三十年前、教室の隅で「空気」のように扱われていた男が、地元で一番大きなホテルのオーナーになっていた。そんな俺の元へ、同窓会の幹事を押し付ける一方的なメッセージが届いた。「お前、昔から雑用くらいしか取り柄ないだろう。幹事よろしく」と。俺は静かに幹事を引き受け、会場に自分のホテルを用意した。当日、俺がマイクの前に立つと、戸塚が後ろから野次った。「おいおい、雑用係が挨拶か」。俺は一つ息を吐き、ゆっ…

三十年前、教室の隅で「空気」のように扱われていた男が、地元で一番大きなホテルのオーナーになっていた。そんな俺の元へ、同窓会の幹事を押し付ける一方的なメッセージが届いた。「お前、昔から雑用くらいしか取り柄ないだろう。幹事よろしく」と。俺は静かに幹事を引き受け、会場に自分のホテルを用意した。当日、俺がマイクの前に立つと、戸塚が後ろから野次った。「おいおい、雑用係が挨拶か」。俺は一つ息を吐き、ゆっ...

その夜、スマートフォンが机の上で短く震えた。画面には見慣れない通知がひとつ。「3年2組同窓会」というグループラインに、あなたが追加されました。

俺はしばらくその文字を見つめていた。

俺の名前は橋村修二。来月で55歳になる。地方の高校を出て、東京でホテルの下働きから始め、今は橋村ホテルズという会社の創業者だ。社員は1200人を超え、地元の名門・橋村ロイヤルホテルを含む十数軒のホテルを抱えるまでになった。

だが、高校時代の俺は誰の記憶にも残らない、空気のような存在だった。成績は中の下。運動もできず、口数も少なかった。教室の隅で、ただ窓の外の空を見ているだけの三年間。休み時間も昼休みも、俺は大抵ひとりだった。

卒業したら、誰も俺を知らない場所で一からやり直す。そればかりを毎日考えていた。

そんな俺のところへ、三十年越しの招待状が来たのが、少し不思議だった。

高校三年の文化祭の準備で、出し物の係りを決めていた日のこと。戸塚浩司が黒板の前に立ち、名前を呼んで係りを割り振っていった。四十人のクラスで、俺の名前だけが最後まで呼ばれなかった。

戸塚は出席簿を眺めて、面倒くさそうに言った。

「あれ? 橋村っていたっけ? まあいいや。余ったとこ適当に入っとけよ。」

教室がどっと笑った。悪意というより、ただの無関心の笑いだった。俺は何も言わず、余っていた道具係の欄に自分の名前を書いた。それが俺の高校生活の縮図だった。

画面の中では、すでに見覚えのある名前が次々と戸塚への挨拶を書き込んでいた。「戸塚君、変わらず元気そうで何より」「今度こそ一杯やろう」「さすが戸塚。まとめ役は君しかいない」。三十年経っても、風景は同じだった。

しばらく画面を眺めていると、個別にメッセージが届いた。差出人は曽根だった。高校時代、いつも戸塚の後ろをついて回っていた男だ。

「橋村。久しぶり。お前、確か地元に戻ってきてるらしいな。ちょうどいいや。今度の同窓会、お前が幹事な。会費の集金と会場の手配頼むわ。」

俺はその一方的な文面を二度読んだ。引き受けるかどうかを聞かれたわけではない。決定事項として押し付けられていた。

ほどなくして、追い打ちのようにもう一通届いた。

「お前、昔から雑用くらいしか取り柄ないだろう。幹事よろしく。」

最後の「よろしく」は、わざわざ打ち込まれた軽くて薄い感触の一言だった。

三十年経っても、この男の中で俺は「雑用くらいしかない橋村」のままだった。普通なら怒りが湧くのかもしれない。だが、俺の中に込み上げてきたものは、怒りとは少し違う。もっと冷たくて静かなものだった。

俺は東京でどん底から這い上がる間に、何度もこういう言葉を浴びてきた。学歴のない俺を見下すもの。地方から出てきた俺を馬鹿にするもの。その度に俺は言い返す代わりに、ただ黙って働いた。言葉で勝つことに意味はない。結果だけが、いつか全てを語る。それが長い歳月をかけて身につけた、たった一つの生き抜く術だった。

俺はスマートフォンを伏せ、湯呑みの茶を一口飲んだ。ぬるくなった茶が喉の奥をゆっくりと降りていった。

翌朝、橋村ロイヤルホテルの最上階にある会長室で仕事をしていると、専務の室井が決済の書類を抱えて入ってきた。室井は俺が這い上がっていた頃からの右腕だ。

「会長、来月の地域ホテル協会の理事会、出席されますか?」

俺は書類に目を通しながら軽く頷いた。室井は書類を置いた後も、すぐには出ていかなかった。

「どうかされましたか? 今朝はいつもよりお顔が硬い。」

室井には小さな変化も隠せない。俺は昨夜の同窓会のことをかいつまんで話した。

「お断りになればいい。会長はお忙しい身です。」

俺は窓の外に目をやった。眼下のホテルの向こうに、霞んだ山並みが薄く見えていた。その山の麓に、俺が三年間を過ごしたあの高校が今もある。

「いや、引き受けるよ。会場も俺が用意する。橋村ロイヤルの宴会場でいい。」

室井は何かを言いかけて口をつぐんだ。長年の付き合いで覚えた、ある勘が働いたのだろう。それ以上は問わなかった。

室井が出ていった後、俺は一人で窓辺に立った。ガラスの向こうで、橋村ロイヤルホテルの正面玄関に、一台また一台と客の車が滑り込んでいく。このホテルの一階のロビーから、最上階のこの部屋まで。全てを俺は自分の手で作り上げてきた。

東京で十年、皿を洗い、ベッドを整え、深夜のホテルに立ち続けた。地元に戻り、潰れかけたビジネスホテルを借金で買い取ったのは四十の時。そこから十五年、俺はただ働いた。

だが、心を許せる相手だけは、ついにできなかった。社員たちは俺を「会長」と呼んで頭を下げる。それは橋村修二にではなく、橋村ホテルズの看板に向けられた礼だった。夜更けに広い家へ帰るたび、俺は教室の隅の孤独を思い出していた。成功は、過去の記憶を明るくはしてくれなかった。

俺がなぜ幹事を断らなかったのか。理由は自分でもうまく言葉にできない。ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。幹事を引き受けるということは、会費も会場も当日の段取りも、全てに俺の決定権があるということ。これまで俺を空気として扱ってきた連中の同窓会が、まるで俺の掌の上に置かれる。

その日の昼、俺は曽根に短い返信を送った。

「分かった。幹事引き受けるよ。会場は俺が用意する。」

返事はすぐに来た。

「おお、助かるわ。お前は断らないと思ってたぜ。会費は一人二万。きっちり集めてこいよ。」

二万円という金額が、俺の中で小さく引っかかった。

週末、俺は幹事の引き継ぎとして、曽根から過去の同窓会の資料を受け取った。正確には、受け取ったというより、データが雑に放り込まれただけだった。

「適当に前と同じようにやればいいから、名簿と前回の会計送っとくわ。」

送られてきたファイルを、俺は会長室の机で一つずつ開いた。長年ホテルの帳簿を見続けてきた目は、数字の不自然さをすぐに嗅ぎ取った。

前回の同窓会も、その前の同窓会も、会費は一人二万円。参加者は毎回四十人前後。集まった会費は八十万円ほどになるはずなのに、会場として使われていたのは地元のごく普通の居酒屋だった。同業者のよしみで、およその原価まで見当がついた。四十人でどれだけ酒を飲み食いしても、その代金が四十万を超えることはない。

残りの四十数万円は、毎回どこへ? 会計の報告書には「会場費・雑費」と一言だけ書かれていた。俺はその文字を長い時間見つめていた。

帳簿の世界に長年身を置いてきた人間にとって、その曖昧さは一つの匂いを放っていた。俺はファイルを閉じ、名簿を開いた。四十人の名前の中に、明谷敬吾の名はない。あの男は三十年、一度もこの会に来ていなかった。

その事実が、俺の胸の奥を小さく刺した。

その夜、思いがけないところから連中の本音が聞こえてきた。同じグループにいた早野さんから、個別にメッセージが届いたのだ。早野は、地味な俺にも地味な明谷にも、分け隔てなく声をかけてくれた同級生だった。

「橋村君、余計なことかもしれないけど伝えておきたくて。戸塚君たち、別のグループであなたのことを笑ってる。『あいつなら断らない。金だけ集めさせて当日いじってやろう』って。」

俺はその文面をじっと見つめた。驚きはなかった。ただ、画面を持つ指先にわずかに力が入っているのを感じた。

「教えてくれてありがとう。大丈夫だ。」

「本当に大丈夫?」

「ああ、多分ね。」

その「多分」が何を指しているのか、この時の俺にはまだ自分でも測りかねていた。ただ一つだけ心に決めたことがあった。この同窓会を、連中の思い通りにはさせない。かと言って声を荒げて彼らを責めるつもりもなかった。俺がやるのは、ただ事実をあるべき場所に並べること。それだけだ。

机のファイルには、闇に消えた四十万円という数字。俺はその数字にもう一度目を落とした。

週が明けて、俺は曽根と直接会った。残りの資料を受け取るためだ。待ち合わせは、曽根の指定した駅前のチェーン店のカフェ。俺が着いた時、曽根はすでに奥の席で足を組んで座っていた。三十年で髪は薄くなり、腹は出ていたが、人を見下す時の目の動きだけは高校の頃と寸分も変わっていなかった。

「おお、橋村。わざわざ悪いな。」

曽根は立ちもせず、顎で向かいの席を指した。俺は無言で腰を下ろした。

「お前、地元で何やってんだっけ? なんかホテルの清掃か何かだったっけか。」

「まあ、ホテルの仕事だ。」

「まあ、何でもいいけどよ。」

曽根は興味もなさそうに、テーブルの上に古い茶封筒を放った。中には過去の会計の控えと現在の名簿が雑然と詰め込まれていた。

「会費は一人二万。これはもう決まりだから、お前が勝手に下げたりすんなよ。」

「二万円の内訳はどうなってるんだ?」

その問いに、曽根の手が一瞬止まった。

「戸塚さんに渡す分も入ってんだよ。顔への礼ってやつだ。お前は黙って集めて、戸塚さんに渡しときゃいい。余計なことは考えんな。」

俺はその言葉を、表情を変えずに受け止めた。二万円の会費の、その何割が戸塚の懐に消えていくのか。問い詰めることは簡単だ。だが、この場でそれをしても意味はない。曽根はただ戸塚の手足に過ぎない。本当に向き合うべき相手は、この男のその向こうにいる。

「何でお前が幹事を引き受けたんだ? 三十年ぶりに皆に会いたくてね。」

曽根は鼻で笑った。

「まあ、せいぜい頑張れや。当日楽しみにしてるからよ。」

その日の夕方、俺は早野さんの営む書店を訪ねた。駅前の商店街の外れにある小さな店だ。「早野書店」という色あせた木の看板がひっそりとかかっていた。ガラス戸を引くと、紙とインクの懐かしい匂いが流れ出してきた。

店の奥で、早野さんが文庫本の棚を整えていた。目尻には歳相応のしわがあったが、まっすぐにこちらを見る目だけは高校の頃と少しも変わっていなかった。

「久しぶりね、橋村君。どうしたの?」

「この前の礼を言いたくて。」

早野さんは俺に丸椅子を一つ進めてくれた。

「一つ聞きたいことがあるんだ。これまでの同窓会のこと。会費のこと、会場のこと。誰がどんな風に回してきたのか。」

早野さんは少し不思議そうな顔をした。

「何か気になることでもあるの?」

「いや、ただ引き受けたからには、ちゃんとやりたいんだ。」

早野さんは棚を整える手を止め、長椅子に腰を下ろした。

「同窓会はずっと戸塚君が仕切ってきたの。会費を集めるのはいつも曽根君。二万円って、正直高いって影で言う人もいたわ。でも、戸塚君が『これが俺たちの代の格式だ』って言うと、誰も逆らえなくて。」

「集めたお金が何に使われてるのか、ちゃんと聞いた人は多分一人もいないと思う。」

その一言が、俺の中のぼんやりとした疑いに輪郭を与えた。

「三年前の同窓会の時、私、一度だけ戸塚君に聞いたことがあるの。『会費、少し高くない?』って。そしたら戸塚君、笑ってこう言ったわ。『まみ、お前は昔から細かいんだよ。こういうのは仕切る人間に任せておけばいい』って。それ以上は何も言えなかった。」

長い間、戸塚はクラスという小さな王国の王のままなのだ。

「戸塚君は戸塚建設っていう会社をやってるの。地元じゃ羽振りがいいことで有名。曽根君はその戸塚君にずっとくっついてる。仕事も戸塚君から回してもらってるみたい。」

俺はその二人の関係を、頭の中のページに静かに書き留めた。集金の実務を担う曽根と、その上に座る戸塚。会費という小さな水溜まりの底に、三十年分の何かが沈んでいる。

「でも、不思議ね。あなたがそんなことを気にするなんて。昔の君は、何があってもただ黙って下を向いてる人だったのに。」

「人は変わるんだ。三十年もあればね。」

そう言いながら、俺は自分の声が思ったよりも静かなことに気づいた。早野さんは、それから少し声を落とした。

「明谷君は、一度も来たことがない。」

その名前が、店の空気を一つ変えた。早野さんはしばらく俺の顔を見つめてから、こう言った。

「あなた、あの頃、明谷君を助けられなかった自分からずっと逃げてるんじゃない? 三十年ずっと。」

その一言で、固く閉じていたある日の記憶の蓋が、音もなく開いた。

あれは高校三年の卒業を間近に控えた、冬だった。誰もいなくなった教室の隅で、戸塚とその取り巻きたちが明谷を囲んでいた。明谷の鞄の中身が床にぶちまけられていた。教科書もノートも、彼が大事にしていた古いカメラの部品も。明谷は何も言わず、ただそれらを一つずつ拾い集めていた。

俺は廊下の影から、その光景を見ていた。助けに入れば、次に囲まれるのは自分だと分かっていた。だから俺は、見なかったふりをして、足音を忍ばせてその場を立ち去った。立ち去る間際、明谷と目があった気がした。だが、俺は振り返らなかった。

橋村ホテルをどれだけ大きくしても、あの日の後ろめたさは消すことができなかった。俺は長い間、早野さんの顔を見られなかった。

「そうかもしれない。」

ようやく、それだけを絞り出した。早野さんは責めるでもなく、ただそっと続けた。

「私も同じなの。あの日、私も教室の外にいた。何かおかしいって気づいたのに、中に入れなかった。だから私たちは似た者同士。三十年同じ後悔を抱えて生きてきた。」

早野さんの言葉は、責めるでも慰めるようでもなかった。ただ、同じ痛みを抱えてきた者だけが持つ静かな響きが、そこにあった。

「明谷君ね、今は隣の県で印刷の仕事をしてるって、風の噂で聞いたわ。一度も同窓会には来ない。来れるわけないわよね。あんな目に遭わされて。」

その言葉が、俺の胸の古い傷にそっと触れた。

「彼は、元気にしているのか?」

「さあ、私も何十年も会ってないから。でも、あなたが気にかけてること、それはきっと無駄じゃないと思う。」

長年心の隅に置き去りにしてきた「明谷」という名前が、今はっきりとした輪郭を持って俺の前に戻ってきた。俺はしばらく店の窓の外を見ていた。

戸塚たちをただ見返すだけなら、それは三十年前の意趣返しに過ぎない。俺がやるべきなのは、見返すことではなく証明することだ。数字をごまかしてきた者にはその数字で。人を見下してきた者には、見下されてきた者たちが持つ本当の価値で。そして、見て見ぬふりをしてきた自分には、もう一度あの日の教室に向き合うことで。

俺は丸椅子から立ち上がった。

「ねえ、橋村君。逃げても、あの日は終わらない。お互いにね。」

「ああ、分かってる。」

ガラス戸を引いて外に出ると、夜の風が商店街を吹き抜けていった。街灯の光が点々と落ちている。その光の連なりは、まるでこれから俺が一つずつ辿っていくべき道筋のように見えた。

車に乗り込んだ俺は、遠回りになるのを承知で高校の前を通る道を選んで帰った。夜の校舎は明かりも消え、ただ黒い影として立っていた。三十年前、俺と明谷がそれぞれの孤独を抱えていた場所だ。

家に着くと、俺は室井に電話を入れた。

「悪いが、一つ内密に調べて欲しいことがある。戸塚建設という地元の会社だ。経営の状態と主な取引先、それからうちの取引銀行との繋がりも。」

「承知しました。お急ぎですか?」

「いや、急がなくていい。ただ正確に頼む。」

室井はそれ以上理由を聞かなかった。

「もう一つ。過去十年分の同窓会の会計を、徹底的に見直してほしい。」

電話の向こうで、室井が短く息を飲んだ。長年俺の右腕を務めてきた男は、その声の調子だけで何かが始まることを察したようだった。

「会長。一つだけ伺ってもよろしいですか? これはお仕事ですか? それとも、別のことですか?」

俺は少し間を置いてから答えた。

「長い間、開けられなかった宿題だ。」

「承知しました。専務として、全力でお支えします。」

電話を切ると、窓の外で夜風が窓を小さく揺らした。連中はまだ何も知らない。自分たちがこれからどこへ足を踏み入れようとしているのかを。

翌日から、俺は幹事の仕事に取りかかった。案内状を送る前に、名簿の一人一人にできる限り自分で連絡を入れた。その中に、高校時代俺と同じように目立たなかった一人の女性がいた。彼女は電話の向こうで、少しためらいがちに言った。

「橋村君、正直に言うとね、私今回も行くのを迷ってたの。同窓会っていつも戸塚君たちの自慢話を聞かされるだけで、なんだか私、毎回すみっこにいる気がして。」

俺は受話器を握り直した。

「今回は、多分これまでとは少し違う夜になる。よかったら来てほしい。あなたが来てよかったと思えるような夜にする。」

電話の向こうで、彼女はしばらく黙っていた。それから、小さな声で「ありがとう」と言った。

長い間、肩身の狭い思いをしてきたのは、明谷だけではなかったのだ。その一言を聞いて、俺は自分のやろうとしていることが、ただの意趣返しではないということをもう一度心の中で確かめた。

その夜、俺は幹事として全員に正式な案内状を送った。日時と会場の名を克明に記した後、最後に一言だけ書き添えた。どうか、全員必ず来てほしいと。

戸塚からの返信はすぐに来た。

「橋村か。幹事ご苦労様。まあ、会場くらいはまともに頼むぞ。」

俺はその一文を最後まで読んでから、スマートフォンを伏せた。「来てほしい」という言葉に、俺がどれだけの意味を込めたのか。それを知るのは、あと半月ほど先のことだ。

数日後、室井が一冊の分厚いファイルを抱えて会長室に入ってきた。その表情は、いつもよりわずかに硬い。

「会長。ご依頼の件、まとまりました。」

室井はファイルを開き、過去十年分の同窓会の会計を机の上に並べた。

「過去五回の同窓会、集まった会費の総額に対して、実際の会場への支払いとの差額が、説明のつかない形で消えています。明確になっているだけで、五回で合計約二百三十万円。全て『会場費・雑費』という名目で計上されていました。」

俺はその数字を穏やかに見つめた。

「会長。調べていて、正直不愉快でした。この消えたお金の使い道も、およそ見当がつきました。同窓会の後、戸塚とごく親しい数人だけで、毎回高級なクラブで二次会をやっていたそうです。会費を払った大半の同級生は一次会で解散させられて、残った金は内輪の遊興費に消えていました。」

腹の底で、静かな熱が一つ渦巻くのを感じた。だが、それを表に出すことはしなかった。熱は、行動の熱量にすればいい。

「曽根は、戸塚に『まとめ役の経費』として毎回渡していました。実行役の曽根と、その上に座る黒幕の戸塚。ぼんやりとした輪郭は、はっきりとした二層の形に変わった。俺はファイルの次の頁をめくった。そこには、戸塚建設の経営の状態がまとめられていた。

「戸塚建設は、地元では羽振りがいいと見られています。ですが、中身は別です。銀行からの借入で運転を回している状態で、余裕は決して楽ではありません。地元での評判が崩れれば、一気に立ち行かなくなる。」

室井はそこで一度言葉を切り、そして続けた。

「会長。一つ申し上げにくいことが。戸塚建設は、今度、うちの新しいホテルの建設工事の下請け入札に参加しています。社運をかけてです。総額十二億円規模の工事。これを取れるかどうかで、あの会社のこれからが決まります。」

「あの会社はここ数年、地元の大きな公共工事の入札に参加し続けていますが、落とせていません。派手な事務所も、社長の車も、全て借入で回している状態です。うちの工事を取れなければ、来年あたり資金繰りが危うい。」

俺はファイルに並んだ戸塚建設の数字を、もう一度目で追った。見栄を対面で塗り固めた会社の内側は、思っていたよりもずっともろかった。これまで人を見下し続けてきた男は、誰よりも地元の評判という一枚の薄い氷の上に立っていたのだ。

室井はファイルを閉じ、しばらく黙ってから低い声で言った。

「会長。差し出がましいことを申しますが、私は会長がこういう連中のためにわざわざ気を揉むのが、惜しい気がします。」

俺は薄く笑って、首を横に振った。

「戸塚のためじゃない。三十年前、あの教室で声を上げられなかった、俺自身のためだ。あの頃の俺に、けじめをつけさせてやりたいんだよ。」

室井はしばらく俺を見て、それから深く頷いた。

「出過ぎたことを申しました。専務として、最後までお支えします。」

「室井。この入札は、お前たちの判断で公正に進めてくれ。俺の私情は挟まない。」

「承知しております。あくまで工事の質と見積もりで判断します。」

「ああ、それでいい。」

俺が戸塚を潰すのではない。戸塚が三十年自分で積み上げてきたものが、一人でに崩れるだけだ。俺はただ、その崩れる音をきちんと皆に聞かせるだけでいい。

同窓会の前日、俺は下見という名目で、橋村ロイヤルホテルの大宴会場へ足を運んだ。天井の高い宴会場には、磨き上げられたシャンデリアが午後の光を細かく砕いている。誰もいない宴会場は、静まり返っていた。

俺はその広い空間の中央に立ち、ゆっくりと目を閉じた。三十年前のあの教室の空気が、ふと蘇える。四十人の同級生のざわめき。戸塚を中心とした笑い声。その輪の外で、一人息を潜めていた自分。

目を開けると、そこには誰もいない広い宴会場が広がっているだけだった。

「円卓を八つ。中央の舞台に近い席を、ここに。」

俺は図面の上で、戸塚と曽根の座る席を指で押さえた。全ての視線が自然に集まる場所だった。

このホテルは、俺が東京から戻り、ゼロから築き上げた場所。その一番大きな宴会場を、三十年前俺を空気として扱った男たちのために開く。皮肉な話だった。だが、俺にはこれ以上ふさわしい舞台は他になかった。

「会長。当日の進行とお支払いの管理は、いかがいたしましょう?」

「会費の入金も会場の支払いも、全てこちらの経理を通す。記録は一円残らず残してくれ。」

「かしこまりました。」

幹事である俺の手の中に、その夜の全ての金の流れが収まる。過去の二百三十万円も、当日の二万円の会費も、もう誰にも闇に紛れさせはしない。

「室井。当日の段取りの最後の確認を頼む。過去五回の会計と、曽根が戸塚に金を渡していた記録。それを当日、スクリーンに映せるように準備してくれ。派手にする必要はない。ただ、誰が見ても分かる形に並べるだけでいい。」

「承知しました。」

「それから、戸塚には、当日自分から話す機会を一つだけ残しておく。」

「逃げ道をですか?」

「ああ。」

室井はしばらく俺の横顔を見ていた。

「会長は、お優しい。」

「いや、ただ後悔したくないだけだ。あの日のように。」

同窓会当日は、初秋にしてはよく晴れた穏やかな夜だった。橋村ロイヤルホテルの大宴会場には、開演の時刻を前にして同級生たちが次々と集まり始めていた。

俺は幹事として入り口の脇に立ち、一人一人に静かに頭を下げて迎えた。歳を重ねた者もいれば、すっかり変わってしまった者もいたが、その多くが俺の前を軽く会釈するだけで通り過ぎていった。中には、俺の顔を見ても誰だか思い出せない様子の者もいた。名簿で名前を確認してから、「ああ」と気のない相槌を打つ者もいた。それでも俺は、一人一人に丁寧に頭を下げ続けた。

開演の十分ほど前になって、戸塚浩司が曽根たちを従えて入り口に姿を現した。仕立てのいいスーツに金色の太い腕時計を巻いた戸塚は、フロアを見渡すなり満足そうに口元を持ち上げた。

「ほう。今回は随分と立派な会場じゃないか。」

曽根がその横で、お世辞めいた笑いを浮かべる。

「いやあ、こいつが珍しく頑張ったみたいでなあ。」

戸塚は俺の肩を無造作にポンと叩いた。

「橋村、幹事ご苦労だったな。お前にしては上だ。ところで、会費はきっちり集めたんだろうな。」

俺はその手の重さを肩で受け止めながら、ただ穏やかに頷いた。

「ああ、皆さんから確かにお預かりした。」

「結構。結構。後で、いつものようにまとめて俺に渡しておけよ。」

その「いつものように」という一言を、戸塚は何の警戒もなく口にした。これまで誰も逆らわなかった習慣が、その声に滲んでいた。

やがて開演の時刻になった。俺はフロアの中央に進み、マイクの前にそっと立った。三百人は入る大宴会場に、四十人の同級生のざわめきが薄く満ちていた。俺がマイクを握ると、戸塚が後ろの席から野次るように声を飛ばしてきた。

「おいおい、雑用係が挨拶か。手短かに頼むぞ。」

どっと笑いが起きた。三十年前のあの教室の笑いと同じ、無関心の笑いだった。俺はその笑いが静まるのを、最後まで待った。それから、ゆっくりと口を開いた。

「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。幹事を務めます、橋村です。皆さんに、まず一つお伝えしておきたいことがあります。」

俺は一度言葉を切った。会場のざわめきが、わずかに引いた。

「この橋村ロイヤルホテルは、私が創業し、経営している橋村ホテルズのホテルです。本日の会場は、私が自分の会社の宴会場を、皆さんのために用意しました。」

一瞬、会場が静まり返った。それからざわめきが、別の部屋を飛び越えて波のように広がっていった。入り口に控えていた支配人とホテルのスタッフたちが、揃って俺に向かって深く頭を下げた。その光景が何を意味するのかを、その場の全員がようやく理解した。

戸塚の顔から、ほんの少し色が引いていった。曽根は口を半開きにしたまま、椅子の上で固まっていた。つい今、俺の肩を叩き「雑用係」と笑った男たちが、自分たちの言葉を一つずつ思い返しているのが、その表情から手に取るように分かった。

俺は彼らの動揺を、しばらく静かに見ていた。

「驚かせて申し訳ない。同窓会を始める前に、幹事として皆さんからお預かりしたお金のことで、どうしても確かめておきたいことがあります。」

俺は手元のリモコンを押した。宴会場の正面の大型スクリーンに、一枚の表が映し出された。過去五回の同窓会の会費の総額と、実際の会場への支払いの差額を並べた表だった。

「過去五回の同窓会で集められた会費のうち、会場の支払いに使われなかったお金が、合計で約二百三十万円あります。会計の報告では、全て『会場費・雑費』と書かれていました。ですが、実際の店への支払いは、その半分にも満たない。」

宴会場の空気が、凍りついた。俺は戸塚の方をまっすぐに見た。

「戸塚。この消えた二百三十万円がどこに行ったのか、皆の前で説明してもらえないか?」

戸塚は立ち上がり、声を荒げようとした。

「何を言い出すんだ! 言いがかりもいい加減にしろ! 証拠でもあるのか?」

俺はもう一度リモコンを押した。スクリーンが切り替わった。曽根が毎回戸塚に金を渡していた記録と、その金額の控えが映し出された。

「集金は曽根。受け取っていたのは、戸塚、あなただ。曽根本人が私にこう言った。『戸塚さんに渡す分も入っている。顔への礼だと』。」

曽根の顔が、土気色に変わった。

「あ、俺は戸塚さんに言われた通りにやっただけで…」

「黙ってろ!」

戸塚の声が、初めて上ずった。長年「王」として君臨してきた男の顔に、これまで一度も見せたことのない色が浮かんでいた。

会場のあちこちから、低いざわめきが起こり始めた。二万円という会費を毎回黙って払ってきた同級生たちが、互いの顔を見合わせていた。ある男は信じられないというように首を横に振った。入り口近くの席では、電話で話した女性が口元を手で抑えていた。

誰も口にできなかった違和感の正体が、今、数字となって目の前に並んでいた。早野さんがフロアの隅で、こちらをまっすぐに見ていた。

俺はここで、戸塚に一つだけ逃げ道を残した。

「戸塚。今ここで皆に謝り、消えた金を全額返すと言うなら、私はこれ以上のことはしない。」

だが、戸塚はその手を取らなかった。

「ふざけるな! 俺がまとめ役として苦労してきた分の、当然の報酬だ! 誰のおかげでこの会が続いてきたと思ってるんだ!」

戸塚は、最後まで自分の非を認めなかった。その瞬間、俺の中で戸塚に残されていた最後の逃げ道が、そっと閉じた。

「そうか。残念だ。」

俺は一つ息を吐いてから、続けた。

「室井。」

会場の隅に控えていた室井が、一歩前に出た。

「戸塚建設が、うちの新しいホテルの工事の下請け入札に参加している。社運をかけてるそうだな。」

戸塚の表情が、その一言で凍りついた。ようやく戸塚は理解したのだ。長年「雑用」と見下し、肩を叩いて笑った相手が、自分の会社の命運を握るその人間だったということを。

戸塚の膝がわずかに折れ、すぐ脇のテーブルに手をついてその身を支えた。金色の太い腕時計が、震える手首の上で安っぽく光った。

「橋村…お前…一体いつから…?」

声は最後まで続かなかった。長い間人を見下す側にいた男が、初めて見下される側の気持ちを知った瞬間だった。

「安心しろ。入札は、工事の質と見積もりだけで公正に判断させる。私の私情は挟まない。ただ、同級生の金をごまかしてきた会社と、これから長く仕事を共にできるかどうか。それを判断するのは私ではなく、世間の方だ。」

戸塚は何も言い返せなかった。その夜、消えた二百三十万円の返還を、戸塚と曽根は書面で約束させられることになった。そして、戸塚建設が社運をかけた入札の話は、この夜を境に静かに立ち消えていった。

曽根も、ただでは済まなかった。曽根の仕事は、その大半が戸塚建設からの下請けで成り立っていた。後ろ盾だった戸塚が地元の信用を失えば、曽根の仕事も根元から揺らぐ。これまで強いものの後ろに隠れて人を見下してきた男は、その強いものが崩れた瞬間、隠れる場所を全て失った。

二人は、最後まで互いを庇うことはなかった。戸塚は曽根に責任をなすりつけ、曽根は「戸塚に言われた通りにしただけだ」と繰り返した。長年共に人を見下してきた二人の結束は、その程度のものだった。

人の金をごまかしていたという噂は、狭い地元の業界をあっという間に駆け巡り、戸塚建設の融資は見直しを迫られた。長い歳月をかけて戸塚が築き上げた「顔」という王国は、たった一夜でその土台から崩れ落ちた。それは俺が崩したのではない。戸塚自身が三十年ごまかし続けてきたものの、当然の帰結だった。

ざわめきの中から、一人の男がゆっくりと立ち上がった。会費を毎回無言で払ってきた同級生の一人だった。

「橋村…いや、橋村さん。俺たちは、長年何も知らずにいたんだな。あんたが幹事を引き受けてくれなかったら、俺たちはずっと気づかないままだった。」

俺はその言葉に、ただ穏やかに首を横に振った。

「礼を言われることではない。俺はただ、幹事の務めを果たしただけだ。」

入り口近くの席では、電話で話した女性がそっと目元を拭っていた。その光景を見て、俺は初めてほんの少しだけ胸の奥が緩むのを感じた。会場の片隅で、早野さんがその一部始終をじっと見ていた。俺と目が合うと、彼女は何も言わず、ただ深く一つ頷いた。

俺はフロアの中央に立ち、静まり返った宴会場をゆっくりと見渡した。長い間俺を「空気」として扱ってきた同級生たちは、今は誰一人として俺から目をそらさずにいた。だが、その光景に、俺は「勝った」という感覚を全く覚えなかった。胸の中にあったのは、もっと静かで重いものだった。

戸塚を断罪したところで、三十年前、廊下の影から目を背けた俺の罪が消えるわけではない。戸塚が崩れ落ちたその隣に、あの日見て見ぬふりをした、もう一人の自分がまだ立っている気がした。

「これで、終わりだ。」

俺はマイクを置き、小さくそう呟いた。だが、その言葉とは裏腹に、俺の胸の奥にはまだ果たされていない一つの宿題が、そっと残っていた。

この夜、この場所に、ただ一人来ていない男。俺が三十年前、廊下の影で見て見ぬふりをした、明谷敬吾。戸塚の断罪は、あくまで通過点に過ぎない。本当の決着は、まだこれからだ。

同窓会から二週間が過ぎた。よく晴れた日の午後。同窓会の夜から、俺の中で一つの決心が固まっていた。戸塚を断罪したことは、三十年の一つの区切りにはなった。だが、それだけでは俺の宿題は半分しか終わっていなかった。

俺は早野さんから聞いたぼんやりとした手がかりを頼りに、明谷敬吾の今の居場所を探し当てた。俺は自分でハンドルを握り、現在を超えて隣の県の小さな町を訪ねた。

ナビが示した先には、古い商店街の一角にひっそりと佇む一軒の印刷工房があった。色あせた日差しの下に、「明谷印刷」と書かれた手書きの木札が静かにかかっていた。ガラス越しに中を覗くと、輪転機の前で一人の男が、刷り上がったばかりの紙の束を丁寧に検品していた。

三十年ぶりに見る、明谷敬吾の横顔。あの頃の痩せて寂しげな少年の面影を、どこかに残したままだった。

戸口の鈴を鳴らして中に入ると、明谷は顔を上げ、しばらくこちらを見ていた。そして、ゆっくりと俺の名を口にした。

「橋村君、だよな。」

「ああ、久しぶりだ。突然、すまない。」

明谷は驚いた様子も見せず、ただそっと作業の手を止めた。俺はその場で、深く頭を下げた。腰を折ったまま、これまで言えずにいた言葉を、ようやく紡いだ。

「あの日のことを、ずっと謝りたかった。高校三年の、卒業前の放課後だ。」

明谷は手を止めたまま、俺の言葉の続きを待っていた。

「君が戸塚たちに囲まれていた時、俺は廊下の影でそれを見ていた。見ていながら、何もせず、足音を忍ばせて逃げた。三十年間、君に対して見て見ぬふりをした自分から、俺はずっと逃げ続けてきた。本当に、すまなかった。」

工房の中に、印刷機の低いうねりだけがしばらく響いていた。明谷はすぐには何も言わなかった。やがて、彼は刷り上がった紙の束にもう一度目を落としてから、ぽつりとこう言った。

「覚えてるよ。あの日、君と目があったことも。」

その一言が、俺の胸の一番深いところに、まっすぐ届いた。

「正直に言うとね、あの頃、俺は君のことを少し恨んでいた。どうして見て見ぬふりをするんだって。でも、それ以上に分かっていたんだ。君も君なりに、必死だったって。あの教室で、息をするだけで精一杯だったんだろう。」

明谷は顔を上げ、穏やかに笑った。

「高校出てから、俺はこの地でずっと印刷の仕事をしてきた。派手なことは何もなかったよ。誰に知られることもなかった。」

俺は相槌も打たず、ただその横顔を見ていた。

「でもね、橋村君。一枚の紙を綺麗に刷り上げるたびに、俺は少しずつ、あの教室の自分から離れていけた気がするんだ。」

俺はその言葉を、胸に刻むように聞いた。明谷もまた、長い歳月をかけて、自分なりのやり方で、あの教室から出ようとしてきたのだ。

「君がわざわざここまで来て、頭を下げてくれたこと。それだけで、俺の三十年は少しだけ報われた気がするよ。謝ってくれて、ありがとう。その言葉は、確かに受け取った。」

「ありがとう。」

俺はそれ以上の言葉を見つけられなかった。あの日、彼が床から拾い集めた古いカメラの部品の冷たさは、消えはしない。謝罪は、過去をなかったことにはできない。ただ、これから先の時間を、ほんの少しだけ違う色にすることはできるのかもしれない。

俺は工房の中をゆっくりと見回した。丁寧に刷られた名刺や封筒や小さな冊子が、棚に整然と並んでいた。その一枚一枚に、この男が長年、誰に認められなくとも注ぎ続けてきた確かな仕事の手応えが宿っていた。

「明谷。一つ、仕事の話をさせてくれないか? うちはホテルをやっている。客室の案内もレストランのメニューも、年に何万枚と印刷物がいる。」

明谷は、おそるおそるといった風に俺の顔を見た。

「その仕事の一部を、君の工房に頼みたい。同窓会の情けでも、施しでもない。」

明谷はしばらく俺の顔を見ていた。それから、ふっと肩の力を抜くように笑った。

「君も、変わったな。橋村君。いいよ。仕事なら、喜んで。ただし、品質にはうるさいぞ。安くはしないからな。」

「ああ、それでいい。それが、いいんだ。」

俺たちはそれからしばらく、工房の隅の古い椅子に腰をかけて話をした。高校の頃の他愛のない思い出。あの教室で、それぞれがどんな風に息を潜めていたか。三十年口にできなかった話を、俺たちはまるで昨日のことのように語り合った。不思議と、湿っぽくはならなかった。ただ二人とも、長く心の奥にしまい込んでいたものを、少しずつ外の光に当てているような、そんな時間だった。

「橋村君が今日来てくれたこと、俺は多分、一生忘れないよ。」

「俺もだ。三十年も遅くなって、すまなかった。」

「遅くったって、来ないよりずっといい。」

明谷はそう言って、もう一度穏やかに笑った。

帰り際、明谷は奥の棚から一つの古いカメラを取り出して、俺に見せた。レンズの脇に小さな擦り傷の残る、年代物の一眼レフだった。

「これ、あの日、床にばらまかれたやつだよ。」

俺はその古いカメラを両手で受け取った。

「部品を一つずつ拾い集めて、家で何日もかけて組み直したんだ。壊されても、また直せばいい。そう思えるようになったのは、あの時からかもしれないな。」

俺はそのカメラをしばらく見つめた。三十年前、廊下の影から見たあの光景。床に散らばった部品を黙って拾い集めていた少年の背中。その背中が、三十年をかけて一つの確かな手へと結実していた。胸の奥で、長く凝りついていた何かが、ひくりと溶け出していく。

工房を出ると、午後の日差しが商店街の石畳を優しく照らしていた。車へ戻る前、もう一度だけ振り返り、「明谷印刷」と記された手書きの木札を視界に納める。三十年かかって、ようやくあの日の廊下を一歩踏み出せたような気がした。

完全に許されたわけではないだろう。埋まらないものは、これからも埋まらないまま残る。三十年という歳月は、もう二度と戻ってこない。だが、これから先の時間はまだ俺の手の中にある。その時間を、今度は誰かのために使おうと思った。あの教室の隅で、俯いている誰かのために。

数日後、俺は早野さんの書店をもう一度訪ねた。明谷と会ったことを話すと、彼女は棚を整える手を止めて、少しだけ目を潤ませた。

「よかった。本当に、よかった。橋村君。ようやく、あの日の教室から出られたのね。」

早野さんはそう言って、潤んだ目元を指先で拭った。

「ねえ、橋村君。今度、明谷君も誘って、三人でお茶でもしない? 私も明谷君に謝りたい。それに、三十年前にはできなかったこと、今ならできる気がするの。」

「ああ、連絡しておくよ。明谷も、きっと喜ぶ。」

俺がそう答えると、早野さんは少しだけ目元を緩めて、頷いた。店先のガラス戸の向こうで、夕暮れの光が商店街を淡い金色に染め始めていた。

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