平行棒を握りしめて、一歩踏み出そうとしている女性の背中に、俺はそっと手を添えた。
「焦らなくていいですよ。今日は昨日より1センチだけ前に出ればいい」
脳梗塞から半年。右足はまだ言うことを聞かない。どれだけ焦っても、体は急には追いついてこないことを、この仕事をしていれば嫌というほど知っている。
「先生、もう歩けないんじゃないかって思うんです」
「大丈夫。人間の体はちゃんと覚えているんです。急がず、一日一日体と相談しながら行きましょう」
この名前、田所弘志。地方病院のリハビリテーション科で働いている。今の俺の仕事は、患者が再び自分の足で立ち上がり、自分の人生を取り戻す瞬間を見届けることだ。平行棒の脇で、理学療法士の長谷川さんが穏やかに笑っていた。彼女とはもう十年以上組んでいる。
「田所先生、次の患者さん、少し早めに来られてますよ」
「分かりました。じゃあ田口さん、今日はここまで。よく頑張りましたね」
女性を車椅子に戻し、廊下へ出た。その時、若手の医師たちがナースステーションの前で立ち話をしているのが目に入った。聞こえないふりをしようと思ったが、言葉は自然と耳に入ってくる。
「またリハビリの田所先生、平行棒の横に張り付いてるらしいぞ」
「まあ、あの人はもうメスは握らないんでしょう。手術から逃げた口ですよね」
「命を救うのは俺たち外科の仕事だ。歩かせるのはリハビリの人間で十分だろう」
聞こえないふりをして、俺は通り過ぎた。陰口はもう慣れている。腹も立たない。ただ、その言葉が胸のどこかに引っかかる感覚だけは、いつまで経っても消えない。
診察室に戻ると、机の上に新しいカルテが置いてあった。午後の外来に、原因不明のめまいで三ヶ月悩んでいる男性が来るという。俺はカルテを開き、指先でその文字をなぞった。一人一人、症状の影に人生がある。どんな家で、誰と暮らし、何を諦めかけているのか。その一つ一つを丁寧に拾っていく。それが、俺が選んだ道だ。
「先生、お茶入れましたよ」
「ありがとう、長谷川さん。田口さん、今日は少し表情が明るかったですね」
「ええ、あの方、やっと歩きたいって口にされました。先生の外来に来て四ヶ月目でした」
「四ヶ月か。随分かかったな」
「先生はいつも待つ人ですから」
長谷川さんが笑う。その笑顔に、俺は何度も救われてきた。派手さのないこの場所で、静かに患者と歩く時間。手術室の無影灯の下より、ここにいる自分がしっくりくる。それが俺の選んだ場所だった。
――その日の夕方だった。
「田所先生、救急の連絡が入りました。大学病院からの転院搬送です。原因不明の脳症状で、複数の大学病院を回られてきた患者さんです」
「そこまで回って、原因がつかないのか?」
「診断がつかないまま、症状だけが進行しているそうです。ご本人の希望で、こちらへ来られました」
なぜ、この地方病院を希望したのだろう。そう思いながら、俺は白衣の襟を正した。
病棟の一室、402号室。ドアを開けると、ベッドの上に痩せた男が半身を起こしていた。四十代の後半だろうか。俺の姿を見た瞬間、その男の表情が固まった。男の目が大きく見開かれ、震える手で口元を押さえた。
「先生…」
声が枯れていた。喉の奥から絞り出すような声だった。
「先生、やっとお会いできました」
そう言って彼は深く頭を下げた。ベッドの上で痩せた背中を折るようにして、その体が静かに震えていた。横には、担当看護師である新人の秋山里が控えている。ふと、里は顔を上げ、その男を見つめていた。
「さとみ…お父さん、ここに入院してたの?」
「急にすまないな。この病院にお世話になりたい理由があったんだ」
どうやら親子らしい。数秒の間、父と娘の間に驚きと困惑が交錯した。
「秋山さんですね。落ち着いてください。まずは横になって」
「先生、覚えていらっしゃらないでしょう。もう十五年も前のことです。それでも私はこの日をずっと待っていました」
十五年。その言葉に、俺の指先がほんの少し止まった。
「先生、お知り合いですか?」
「いや、今初めてお会いした患者さんだ」
俺の返事に、秋山と名乗る男は静かに首を横に振った。
「初めてではないんです、先生。私はあなたに命を救われた人間なんです」
病室がしんと静まり返った。里はじっと父の横顔を見ていた。俺は椅子を引き寄せ、ベッドの脇に腰を下ろした。まずは医師として、この人の体を見なければならない。過去のことは、その後だ。
「秋山さん、今一番辛い症状を教えてください」
「頭痛、目まい、手の震え。三ヶ月ほど前から少しずつ…最初は物が二重に見えて、次に左手が重いように動かなくなって、歩くと右にふらつくんです」
「大学病院ではどんな検査をしましたか?」
「MRIもCTも全部やりました。でも、どこにも原因が見つからないと」
その言葉の間にも、彼の左手はずっと震え続けていた。俺はその手をそっと自分の手のひらで包んだ。温度が低い。
「先生、もう一度先生にお会いできて。それだけで十分です」
「まだ何もしていませんよ。話は体を見てからにしましょう」
穏やかに言ったつもりだった。それでも、彼の目からは涙が一筋こぼれ落ちていた。
――夜の病棟の廊下は静かだった。巡回を終えた俺は、402号室の前でもう一度足を止めた。中からかすかな声がする。秋山さんが里に何かを話しているようだった。盗み聞くつもりはなかった。ただ、その声に何か引き寄せられるものがあった。
「お父さんはな、一度死にかけたんだ。あの日、田所先生が手術をしてくださらなかったら、今のお父さんも里もなかったんだよ」
「お父さん、その話…」
「何度でも話すさ。里が看護師になってくれたのも、あの先生のおかげだからな」
胸の奥が鈍く痛んだ。俺は静かにその場を離れた。
診察室に戻り、机の引き出しの奥から古い記録簿を取り出した。十五年前のもの。当時、俺は都心の大学病院で脳神経外科の医師をしていた。「神の手」などと身に余る呼ばれ方をされた時期もあった。年間何百件もの手術。その一つ一つが命との勝負だった。
秋山幼次郎。記録簿の中にその名前は確かにあった。けれど顔までは正直思い出せない。何百人もの患者の中の一人。俺にとってはそうだったけれど、その一人にとっての俺は、たった一人の医師だったのだ。
コンコンとノックの音がした。新人の里が、遠慮がちに顔を覗かせる。
「先生、あの…失礼します。父のカルテのことで、少しだけいいですか?」
「秋山さん…お父さんだったんですね」
「はい。父が先生のことを命の恩人だと言っていて。でも、私、父の担当の先生がどこの誰だって聞いても…正直、うちの父が言っていた先生と同じ方だとは思っていなくて。珍しい苗字じゃないですからね」
「父は、十五年間ずっと先生を探していたそうです。私、何も知らずにこの病院で働いていました」
里は言葉を切り、深く頭を下げた。
「顔をあげてください。まだ私は何もしていない」
「いえ、先生。父が生きていたから、私がここにいるんです」
その一言が、静かに胸に落ちた。
――その頃、夜の院長室では、藤堂院長が向かいのソファに座る太田を見ていた。太田は納得のいかない顔で、膝の上に組んだ手を握りしめている。
「院長、なぜあの田所先生がリハビリ科にいるんですか? 今日の患者さん、明らかに田所先生を命の恩人と呼んでいました。あれは外科医としての話でしょう?」
「太田君、君は田所先生の若い頃を知らないな」
「噂は聞いています。都心の大学病院で“神の手”と呼ばれていたと。だから余計に分からないんです。なぜ手術をやめて、リハビリなんかに…」
「なんか」という言葉に、藤堂院長の眉が少しだけ動いた。それでも院長は静かに口を開いた。
「十五年前だ。田所先生は当時三十五歳。年間三百件近い脳外科手術をこなしていた。難しい症例ほど、彼のところへ回された。事実、彼が救った命は数えきれない」
「それなら、なぜ?」
「ある患者さんがいてね。手術は成功したんだ。命は救われた。けれど、その方は退院した後、寝たきりになってしまった。歩くこともできず、家族の顔も分からなくなり、半年後に感染症で亡くなった」
太田の表情が少しずつ強張っていく。
「田所先生はね、その葬儀に一人で参列したそうだ。そこでご家族にこう言われたらしい。『先生、うちの人はあの手術で生き延びたんじゃなくて、あの手術で終わったんです』と」
「そんなこと…」
「手術は成功だった。医学的にはね。だが田所先生は、それからずっと考え続けた。命を救うということは、心臓を動かし続けることだけなのか。その人がもう一度自分の足で立ち上がって、家族と食卓を囲む日まで見届けて、初めて救ったと言えるんじゃないか。彼はそう考えて、メスを置いたんだよ」
院長はゆっくりと息を吐いた。
「以来、彼はリハビリテーション医として、一人一人の患者に何ヶ月も付き添っている。手術から逃げたわけじゃない。手術の、その先へ進んだんだ」
太田は俯いた。
「分かりません。院長。正直、まだ私には…」
「いい。すぐに分からなくていい。ただ覚えておきなさい。医者には、いろんな形があるということを」
太田は深く頭を下げ、院長室を出ていった。
――翌日の午後、俺は402号室で秋山さんの診察をしていた。時間をかけて、一つ一つ丁寧に確かめていく。秋山さんは、俺の手の動きをじっと見つめていた。
「先生、少しだけ昔の話をしてもいいですか?」
「もちろん。ただ、無理はしないでください」
「無理じゃないんです。むしろ、話さないままでいる方が私にはずっと苦しいんです」
秋山さんはゆっくりと話し出した。
「私、あの手術の前日、婚約者に別れ話を切り出したんです。もし助からなかったら、この人の人生を巻き込むわけにはいかないと思って」
「そうでしたか」
「でも彼女は泣きながら、『助かっても助からなくても、私はあなたの隣にいる』と言ってくれました。そして田所先生が私を助けてくださった。手術の翌朝、目が覚めて彼女の顔が見えた時、私は生き直せると思ったんです」
窓の外で鳥の声がした。秋山さんの左手はまだ震えている。それでも、その顔は穏やかだった。
「三年後に、里が生まれました。あの子は私の生きた証です。物心着いた頃から、私はあの子に何度も話しました。『お父さんはな、特別なお医者さんに命を救われたんだ。だから、この命はお前のためにあるんだよ』って」
俺は黙って聞いていた。
「里が高校三年の時、看護師になりたいと言い出しました。理由を聞いたら、あの子はこう言ったんです。『お父さんの恩人みたいな人になりたい』って」
俺は聴診器を持つ手を止めていた。胸の奥で、何かがゆっくりと押し上げられてくる。
「先生、私がこの病院に転院を希望したのは、偶然じゃないんです。里から先生の話を聞いて、まさかと思って。もう一度、お会いしたかったんです」
俺はしばらく何も言えなかった。十五年前、俺が握ったメスの先で、一人の男が生き延びた。その男が家庭を持ち、娘が生まれ、その娘が看護師になり、今、俺と同じ病棟を歩いている。一つの命が、こんな形で未来へ続いていたのだ。
「秋山さん、私はあなたのことを正直、思い出せていません」
「いいんです、先生。それだけたくさんの人を救ってこられたということですから」
「けれど、今はっきり分かりました。私がその日握ったメスの意味を、今日あなたに教えていただきました」
秋山さんは静かに笑った。ただ、その笑顔の背後で、懸念は消えていなかった。
――その夜、秋山さんの容体が急変した。残された時間がそう長くないことを、俺は直感で悟った。俺は診察室に戻り、これまでの画像と検査データを全て机に広げた。大学病院の医師たちが原因不明とした所見。そこに、俺は一つ一つ指を置いていく。歩行時の右へのふらつき、左手の細かい震え、複視の出方、それに昨日診察した時の瞳孔の微妙なずれ。
俺の指がある一点で止まった。脳の奥、スライスでは見落とされやすい場所。そこにごくわずかな影がある。血管の走行を丹念に追っていくと、その影の正体が浮かび上がってきた。稀な部位にできた微小な血管腫。それが、少しずつ神経を圧迫していたのだ。俺はしばらく、その画像を見つめていた。
――翌朝、俺は院長室のドアを叩いた。
「院長、秋山さんの原因が分かりました。手術で取れます。ただ位置が悪い。難易度は高い」
「執刀は?」
「私がやります」
藤堂院長は少しだけ目を細めた。そして、深く頷いた。
その場に居合わせた太田が、思わず身を乗り出した。
「先生、お待ちください。十五年、メスを握っていないんですよ。今から準備しても無理です。うちの外科医で、他の医師を呼んだ方がいいのでは?」
「太田先生、あなたの言うことは最もだ。私も迷わなかったわけじゃない」
「なら、なぜ?」
「秋山さんの病変の位置は、私が現役の頃、何度も手掛けた場所だ。他の医師が悪いんじゃない。ただ、あの部位に関しては、私の手が一番覚えている。それだけです」
太田は言葉を失っていた。藤堂院長が静かに立ち上がった。
「田所先生、あなたに託します。手術室の準備は、私が整える」
「ありがとうございます」
「太田君、君は第一助手だ。田所先生の手をそばで見ておきなさい」
「は、はい、分かりました」
診察室に戻る途中、廊下の窓から朝の光が差していた。俺は自分の右手をそっと開いて閉じた。十五年ぶりに、あの感覚が戻ってくる。
――手術当日の朝は、よく晴れていた。ストレッチャーで手術室へ運ばれる前、秋山さんは一つだけ願いを口にした。
「先生、若い先生方に少しだけお話しさせてください」
集まったのは、太田をはじめとする若手の外科医たちと、看護師の里、そして長谷川さんだった。秋山さんはストレッチャーの上で半身を起こし、痩せた手で太田の白衣の袖を軽く掴んだ。
「太田先生でしたね?」
「はい、そうです」
「今日、私に手術をしてくださる田所先生はね、十五年前、大学病院で私を助けてくれた方なんです。あの日、一晩かけて私を救ってくださった、この先生こそが本物の外科医なんですよ」
廊下がしんと静まり返った。若い看護師たちの間から、小さなざわめきが漏れた。
「私は、この先生にもう一度命を預けます。若い先生方も、どうかその手をよく見てあげてください」
そう言って、秋山さんは深く頭を下げた。ストレッチャーが動き出す。太田はその場から動けずにいた。長谷川さんがそっと俺の隣に立った。
「先生、行きましょうか?」
「ああ。少しだけ緊張してるよ」
「先生でも、緊張なさるんですね」
「人間だからね」
手術室のドアが開く。消毒液の匂い。無影灯の白い光。全てがあの頃と変わらない景色だった。俺は手を洗い、ガウンをつけ、手袋をはめた。第一助手として、太田が向かい側に立った。
「太田先生、頼みます」
「はい。よろしくお願いします」
執刀が始まる。脳の奥、あの微小な血管腫。俺の指先が、十五年前の感覚をゆっくりと呼び戻していく。一ミリ、また一ミリ。神経を傷つけず、周囲の血管も痛めず、その影をそっと剥がしていく。太田は俺の手元から目を離さなかった。何度も息を飲む音が、マスクの向こうから聞こえた。的確に、しかし慎重に。病変を切除していく。手術室の空気が、少しずつ変わっていく。若い看護師たちの目にも、驚きの色が浮かんでいた。
「バイタル安定しています」
「よし、このまま閉じよう」
無影灯の下で、俺は自分の右手を静かに見つめた。逃げたと言われた手。その手が、また一つの命を未来へ返していた。
――秋山さんは、術後の経過も驚くほど順調だった。リハビリを重ねるうちに、手の震えも、ふらつきも、落ち着いていった。毎朝、里に付き添われて廊下を一歩ずつ歩く秋山さんの姿を、俺は診察室の窓から眺めていた。
退院の日は、風のない穏やかな午後だった。病棟の玄関前で、秋山さんはスーツに袖を通して立っていた。
「先生、本当にありがとうございました。もう、礼の言葉が見つかりません」
「無事にご自分の足で帰れる。それが何よりです」
「先生に、二度も命をいただきました。この命、大切に使わせていただきます」
俺はただ頷いた。その隣で、里が制服姿のまま立っていた。新人看護師の白衣。少しだぶついた袖口を、両手でぎゅっと握りしめている。
「田所先生…父を救ってくださって、ありがとうございました」
里の声が少しずつ震え始めた。
「小さい頃から父は、ずっと先生のお話をしていました。まさか、その先生と同じ病院で働けているなんて、思ってもみませんでした」
「秋山さん」
「先生、私これからもこの病院で頑張ります。先生みたいに、患者さんの“その先”まで見届けられる看護師になりたいんです」
里は涙をこぼしながら、それでも顔をあげた。真っすぐな目だった。その姿を見て、俺は自分の選択が間違っていなかったと確信できた。太田も、いつの間にか玄関の脇に立っていた。その顔から、以前のような険しさはすっかり抜けていた。
――数日後、俺がリハビリ室で新しい患者のカルテに目を通していると、太田が入口に立っていた。いつになく、緊張した面持ちだった。
「田所先生、少しお時間よろしいですか?」
「どうぞ、かけてください」
「先生、私はあなたのことをずっと誤解していました。手術から逃げた医者だと、影で言ってきました。本当に申し訳ありませんでした」
そう言って、太田は深く頭を下げた。
「太田先生、頭をあげてください。誰でも若い頃は、そう思うものです」
「今回の手術で先生の手を見て、それから退院の日の秋山さんとお嬢さんを見て、ようやく分かりました。患者を歩かせるところまで見届ける意味が。私も、いつかそういう医者になりたいと思います。だから先生、これからも色々教えてください」
俺は静かに笑って頷いた。何も大げさな言葉はいらなかった。太田が診察室を出ていった後、俺はリハビリ室へ向かった。午後の光が、平行棒の上に柔らかく差し込んでいる。新しい患者が、車椅子から立ち上がろうとしていた。奥さんに支えられながら、平行棒を握る手が少しずつ震えていた。
「焦らなくていいですよ。今日は、一センチだけ前に出ましょう」
「先生…歩けますかね? 私…」
「歩けますよ。私と長谷川さんが隣で一緒に歩きますから」
長谷川さんが、いつもの穏やかな笑顔で患者の反対側に立った。男性が震える足を、平行棒の中でそっと前に出した。
たった一センチ。それでも、確かに前に進んだ一歩だった。窓の外で、風が並木の葉をそっと揺らしていた。



