葬儀の翌日、義理の娘が私の顔に冷たいお茶を浴びせかけた。「中卒の無能な老女は、さっさと消えてください」と。育てた実の息子まで、勝ち誇った顔で「スラムで暮らせ」と追い出そうとする。彼らは知らない。この古い家の土地の名義が誰のものか。そして、私がただの中卒の老婦人ではないことを。私は何も言わずに家を出て、スマホでたった一つの指示を送った。「明日、あの家を取り壊しなさい」。彼らが地獄を見るのは、も…

葬儀の翌日、義理の娘が私の顔に冷たいお茶を浴びせかけた。「中卒の無能な老女は、さっさと消えてください」と。育てた実の息子まで、勝ち誇った顔で「スラムで暮らせ」と追い出そうとする。彼らは知らない。この古い家の土地の名義が誰のものか。そして、私がただの中卒の老婦人ではないことを。私は何も言わずに家を出て、スマホでたった一つの指示を送った。「明日、あの家を取り壊しなさい」。彼らが地獄を見るのは、も...

葬儀の翌日、夫の香りがまだ残るリビングで、息子の嫁・エリカが私の顔に冷たいお茶を浴びせかけた。

「小春さん、まだそこにいるつもり? いい加減にしてください。中卒の無能な老女はさっさと消えてください」

畳に茶が染み込んでいく。私は黙って床を見つめていた。

「母さん、エリカの言う通りだ。この家は今日から俺たちのものだ。お前みたいな寄生虫に食わせる飯はない。これからはお似合いのスラム街で暮らせ」

一人息子として大切に育ててきた匠までが、勝ち誇った笑みを浮かべて私を見下ろしている。昨日まで夫の死を悲しんでいたのは、全て演技だったのだ。

彼らは知らない。この家の名義が誰のものかを。そして、彼らがスラムと呼んで私を追い出そうとしている場所が、実は世界を揺るがす巨大な富の源泉であることを。

私は静かに立ち上がり、泥に汚れた着物の裾を払った。反撃の鐘はすでに鳴らされていた。

亡き夫・健造さんは、表向きは小さな町工場の経営者として一生を終えた。近所からは「誠実でおしとやかなご夫婦ね」と言われ、私たちもその静かな生活を愛していた。しかし、健造さんの四十九日を待たずして、息子夫婦の本性がむき出しになった。

匠は大手広告代理店に勤めていると自負していたが、実際には借金まみれだった。エリカは派手なブランド品に身を包み、常に誰かを見下さなければ気が済まない性格だった。

「ほら、さっさと荷物をまとめろよ。と言っても、お前の持ち物なんてゴミみたいなもんばかりだけどな」

匠が私のクローゼットから服を引っ張り出し、次々と廊下へ投げ捨てる。長年大切にしてきた着物や、健造さんとの思い出が詰まった品々が無造作に扱われていく。

「ちょっと、そんなに乱暴にしなくても」

私が小さく声を出すと、エリカが私の髪を強く引っ張り、無理やり顔を上げさせた。

「うるさいわね。負け犬が口をきかないで。あんたは健造さんの遺産を全部独り占めしようとしてたんでしょう。でも残念。遺言書は匠が全て相続するように書き換えさせておいたから。あんたに残されたのはこの古いボロ家だけよ。売った金なんて一円もやらないわ。この家の敷地、実は再開発が決まってて、億単位で売れるの。あんたみたいな無能にそんな大金を持たせるわけないじゃない」

エリカは顔を歪めて笑った。遺言書の書き換え。そんな非道なことをしていたのかと驚愕したが、私の心には怒りよりも悲しみが先に立った。健造さんが最後まで心配していた息子が、ここまで腐っていたとは。

「そうですか。わかりました。私は出ていきます」

私が短く答えると、その沈黙は彼らにとっては完全な敗北に見えたのだろう。匠が一枚の紙を投げつけてきた。

「はっ、物分かりがいいじゃないか。じゃあ、これがお前の新しい住居の住所だ。死ぬまでそこで這いつくばって生きてろ」

そこには、都心から遠く離れた、治安が悪く不衛生だと言われている通称「スラム」と呼ばれる地区の住所が書かれていた。

「お世話になりました。最後に一つだけ言わせてください。後悔することだけはしないでくださいね」

「あ? 後悔するわけないだろ。最高の気分だよ」

匠とエリカの嘲笑を背に、私は一歩も振り返らずに家を出た。手に持っているのは小さな古びた鞄一つだけ。しかし、その鞄の底には、ある一つの印鑑と、世界中に数人しか持っていないはずの漆黒のカードが眠っていた。

外は冷たい雨が降り始めていた。私はタクシーを拾い、匠が指定したスラム街へと向かうことにした。運転手は私の格好と行き先を見て、軽蔑したような顔をしている。

「お客さん、本当にあそこへ行くんですか? あそこは……」
「構いません。私にとっては懐かしい場所ですから」

私は窓の外を流れる景色を見つめながら、遠い昔の記憶を呼び起こしていた。健造さんと共に血のにじむような思いで築き上げた本当の姿。今から向かう場所はただのスラムではない。そこは日本最大の不動産グループ『ハル・エンタープライズ』の原点にして本拠地。そして、私はそのグループの現役会長、春佐藤その人だった。

タクシーが目的地に近づくにつれ、風景は一変していく。落書きだらけの壁、立ち並ぶプレハブ小屋。しかし、その地下には世界中から要人が訪れる巨大な地下司令室が存在することを、世間の人間は誰も知らない。

私はスラムの入り口にある古ぼけたタバコ屋の前に降り立った。

「さあ、始めましょうか」

私がそう呟いた瞬間、タバコ屋の奥から黒いスーツを着た大柄な男たちが数人、雨の中を走って私の元へ駆け寄ってきた。

「お待ちしておりました。会長、お怪我はございませんか?」

男たちは雨に濡れるのも厭わず、丁寧に膝をついて頭を下げた。

「大丈夫よ。それより、準備はできているかしら?」
「はい。全て万端に整っております」

私の目は、もはや穏やかな老婆のものではなかった。数分前まで自分を虐げていた者たちへの、静かだが熱い制裁の時が来たのだ。

スラムの地下へと続く隠しエレベーター。そこに足を踏み入れた瞬間、モニターには匠とエリカが豪邸でシャンパンを開けて騒いでいる姿が映し出された。

「あの家、明日には取り壊す予定だったわよね」

私の冷徹な声が響く中、秘書が差し出した報告書には、息子夫婦が想像もしていない絶望の始まりが記されていた。

隠しエレベーターを降りると、そこには地上の惨状からは想像もつかない最新設備が整った巨大な指令室が広がっていた。壁一面に設置されたモニターには、世界中の経済指数や不動産情報がリアルタイムで映し出されている。

「お帰りなさいませ。佐藤会長、長らくのご無沙汰、心よりお待ちしておりました」

髪を綺麗に整えた老紳士が深々と頭を下げる。私の右腕として三十年以上支えてくれているグループ筆頭秘書の島田だ。

「島田さん、急に呼び出してごめんなさいね。少し片付けが必要になったの」

私は泥のついた着物を脱ぎ捨てて、島田が用意してくれた最高級のシルクのガウンを羽織った。ソファに深く腰を下ろすと、ようやく一息つくことができた。

「会長、ご子息の匠様とエリカ様の動向は全て把握しております。昨日の葬儀後の振る舞い、到底許されることではありません。すぐにでも法的措置を講じますが」
「いいえ、まだよ。彼らには、自分たちが手に入れたと思っているものがいかに脆い砂の城であるかを、じっくりと味わってもらわなければならないわ」

健造さんと私がどんな思いであの家を守ってきたか。あの子たちは何も分かっていない。

私と亡き夫・健造さんは、このスラムと呼ばれている地区から全てを始めた。戦後の困難期、食べるものにも困っていた時代に、健造さんと二人でリヤカーを引いて廃品回収を始めたのが現在のハル・エンタープライズの原点だった。私たちは苦労して築き上げた富をひけらかすことを嫌った。本当の豊かさは心にあると信じていたからだ。

だから、匠にも普通のサラリーマンとして自立してほしいと願い、自分たちの正体を隠して古い下町の家で質素に暮らしてきた。健造さんは亡くなる直前に私に言った。

「春、もし匠が金や地位に目がくらんで道を誤るようなことがあれば、その時はお前が目を覚まさせてやってくれ。あいつには本当の苦労を教える必要がある」

私はその約束を果たす時が来たと確信していた。

「島田さん、匠たちの負債状況はどうなっているかしら?」
「はい。匠様が勤務されている広告代理店では、巨額の横領が発覚しそうです。ご自身での借金も数億円に膨らんでおり、エリカ様の浪費も相まって首が回らない状態のようです。彼らが会長を追い出したあの自宅を担保に、すでに闇金からも融資を受けている形跡があります」

モニターに、匠とエリカが自宅でシャンパンを抜き、高笑いしている映像が流れる。

「最高ね、匠。あの姑を追い出してやっとこの土地が手に入るんだから。再開発の補償金で銀座のブティックを買い占めましょうよ」
「ああ。あのクソババア、今頃泥水でもすすってるだろうな。中卒の無能な母親なんて、俺のキャリアの邪魔だったんだ。これでようやく一流の仲間入りだ」

彼らの言葉一つ一つが、私の心を冷たく凍らせていく。中卒…確かに私は戦後の混乱で学校にも満足に行けなかった。でも、その手でこの国の不動産王と呼ばれるまでの地位を築いてきた。それを無能と切り捨てた息子の言葉に、私は深いため息をついた。

「あの家、実は土地の所有権はグループの持ち株会社にあるのよね」
「仰せの通りです。建物の名義は健造様でしたが、土地はハル・エンタープライズが完備しております。そして明日から始まる再開発工事により、あの建物は明日午前九時をもって強制解体されるスケジュールになっております」

「ふふ。あの子たちは、自分が住んでいる家が明日壊されることも知らないでお祝いをしているのね。彼らが手に入れたと思っている遺産相続の書類も、私たちが事前に手を打った罠であることに、いつ気づくかしら?」

彼らが信じ込んでいる遺言書は、健造さんが生前に用意した、彼らの本性を試すための罠だったのだ。

「それから島田さん。私の本当の住まいの準備は?」
「はい。港区にある五百億円の豪邸、パレス佐藤は、いつでも会長をお迎えできるよう完璧に整えております。使用人たちも会長のご帰還を心待ちにしております」

五百億円。それは私と健造さんが人生の最後に自分たちへのご褒美として建てた家だった。しかし、私たちは一度もそこに住むことなく、下町の古い家で暮らし続けた。

「明日、あの家が取り壊されるその瞬間、私は彼らの前に現れるわ。スラムに追い出されたはずの母親が、日本で最も高価な邸宅の主としてね」

私は島田から渡されたタブレット端末を操作し、一つのコマンドを入力した。それは匠が唯一の頼みの綱としている銀行口座の凍結ボタンだった。

「さあ、匠、エリカ。あなたたちの望んだ自由な生活の始まりよ。まずは一円の価値もなくなった家の中で、最後の夜を楽しみなさい」

その時、私のスマートフォンが激しく鳴り響いた。画面には匠の名前が表示されている。

「もしもし」
「母さん、まだ生きてるか? ああ、言い忘れてたけど、お前の荷物、全部近所のゴミ捨て場に放り込んどいたから、拾いに行くなら今のうちだぞ。まあ、ゴミの中からゴミを拾うなんてお似合いだけどな」

電話の向こうで、エリカの下品な笑い声が重なる。

「お義母さん、明日の朝には鍵も変えちゃうから、二度と近寄らないでね。貧乏神が映るわ」

私は何も言い返さず、ただ静かに通話を切った。怒りはもうない。ただ、彼らが明日迎える現実がどれほど残酷なものになるかを想像すると、少しだけおかしくなった。

「島田さん、明日の朝は最高の特等席を用意してちょうだい。彼らが絶望に染まる顔を一番近くで見たいの」
「承知いたしました。会長」

夜が明け、太陽が昇る時、匠たちが夢見ていた輝かしい未来は、轟音と共に崩れ去ることになる。

翌朝午前九時ちょうど、静かな住宅街に腹の底に響くような轟音が鳴り響いた。巨大な油圧ショベルを乗せたトラックと、ヘルメットを被った作業員たちが、かつて私が暮らしていた家の前に集結していた。

「おい、なんだこの音は? まだ寝てる時間だろうが」

家の玄関が勢いよく開き、寝癖のついた頭で匠が飛び出してきた。その後ろからは、派手なネグリジェの上に高級な毛皮のコートを羽織ったエリカが、顔を顰めて現れる。

「ちょっと、あなたたち何の真似よ。ここは今日から私たちの城なのよ。営業妨害で訴えてやるわ」

エリカがキンキンとした声で叫ぶが、現場監督らしき厳つい男は表情一つ変えずに書類を差し出した。

「お言葉ですが、こちらは本日付けで解体工事の依頼を受けております。所有者様からの承諾書も頂いておりますので、直ちに退去をお願いします。九時十五分には取り壊しを開始する予定ですので」
「はあ? 所有者は俺だ。昨日親父が死んで、俺が相続したんだよ。勝手なことするな」

匠が現場監督の胸ぐらを掴もうとした、その時。通りから一台の車が現れた。それはこの古い下町にはおよそ不釣り合いな、漆黒の輝きを放つロールスロイスだった。

静寂を切り裂くような重厚なエンジン音と共に、車は解体現場の目の前でゆっくりと停車した。

「な、なんだあの車? 誰か偉いやつでも来たのか」

匠とエリカが呆然と見守る中、運転席から降りてきた黒服の男が恭しく後部座席のドアを開けた。そこからゆっくりと降り立ったのは、昨日までの古びた着物姿ではない。銀色に輝く最高級のドレスに身を包み、大粒の真珠のネックレスを纏った、私だった。

「お、お前、母さんか!?」

匠が目を見開き、指を震わせながら私を指差した。エリカは一瞬言葉を失ったようだったが、すぐに顔を真っ赤にして叫び始めた。

「な、何よ、その格好! どこかのコスプレ会場から逃げてきたの? 似合わないのよ、そんな高い服。どうせ昨日の今日で、どこかの男にでも拾ってもらったんでしょう。毛唐わしい!」

エリカの罵声が響き渡るが、私は何も答えず、ただ静かに彼女の目を見つめた。その沈黙が却ってエリカの苛立ちを煽った。

「黙ってないで、何か言いなさいよ。この中卒ババア! その服、いくらでレンタルしたの? 返却期限が過ぎたら大変なことになるわよ。あんたみたいな物乞いには、一生かかっても払えない額なんだから」
「エリカ、落ち着けよ。…ばあさん、一体どういうつもりだ? その車もその格好も、まさか親父の隠し資産をどこかに隠し持ってたのか?」

匠の目が貪欲な光を宿して私を睨みつける。私はゆっくりと口を開いた。

「匠、そしてエリカさん。この家の土地が誰のものか、確認しなかったの?」
「はあ? 親父が建てた家なんだから、土地だって親父のもんに決まってんだろ。昨日弁護士と契約した書類にもそう書いてあったはずだ」
「それは、あなたたちが用意した偽の弁護士が出した書類でしょう。私が言っているのは、本物の登記簿のことよ」

私が合図をすると、隣に控えていた島田が鞄から一通の書類を取り出し、匠の目の前に突きつけた。

「これは…『ハル・エンタープライズ』? …この土地は三十年以上前から、ハルエンタープライズという法人の持ち物…だと?」
「そして、その法人の代表権を百%持っているのは、私よ」

現場に冷たい風が吹き抜ける。匠とエリカの顔から、見る見るうちに血の気が引いていくのが分かった。

「う、嘘だ! そんな大手企業の社長が、こんなボロ家で暮らしてるわけないだろ! お前、俺を騙そうとしてるのか?」
「騙しているのは、どちらかしら? 健造さんと私は、あなたに普通の幸せを知ってほしくて、あえて質素な生活を選んできたの。でも、あなたは私たちの思いを踏みにじり、あろうことか葬儀の翌日に私を追い出した。このスラムへね」

私は周囲を見渡した。ここもかつては活気のある場所だったが、今では再開発を待つばかりの静かな土地だ。

「さあ、監督さん。時間は過ぎています。工事を始めてください」
「承知いたしました。全員、作業開始!」

監督の号令と共に、巨大な重機が動き出した。アームがゆっくりと持ち上がり、家の屋根に向かって振り下ろされる。

「待て! やめろ! 俺の荷物がまだ中にあるんだ! エリカのブランドバッグも俺の高級時計も!」
「関係ありません。立ち入り禁止区域に私物を放置したのは、そちらの過失です。島田さん、彼らが中に一歩でも入ろうとしたら、不法侵入で警察を呼んでちょうだい」
「かしこまりました。すでに警備員も手配済みです」

バリバリという破壊音が響き、健造さんと過ごした思い出の家が崩れていく。でも、不思議と悲しくはなかった。思い出は私の心の中にあり、この節穴の息子夫婦に汚されるくらいなら、一緒に灰にしてしまった方がいい。

「お義母さん、やめて! お願い! 私のバーキンがまだクローゼットに!?」

エリカが悲鳴をあげながら地面に崩れ落ちた。彼女の自慢だった毛皮のコートが、工事の砂埃で白く汚れていく。

「さあ、匠。家がなくなったら、次は何を失うか。楽しみにしておきなさい」

私は冷徹な声を投げかけ、再びロールスロイスに乗り込んだ。ミラー越しに、崩れゆく家を背景に立ち尽くす二人の姿が見える。しかし、これはまだ彼らにとっての地獄の序章に過ぎない。

車の中で、島田が私に報告をした。

「会長、例の件ですが、匠様が会社から横領していた資金の送金先が判明しました。どうやらエリカ様のご実家が経営する会社に流れているようです」
「あら、それは面白いわね。じゃあ、次はその実家の方を尋ねてみましょうか」

一方その頃。家を失った匠たちの前に、エリカの父親である佐藤五郎が現れた。彼は娘の話を聞き、私に詰め寄ろうとした。

「おい、降りてこい! 佐藤建設の佐藤だぞ! どこの誰だか知らんが、私の娘に手を出して、ただで済むと思うな!」

五郎が窓越しに私の顔を覗き込んだ、その瞬間だった。彼の顔から一気に血の気が引き、持っていた高級バッグが地面に落ちた。

「さ、佐藤会長…!?」

五郎の声は震え、膝がガクガクと音を立てていた。エリカは何が起きたのか分からず、きょとんとしている。

「パパ、何を言ってるの? こんなの、ただのボケたおばあちゃんじゃない」
「バカ者、黙れ!」

五郎はいきなりエリカの顔を平手打ちした。鋭い音が現場に響き渡る。

「パパ!? なんで私を…」
「このお方は…このお方はな、ハル・エンタープライズの創業者、春佐藤様だ! 我が佐藤建設の命運を握る、絶対的なお方なんだぞ!」

五郎はその場に崩れ落ち、泥水が溜まった地面に額を擦りつけた。

「会長! 申し訳ございません! 娘の無礼を…何卒、何卒お許しください!」

その光景を見て、匠とエリカは凍りついた。自分たちが無能な中卒と蔑んでいた母親が、自分たちの生命線を握る帝王だったという事実に。

「佐藤さん、お久しぶりね。お宅のお嬢さん、随分と礼儀がなってないわね。私のことを『毛唐わしい愛人』だとか『ドブネズミ』だと呼んでくれたわ」

私の静かな言葉に、五郎は「ひっ」という短い悲鳴をあげ、さらに深く頭を下げた。

「そ、そんな、まさか…」
「それから、匠。佐藤建設への発注は今日限りで全て白紙に戻すよう、組には伝えてあるわ。あなたの横領の件が、佐藤建設と協力して行われていたこともね」

五郎と匠の顔が絶望に染まっていく。しかし、私の反撃はここからが本番だった。

「さあ、佐藤さん。娘さんと私の息子に教えてあげなさい。これからあなたたちが、どういう道を辿ることになるのかを」

震えながら立ち上がった五郎は、信じられないような事実を口にした。

「エリカ…俺の会社はもう終わりだ。それどころか…お前たちが会長の私物として売り払おうとしたあの宝石。あれは…会長の私物じゃないんだ。あれは、ある国の王室からの預かり物だったんだぞ!」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、現場を数のパトカーが包囲した。降りてきた警察官たちが向かうのは、私ではなく真っ青になった匠たちの方だった。

「警察だ! 通報を受けて駆けつけた! ここで騒ぎを起こしているのは誰だ!」

年配の警部らしき人物が威圧的な声で問いかけた。その瞬間、絶望の縁にいたはずの匠の目に、卑怯な光が宿った。彼は泥まみれのまま警察官に駆け寄り、私の方を指差して叫んだ。

「お巡りさん! あいつです! あの女を捕まえてください! あいつは、私の母を語る不審者なんです!」

「何を言っているの? 匠」

あまりの都合の悪い言動に、私は思わず声を漏らした。しかし、匠は止まらない。隣で呆然としていたエリカも、彼の狙いを察したのか、即座に悲劇のヒロインを演じ始めた。

「そうです! 私の義理の母は、もっと地味で大人しい中卒の貧乏人だったんです! なのにこの女は急に高級車で現れて、ハル・エンタープライズの会長だなんて嘘をついて、挙句の果てには私たちの家を重機で壊したんです! これは器物損壊罪…いや、住居侵入罪ですよ!」

エリカは泣きまねをしながら、自分の汚れた毛皮のコートを警察官に見せた。

「見てください、この乱暴な振る舞いを! 私たちは命の危険を感じています! この女、きっとどこかの犯罪組織の人間よ! 本物の義母をどこかに監禁して、資産を奪おうとしているに違いないわ!」

警察官たちの視線が一斉に私へと向けられた。確かに、このボロ家の前に最高級のロールスロイスが止まり、そこから銀色のドレスを着た老婦人が降り立っている光景は、客観的に見れば異常事態だ。

「奥さん、本当ですか? 身分を証明できるものはありますか?」

警部が私に詰め寄る。島田が前に出ようとしたが、私はそれを制した。今は、この二人がどこまで落ちていくのかを見届ける必要がある。私はただ静かに口を閉ざし、彼らの惨めな姿を見つめていた。

「黙ってるってことは、嘘なんだろう! おい、早くその偽物を連行しろよ! この車も盗品に決まってる!」

匠が調子に乗って声を張り上げる。その横で、エリカの父である五郎はガタガタと震えながら娘の袖を引いていた。

「え、エリカ、もうやめろ! あの方は本物だ! 俺は何度も取引でお会いして…」
「パパ、黙ってて! パパは騙されてるのよ! こんなババアがあの伝説の会長なわけない! きっと巧妙な変装か、整形でもしてるのよ!」

エリカは五郎を突き飛ばすと、鞄から一通の封筒を取り出した。

「お巡りさん、これを見てください! これは亡くなった義父が残した遺言書です! ここには全ての遺産を息子である匠に譲ると、はっきり書かれています! この家も土地も私たちのものなんです! それをこの偽物が勝手に壊したんですよ!」

警部が書類を受け取り、懐中電灯で内容を確認する。それは彼らが偽の弁護士を雇って作成した、巧妙な偽造遺言書だった。

「ふむ…確かに公証役場の印もあるようだが…」
「そうでしょう! さあ、早くその女に手錠をかけて!」

エリカの勝ち誇ったような笑い声が雨に混じる。警察官の一人が私の腕を掴もうと、一歩近づいた。

「奥さん、署まで同行願いますか? 詳しい話を聞かせてもらう必要がある」

その時だった。

「ちょっと待ちなさい。その書類、偽物よ」

冷徹な声が響いた。声の主は私でも島田でもない。パトカーの列の後ろから、もう一台の黒い公用車が静かに停車していた。そこから降りてきたのは、眼鏡をかけた知的な雰囲気の女性だった。

「お前は誰だ? 部外者は引っ込んでろ!」

匠が怒鳴りつけるが、女性は動じない。彼女は警察官に向かって一枚のカードを提示した。

「最高検察庁の特別捜査部に所属する、成瀬と申します。現在、私はある大規模な詐欺及び横領事件の捜査で、この佐藤匠氏と佐藤エリカ氏を追っていました」

現場の空気が一瞬で凍りついた。成瀬と名乗った女性は、エリカが持っていた遺言書を指差した。

「その遺言書を作成したとされる弁護士は、三日前に詐欺容疑で逮捕されています。その男の供述により、佐藤氏が巨額の報酬を支払い、内容を偽造させたことが判明しました」
「な、なんだと…」

匠の顔から血の気が一気に失せていく。成瀬はさらに続けた。

「さらに、エリカさんのご実家である佐藤建設。お父様、残念ですが、あなたの会社で行われていたハル・エンタープライズからの不正受給、及び匠氏との共謀による資金流用の証拠も、全て抑えています」

五郎はその場にへたり込み、泥水の中に顔を埋めた。

「そ、そんな…終わった…全て終わりだ…」

成瀬は私の方を向き、深々と一礼した。

「春会長、お怪我はございませんか? 本来であればもっと早く介入すべきでしたが、会長のお意向通り、彼らが自ら罪を露呈するまで待機しておりました」

警察官たちは慌てて私の腕から手を離し、姿勢を正した。

「も、申し訳ございません! まさか本当にハル・エンタープライズの佐藤会長ご本人だったとは…」

私はゆっくりと成瀬に頷いて見せた。

「ご苦労様。成瀬さん、雨の中待たせてしまったわね」

私は、呆然と立ち尽くす匠とエリカの前に歩み寄った。二人はまるで幽霊でも見ているかのように、目を見開いて私を見つめている。

「匠、エリカさん。私が黙っていたのは、あなたたちが自分の過ちに気づく、最後のチャンスをあげたかったからよ。でも、あなたたちは警察の前でさえ嘘を重ね、私を偽物と呼び、亡くなった健造さんの意思まで偽造した」
「母さん…嘘だろ…。だって母さんは、いつもお金なんてなくても幸せだって言ってたじゃないか…。中卒で苦労ばかりして…」

匠の声は震え、涙が泥だらけの頬を伝う。

「ええ、そうよ。お金がなくても幸せになれる。それを教えたかった。でも、あなたはそれを踏みにじり、手に入れた富を守るために親をスラムへ捨てた。学歴や肩書きがなければ、あなたは私を人間としてさえ認めなかったのね」

私は島田から手渡されたタブレットを彼らに見せた。そこには、エリカが昨日宝石店に持ち込んだというネックレスの鑑定書が表示されていた。

「エリカさん。あなたが勝手に持ち出したあのネックレス。あれはね、健造さんが私に贈ってくれた唯一の贅沢品…ではなかったのよ」
「え? どういうこと?」

エリカは顔を引きつらせて後ずさりした。

「あれは、かつてハル・エンタープライズが困難に陥った際、海外のある王室を救ったお礼として、国家間の友好の証に託された『星の涙』と呼ばれる国宝級の宝石よ。時価にして、百億円以上の価値があるわ。そして、それはあくまで預かり物。個人が勝手に売却すれば、国際問題に発展するわよ」

エリカの悲鳴が雨の空に響き渡った。

「ひ、百億…!? そ、そんな…私、あれをもう質屋に…」

その瞬間、成瀬の指示で動いていた検察事務官たちが、匠とエリカの腕に手をかけた。

「佐藤匠、佐藤エリカ、及び佐藤五郎。詐欺、偽造有印私文書行使、並びに業務上横領の疑いで同行願います」
「待って! 母さん! 助けて! 私が悪かったわ! やり直しましょう!」

エリカが狂ったように叫ぶが、私は二度と彼女の顔を見ることはなかった。

パトカーのドアが閉まり、匠とエリカが連行されていく。遠ざかっていくサイレンの音を聞きながら、私は崩れ落ちた我が家の前に一人立ち尽くしていた。島田が静かに傘を差し伸べ、私の肩を雨から守る。

「会長。これで全て終わったわけではありません。彼らが連れて行かれたのは、ただの警察署ではなく、我々グループが法務省から委託運営している特別強制管理センターです」

「ええ、分かっているわ。あそこは法の網をくぐり抜けようとする不届き者の牙城が、最後にたどり着く場所。息子をあんな場所に送ることになるなんてね」

私は深くため息をつき、瓦礫の中から一つだけ、泥に汚れながらも形を保っていた木彫りの熊を拾い上げた。健造さんが、まだ私たちが本当の貧しさと戦っていた頃、私の誕生日に買ってくれた唯一のプレゼントだ。

「島田さん。あなたは知っているわね。なぜ私がこれほどの富を築きながら、このボロ家で『中卒の無能な老婦人』を演じ続けてきたのか」
「はい。会長と健造様が貫かれた沈黙の誓い。その真意は、理解しております」

私の正体。それはただの不動産王ではない。私は戦後の混乱からこの国の復興を支えた、影の経済界の長老たちの最後の生き残りだった。私が中卒なのは、学校に行く時間さえ惜しんで、国の再建のために働き続けた証なのだ。

そして、私が五百億円の豪邸を持ちながらこの場所に住み続けたのには、理由があった。このスラムと呼ばれた地区の地下には、日本中の主要なインフラを制御するバックアップシステムと、国を揺るがすほどの極秘情報が眠る巨大なデータセンターが隠されている。かつてこの国が危機に瀕した時、健造さんと私は資産を全て投げ打ってこの施設を作り上げた。私たちがこのボロ家に住むことは、この国の最重要秘密を守る守り人としての任務でもあったのだ。

はあ…あの子は一度も、私に「なぜ中卒なのか」と聞いたことはなかった。ただ、学歴がないことを卑下することで、自分の自尊心を満たしていた。健造さんがあの子に何も教えなかったのは、愛だったのか、それとも残酷な試練だったのかしら。

私は泥だらけの木彫りの熊を、高級なシルクのハンカチで丁寧に拭った。

「島田さん。私が五百億円を投じて建てたパレス佐藤。あそこはただの邸宅ではないわよね」
「はい。あそこはハル・エンタープライズの真の司令部。そして、会長が『春佐藤』という一人の女性に戻るための、唯一の正城です」

その時、島田のスマートフォンに緊急の連絡が入った。彼は画面を確認すると、苦渋に満ちた表情を浮かべた。

「会長、申し上げにくいのですが、新たな事実が判明しました。エリカ様の実家、佐藤建設が、海外の反政府勢力と手を組み、ハルグループの資産を担保にした巨額の武器取引の仲介を行っていた形跡があります」
「なんですって?」

私は思わず声を荒げた。単なる強欲な嫁の悲劇だと思っていたが、事態は想像を絶する規模にまで膨れ上がっていたのだ。

「匠様が横領した資金も、その取引の頭金として流用されたようです。エリカ様は最初からハルグループの正体に気づいていて、会長を追い出したのも、地下にあるデータセンターへのアクセス権を奪うための計画だった可能性があります」

謀略が顔を出す。私が『中卒の無能な老婦人』を演じていたことで、彼女は私を甘く見ていた。しかし、彼女の背後にはもっと大きな、どす黒い闇が渦巻いていた。

「あの子たちは、自分が何を怒らせたのか、まだ分かっていないようね。エリカさんは私を『ゴミ溜めのネズミ』と呼んだ。でも、ネズミは暗闇の中で誰よりも早く異変を察知するものよ」

私は島田が差し出した漆黒のスマートフォンを受け取った。その画面には、特殊な回線で繋がったパレス佐藤の全天候型セキュリティカメラの映像が映し出されていた。そこには、パトカーで連行されたはずのエリカが、なぜか釈放され、豪華なドレスに着替えて、私のパレス佐藤の門前に立っている姿があった。

「島田さん。これはどういうことかしら? なぜ彼女が自由になっているの?」
「検察の内部に、裏切り者がいるようです。成瀬検事の指揮系統を無視し、超越的な判断でエリカ様を釈放させた黒幕がいます」

画面の中のエリカは、カメラに向かって中指を立て、嘲笑うような仕草をした。

「お義母さん、見てる? あんたの時代は終わりよ。この五百億の家、今日から私のものにするから。あんたは一生、その泥の中で死んでなさい!」

彼女の背後には、武装した傭兵のような男たちが数人、控えている。

私は激しい怒りを通り越し、静かな殺意に近い感情が芽生えるのを感じた。

「島田さん。予定を変更するわ。港区のパレス佐藤へ向かいましょう」
「よろしいのですか? あちらにはまだ武装した集団が…」
「構わないわ。彼らは、あの家の真の防衛システムが何であるかを知らない。中卒の私が、この国を守るためにどれだけの毒を用意してきたか、その身で味わってもらいましょう」

ロールスロイスが水しぶきをあげて走り出した。行き先は、日本で最も高価な邸宅。そして、私の秘密が全て明かされる、逆転の舞台。

一方、釈放されたエリカは、自分たちの背後に死神が迫っていることも知らず、手に入れたばかりの黄金の鍵を持て遊びながら、豪邸の巨大な扉を開けようとしていた。

エリカが豪邸の扉を開けた瞬間、彼女の耳に届いたのは優雅なクラシック音楽ではなかった。

「認証失敗。不法侵入者を確認。排除シークエンスを開始します」

無機質な機械音声と共に、壁の中から現れたのは、見たこともない最新の自律型警備ロボットの群れだった。

「な、何よこれ!? 私の鍵でしょう!? パパ、助けて!」

絶叫するエリカ。その時、彼女の携帯に一通の画像が届く。それは、彼女の父親が、ある場所で処刑を待つ惨めな姿だった。

港区の静かな高級住宅街に、凄まじい警告音が鳴り響いていた。かつて誰も足を踏み入れることができなかった正城、五百億円の豪邸パレス佐藤。その重厚な鉄飾りの門の内側で、エリカは腰を抜かして震えていた。

「な、何よこれ!? 誰か、誰か止めてよ! 私はこの家の新しい主よ! 正式な手続きでここを手に入れたのよ!」

エリカの絶叫に応えるように、無機質な音声が庭園のスピーカーから響き渡る。

「生体認証に失敗しました。登録されていない遺伝子パターンを検出。不法侵入者に対し、レベル4の排除プロトコルを適用します。カウントダウンを開始…10、9、8…」

エリカの背後に控えていた武装集団の男たちも、顔色を変えて後ずさりした。彼らは数々の修羅場をくぐり抜けてきたプロのはずだったが、目の前に現れた警備システムの異様さに、本能的な恐怖を感じていた。庭のあちこちから芝生を割って、黒い金属製の円筒が競り上がってくる。それは最新の音響兵器と、催涙性の催涙ガス噴射装置だった。

「くそっ、話が違うぞ! エリカ! ただの老婦人の隠居所だと思ってたのに! ここは軍事要塞じゃないか!」

リーダー格の男が怒鳴り、エリカの腕を掴んで門の外へ逃げようとした。しかし、背後の門はすでに鋼鉄のシャッターによって完全に閉ざされていた。

「逃げられない…嘘よ、こんなの嘘! パパ、パパ助けて!」

エリカが泣きながらスマートフォンを取り出すと、タイミングを合わせたかのように着信があった。しかし、それは父親の五郎からではなく、彼女の裏の相棒からの発信だった。

「もしもし! パパ!? 早くここから出して!」
「残念ながら、君の父親はもう話せる状態じゃないよ」

受話器から聞こえてきたのは、低く冷徹な男の声だった。エリカはその声に聞き覚えがあった。彼女が裏で繋がっていた、汚職官僚の黒田だった。

「黒田さん!? どういうことですか!? 私を釈放してくれたのはあなたでしょう!? この家の鍵を渡してくれたのも!」
「ああ、そうだ。だが、君は一つ大きな勘違いをしている。その鍵は、持ち主をこの家の中へ導くためのものではない。罠の中に閉じ込めるための、餌だったんだよ」

「え…? 罠…?」
「春佐藤。あのお方は、我々にとっても手に負えない怪物だ。彼女を消すには、彼女が最も大切にしている場所で、彼女の身内の手によって破滅してもらうのが一番都合が良かった。君はもう持ち駒だ。その家と一緒に消えてもらうよ」
「待って! そんなのひどすぎるわ! 協力したじゃない! 小春さんの秘密を全部売ったじゃない!」
「はっはっは。『中卒の老婆の秘密』か。君が教えてくれたことなんて、全て彼女が流したダミーの情報だよ。君は自分の浅知恵と強欲だけを頼りに、虎の尾を踏んだんだ。さようなら、エリカ君。君の死体は、春佐藤を殺人犯に仕立て上げるための、最高の証拠になる」

電話は一方的に切れた。エリカは力が抜け、その場に崩れ落ちた。自分は勝ったと思っていた。貧乏な義母を追い出し、莫大な富を独占できると信じて疑わなかった。だが実際には、自分こそが巨大なチェス盤の上で、真っ先に切り捨てられるポーンに過ぎなかったのだ。

一方、その頃。匠は窓一つない冷たい独房の中にいた。先ほどまで警察署にいたはずだったが、気づけば見たこともない巨大な施設に収容されていた。ここは周囲を高い壁と高圧電流の流れるフェンスで囲まれた、不気味なほど静かな場所だった。

「おい、誰かいないのか!? 俺を誰だと思ってる!? ハル・エンタープライズの次期社長だぞ!」

匠が扉を叩いて叫ぶが、返事はない。ただ、廊下を歩く硬い靴音だけが近づいてきた。独房の小さな覗き窓が開いた。

「次期社長ですか? それは随分と大きな勘違いですね」

覗き窓の向こう側にいたのは、匠がかつて自分の会社で「無能な万年ヒラメ社員」として顎で使っていた、大人しい男の佐藤だった。

「佐藤!? お前、なんでここにいるんだ!? さては俺を助けに来たのか? 早くこの鍵を開けろ!」
「助ける? まさか。私はここ、特別強制管理センターの管理官を務めております。そして、あなたの本当の罪を暴くために、春会長から命を受けて潜入していたのです」
「な、何を言ってるんだ? お前みたいな下っぱが管理官なわけないだろう!」
「匠さん、あなたは本当に何も見ていなかったのですね。私があなたの会社に潜入していたのは、会長の指示であなたの素行を調査するためでした。あなたは私に対しても、『中卒並みの知能しかない』と罵り、残業代も払わずに酷使してくれましたね」

佐藤の目は、かつての弱々しいものではなかった。そこには、裏切り者に対する冷徹な怒りが宿っていた。

「ここ、特別強制管理センターは、あなたが蔑んでいたスラムの地下にあります。あなたが『ゴミ溜め』と呼んだ場所こそが、この国の法が及ばない悪党を社会から抹消するための、執行機関なのです」
「抹殺…? そんなの日本で許されるわけがない! 母さんは!? 母さんはどこだ!? 母さんに合わせろ!」
「会長は今、港区の邸宅へ向かわれました。あなたの奥様が、自らの命を持って会長を罠にかけようとしている、あの屋敷へね」

匠の顔が恐怖で引きつった。

「エリカが…嘘だ…あいつ、俺を置いて自分だけ逃げるつもりだったのか…」
「親子、夫婦。あなた方が築いてきた関係は、全て金という脆い土台の上に立っていた。それが崩れた。今、残ったのは、見苦しいなすり付け合いだけですね」

佐藤は冷たく笑うと、一通の書類を覗き窓から差し入れた。

「これは、あなたに課せられる損害賠償請求の内訳です。横領金、偽造遺言書による精神的苦痛、そしてハルグループの名誉毀損で、総額三百二十億円になります。一生をかけて、この施設の地下にある鉱山で働いて返していただきます」
「三、三百億…!? そんなの無理だ! 死ぬまで働いても返せない!」
「ええ、死ぬまで。いえ、死んでも返せません。それが、親を捨て、己の欲に溺れた者が支払うべき代償です」

佐藤が立ち去ろうとしたその時、匠は必死に叫んだ。

「待て! 母さんは!? 母さんは俺を助けてくれるはずだ! あんなに優しかった母さんが、俺を見捨てるわけがない!」
「会長は、もうあなたの母親ではありません。今のあのお方は、この国を影で支配する冷徹な春佐藤。あなたを一番愛していた人を、あなた自身が殺したのですよ」

佐藤は足を止め、振り返らずにそう言い放った。

その頃、私の乗ったロールスロイスは港区の邸宅の門の前に到着していた。車窓から見える我が家は、赤色の警報ランプが点滅し、さながら地獄の入り口のような様相を呈していた。

「会長、準備が整いました。突入しますか?」

島田が緊張した面持ちで尋ねる。私は膝の上に置いた漆黒のスマートフォンを操作し、邸宅の防衛システムを「緊急停止モード」に切り替えた。

「いいえ、突入は必要ないわ。エリカさんに、本当の五百億円の価値を教えてあげなければならないもの」

私は車を降り、ゆっくりとしかし確かな足取りで邸宅の門へと歩み寄った。門のシャッターが重い音を立てて上がり、そこから這い出してきたのは、恐怖で理性を失ったエリカの無残な姿だった。

「お、お義母さん! お義母さん助けて! 黒田が…黒田が私を殺そうとしてるの!」

エリカは私の足元にすがりつき、泥に汚れた手で私のドレスを汚した。私は彼女を見下ろし、冷たく静かに微笑んだ。

「あら、エリカさん。随分と派手なお出迎えね。でも、一つだけ訂正させてちょうだい。黒田さんがあなたを殺そうとしているのではないわ」

私はエリカの髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。

「あなたを殺そうとしているのは、他でもない。この家、そのものなのよ」

私の背後から、一台の乗用車が姿を現した。中から出てきたのは、エリカが全幅の信頼を寄せていた黒幕の黒田だった。しかし、黒田は私を見るなりその場に跪き、震える声でこう言った。

「佐藤会長! 申し訳ございません! この女にこれほどまでの愚行を働かせてしまったのは、私の監督不行き届きです! どうぞ、この女を好きに処分してください!」

信じていた仲間にまで裏切られたエリカ。彼女の絶望が頂点に達した時、私の口から最大の真実が告げられる。

「え…?」

エリカの口から、間の抜けた声が漏れた。私に髪を掴まれたまま、彼女は震える瞳を背後に跪く黒田へと向けた。彼女にとって黒田は絶対的な権力を持つ後ろ盾であり、私を破滅させるための最強の切り札だったはずだ。

「黒田さん、どういうことですか? さっき電話で私を殺すって…」
「この無知なメス豚が!」

黒田の鋭い怒声が、静まり返った邸宅の前に響き渡った。彼は地面に額を擦りつけたまま、顔を上げることすらできずにエリカを罵倒した。

「私が、お前ごときに協力するわけがないだろう! 全ては佐藤会長のご命令だったのだ! お前のような強欲で浅墓な人間が、どこまで罪を重ねるか。泳がせておくための芝居だったんだ!」

エリカは、完全に理解を超えた現実に、口をパクパクと開閉させるだけで、声を出すことができなかった。私は彼女の髪から手を離し、ハンカチで指先を丁寧に拭った。

「黒田さん、あなたの演技は少し過激すぎたわね。『この家と一緒に消えてもらう』だなんて、脅しが過ぎるわ」
「お、申し訳ございません、会長。この女の勘違いが目に余り、つい…」

「ちゃんと、立ちなさい。用があるのなら、そのまま話せるようにしてもらってちょうだい」

私が声をかけると、黒田はようやく立ち上がったが、その足は生まれたての小鹿のようにガクガクと震えていた。

エリカはまだ、目の前で起きていることが信じられないようだった。

「嘘…嘘よ…。黒田さんは私のパパと組んで、この会社の資産を奪う計画を立ててたじゃない! そのための資金も、私が匠から横領させたお金で…」
「エリカさん。あなたは本当に、自分が見ている世界が全てだと思っていたのね」

私はエリカを見下ろして、静かに語りかけた。

「あなたの父親である五郎さんが、裏で不正な取引をしていたことは事実よ。でもね、その取引相手だった海外の組織。それ自体が、ハル・エンタープライズが長年かけて作り上げた、架空のダミー組織だったのよ」

エリカの顔色が変わる。

「ダミー…? じゃあ、パパが取引していた武器の仲介とか、横領金の流用とかは…」
「そう。全て、私たちが用意した罠の口座に振り込まれていただけ。あなたたちが凶悪な組織と手を組んだつもりになって会社の資産を奪おうとしている間、その計画は全て私の手のひらの上で転がされていたのよ。五郎さんは今頃、佐藤建設の脱税と詐欺の容疑で、検察の取り調べを受けているはずよ。そして、あなたと匠が彼に渡した横領金も、全額が違法な取引の証拠として押収されたわ」

エリカはがっくりとその場に崩れ落ちた。私をスラムへ追放し、莫大な富を独占しようとした彼女の野望は、最初から存在すらしていなかったのだ。彼女はただ、私が張り巡らせた蜘蛛の巣の中で、自ら身動きが取れなくなるまで暴れていただけだった。

「なんで…なんでそこまで…」

エリカが、蚊の泣くような声で絞り出した。

「どうして最初からそう言わなかったのよ! あんたがそんな力を持ってるって知ってたら、私だってあんなことしなかったのに!」

「それが、あなたの限界よ。エリカさん。権力やお金がなければ、あなたは私を人間として扱わなかった。私が中卒の貧乏人だと思っていたから、あなたは私をスラムへ捨てたのよ」

私は冷たく言い放った。

「もしあなたが、私を家族として少しでも愛してくれていたら、健造さんも私も、この秘密を墓場まで持っていく覚悟だった。この五百億円の邸宅も、ハル・エンタープライズの莫大な資産も、全て匠とあなたに譲るつもりでいたのよ」

エリカが顔を上げ、すがるような目を私に向けた。

「全、全部譲るって…私と匠に…?」
「ええ。健造さんが残した本物の遺言書には、そう書かれていたわ。私たちが死んだ後、全てを匠に託す、とね。でも、あなたたちはそれを待てなかった。偽造した遺言書で私を追い出し、全てを台無しにしたのよ」

エリカの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。それは反省の涙ではない。自分が手放してしまった本物の五百億円に対する、果てしない後悔の涙だった。

「いや、嫌よ! そんなの嫌! 返して! 私の家よ! 私のお金よ!」

エリカは狂ったように地面を掻き、泥だらけになりながら泣き叫んだ。その姿は、あまりにも滑稽で惨めだった。

「島田さん、この人たちを連れて行きなさい。行き先は、分かっているわね」
「はい。匠と同じ、特別強制管理センターの大部屋です」

私の合図で、黒田が連れてきた男たちがエリカの両脇を抱え上げ、車へと引きずり込んでいく。

「やめて! 離して! お義母さん、ごめんなさい! 私が悪かったわ! 匠と別れるから! お願い、許して!」

エリカの絶叫が遠ざかっていく。私はその声が完全に消えるまで、冷たい目で見送っていた。

これで、私を虐げた者たちへの復讐は終わった。…と思っていた。島田が安堵の表情を浮かべた。

「会長、これでようやく静かな生活に戻れますね」

しかし、私の心にはまだ何か引っかかるものがあった。健造さんが亡くなる前、私に残した言葉。

「春。もし匠が道を誤ったら、お前が止めてくれ」

あいつは…あいつは、健造さんは最後に何を言おうとしていたのだろうか。なぜ匠は、あそこまで金に執着し、私を憎むようになったのか。ただの強欲さだけではない。何か深い闇が、あの息子の心には巣食っていたような気がしてならなかった。

その時、私のスマートフォンが短い着信音を鳴らした。画面に表示されたのは、特別強制管理センターの管理官、佐藤からの緊急メッセージだった。

「会長、至急ご報告があります。尋問中の匠ですが、彼が口にした言葉の中に、看過できない事実が含まれていました。健造様の死は、病死ではなかった可能性があります」

私は、持っていたスマートフォンを取り落としそうになった。

健造さんの死が、病死ではない?

急に視界が歪み、足元がふらついた。島田が慌てて私を支える。

「会長、大丈夫ですか!?」
「島田さん、センターへ。今すぐセンターへ戻るわ。匠に会わなければならない」

私の心の中で、終わったはずの復讐劇が、再びどす黒い炎を上げて燃え上がり始めた。もし健造さんの死に匠が関わっているとしたら、私は息子という存在を根底から問い直さなければならないかもしれない。

特別強制管理センターの面会室。防弾ガラス越しに対面した匠は、怯えるどころか、不気味な笑みを浮かべていた。

「来たな、母さん。いや、佐藤会長か」

「匠。あなたがお父さんに、何をしたの?」

私が震える声で問いかけると、匠はゆっくりと口を開き、誰も想像していなかった真実の扉を開け放った。

「親父は知ってたんだよ。俺が、お前たちの本当の息子じゃないってことをね」

時が止まったかのような、静寂。冷たいコンクリートの面会室で、私は分厚い防弾ガラス越しに匠と向き合っていた。匠は囚人服に身を包んではいたが、その態度は警察署で泣き喚いていた時とはまるで違っていた。不気味なほど落ち着き払い、むしろ私を嘲笑うような笑みさえ浮かべている。

「匠、あなたがお父さんに、何をしたの? そして今、言った言葉の意味は…」

私が静かに問いかけると、匠はガラスに手を押し当て、顔を近づけてきた。

「親父は、病死なんかじゃない。俺が、親父の飲んでいた心臓の薬を、ただのビタミン剤にすり替えたんだ」

その瞬間、私の頭の中で、何かが激しくはじけ飛ぶ音がした。健造さんは最後の日々、発作に苦しみながらも「大丈夫だ。薬が効いてくる」と笑っていた。その薬が、偽物だったというのか。身の息子が、父親を殺したとでも言うのか。

「なぜ…? どうして、そんなことを?」

私が声を絞り出すと、匠は愉快そうに肩を揺らして笑った。

「どうしてって? 簡単だよ。親父が、俺を勘当しようとしてたからさ。エリカの実家と組んで会社の金を横領していることに、気づかれたんだ。親父は『春には内緒にしておくから、金を返してやり直せ』なんて、寝言を言っていた。だから、消えてもらったんだよ」
「あなた…自分が何を言っているのか、分かっているの?」
「ああ、分かってるさ。俺はずっと、お前たちが憎かった。貧乏を気取った町で、中卒の母親と、うだつの上がらない父親。俺は優秀だったのに、お前たちのせいでエリカの実家からも見下されていたんだ。でも、ある日知ったんだよ。親父の書斎で、あの遺言書の下書きを見つけてな」

匠の目が、狂気じみた光を放つ。

「そこには、俺が五百億円の資産を相続すると書かれていた。だが、同時に恐ろしい一文があったんだ。『匠が本当の息子ではないと知った上で、我々は彼を愛した』と…」

私は息を飲んだ。健造さんが、そんな文章を残していたなんて。

「俺は、お前たちの血を引いていない、どこかの馬の骨だ。だから親父は、俺を勘当させようとしたんだろう。血の繋がらない偽物の息子だから、簡単に切り捨てようとしたんだ」

匠はガラスをガンガンと叩きながら叫んだ。

「だから俺は、親父を殺し、本物の遺言書を処分して、偽物の遺言書を作った。お前をスラムへ追い出して、全てを俺のものにするためにな! どうだ、母さん? お前が大事に育てた息子は、人殺しだったんだよ!」

匠の言葉は、私に絶望を与えるための狂気だった。しかし、彼は気づいていなかった。彼が吐き出したその真実が、私の中でくすぶっていた「親としての迷い」を、焼き尽くしたことに。

「そう…あなたが、健造さんを…」

私はゆっくりと立ち上がった。悲しみはなかった。怒りすらも通り越し、そこにあったのは、冷徹な経営者としての決断だった。

「匠。あなたが、私の実の息子ではないこと。それは事実よ。あなたは、私たちが若い頃に、ある個人から引き取った子供だった。でもね、健造さんも私も、あなたを一度だって『偽物』だと思ったことはないわ」
「嘘をつけ! だったら、なぜ本当のことを言わなかったんだ!?」
「言う必要がなかったからよ。血の繋がりなんて関係ない。私たちが、あなたに愛情を注いだ事実は、変わらないのだから。でも、あなたは自分の強欲さを正当化するために、その事実を殺人の理由にした」

私は傍らに控えていた島田に合図を送った。島田は無言でタブレットを操作し、面会室のモニターに映像を映し出した。そこに映っていたのは、エリカだった。彼女は別の独房で、恐怖に顔を引きつらせながら尋問を受けている。

「ち、違うの! 私は知らない! 健造さんを殺したのは、匠よ! あいつが勝手に薬をすり替えたの! 私は止めたのに!」

モニターから流れるエリカの声に、匠の顔から笑みが消えた。

「エリカ…あいつ、何を言ってるんだ…」
「匠。あなたは、エリカさんが全てを知った上で協力してくれたと思っていたのね。でも、彼女はあなたを利用していただけ。あなたが逮捕された瞬間、彼女は自分の罪を軽くするために、あなたの殺人を全て警察に証言する準備をしていたのよ」
「嘘だ! エリカは俺を愛してる! あいつは俺の共犯だ!」
「共犯? そうね。でも、彼女は今、こう言っているわ」

映像の中のエリカが、醜い顔で叫ぶ。

「あんな男、最初からお金目当てだったのよ! 本当の親でもないくせに、偉そうにして! 殺人なんて、最低! 私は脅されて手伝わされただけよ!」

「エリカ…この裏切り者がああっ!」

匠の怒号が響く中、私は静かに告げた。

「匠。あなたが健造さんを殺したという証拠は、今、エリカさんの証言によって完璧なものになったわ。あなたは、強盗殺人及び尊属殺人の罪で裁かれることになる」
「待ってくれ、母さん! 俺を助けてくれ! 俺はハル・エンタープライズの息子だろう! お前の力があれば、揉み消せるはずだ!」

さっきまでの強気な態度はどこへやら、匠は惨めに命乞いを始めた。

「血が繋がっていなくても、育ててくれた恩は忘れてない! 俺が悪かった! もう一度、やり直させてくれ! あのボロ家で、また…」
「遅いわ。匠。健造さんはもう帰ってこない。そして、私の息子は、昨日あの家を壊した時に、死んだのよ」

私は冷徹に言い放ち、面会室を出ようと背を向けた。

「待て! 行かないでくれ! 母さん! いや、佐藤会長! 助けてくれ!」

匠の絶叫が、分厚い扉の向こう側に吸い込まれていく。私は廊下を歩きながら、島田に命じた。

「島田さん。エリカさんの処遇だけど、彼女も匠の殺人を知っていて隠蔽していた。共犯よ。二人とも、法の裁きを受けさせなさい。もちろん、ハルグループの最高の弁護団を使って、彼らに最高刑が下るように手配して」
「承知いたしました。会長…おつらい決断でしたね」
「…悔いはないわ。ただ、健造さんに申し訳ないだけ」

私は小さく息を吐いた。これで全てが終わった。私を虐げた者たちへの復讐は完了した。ああ、私が本来の春佐藤として、この巨大な帝国を率いていくだけだ。そう思っていた。

しかし、運命はまだ私を許してはくれなかった。

面会室から地上へ向かうエレベーターの中で、島田のタブレットがけたたましい警告音を鳴らした。画面を見た島田の顔から、一瞬で血の気が引く。

「会長、大変なことが起きました!」
「何事?」
「パレス佐藤…港区の邸宅が、武装集団によって制圧されました! そして、彼らの要求は…」

島田は、信じられないものを見るような目で私を見つめた。

「彼らの要求は、春佐藤の身柄と、地下データセンターのマスターキーです。首謀者の男は、こう名乗っています…『本物の佐藤匠』だと…!」

私が絶句する中、エレベーターのモニターに、港区の邸宅を占拠した男の顔が映し出された。その顔は…若き日の健造さんに、うりふたつだった。

「久しぶりだな、春。いや、『偽物の母親』と言うべきか」

男の冷たい声が響く。個人から引き取った匠が偽物だったなら、この男は一体誰なのか。私が三十年以上隠し続けてきた、最大の秘密が、今暴かれようとしていた。

エレベーターのモニターに映し出された男の顔を見た瞬間、私は自分の心臓が凍りつくのを感じた。画面越しに私を見下ろすその男は、切れ長の目と、冷徹なまでに整った鼻筋を持っていた。それは紛れもなく、私が愛した夫・健造さんの若い頃にうりふたつだった。

「久しぶりだな、春。いや、俺の存在を跡形もなく消し去った『偽物の母親』というべきか」

男の冷たい声が、狭いエレベーター内に響き渡る。私の隣で、島田が息を飲む音が聞こえた。ハル・エンタープライズのあらゆる危機に対応してきた島田でさえ、この事態は予想だにしていなかったのだ。

「あなた…一体、誰なの? 健造さんに似ているけれど…健造さんと私には、子供はいなかったはずよ」

私が震える声で問いかけると、男はモニター越しに薄く笑った。

「子供はいなかった? よく、そんな嘘がつけるな。三十五年前、お前と健造の間に生まれた赤ん坊は、生まれつき重い心臓の病を抱えていた。スラムの復興施設を作るために全財産を注ぎ込んでいたお前たちは、高額な治療費を払うことができず、その赤ん坊を…海外の闇組織に売ったんだろうが!」

男の言葉は、私の頭を棍棒で殴りつけるような衝撃を与えた。三十五年前。確かに、私と健造さんの間には、待望の男の子が生まれていた。しかし、その子は生まれつき心臓に重篤な疾患を抱えており、当時の日本の医療では手の施しようがなかった。私たちは藁にもすがる思いで、海外の医療機関に彼を託した。その治療費は莫大で、ハル・エンタープライズの当時の全資産を注ぎ込んでも足りないほどだった。

「私たちは、あなたを売ったんじゃない! あなたの命を救うために、信頼できる医療機関に託したのよ! その後、手術は成功したものの、施設がテロに巻き込まれて、あなたは亡くなったと…そう報告を受けていたのに…!」
「嘘をつくな!」

男の怒声が、モニターのスピーカーを振るわせんばかりに響いた。

「俺は売られたんだ。医療機関なんかじゃない。俺を買ったのは、人体実験と暗殺者を育成する新興宗教組織だ。俺の心臓には、機械式の人工臓器が埋め込まれ、感情を殺す訓練を受けさせられた。お前たちが偽物の匠を拾って平和な家族ごっこをしている間、俺は地獄の底で、血を吐いて生きてきたんだ」

男の言葉に、私は言葉を失った。健造さんと私があの時下した決断。それは決して彼を見捨てるためではなく、一縷の望みを託した苦渋の選択だった。しかし、その仲介に入ったエージェントが私たちを騙し、我が子を悪魔の組織へ売り飛ばしていたのだとしたら。

「だから、親父を殺したんだ。あの愚かな偽物の匠を使ってな。俺は数年前に日本に潜入し、お前たちの周囲を調査していた。そして、あのバカな匠とその強欲な嫁のエリカに目をつけた。エリカの父親である五郎の会社に接触し、裏取引を持ちかけたのも、俺だ。全ては、ハル・エンタープライズを内部から崩壊させ、お前たちに地獄を見せるための計画だったのさ」

男…本物の匠は、モニターの中で楽しそうに肩を揺らした。

「親父の薬をすり替えたり、遺言書を偽造するよう仕向けたりしたのも、俺が裏で糸を引いていたからだ。偽物の匠は、自分が賢いと信じ込んでいる、ただの操り人形に過ぎなかった」

私は全身の震えが止まらなかった。健造さんを殺したのは、私たちが個人から引き取った偽物の匠ではなかった。私たちが死んだと思っていた、本当の血を分けた実の息子だったのだ。

「なぜ、そこまで…」
「俺の人生を奪った、お前たちへの復讐だ。さあ、春佐藤。今すぐ港区の邸宅へ、一人で来い。お前の命と引き換えに、地下のデータセンターを爆破する。この国のインフラを道連れにして、お前の築き上げたものを全て灰にしてやる」

モニターの映像が途切れ、エレベーター内に重い沈黙が降りた。

「会長…」

島田が青ざめた顔で私を呼ぶ。

「行ってはなりません! あそこは現在、完全な要塞化しています! 警察の特殊部隊でも手が出せないほどの武装が施されています!」
「私が行かなければ、犠牲者が増えるわ。島田さん。これは、私と健造さんが三十五年前から背負い続けてきた、罪の清算よ。私が行かなければならない」

私は深く息を吸い込み、冷たく張り詰めた空気を胸の奥に送り込んだ。悲しんでいる暇はない。彼が私の実の息子であろうと、悪魔の組織の手先となってこの国を脅かすのであれば、私はハル・エンタープライズの会長として、彼を排除しなければならない。

「島田さん。ハルグループの全システムを非常モードに切り替えなさい。パレス佐藤の周囲一キロ圏内を完全に封鎖し、住民を避難させなさい。これより、ハル・エンタープライズ会長、春佐藤個人の戦争を開始するわ」
「会長、本気ですか? 相手は、ご自身のご子息ですよ!」
「息子は、昨日あの下町で死んだわ。今、港区の邸宅にいるのは、私の会社と国を脅かすテロリストよ。私に、情けをかける資格なんてない」

私はドレスの裾を翻し、地上で待機していたハル・エンタープライズ専用の漆黒のヘリコプターへと向かった。

港区の上空から見下ろすパレス佐藤は、不気味なほどの静けさに包まれていた。しかし、赤外線センサーの映像には、邸宅の周囲に配置された無数の武装兵の熱源が映し出されている。

「会長、狙撃手の確認が完了しました。屋上にも、敵の狙撃手が…」「構わないわ。私が直接、正面玄関から入る」

ヘリコプターは、邸宅のメインゲート前に静かに着陸した。私が一人で機体を降りると、数十の銃口が一斉に私に向けられた。しかし、私は歩みを止めない。銀色のドレスを夜風に揺らしながら、ゆっくりと、しかし圧倒的な存在感を持って、歩を進めた。

「そこまでだ、春佐藤」

玄関の巨大な扉が開き、中から本物の匠が姿を現した。彼の背後には、意識を失って縛り上げられているエリカの姿があった。

「あら、エリカさんまで連れてきていたのね。彼女はもう、持ち駒だと思っていたけれど」
「この女は、俺の計画の最高の証人だ。お前がこの女を虐待し、邸宅ごと爆破して無理心中を図った…というシナリオにするためにな」

男は銃をエリカの頭に突きつけた。

「さあ、データセンターのマスターキーを渡せ。さもなければ、この女の頭を打ち抜く」

私は静かに微笑んだ。

「打てばいいわ。その女は、私から全てを奪おうとした強欲な人間よ。こんな人質の命と、この国のインフラを天秤にかけるほど、私は甘い経営者ではないわ」

男の顔から、余裕の笑みが消えた。

「なるほど。さすがは冷徹な不動産王だ。実の息子を売り飛ばしただけのことはある」
「あなたは私を憎んでいる。でも、一つだけ教えてあげるわ。あなたは、私から何も奪うことはできない」

私は胸元から、一本の小さな金色の鍵を取り出した。それは彼が狙っている、地下データセンターのマスターキー。

「これが欲しいのね。でも、あなたにはこれを渡せない。なぜなら、この鍵は、私の命と直結しているからよ」

男の顔が険しくなる。

「どういう意味だ?」
「私がこの鍵のスイッチを押せば、パレス佐藤の地下にある真の防衛システムが起動するわ。それは…あなたのような外敵を排除するためのものではない。この家そのものを、地下三百メートルまで沈める自爆装置よ」

私が鍵のボタンに指をかけた瞬間、男の表情が驚愕に変わった。

「やめろ! お前も死ぬぞ!」
「ええ。三十五年前、あなたを失った時から、私はとっくに死んでいるもの。さようなら、我が子よ。…未練のあった親子心中、と思ってちょうだい」

私がボタンを押し込もうとした、その時。邸宅の奥から、ありえない人物の声が響き渡った。

「待て、春! そのボタンを押すな!」

その声は、絶対に聞こえるはずのない、死んだはずの健造さんの声だった。

面会室から地上へ向かうエレベーターの中で、島田のタブレットがけたたましい警告音を鳴らした。画面を見た島田の顔から、一瞬で血の気が引く。

「会長、大変なことが起きました!」
「何事?」
「パレス佐藤…港区の邸宅が、武装集団によって制圧されました! そして、彼らの要求は…」

島田は、信じられないものを見るような目で私を見つめた。

「彼らの要求は、春佐藤の身柄と、地下データセンターのマスターキーです。首謀者の男は、こう名乗っています…『本物の佐藤匠』だと…!」

私が絶句する中、エレベーターのモニターに、港区の邸宅を占拠した男の顔が映し出された。その顔は…若き日の健造さんに、うりふたつだった。

「久しぶりだな、春。いや、『偽物の母親』と言うべきか」

男の冷たい声が響く。個人から引き取った匠が偽物だったなら、この男は一体誰なのか。私が三十年以上隠し続けてきた、最大の秘密が、今暴かれようとしていた。

エレベーターのモニターに映し出された男の顔を見た瞬間、私は自分の心臓が凍りつくのを感じた。画面越しに私を見下ろすその男は、切れ長の目と、冷徹なまでに整った鼻筋を持っていた。それは紛れもなく、私が愛した夫・健造さんの若い頃にうりふたつだった。

「久しぶりだな、春。いや、俺の存在を跡形もなく消し去った『偽物の母親』というべきか」

男の冷たい声が、狭いエレベーター内に響き渡る。私の隣で、島田が息を飲む音が聞こえた。ハル・エンタープライズのあらゆる危機に対応してきた島田でさえ、この事態は予想だにしていなかったのだ。

「あなた…一体、誰なの? 健造さんに似ているけれど…健造さんと私には、子供はいなかったはずよ」

私が震える声で問いかけると、男はモニター越しに薄く笑った。

「子供はいなかった? よく、そんな嘘がつけるな。三十五年前、お前と健造の間に生まれた赤ん坊は、生まれつき重い心臓の病を抱えていた。スラムの復興施設を作るために全財産を注ぎ込んでいたお前たちは、高額な治療費を払うことができず、その赤ん坊を…海外の闇組織に売ったんだろうが!」

男の言葉は、私の頭を棍棒で殴りつけるような衝撃を与えた。三十五年前。確かに、私と健造さんの間には、待望の男の子が生まれていた。しかし、その子は生まれつき心臓に重篤な疾患を抱えており、当時の日本の医療では手の施しようがなかった。私たちは藁にもすがる思いで、海外の医療機関に彼を託した。その治療費は莫大で、ハル・エンタープライズの当時の全資産を注ぎ込んでも足りないほどだった。

「私たちは、あなたを売ったんじゃない! あなたの命を救うために、信頼できる医療機関に託したのよ! その後、手術は成功したものの、施設がテロに巻き込まれて、あなたは亡くなったと…そう報告を受けていたのに…!」
「嘘をつくな!」

男の怒声が、モニターのスピーカーを振るわせんばかりに響いた。

「俺は売られたんだ。医療機関なんかじゃない。俺を買ったのは、人体実験と暗殺者を育成する新興宗教組織だ。俺の心臓には、機械式の人工臓器が埋め込まれ、感情を殺す訓練を受けさせられた。お前たちが偽物の匠を拾って平和な家族ごっこをしている間、俺は地獄の底で、血を吐いて生きてきたんだ」

男の言葉に、私は言葉を失った。健造さんと私があの時下した決断。それは決して彼を見捨てるためではなく、一縷の望みを託した苦渋の選択だった。しかし、その仲介に入ったエージェントが私たちを騙し、我が子を悪魔の組織へ売り飛ばしていたのだとしたら。

「だから、親父を殺したんだ。あの愚かな偽物の匠を使ってな。俺は数年前に日本に潜入し、お前たちの周囲を調査していた。そして、あのバカな匠とその強欲な嫁のエリカに目をつけた。エリカの父親である五郎の会社に接触し、裏取引を持ちかけたのも、俺だ。全ては、ハル・エンタープライズを内部から崩壊させ、お前たちに地獄を見せるための計画だったのさ」

男…本物の匠は、モニターの中で楽しそうに肩を揺らした。

「親父の薬をすり替えたり、遺言書を偽造するよう仕向けたりしたのも、俺が裏で糸を引いていたからだ。偽物の匠は、自分が賢いと信じ込んでいる、ただの操り人形に過ぎなかった」

私は全身の震えが止まらなかった。健造さんを殺したのは、私たちが個人から引き取った偽物の匠ではなかった。私たちが死んだと思っていた、本当の血を分けた実の息子だったのだ。

「なぜ、そこまで…」
「俺の人生を奪った、お前たちへの復讐だ。さあ、春佐藤。今すぐ港区の邸宅へ、一人で来い。お前の命と引き換えに、地下のデータセンターを爆破する。この国のインフラを道連れにして、お前の築き上げたものを全て灰にしてやる」

モニターの映像が途切れ、エレベーター内に重い沈黙が降りた。

「会長…」

島田が青ざめた顔で私を呼ぶ。

「行ってはなりません! あそこは現在、完全な要塞化しています! 警察の特殊部隊でも手が出せないほどの武装が施されています!」
「私が行かなければ、犠牲者が増えるわ。島田さん。これは、私と健造さんが三十五年前から背負い続けてきた、罪の清算よ。私が行かなければならない」

私は深く息を吸い込み、冷たく張り詰めた空気を胸の奥に送り込んだ。悲しんでいる暇はない。彼が私の実の息子であろうと、悪魔の組織の手先となってこの国を脅かすのであれば、私はハル・エンタープライズの会長として、彼を排除しなければならない。

「島田さん。ハルグループの全システムを非常モードに切り替えなさい。パレス佐藤の周囲一キロ圏内を完全に封鎖し、住民を避難させなさい。これより、ハル・エンタープライズ会長、春佐藤個人の戦争を開始するわ」
「会長、本気ですか? 相手は、ご自身のご子息ですよ!」
「息子は、昨日あの下町で死んだわ。今、港区の邸宅にいるのは、私の会社と国を脅かすテロリストよ。私に、情けをかける資格なんてない」

私はドレスの裾を翻し、地上で待機していたハル・エンタープライズ専用の漆黒のヘリコプターへと向かった。

港区の上空から見下ろすパレス佐藤は、不気味なほどの静けさに包まれていた。しかし、赤外線センサーの映像には、邸宅の周囲に配置された無数の武装兵の熱源が映し出されている。

「会長、敵の配置が確認されました。邸宅の周囲だけでなく、屋上にも狙撃手が…」「構わないわ。私が直接、正面玄関から入る」

ヘリコプターは、邸宅のメインゲート前に静かに着陸した。私が一人で機体を降りると、数十の銃口が一斉に私に向けられた。しかし、私は歩みを止めない。銀色のドレスを夜風に揺らしながら、ゆっくりと、しかし圧倒的な存在感を持って、歩を進めた。

「そこまでだ、春佐藤」

玄関の巨大な扉が開き、中から本物の匠が姿を現した。彼の背後には、意識を失って縛り上げられているエリカの姿があった。

「あら、エリカさんまで連れてきていたのね。彼女はもう、持ち駒だと思っていたけれど」
「この女は、俺の計画の最高の証人だ。お前がこの女を虐待し、邸宅ごと爆破して無理心中を図った…というシナリオにするためにな」

男は銃をエリカの頭に突きつけた。「さあ、データセンターのマスターキーを渡せ。さもなければ、この女の頭を打ち抜く」

私は静かに微笑んだ。

「打てばいいわ。その女は、私から全てを奪おうとした強欲な人間よ。こんな人質の命と、この国のインフラを天秤にかけるほど、私は甘い経営者ではないわ」

男の顔から、余裕の笑みが消えた。

「なるほど。さすがは冷徹な不動産王だ。実の息子を売り飛ばしただけのことはある」
「あなたは私を憎んでいる。でも、一つだけ教えてあげるわ。あなたは、私から何も奪うことはできない」

私は胸元から、一本の小さな金色の鍵を取り出した。それは彼が狙っている、地下データセンターのマスターキー。

「これが欲しいのね。でも、あなたにはこれを渡せない。なぜなら、この鍵は、私の命と直結しているからよ」

男の顔が険しくなる。

「どういう意味だ?」
「私がこの鍵のスイッチを押せば、パレス佐藤の地下にある真の防衛システムが起動するわ。それは…あなたのような外敵を排除するためのものではない。この家そのものを、地下三百メートルまで沈める自爆装置よ」

私が鍵のボタンに指をかけた瞬間、男の表情が驚愕に変わった。

「やめろ! お前も死ぬぞ!」
「ええ。三十五年前、あなたを失った時から、私はとっくに死んでいるもの。さようなら、我が子よ。…未練のあった親子心中、と思ってちょうだい」

私がボタンを押し込もうとした、その時。邸宅の奥から、ありえない人物の声が響き渡った。

「待て、春! そのボタンを押すな!」

その声は、絶対に聞こえるはずのない、死んだはずの健造さんの声だった。

静まり返ったパレス佐藤の敷地内に響き渡ったその声に、私は全身の血が逆流するような衝撃を受けた。間違いない。何十年も聞き慣れた、私を誰よりも愛してくれた、健造さんの声だ。しかし、彼は死んだはず。あの偽物の匠が薬をすり替え、本物の匠が裏で糸を引いて殺したのではなかったのか。

「親父…バカな…そんなはずはない! 俺の部下が、お前の死体を確認したはずだ!」

本物の匠も、銃を構えたまま邸宅の奥を睨みつけた。エリカはその隙に逃げようとしたが、恐怖で足が動かず、その場でガタガタと震えている。

玄関の奥、薄暗い廊下から姿を現したのは、車椅子に乗った一人の老人の姿だった。顔色は青白く痩せ細ってはいるが、その鋭い眼光は、紛れもなくハル・エンタープライズを私と共に築き上げた、健造さんその人だった。後ろから車椅子を押しているのは、いつの間にか邸宅内に潜入していた島田だ。

「健造さん…! あなた、生きて…!」

私が叫ぶと、健造さんは痛む胸を抑えながら、ゆっくりと頷いた。

「春…お前に辛い思いをさせてすまなかった。俺は死んでいない。いや、正確には、死んだことにしておいたんだ」
「死んだことに…? どういうことだ! あの時、お前は確実に心停止を起こしていたはずだ!」

本物の匠が、健造さんに銃口を向けながら怒鳴った。健造さんは全く動じず、彼をまっすぐに見据えた。

「お前が偽物の匠を使って、俺の薬をすり替えたことなど、とっくの昔に気づいていたんだよ。お前が日本に潜入し、我が社の周囲を嗅ぎ回っていることもな。だから、俺は島田に命じて、すり替えられた薬を、さらに別の『仮死状態を引き起こす薬』にすり替えさせたんだ」
「な、なんだと…?」
「俺が死を装ったのは、お前たちを油断させ、春に降りかかる危険を完全に排除するためだ。偽物の匠とエリカが、あの偽の遺言書を使って春を追い出すことも、全て俺と島田が仕組んだテストだったのさ」

健造さんの言葉に、その場にいた全員が息を飲んだ。エリカは白目を向いて失神しそうになっていた。自分が完璧な計画で五百億円を手に入れたと思っていたのに、実は最初から健造さんの手のひらの上で踊らされていただけだったのだ。

「ふざけるな! そんな小細工で、俺の計画を台無しにしたとでも思っているのか!? 俺にはまだ、このデータセンターを爆破する力がある!」

本物の匠が激昂し、銃の撃鉄を起こした。しかし、健造さんは悲しそうな目で彼を見つめた。

「撃ちたければ、撃て。だが、その前にお前は、一つの大きな勘違いをしている。その勘違いを正してからにしろ」
「勘違いだと? 何が言いたい?」
「お前は、俺たちが三十五年前、お前を悪魔の組織に売り飛ばしたと言ったな。それは違う。断じて違うんだ」

健造さんは車椅子から身を乗り出すようにして、声を絞り出した。

「あの時、お前を救うための手術を受けるはずだった海外の医療機関は、確かに存在した。しかし、手術の直前、その病院はテロリストに襲撃されたんだ。俺たちは、莫大な身代金を要求され、ハル・エンタープライズの全資産を投げ打ってでも、お前を取り戻そうとした」
「嘘だ! 俺の組織のボスは、お前たちが俺を売ったと言っていた!」
「それは、お前を洗脳し、殺人マシーンとして育て上げるための、組織の嘘だ。俺たちは身代金を払い、お前を迎えに行く直前だった。だが、引き渡し場所に現れたのは、爆破された車の残骸と、お前の血のついた衣物だけだった。俺と春は、お前が死んだと信じ込まされていたんだよ」

本物の匠の顔に、初めて動揺の色が浮かんだ。銃を構える彼の手が、微かに震えている。

「嘘だ…嘘だ…俺は売られたんだ。だから、俺はお前たちを憎んで、ここまで生きてきたんだ」
「今更、そんな作り話で…!」
「作り話ではないわ」

私は手に持っていたマスターキーをしまい、代わりに一冊の古い日記帳を取り出した。それは、健造さんと私が、三十五年前から毎日欠かさず書き綴ってきたものだった。

「ここには、あなたがいなくなってからの、私たちの後悔と。もし生きていたら、どんな大人になっていただろうかという想像と。そして、あなたのために用意していた、本当の遺言が書かれているわ」

私は日記を、本物の匠に向かって放り投げた。彼はとっさに銃を片手に持ち替え、それを受け取った。パラパラとめくられたページには、涙で滲んだ文字がびっしりと並んでいた。

『匠へ。今日はお前の十歳の誕生日だ。生きていれば、きっと足の速い元気な男の子になっていただろう。父さんも母さんも、お前に会いたい。ただ一度でいいから、お前を抱きしめたい』

『匠へ。今日は、ハル・エンタープライズが上場した日だ。この会社は、いつかお前が見つかった時、お前が一生苦労しないようにするために、大きくした。全ては、お前のためのものだ』

男の目が、その文字を追うごとに見開かれていく。彼の脳内で、三十五年前から信じ込まされてきた「親に捨てられた」という憎しみの土台が、音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。

「ああ…」

銃を持った彼の手が、だらりと下がり、膝から崩れ落ちそうになった。その瞬間、彼の周囲に控えていた武装兵の一人が、冷酷な声を発した。

「どうやら、これ以上は無駄なようですね」

その男は、突然、本物の匠に向かって銃を向けた。

「なっ…お前!」
「ボスの命令です。真実に気づいた道具は、ここで処分しろと。そして、春佐藤と健造も一緒に消し去り、データセンターを奪えとね」

武装兵たちは一斉に、剣先を私たちに向けた。彼らは本物の匠の部下ではなく、彼を洗脳した組織が監視役として送り込んでいた、暗殺部隊だったのだ。

「島田! 逃げろ! 父さん、母さん!」

本物の匠が、私たちを庇うように立ち上がった。彼が私を「母さん」と呼んだ、その時。私の胸の奥で、三十五年前から凍りついていた感情が、熱く溶け出すのを感じた。

「させないわ」

私は再びマスターキーを取り出し、そのボタンを強く押し込んだ。

ボタンが押し込まれた瞬間、パレス佐藤の周囲に設置されていた照明が一斉に赤く変わり、耳を劈くようなサイレンが鳴り響いた。

「自爆装置が起動した!? 全員退避しろ!」

武装兵たちがパニックに陥る中、私は静かに微笑んだ。

「自爆装置…そんなもの、私が作るわけないでしょう? ここは、この国のインフラを守るための、絶対防衛要塞よ」

轟音と共に、邸宅の庭の芝生が左右に割れ、そこから姿を現したのは、武装兵たちの銃など、まるでおもちゃのように見える、圧倒的な光景だった。エリカが白目を向いて気絶する中、私の最後の反撃が始まる。

広大な庭園が轟音と共に真っ二つに割れ、巨大な地下格納庫が姿を現した。夜空を焦がすような赤い警報ランプの光の中、武装兵たちは自分たちの立っている地面が揺れ動く恐怖に足を取られ、次々と体勢を崩していった。

「な、なんだこれは!? 自爆装置じゃないのか!?」

暗殺部隊のリーダーが慌てて無線機で指示を飛ばそうとするが、激しいノイズにかき消されてしまう。

「島田さん、ジャミングは完了しております。会長、半径五キロ以内の全ての通信は遮断されました。彼らは今、完全に孤立しています」

島田は健造さんの車椅子を守るように立ちながら、タブレットを操作して報告した。

「自爆装置なんて、私が作るわけないでしょう。ここは、日本中のインフラを制御するデータセンター。つまり、国の心臓よ。心臓を自ら止める馬鹿が、どこにいるの?」

私は風に煽られる銀色のドレスを抑えながら、暗殺部隊に向かって冷徹に放った。

「私が起動したのは、この施設に迫る外敵を無力化するための『七星完全制圧システム』よ」

割れた地面から競り上がってきたのは、自立型の巨大なターミナル・ロボットだった。それらはハル・エンタープライズの先端技術部門が、防衛省と極秘裏に共同開発していた、次世代の警備システム『ヤタガラス』だった。

「撃て! 撃ち落とせ!」

暗殺部隊が一斉にアサルトライフルを発砲するが、銃弾はヤタガラスの特殊装甲に弾かれ、火花を散らすだけだ。ヤタガラスの機体から、高周波の音波が放たれ、兵士たちは次々と耳を抑えてうずくまり、意識を刈り取られていく。

「くそっ! こんな化け物、聞いてないぞ!」

リーダーの男が最後の足掻きとして手榴弾のピンを抜こうとした、その時だった。

「させない!」

本物の匠が、彼を洗脳していた組織の男に向かって飛びかかった。二人は激しく組み合い、泥だらけの地面を転げ回る。

「やめろ、お前も巻き込まれるわ!」

私が叫ぶが、彼は耳を貸さなかった。

「三十五年前から俺を騙し、俺の人生を狂わせたのは、お前たちだ! 親父と母さんを傷つけることは、俺が許さない!」

匠の叫び声と共に、鈍い音が響いた。彼が男の顎を正確に打ち抜き、完全に昏倒させたのだ。

静寂が戻った庭園には、気絶したエリカと、暗殺部隊の男たちが転がっているだけだった。ヤタガラスたちは目標の沈黙を確認すると、再び地下へと静かに格納されていった。

「終わったのか…」

匠が安堵の息を吐きながら立ち上がった。彼の顔には泥と血がこびりついていたが、その表情は先ほどまでの悪鬼のようなものではなく、迷子がようやく家にたどり着いたような、どこか弱々しいものだった。

私は彼の元へ歩み寄り、自分のシルクのハンカチで、彼の頬の汚れを拭った。

「はあ…さあ、やっと、あなたに触れることができたわ」

私は彼を、強く抱きしめた。三十五年前からずっと、心の中で抱きしめ続けていた我が子。その体温を感じた瞬間、私の目から、堪えきれない涙が溢れ出した。健造さんも、島田に車椅子を押されて、近づいてきた。

「大きくなったな。よく、生きていてくれた」
「父さん…俺は、取り返しのつかないことをした。お前たちを憎み、ハル・エンタープライズを壊そうとした。偽物の匠を使って、父さんを殺そうとさえしたんだ。俺には、もう、お前たちの息子を名乗る資格はない」

匠が顔を歪めて、泣き崩れた。しかし、健造さんは彼の肩に、優しく手を置いた。

「資格などいらない。お前が、俺たちの息子であるという事実だけで、十分だ。それに、お前が動いてくれたおかげで、長年我々を狙っていたあの組織の尻尾を掴むことができた」
「組織の…尻尾を?」
「ああ。お前を洗脳し、この国のインフラを狙っていた海外の組織と、ハルグループ内の裏切り者。島田、例のシステムは準備できているな?」

健造さんが私と島田を見ると、私たちは深く頷いた。

「ええ、もちろんよ。彼らがあなたを暗殺部隊のリーダーとして送り込んだ時点で、彼らの本拠地のネットワークには、すでに私たちのウイルスが侵入していたわ。あなたの通信機器を通じて、彼らの組織の全座標情報と、裏取引のデータを、世界中の情報機関に一斉送信するプログラムが、たった今、起動したわ」
「なん…だと…」

「彼らの組織は、明日には世界中から一斉に摘発されることになるでしょう。彼らがあなたから奪った三十五年前の時間は、帰ってこないけれど。少なくとも、彼らがこれ以上、誰かの人生を狂わせることはできなくなったわ」

圧倒的なスケールで展開された反撃に、匠はただ呆然としていた。

「すごい…これが、父さんと母さんが築き上げた…」
「ハル・エンタープライズは、ただの不動産屋ではない。この国を守るための盾であり、敵を穿つ槍だ。匠、お前も、いずれこの力を受け継ぐことになる」

健造さんがそう言った時、遠くから多数のパトカーのサイレンが近づいてくるのが聞こえた。ジャミングが解除され、警察の特殊部隊がようやく到着したのだ。

「警察が来た。これは…逮捕されるんだな。組織の人間として、そして、偽物の匠を刺客として利用した者として」

匠が両手を前に出し、覚悟を決めたような顔をした。しかし、私はその手を、優しく握りしめた。

「いいえ。あなたは逮捕されないわ。ここに倒れているのは、海外から不法入国し、ハル・エンタープライズを襲撃したテロリストたち。そして、それに加担しようとして巻き込まれた、強欲なエリカさんよ」

私は、気絶しているエリカを一瞥した。

「あなたは、そのテロリストたちから、私たちを守ってくれた。あなたの名前は…そうね。今日から、『佐藤健太郎』と名乗りなさい。三十五年前から海外で極秘に訓練を受けていた、ハルグループの特別エージェントとしてね」
「母さん…そんな無茶な。警察が信じるわけがない」
「信じさせるのよ。私、春佐藤がそう言うんだから。『中卒の無能な老婆』が、ここまで登り詰めたのよ。警察の記録を一つ書き換えさせるくらい、なんてことないわ」

私がウインクすると、匠の目から、再び大粒の涙が溢れ出した。これで、全てが本当に終わったのだ。偽物の息子は罪を償い、強欲な嫁は全てを失い、そして私たちは、三十五年の時を経て、本当の家族を取り戻した。

その時だった。気絶していたはずのエリカが、突如として奇声を上げながら飛び起きたのだ。

「ふざけるなあああ!」

エリカの手には、暗殺部隊が落とした一丁の拳銃が握られていた。彼女の目は狂気に満ち、焦点が合っていない。

「私をバカにして! 五百億は私のものよ! あんたたちなんか、みんな死んじゃえ!」

彼女が引き金を引いた瞬間、銃弾はまっすぐに、健造さんの胸に向けられていた。

「健造さん!」

私が絶叫した時、ありえない盾が健造さんの前に立ち塞がった。それは、誰もが予想していなかった人物だった。

狂気に支配されたエリカが引いた引き金。銃口から放たれた弾丸は、車椅子に座る健造さんの心臓をまっすぐに捉えていた。時間が止まったかのようなスローモーションの中、私は手を伸ばしたが、到底間に合わない。

その時だった。

「やめろおおお!」

聞き覚えのある情けない声と共に、横から猛烈な勢いで飛び出してきた影があった。その影は健造さんの前に身を挺して立ち塞がり、エリカの放った銃弾を、その胸に受けた。

鈍い音と共に、その人物が崩れ落ちる。

私は息を飲んだ。エリカも、自分の打った相手を見て、持っていた銃を取り落とし、震え上がった。

そこに倒れていたのは、あの偽物の匠だった。

「た…匠…なんで、あんたが、ここに…」

エリカが後ずさりしながら呟いた。警察署から特別強制管理センターに移送され、厳重な独房に入れられていたはずの偽物の匠が、なぜこの港区の邸宅にいるのか。

「センターの佐藤管理官に、頼み込んだんだ…『最後にもう一度だけ、親父と母さんに謝らせてくれ』ってな」

胸から血を流しながら、偽物の匠が苦しそうに息を吐く。背後から、息を切らして駆けつけてきたセンターの佐藤管理官が姿を現した。

「会長、申し訳ありません! 彼がどうしても…と!」
「救急車を! すぐに!」

佐藤管理官の叫び声に応じるように、後方で待機していたハル・エンタープライズの専属医療チームが駆け寄ってくる。

「おい、しっかりしろ! なんで、こんなバカな真似を!」

本物の匠が、血まみれの偽物の匠を抱き起こした。偽物の匠は、自分とそっくりな顔をした本物の匠を見て、自嘲気味に笑った。

「あんたが、本当の親父たちの息子か。…確かに、俺なんかよりずっと、優秀そうだ」
「喋るな! 死ぬ気か!」
「親父を殺そうとして、母さんを追い出して。俺は、最低のクズだ。でも…これだけは、分かってくれ…」

偽物の匠は、震える手を伸ばし、私のドレスの裾を掴んだ。

「俺は…拾われたあの日のこと…忘れたことは、一度もなかったんだ。温かいご飯を食べさせてくれて、学校に行かせてくれて…。ただ、俺はバカだったから、金があれば、もっと愛してもらえると、勘違いしてたんだ」

その言葉に、私の胸は締め付けられた。彼は血の繋がらない息子だった。私の富に目がくらみ、私を踏みにじり、取り返しのつかない罪を犯した。それでも、私たちが彼に注いだ愛情の全てが、嘘だったわけではなかったのだ。

「バカね…。お金なんてなくても、あなたは私たちの息子だったのよ。だから、死ぬなんて、絶対に許さないわ」

私が叫ぶと、健造さんも車椅子から身を乗り出し、偽物の匠の手を強く握りしめた。

「匠。お前が犯した罪は、生きて償え。こんなところで死んで逃げることは、ハル・エンタープライズの元社長が許さんぞ」
「親父…母さん…ありがとう…」

偽物の匠は、一筋の涙を流し、そのまま意識を失った。

「脈拍低下! すぐに緊急手術が必要です! 本部の医療施設へ運びます!」

医療チームが迅速に彼をストレッチャーに乗せ、地下へと消えていく。私は、彼が助かることを、強く強く祈った。

そして、私はゆっくりと振り返り、その場にへたり込んでいるエリカを見下ろした。

「ひっ…私、私は悪くない! あいつが勝手に飛び出してきたのよ! これは正当防衛よ!」

エリカは泥だらけの顔を引きつらせ、めちゃくちゃな言い訳を叫び始めた。

「正当防衛? 無防備な老人を撃とうとしておいて、よくそんな言葉が吐けるわね。エリカさん。あなたは、自分が何を撃ったか、分かっているの? あなたは、自分の夫を撃ったのよ。自分が嘲笑し、自分が落とし入れ、そして、最後には自分を可愛がってくれたあなたを、一番愛していた人間をね」

私の言葉に、エリカは信じられないものを見るように目を見開いた。

「違う! あいつは私を愛してなんかいなかった! ただの金ずるよ! 私だって、あんな男の顔なんか、見たくもないわ!」
「本当にそうかしら?」

私は、島田が差し出したタブレットを受け取り、エリカの目の前に突きつけた。そこに映し出されていたのは、偽物の匠が警察に連行される直前、彼がエリカの父親の会社である佐藤建設の不正を全て被るために、自分が単独でやったという偽の供述書を書いている映像だった。

『エリカは関係ない。あいつは何も知らなかったことにしてくれ。あいつは派手好きでバカな女だけど、俺が守ってやらなきゃだめなんだ』

映像の中の匠は、泣きながらそう訴えていた。

「彼は、あなたを守ろうとしていたのよ。自分が全てを失っても、あなただけは守ろうとしていた。でも、あなたは彼を裏切り、彼を撃った」
「違う…違うわ…」

エリカの顔から、全ての感情が消え去った。橋の向こうから、パトカーのサイレンがけたたましく鳴り響き、武装した警察官たちが続々と邸宅の庭に雪崩れ込んできた。

「そこまでだ! 銃を捨てて、手を頭の後ろに組め!」

警察官たちが、エリカを取り囲む。成瀬検事も、その中にいて、私に向かって深々と一礼した。

「佐藤会長、ご無事で何よりです。佐藤エリカ。殺人未遂及びテロ組織との共謀の疑いで、緊急逮捕します」

手錠をかけられ、引きずり起こされるエリカ。彼女はもう、わめくことも言い訳をすることもなかった。ただ、操り人形のように虚ろな目で、地面を見つめていた。

「お義母さん…」

パトカーに乗せられる直前、エリカがぽつりと呟いた。

「私…本当は、あのボロ家で三人で食べるご飯が、一番美味しかったのかも…」

それは、彼女が初めて見せた、嘘偽りのない本心だったのかもしれない。しかし、その言葉が私に届くことは、二度とない。彼女が手に入れたのは、五百億円の豪邸ではなく、冷たく暗い独房での、永遠の孤独なのだから。

パトカーが走り去り、静寂を取り戻したパレス佐藤の庭園で、私は深く息を吐き出した。

「終わったな、春」
「ええ、長かったわね。本当に、長かった」

健造さんが、私の肩を優しく抱いた。本物の匠も、私たちの傍らで、静かに夜空を見上げている。

三十五年前の悲劇から始まり、息子夫婦の裏切り、そして国家を揺るがす陰謀。全てが、今この瞬間に、幕を下ろした。しかし、本当の結末は、ここからだった。

一ヶ月後。私は、あのボロ家があった下町の跡地に立っていた。そこには五百億円の豪邸でも、巨大な要塞でもなく、こぢんまりとした温かみのある新しい家が立っていた。

「母さん、お茶が入ったよ」

私を呼ぶ声。そこに座っていたのは、エプロン姿の本物の匠…今は佐藤健太郎として、新しい戸籍を手に入れた、私の実の息子だった。彼の顔には、あの夜見せたような狂気や殺意の影は微塵もなく、穏やかな笑顔があった。

「ありがとう。今行くわ」

私が縁側に腰を下ろすと、家の中から車椅子に乗った健造さんが、ゆっくりと出てきた。

「いい香りだ。健太郎の入れるお茶は、昔、お前が入れてくれたお茶にそっくりだな」
「はは、やめてくださいよ。俺はただ、お湯の温度に気をつけてるだけですよ」

健太郎が照れ臭そうに頭を掻く。海外のテロ組織で暗殺者として育てられた彼にとって、日本の普通の生活は、何もかもが新鮮だった。彼は今、ハル・エンタープライズの警備部門の顧問として働きながら、私たちと一緒にこの家で暮らしている。

「それにしても、平和なものね。あんなに騒がしかったのが、嘘みたい」

私は湯呑みを両手で包み込みながら、しみじみと呟いた。この一ヶ月で、全てが劇的に変わった。健太郎が提供したデータによって、彼を洗脳していた海外の組織は、各国の情報機関によって一斉に摘発され、完全に壊滅した。エリカの父親である五郎と佐藤建設も、大規模な詐欺事件として立件され、会社は倒産。五郎は刑務所の中で、過去の栄光を嘆きながら、惨めな日々を送っているという。

そして、エリカ。彼女は殺人未遂やテロ準備罪など、数えきれないほどの罪状で起訴され、現在は特別強制管理センターの、最も深い独房に収監されている。彼女が夢見た五百億円の豪邸でのセレブ生活は、冷たいコンクリートの壁と、一日三回の粗末な食事に変わった。面会に訪れる者は、誰もいない。彼女は一生、自分が犯した強欲の代償を払い続けるのだ。

「会長、失礼いたします」

庭の門が開き、島田がやってきた。彼はいつも通りの隙のないスーツ姿だったが、その表情はどこか晴れやかだった。

「島田さん、いらっしゃい。今日はどうしたの?」
「はい、本日は会長にご報告したいことがありまして。センターの医療施設で治療を続けていた、彼の容態についてです」

その言葉に、私と健造さん、そして健太郎も、表情を引き締めた。彼…あの偽物の匠は、どうなったのか。

「一命を、取り留めました。弾丸は心臓をわずかに外れており、ハルグループの最新技術のおかげで、昨日、意識を取り戻しました」
「本当!?」

私は思わず立ち上がった。あの日、エリカの銃弾から健造さんを守って倒れた、血の繋がらない息子。彼が助かったという知らせは、何よりもうれしいものだった。

「ええ。ですが、彼は意識を取り戻した直後、私にこう言いました。『俺は犯罪者だ。親父と母さんに合わせる顔がない。傷が治ったら、一番厳しい刑務所に入れてくれ。一生かけて、罪を償う』と」
「…そう」

島田の言葉に、私は静かに目を伏せた。彼は、自分が犯した罪の重さを、ようやく理解したのだ。お金や肩書きといった偽物の価値観に囚われ、大切な家族を裏切ってしまったことの、愚かさに。

「そう、彼がそう望むなら、法の裁きを受けさせましょう。でも、島田さん、彼に伝えてちょうだい」

私は、空を見上げていった。

「あなたは、春佐藤から全てを奪おうとした罪人だけど。同時に、健造さんの命を救った恩人でもある。刑期を終えて、もし行く場所がないのなら、あの下町のお茶を、もう一度飲みに来なさい、とね」

島田は深く頭を下げた。

「承知いたしました。必ずお伝えします。彼も、その言葉を聞けば、生きる希望を持つことでしょう」

「それから、島田さん。私から、一つ重大な発表があるわ」

私は、健造さんと健太郎と顔を見合わせ、小さく頷いた。

「私は、本日をもって、ハル・エンタープライズの会長職を辞します。後任は、すでに優秀な役員たちに引き継ぎを済ませてあるわ。私はもう、『中卒の無能な老婦人』を演じる必要も、冷徹な不動産王でいる必要もない。これからは、ただの『春』として、この家で静かに暮らすわ」
「会長…いえ、奥様。長年の勤め、本当にお疲れ様でした。あなたが築き上げた帝国は、我々が命をかけて守り抜きます」

島田が涙ぐみながら頭を下げるのを見て、私も思わず目頭が熱くなった。

全てを手放し、全てを取り戻した。私をスラムへ追放した息子夫婦は、自分たちの強欲によって身を滅ぼし、絶望の淵へと叩き落とされた。彼らが「ゴミ溜め」と呼んだこの場所で、私は世界で一番価値のある「家族」という宝物を、手に入れたのだ。

夕暮れ時。私たちは縁側で、健太郎が買ってきたスイカを食べていた。

「そういえば、母さん」

健太郎が不思議そうに尋ねる。

「あの港区の五百億円の豪邸、パレス佐藤。あれ、今は誰も住んでないんだろう? どうするつもりなんだ? 売却するのか?」

健造さんも、お茶を啜りながら興味深そうに私を見た。

「そうだな。春。あの家は、お前がいつか三人で暮らすため…いや、俺たちがいつか住むために建てた家だったが、結局一度も住むことはなかった。あの地下の防衛システムを解除して更地にするのが、一番現実的かもしれんな」

私はスイカを一口かじり、悪戯っぽく笑って首を横に振った。

「ううん。実はもう、新しい住人が決まってるのよ」
「新しい住人? 誰に貸すんだ? どこの国の王族だよ」

健太郎が目を丸くする。私はゆっくりと立ち上がり、庭の奥にある小さな花壇に水をやりながら、答えた。

「王族なんかじゃないわ。あの家はね、今日から、『孤児院パレス』として生まれ変わるのよ」
「孤児院!?」

健造さんと健太郎の声が、綺麗に重なった。私は振り返り、二人に満面の笑顔を向けた。

「そうよ。あそこはセキュリティも完璧だし、敷地も広大。何より、あの豪華な設備を、親のいない子供たちのために使ってあげたいの。私たちには、三十五年前、一緒に過ごせなかった時間がある。その空白を埋めることはできないけれど、これから育っていく子供たちに、最高の環境で、家族の温かさを知ってもらうことは、できるでしょう」

健太郎は、手にしたスイカを落としそうになるほど驚いていた。彼自身、親の顔を知らずに冷酷な組織で育った身だ。その言葉がどれほど彼の心に響いたか、痛いほど伝わってきた。

「母さん、それ、本気で言ってるのか?」
「もちろんよ。すでに国からの認可も降りているわ。運営は、ハル・エンタープライズの財団が全面バックアップする。そしてね、あの偽物の匠。彼が刑期を終えて、もし希望するなら、あの施設の管理人として雇うつもりよ。彼も、施設育ちの身の上。子供たちの痛みが、一番よくわかるはずだから」

私の言葉に、健造さんは目を細め、静かに何度も頷いた。

「春、お前らしい。最高の決断だ。あの五百億の豪邸も、これでようやく、本当の価値を見いだせるというわけだな」

その時、健太郎が急に顔を伏せて、下を向いてしまった。彼の広い背中が、小刻みに震えている。

「健太郎? どうしたの? スイカの種でも飲み込んだ?」
「違うよ…。ただ…俺、本当に、あんたたちの子供に生まれて、良かったなって…」

泣きじゃくる実の息子を見て、私は彼の元へ歩み寄り、その頭を優しく撫でた。

「泣かないの。三十五歳にもなって、みっともないわよ」
「うるさいな…。…親父に似たんだよ」
「おい、俺はそんなに泣き虫じゃないぞ」

健造さんの言葉に、縁側には温かい笑い声が響き渡った。

それから数年後。孤児院パレスは、日本で最も美しく、子供たちの笑顔が絶えない場所として、有名になっていた。かつて、私をスラムへ追放しようとした強欲な人間が狙ったその場所は、今や無数の未来を育む城となったのだ。

そして今日も、私はエプロン姿で、古い下町の小さな家を駆け回っている。高級なシルクのドレスも、五百億円の豪邸も、もう必要ない。私にとっての本当の富は、縁側で将棋を指す夫と、ネギを買いに走る息子の背中。そして、この静かで平和な日常の中にこそ、あるのだから。

「春、お茶が入ったぞ」

健造さんの呼ぶ声がする。私はエプロンの紐を直し、元気よく返事をした。

「今行くわ」

強欲な者たちは絶望の淵へ落ち、愛を信じた者たちだけが、本当の幸せを手に入れた。これこそが、私、春佐藤が人生をかけて完成させた、最高の逆転劇なのである。

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