよ」
渡辺さんの目は、健一を冷ややかに見据えていた。
「まあ、いいわ。事情があるんでしょうけど、ご近所トラブルだけは避けてちょうだいね。それじゃあ」
渡辺さんは足早に帰って行った。玄関のドアが閉まった瞬間、健一の態度が急変した。
「お前、急に出てくるなよ。近所の前で恥をかいたじゃないか」
健一は私に向かって、苛立ちの声をぶつけた。私は杖を両手で握りしめ、俯いたまま答えた。
「ごめんなさい。でも、家を売るって……ここはお父さんが残してくれた大事な家なのに」
私がわざと震える声で言うと、健一は大きなため息をついた。
「お前の施設の費用が足りないんだよ。俺だって売りたくて売るわけじゃない。お前が高い治療を受けたいって言うから、その準備をしてるんだろうが」
「施設の費用」という言葉が、私の胸に突き刺さった。一億円の当選金を全て明美への貢ぎ物に使い込み、私に借金まで背負わせ、挙句の果てに私の命まで金に変えようとしている男が、まだそんな嘘をつけるのか。怒りよりも、その底知れぬ身勝手さに吐き気がしそうだった。
私は言い返すのをやめ、ただ深く頭を下げて自室に戻った。

部屋に戻り、ドアを静かに閉めると、私は杖を床に置いた。そして来ていたカーディガンのポケットから、小さな紙片を取り出した。
実は、先ほど玄関で渡辺さんと話している時、私の目にははっきりと見えていたのだ。靴箱の影に落ちていた一枚の名刺を、健一が慌ててポケットに書類をしまった際に落としたのだろう。私は見えないふりをしながら杖を落とすふりをして身をかがめ、誰にも気づかれないように、その名刺を拾い上げていた。
名刺には「大和総合不動産」という社名と、担当者の名前が書かれている。さらに裏返すと、手書きのボールペンの文字があった。
『佐藤健一様 売却予定価格 3500万円。明美様にもよろしくお伝えください』
この家を売る計画に、隣人の明美までが深く関わっている。彼らは最初から、私を追い出した後の利益を二人で分けるつもりだったのだ。これは、家を不当に売却しようとしている決定的な証拠になる。
私はその名刺を無音カメラのアプリで撮影し、すぐに高橋弁護士に送信した。
『先生、健一が家を売却しようとしている証拠です』
数分後、先生から短い返信があった。
『確認しました。これで不動産会社の動きを止めることができます。素晴らしい判断です』
彼らの稚拙な計画をまた一つ潰すことができた。その小さな満足感が、冷え切った私の心を少しだけ温めてくれた。

夜になり、健一は「町内会の用事だ」と嘘をついて家を出た。おそらく闇金の書類のことで走り回っているのだろう。リビングには明美が一人で残っている。
私はお茶を取りに行くふりをして、ゆっくりと廊下を歩き、リビングへ向かった。明美は私の大切なソファに寝転び、テレビを見て大きな声で笑っていた。私が入っていくと、明美はわざとらしくテレビの音量を上げた。
「ねえ、由美さん、あなた、明日にはこの家にいないのよね」
明美の声は、テレビの音に負けないくらい大きく響いた。私は黙ってキッチンのカウンターに手をかけ、カップを探すふりをした。
「お父さんの家だって泣いてたみたいだけど、見えないんだから、どこに住んでも同じじゃない。施設なら、三食飯も出てくるし、安全なベッドもあるわ。あなたにはお似合いの場所よ。この家は段差も多いし、あなたみたいな人がいたら危ないもの」
私が何も言えないでいると、明美はさらに冷たい言葉を投げつけた。
「健一さんも言ってたわよ。由美の顔を見るだけで息が詰まるって。あなた、自分がどれだけ迷惑な存在か分かってるの?」
私は湯のみを持つ手にギュッと力を込めた。指先が白くなるほど強く握りしめた。怒鳴り返したい。そのふざけた顔に熱いお茶を浴びせてやりたい。
しかし、私は必死に感情を押し殺した。ここで私が怒れば、これまでの我慢が全て無駄になる。それに、「健一の息が詰まる」という言葉は、きっと本心だろう。私に対して罪悪感があるからこそ、顔を見たくないのだ。
「そうですね。私には何も見えませんから、ご迷惑をおかけしました」
私が静かにそう答えて深く頭を下げると、明美はつまらなそうに鼻を鳴らした。彼女は私を、完全に無力で、ただ耐えるだけの哀れな女だと見下している。しかし、その油断こそが、私にとって最大の武器なのだ。
私は冷めたお茶を一口のみ、足元を確かめるようにして、ゆっくりと自室へと戻った。

深夜、健一が帰宅し、明美と一緒に隣の部屋で眠りに着いた後のことだ。静まり返った私の部屋で、スマホが暗闇の中でブルッと震えた。高橋弁護士からの着信だった。
私は布団を頭からかぶり、声を殺して電話に出た。
「夜分にすみません。佐藤さん、起きていらっしゃいましたか?」
高橋先生の声は、いつもより少し緊張していた。
「はい、起きています。名刺の件、何か分かりましたか?」
「ええ、送っていただいた名刺の不動産会社ですが、裏が取れました。あの会社、田中明美の親族が経営しているダミー会社に近いものです。相場よりはるかに安く家を買い叩き、転売して利益を身内で分ける手口です」
私は息を飲んだ。明美は私の家を奪うだけでなく、健一さえも騙して不当な利益を得ようとしているのだ。健一は何も知らずに、明美の手のひらで踊らされているだけだった。
「それだけではありません。佐藤さん」
高橋先生はさらに声を潜めた。
「田中明美という女性について深く調査を進めたところ、信じられない事実が分かりました」
高橋先生の次の言葉を聞いて、私は暗闇の中で目を見開いた。明美が隠していたのは、健一への裏切りや家の乗っ取りだけではなかった。彼女の過去には、想像もつかないような恐ろしい真実があったのだ。
「佐藤さん、明日は予定通りに迎えの車が来ます。ですが、決して彼らの思い通りにはさせません。最後の準備はいいですか?」
「はい、先生。よろしくお願いします」
電話を切り、私は窓の外を見つめた。夜明け前の、一番暗い時間。しかし私の心の中には、確かな光が差し込んでいた。いよいよ明日、この家で重ねられた全ての嘘が終わるのだ。

「さあ、由美、迎えの車が来たぞ」
翌朝、リビングでコーヒーを飲んでいた健一が、弾んだ声で言った。ついに彼らが、私を「施設」という名の闇へ放り込む日がやってきたのだ。窓の外からは、車のエンジン音が聞こえてくる。
私は古びたボストンバッグを手に、ゆっくりと立ち上がった。
「あなた、本当にお世話になりました」
私は深く頭を下げ、杖で床を探りながら玄関へと歩き出した。健一の隣には、明美が腕を組んで立っている。二人の顔には、これから始まる自由な生活への期待が溢れていることだろう。
玄関のドアが開くと、そこに立っていたのは昨日と同じ男だった。シワだらけのシャツに、汚れたスニーカー。
「佐藤健一さんですね。書類は揃いましたか?」
男の低く事務的な声が玄関に響く。
「ああ、ばっちりだ。印鑑も新しいものを取り直したし、実印もある。由美、ここに名前を書いてくれ」
健一は私の手を取って、強引にペンを握らせようとした。しかし、私がペンを受け取るより早く、男の後ろから別の声が響いた。
「お待ちください」
静かですが、よく通る声だった。健一と明美、そして男が同時に声のする方を振り向いた。そこに立っていたのは、スーツ姿の高橋弁護士だった。
「な、なんだ、あんたは?」
健一が警戒したように一歩下がった。高橋先生は丁寧に名刺を差し出した。
「私は佐藤由美さんの代理人を務めております。弁護士の高橋と申します。本日は由美さんの入所の手続きに立ち会うため、参りました」
その言葉を聞いた瞬間、健一の顔色が土色に変わった。
「で、弁護士? なんで由美に弁護士が……」
明美も後ろで怯えたように、健一の袖を掴んでいる。
「由美さんは目が見えませんので、法的な手続きには専門家のサポートが必要だと判断いたしました。さて、そちらの書類を拝見してもよろしいでしょうか?」
高橋先生が手を差し出すと、借金取りの男は下唇を噛み、慌てて書類を背中に隠した。
「い、いや、これは個人的な金銭のやり取りで、弁護士が口を出すことじゃ……」
「個人的なやり取り?」
高橋先生は穏やかに微笑んだ。
「おかしいですね。ご主人は『施設に入るための同意書だ』とおっしゃっていましたが、それにそちらの書類の件名には『金銭』と書かれているように見えますが」
健一は完全に言葉を失い、口をパクパクとさせていた。明美は「ちょっと健一さん、どういうことよ」と声を荒げている。自分が計画した借金がバレそうになり、パニックに陥っているのだ。
私は杖を両手でしっかりと握りしめた。これまでずっと健一の言いなりになってきた私が、初めて静かに、しかしはっきりと声を出した。
「あなた、それは施設の書類ではなかったのですか?」
私の言葉に、健一はビクッと肩を震わせた。
「ゆ、由美。これは、その……」
「佐藤さん」
高橋先生が健一に向かって、毅然と言い放った。
「由美さんの名義で無断で借金をすることは、明らかな犯罪です。それに、この方が所属している金融業者は、正規の登録を受けていない闇金であることも、すでに確認済みです。もしこのまま手続きを進めるなら、警察を呼ぶことになりますが、よろしいですか?」
その言葉に、借金取りの男は「ちっ、面倒くせえ」と吐き捨て、健一に書類の束を押し付けた。
「話が違うじゃねえか。俺は帰るぞ」
男は足早に車に乗り込み、乱暴にエンジンをふかして去っていった。静寂が戻った玄関で、健一はへたり込むように膝をついた。手には、押し付けられた借用書が握られている。
明美は信じられないものを見るような目で、健一と私を交互に見ていた。
「ゆ、由美、お前、いつの間に弁護士なんて……」
健一が震える声で私を見上げた。私はゆっくりと顔を上げた。そしてわざと焦点を合わせないまま、静かに微笑んだ。
「私には何も見えませんが、心強い味方がいてくれるんです。ええ、あなた」
健一は幽霊でも見たかのように青ざめた。今まで完全にコントロールできていると思っていた妻が、水面下で反撃の準備を進めていた。その事実に、彼は知れぬ恐怖を感じたはずだ。
私の反撃は、始まったばかりだった。彼らが私から奪ったもの、そして私に背負わせようとした罪。その全てを一つ残らず暴き出し、正当な代償を支払わせる。それが私の決意だった。

「弁護士だと? ふざけるな」
健一は床に座り込んだまま、裏返った声で叫んだ。玄関の冷たい空気が、一瞬にして張り詰めた。
「私はただの隣人よ。関係ないわ」
明美は慌てて背を向け、玄関のドアの取っ手に手をかけた。自分だけは逃げ切ろうとする、浅ましい行動だった。
しかし高橋先生は静かに、しかし圧のある声で止めた。
「田中明美さん、あなたにも関係のあるお話です。どうかリビングへお戻りください。今逃げれば、警察を呼ぶことになりますよ」
その言葉に、明美はビクッと肩を震わせ、渋々玄関のドアから手を離した。
私たちは再びリビングへ戻った。私はいつものように白い杖を頼りに、ゆっくりとソファに座った。健一と明美は、まるで罪人のように向かいの席に並んで座った。さっきまで私を嘲っていた、勝ち誇った態度はもうどこにもない。
高橋先生は鞄から数枚の書類を取り出した。テーブルの上に紙が置かれる乾いた音が響く。
「佐藤健一さん、あなたは奥様の由美さんに『施設の費用を払うためにお金を借りると』説明していましたね。しかし、実際には違います」
高橋先生の言葉に、健一は落ち着きなく視線を泳がせた。
「あなたは由美さんを不当に追い出し、この家を売却しようとしていました。さらに由美さんの名義で闇金から三千万円を借りようとした。これは立派な詐欺未遂です」
「ち、違う。俺は由美のために……」
健一は必死に言い訳をしようとした。額には脂汗が浮かんでいる。
「由美の目の治療費が高くて、お金が足りなかったんだ。だから、仕方なく……」
「お金が足りない?」
私は静かに口を開いた。
「あなた、三年前に当たった一億円の宝くじは、どうしたのですか?」
私がその言葉を口にした瞬間、健一は息を飲んだ。高橋先生がテーブルの上の書類を指差した。
「由美さんの言う通りです。ここに、あなたの銀行口座の取引履歴のコピーがあります。一億円の当選金は、治療費には一円も使われていません」
先生は冷酷な事実を淡々と読み上げた。
「高級車の購入、ブランド品の決済、そして田中明美さんの口座への毎月数百万円の送金。一億円は、全て田中明美さんとの遊興費に消えています」
「な、なんで弁護士がそんなものを……」
健一の顔から、一気に血の気が引いていくのが分かった。私は見えないふりをしながら、心の中で深く息を吐いた。夫の裏切りを言葉で突きつけられるのは、やはり痛みを伴う。しかし、その痛み以上に、彼らの愚かさが際立っていた。
「ちょっと待ってよ。私は関係ないわ」
突然、明美がかん高い声で叫んだ。
「健一さんが勝手に私に貢いだだけよ。私は頼んでないわ」
その言葉に、一番ショックを受けたのは健一だった。
「あ、明美ちゃん、何を言ってるんだ? 二人で一緒になろうって。あの金で新しい人生を始めようって言ったじゃないか」
健一はすがるような目で明美を見つめた。しかし、明美の目は氷のように冷たいものだった。
「冗談じゃないわよ。誰があなたみたいな年寄りと一緒になるもんですか。お金をくれるから、ちょっと遊んであげただけじゃない」
残酷な本音だった。一億円を貢がせ、私を追い出して家まで売らせようとしていた女の、これが本当の顔だ。健一は口を半開きにしたまま、言葉を失っていた。信じていた愛人に、あっさりと切り捨てられたのだ。彼が私を裏切ってまで手に入れたかったものは、最初から存在しなかった。
「田中明美さん、あなたが『関係ない』というのは、無理がありますよ」
高橋先生が一枚の紙をテーブルに置いた。私が昨日玄関で拾った、大和総合不動産の名刺のコピーだ。
「この不動産会社は、あなたのご親族が経営していますね。相場よりはるかに安い三千五百万円でこの家を買い叩き、転売して利益を身内で分ける。それがあなたの本当の目的だったはずです」
明美の顔が、今度こそ真っ青になった。
「どうして、それを……」
「健一さんは、あなたに利用されていたのですよ。一億円を絞り尽くされた上に、自分の家まで安く奪われ、借金だけを背負わされて、最後は捨てられる運命だったのです」
高橋先生の言葉に、健一はわなわなと震え出した。
「明美、お前、俺を騙していたのか!」
健一が立ち上がり、明美に掴みかかろうとした。
「やめてよ! 触らないで!」
明美が悲鳴を上げ、二人は見苦しく言い争い始めた。私はその様子を静かに聞いていた。怒鳴り声の応酬。これが、私を捨ててまで、彼らが求めた未来の姿だ。
「もうやめてください」
私の静かな一言に、二人はハッとして動きを止めた。
「ここは、私の父が残してくれた家です。汚い言葉で、これ以上この家を汚さないでください」
健一は私を見た。そして、行き場のない怒りと絶望を、今度は私に向けたのだ。
「ふざけるな。お前が目なんて見えなくなるから、こんなことになったんだ。お前が悪いんだ」
健一は自分の罪を、全て私のせいにしようとした。
「いいだろう。弁護士でも何でも使え。だがな、俺はお前と離婚する。この家はお前のものでも、夫婦の財産だ。半分は俺の権利があるんだよ」
どこまでも身勝手な言い分だった。健一はまだ自分が勝てると思っている。この家を売り払い、そのお金で逃げ切れると信じている。
しかし、高橋先生はため息をつき、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「健一さん、あなたは重大な事実を忘れていますよ。夫婦の財産分与を主張できるような立場だと、本気で思っているのですか?」
高橋先生がスマホの画面を操作すると、静かなリビングにある音声が流れ始めた。
『返す必要なんてないさ。由美には五千万円の生命保険がかかってるんだ。施設に入って死んだら、その金が俺に入る』
それは、昨日私が録音した、健一と明美の会話だった。自分の声が響き渡った瞬間、健一は雷に打たれたように硬直した。明美も手で口を覆い、目を見開いている。
「な、なんで、その声が……。由美は寝ていたはずだ。誰が録音したんだ」
健一は恐怖に顔を歪め、周囲を見回した。まるで見えない幽霊に怯えるかのように、部屋の隅々を睨みつけた。私が自分で録音したとは、夢にも思っていないのだ。
私はソファに座ったまま、表情を変えなかった。そして高橋先生は、静かにこう言った。
「健一さん、あなたの嘘は、もう全て明らかになっています。そして明美さん、あなたが隠している秘密は、これだけではありませんよね」
明美の肩がピクッと跳ね上がった。リビングの空気は、さらに重く冷たく沈んでいった。

リビングに響き渡った恐ろしい計画の録音。その余韻がまだ消えきらないうちに、突然、かん高い笑い声が部屋の空気を切り裂いた。
「あはははは」
それは明美だった。彼女は口元を手で覆いながら、まるで面白いコメディ番組でも見たかのように、肩を揺らして笑い始めた。健一でさえ、その異常な態度に驚いて明美を見ている。
「いやだ、健一さんったら。あんな冗談を本気にして、録音されてたなんて。傑作だわ」
明美は涙を拭うふりをしながら、高橋先生を挑発するように見上げた。
「弁護士さん、保険金の話なんて、ただの夫婦喧嘩の延長の悪い冗談じゃないですか。実際に殺したわけでもないのに。それが何の証拠になるんですか?」
明美の言葉に、健一はハッとして顔を上げた。恐怖で青ざめていた顔に、再び見苦しい居直りが戻ってくるのが分かった。
「そ、そうだ。あれは酒を飲んで、つい喋っただけの冗談だ。そもそも、家の中で勝手に録音した音声なんて、裁判で使えるのかよ」
健一は立ち上がり、強気に高橋先生に詰め寄った。
「それに弁護士先生、あんた、少し来るのが遅かったな」
健一は自分のバッグから茶色い封筒を取り出した。そして中から数枚の書類を引き抜き、テーブルの上に乱暴に叩きつけた。
「由美と俺は、今朝すでに離婚が成立しているんだよ」
その言葉に、私は杖を握る手に少しだけ力を込めた。健一が先日、私に「施設の同意書だ」と嘘をついて書かせた離婚届。それを、今朝の市役所ですでに提出し、受理されていたのだ。
「俺たちはもう赤の他人だ。他人が、俺の家にいる権利はない」
健一は勝ち誇ったように、私の顔を指差した。高橋先生は冷静に、テーブルの上の書類に目を通した。
「健一さん、この家は由美さんのお父様が残されたものです。離婚したからと言って、あなたが勝手に売却できるものではありませんよ」
高橋先生の当然の指摘に、健一は薄気味悪い笑みを浮かべた。
「甘いな。その書類の下を見てみろよ」
健一の言葉に、高橋先生の目がわずかに細められた。私も見えないふりをしながら、テーブルの上の書類に視線を落とした。そこにあったのは、不動産の生前贈与契約書のコピーだった。
「一年前にな、由美が完全に目が見えなくなって落ち込んでいた時だ。税金の対策だと言って、実印を押させたんだよ。この家の名義は、すでに俺のものになっている」
私は息を飲んだ。一年前、健一が「複雑な手続きは俺がやっておくから」と優しく言い、私が何も疑わずに印鑑を渡してしまった日のことだ。彼はその時から、私を追い出し、家を奪う計画を立てていたのだ。私の父が残した、大切な家を自分のものにするために。
「どうだ? 弁護士さん。離婚も成立し、名義も俺だ。これのどこが犯罪なんだよ?」
健一は完全に優位に立ったと確信し、大声で笑った。明美もその横で、「やっぱり健一さんってば、本当に頭いい」とはしゃいでいる。騙して書かせた書類など、法的には無効にできる。高橋先生は毅然とした態度で反論した。しかし、向こうにするには裁判所に申し立てを行い、法的な手続きを踏む必要がある。それには、少し時間がかかる。
「時間? そんなもの、与えるかよ」
健一は私の前に歩み寄り、冷たい声で見下ろした。
「由美、お前には三日だけ時間をやる。三日後の日曜日に、俺の親族がこの家に集まることになっている。そこで、お前が狂って家を出ていくことになったと、全員に説明してやるよ」
健一の計画は、あまりにも悪質だった。親族を集め、私が精神的におかしくなったという嘘を吹き込み、離婚と家の売却を正当化するつもりなのだ。誰も、目が見えない私の言うことなど信じないだろうと、高を括っている。
「三日後、親族の前で荷物をまとめて出ていけ。もし出ていかないなら、警察を呼んで不法侵入で引きずり出してもらうからな」
健一の宣言が、冷酷に響き渡った。明美も「早くしなさいよ。おばあちゃんと待ち合わせしてるの」と付け加える。
高橋先生は無念そうに唇を噛んだ。
「佐藤さん……」
先生が私に声をかけようとした時、私は静かに首を横に振った。そしてゆっくりと立ち上がり、健一に向かって深く頭を下げた。
「分かりました。三日後、親族の皆様の前で、この家を出ていきます」
私のその素直な返事に、健一と明美は顔を見合わせ、勝利の笑みを浮かべた。
「最初からそう言えばいいんだよ。弁護士なんて呼んで、無駄な抵抗をするからだ」
健一は満足そうに鼻を鳴らした。高橋先生は私の意図を察し、小さく頷いた。
「本日はこれで引き下がります。しかし健一さん、あなたの言った行為は、必ず法の下で裁かれます。そのことだけは、お忘れなく」
先生はそう言い残し、玄関へと向かった。

静寂が戻ったリビングで、健一と明美の祝杯が始まった。彼らは高級なワインを開け、私の目の前でハワイ旅行の計画を大声で話し始めた。私は黙って自室へと戻った。
部屋に戻ると、私はドアを閉め、床に座り込んだ。健一たちは、自分たちが完全に勝ったと思っている。離婚届を受理させ、家の名義を奪い、私を追い出す権利を手に入れたと。そして三日後の親族会議で、私を社会的に完全に孤立させるつもりだ。
しかし、彼らは大きな勘違いをしている。私が黙って引き下がったのは、負けを認めたからではない。三日後に親族が集まる。それこそが、私にとって最高の舞台だからだ。
私はボストンバッグの底から、二回目の宝くじの当選証明書を取り出した。その紙の感触が、私の心に確かな火を灯してくれる。私はもう、夫の嘘に怯える弱者ではない。父の家を取り戻し、自分の人生を歩み出すための、圧倒的な力を持っている。

翌日から、家の中での私の扱いはさらに残酷なものになった。健一と明美は、私がまだいるにも関わらず、家中の荷物を整理し始めた。
「この汚い服、全部捨てていいわよね」
明美は私の大切な着物や、母の形見の洋服を次々と黒いゴミ袋に詰め込んでいった。私が手探りで止めようとすると、健一が容赦なく私の手を払いのけた。
「触るな。どうせ施設に入るんだから。こんなゴミは必要ないだろう」
健一の冷たい怒鳴り声が響く。私はゴミ袋の結び目に触れ、その冷たい感触を心に刻み込んだ。悲しくはなかった。彼らが私から奪うものが増えれば増えるほど、彼らが支払う代償も大きくなるだけだ。

夜になり、二人が出前の寿司を食べている間、私は自分のスマホを開いた。高橋先生から、新しいメッセージが届いていた。
『佐藤さん、明美の過去について、決定的な証拠が揃いました。親族の皆様が集まる場は、真実を暴くのに最も適しています。日曜日は私も同席します』
私はその画面を見つめながら、静かに微笑んだ。健一は私を追い詰めたつもりでいる。明美は私の家を乗っ取ったつもりでいる。しかし、彼らが登っているのは勝利の階段ではない。真っ逆さまに地獄へと落ちるための、滑り台への階段なのだ。
いよいよ明日、全ての親族がこの家に集まる。何も知らない親族たちの前で、健一は私を狂人扱いし、自分を悲劇の夫に仕立て上げるだろう。そして明美は、良き隣人を装って同席するはずだ。彼らが一番高いところで勝ち誇った瞬間、私はその足場を跡形もなく崩し去る。

「由美、明日は親戚のおじさんたちも来る。お前の口から、自分から出ていくって言えよ」
寝る前、健一が私の部屋のドアを開けて、冷たく言い放った。私は布団の中で、静かに答えた。
「ええ、分かっています。明日は、全てはっきりさせましょう」
私のその声が、どれほど冷たく確かな決意に満ちていたか。健一は気づくこともなく、乱暴にドアを閉めた。暗闇の中で、私は静かに目を閉じ、明日という日を待ちわびていた。

「由美、親戚が来る前にもう一度言っておくぞ。お前は自分から家を出て、施設に行きたいと言うんだ。余計なことは一切喋るな」
日曜日の朝、冷たい声が私の寝室に響いた。夫の健一は、鏡の前でネクタイを締めながら、私を睨みつけている。
「もし少しでも変なことを言ったら、あの弁護士のことも、親戚に全部ばらすからな。お前が勝手に弁護士を雇って、俺を落とし入れようとしたってな」
健一は脅すように、私に指を突きつけた。私は白い杖を膝に置き、静かに俯いたまま、「分かりました」とだけ答えた。健一は満足そうに鼻を鳴らし、リビングへと向かった。

なぜ私は視力が回復したことを隠し、今日まで黙って耐えてきたのか。その理由が、今ならはっきりと分かる。中途半端な反撃では、私の心と、父の残したこの大切な家を、完全に守りきることができなかったからだ。
もし視力が戻った直後に、「目が見えるようになった」と告げていたら、どうなっていただろう? 私がリビングで抱き合う二人を見たと言えば、健一は「ただ相談に乗ってもらっていただけだ」と泣きついて、不倫を隠したはずだ。消えた一億円の宝くじの当選金についても、「お前の将来のために投資して失敗した」などと、適当な嘘でも吐いただろう。そして何より、家の名義が私の知らない間に奪われていたという、恐ろしい事実にも気づくことができなかったかもしれない。
だから私は、見えないふりを続けた。彼らが完全に油断し、取り返しのつかない罪を、私の目の前で堂々と犯すのを待ったのだ。
偽造された離婚届、違法な借金の借用書、私を騙して書かせた不動産の贈与契約、そして私の命を金に変えようとした生命保険の計画。それらは全て、決して言い逃れのできない完全な証拠となった。彼らは私を落とし入れるために、自分たち自身の逃げ道を、一つずつ確実に塞いでいったのだ。

リビングからは、明美のかん高い声が聞こえてきた。
「健一さん、お茶の準備はできてるわよ。お茶菓子も綺麗に並べておいたからね」
明美は今日、地味な色のワンピースを着て、思いやりのある隣人を演じる準備をしていた。普段の派手な化粧も落とし、清楚で親切な女性を装っている。
しかし、私は先ほど明美が洗面所で身支度をしている時、鏡越しにはっきりと見ていた。彼女が自分の首元に光る豪華なダイヤのネックレスを、服の下に隠すのを。それは私が「目の治療費だ」と思って渡したお金で、健一に買わせたものだ。親族の前ではただの親切な隣人を装い、金目当ての愛人であることを隠したのだ。その姑息な手口を見て、私は心の中で静かに冷笑した。彼らの嘘は、もはや滑稽なほどに薄っぺらいものだった。

午前十時、玄関のチャイムが鳴り、親族たちが次々と集まってきた。健一の兄である浩司さん、叔父の和夫さん、そして私の従妹である直子など、合わせて十人ほどがリビングに集まった。私は部屋の隅の椅子に、俯いて座らされていた。
「みんな、今日は休日の朝早くから、本当に済まない」
健一はすっかり疲れきった悲劇の夫を、見事に演じていた。
「実は、由美のことで、どうしてもみんなに相談しておきたいことがあってね」
健一の声は、わざとらしく震えていた。親族たちの間に、心配そうな空気が広がる。
「どうしたんだ、健一? 電話でも、ひどく思い詰めた声だったが」
兄の浩司さんが、深刻な顔で尋ねた。健一は大きくため息をつき、私の方を悲しそうに見つめた。
「由美は、目が見えなくなってから、精神的に少しおかしくなってしまったんだ」
健一の言葉に、親族たちの間にどよめきが起きた。私の従妹の直子が、信じられないというように口を開いた。
「由美ちゃんが? そんな……先月、電話で話した時は、普通だったわよ」
「それが、ここ最近、急にひどくなったんだ。僕の言うことも全く理解できなくなって、急に怒り出したり、泣き叫んだりする。近所の人にも迷惑をかけるようになってしまって……正直、僕一人ではもう限界なんだ」
そこへ、お茶の準備を終えた明美が、悲しそうな顔を作って健一の隣に立った。
「初めまして。お隣に住んでいる田中と申します」
明美は深くお辞儀をした。
「私もご近所として、健一さんをずっとお手伝いしてきたんですけど、由美さん、夜中に突然大声を出して外に出ようとしたり、物を投げたりするようになって……健一さんが、本当にかわいそうで」
明美の言葉は、全くの嘘だ。私が夜中に大声を出したことも、物を投げたことも、一度もない。しかし、地味な服を着て涙ぐむ明美の姿は、何も知らない親族たちには、本当に献身的な隣人に映ったのだろう。
「そうだったのか。健一、お前もよく一人で耐えてきたな」
叔父の和夫さんが、同情するように深く頷いた。
「由美さんもかわいそうだが、このままじゃ共倒れになってしまうぞ。専門の施設に入れた方が、絶対にお互いのためだ」
他の親族たちも、次々と同調して頷き始めた。健一と明美は、一瞬だけ視線を交わし、微かに口元を上げた。自分たちの思い通りに親族を操れたと、勝利を確信したのだ。

「由美」
健一が、この世で一番優しい夫のような声を作って、私に近づいてきた。
「みんなも、お前のことを心配してくれている。お前も、施設に入ることに納得してくれるよな。俺が、必ず良い場所を見つけるから」
親族全員の視線が、一斉に私に集まった。私がここで頷けば、彼らの計画は完全に成就する。私は不必要になった厄介者として施設に送られ、健一は家を売り払い、明美と一緒に大金を手にするのだ。
私は杖を握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。そして、静かに口を開いた。
「健一さん、あなたが良い施設を見つけてくれるというのは、本当ですか?」
「あ、ああ、もちろん。俺を信じてくれ」
健一は少し間を置いて、大きく頷いた。
「そうですか。でも、おかしいですね」
私はゆっくりと首をかしげた。
「あなたが先日、私に書かせた書類には『金銭』と書いてありましたよ。私の名前で、闇金から三千万円を借りるための書類ですよね?」
その瞬間、リビングの空気がキシッと凍りついた。親族たちの表情が固まり、健一の顔から一気に血の気が引いた。
「な、お前、何を言ってるんだ? 頭がおかしくなったからって、適当な嘘をつくな!」
健一は慌てて大声を出し、私の言葉を精神的な異常による暴言にしようと、必死に取りつくろった。
「嘘ですか? では、あなたが一年前、税金対策だと言って私に実印を押させた書類が、不動産の生前贈与だったのも、私の妄想ですか?」
私は一歩も引かず、静かに言葉を重ねた。
「そして、私が目の治療のためにあなたに預けた一億円の宝くじの当選金。あれが全て、そこにいる田中明美さんへの貢ぎ物に消えたのも、私の頭がおかしいからですか?」
「なんだって?」
兄の浩司さんが、信じられないという顔で健一を見た。
「健一、一億円って、どういうことだ? それに、家の名義変更って……」
「違う! こいつは完全に狂ってるんだ。全部、こいつの妄想だ!」
健一は顔を真っ赤にして叫んだ。明美も青ざめた顔で、「そうよ。この人、頭がおかしいのよ」と囃し立てた。
親族たちは、私と健一の顔を交互に見比べ、完全に困惑していた。目が見えないはずの私が、あまりにも具体的な事実を次々と口にしたからだ。
健一が私を黙らせようと、怒りに任せて腕を振り上げた。まさにその時だった。玄関のチャイムが、静かに、しかしはっきりと鳴り響いた。
「ん? 誰か、遅れてきたのか?」
浩司さんが不思議そうに、玄関へ向かおうとした。私は来ていたカーディガンのポケットの中で、スマホが一度だけ短く震えるのを感じた。高橋弁護士からの合図だった。
「いいえ、来客ではありません。ちょうど良い時間です」
私は静かに、しかしリビングの全員に響き渡る声で言った。
「健一さん、私の本当の理解者をお呼びしておいたんです」
私のその言葉に、健一は足を止め、振り返った。親族たちも、軽蔑の顔で私を見ている。私はもう、俯いてはいなかった。静かに前を見据え、背筋を真っすぐに伸ばして座っていた。
玄関のドアが開く音がした。そして、廊下から足音が近づいてくる。健一が廊下を覗き込み、驚愕の声を上げた。
「お前……なんで、ここにいるんだ?」
リビングの空気が、さらに冷たく張り詰めた。明美の顔からも、完全に余裕の笑みが消え去った。過去の点と点が全て繋がり、彼らが積み上げてきた嘘の城が崩れ落ちる時間が、いよいよ始まったのだ。

「お前、なんでここにいるんだ!」
健一の叫び声が、リビングに響き渡った。廊下から静かに歩みを進めてきたのは、スーツ姿の高橋弁護士だった。手には、分厚いファイルの束を抱えている。
「健一さん、先日はどうも。そして、親族の皆様、初めまして」
高橋先生は、驚いて固まっている親族たちに向かって、丁寧にお辞儀をした。
「私は、佐藤由美さんの正式な代理人を務めております。弁護士の高橋と申します。本日は由美さんのご依頼により、皆様に真実をお伝えするために参りました」
「ふざけるな! 帰れ!」
健一が顔を真っ赤にして、高橋先生に飛びかかろうとした。しかし、兄の浩司さんが、それを力強く制止した。
「やめろ、健一。弁護士の先生がわざわざ来られたんだ。話を聞くのが筋だろう」
「兄貴、こいつは由美に雇われた悪徳弁護士だ。俺を落とし入れようとしてるんだ!」
健一は必死に叫んだが、浩司さんは冷たい目で弟を睨みつけた。
「お前が落とし入れられるようなことをしていないなら、堂々と聞いていればいいだろう。座れ」
浩司さんの迫力に押され、健一は渋々ソファにどすんと座り込んだ。隣に座る明美は、完全に顔面蒼白になり、小刻みに震えている。
高橋先生は冷静にファイルを開き、数枚の書類を取り出して親族たちの前に並べた。
「皆様、先ほど由美さんが申し上げたことは、全て事実です」
高橋先生のよく通る声が、静まり返ったリビングに響いた。
「まず、こちらをご覧ください。健一さんの銀行口座の取引履歴です。三年前に当選した一億円の宝くじは、由美さんの目の治療費として健一さんに預けられました。しかし、その大半が、隣に座っている田中明美さんへの送金と、二人の遊興費に消えています」
浩司さんが書類を手に取り、その目を見開いた。
「毎月、二百万、三百万……明美という名前の口座に振り込まれてる。……これは、本当なのか?」
浩司さんの怒鳴り声に、健一はビクッと肩を跳ねさせた。
「そ、それは投資だよ。明美さんが、詳しい投資の話を知っていて……」
「苦しい言い訳ですね」
高橋先生は冷たく切り捨てた。
「田中明美さんには、投資の資格などありません。さらに、由美さんの名義で無断で借金をしようとした証拠もあります。この『金銭借用書』です。貸主は、無登録の違法な金融業者でした」
親族たちの間に、激しい動揺が走った。叔父の和夫さんが、信じられないという顔で健一を見つめた。
「健一、お前……由美さんの目が見えないことをいいことに、そんな恐ろしいことをしていたのか? お前は由美さんを施設に入れると言っていたが……まさか……」
「まさか、その通りです」
私が静かに口を挟んだ。
「健一さんは、私を劣悪な施設に放り込み、この家を売却して、明美さんと二人でハワイへ旅行に行く計画を立てていました」
その言葉に、明美が突然立ち上がった。
「私は関係ないわ! 全部、健一さんが勝手にやったことよ!」
明美は錯乱したように叫び、健一を指差した。
「この男が、奥さんが邪魔だから追い出すって言い出したのよ。私は、無理やり付き合わされただけで……」
「明美ちゃん、お前、何を言ってるんだ?」
健一は、裏切られたショックで目を見開き、立ち上がった。
「俺はお前のために、お前が欲しいっていうバッグも指輪も、全部買ってやったじゃないか。この家を売ったお金で一緒になろうって言ったのは、お前だろう!」
二人は親族たちの前で、見苦しい言い争いを始めた。自分だけは助かろうと、お互いに罪をなすりつけ合う姿。それはあまりにも浅ましい光景だった。

しかし、健一は突然、何かが吹っ切れたように、大声を上げて笑い始めた。
「はははは」
その狂気じみた笑い声に、リビングは再び静まり返った。健一はフラフラと歩き出し、部屋の隅にある飾り棚から、高級なウイスキーのボトルを取り出した。それは一億円が当たった直後に、彼が嬉しそうに買ってきた、数万円の酒だった。
「いいだろう。全部バレたなら、仕方ない」
健一は琥珀色の液体を、グラスから溢れさせながら注ぎ、一気に煽った。
「ああ、そうだ。俺が金を使った。こいつの目が見えないのをいいことに、全部使ってやったよ。なぜだか分かるか? 毎日毎日、こいつの介護をするのが嫌だったんだよ」
健一は空になったグラスをテーブルに叩きつけた。
「俺はまだ若い。なんでこんな暗い女と一緒に、人生を終わらせなきゃならないんだ」
健一の言葉は、私の心を抉るような鋭さを持っていた。しかし、私はもう傷つきませんでした。彼の言葉は、自分勝手な欲望を正当化するための、ただの言い訳に過ぎないからだ。
「だがな、俺は負けてないぞ」
健一は再びグラスに酒を注ぎ、勝ち誇ったように高く掲げた。
「由美、お前は弁護士を雇って俺を追い詰めたつもりだろう。だが、俺たちはすでに離婚している。そして、この家の名義は俺のものだ」
健一は親族たちに向かって、狂ったように叫んだ。
「俺はこの家を売る。その金で、俺は新しい人生を始めるんだ。誰にも文句は言わせない。俺の新しい人生に、乾杯だ!」
健一が狂気の祝杯を上げる姿を、親族たちは言葉を失って見つめていた。明美さえも、その異常な態度に怯え、後ずさりしている。彼は完全に自分を見失っていた。目の前の小さな家という財産に目がくらみ、それさえあれば自分が勝者になれると信じ込んでいるのだ。
私は静かに息を吸い込み、膝の上に置いていた自分のバッグの中に、そっと手を入れた。指先が、分厚い手帳のカバーに触れる。その裏には、一枚の紙が隠されている。半年前、私が一人で病院の帰りに買った宝くじ。一回目の当選額をはるかに超える、二回目の高額当選を証明する紙だ。
私はその紙の感触を指先でしっかりと確かめた。健一は、私を全てを失った哀れな女だと思っている。この家を奪えば、私が路頭に迷って泣き叫ぶと信じている。しかし、私には彼が想像もできないほどの力がある。彼らが奪い合っているちっぽけな利益など、私からすればただのゴミクズに過ぎない。
私はバッグの中でその紙を握りしめたまま、静かに微笑んだ。その微笑みを見た健一は、グラスを持った手をピタリと止めた。
「何がおかしい。なんで笑ってるんだ?」
健一の声に、焦りが混じり始めた。私が泣いてすがると思っていたのに、全く動揺していないからだ。
「健一さん」
私は静かに、しかしはっきりと彼に言った。
「あなたは、自分が勝ったと思っているのですね。この家を手に入れて、新しい人生を始められると」
「当たり前だ。書類は揃ってるんだからな」
「そうですか。でも、残念ですね」
私は顔を上げ、焦点を合わせないまま、健一のいる方向をまっすぐに見つめた。
「あなたは、何も手に入れることはできませんよ。その家も、新しい人生も、そして、あなたの隣にいる、その女性の心も」
「な、何を強がってる? お前は、もう終わりなんだよ!」
健一が怒鳴ったその時、高橋先生が静かに口を開いた。
「健一さん、あなたが誇っている家の名義変更ですが」
高橋先生は別のファイルをゆっくりと開いた。
「由美さんから事前に相談を受けていたため、私はすでに法務局で手続きの差し止めをしています。あなたが持っているその贈与契約書は、法的に完全に無効です」
ガチャンという音が響いた。健一の手からグラスが滑り落ち、床で粉々に砕け散った。ウイスキーの匂いがリビングに広がる。
「ど、どうして……。なんでだ?」
健一の顔から、最後の血の気が引いていった。
「それだけではありません。田中明美さん、あなたの嘘も、全て調べがついていますよ」
高橋先生の鋭い視線が、今度は明美に向けられた。明美はビクッと肩を震わせ、「わ、私は関係ないって言ってるでしょう」と後ずさりした。
「関係のない話ではありません」
高橋先生は冷淡な声で告げた。
「あなたが健一さんに近づいた本当の目的。そして、過去にあなたが別の高齢男性に対して行った、同じような手口の詐欺行為。全て、証拠は揃っています」
明美の顔が、恐怖で完全に歪んだ。親族たちは、あまりの事態の連続に、ただ息を飲んで見守るしかなかった。

私はバッグの中の当選証明書から手を離し、静かに立ち上がった。長い間、私を縛りつけていた鎖が、今、完全に断ち切られようとしている。暗闇の中で耐え忍んできた私の時間は、決して無駄ではなかった。悪役たちが自ら掘った深い穴に落ちていく瞬間が、近づいていた。
「健一さん、明美さん」
私は静かに、しかし冷淡に言い放った。
「あなたたちの嘘は、今日ここで、全て終わります」
「ち、違うわ。私は何も知らない。その弁護士が勝手に言っているだけよ!」
明美のかん高い叫び声がリビングに響き渡った。彼女は顔を真っ赤にして、高橋先生を睨みつけた。
「私を詐欺師扱いする気? 証拠もないのに、適当なことを言わないで!」
しかし、高橋先生は全く動じなかった。手元のファイルから、さらに数枚の書類を静かに取り出した。
「証拠なら、ここに全て揃っていますよ」
高橋先生は穏やかな声で、書類を読み上げ始めた。
「三年前ほど前、隣の市にお住まいだった、当時七十歳の資産家の男性。あなたが親切な介護ボランティアとして近づき、親族から引き離して、同居し始めた方ですね」
その言葉を聞いた瞬間、明美の顔からサッと血の気が引いた。
「その男性は、あなたに全財産を注ぎ込み、最後は借金まで背負わされて、自己破産しました。ご親族があなたを訴えましたが、あなたは『全て本人が自ら贈与したものだ』と主張し、時効で逃げ切りましたね」
高橋先生は親族たちにその書類を回した。親族たちが、食い入るようにその紙を見つめる。
「そして、次にお前が目をつけたのが、宝くじで一億円を当てた、健一さんだった」
高橋先生は明美をまっすぐに見据えた。
「あなたがこの家の隣に引っ越してきたのは、健一さんが当選したわずか二ヶ月後です。偶然ではありません。あなたは最初から、このお金を狙って近づいたのですよ」
リビングは、水を打ったように静まり返った。健一は床に座り込んだまま、信じられないという顔で明美を見上げていた。
「あ、明美ちゃん、嘘だろう? 俺のことが好きだって、一緒にハワイで暮らそうって……」
健一の声は、情けないほど震えていた。しかし、全てが明るみに出た今、明美はもう清楚な隣人を演じるのをやめた。彼女は鼻を鳴らし、健一を汚いものを見るような目で見下ろした。
「分かってる? あなたみたいな冴えない男。本気で好きになるわけないでしょう」
明美の冷酷な言葉が、健一の胸に突き刺さった。
「少し甘えれば、ホイホイと何百万もするバッグを買ってくれる。奥さんを騙して、どんどんお金を貢いでくれる。こんなに都合のいい金ヅル、他にいないわよ」
「お前……俺を騙していたのか」
健一は両手で頭を抱え、絶望の声を上げた。
「騙される方が悪いのよ」
明美は鼻で笑った。
「一億円を綺麗に使い切ったんだから、もう用済みよ。あとはこの家を売ったお金をもらって、さよならするつもりだったのに。本当に、使えない男ね」
「ふざけるな!」
浩司さんが激しい怒りと共に立ち上がった。
「健一、お前はこんな女のために、長年連れ添った由美さんを捨てようとしたのか! 父さんが残したこの家まで売り飛ばして!」
「兄貴、違うんだ。俺はこいつに騙されて……」
健一は必死に浩司さんにすがりつこうとした。しかし、浩司さんは冷たくその手を振り払った。
「触るな。俺は、お前みたいな弟を持った覚えはない。由美さんの目が見えないのをいいことに、自分の妻を施設に追いやって、財産を愛人に貢ぐ。人間のクズだ」
叔父の和夫さんも、深くため息をついた。
「佐藤家の恥だ。健一、お前はもう親族の集まりに顔を出さなくていい。縁を切らせてもらう」
親族たちから次々と投げられる、冷たい絶縁の言葉。健一は完全に孤立した。信じていた愛人には裏切られ、血の繋がった家族からは見放されたのだ。これが、私を裏切った男の末路だった。
しかし、健一はまだ諦めていなかった。彼は床に手をついたまま、ギリッと奥歯を噛みしめた。
「いいさ、みんな俺をバカにすればいい。だがな、俺はまだ終わってないぞ」
健一は立ち上がり、血走った目で私を睨みつけた。
「一応、金は騙し取られたかもしれない。家の名義も変えられなかった。親族からも縁を切られた。だが、由美! お前との離婚だけは、成立しているんだ」
健一の言い分は、あまりにも身勝手で滑稽だった。
「俺はもう、目が見えないお前の面倒を見る義務はない。財産がなくても、俺は自由なんだ。お前みたいな暗い女と別れられただけでも、俺の勝ちだ」
私はソファに座ったまま、静かにその言葉を聞いていた。怒鳴る気にもなれなかった。ただ、彼の心の底にある、救いようのない浅ましさを感じていた。
「健一さん」
高橋先生が冷たい声で口を開いた。
「あなたは本当に、自分が自由になれると思っているのですか?」
「当たり前だ。離婚届は、役所に出したんだ」
「偽造された離婚届は、無効にする手続きを進めています。しかし、それ以前の問題です」
高橋先生はテーブルの上にある一枚の紙を指差した。
「先日、あなたが明美さんに書かされた五百万円の借用書、覚えていますね」
健一はハッと息を飲んだ。
「あ、あれは、明美ちゃんが二人の生活の足しにするために、一時的に……」
「形式上だけの書類だった? 残念ですが、法的には立派な借金です」
高橋先生は容赦なく続けた。
「一億円を貢いだ事実は、贈与と見なされます。しかし、この五百万円は、あなたが明美さんに返済しなければならない債務です。あなたには、現在貯金がありません。年金から、毎月この五百万円を彼女に返し続けることになります」
健一は目を見開き、明美を見た。明美は意地悪そうな笑みを浮かべていた。
「そういうこと。弁護士さんの言う通り。ちゃんと、耳を揃えて返してね。健一さん」
健一はわなわなと震え、膝から崩れ落ちた。お金も、家も、家族も、愛人も。全てを失った。その上に残ったのは、多額の借金だけ。彼は自分の描いた「新しい人生」が、ただの地獄への入り口だったことに、ようやく気がついたのだ。

「そして、健一さん、親族の皆様」
私が静かに口を開いた。リビングの全員の視線が、私に集まった。私は杖を両手で握りしめ、背筋をまっすぐに伸ばした。
「健一さんが隠していた、最大の嘘を、皆様に聞いていただきたいと思います」
私は高橋先生に小さく頷いた。先生はスマートフォンを取り出し、テーブルの中央に置いた。そして、画面をタップした。
『返す必要なんてないさ。由美には五千万円の生命保険がかかってるんだ。施設に入って死んだら、その金が俺に入る。三千万円返しても、二千万円はお釣りが出るってわけだ』
静かなリビングに、健一と明美の会話がはっきりと流れた。私を施設に送り、命が尽きるのを待ち、保険金を手にするという恐ろしい計画。昨日録音したばかりの、その冷酷な声。
親族たちの顔が、一瞬にして恐怖と怒りに染まった。浩司さんは言葉を失い、口元を手で覆っている。従妹の直子は、信じられないと涙ぐんでいた。
「け、健一、お前……由美さんの命まで……」
和夫さんが震える声でつぶやいた。健一は完全にパニックに陥った。
「ち、違う! これは冗談だ! 酔って適当なことを言っただけで……それに、誰がこんなものを録音したんだ!」
健一は部屋の隅を見回し、そしてハッと私を見た。
「由美、お前か。お前が録音したのか?」
健一の声は、恐怖で掠れていた。
「ええ、私が録音しました」
私は静かに答えた。健一は、まるで幽霊を見るような目で私を見つめた。
「嘘だ! あの時、お前はソファで寝ていたはずだ! それに、目が見えないお前が、どうやってスマホを操作して、足音も立てずに録音なんてできるんだ!」
健一のその疑問は、当然のものだった。目が見えず、杖がなければ歩けないはずの妻が、自分たちの会話を正確に盗み聞きし、録音アプリを操作し、弁護士に送信するなど、絶対に不可能なはずだからだ。
私はゆっくりと立ち上がった。そして、ずっと手放さなかった白い杖を、コトリと床に置いた。
「健一さん」
私は、今までわざとそらしていた視線を、まっすぐに健一の目に合わせた。彼と目があった瞬間、健一の全身がビクッと跳ね上がった。
「ええ、見えていますよ。健一さん」
その言葉が落ちた瞬間、リビングは水を打ったように静まり返った。親族たちは信じられないという顔で私を見つめ、明美は小さく悲鳴を上げた。
数ヶ月前、私が一人で通っていた病院で、新しい治療を受けました。手術は成功し、私の視力は完全に回復していたのです。
「ですから、あなたの嘘も、裏切りも、全て見ていました」
「う、嘘だ! そんなの、嘘に決まってる!」
健一はパニックになり、テーブルの上にあった自分の車のキーを掴んだ。そして、私の顔の前に突き出し、狂ったように振り回した。
「これが見えるか!? 何色だ! 嘘をつくな!」
私はため息をつき、その震える手を冷ややかに見つめた。
「黒い革のキーケースですね。端が少しすり切れています。そして、あなたの右手の中指には、私が昔プレゼントした結婚指輪ではなく、新しく買った銀色の指輪が光っています」
健一の動きが、ピタリと止まった。彼の顔から、最後の血の気が引いていくのが分かった。
「それだけではありません」
私は視線を、隣で震えている明美に移した。
「明美さん、あなたが今日着ている地味なワンピース。その胸元に隠している、大きなダイヤのネックレスも、私にははっきりと見えています。私が目の治療費として夫に預けたお金で、あなたが買わせたものですよね?」
明美はハッとし、両手で自分の胸元を隠した。その行動自体が、私の言葉が真実であることを証明していた。
「ひっ……」
明美は顔を覆い、ソファの端に逃げ込んだ。私は再び健一に向き直り、静かな怒りを込めて言った。
「私が見ていたのは、あなたたちの浮気だけではありません。父の仏壇の花が枯れ果て、水が干上がっていたこと。私の大切なソファに、明美さんの赤いコートが投げ捨てられていたこと。そして、私が目が見えないことをいいことに、私の目の前で堂々と違法な書類を作っていたこと」
「な、なぜ……。なぜ黙っていたんだ?」
健一は床にへたり込み、呻くように言った。
「目が見えるようになったなら、すぐ言えばよかっただろう。なんで、俺を騙したんだ?」
「あなたを騙した?」
私は冷たく聞き返した。
「私がすぐに目が見えると言ったら、あなたはどうしましたか? リビングで明美さんと抱き合っているのを見たと言っても、『ただ相談に乗っていただけだ』と嘘をついたでしょう。一億円の使い込みも、適当な言い訳でごまかしたはずです」
私は一歩、健一に近づいた。
「私は、あなたが取り返しのつかない証拠を、自ら出すのを待っていたのです。偽造した離婚届。私を追い出すための家の売却計画。そして、私の命を狙う保険金の話。見えないふりをしていたからこそ、あなたは安心して、その浅ましい本性を、全て私の前に晒してくれた」
親族の浩司さんが、深く頷いた。
「由美さんの言う通りだ。健一、お前は本当に恐ろしい男だ。自分の妻をそこまで侮り、最後には自分の首を絞めたんだ。由美さんがここまで念入りに準備しなければ、俺たち親族も、お前の嘘に騙されていたかもしれない」
「兄貴、違う! 俺は……」
健一はまだ言い訳を探そうと、口をパクパクさせていた。しかし、もう誰も、彼の言葉に耳を貸そうとはしなかった。

「健一さん」
私は静かに、彼を見下ろした。
「あなたが私に書かせた離婚届ですが、あれはあなたが偽造したものとして、無効になります。しかし、私はあなたと結婚生活を続ける気は、一切ありません」
私は高橋先生の方を見た。先生は頷き、鞄から新しい書類を取り出して、テーブルに置いた。
「これは、由美さんから健一さんへの、正式な離婚届と、慰謝料の請求書です」
健一はその書類を見て、顔を青ざめさせた。
「い、慰謝料? 当然でしょう」
高橋先生が続けた。
「あなたの不貞行為、財産の使い込み、そして由美さんに対する悪意の害。全てに対する、正当な請求です。金額は、あなたが田中明美さんに貢いだ額と同額の、一億円です」
「い、一億円!?」
健一は裏返った声を上げた。
「払えるわけないだろう! 俺にはもう、一円もないんだぞ! 家を売ることもできないのに、どうやって払うんだ?」
「それは、あなたがこれから一生かけて考えることです」
高橋先生が冷淡に言い放った。
「あなたの年金、将来の収入、全てを差し押さえる手続きに入ります。逃げることはできません。さらに、由美さんの名義で無断で借金をしようとした詐欺未遂についても、刑事告訴の準備を進めています」
健一は、両手で顔を覆い、ついに泣き崩れた。
「うわあああ……ごめん、由美。俺が悪かった。頼む。許してくれ。俺を見捨てないでくれ」
つい先ほどまで、私を見下し、勝ち誇って酒を飲んでいた男。親族の前で私を精神異常者扱いし、施設に放り込もうとしていた男。その男が今、みっともなく床にうずくまり、涙と鼻水にまみれて許しを請うているのだ。
しかし、その鳴き声を聞いても、私の心には何の感情も湧かなかった。怒りも悲しみも、すでに通り過ぎていた。そこにあるのは、ただ静かな決断だけだ。
「許しません」
私の短く冷たい一言が、健一の鳴き声を切り裂いた。
「あなたが私にしたことは、謝って済むことではありません。私は、自分の人生と、父の残したこの家を取り戻す。ただ、それだけです」

その時、リビングの入り口で、コソコソと動く人影があった。明美だ。彼女は自分のバッグを抱え、靴も履かずに、こっそりと逃げ出そうとしていた。自分だけは、警察や慰謝料から逃れようとする、最後の足掻きだった。
「お待ちください。田中明美さん」
高橋先生の鋭い声が、彼女の足を止めた。
「あなたにも、健一さんと連帯して、慰謝料を支払う義務があります。さらに、過去の詐欺事件についても、すでに警察に情報を提供済みです。今ここから逃げれば、事態はさらに悪化することになりますよ」
明美は、玄関のドアの取っ手を掴んだまま、膝から崩れ落ちた。
「いや……私の、人生が……終わっちゃう……」
彼女の見苦しい鳴き声と、健一の嗚咽が、リビングに重く響いていた。彼らはついに、自分たちが作ってきた嘘の重みに押し潰されたのだ。

「由美さん、本当に辛かったね」
いとこの直子が、私のそばに来て、涙を拭ってくれた。
「よく一人で、ここまで耐えたわね。これからは、私たちが全力でサポートするからね。もう、何も心配いらないわよ」
その優しい言葉に、私の目から、初めて温かい涙が一滴だけこぼれた。
「ありがとう、直子ちゃん。でもね、私はただ耐えていただけじゃないの」
私は自分のバッグから、分厚い手帳を取り出した。彼らは私から全てを奪ったつもりでいた。でも、私には彼らが想像もできない、新しい未来がずっと手の中にあったんだ。
私は手帳のカバーの裏から、小さな紙を一枚取り出した。親族たちが、不思議そうにそれを見つめる。泣き崩れていた健一も、顔を上げてその紙を見た。
「それは、なんだ?」
健一が、震える声で尋ねた。私はその紙を、ゆっくりとテーブルの中央に置いた。それは、彼らがこれから味わう絶望を、さらに深いものにする、最後の一撃だった。
彼らがちっぽけな欲のために足を踏み外している間、私には二度目の奇跡が舞い降りていた。その紙に書かれた数字を見た瞬間、健一の顔は、この世のものとは思えないほどに歪むことになる。

「な、なんだ、これは?」
健一はテーブルの中央に置かれた紙を覗き込んだ。その目は、恐怖と混乱で焦点が定まらない。震える指が、ゆっくりと紙の端に触れた。それは、銀行の正式な印鑑が押された、一枚の証明書だった。
健一の視線が、紙に印字された文字の上を滑る。そして、ある一行でピタリと止まった。彼の口が、パクパクと音のない言葉を紡ぐ。
「た……宝くじ……高額当選証明書……」
健一の声は掠れて、ほとんど聞き取れなかった。
「金額……」
そこから先は、何度口を開いても、声にならなかった。代わって、兄の浩司さんがその紙を覗き込み、息を飲んだ。
「六億円!? 由美さん、これ、六億円って書いてあるぞ!」
親族たちの間に、今日一番のどよめきが走った。誰もが信じられないという顔で、私とテーブルの上の紙を交互に見つめた。玄関で縮こまっていた明美も、その金額を聞いて、はうようにテーブルに近づいてきた。紙に書かれた「六億円」という数字を見た瞬間、明美の目はまるでガラス玉のように、光を失った。
「ええ、六億円です」
私は静かに、全員に向かって頷いた。
「半年前、私の視力が少しずつ回復し始めた頃のことです。一人で歩けるようになった嬉しさで、病院の帰りに、駅前の売り場で買いました。私が再び光を取り戻した。その記念の宝くじでした」
私は健一を見下ろした。彼は床に手をついたまま、幽霊でも見るかのように私を見上げている。
「健一さん」
私は静かに言った。
「私、この当選を知った時、最初はあなたに真っ先に伝えようと思いました。私の目が見えなくなった時、あなたは私を抱きしめて、『俺が由美の目になる』と言ってくれましたよね。あの時の優しいあなたとなら、この六億円で、穏やかな老後を過ごせると思ったからです」
私は静かに言葉を重ねた。
「でも、私の目に映ったのは、私のソファで明美さんと抱き合う、あなたの姿でした。私の治療費を奪い、私を施設に追いやり、私の命まで金に変えようとする、恐ろしい計画でした」
健一の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。しかし、それは謝罪の涙ではなかった。自分自身の、取り返しのつかない愚かさに対する、絶望の涙だ。
もし健一が私を裏切らなければ。もし、見えない私を最後まで支え、優しい夫であり続けていれば。彼は今頃、多額の借金や犯罪者の汚名に怯えることなく、六億円という莫大な財産を共にし、誰からも羨まれる穏やかな人生を送っていたはずなのだ。全ては、彼自身が選んだ道だった。

「ああああ」
健一の喉の奥から、言葉にならない呻き声が漏れた。彼はもう、大声で泣き叫ぶ気力すら残っていなかった。両手で自分の頭を抱え、ただ床に顔を押し付けて、震えている。謝罪しているのではない。自分の犯した罪と、失ったものの大きさに押し潰され、立ち上がることができないのだ。
明美も同じだった。
「六億……六億円……」
彼女は呟くようにその数字を繰り返し、力なくその場に崩れ落ちた。彼女もまた、目先の小さな欲に目がくらみ、健一という男に群がった結果、全てを失ったのだ。もう、私に毒づく気力も、言い訳をする元気もなかった。
リビングには、重く冷たい沈黙だけが残った。誰も口を開かない。ただ、健一と明美の浅い呼吸の音だけが聞こえていた。
やがて、浩司さんが静かに言い放った。
「健一、お前は自分で自分の人生を壊したんだ。一生かけて、由美さんに詫びろ」
叔父の和夫さんも、静かに立ち上がった。
「私たちは、もう帰る。由美さん、こんな親族で、本当に申し訳なかった。何かあれば、いつでも連絡してくれ」
親族たちは、床にうずくまる健一を一瞥することもなく、次々と玄関へ向かった。彼らの背中には、健一に対する完全な軽蔑と、縁を切るという固い決意があった。ドアが閉まる音が、何度も響いた。この家から、健一の味方は、一人残らず消え去ったのだ。
リビングには、私と高橋先生、そして健一と明美の四人だけが残された。私は、自分のボストンバッグを持ち上げた。昨日、健一が「施設へ行く荷物をまとめた」と言って、私に押し付けた、あの古いバッグだ。
私はそのバッグのファスナーを開け、中身を床にドサリとぶちまけた。季節外れの薄い服と、古びたタオル。健一が私に用意した、あまりにも冷たい荷物だ。
私は空になったバッグを、健一の目の前に投げ捨てた。
「健一さん、あなたの荷物を、それに詰めてください」
私の声は、氷のように冷たく、静かだった。
「今すぐ、この家から出て行ってください。あなたは、この家にも、私の人生にも、もう必要ありません」
高橋先生がテーブルの上に一枚の書類を置いた。
「退去合意書です。本日ただ今を持って、佐藤健一さんがこの家から退去し、二度と敷地内に立ち入らないことを約束するものです。サインを」
先生は事務的な声で言い、ボールペンを健一の前に転がした。
健一は震える手で、ボールペンを握った。ほんの数日前、私が目が見えないことをいいことに、偽の離婚届にサインさせようとした、彼自身の手だ。あの時、彼は勝ち誇ったように笑っていた。しかし、今の彼は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、無言で自分の名前を書いている。
「田中明美さんも、すぐにお引き取りください。今後の慰謝料と、警察の件については、追ってご連絡します」
高橋先生の言葉に、明美はビクッと体を震わせ、立ち上がった。彼女はもう、自分のバッグを持つ手さえ震えていた。逃げるように玄関へ向かう彼女の背中は、最初に出会った時の、派手で自信に満ちた姿とは、まるで別人のように小さく見えた。

健一は、自分の服を数枚だけバッグに詰め込み、立ち上がった。
「由美……」
彼が最後に、すがるような声で私の名前を呼んだ。しかし、私は彼の方を見なかった。視線を窓の外に向けたまま、ただ無言で立っていた。
健一は力なく首を垂れ、重い足取りで、玄関へと向かった。ガチャリとドアが開き、そして静かに閉まった。彼らは去った。
しかし、この家にはまだ、彼らが残した冷たい嘘の気配がしていた。私は、新しい人生を始める前に、一つだけやらなければならないことがあった。

玄関のドアが閉まり、健一と明美の足音が完全に遠ざかった。静寂が戻った家の中で、私は大きく、深く息を吸い込んだ。
「佐藤さん、本当にお疲れ様でした」
高橋先生が、温かい声で労ってくれた。
「先生、これまで本当にありがとうございました。でも、私にはまだ、やることがあります」
私はリビングの窓辺に歩み寄った。そして、長年閉ざされていた両開きの窓を、両手で一気に引いた。ガラッという音と共に、眩しい光がリビングいっぱいに流れ込んできた。
私は窓を大きく開け放ち、家の中に新しい風を入れた。健一と明美が残していった、安っぽい香水とアルコールの匂いが、新鮮な風に押し流されていく。
私は部屋の隅にあった黒いゴミ袋を手に取った。昨日、明美が私の大切な着物を捨てるために用意した袋だ。私はその中身を床に沿っておき、代わりに別のものを詰め込み始めた。まずは、ソファに投げ出されていた明美の赤いコート。テーブルの上の飲みかけのワイングラス。派手なクッション。趣味の悪い雑誌。健一が私を無視して買ってきた、家を飾るための安物のインテリア。ソファの隙間に落ちていた明美の口紅や、健一が置きっぱなしにしていたギャンブルの半券。
私が目が見えない間に、この家を汚していた異物たちを、次々とゴミ袋に放り込んだ。バサバサ、ガチャンと、小気味いい音がリビングに響く。
「手伝いましょうか?」
高橋先生が微笑みながら袖をまくろうとしたが、私は静かに首を振った。
「いいえ。これは、私自身の手でやらなければならないことですから。私が、私の場所を取り戻すための、大切な儀式なんです」
私は指先が汚れるのも構わず、ただひたすらに手を動かした。それは、私の中に溜まっていた悲しみや怒りを、一つずつ外に掻き出していくような作業だった。
ゴミ袋の口を固く結んだ時、私の額にはうっすらと汗が滲んでいた。でも、その汗は、とても清々しいものだった。これで、あの二人の気配は、この家から完全に消え去った。
ソファに座り直した私に、高橋先生は今後の手続きについて説明してくれた。
「健一さんは、今頃、生計を失い、途方に暮れているはずです」
先生は手元の資料を見ながら、静かに語った。
「彼は由美さんへの一億円の慰謝料だけでなく、明美さんから押し付けられた五百万円の借金も背負っています。さらに、無登録の金融業者から借りようとした一件で、すでに警察の捜査網に名前が上がっています。彼の口座は、近いうちに凍結されるでしょう」
住む場所も、家族も、お金も。全てを失った健一。彼に残されたのは、日雇いの過酷な労働と、終わりの見えない借金返済の地獄だけだ。親族からも縁を切られ、助けてくれる人は誰もいない。自分の浅ましい欲望のせいで、最も大切なものを手放してしまったのだ。私が彼をかわいそうだと思うことは、この先も絶対にない。
「一方の明美さんですが、たった今、私の事務所から連絡が入りました」
高橋先生がスマートフォンを確認し、少しだけ口元を上げた。
「彼女は先ほど、銀行のATMで逃走資金を引き出そうとしていたところ、警察に身柄を確保されたそうです」
先生のその言葉に、私は静かに頷いた。
明美は、過去の詐欺事件と、今回の私に対する詐欺未遂の容疑で、逮捕された。彼女が他人を騙して手に入れたお金や宝石は、全て差し押さえられるだろう。他人の家を乗っ取り、優雅なハワイ旅行を夢見ていた彼女。そんな彼女が今夜眠るのは、冷たくて狭い、留置場のベッドだ。他人を不幸にしていたものは、決して自分の身につかない。その当然の報いを、彼女はこれから一生かけて味わうことになる。

「これで、全て終わりましたね」
高橋先生は鞄を閉じ、立ち上がった。
「佐藤さん、あなたの冷静な判断と、最後まで耐え抜いた忍耐力が、この結果を引き寄せたのです。本当に、よく頑張りましたね」
「先生のおかげです。私一人では、到底ここまではできませんでした。本当に、言葉では言い尽くせないほど感謝しています」
私は深く頭を下げ、高橋先生を玄関まで見送った。先生が帰り、家には私一人だけが残された。
私はリビングを抜け、ゆっくりと和室へと向かった。ここには、五年前に亡くなった父の仏壇がある。健一と明美によって放置され、すっかり埃をかぶっていた仏壇。
私は膝をつき、濡らしたタオルで、丁寧に仏壇を拭き始めた。木目の隙間に溜まった埃を拭き取り、枯れ果てた花を、新しいものに変えた。干上がっていた湯のみを洗い、新鮮な水を供える。
仏壇の引き出しを開けると、そこには父が残してくれた古い日記があった。表紙を撫でると、父の温かい手が、そこにあるような気がした。ページをめくると、私が子供の頃の記録や、家族の思い出が、丁寧な字で綴られていた。
『由美が笑ってくれるのが、私の一番の幸せだ』
その一行を見つけた瞬間、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。健一に冷たくされ、家の中で居場所を失っていた時、私は自分には価値がないと思い込んでいた。でも、私は父から、こんなにも深く愛されていたのだ。
私は新しいお香に火をつけた。一本の細い煙が、静かに真っすぐ立ち上っていく。懐かしく、心安らぐお香の香りが、和室に広がった。それだけで、この家がようやく「私の家」に戻ったのだと実感できた。
「お父さん」
私は父の遺影を見上げ、静かに語りかけた。
「ごめんなさいね。この家を、あんなに汚してしまって」
私の声は、少しだけ震えていた。
「でも、もう大丈夫です。私が、しっかりとこの家を守りました。お父さんが残してくれたこの場所を、もう誰にも奪わせたりしません。これからは、私一人でも、強く生きていきます」
私は両手を合わせ、目を閉じた。その時、目から一滴だけ、温かい涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではない。全てが終わった安堵と、父との約束を果たせた誇りの涙だった。
私は手の甲でそっと涙を拭い、静かに立ち上がった。家の中は、すっかり綺麗になっていた。あの重苦しい沈黙も、私を見下す冷たい嘲笑も、もうどこにもない。あるのは、私がこれから自分の足で生きていくための、静かで穏やかな空間だけだ。

私は再びリビングに戻り、テーブルに置かれた六億円の当選証明書を見つめた。このお金は、決して私を堕落させるものではない。私が暗闇の中で失った時間を埋め合わせ、新しい人生を切り開くための、切符だ。
私は証明書を手に取り、これからの未来に思いを馳せた。行きたかった場所、食べたかったもの、会いたかった人たち。ずっと我慢してきたことが、これから全て叶うのだ。
窓の外を見ると、夕日が美しく空を染め始めていた。長く苦しかった私の時間が、夕日と共に終わろうとしている。そして明日からは、私の本当の人生が始まる。
私は大きく伸びをして、キッチンに向かった。久しぶりに、自分だけのために、美味しいお茶を入れるためだ。しかし、その時だった。家の電話が、突然、けたたましく鳴り響いた。私はお湯を止め、電話機を見つめた。健一からの、未練がましい電話だろうか? それとも、明美の親族からの、嫌がらせだろうか?
私は迷うことなく、受話器を取り上げた。もう、どんな言葉にも怯えることはない。私には真実を見据える目と、決して揺がない心があるのだから。
「はい、佐藤です」
私は静かに、しかしはっきりとした声で答えた。
「ゆ、由美……俺だ。頼む。電話、切らないでくれ」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、予想通り、健一の声だった。背景には、車の走る騒音が聞こえる。公衆電話からかけているのだろう。
「由美、俺が悪かった。今夜、寝る場所がないんだ。ホテルに泊まる金もない。一日だけでいい。玄関の隅でいいから、置いてくれないか? 俺たち、夫婦だったじゃないか。昔はあんなに仲が良かっただろう」
情けない、震える声だった。ほんの昨日まで、私を見下し、ハワイ旅行の話で盛り上がっていた男の、あまりにも哀れな姿だった。私は、何も感じなかった。怒りすら、湧いてこなかった。
「健一さん」
私は静かに、しかし冷たく言い放った。
「あなたの寝る場所は、この家にはありません。昔の優しい夫は、あなたが自分で殺したのです。二度と、かけてこないでください」
「待ってくれ、由美! 頼む! 俺を見捨てないで!」
健一が泣き叫ぶ声を遮るように、私は容赦なく受話器を置いた。ガチャンという冷たい音が、リビングに響き渡った。私はすぐに電話機の電源コードを抜き、深く息を吐いた。これで、本当に最後だ。もう、私の人生に、彼が入り込む隙間は、一ミリもない。

翌朝、私は小鳥のさえずりと、窓から差し込む明るい日差しで目を覚ました。これまでの数年間、朝が来るのは苦痛でしかなかった。今日もまた、暗闇の中で冷たい夫と隣人の悪意に耐えなければならないからだ。でも、今日の朝日は、ただただ眩しく、私の新しい門出を祝福してくれているようだった。
私はクローゼットの奥に隠していた、一番お気に入りの明るい色のワンピースを着た。鏡の前に座り、ゆっくりとお化粧をする。そこに映る自分の顔は、長年の疲れが落ちたように、穏やかですっきりとしていた。
午前中、私は高橋弁護士と一緒に、銀行の特別なVIPルームに座っていた。目の前には、支店長が深く頭を下げて座っている。
「佐藤様、この度は高額当選、誠におめでとうございます。今後の資産運用についても、全力でサポートさせていただきます」
手続きが終わり、新しく作られた通帳を開いた。そこには、六億円という途方もない数字が、はっきりと記されていた。通帳の重みは、これからの私の自由と安心の重み、そのものだった。健一たちが必死に奪い取ろうとした、わずか数千万の借金や家の売却益など、それらがどれほどちっぽけで愚かなものだったのかを、痛感する。
私は通帳をバッグに大切にしまい、高橋先生に深くお辞儀をした。
「先生、これまで本当にありがとうございました。これでようやく、新しいスタートが切れます」
「ええ、佐藤さんの本当の人生は、これからが本番ですよ。思いきり、楽しんでください」
先生の心強い言葉に、私は明るく頷いた。

お昼には、従妹の直子ちゃんと待ち合わせをしていた。駅前にある、見晴らしの良い素敵なレストランだ。
「由美ちゃん、本当に良かった。顔色がすごくいいわね。安心したわ」
直子ちゃんは私を見るなり、自分のことのように涙ぐんで喜んでくれた。運ばれてきたランチの彩りに、私は思わず息を飲んだ。鮮やかなトマトの赤、瑞々しいレタスの緑、輝くようなソースの艶。目が見えないふりをしていた間、食事はただ味気ない、灰色の作業でしかなかった。
「綺麗……」
私がぽつりとつぶやくと、直子ちゃんは優しく微笑んだ。
「そうよ。世界は、こんなに綺麗なの。由美ちゃんは、これからもっとたくさんの綺麗な景色を見るのよ。来月、一緒に温泉旅行に行きましょうよ」
私たちは時間を忘れて、語り合った。これからのこと、行きたい場所のこと、庭に植えたいお花のこと。直子ちゃんの明るい笑い声を聞きながら、私は確かな幸福を噛みしめていた。温かいスープが喉を通る度、凍り付いていた私の心が、じわりと溶けていくのが分かった。

それから半年後、私の家は見違えるように明るく、心地よい空間に生まれ変わっていた。段差のないバリアフリーの床、光がたくさん入る大きな窓。明美の趣味で汚されていた家具は全て処分し、私が本当に好きな、温かみのある木目の家具で揃えた。庭には、季節の花が美しく咲き誇っている。
昨日、高橋先生から定期報告の短い手紙が届いた。明美は、裁判の末、実刑判決を受けて、刑務所に収監されたそうだ。過去の詐欺の余罪も次々と明らかになり、長い間、冷たい壁の中で罪を償うことになる。
そして健一は、遠方の工事現場で、住み込みの過酷な土木作業員として働いているとのことだった。慣れない重労働で体を壊し、見た目も十歳以上老け込んでしまったそうだ。わずかな給料も、明美への借金の返済と、私への慰謝料の差し押さえで、ほとんど手元には残らない。彼は今、隙間風の吹く狭いプレハブ小屋の中で、毎晩、後悔の涙を流しているのだろう。一億円の当選金を愛人に貢ぎ、私を捨てて自由になろうとした男の、哀れな結末だ。
しかし、その手紙を読んでも、私の心は全く動かなかった。彼らはもう、私の輝く新しい世界には、一切関係のない、遠い過去の影でしかないからだ。

私は新しいカップで温かいお茶を入れ、和室へ向かった。新しく整え直した立派な仏壇には、父の優しい笑顔の写真が飾られている。花瓶には、庭で摘んだばかりの新鮮な花を活けた。
「お父さん、私、今、とても幸せよ。お父さんが残してくれた家も、こうして立派に守り抜いたわ」
私が静かに語りかけると、遺影の父が、「よくやった」と褒めてくれているように見えた。私はお香を上げ、鈴を澄んだ音を響かせて、深く手を合わせた。
立ち上がり、縁側に出て庭を見渡す。温かい日差しが、私の全身を優しく包み込んでくれる。暗闇の中で耐え忍んだ時間は、決して無駄ではなかった。あの辛い時間があったからこそ、今見えるこの世界の光が、これほどまでに美しく、愛しいのだと分かる。
私は大きく深呼吸をして、空を見上げた。澄み切った青空が、どこまでも果てしなく広がっている。失いかけた尊厳も、奪われかけた私の居場所も、全て私の手の中に戻ってきた。六億円というお金の安心感だけでなく、私にはこの真実を見通す目と、前を向いて歩いていく強い力がある。
私の本当の人生は、今日ここから始まるのだ。頬を撫でる優しい風を感じながら、私は静かに、心からの笑顔を浮かべた。

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