「今日からここはアリサと俺の家な。お前は出てけ。」
呆然とする私に、夫の健一はさらに爆弾を落とした。
「アリサ、妊娠してるからさ。これからは家族3人で暮らすんだよ。妊娠中は退場な。」
頭の中が真っ白になった。意味が分からない。この家は私が買ったのに。
「でも、この家は私が買ったんだよ!」
精一杯の声で訴えたが、健一はうんざりしたように鼻で笑った。
「親の金で買った家に住んでるだけじゃねえか。自分の力でもないくせに偉そうにするなよ、おばさん。」
ソファにだらしなく寝そべっていたアリサが、けだるそうな声をあげる。
「おばさんさあ、妊婦にストレスかけるとか最低なんだけど。健一の言う通りにして早く出ていってよ。」
私は冷静になるしかなかった。今のままでは何も考えられない。
「わかった。出ていくよ。姫は連れて行くけどいいね。」
健一は「どうぞ」とばかりに手を振った。
――この先、私を追い出した2人が後悔することは目に見えていた。
私の名前は里村柚月。33歳になるごく普通の会社員だ。今でこそ安定した暮らしを手に入れたが、振り返れば若さゆえの無鉄砲な選択もあった。健一との結婚もその1つだった。
私たちが知り合ったのは大学のサークル。お互い漫画やアニメが好きですぐに意気投合した。
「私たちって、趣味も食べ物の好みも合うよね。」
「そうだな。こんなに気が合う人、他にいないって思ったよ。」
自然と付き合い始めてから1年も経たないうちに、私たちは学生結婚を決めた。周囲は驚いたが、当時の私は不安よりも未来への期待で胸がいっぱいだった。
就職活動の時期が近づくと、私は地道に企業説明会へ足を運び、エントリーシートを書き、面接を受けた。将来家庭を支えるためにも、きちんと働かなければならないと考えていたからだ。
「今週もまた面接だよ。なかなか大変だけど、頑張る。」
「そっか。俺は原稿の締め切りが近いから、今週はずっと家にいると思う。」
「就職活動は…」
「うん。まあ、漫画が売れれば働かなくてもいいかなって思ってる。」
健一は本気でそう言った。彼は大学の講義もそこそこに、同人活動に没頭していた。徹夜で漫画を書き、週末にはイベントに出かけて同人誌を売る日々。確かに健一の漫画は面白かったし、私も彼の夢を応援したい気持ちはあった。だが現実は甘くない。
「就職活動、少しだけでもしてみたら?夢を追うのは大事だけど、現実も考えなきゃ。」
「柚月は堅いよな。まあ俺は大丈夫だって。いざとなったらなんとかなるって。」
今振り返ればそんな甘い考えが通用するわけがないと分かるのだが、当時の私はその言葉を信じてしまった。好きな人を応援したい気持ちが勝ってしまったのだ。
私は幸いにも大手企業から内定をもらい、卒業と同時に社会人として一歩を踏み出した。一方、健一は相変わらず就職活動をしなかった。
「出版社に持ち込む漫画、かなり自信作なんだ。」
「そうなの?最近は毎日夜遅くまで頑張ってたもんね。」
「ああ、今度こそ間違いなくデビューできると思う。」
私も心からこの言葉を信じていたし、本当に成功してほしいと願っていた。しかし頭のどこかで、もしデビューできなかった時、私1人の収入でどう生活していくのか、漠然とした不安もあった。
社会人1年目、慣れないことばかりで毎日があっという間に過ぎていった。そんな中、少し体調を崩した私は病院で検査を受けると、医師から嬉しい話を聞かされる。健一の赤ちゃんを妊娠していたのだ。
急いで帰宅し、スリッパを履くのも忘れて健一の元へ向かった。
「ねえ、健一。私、赤ちゃんができたみたい。」
「え、本当なのか?やったな。めっちゃ嬉しいよ!」
笑顔を見せる健一を見て、私も自然と顔がほころんだ。この人と家庭を築くんだという実感が湧いてきた瞬間だった。
臨月に入るまでの間、私は仕事と体調管理に追われる日々を送った。つわりに苦しみながらもできる限り出社し、責任を果たそうと必死だった。やがて産休に入ると家でのんびり過ごす時間が増えたが、それに反比例するように健一の態度は少しずつ悪い方へ傾いていった。彼は相変わらず漫画の持ち込みを続けていたが、結果は毎回芳しくなかった。
「ちっ、またダメだった。あの出版社の編集者って奴らは本当に見る目ないよな。」
「そっか。今回は残念だったね。でもきっといつかチャンスは来るよ。」
「どうせ今の業界は素人ばっかりなんだ。俺みたいな本物の才能を見抜けない奴らばかりだ。」
こうして健一はうまくいかない理由を周囲のせいにするようになっていった。私は心配だったが、それを口に出すと彼を追い詰めることになりそうで何も言えなかった。
生活の方は私の実家の援助もあって経済的に困ることはなかった。両親は資産家で、私たちが安心して子育てできるようさりげなくサポートしてくれていたのだ。
「赤ちゃんのためにも無理はしないでね。困ったことがあったら何でもすぐに言って。」
「いつもありがとう、お母さん。甘えすぎないようにするけど、すごく心強いよ。」
今思えば、あの時の私は両親の存在にどれほど救われていたか分からない。ただ、健一には実家からの支援についてあまり詳しく話さないようにしていた。彼のプライドを傷つけたくなかったからだ。
そして私はついに元気な女の子を出産した。名前は姫香。小さな手、小さな鳴き声、何もかもが愛おしい。もちろん出産も大変だったが、そこから先がさらに過酷だった。夜泣き、ミルク、おむつ替え。全てが初めてで余裕なんてどこにもなかった。
「赤ちゃんを育てるのがこんなに大変だなんて、私知らなかったよ。」
「誰だって最初は初心者よ。大丈夫。あなたはよく頑張ってる。」
母の言葉に何度救われたか分からない。そして育休が終わる頃、私は再び仕事に復帰することになった。最初は健一も協力してくれるものだとどこかで信じていたが、その期待はあっけなく裏切られた。
「今日は姫香のお迎え、お願いできる?」
「うーん、無理。明日の夕方までにはネーム描かなきゃいけないからさ。」
「じゃあ、せめて昼間だけでも見ていてくれる?」
「悪いけど、今日はもうすぐ資料館に行く予定なんだ。」
健一は「資料館」なんて言っているが、何のことはない。ただの漫画喫茶だった。口では忙しいと言いながら、彼は家にいることは少なく、ほとんど漫画喫茶に入り浸っていた。帰ってきても原稿を広げるわけでもなく、スマホをいじったりゲームに没頭しているだけ。結局、締切になっても漫画を書くことはしなかった。
そんなことが続いたある日、健一から連絡があった。
「姫香が高熱を出して倒れた。」
慌てた私は上司に事情を説明して職場からすぐに駆けつけたが、それまでの間、姫香は熱を出したままベッドに寝かされていた。
「健一、姫のことちゃんと見てたの?」
「ああ、コスプレイベントのライブ動画を見ながらな。ああ、お前がこんなに早く帰ってくるなら、子供は置いて現地に行っても大丈夫だったな。」
「え、何言ってるの?」
あまりの無神経さに言葉が詰まり、驚きすぎて怒りも湧いてこなかった。この人に娘を任せるわけにはいかない。私はすぐに上司に相談して働き方を変えたいと願い出た。突然の申し出にも関わらず、私の会社はとても柔軟な対応をしてくれた。
「柚月さんの事情はよく分かりました。しばらくリモートワークに切り替えましょう。」
「本当にありがとうございます。ご迷惑おかけしないように、これからも頑張ります。」
それから私は姫香のそばで仕事を続ける日々に切り替えた。夜泣きに付き合いながら資料を作り、熱が出ればすぐに病院に連れていく。一方、健一は相変わらず自分の世界に没頭していた。最近はSNSに夢中になっているようだ。
「見て見て。俺のアカウント、フォロワー増えてきたんだ。」
「すごいね。何か投稿したの?」
「同人仲間に教えてもらったんだ。電子書籍ってやつ。自分で売れるって聞いて、俺も出してみた。」
この頃の健一は自作の漫画をセルフ出版し、SNSで宣伝し始めたらしい。少しずつ「いいね」やリツイートも増え、彼はますます有頂天になっていった。ただ、心のどこかで私は違和感を覚えていた。果たしてこのままで本当に大丈夫なのだろうか、と。
こんな日々を続けるうちに、私たちはあっという間に結婚して10年の節目を迎えていた。この10年、私の働き方は少しずつ変わった。会社ではリモートワークが一般化し、業績評価も高まり、私自身にも次第に昇進の話が持ち上がるようになる。姫香を育てながらのキャリアアップは簡単ではなかったが、それでも私は諦めなかった。
その一方で、健一は以前にも増して家にいる時間が減っていった。
「ねえ健一、あなた最近帰りが遅いこと多くない?」
「取材とかだよ。作品作るためには現場に行かないと。」
「じゃあ、今日はどこに行ってたの?」
「いちいちうるさいんだよ。たまには息抜きも大事だろう。細かいこと聞くなよ。」
こうして問い詰めてもまともな答えは一度も返ってこなかった。ごまかすような口ぶりに何度も胸騒ぎを覚えたが、確証がない以上それ以上は追求できなかった。
そんなある日、会社から正式に昇進の話が決まった。
「ねえ、聞いてよ。私、来月から課長補佐に昇進することになったの。」
「ふうん。大したこともしてないくせに、遊んでばかりでも出世できるんだな。いいご身分だこと。最近なんて接待とか言って、いい飯ばっかり食ってるんだろう。」
皮肉っぽく笑う健一を見て、私は嬉しい気持ちが吹き飛び言葉に詰まってしまう。それでもこれまでの頑張りを否定されたのが悔しくて、私にしては珍しく反論した。
「遊んでなんかないよ。それにあれは仕事の一環で接待に出てるだけ。」
「仕事って言えば何でも許されるんだな。楽でいいよな。」
言い返せば喧嘩になるのは目に見えていたから、私は黙って言葉を飲み込んだ。だけど心の中では、静かに気持ちが覚めていくのを感じていた。
そんな中、私は両親の勧めもあり、自分の貯金と実家の援助を合わせて新居を購入することになった。姫香がのびのび育つ場所が欲しかったからだ。
「ようやく夢が叶った。あなたたち家族の新しいスタートね。無理しすぎないで、何かあったら頼っていいのよ。」
「うん。本当にありがとう。」
広々としたリビング、日当たりのいい庭、子供部屋に選んだ2階の一室。全てが希望に満ちた新生活のはずだった。けれど、その期待はあっさり裏切られる。
その日、私は仕事を早めに切り上げ、新居に向かっていた。新しい玄関を開けると、見慣れない女性がソファーに腰かけているのが目に入った。
「ヤッホー。あなたが柚月さん?初めまして。アリサです。」
軽い調子で手を振るその女に、私は言葉を失った。ただならぬ空気を察してリビングに目を向けると、腕組みをしてふんぞり返る健一の姿があった。
「今日からここが俺の家な。お前は出てけ。」
「何を言ってるの?意味が分からないんだけど。」
困惑する私に対して、健一はニヤつきながらさらなる爆弾を投下した。
「アリサ妊娠してるからさ。これからは家族3人で暮らすんだよ。妊娠中は退場な。」
「妊娠?あなたたち、ドッキリでも仕掛けてきてるの?それにしたって悪趣味よ。」
脳が情報を処理しきれず、頭の中が真っ白になった。追い打ちをかけるように健一は言い放つ。
「相変わらずうるせえ女だな。しかも理解力ゼロ。とりあえずお前が今すぐ出ていけば俺はハッピーなんだよ。分かったか?」
「でも、この家は私が買ったんだよ。」
「親の金で買った家に住んでるだけじゃねえか。自分の力でもないくせに偉そうにするなよ。」
「違う!私はちゃんと働いて貯金もしてきた!」
気づけば拳を強く握りしめていた。何もかも忘れて叫び出したいほど悔しかったが、ぐっとこらえる。2階には姫香がいるのだ。大声を出して怖がらせたくはなかった。
「おばさんさあ、妊婦にストレスかけるとか最低なんだけど。健一の言う通りにして、早く出ていってよ。」
アリサはソファーにだらしなく寝そべり、けだるそうな声でそう言った。これはとりあえず冷静になる必要がある。今のままじゃ私は何も考えられそうになかった。
「わかった。出ていくよ。姫香は連れて行くけどいいね。」
健一は「どうぞ」とばかりに手を振った。私はこれ以上言葉を発することなく、唇を強く噛みしめながら実質に行き、必要最低限の荷物をまとめる。そして姫香の元へ行くと、その小さな手を取ってこう言った。
「ねえ、姫香。今からママと2人でお出かけしようか。」
もちろん本当のことなど言えるわけもないので、私は言葉を濁す。だが子供ながらに何かを感じ取ったのか、姫香は不安そうな声で訪ねてくる。
「パパは一緒じゃないの?私、みんなで行きたいな。」
無邪気な子を騙すようで心は痛んだが、仕方ない。
「パパはね、今お仕事中なの。お客さんも来てるから、邪魔しないように静かに行こうね。」
こう言って部屋から連れ出した。階段を降り、玄関へ向かう途中、姫香がふと立ち止まった。
「パパ、本当に大丈夫?」
父を心配する幼い声に、健一はふてぶてしい声で公返す。
「心配すんな。俺は超売れっ子だからな。これからバンバン稼ぐんだよ。」
その声を背に受けながら、私は一度も振り返らなかった。姫香の手をぎゅっと握りしめ、静かに玄関のドアを閉める。やけに耳の奥に残る乾いた音が、結婚してから10年間ずっと積み重ねてきたものを断ち切ったような気がした。
翌朝、私はホテルの部屋で目を覚ました。隣では姫香が小さな寝息を立てて眠っている。昨日の出来事を思い出し、胸の奥に鈍い痛みが広がる。けれどいつまでも立ち止まってはいられない。私は静かにベッドを抜け出し、身支度を整えるとホテルのキッズルームに姫香を預けた。短い時間だけでも、彼女を安全な場所に預けておきたかった。
今日、私は家を取り戻しに行く。何のためにこれまで必死に働いてきたのか。姫香と一緒に安心して暮らせる場所を守るためだ。私は強く心に言い聞かせ、タクシーに乗り込んだ。
見慣れた住宅街にタクシーが入ると、自然と心臓の鼓動が早くなる。新しい門扉、整えたばかりの植え込み、白い外壁。どれも私が夢見て選び、努力して手に入れたものだった。
玄関の前に立ち、深呼吸を一つするとインターフォンを押す。しばらくして扉が開き、顔を出したのはやはり健一だった。私を一瞥した彼の顔が、みるみる不機嫌に曇る。
「なんだよ、こんな朝っぱらから非常識な女だな。」
短く吐き捨てるように言うと、健一はすぐに扉を閉めようとした。私は慌てて声を上げた。
「待って!お願い。話だけでも聞いて。」
閉まりかけたドアの前で、私は必死に訴えた。
「この家は私が買った家なの。姫香と暮らすために一生懸命働いて貯めたお金で。お願い。返して。私たちの家を返して。」
何度も何度も言葉を重ねていると、しばらくして再び扉が開いた。そこには先ほどよりも険しい顔をした健一が立っていた。手には何かを握っている。次の瞬間、彼は私に向かってそれを勢いよく投げつけた。白い粒が宙を舞い、私にぶつかったそれは足元にバラバラと落ちる。
驚きで言葉を失った私を見下ろしながら、健一は冷たく言い放つ。
「二度と来るな。お前みたいな疫病神、家に入れたくねえんだよ。これは清めの塩だ。さっさとなめくじみたいに消えてくれよな。」
怒りよりも悲しみよりも、ただ無力感だけが体の中を満たしていく。
「分かった。」
かれた声でそう答え、私はゆっくりと背を向けた。じりっと音を立てて踏みつけた塩が靴裏に張りつく感覚がやけに鮮明だ。家までの道のりを一度も振り返らずに歩いた。何度も繰り返し自分に言い聞かせる。ここで引き下がるわけにはいかない。これは私と姫香のこれからの人生のための戦いだ。静かに、強く心に誓った。
夕方になり、私は再び新居へ向かった。今朝とは違い、今回は万全の準備を整えている。私の隣には制服姿の警察官が2人、無言で並んでいた。警察署で事情を説明すると、すぐに動いてくれたのである。私がこの家の正式な所有者であり、正当な理由があることを警察官たちは理解してくれていた。
私は今朝と同じようにインターフォンを押した。短い間を置いて、勢いよく扉が開く。現れたのはやはり健一だった。私の顔を見るなり、彼は顔を歪め、手に持っていたコンビニ袋を振りかぶった。そして次の瞬間、湿った音を立ててその袋を私に向かって投げつけてくる。
私はとっさに体をひねってよけたが、足元には生ゴミが散らばった。突然のことに驚いていると、健一に続いてアリサが玄関から出てきた。
「ぎゃはは!何それ?マジ受ける。おばさん臭いんだけど!」
アリサは健一と一緒に指さして高笑いしていたが、私は微動だにしなかった。するとすぐ後ろにいた警察官が、静かにしかし力強く私の前に出た。私の視界を遮るように、制服姿の背中が見える。その瞬間、健一とアリサの顔色が変わった。
「え、なんだよ。」
2人が一歩後ずる。アリサは目を丸くして警察官と私の間をキョロキョロと見比べた。
「何よ、あんた警察なんか連れてきたの?」
それまでふてぶてしかった態度が、一気に引きつったものへと変わる。そんな2人の動揺など関係ないとばかりに、警察官は淡々としかしきっぱりと告げた。
「あなたたちが先ほど行った生ゴミを投げつける行為。これは暴行罪に該当します。」
「な、なんだよ。ゴミを投げただけじゃないですか。大げさだな。」
「そ、そうだよ。別に怪我させたわけじゃないし。」
必死で言い訳をしようとする2人を、警察官は一瞥しただけだった。
「暴行とは、直接的な怪我の有無は関係ありません。相手の体に対する不法な攻撃行為、あるいはそれに準ずる害悪を加える行為を指します。」
健一は顔面を真っ青にして完全に口ごもった。警察官はさらに続ける。
「この場で暴行の現行犯として、あなたたち2人を逮捕します。」
低く静かな声に、アリサが思わず健一の腕を掴んだ。
「どうしよう…。」
「知らねえよ。」
私の前でうろたえる2人を、私はただ黙って見つめた。警察官は一度言葉を切ると、改めて静かに説明を続けた。
「さらにあなたたちは、ここが所有者本人の明確な退去要求を受けている家であるにも関わらず、これを拒否して居続けています。」
「なんだよそれ。それってなんか問題なわけ?」
「他人の住居に正当な理由なく居続ける行為は、住居侵入罪に該当します。」
はっきりとした口調だった。警察官の言葉を聞いた健一は、足元が崩れるようにその場でぐらついた。アリサはひたすら警察官の顔を見つめ、口を開けたままだった。
「以上の理由により、暴行罪・住居侵入罪の容疑であなたたちを逮捕します。」
こうして2人は警察官が呼んだ応援のパトカーに乗せられ、連行されていった。
取り調べを受けた健一とアリサは翌日には釈放された。元々軽微な暴行だったこと、そして初犯だったことが考慮されたのだろう。健一が必ず何かしらの行動を起こすと予想していた私は、事前に姫香を実家に預けた。
「しばらく姫香をお願いできる?」
私がこう言うと、母は何も聞かずただ静かに頷いてくれた。
「大丈夫よ。あなたは心配しないで、自分のことを済ませなさい。」
問題が解決するまでの間、姫香にはできる限り穏やかな場所で過ごしてほしかった。私は一人で家に戻り、リビングを片付け、ソファーに座って静かに待った。
予想していたよりだいぶ早くインターフォンが鳴った。健一だろうと思った私は立ち上がり玄関へ向かう。だが扉を開けた瞬間、思わず息を飲んだ。健一だけでなく、隣にはアリサがまるで当然のような顔で立っていたのだ。私は一瞬だけ驚いたが、すぐに気持ちを切り替えた。健一は無精髭を伸ばしだらしない格好をしており、アリサも化粧のノリが悪く、どこか疲れきった顔をしている。遅くまで取り調べを受けていたのかもしれない。
「話がある。」
低い声で短くそう言った健一に、私は小さく頷いた。
「いいよ。中に入って。」
わずかに不満げな顔をしたアリサを横目に、私は2人を家に招き入れた。全てにきちんと蹴りをつけるために。私はもう逃げないと決めていた。
リビングに案内すると、健一とアリサは並んでソファーに腰を下ろした。私も向かいの椅子に座り、無言で2人を見つめる。空気を破ったのはアリサだった。
「聞いてた話と全然違うんだけど。」
いきなり声を荒げたアリサは、隣の健一を睨みつけた。
「この家、あんたが買ったんじゃなかったの?警察で聞いたら、持ち主はこっちのおばさんだって言われたんだけど。」
「う、うるせえな。細かいことはいいだろ。」
健一は面倒そうに頭をかいたが、アリサは納得しない様子だった。
「あんた、年収めっちゃ高いって言ってたのに、なんで自分で買ってないのよ。」
アリサの剣幕に、私は小さくため息をついた。
「高収入?健一が?」
わずかに笑いを含ませながら私は言った。
「この人、今まで1円とも稼いだことないよ。結婚してからずっとね。」
一瞬、アリサの顔が信じられないものを見るように歪んだ。そこで私は健一が販売している同人誌の管理画面を開き、彼女の前に突き出した。そこに書かれている売上高は当然0。冊数はそこそこ出ているが、その全てが0円。中には一度も商品ページを見てもらえていない作品もあるくらいだった。
それを見たアリサは、隣の健一を手で突き飛ばす。
「ちょっとふざけんなよ。あんた嘘ばっかじゃん!」
「だ、そうでも言わなきゃお前に逃げられるかと思ったんだよ。」
まともな言い訳を口ばる健一を、アリサは怒りに震える声で詰った。
「あんた詐欺師じゃん!っていうか、あんたもだよ!」
なぜか矛先が私にも向けられる。
「本当はあんたもグルなんじゃないの?最初から2人で私を騙したんでしょ!」
理屈の通らない怒鳴り声に、私は静かに首を振った。
「詐欺師ね。ところでアリサさん、あなた体調は大丈夫なの?そのお腹の感じだと、まだ1週間くらいかしら?妊娠してすぐだと、つわりもひどいでしょう。」
いきなりの言葉に、アリサは驚きの表情を見せる。
「そ、そうよ。さすが年季の入ったおばさんは鋭いわね。昨日から体調は最悪よ。」
「なんだかそんな気はしていたが、この言葉を聞いて私は確信した。やっぱりね、あなたこそ詐欺師じゃないの。つわりが起こるのは5週目くらいからだし、妊娠1週目で気づく人もそんなに多くはないわ。妊活してるなら別かもしれないけどね。」
まあ、このことも絶対ではないと思うが、今回に関しては図星だったようで、アリサはあからさまに動揺し始めた。
「わ、私はね、そこらの女とは出来が違うの。あんたの常識で語らないでくれるかしら。」
あまりにも苦しい言い訳に、私は吹き出しそうになりながら答える。
「それなら病院できちんと検査しましょう。もし本当に妊娠していたら、私のことを詐欺師でも何でも訴えたらいいわ。」
私の言葉に、アリサは真っ赤な顔で震えていた。健一もただ俯いたままで、何も言い返せずにいる。沈黙が重くリビングに落ちた、その時だった。
健一が突如として立ち上がり、私の前に膝をついたのである。
「頼む!アリサは追い出すから!だから許してくれ!」
床に体を擦りつけるようにして懇願してきた。あまりの情けなさに、私は返す言葉が見つからない。どうしたものかと考えていると、アリサが怒りに震えながら立ち上がる。
「あんた何言ってんの?私を切り捨てる気?」
「違う!でもこうなったらしょうがねえだろう。」
「はあ?ふざけんなよ!」
怒鳴りながら健一の胸を何度も叩くアリサ。それに対して健一も負けじと怒鳴り返した。
「お前だって嘘ついてたじゃねえか!妊娠してねえくせに!」
「う、うるさい!細かいこと言ってごまかそうとするんじゃないわよ!こっちは本気で信じてたんだぞ!」
「それで人生めちゃくちゃにされたんだよ!」
健一はアリサを攻め立てるように叫んだ後、今度は私に向き直り、再び頭を下げた。
「柚月、本当に悪かった。全部俺が悪かった。だからチャンスをくれ。」
その声は、これまで聞いたことのない情けなくてかれた声だった。だが私はそれを聞いても、何の感情も湧かなかった。私が覚めた目で2人を見ていると、なおも言い争いを続けるアリサと健一の声が耳に飛び込んでくる。
「全部お前のせいだ!」
「あんただって最初から嘘だらけだったくせに!」
見苦しい争い。私はため息をつきながら口を開いた。
「そろそろうるさい。いい加減にして。」
ぴたりと2人の口が止まる。
「今ここですぐに家を出て行ってくれるなら、今回の被害届は取り下げてあげる。」
驚いたように私を見る2人に、私は静かに続けた。
「ただし、すぐに荷物も何もかも置いていって。逆らうなら容赦なく訴える。」
2人は見合わせた。追い詰められた獣のような顔をして、やがてしぶしぶ立ち上がる。
「わ、分かった。すぐ出ていく。」
「ちっ、最悪。」
悪態をつきながらスマホだけをポケットに押し込むと、アリサと並んで玄関へ向かった。2人とも本当に手ぶらだ。これ以上私を刺激するのが怖かったのだろう。
パタンと間抜けに開けた玄関のドアから、2人は逃げるように出ていった。私はその背中を一瞥して、静かに玄関の扉を閉める。乾いた音が家中に響いた。
それから1ヶ月が過ぎた頃、仕事の合間になんとなくスマホを眺めていた私は、ふとあるニュースに目を止めた。
「結婚詐欺グループ、実行犯ついに逮捕。」
目を引くタイトルと共に顔写真が掲載されている。そこに写っていたのはアリサだった。私は思わずスマホを持つ手に力を込める。記事によると、アリサは10人以上の男性を言葉巧みに騙し、金銭を巻き上げていたらしい。逮捕のきっかけは被害者たちの集団告発だったという。どうやらかなり悪質だったようで、実刑は確実だと書かれていた。
もう少し早く捕まってくれていればと思ったが、今更言っても仕方のないことだと感じ、私は人知れずため息をついた。
そして健一の近況については、偶然知人から耳にしたことがある。
「聞いた?健一さん、今アパートに住んでるらしいよ。」
健一が住んでいるところの話よりも、あんな人でも借りられる部屋があることに私は驚いた。
「『ベストセラーを出して一発逆転する』とか、毎日叫んでるんだって。」
思わず苦笑してしまう。その反応を見た知人はさらに続けた。
「でもさ、あの人また電子書籍出したんだけど、全然売れてないみたいだよ。レビューもボロクソ。」
昔は面白い漫画を書く人だったのに、どこで間違ってしまったのだろう。そう思いながら黙って話に耳を傾ける。
「しかも生活できないからバイト始めたんだけど、社会人経験ないから礼儀作法とか全然ダメでさ。年下の店長に怒鳴られて、3日で首になったって。」
ここまで聞いた私は、小さくため息をついた。何もかも予想通りだ。結局健一は自分の力量を見誤ったのだ。才能もないのに努力することもなく生きてきたツケを、これから一生かけて払っていくのだろう。まあ、今となっては関係のない話である。
そして私はと言うと、広々としたマイホームで姫香と穏やかな日々を送っている。新しい季節を迎え、姫香はこの春、小学校に入学した。
「どう?学校楽しい?」
「うん!家庭菜園部に入ったんだよ。」
目を輝かせながら話す姫香に、私は思わず頬を緩めた。今では庭の一角に姫香専用の小さな畑が作られていて、休日になると姫香は学校の友達を家に招き、庭でバーベキューを楽しんでいる。子供たちの明るい笑い声が家いっぱいに広がる。私はキッチンからその様子を見守りながら、静かに思った。
あの日、勇気を出して本当に良かった。過去に縛られることなく、私たちは今、確かに前を向いて生きている。



